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激流に呑まれ
大混乱に
なっている。
右も左も
わからない。
上も下も
わからない。
自分がまったく
わからなくなる。
その状況の
中で、
いや、
その状況の
中でこそ、
とてつもなく
静かな自分が
現れる。
それは
自分自身を
じっと
見つめている。
何も言わず。
その静かな自分の
目と
対峙する。
じっと
見つめ合う。
スーッと
何かが
抜けていく。
余分な混乱が
抜けていく。
余分な混乱が
抜けたとしても、
それでも
混乱は残る。
もはやそれは
余分なものではなく、
今の自分にとって
最も必要なもの
だ。
この混乱があるから
こそ、
次のステージに
行けるのだ。
それが確信として
わかるので、
あとはもう
委ねればいい。
混乱に
身を任せる。
我を失えば
いい。
大混乱。
それを
味わい尽くす。
必要な混乱とは
味わい尽くせる
ものだ。
我を失いながら、
どんどん
自分が鎮まっていく。
そして、
もうすぐ
生まれるのが
わかる。
新たな自分
が。
より
本来に近づく
自分が。
混乱は
人生に必要な
ものだ。
しかし
余分な混乱は
要らない。
この混乱は
余分なものか?
必要なものか?
真本音度が
高まれば、
その判別が
簡単に
つくんだよ。
つづく
激しい流れだな、
と
思う。
この流れに
飛び込むのが
私のすべきこと
だろうか?
ちょっと
迷ったが、
でも瞬時に
答えは出た。
飛び込むんだな、
と。
では、
いつ?
今でしょ。
しょうがない。
じゃあ行こう。
・・・
飛び込んだ
後に
わかるのだ。
あー、
あのタイミングを
逃したら、
「次」はなかったな、
と。
あのタイミングこそ
絶妙。
あれが最善であり
最高。
おかげで
今は
とても調和している、
と。
・・・
飛び込めば
すぐにわかる、
いろんなことが。
でも、
飛び込まねば、
何もわからない。
ずっと
迷ったまま。
本当にここに
飛び込めば
良いかどうか?
そして
いつ飛び込むか?
真本音度を
高めるということは、
この感性を
養うということだ。
この感性が
研ぎ澄まされれば、
人生は
楽しくてしょうがなく
なる。
つづく
何かが螺旋状に
回転しながら
落ちてくる。
小さな
何か。
それを静かに
両掌で
受け取る。
消えそうな
何か。
小さな
光。
まるで
蛍のようだ。
その
小さな小さな
声が
聴こえた。
ささやくように
それは
聴こえるのだが、
だが
しかし、
それは実は
必死になって
叫んでいるようなのだ。
何かを必死に
訴えている。
私は最大限
心を鎮め、
雑念を手放し、
そのものに
意識を向けた。
それは、
言葉に表現するのは
とても難しいのだが、
一言で言えば、
どうも
悔恨の念
のようだ。
あの時、
ああすれば
良かった。
もっと
こうすれば
良かった。
なんであの時
あんなことを
してしまったのか。
なんであの時
逃げてしまったのか。
本当に
すべきことは
一つもせずに。
・・・
人生に対する
自分に対する
深い深い後悔。
人間には皆、
それがある。
でも
ある一定以上に
それが高まれば、
その念は
一つの塊として、
それそのものが
独立して
漂うようになる。
でも
私の受け取った
それは、
確かに
悔恨の念だが、
それでも
光っているのだ。
弱くても
光り輝いて
いるのだ。
さらに
意識を向け続けると、
奥の方から
一つの意志が。
明確な
意志が。
「次こそは・・・」
・・・と。
私達は
何度も
やり直せる。
今はまだ弱くとも
この意志さえあれば
何とかなるか。
でも、
それは今にも
消えそう。
弱い光。
まるで
蛍のよう。
私はただ、
祈るばかり。
つづく
自分が普段、
何気なく
喋っている口癖
に
意識を向けて
みよう。
とは言え、
それは
自力で自覚するのは
とても難しい。
なので
周りの人達に
訊いてみるといい。
「私っていつも
どんな口癖がある?」
と。
結構、
思わぬ返答が
あるかも。
それら口癖を
できるだけたくさん
見つけよう。
そして
それらをメモ
する。
列挙された
口癖のうち、
「これは私の
真本音度を低く
してしまうなぁ」
と思うものを
選ぼう。
そしてその
口癖を
やめるための
努力をしよう。
その最も簡単な
やり方は、
①その口癖が出るのを止める
そして、
②別のセリフをつぶやく
という方法だ。
口癖を自覚できれば、
①は比較的
容易にできる。
あ、出るな
と思った瞬間に
つぶやかないように
止めるだけだ。
止めたらすかさず、
②をやる。
そのためにも
あらかじめ
②のセリフを決めておく
ことだ。
例えば、
「疲れたなぁ」
という口癖を
やめたいとする。
その場合
②の口癖としては
例えば、
「ちゃんと休もう」
みたいな
感じにする。
ちなみに、
「疲れたなぁ」
を止めるために
「私は元気!」
みたいなセリフを
用意するのは
不自然だ。
ちょっと
無理があるでしょ。
そうではなく、
できるだけ自然で
かつ
自分の真本音度を
下げないものに
変えるわけだ。
そんな感じで
一つ一つ
口癖を自分で
改善することで、
想像以上に
私達のエネルギーは
高まるんだよ。
つづく
あらゆるものは
人の意識の反映
なので、
人だけでなく
「物」にも
真本音度は
ある。
パソコンも
机も
洋服も
車も
鉛筆も
ノートも
洗剤も
カーペットも
あらゆる
物たちに。
真本音度の
高い物は
やはり
それだけで
心、というよりも
魂が癒される。
癒されない
までも、
スッキリした自分で
いられる。
テレビの番組
とかも
そうだね。
真本音度の
高い番組もあれば
低い番組もある。
食べ物も
そう。
飲み物も
そう。
まぁあまり
敏感になる必要は
ないが、
どうせなら
真本音度の高い物に
囲まれた方が
いい。
「そんなこと言ったら
今の世の中、
真本音度の低い物
ばかりでは?」
と思う人も
いるかもしれないが、
そうでもないの
ですよ。
例えば、
コンビニで売っている
食べ物でも
真本音度の高い物は
いくらでもある。
身近に使う物達は
結構、高い物は
多い。
だから
真本音度の高い物たちに
囲まれるのは
思う以上に
簡単だ。
価格の高いものが
良い、
ということでもない。
大切なのは、
その「物」に
ただただ純粋に
意識を向けたときに、
何の解釈も
なしに、
自分がそれを
どう感じるか?
が
すべて。
「いいな」
と感じれば
それを選べばいい。
単純なこと。
自分の
感性を信じる
ということね。
で、
実際にそれを
使ってみて、
また
自分がどう感じるか?
を
試せばいい。
世評や一般的認識
に
惑わされず、
自分の感性と
直観で
自分の身のまわりの
物たちを
選び直して
みよう。
つづく
真本音度が
高まると、
どんな良いことが
あるか?
という答え方は
これまで
いろいろしてきた
のだが、
最近、
とっても腑に落ちる
良い表現が
出てきた。
まぁ当たり前の
答えなのだが。
まず、
真本音度が
高まると、
あらゆることが
想像通りに行かなく
なる。
それはもちろん
悪いことではない。
自分の想像を
超える展開に
なるのだ。
それはそうだ。
これまでの自分
という
範疇を超える
生き方になっていく
わけだから。
その前提の
上で、
表現すると、
真本音度が
高まることで、
『楽しさが
すべてを超える』
という
日々が始まる。
この表現。
これが今は
最もピンとくる。
「すべてが楽しくなる」
のでは
ないのだ。
いつも書いている
通り、
私達は人間なので、
痛いことは
痛い!
苦しいことは
苦しい!
と感じることが
大切だ。
現実はもちろん
楽しいことばかり
ではなく、
辛いことも
たくさんある。
それは
真本音度が
高まっても、
何ら変わることはない。
ただ、
あらゆることは
そのままに、
その上で、
『楽しさがすべてを超える』
のだ。
想像通り
いかない。
痛いものは
痛い。
でも、
そうなる。
ということさ。
そうなれた
時の
人の強さと深さを
私はずっと
観てきたし、
味わってきた。
そういう人が
もっともっと
増えてほしい。
だからこそ、
私は
私の範疇を
現実レベルで
超えるための
活動を
本格スタートさせる。
私自身が
真本音度の高い
日々を、
さらに
満喫するだろうよ。
つづく
まるで
腹をえぐられるような
痛み。
激しい
痛み。
目の前の
その人から
伝わってくるもの。
こんな苦痛の
中で
この人は
生きているのか。
今のこの
苦痛は
心の苦痛だが、
もう少し経てば
間違いなく
それは
体の苦痛となる。
結果、
病気になったり
突然の
身体機能低下と
なったり。
そうならない
ためには、
早く自分の状態を
自覚することが
必須なのだが、
そういう人こそ
こういうのだ。
「私は
ストレス耐性
ありますから」
その自信は
どこからくるんだ?
過去の経験か?
ストレスは
溜まり続けるもの。
ある時に
突然
容量オーバーを
起こすもの。
変な過信は
人生を
壊してしまう。
わかってほしい
のだけど、
こればかりは
どれだけ口で
説明しても、ね。
だから
いつも思う。
自分の痛みや
苦痛に
敏感な人は
幸せだ。
自分を守れる
から。
守らねばならない
ことを
自覚できるから。
苦しいことを
苦しいと
感じられる自分で
いよう。
つづく
たった
一滴の
水滴が、
すべての流れを
変える
こともあるのだ。
その一滴が
「私は所詮
一滴だから」
と
言っているうちは、
決してそれは
起こらないが。
「すべて」の中に
「一滴」はあり、
「一滴」の中にも
「すべて」がある。
すべてを包含する
自分という
存在を、
まずは
信じることだな。
自分は
何もできない、
・・・とも
自分は
何でもできる、
・・・とも
どちらとも
違う。
その視点は
必要ない。
今、
何をするか?
今、
自分の魂を
込めて
ここで、
何をするか?
これだけだ。
つづく
いつも
外側から
ものを観るように
している。
どれだけ
その「現実」に
埋没したと
しても。
とはいえ、
内側の埋没も
大事だ。
内と外。
両方から常に
「それ」
を観る。
見つめ
続ける。
すると
「それ」は
一つのカタチを
現してくる。
明確な
カタチ。
内と外から
見続けなければ
決して
わからない
そのカタチは、
多くの場合、
とても
意外なものだ。
なるほど、
こうなっていたのか、
と。
これがわかれば
あとは早い。
内と外から
刺激を入れ続ける。
そのカタチが
本来のカタチに
戻れるまで。
つづく
いろいろ
始まる。
でも
始まる時、
そして
始まった後、
ずっと
大事にし続けている
ことがある。
それは
いつもゼロに
戻ること
だ。
いつも原点に
戻ること
だ。
すべては
自分自身の
原点から始まった
ことだ。
あらゆるものを
手放し、
まっさらな状態から
ここまできた。
まだ本当には
始まっていなかった
からこそ、
ここまでは
常に
原点に戻れた。
しかし
始まれば
変わるだろう、
あらゆることが。
前に前に
加速する日々。
意識は
前に前に
飛ぶだろう。
だからこそ、
だ。
いつ何時、
どんな時も、
一瞬で
原点に戻れる
自分であろう。
原点から
常に
すべてを
観る。
そんな自分を
養ってきたのだ。
この26年。
養えたものを
そのまま
発揮する日々と
しよう。
つづく
自分の習慣を
今一度、
見つめ直して
みよう。
自分が現在、
当たり前のように
やり続けている
生活の仕方
を。
この生活習慣で
本当に
良いのか?
このまま
例えば
30年続けても
良いものかどうか?
30年、というと
大袈裟かな?
でも
それくらい続けても
良いな、
と
思える生活の仕方を
した方がいい。
特に
ここからは。
世間一般的な
ものではなく、
自分自身が
「今の私の生活の
仕方は素敵だ」
と
思えるものを。
そう納得できる
「日常」
を。
特に
ここからは
大事だ。
不安定な
時代の中を
安定して
生き続けるために。
つづく
図太い
中心軸が
誰にも
ある。
多くの人は
それに
気づいていないが、
それはまるで
大樹のようだ。
人は、
たくましい
のだよ。
本当はね。
大樹のような
中心軸を
見つめるのが
怖い、
見えてしまうのが
怖い、
という人も
多い。
見えちゃうと
その瞬間から
人生が変わってしまう
のではないか、
と。
そういったものは
もうここまで
来たら、
見ずに行きたい。
今さら
自分を大きく
変えたくはない。
と。
気持ちは
わかる。
でもね、
それは
大樹なのだよ。
大樹の安心感
は
半端ない。
人生を変える
とか
変えない
とか
そういった
次元にはない。
ただ、
一歩一歩
大樹として
進むだけ。
そしてそれこそが
本来の
自分だ。
自然体だ。
安心安全だ。
まぁとは言え、
体験したことの
ないものを
安心安全だ
と言われても
それだけで
納得はしないわな。
大樹全体とは
言わないが、
そのほんの一部でも
感じられると
いいね。
私の推奨する
セルフコーチングは
そのための
ものだ。
つづく
私は、
ある人に対して
本当に伝えたいこと
は、
なかなかすぐには
伝えない
ことにしている。
最善最大の
タイミングを
待っているのだ。
それまでは
決して
伝えない。
そのメッセージは
宝物。
きっと
その人の人生に
おいては、
一つの大きな
きっかけとなる。
・・・と
思えるもので
あればあるほど。
その人にとっての
宝物度合いが
高ければ
高いほど、
慎重に
丁寧に
最大の敬意を
持って。
その時
が
来るまで、
ずっと
胸であたため
続ける。
そして
その時そのタイミングが
来たら、
ポンっと
軽く、
明るく、
ニュートラルに、
そのままに
お伝えする。
それにより
それは本当に
その人の
宝物となる。
つづく
檻から出ようと
もがく人が
いる。
この狭い
檻から。
自由に
なりたい、と。
でもね、
本当に大変
なのは、
檻から
出てから、
だよ。
檻から
一歩でも
外に出てごらん。
「世界」に
自分の身は
完全に
晒されるよ。
直射日光が
当たるよ。
自分を
支える枠は
ないよ。
孤独に
なるよ。
それが
「自由」の
始まりだ。
その代わり
「世界」は
無限に広い。
どこにでも
行ける。
行こうと思えば。
でもね、
あくまで私の
経験だが、
檻から出た人の
9割は、
また
以前の檻の中に
戻るんだ。
そこが安心だと
わかるからね。
で、
そこで
妥協するんだ。
それも一つの
生き方かな。
でもそこで
踏ん張って、
私は「世界」を
探検するんだ!
自分の道を
探求するんだ!
と
勇気と使命感を
もって
檻から離れる人も
確かにいる。
私は
そうした人を
サポートすると
決めているんだ。
つづく
断ち切る。
一気に
断ち切る。
完全に
断ち切る。
その覚悟
たるや・・・。
ひょっとすると
「断ち切る」
ことこそ、
最も
難しいのかも。
だからこそ
やる。
何として
でも。
断ち切る。
覚悟を決めて。
完全に。
この経験は、
明らかに
人生のステージを
変えるよ。
つづく
自分の「世界」を
創るならば、
仲間集めを
するのではなく、
まずは
自分一人で
始めてみよう。
最初から
最後まで
自分一人で。
その覚悟と
意気と
真剣さ、真摯さが
その
波長が、
自然に
仲間を呼ぶ。
しかもそれは
勢いで
するものでも
ない。
一歩ずつ
丁寧に。
一つ決め、
一つやる。
やると決めた
ことは
必ず
やる。
一つ成果を
上げ、
次に進む。
丁寧に。
誠実に。
その着実性が
自らの
足腰を鍛える。
自分の足で
歩んでいるんだ、
という
本質的な自信が、
人を呼ぶ。
招き寄せる。
自分の
意図を超えて。
そうなって
始めて集まった
仲間こそ、
本当の
仲間だ。
つづく
何のために
がんばるか?
その
「何のために」
を
もっともっと
探究しよう。
理由
の探究。
今、自分が
自覚している理由
の
奥には、
さらに深い
理由があるもんだ。
さらにその
理由の
奥にも、さらにさらに。
本当の本当の
本当の
理由は何だ?
何のために
自分は
こんなにも
がんばろうと
しているんだ?
もっともっと
もっと
自分を
理解しよう。
今の理由
だけで
満足するのは
勿体ないことだよ。
つづく
今はここに
自分の
全エネルギーを
集中させよう!
と
スッキリ決める
ことができる人は
幸せだ。
これを
スッキリ決められない
から
みんな
苦労するんだ。
苦労しながら
中途半端に
決めてしまい、
中途半端な
エネルギーのまま、
エネルギー分散
したまま、
進んでしまうから
不調和に
繋がってしまう。
一点集中は
確かに
難しい。
現実的には。
でも、
もしそのコツが
わかれば、
こんなに楽しい
ことはない。
コツ、
・・・そう
コツなんだよ。
一点集中の
コツを掴む。
・・・まずは
それくらいの
軽さで
やってみよう。
本当に
この一点で
良いのかどうか?
を
悩む時間が
あったら、
たった5分でも
良いから、
「今からの5分は
これだけに
全エネルギーを
注ごう」
と
決めてやってみる。
5分できたら、
10分やってみる。
10分できたら
20分やってみる。
そういった
回数を
一日の中で
徐々に増やしてみる。
それをする中で
自分なりの
コツを
見つけて
みないか。
だいぶ、
楽しくなるよ。
つづく
自分の夢に
しがみついても
意味はない。
その夢は
昨日までの
あなたの
夢だろう?
今はどうだ?
本当にそれが
最も
望むものなのか?
素直に。
過去の自分の
想いを大事にする
ことが
自分を大事に
する
というわけでは
ない。
過去の自分は
過去の自分。
昨日の自分は
昨日の自分。
5分前の自分は
5分前の自分。
今!
はどうだ?
今のあなたは
素直に
何を望む?
つづく
自分の体を
壊す限界まで
自力で
頑張ってみたい!
と願う
人がいる。
その想い、
よーくわかった!
私は個人的には
無謀とも言える
その進み方は
好きだ。
あまり
オススメは
できないが。
限界まで頑張る
からこそ
わかることも
確かにある。
あまり
オススメは
できないが。
本当は、
人生には
もっと
楽な進み方が
ある。
それを知らないから
限界まで
頑張ってしまう
人が多い。
要は、
選択肢が複数
あるかどうか?
が
大事ではないかな。
短絡的に
言えば、
楽な道も行けるし、
あえて
苦労する道も
行けるし。
自分はどっちで
今は
進もうか?
と。
こっちしか
進めない、
・・・ではなく。
ちゃんと
自らの意思で
どう進むかを
決める。
その上で
限界まで頑張ってみる
のなら、
心より
応援するよ!
つづく
重い重い
岩を
担いでいないか?
首や肩や
背中に。
頭上に
自分の体よりも
もっと大きな
ものを
担いでいないか?
それは本当に
担ぐべき
ものか?
本当は、
降ろそうと思えば
すぐに
できるのでは?
それを降ろすと、
自分でなくなって
しまう、と
恐れていないか?
その重荷に
依存
してはいないか?
まぁ、でもね・・・
それを本当に
担いで行くのなら、
それは
それで
自分の選択だ。
その代わり
どうせなら
徹底的に
担ごう。
覚悟しよう。
担ぐ人生は
思っている以上に
大変だよ。
今はまだ
中途半端な
重さだから。
本当の重さは
これからだ。
でも
それでもいい。
それが
自分の人生だ、と
本当に
決めるのなら、
心から
応援しよう。
さぁ、どうする?
人生の
選択だよ。
つづく
命の源泉
が
あるとする。
広大でかつ
深い
海のイメージだ。
その中に
入る。
深く深く
沈んでいく。
何万メートルも
潜っていく。
海の底に
たどり着き、
そこで小さく
体を丸め、
まるで
赤ん坊のように
眠ろう。
海を
そのまま
感じるのみ。
あとは
何もない。
でもそれは
無ではない。
命そのもの、
となるのだ。
そうなれば、
ザーッと
あらゆる余分な
ものたちが、
流れ去り、
浄化され尽くす
だろう。
そこで初めて
決断しよう。
人生の
決断を。
つづく
生まれる前兆
って
あるよな。
大切な何かが
生まれる
前兆。
卵の中で
それは
蠢いている。
ガサゴソと。
もう
いっぱしに。
早く外に
出してやりたいが、
まだ、だ。
まだ、
早過ぎる。
待て、待て、
俺よ。
・・・と
自分を戒める。
ちゃんと
準備を完了した
上で
生まれなければ、
すべてが
中途半端になる。
どうせなら
一気呵成に
行きたいのだ。
次のステージ
まで。
そのための
大事な大事な
何か・・・。
まだ生まれるな。
まだ気づくな。
まだ
開放しては
ならない。
気持ち悪い
状態だが、
この気持ち悪さを
愛そう。
生まれる直前の
愛おしい時間。
つづく
蜘蛛の糸の
ような、
一本の細い
線が
天と地を
結んでいる。
細いなぁ。
弱そうだなぁ。
すぐに
切れちゃうかもね。
と
思うのだが、
しかしそれでも
確かに
それはある。
以前には
これすらもなかった
のだから、
0が1に
なったのだから、
それは実に
大きな進歩だ。
でもやっぱり
すぐに切れそう。
ちょっと
風が吹けば、
すぐに飛んで
消えてしまいそうだ。
これをこれから
どうやって
育てようか?
0を1にする
ためには、
ある意味、
闇雲さとか、
大胆さとか、
いろいろ
試行錯誤を続ければ
よかった。
でも実際に
0が1に
なってみると、
この1を
守ることが
実に難しい。
神経を使うし
疲れるものだ。
でもやはり
この1は
愛おしい。
次はこれを
2にすること。
1から2に。
さぁどうするかな。
ちょっと幸せな
悩みでもある。
つづく
時々、私は
狭いトンネルのような
筒のような中を
グングンと
もの凄い勢いで
進んでいる感覚に
見舞われる。
夜、眠ろうとして
布団に入り、
目を瞑った瞬間が
多いが、
昼間の
仕事の最中とか、
移動中とか、
ふとした瞬間にも
その感覚に
見舞われたりする。
深く深く
潜っていくのか、
それとも
上に上に
上昇しているのか。
それすらも
わからないが、
ただわかるのは
何か一点に
とてつもない集中力を
使っているようなのだ。
一点突破。
ここしかない。
ここからしか
出られない。
・・・そんな言葉達が
浮かんでくる。
こんな時、
私は私を邪魔しない
ようにしている。
ちゃんと
集中できるように。
足を引っ張らない
ように。
感覚は違うかも
しれないが、
皆さんにも
こういう時はあるのでは
ないか?
全身全霊を
使って、
何かに集中している時。
もちろん
顕在意識レベルの
話ではない。
全潜在力を
使う、
という表現を用いても
言い過ぎではない
状態の話だ。
やはり一番
ぴったりくる表現は
「全身全霊」
か。
目的も意図も
理由もわからなくとも、
自分自身の
全身全霊を
止めてはならない。
足を引っ張っては
ならない。
全身全霊を
顕在意識が
阻害する。
・・・よくあることだ。
自分自身の
邪魔をするのは
もうやめよう。
つづく
世界を
感じるといい。
もっともっと。
世界全体
を。
そんな大層な
ことを!
とは
思わずに。
もともと
私達は、
世界を感じながら
生きている。
全体の中の
一点が
私達であるが、
全体と一点は
常に繋がっている。
・・・というより
本当は
一致している。
全体であり
一点であり
というのが
人間の本質だ。
ところが私達は
一点
の視点のみで
生きている。
だから
わからなくなる。
観えなくなる。
全体の視点を
もっと
養った方がいい。
そのためにも
常に
意識を大きく広げる。
地球全体に
宇宙全体に
広げようとし続ける。
そして可能であれば、
その状態で、
今ここの
一点の現実
に
向かっていく。
すると、
ほんの些細な
一挙手一投足から
私達は変化を
始めるんだ。
つづく
「中心」から
ずれると、
だいたい
おかしくなる。
妙にソワソワし、
ちょっとした
現実に
心の中は
右往左往だ。
どれだけ
真本音度が高まっても、
中心からずれれば
誰もが
そうなる。
不安定なこと自体は
決して悪いこと
ではないが、
妙に不安定
過ぎるな、
と
感じる場合は、
自分の「中心」を
確認するといい。
自分の「中心」は
今、
本当に
「中心」にあるだろうか?
・・・と。
中心が中心から
ズレていたら、
すぐに
修正しよう。
ズレてしまった
中心を
本来あるべき場所に
移動すればいい。
中心が中心に
戻った瞬間に、
自分自身の
空気感が
明らかに変わるのを
感じるかも
しれない。
できれば
毎日、
ちゃんと中心を
確認するといいね。
つづく
人を
一つの個体として
見るのではなく、
一つの「世界」
として
観るようになっていた
のだと思う。
いつの間にか。
私はあらゆる人を
そう
観ている。
いつから
だろうか?
きっと
7年くらい前
からだ。
そこから明らかに
私のサポートの
仕方は
変わったと思う。
人を育てる
というよりも、
世界を育てる
のだから。
その人には
その人の
世界がある。
「場」がある。
人と世界(場)は
一つであり、
かつ
分離もしている。
世界(場)を
育てることは、
その人を育てる
のとイコールだが、
でも、
世界(場)という
視点に立つことで、
サポートの本質が
まったく
異なってくる。
人は
自己成長を
目指しながら、
自分自身の
世界(場)を
壊し続けている、
ケースが多いのだ!
だから私は
その人の世界(場)を
まずは
守る。
守り方を教え、
守る力を養い、
その人がその人の
世界(場)を
自ら整えられる状態を
目指す。
そしてその上で、
その人が
その人にしか
実現できない世界(場)を
目指す、
という段階に入っていく。
その人が
目指す自分像を
実現するサポートでは
ないのだ。
その人が
目指す自分の世界(場)を
実現するサポート
だ。
この私自身の
本質的変化に
ようやく、
ホントにようやく
最近、
気づいたのだ。
なるほど。
私のコーチングが
独特だと
言われるはずだ。
しかしここが
わかれば
あとは早い。
さらにこの部分を
探究していけば
いい。
そして
世界(場)をサポートできる
コーチを
増やしていくことも、
ここからはさらに
加速できるだろう。
つづく
一区切り感
がある。
ほんの小さな
ものだが。
でも確かに
一つ
やりきった。
この完了感を
今日は
しみじみ
味わおう。
休息は
いつ以来だろう?
また命を
削ってしまった。
しっかり
復活させねば。
休息は
短時間だが、
その時間は
徹底的に
休む。
メリハリが
大事。
何事も
中途半端は
苦しい。
肩が凝る。
ゆらゆらと
最も自然体に
なれるのは、
一つ一つを
徹底的に
行なっている
時だ。
真の集中は
余分な力が
すべて抜ける。
だから
楽なんだ。
つづく
推進力が
とても必要な時
がある。
何が
推進力に
なるだろう?
と
真剣に考える
ならば、
自分一人で
それを
決めないことだ。
物事が
永遠に近いくらいに
持続するための
推進力とは
循環
に他ならない。
ある一つの
存在から
一方向にエネルギーが
流れ続ける
という
ものではない。
それでは
長続きしない。
永続的エネルギー
とは
循環、だ。
エネルギーの
循環を
創るのだ。
循環しながら
エネルギーが
高まっていくこと。
そういう
仕組みを創ること。
そういう
場を創ること。
そういう
仲間を創ること。
理想論だと
思うなかれ。
確かに難しい
課題だが、
それこそが
自然の摂理では
ないか。
私達の目指す
ものを
自然の摂理に
見合ったものにする。
それは
理想論ではなく、
最も大切な
現実論だと
私は思うんだ。
つづく