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新たな何かが
誕生する、
というのは
実に
激しい現象だ。
そこには
表面的には決して
わからないが
確かに存在する
エネルギーの激しい
ぶつかり合いと
融合が
ある。
私達が
ビッグバン
というように
象徴して表現している
ものがあるように、
それは
あくまでも3次元的表現
なのだが、
得体の知れぬ
畏れを
私達は誰もが
知っている。
人類は
当たり前のように
子どもを
産み続けてきたが、
その一つ一つが
ビッグバンに
相当するほどの
エネルギーの
ぶつかり合いと
融合に
満ちている。
私達はそうした
神秘の中で
生きている。
人間という存在
そのものも
神秘だ。
私達が持つ
心。
これは一体
なんだ?
と
私なぞはよく
思う。
心があるのが
当たり前のように
私達は
生きているのだが。
心は
なぜ、歪むのか?
なぜ、
揺れ動き、
そこに
幸せとか、不幸せとか
そういった
解釈や感覚までが
あり、
一喜一憂
右往左往
試行錯誤
ばかりをするのか?
それが
人間である。
人生である。
と
当然のように
私達は捉えるのだが。
一人の人と
向かい合っている
時に、
私はあまりの
神秘さに
人間という存在の
広さと深さと
混沌さに
呆然とする。
いったい私は
何と対峙している
のだろうか、
と。
目の前の
これ
は何なのだろうか、
と。
激しいエネルギーの
ぶつかり合いと
融合によって
ここ
に存在している
これ。
これは
何?
これは
あなた?
それとも
私?
・・・と
頭がクラクラ
してくる。
「自分」という
存在が
不思議ではないかい?
「自分」や「人」を
見つめ、
クラクラしないかい?
私はするなぁ。
いつも。
今、
私の中では
またもや、
ぶつかり合いと
融合が
起きているよ。
つづく
これは
私自身だ。
・・・と
思えるくらいに
大切なものが
誰にもあるだろう。
これは
私自身だ、
と
思えるもの。
それを
あえて、
これは
私ではない。
大切なもの
ではあるが、
これは私とは
別物
別存在
である。
・・・と、
自分自身から
分離させてみる、
ということが
必要な時が
ある。
今は
その時期じゃないか?
次のステージに
向かうためにも。
一体化
していたものを
分離する、
というのは
非常に悲しいこと、
寂しいことである
ケースが多いが、
あえて
それをすることで
初めてわかる
価値もある。
それを
捨てるわけでは
ない。
関わり方を
変えるわけだ。
それが
自分を変える
ということでも
ある。
本来の
方向にね。
つづく
ある方のコーチングを
していて、
その方は
非常に男性的な
人なのだが、
かなり強烈な
女性のイメージが
出た。
女性のイメージ
というよりも
女性性
と言った方がいいか。
思いもよらぬ
場所から
急に芽が出た感じ。
そんなところに
種を蒔いていたんだな、
と
びっくりするような
開花の仕方。
これまで
あらゆることを
引っ張ってきており、
ビジネスにおいても
そのリーダーシップで
たくさんの実績を
残しているその方が、
極北とも言える
女性性を
発揮し始めた。
なんと・・・!
と
私は心の中で
つぶやき、
だからやっぱり
人間は面白いんだな。
と
改めて感嘆の想い
がジワジワきた。
直後、
その方は
こう言われたのだ。
私はもう
リーダーをやらない。
・・・と。
皆の中心に立ち、
皆の注目を浴びて
皆を導いていく
という在り方を
もうやめるのだ、と。
それよりも
中心から少し外れた
場所から、
皆が進むサポートを
したい、と。
180度、
個性が入れ替わった
ような、
これまでの個性が
実は単なる「服」で、
それを一気に
脱ぎ捨ててしまった
ような。
目の前にいる
その方は、
私の知っている
その方なのだが、
表情と雰囲気が
瞬間的に
別人になった。
目から
放たれるエネルギーも
その質が
180度転換したようだ。
まるで慈母の
ような、
受容の眼差し。
人の脱皮や
変換は、
一瞬で起こる。
0.00・・・何秒かの
一瞬で
人生が転換される。
その方は
一瞬で、
別人のように
生まれ変わった。
でももちろん
それは
別人ではなく、
本来の個性の一つだ。
個性は
突然に姿を
現す。
人生は
突然に転換
する。
人は
変わるのだ。
自らの
意志により。
つづく
時々、
自分自身を
傍観
してみるといい。
傍観
という言葉は
よくないかも
知れないが。
自分自身の
すべてを
手放し、
まるで他人の
ように
自分を見つめ、
まるで他人の
ように
すべての責任から
離れてみる。
その状態でしか
生まれない
発想は、
確かにある。
その状態でしか
得られない
自分自身への
気づきは
確かにある。
まるで
他人のように、
この人は
今、
何者だ?
この人は
今、
何をやっている?
この人は
今、
何をしたがっている?
・・・等々。
果たして
今の生き方で
良いのかな?
本当に
今のまま進んで
良いのかな?
傍観者の
視点。
無責任の
視点。
いつもとは
異なる場所から
いつもとは
異なる距離から
見つめる自分は
本当にちゃんと
生きているかな?
つづく
今日も大きな
塊を
受け取った。
心の塊
だ。
重い。
それを
いつもの通り
そのまま
あるがままに
感じ取る。
悲しみ、だ。
悲しみの
塊だ。
深くて重い
悲しみ達。
人間というのは
ここまで深く
悲しむことが
できるのか、と
改めて
こちらも悲しくなる。
これだけの
深さだ。
きっと本人は
この自分の悲しみに
蓋をしているのだろう。
この心は
本当はその人の
ものだ。
私がこうして
受け取るべきもの
ではない。
もっと自分の心と
向き合えば
いいのに。
ちゃんと向き合い、
ちゃんと感じ、
悲しいなら
悲しい、と
感じ、
しっかりとその
事実通りに
感じ尽くせば、
もっと簡単に
進めるのに。
多くの人は、
前に進むために
前に進もうとしない
心達に
蓋をする。
それが
最善だと
思い込んでいる。
違う。
断じて違う。
すべての心は
その人のもの
であり、
すべての心は
ちゃんとここにある
「存在」だ。
「存在」は
存在しているのだから、
ちゃんと
見つめ、感じ取る
ことだ。
これができるから
こそ、
現実と向き合える。
現実と向き合わねば、
前に進むことなど
できるわけがない。
一つ一つの心と、
自分の心と、
丁寧に向き合えば、
楽に進めるのだ。
私達人間は、
そうなっているのだ。
自分の心から
逃げては
ならない。
逃げれば
余計に苦しくなる。
逃げれば
余計に
進めなくなる。
もう私達には
止まっている時間は
ないのだ。
つづく
出口だな、
と思う。
一つの出口
だな。
これを見つける
のに、
いったいこれまで
どれだけの
時間と労力を
費やしてきたことか。
まぁでも
それが人生、
それが
人間の為すこと
か。
出口が
近づけば、
まるで吸引口に
吸い込まれるように
進んでいく。
出口に
吸い込まれるような
引力が働く。
何故これまでは
この引力に
気づかなかったのか、
と
逆に不思議に思う
くらいであるが、
本当の答えは
ずっと
目の前に
あったんだな。
目の前に
当たり前のように
在り続けたもの。
まるで
空気のような
存在。
あまりに
大切だけど、
あまりに
在るのが当たり前過ぎて
いつの間にか
ずっと気づかずに
いたもの。
実はそこにこそ、
出口に
一気に近づく
ヒントがあったのだ。
こういうものか。
こういうもの
なんだな。
人間の為すこと
は。
ただ、
出口が見つかったから
ということで
いい気になっている
場合ではない。
出口を出る
ということは
その瞬間から
次のステージだ。
これもまた
人生。
ここからこそ
気を引き締める
べき時だ。
ヒリヒリする
新たなステージの
スタートだ。
つづく
それが誰か
は
わからないままに、
目の前に
その人の気配を
感じ、
必要を感じ
その人と一つに
なってみた。
その人はまだまだ
エネルギーの
開花度合いは
低いようだ。
今、現時点では。
何かあれば
フッと
消えてしまいそうな
パワー。
一つになるだけで
消えてしまいそう。
でもその人は
「私には
やることがある」
と
何かを
決めているようだ。
でも
それをするには
パワーが足りなさ
過ぎる。
どんな形でも
良いから、
このパワー不足を
補いたい。
どんな形でも
良いから、
その、すべきことを
成し遂げたい。
どんな形でも
良いから・・・。
という悲しみとさえ
受け取れるような
深い意志がある。
あなたは
誰ですか?
なぜ
私のところに
来たのですか?
そう問うている
うちに、
その人のエネルギーも
存在も
消えてしまった。
何も
わからないままだ。
私に何か
できることが
あるのだろうか?
そもそも
いったい誰だろう?
誰か
わからない
人の意志。
この世には
たくさんの意志が
漂っている。
それが
果たされないままに。
意志を果たせる
世の中になると
いいな、と、
こんな時は
いつも思う。
そのためにも
人は
もっともっと
強くならねば。
人が
世の中を変える
しか
ないのだから。
つづく
つい先程、
初めて気づいた
のだが。
私の左半身と
後ろ側に
「壁」のようなものが
存在していた。
分厚い壁。
その壁の存在を
感じると、
とても息が詰まる。
この「息が詰まる」
という感覚を、
実はこの2ヶ月ほど、
ずっと
何となくであるが
感じ続けていた。
その正体が
わからなかったのだが、
やっと先程
わかった、
壁がここにあったのだ
と。
それがわかる
ということはつまり、
その壁がもう取れる
ということだな。
と、
意識し始めたら
途端に
壁が浄化され始めた。
だんだんと
消えていく。
消えながらも
これがいかに自分自身に
とって
重いものであり
息の詰まるもので
あったか
ということをかなり激しく
自覚した。
なんで
こんなことを・・・。
と思ったが、
理由はすぐに
わかった。
壁が消えると同時に
凄まじい風
を感じたのだ。
「追い風」だ。
あぁなーるほど。
この「追い風」を
感じたくなかった
のだな。
これを感じると
すぐにでも
この風に乗り、
「出航」したくなって
しまう。
ガンガンに
前に進みたく
なってしまう。
こう見えて
気が短いので。
行ける!と
思ったら
すぐに超加速して
しまうので。
そんな自分を
よくわかっているので
私は私に
この「追い風」を
隠し続けた。
皆の準備が
整うまで。
ということは
みんな
もう、
準備完了なのかな?
出発しちゃって
良いのかな?
つづく
自分の器を
小さく見過ぎな
人が
多いように思う。
私は
こんなもん
だから。
と。
本当にそうか?
無理に大きな
ビジョンを描く
必要はないが、
本当に
自分をそのように
決定してしまって
良いものだろうか。
自分に対して
失礼ではないか。
とさえ
思うことがある。
あるがままに
向き合えば
わかる。
目の前の
その人の
深い想いが。
それは誰もに
あるし、
大概は
眠っている。
眠っているが
鼓動はいつも
感じるんだよな。
その鼓動に
素直に生きれば、
この人は
どんなに幸せに
なるだろうか、と
本当によく思う。
とは言え、
それを安直に
伝えることはしない。
伝えても
意味がない、
というか
伝えることで
遠のいてしまう。
人に言われる
ことじゃないよな、
ということが
私達には多いね。
せめて、
自分の器を、
自分の願いを、
勝手に自分で
決めつけないで
ほしいなぁ。
これまでの
経験に基づいて
過去の自分が
すべての真実で
あるかのように、
未来も
こうだろう、
と。
まずはそこから
外せるといいね。
今、
本当は
どう思う?
今、
本当は
どうしたい?
まずは
ここから。
今の想いを
自分自身の想いを
素直に
理解するところから。
つづく
遠くを見渡す。
世の中全体を
見渡す。
現象のレベル
ではなく
実在のレベルで。
ようやく
静かになった
ようだ。
ここのところ
随分と
荒れていた。
荒れていた
と言っても、
数年前に比べれば、
その荒れ具合は
あくまで
表面的なものだ。
しかし
表面的であるが
故に
痛いよな。
私達人間は、
一つの傾向として
表面的痛さにばかり
目が向かう。
根本的痛さという
ものがあるならば、
本当はそこにこそ
意識を向けなければ
ならないが。
深い痛さ
には気づかない。
あまりに
深過ぎるが故。
痛過ぎるが故に
麻痺をする。
麻痺をすれば
「ない」ものと
同じだ。
痛くなければ
いいじゃん、と。
それこそが
実在レベルでの
根本的な荒廃を
起こしてきたのだがね。
今回も
本当はそこが
本質的原因だが、
でもまぁそれでも
良い治まり方は
できたようだ。
心の奥の奥に
意識を向けて
ほしい。
そして次に、
心の外の外に
意識を向けて
ほしい。
世界全体に
意識を向けて
ほしい。
ようやく戻ってきた
静けさが
感じ取れるかな?
現象レベルの
話じゃないよ。
実在レベルだよ。
実在レベルが
鎮まれば、
逆に
現象レベルが
荒れるかもしれない。
混乱が
あるかも。
日常生活において
もね。
でもその混乱は
静けさを
取り戻した故のもの。
つまりは
好転反応。
必要なもの。
調和への
ステップだ。
ちゃんと向き合い、
一つ一つ
丁寧に対応しよう。
つづく
もういつでも
生まれることが
できる。
そういうもの
がある。
ここ何日間か
ずっと大事に
抱いている。
中身は未だに
わからない。
わからないが
よく
わかっている。
いつでも
それは生まれる。
私が合図さえ
すれば。
私はその時を
待っている。
じっと
待っている。
あともう少し。
多分、
あと数日。
ここは我慢。
このために
楽しみは
後にとっておく
という
性格を創ったでは
ないか。
ここは我慢。
じっと待つ。
呼吸を整えて
落ち着いて
待つ。
つづく
真一文字に
進む
龍がいる。
その龍を
私はいつも遠くから
眺めている
だけだった。
特に何の
感慨もなく。
ただ、
今は、
龍と一つになろう
という気持ちが
起こり、
一つとなって
みた。
それで
わかったことだが、
なるほど
龍は、
最もエネルギーの高い
方向へと
進んでいるのだ。
エネルギーの
波が、
激しい波が、
真正面から
襲いかかってくる
その方向へ。
それはまるで
激しい水流に
逆行するかのようだ。
気を抜けば
進むどころか
押し戻される。
押し戻される
どころか
粉々にされる。
そのような
抵抗に
真正面から
向かい続けているのだ。
確かにこれでは
誰もが
龍のカタチに
ならざるを得ないだろう。
全身を一直線に
伸ばし、
ただ正面突破のように
突進することにのみ、
全神経を
集中させる。
常に
エネルギー最大の
方に向かうので、
それはいつ終わるとも
知れない。
永遠の逆流。
しかし
龍の役目とは
この永遠の流れを
遡ることなのだ。
龍は
もだえる。
しかし
一直線は
崩さない。
まっすぐに
立ち向かい
続ける。
この
エネルギー最大の
方向にしか
「答え」は
ないから。
人は
龍になるために
自分を鍛える。
準備ができれば
龍になる。
垂直に昇る
龍になる。
つづく
未知の領域
への穴が
ポッカリと
開いている。
しかし
その穴の手前には
激しい滝がある。
あの滝に
突入せねば、
あのポッカリの
中身を
知ることはない。
あの向こうに
あるはずの
新たな世界を
知ることはない。
しかし
あの滝に入れば、
一瞬で
呑み込まれるだろう。
さて、
どうする?
そんな時
私は、
ポッカリの穴
と
対峙する。
ただじっと
意識をそこに
向け続ける。
何も思考せず
何も解釈せず
ただ
あるがままに
向かい合う。
すると、
そのポッカリが
私を
呼んでいるのか
いないのか、
が
感覚でわかる。
呼んでいるのだ
と
わかれば、
私はその瞬間に
迷いなく
飛び込んでいる
だろう。
呼んでいない
と
わかれば、
もちろん行かない。
迷う場合は?
行かないよ。
じっと
向き合い、
あるがままを
感じ、
それで迷うなら
行かない。
と
決めている。
良いか悪いかは
わからないが、
私はそう
決めている。
そして、
どれだけ無謀だと
思われても、
「呼ばれているな」
と
直観できれば
行ってしまう。
それも
良いか悪いか
わからないけどね。
でも、
そう決めてるんだ。
つづく
自分自身の
電源を落とすと、
問い
だけが残る、
ことがある。
あとは
何もない。
ただ
暗い場所に
電源の落ちた
場所に
問い
だけが残る。
そういうのを
観ると、
人とは
問いだな、
と
思う。
問いを残し、
真の答えに
出会うまで
それは
決して消えることは
ない。
そういった
生き方、進み方を
するのは
やはり
人間だけだろうか。
いや、
私は時々、
場に問われる。
空間に問われる。
宇宙に問われる。
・・・こともある。
しかし、
そのように
問いを受けることが
できるのは、
その答えを
見つけるために
実際の試行錯誤を
するのは、
やはり
人間だけだろうか。
問うて、
試行錯誤し、
答えを見つけ出す。
このシンプルな
サイクル。
これは摂理か。
摂理に素直に
生きるとは、
「ここ」にある
問いを
素直に受け取る
ということか。
私は
問いであり、
問いを受ける
ものである。
・・・これはとても
しっくりくる。
しかし、
私は
答えるものである。
・・・というのは
しっくりこない、
というのは
どういうわけか。
自分自身の
電源を落とすと、
問いだけが
残る。
答えは
出そうにないな、
とわかれば、
私は
単なる
問いとして
今日を、明日を
生きるだろう。
簡単に
答えは
出さないよ。
出そうになっても
出させない。
なぜなら私は
問いだからさ。
今日も私は
皆さんに問い、
私自身に
問う。
「この場」にある
問いを
拾い出し
そのまま
素直に。
それが私だから
というよりも、
やはりそれが
人間だから。
つづく
24時間ごとに
生まれ出づるもの
がある。
ほぼ同じ
間隔で、
定期的に。
一日24時間
という
サイクル。
これは恐らく
私達が想像している
以上に
深い意味がある。
このサイクルを
掴むことこそ、
創造性の源となる
のではないか
と
最近はよく思うのだ。
一日の24時間を
一つの人生である
と
私は定義している。
一日が終わる
ということは、
一つの人生が
終わる、
と。
一日が始まる
ということは、
もう一つの新たな人生が
始まるのだ、
と。
今日という
人生においてしか
生まれ得ないものが
ある。
昨日の人生でも
明日の人生でも
決して
生まれ得ないもの。
それを
今日、きちんと
生み出すことができて
初めて、
明日、という人生も
調和から
始めることができる。
逆に言えば、
明日という人生
において
生み出すべきものは、
今日という人生
では、
生み出しては
ならない。
今日の人生には
今日の人生の役割
があり、
明日の人生には
明日の人生の役割
がある。
毎日、私達は
転生を繰り返し、
人生から人生へと
伝承・継承をし、
人生と人生を
紡ぎ続ける。
昨日の私と
今日の私と
明日の私は
別ものである。
ただ、
伝承・継承すべき
ものを持ち、
それぞれの自分を
紡いでいく。
・・・そんな風に
私は捉えているのだ。
この理屈、
・・・ではなく、感覚
によって
発生する「真剣さ」
がある。
今日という人生を
生ききるのだ
という
真剣さ、だ。
ここにしっかり
対峙をした時、
初めて得られる
「安楽」
がある。
「安心」
がある。
「安定」
があるのだ。
今日を
生ききる。
そして、
明日の自分に
繋ぐ。
明日の自分の
ために
今日、すべきことを
やり切る。
してはならない
ことは
決してやらない。
この真剣さが
人生を楽にする
という
ことなんだ。
つづく
自分であって
自分でないような
気がする発想の
その奇抜さを
以前の私は
深刻に捉え過ぎて
いた。
なんで
こんな発想を
するのだろう?
私らしくない・・・。
と。
そんなことは
どうでも良いでは
ないか。
たとえ、
どこかのタイミングで
どこかから自分に
インプットされただけの
ものを、
そのまま
横流しのように
アウトプットしたのだと
しても、
それが
自分の内側から
浮上するのであれば、
それが
誰の発想か?
などは
どうでもよく、
それよりも、
この発想がどうして
今ここで
浮かんで来たのだろう?
ということを
楽しめばいい。
私達の人生は
インプットと
アウトプットの
循環的連続によって
成り立っている。
人は
インプットし、
それを
忘れ、
忘れながらも
どこかの瞬間で
それを
アウトプットする。
しかもその時には
それにちょっと
自分の色が
加わっている。
そのアウトプットを
自分以外の誰かが
そこで
インプットするかも
しれない。
人から人へ
渡っていくそれらの
発想は、
いろんな色と
統合、融合されながらも
場合によっては
まったくの別物へと
変貌していく。
そういった
循環的連続が
そこかしこに存在し、
大きな目で
見ても、
そこかしこで
統合、融合されている。
それが
社会というもの
ではないか。
自分の中から
出てくるものの
正体を
深刻に突き止めることも
時には
必要だろうが、
それよりも、
今のこのタイミングで
紛れもなく
自分自身から
生まれ出る
ものを
一つ一つ
噛み締めながら
楽しもう。
これが、
人間を楽しむ
ということは
ないか。
つづく
私達は
現実逃避欲求
という魔物と
常に一緒に歩いている。
そいつの
魔物たる所以は、
その
姿の見えなさ具合
だ。
どれだけ注意
していても、
いつの間にか
取り込まれている。
そいつは
苦しいものさ。
苦しいのだけど、
始めっから
「苦しい」と
認識できるものでは
ない。
ほんの些細な
気にもならない
「目の逸らし」
から、
そいつは始まる。
最初は
甘いもんさ。
無意識に、
これくらいの
些細さであれば、
これくらいの
甘さであれば、
まぁいいか。
と
思ってしまうんだよ、
これが。
これくらいなら
健康に害は
ないだろう、と。
でも
たった一度の
その「甘さ」に、
次々に
入り込んでくる。
一度、
嘘をついてしまうと
次々に
嘘をつき続けないと
いけない、
のと同じようなもので、
後になれば
なるほど、
引き返せなくなる。
気がついたら、
引き返すのは
とてつもない苦痛でね。
ずっと
逃げ続けることに
なる。
現実から
逃げ続ける。
その度に
本質的な苦痛に
見舞われるけど、
もう
蓋をするしかない。
わかっては
いるけど、
やってしまう。
そしてそのうちに
常習犯さ。
蓋をしていること
そのものを
忘れてしまう。
麻痺状態ね。
そうなるともう
他者では
どうしようもなくなる。
サポートの
しようがないんだ。
本人が一度、
開き直って
すべてをゼロにする
くらいの
覚悟にならなければ、
それくらいの
転換をしなければ
元に戻れなく
なるんだ。
今、ここにおける
一歩一歩の
生き方。
それを丁寧に
大事にするしかない。
それをするのは
本人だ。
誰もやって
くれない。
時には、
心の中の
最も苦痛なモヤモヤと
対峙せねば
ならない。
目を逸らすこと、
後回しに
すること、
は
絶対に厳禁。
それくらいに
厳しくね。
自分に
厳しくね。
今の
一歩一歩をね。
それが
最も
楽な生き方さ。
現実逃避は
キツイよ。
一番、キツイよ。
つづく
自分自身の
エネルギーを、
あえて
スーッと
落としていくことを
私はよくする。
電球の明かりを
段々と
弱めるように。
心の中の
明かりが
ゆっくり閉じていく。
すると、
私の意志の
そのすぐ横に、
明かりが
落ちることで初めて
姿を見せる、
エネルギーの
それほど高くない
存在感の
ない
しかし
確かにそこに
ずっと存在は
し続けていた
気持ち達が
浮かび上がる。
明るく
エネルギーの満ちて
いる時には
決して
気づかない
自分自身の気持ち達。
私はそういうのを
とても大切に
している。
まぁ単純に
言えば、
例えば
不安とか、
小さな憤りとか、
ちょっとした
寂しさとか、
悲しみとか、
・・・。
人として
日常の中で
無数に生じる
気持ち達。
いわゆる
反応本音達。
私の
決めたら必ず
やる、
という
明るい意志の側で
いつも
私から見られずに
ひっそりと
存在している
彼ら。
私は彼らを
よくよく考えば、
いつも
探しているようだ。
彼らを
感じると、
私は
人間を感じる。
そして
ホッとする。
こういうのを
感じること自体が
もう
人間っぽくないのかも
しれないが。
心のエネルギーを
落とし、
私はよく
彼らの中に
あえて
埋没することもある。
例えば
不安な気持ちに
埋没し、
不安そのものと
なる。
それは通常で言えば
苦しいことに
違いないのだが、
でもそれを
じっと感じ続ける私は
確かに
一方でそこに
悦びを得ている。
せっかくエネルギーが
高いのに
こんなことをする
必要はないのでは、
とは
思わない。
そこに在る
ものを
丁寧に感じ取る
からこそ、
常に
エネルギー高く
いられるのだ。
在るものを
在るものとして
そのまま
感じる。
人間という存在の
自然の姿では
ないだろうか。
つづく
出口が
見えた時に、
あそこまで
行けば良いのだと
明確にわかり、
もうすぐに
辿り着けるのだな、
と実感し、
それが確信に
変わった時に、
急に
出口に向かう
意欲が
消失する。
このまま
出口を出てしまうのが
実に惜しい。
・・・という
気持ちになったことは
あるだろうか?
実はこれ、
ないようで
誰にでもある体験だと
私は思っている。
コーチをやっていると
それが
よくわかる。
もちろん
私自身も何度も。
出口を出る
ことは
爽快であり開放だけど、
出たら
終わってしまう。
開放されたら
終わってしまう。
その直前のこの
ムードを、
感覚を、
直前だからこその
この嬉しさを
いつまでも
感じ続けていたい。
というのも
あるだろう。
一方で、
あの出口を
出てしまったら、
また「次」に
行かねばならない。
という億劫さも
あるだろう。
とにかく、
もう一歩で
「自己開放」
とか
「脱皮」
というところで、
足踏みをしたり
戻ってしまう人は
多い。
でも、
でもでも、
それはもう
やめないか。
出口が
見えたら、
一気に
突っ切ってしまわないか。
ここで
遊んでいる時間は
ないんだ。
私達は、
次から次へ
進まねばならない。
億劫だろうが
何だろうがね。
次から次へ。
・・・いやになるかい?
その進み方は
もう
やめたいかい?
もちろん
遊びながら
もっとゆっくり進む
人生もある。
マイペースでの
成長の仕方も
あり、だ。
自分で
選べばいい。
誰に強制される
ものではない。
しかしだね。
自分自身との
約束が
あるだろう?
今回だけは!
必ず!
と、
ある意味
自分の限界を
限界以上を
自分に押し付ける
ことになる、
そのことを
重々にわかった上で
あらゆることを
引き受けた上で
覚悟を持って
自分と交わした
自分自身との
約束が
あるだろう?
それは
忘れては
ならないよ。
私のサポート
はね、
それを
忘れないための
ものなんだよ。
つづく
私の中に
燃える球
のようなものが
観える。
本当に
ちょうど
野球のボールが
燃えているような。
それが
あっち行ったり
こっち来たり、
弾みながら
動き回っている。
側からみると
実に楽しそうだ。
笑って
いるのかな。
無邪気だ。
子どものように。
球は
私の周りを
飛び跳ねながら、
だんだん
動きが激しくなる。
激しくなれば
なるほど
より楽しいようだ。
そのうちに
私には
手に負えなく
なりそうだ。
子どもが
成長するように、
だんだん
この球も私から
自立していくのだろうか。
恐らく
この球は、
私の情熱
だ。
燃える魂
というような
ものだ。
私自身が
ずっと「あれ」そのもので
あったのだと思う。
でも「あれ」は
このように
私から離れた。
だから私から
情熱が離れてしまった
ということでは
ないらしい。
私の情熱が
私から
自由になったのだ。
自立し
自由になった
情熱は、
これから
どうするのだろうか?
一方で、
何日か前に
ここで書かせて
いただいた、
ビッグバンが6回くらい
連続して
起きたような衝撃
によって
生まれた「何物か」が、
ずっと
目の前にある。
それは
赤く光っているの
だが、
それに亀裂が
入り始めた。
その赤い何かが
割れようと
している。
中から
何かが出ようと
している。
情熱が
離れ、
何かが
生まれる。
何が起こるのか?
私はただ
成り行きをじっと
見つめている。
つづく
私が見ている
世界と、
あなたが見ている
世界は、
当然、違う。
事実は一つでも、
私達は
解釈の生き物なので、
「現実」は
人の数だけ
存在する。
それで
いい。
それが
人間。
だから私は
その人の
「現実」を
知ろうとする。
私の知る「現実」と
その人の知る
「現実」は
違うのだという前提に
立って。
これが
人と関わる
基本ではないかと、
私は
コーチという役割を
続けてようやく
知った。
皆、
人の「現実」を
自分の「現実」に
染めたがる。
人の「現実」を
自分の「現実」に
引き込もうとする。
そこに
無理がある。
さて・・・。
あなたには
あなたの
創りたい「現実」が
あるだろう。
それは
私の創りたい「現実」
とは
当然、異なるものだ。
それで
いい。
それぞれ
異なる「現実」を
創ろう。
そう思える人と
こそ
本当の仲間と
なれるのではないか。
つづく
すべてのことに
立ち向かう必要は
ないが、
それでも
私達には
必ず
立ち向かわなければ
ならないことが
ある。
そこからは
逃げては
ならない。
それは
自分自身が一番
よくわかっている。
立ち向かうべきと
しっかり
立ち向かう。
これを真摯に
一つずつ
やり続ければ、
自分の人生を
拓くという意味で、
自分にとって
本当に必要な力が
養成される。
養成され
蓄積される。
そして
ある時ある瞬間に
それらが一気に
花開く。
まるで
羽化をするように
自己開放が
起こる。
ちゃんと
一つずつ
立ち向かうべきと
立ち向かい
続けるからこそ、
私達は
そうなれる。
自己開放。
その直前は
苦しくなるが、
そこで
これまで培った
生き方が
試される。
試される
と言っても
自分が自分を
試しているだけだ。
自分が自分に
納得をし、
OKを出したら
羽化が始まる。
自己開放が
完了する。
これを繰り返し
ながら
私達は
本質的成長を
続ける。
今のあなたの
その
不安定さは、
きっと
羽化直前の
ものだ。
しっかりと
不安定なままで
いること。
逃げるように
安定を
求めないこと。
つづく
まるで
ビッグバンが
6回、立て続けに
起きたようだ。
そんな
衝撃がある
ということはきっと、
何かとんでもない
ものが
生まれたのだろう。
私の記憶に
ある中では
きっと
最大級の誕生
なのだと思う。
いったい
どこで何が起こるか、
やはり
わからんねぇ、
この世の中は。
予測をする
ということの
無意味さを
この10年くらいで
嫌というほど
味わったのだけど、
今回のもまた
その一つに
数えられるのかな。
とはいえ、
私の中の奥の奥の
私は、
知っていたのかな、
今回も。
まぁ
そんなことは
どっちでもいいけど。
とにかく、
悪いことでは
ない。
何かが
激変するのだろう。
多分、
良い方向にね。
それが
実在のレベル
でなのか、
ダイレクトに
現象化するのか、
今のところ
それも
わからないが、
この
理由のわからない
確信と
わくわくは
只者ではない
ことは
わかるよ。
私個人の
話じゃないよ。
世の中の
ことだ。
皆さんも
何か
感じてないかい?
つづく
我々人間には、
どうしても
やり遂げたいことが
あるものだ。
それに
つながるヒント
とか、
それに
つながる何物か
に出会えば、
目の色が
変わる。
まるで
自分の命など
捨ててやる!
くらいの勢いで
まっしぐらに
動き始める。
本人は
意識していなくても
ある種、
側から見れば、
狂人に
映るくらいに。
その姿を
ちょっと茶化せば、
変態だな、
となる。
そういった
狂人性
変態性
は
実は誰にでも
ある。
「そこ」に
触れる何物かと
出会うかどうか、
だけだ。
真本音度合いが
高まる
ということは、
その出会い
への確率が
高まるという
ことでもある。
だから、
全員という
わけではないが、
多くの人達が
狂人的
変態的に
なる。
ただ、
そう映るのは
あくまでも
側から見ている
人達から
であって、
本人は
至って
普通だ。
ただ
淡々と進んでいる。
しかし
妙に楽しい。
この内側から
湧き出で続ける
エネルギーは
なんだ?
と
ちょっとびっくり
しながら。
そして、
変態は
変態を
呼ぶ。
そして、
いつの間にか
それもまた
普通に
なるのだが。
改めて
ちょっと
冷静に客観的に
観てみるといい。
自分は
変態だろ。笑
それをまた
楽しんでいるだろ。
その楽しみを
世の中に
広げたいと
思っているだろ。
ぜひ
広げて
ほしいものだね。
どうも、
我々人間は
変わろうと
している。
年々、
その実感は
強くなってる。
要するに
変態が
増えている。
変態が
普通になる。
狂人が
普通になる。
人間が
狂人となり、
強靭となる。
つづく
じっと見つめる
先に、
小さな
私がいる。
私に背を向けて
何か
必死に
もがいている。
セコセコ
と。
何をそんなに
焦って
セコセコと
やってるんだろうな、
と
思いながらも、
私は
何もしない。
何も
言わない。
汗が
見える。
焦りの汗。
小っぽけな
存在になると、
こんなにも
見えなくなるものか、
こんなにも
わからなくなる
ものか、
と
むしろ、驚く。
今は焦る必要
などなく、
すべては
順調なのに。
この上なく。
その順調さを
彼は、
あの小さな私は
知らないのか。
どこかで
本当は
知っているはずだが、
知らない自分に
焦点を当てて
いるのか。
焦る必要は
ないのに。
焦りながら
キョロキョロする
小さな私。
キョロキョロ
しても
もちろんそこに
答えはない。
答えは
自分自身が
決めればいい。
決めた
その答えこそが
答えなのに、
なぜか
決める前に
キョロキョロする。
そこにそんなに
時間をかける
必要はないのに。
あんまりそこで
止まっていると
後で大変に
なるぞ、と。
そんなメッセージ
のようなものを
私は目線でもって
彼に、
あの小さな私に
送る。
すると
ビクッと一瞬
体を震わせた後、
ちょっと
落ち着いて、
我に返ったように
鎮まった。
そして
静かに一歩を
出した。
小さな私の
小さな一歩。
やれやれ。
でもその一歩の
蓄積こそが
大事なんだ。
本当は
わかっている
くせに。
存在が
小さくなると
意志も小さく
なるものなのか?
やれやれ。
自分は
何者か?
何を為すために
そこにいるのか?
どうして
わざわざその
小ささとなったのか?
すべて
知っているだろ。
小さくなると
忘れてしまうのか?
それほど
そこは
不安定な場所なのか?
私が君と
小っぽけな自分と
交代すれば、
私も同じように
なってしまうのか?
やれやれ。
でも今はまだ
代われない。
もうちょっと
彼には
頑張ってもらわねば。
つづく
一つの発想が
言葉になるまでには
時間がかかる。
通常は、
言葉になった上で
浮かんでくるのが
発想であるが、
セルフコーチングの
力をつけることで、
言葉になる前の
発想
に気づくことが
可能になる。
私の場合、
それは
まるで一つの星
のように観える。
心の中、
もしくは
自分の身の周りに
星が
フッと現れる。
それは
すぐ近くに
現れることもあれば、
無限に近く
遠くに現れる
(という印象を持つ)
こともある。
星に気づくと
意識をそちらに
向け続ける。
その時、
思考の類は
いっさい手放す。
空白の心
の状態。
ただ、
その一点の星
のみを見つめ
続ける。
すると
またフッと
思い出すような
感覚で、
発想が
言語化もしくは
映像化
される。
「自分の中の
星を観る」
・・・という
これも一種の
セルフコーチング法なのだと
思うが、
最近はずっと
これが続いている。
これまでも
そうであったように、
私にできる
ということは、
他の皆さんにも
できることではないか。
一度、
試してみてください。
つづく
ボロッボロに
疲弊している
時にこそ、
自分の中の
揺るがぬものを
感じることが
できるのは、
皮肉のような
話だが、
これが人間という
ものなのだろう。
エネルギーが
枯渇しても、
それでもなお
光り続ける
その存在は
ある種の
安心と共に、
畏れをも
感じさせる。
この光と
共に
いつも私は
あるのだな、
と思うが
一方で、
この光こそが
私そのもの
なのか、
とも。
いずれに
しても、
それは
まったく
揺るがない。
揺らぎようが
ない。
五感を
通さずに感じる
光。
現象として
でなく、
実在の光。
すべての人に
存在している
のだろう
とも
わかる。
あなたもそれを
感じてみると
いい。
つづく
今回は
今の私達にとって
とても大事な
問いを。
・・・
今、あなたが
最も集中したいことは?
そのための時間を
どのように創り出す?
・・・
今、
本当に集中したいこと
に
本当に集中しよう。
今の私達にとって
とても大事な
ことだ。
何としてでも
そのための時間を
創り出そう。
つづく
怒りを
消してしまおうと
する人は多いが、
怒りは
消してしまっては
ならない。
特に
真本音度合いが
高まった上での
怒りは、
私は
「真本音の怒り」
と
呼んでいるが、
それ自体が
非常に価値ある
ものだ。
自分自身の
真本音が
「怒り」という現象でもって
自分自身に
メッセージを送っている
わけだ。
怒りに素直に
なり、
怒りを開放する
ことで、
自分の
人生の道を
見出すことさえある。
私は
今、
何に怒っているか?
本当は
どの部分に最も
大きな怒りを
感じているか?
を
しっかりと特定
するといい。
その怒りの
根源にこそ、
自分自身の
「すべきこと」
が
見え隠れする。
真本音の怒り
は、
そうして
自分自身が
自分自身のすべきこと
を見出し、
きちんと実行に
移すまで
ずっと続く。
単なる
反応本音の怒り
とは
本質的に異なるものだ。
やはりそれは
メッセージであり
合図である。
思えば、
私が今の仕事に
出会い、
今の仕事に
人生をかけようと
決めたのも、
その大元には
激しい怒りが
あったようにも
思う。
その怒りは、
この仕事に就いて
四半世紀以上も
経つのに、
まだ
なくなっていない。
私が
本当に自分の
すべきことを
果たし終えるまで、
きっとそれは
なくならない
のだろう。
もちろん
今の仕事には
大いなる悦びも
多い。
しかし一方で
感じ続ける
怒り。
悦びと怒り、
の中で
道が観える。
これが
人間か。
怒りは
ちゃんと見つめれば、
真本音の怒りか
反応本音の怒りか
は
判別がつく。
もし
真本音の怒りで
あれば、
それを
自分自身の
指針とせよ。
つづく
あなたの「過去」は
今のあなたに
とって、
何者ですか?
私達は
「過去」と地続きで
ここにいる。
しかし
実在のレベルでは
一刻一刻の時間は
この3次元では
分離している。
地続きのようで
地続きではない。
「過去」は
自分自身を
引きずるが、
実は
引きずられなきゃ
いけない義理は
まったくもって
ないのだ。
「過去」を
あえて
自分から
分離させてしまっても
いい。
だって、
すでに分離
しているのだから。
極端な
話かい?
でもね、
今はこれが
あなたにとって
最も必要なこと
ではないか。
これまで
散々、
その「過去」とは
向き合って
きたではないか。
何度も
引きずられ、
引きずられ、
何度も
すでにもう
解消されたはずの
痛みを
味わい続けて
きたではないか。
だから
もういいだろう。
そろそろ
分離をしても。
むしろもう、
「過去」に
お付き合いしている
時間はない。
「未来」に
活かすための
「過去」であるなら、
もうきちんと
あなた自身から
「分離」させるといい。
その「過去」は
「あなた」
ではないのだから。
「あなた」は
今ここにいる
あなただ。
「あなた」は
今ここにしか
いないのだ。
これから
今、
何をするか?
は、
今の「あなた」が
決めればいい。
「過去」は
もはや
完全なる
無関係だ。
今のあなたは
どうするんだ?
今、
何をしたいんだ?
つづく