不自由

自由、についてつぶやく

 

私の人生において

最重要のテーマの一つは

 

『自由』

 

だ。

 

自由とは何か?

 

本当の自由とは?

 

ということを

もう30年以上、

探究しているのでは

ないか。

 

自由について、

いろんな角度から

このブログでも書いて

いきたいのだが、

 

今日は

こんな角度は

どうだろう。

 

「自由を求めるならば、

枠を大事にしよう。」

 

・・・・・・

 

枠は大事だ。

 

この世は

「枠」だ。

 

私達は

「枠」の中に生まれ、

さらに

「枠」をはめられ続け、

 

生きている。

 

男性女性の区別も

「枠」だ。

 

名前も「枠」だ。

 

生まれた地域も

環境もすべて

「枠」だ。

 

一日が24時間というのも

「枠」だし、

重力も「枠」だし、

 

体が一個しかないのも

「枠」だ。

 

私達の思考さえも

「枠」と言えるかもしれない。

 

この世は

「枠」

しかないではないか。

 

自由とは、

それらの「枠」を

取り払うことだろうか?

 

いや、

そうではない

私は思う。

 

だって

「枠」はなくならないし。

 

それどころか、

「枠」があること自体が

この世の意味だし

意義だし

価値だから。

 

「枠」の否定は

むしろ

 

不自由の象徴

 

のように

私には映る。

 

それは、

この世界の否定

だからだ。

 

否定は

不自由だ。

 

かといって

肯定も

不自由だ。

 

肯定も否定も

どちらでもいいじゃないか、

 

というのが

本来だし、

そこはちょっと

「自由」な感じがする。

 

・・・・・・

 

「枠」を取り払おうと

する人は

多いが、

 

その姿はとても

不自由に

映る。

私には。

 

私は

こう思うのだ。

 

「自由」とは、

どのような「枠」の中でも

自由でいること。

 

わけわからんかな?

 

でもこれは

本質だと思っている。

 

・・・・・・

 

「私は自由に生きたいから、

好きなことしか

やらないんだ」

 

という人を見ると、

本当に不自由な人だな、

と思う。

 

なぜならそれは

 

「好きなことしかできない」

人生だから。

 

好きなことのできる

環境であれば

自由になれて、

 

そうでない環境で

あれば、

自由になれない、

 

ということでしょ。

 

これって完全に

環境に左右されている

人生だ。

 

つまりは、

人生のハンドルが

「環境」にある。

 

人生のハンドルが

「自分」にはない。

 

それを「自由」とは

到底言えないだろう。

 

どんな環境においても

自由に生きれる人が

「自由」な人だと

私は思う。

 

嫌いなことは

やらない。

好きなことだけ

やる。

 

のではなく、

 

すべてを

自分らしく自由に

できることが

「自由」ではないかな。

 

もちろん、

「嫌だぁ、やりたくない!」

という気持ちが

湧くだろう。

 

しかしその気持ちが

あることで

不自由になるなんて

弱過ぎないかい。

 

「嫌だぁ、やりたくない!」

という気持ちすら

あるがままにさせて

おけばいい。

 

自由にさせて

おけばいい。

 

でもって

ちゃんとやるべきことを

自分の意志と意思で

行なっていく。

 

これができている時

私達は

「自由」を手に入れている

のだと私は思うけど、

 

どうかな?

 

・・・・・・

 

その人が自由かどうか?

顔を見ればすぐに

わかる。

 

自由な人は

険しさがない。

 

不自由な人は、

どれだけ好きなことを

やっていても

必ず顔に

険しさが出る。

 

自由な人は、

絶対に

何かを否定はしない。

 

無理な肯定も

しない。

 

そんなものからは

自由になっているからだ。

 

好きは好き。

嫌いは嫌い。

 

自由は自由。

不自由は不自由。

 

やりたいことは

やりたいこと。

やりたくないことは

やりたくないこと。

 

以上。

 

となっている人が、

自由ではないか。

 

だから自由な人は

「枠」を本当に大事に

している。

 

それはこの「世界」を

大事にしていることと

イコールだから。

 

そこにあるものすべて

(つまりは、枠のすべて)

を大事に

しているんだ。

 

自由だから。

 

つづく

 

苦しんだり、喜んだり

 

今日は冷たい雨が

降っていたね。

 

私は日帰りで

出張だったのだが、

 

電車を降りて

駅のホームで

少し震えながら

冷たい雨を

見ていたら、

 

今日という一日

とても愛おしくなった。

 

今日も昨日も

一昨日も、

何人もの人と会い、

向かい合ったが、

 

皆、それぞれに

辛さ

を持っていた。

 

その辛さとは

ほとんどの場合、

その人の

価値基準が

生んでいる。

 

これは

正しい。

 

これは

間違っている。

 

本当は

こうなることが

正解だと思うのに、

なんで物事は

こうなってしまうんだ!

 

という

憤りの苦しみ。

 

本当は

こうあるべきなのに

なんであの人は

わかってくれないんだ!

 

という

悲しみの苦しみ。

 

それは

物事や人に

向けられるばかり

ではなく、

 

自分自身にも

向けられる。

 

正しい。

 

間違っている。

 

ここは正しいが、

ここは違う。

 

なんで私は

こんなに

間違ったことを

してしまうんだ!

 

と自分を

責め続ける。

 

ほとんどの

人は、

自分の解釈に

よって

自分を

苦しめている。

 

それを

「幻影」と言い、

 

それは

本当の苦しみ

ではないのだが、

 

私達人間の

苦しみのほとんどは

その、幻影

である。

 

だからもう

そんな苦しみは

しなくていい、

ということを

言いたいのでは

ない。

 

そういった

私達人間の営み

そのものが

妙に

愛おしくなったのだ。

 

一日は、

解釈と共に

始まり、

 

解釈と共に

終わる。

 

人は

解釈によって

喜び、

解釈によって

苦しむ。

 

その世界

そのものを

愛おしく

思ったのだ。

 

冷たい雨だから

嫌だなぁ、

というのも

解釈。

 

雨の中

歩きたくないなぁ、

なんで

出張の日に限って

雨なんだ、

という解釈。

 

こんな日は

きっと

ひどいことが

起こるに違いない、

という解釈。

 

そう思っていたら、

素敵なことが

たくさん起こり、

逆にとても

嬉しくなった。

 

これも

解釈の成せる技。

 

人間って

面白いね。

 

正しいと

思うことは

受け入れて、

 

そう思えない

ことは

受け入れない。

 

それって

まったく

自由じゃない。

 

これをきっと

不自由

と言うのだろう。

 

本当の

自由とは、

 

正しいとか

間違っているとか

関係なく

すべてを

受け入れること。

 

受け入れる

とは

肯定する

ことではない。

 

ただ、

受け入れるだけ。

 

すべてを

受け入れて、

その上で

次の一歩を

決めること。

 

そういった人の

人生には

きっと

多くの選択肢が

観えてくるのだろう。

 

しかし

そうなれない自分が

ここにいて、

 

実際には

不自由な中で

毎日

苦しんでいる。

 

理屈では

わかっていても

どうにもならない。

 

人間って

大変だ。

 

でも、

面白い。

 

面白がるのが

受け入れる

ということかな?

 

なんか

全部ひっくるめて

愛おしくなった。

 

今日という

一日が

愛おしくなった。

 

うぅ〜、

さみぃ・・・。

 

つづく

 

本当は決めていることがあるでしょ?

自分の人生の道が

最初から決まっていたとしたら、

皆さんはそこに

不自由さを感じますか?

 

決められたレールの上を

進む人生なんてまっぴらだ!

と思いますか?

 

それとも、

自分で自分の人生のレールを

決めることができるのであれば、

それは自由だな、と

思いますか?

 

人生は変化します。

 

人生は自分一人で

進められるものでは

ないからです。

 

状況は刻一刻と変化し、

自分に降りかかる現実も

刻一刻と変化します。

 

想定外のことが起こるのは

普通のことで、

想定外であることが

想定内だと言っても

よいくらいなのが、

この世における人生です。

 

自分が予測した通りの

人生を最後まで

歩み通したという人は

まず、いないでしょう。

 

人生は予測不能で、

自ら、状況を見ながら

一歩ずつ

創り上げていくものです。

 

予測不能で

想定外で

右往左往することを、

あえて一言で

「試行錯誤」

と表現するとします。

 

すると、

人生は試行錯誤の連続である

と言うこともできます。

 

しかし。

 

その試行錯誤のすべてが

もともと自分が

決めていたことであると

したら・・・。

 

皆さんは、

どのようにお感じに

なるでしょうか。

 

人が本当に

自由に生きる、とは、

その、あらかじめ決めていた

試行錯誤を

その通りに生きることである、

としたら、

どう、お感じになるでしょうか。

 

未来は、

本当に観えませんか?

 

もちろん、

観えませんね。

 

でも、本当に

未来は観えませんか?

 

本当の本当は

観えるのでは

ありませんか?

 

それが私達人間

ではありませんか?

 

未来が観えるからこそ、

私達には

「確信」が働くのでは

ありませんか?

 

未来が観えるからこそ、

根拠のない自信が

湧き起こることが

あるのではありませんか?

 

私達はもう、

すべてを知っている。

 

自分の道も。

 

自分の未来も。

 

人の道も。

 

人の未来も。

 

すべてを知った上で、

ここにいるのでは

ありませんか?

 

道が決まっていることは

自由ですか?

 

それとも

不自由ですか?

 

すべてが決まっている上での

試行錯誤は、

無駄だと思いますか?

 

抵抗がありますか?

 

それともそれを知ることで

楽になりますか?

 

未来がわかることで、

私は、

人生の99%以上の醍醐味は

失われると

思っています。

 

だから私は

未来を知りたくは

ありません。

 

ですので、

未来がわからないように

しています。

 

でもその一方で

思うのです。

 

「未来をわからないようにする」

という自分の意思を

外してしまえば、

きっとすべてがわかってしまうの

だろうな、と。

 

すべて、

自分自身で行なっている

ことなのだろうと、

どこかでよくわかっています。

 

私は人生を

楽しんでいます。

 

思わぬ出会いがあり、

思わぬ展開があり、

自分の想定外の現実が

起こることを、

心の底から

楽しんでいます。

 

そうやって

人生を味わっています。

 

それが人としての

幸せだからです。

 

そうです。

 

意図して、

そうしているのです。

 

私だけではありません。

 

すべての人が

そうです。

 

人生は

苦しいですか?

 

人生を

早くやめてしまいたいですか?

 

私は本気で

そう思ったことは

何度もあります。

 

でもそれも含めて、

私は人生を

味わっているのだと、

ある時に

気づいたのです。

 

人生という

ステージの上で

演じる自分。

 

それを監督として

ステージの外側から

見つめる自分。

 

両方の自分が

いませんか?

 

物語は、

最初から決まっている。

 

しかし、

演じているステージ上の自分は

それを忘れるくらいに

没頭している。

 

それが、

人生ではありませんか?

 

すべてをわかった上で

自分自身を見つめる

自分がいます。

 

それを

『真我』

と呼ぶ人もいます。

 

真本音とは、

「真我の意思」

と言ってもよいのかも

しれません。

 

人は

真我の意思を思い出せば、

すべてが変わり始めます。

 

「自分を変える」

ことよりも、

「真我の意思を思い出す」

方が、100倍も楽です。

 

私のさせていただいている

サポートとは、

要するにそういうことなんだと

最近、つくづく思います。

 

つづく

自由は摂理の中でこそ

本当の自由を手に入れる

ためには、

委ねることです。

 

流れに委ねる

ことです。

 

私達人間は、

自然の摂理の中で

生きています。

 

自然が人を生んだ

とも言えますし、

人が自然を選んだ

とも言えます。

 

人と自然は

イコールです。

 

まずはその

厳然たる事実が

あります。

 

人と自然がイコールで

ある以上、

自然の摂理を無視することは

私達人間からあらゆる自由を

奪います。

 

私達は、

船に乗っている存在

であると

イメージすると

わかりやすいでしょう。

 

私達の目の前には

悠久の時を流れる

大河があります。

 

その大河の流れに乗り、

上流から下流へと

流れて行くことを

進化と言います。

 

進化の先には

無限に広がる海が

あります。

 

私達は

海にたどり着きたい

のです。

 

それが人の本能であり、

人という存在が生まれた

意味でもあります。

 

私達は船を

持っています。

 

船は、

大河の流れに乗らなければ

進むことはできません。

 

岸にいても

永遠に進むことは

できません。

 

岸にい続けることが

自由である、と

叫ぶ人もいますが、

同じ場所にいることを

私達人間は

本当に望まないのです。

 

私達は

旅する存在。

 

進む存在。

 

流れに乗って

前に進むことで初めて

その船は

活きてきます。

 

中には

流れに逆行することが

自由であると

言い張る人もいます。

 

しかし

どれだけ踏ん張ろうとも

船は、

上流から下流へとしか

移動できません。

 

それを

不自由というのは

あまりに勝手です。

なぜなら、

船に乗ることを選んだのは

私達人間なのですから。

 

大河の流れは

非常に気持ちのよいものです。

 

心地よい風を受けながら、

力を抜けば

自然に船は

動き出します。

 

風景も徐々に

変わっていきます。

 

時には

急流もあるでしょう。

 

それはちょっとした

刺激であり冒険です。

 

緩急を織り交ぜながら

船は進みます。

 

大河に委ねることで

船は気持ちよく

進み続けます。

 

大河に委ねることで

その船は

安定します。

 

その船の上で

私達は何をしても

良いのです。

 

変わりゆく風景を

楽しみながら、

私達は船の上で

自由に自分の役割を

全うします。

 

船の上にいるからこそ

活きるのが

人間です。

 

人間とは

そのような存在として

生まれたのです。

 

人間としての喜びを

素直に感じようとする

その生き方が、

私達に

「本当に私は自由だなぁ」

という実感をもたらします。

 

そして・・・。

 

大河の流れは

時に、

変化します。

 

実は、今日、

2018年4月1日をもって

流れは大きく変化しました。

 

進む方向は

変わりませんが、

流れが

これまでとは別次元

と言っても良いほどに

速くなったのです。

 

その「速さ」に

ついていけるように

私達はこれまで

準備を続けてまいりました。

 

準備が整った

ということもあり、

大河は

その流れを

一気に速めました。

 

最初はちょっと

怖いかもしれません。

 

でもすぐに

慣れるでしょう。

 

そして以前よりも

このスピード感の方が

何倍も気持ちが良いと

わかるでしょう。

 

なぜなら、

私達には

私達の望むスピードが

あるからです。

 

実はまだ

そのスピードまでには

達していません。

 

しかし、

大きく、その望むスピードに

近づいたのは

確かです。

 

真本音で生きる人が

一気に増えてきた

その結果です。

 

大河の流れを

速めることのできた私達を

まずは、

誇ることにしましょう。

 

よくやったな、と

自分を褒めましょう。

 

そしてこの新たな

スピード感に

委ねましょう。

 

そうすれば、

さらに私達は

自由になれます。

 

流れは速まり、

船はさらに

盤石なものとなりました。

 

私達はさらに

自由になれます。

 

ですから、

自由にやりましょう。

 

自由に

やってください。

 

つづく

 

嫌いになるのは悪いこと?

私達人間には誰しも、

好き・嫌い

があります。

 

嫌いなものがあった場合、

それを

「好きになろう」

とする人がいます。

 

例えば、

嫌いな人がいたとしても

その人のことを

好きになろう、

とします。

 

そういった生き方をしている人を

見ると、

私は素直に、いいなぁ、と

思います。

 

が、その生き方を

無理にし過ぎている人にも

これまで多く出会いました。

 

無理にし過ぎることで、

その人は自分の中の

「嫌い」

という気持ちにフタをして

しまいます。

 

そんな気持ちはないのだと

自分で自分をごまかして

しまいます。

 

その上で、

「好きであろう」

としますので、かなり心に

無理が生じ、

その無理無理感が

おかしな空気を生みます。

 

その空気感は実は

誰もが感じ取っていて、

その人の

「好き」

は、実はとても不自然なものだと

誰もが薄々わかってしまいます。

 

「好きになろう」

という気持ちは大切ですが、

「好きであらねばならない」

までいってしまうのは

苦しいです。

 

そういった人を観ると私は

「不自由な人だなぁ」

と思います。

 

ちょっと極端に言いますが、

私は思うのです。

 

嫌いなのものは

嫌いでよいではないか。

 

・・・と。

 

「好きだ」

「嫌いだ」

という、自分から湧く

素直な気持ちは

人間として当たり前のものなので、

それはそれでよいではないか、

と。

 

そこを否定することは

人間そのものを否定して

しまっている気がします。

 

ただし、・・・ですが。

 

「嫌いなものは嫌いだから、

そこは避けて通る」

とか、

「嫌いな人とは接しない」

とか、

「嫌いなものはすべて

拒絶する」

とか、

そういった人も私は

「不自由な人だなぁ」

と思います。

 

そこには

「選択肢」

がないからです。

 

「嫌い」

だから、

関われない。

 

「嫌い」

だから、

離れずにはいられない。

 

「嫌い」

だから、

受け止められない。

 

というのは、

その選択肢でしか

生きられないということです。

 

つまり

「嫌い」なものに

翻弄されている。

 

自分以外の何かに

翻弄されている。

 

・・・ということ。

 

それは、

人生のハンドルを

自分以外の他の何かに

握られているということと

イコールです。

 

一つの視点から言えば、

私は、自由とは

「選択肢の多さ」

にあると思っています。

 

つまり、

選択肢が多ければ多いほど

自由である、と。

 

どのような環境においても、

どのような状況においても、

自分の選択肢を

たくさん創ることのできる人こそが

自由ではないか、と。

 

「嫌いだから、関われない」

というのは、

たった一つの選択肢しか

ありません。

 

その選択肢以外の選択肢を

得られるようにすることが

より自由になるということでは

ないでしょうか。

 

それを「問い」として表せば、

次のようになります。

 

もし何か嫌いなものに遭遇した

として、

 

「嫌いなことはわかった。

では、その嫌いなことに

私はどのように関わろうか?」

 

ということですね。

 

その関わり方に

多くの選択肢があればあるほど

自由です。

 

選択肢が多い、

ということはそれだけ

「最善の選択」

をしやすいということです。

 

選択肢が少ないと、

そこには

「妥協」

が発生しやすいです。

 

「妥協」とは

自分が本当は納得していない

答え。

 

「最善」とは

理想とは違いますが、

今の状況においてはこれが最高だな、

と自分で納得できている

答えです。

 

妥協の道ばかりを

行く人は

自由ではありません。

当然ですが。

 

最善の選択のできる人が

自由なのだと

私は思います。

 

真本音で生きる度合いが

高まると、

単純に言えば、

その、最善の選択の度合いが

高まります。

 

つまりは、

今、自分は何を

最善と思っているか?

が、

すぐに明確になります。

 

そういった人生は

楽ですし、

自由ですね。

 

つづく

 

あなたは自由に生きていますか?

私達には

自由意志があります。

 

自由に何でもしてもいいよ、

と言われたら、

自然に浮かんでくる

やりたいこと、があります。

 

その時その瞬間に

それは常に

浮かび続けています。

本当は。

 

ところが多くの人は、

日常において

自由ではない日々を送っています。

つまり、

何らかの制約を感じながら

日々の生活をしています。

 

ですので、

自分自身の自由意志に

フタをしてしまっています。

 

フタをしないまでも、

そこに意識を向けずに

生きています。

 

結果として、

自由意志は本当は

あるんだけれども、

そこに気づかない状態

が続きます。

 

そしてそのうちに、

自由意志とは何なのか?

自分の制約がなくなったら

いったい自分は何を望むのか?

について、

 

「考えたこともありません」

「まったくわかりません」

 

という返答になります。

 

もしくは、

自由という言葉を聴くと、

「そんなのは無理だ」

「現実的ではない」

と思ったり、

「自由に伴う責任がウザい」

と思ったりして、

自由を敬遠する傾向となって

現れることもあります。

 

いずれにしても、

自由意志から離れてしまっている

そんな人が

多いのが今の世の中です。

 

要するに、

全然、自由じゃない

のです。

 

ほとんどの人が。

 

もちろん、

現実世界の中で

何の制約もない状態

というのは稀有でしょう。

 

物理的にすべてから

自由になる

というのは現実的では

ありません。

 

しかし、

心の中まで

自由を失ってしまっても

よいでしょうか?

 

心の中まで

自分で自分を縛りつけ、

果たしてそれで本当に

生きている

と言えるのでしょうか?

 

よく、こんな声も

聴きます。

 

「自由な発想をしてしまうと、

現実の不自由さとの

ギャップを感じてしまい、

それがストレスになるんです」

 

・・・と。

 

しかし、実は、

心の中の自分を縛りつけてしまう

ことで発生するストレスの方が、

現実とのギャップを感じるストレスよりも

圧倒的に大きいのです。

 

私がこのブログで

よく書かせていただいている

エンティティ。

つまりは、

ストレスがある一定以上の濃度に達し

実体化したもの、

は、

心の中の不自由さによって

発生するのです。

 

私達は

生まれた直後は

皆、自由です。

 

もちろん体は不自由で

想い通りに動きませんが、

心は自由です。

 

幼児期も多くの場合は、

皆、心の中は

自由です。

 

それが、

私達人間の本来望んでいる

心の在り方です。

 

しかし

大人になるとは、

心に制約をはめることである

と私達は思い込み、

自由からいかに遠ざかるか、

遠ざかった状態で

いかに上手く生きていくか、

という力をつけることが

人としての成長であると

思い込み過ぎてしまいました。

 

今の社会の歪みの

根本原因の一つは

ここにあると、

私は日々、実感しています。

 

実は・・・。

 

正直に申しますが。

 

私は、

私ほど自由な人は

いないのではないか、と

日々、思っています。

 

本当にたくさんの人達と

向き合ってまいりましたが、

私から観れば、

ほとんどの人が

不自由に観えます。

 

ただ、

私が長くサポートさせていただいている

クライアントさん達は

違います。

 

私の密かな

コーチとしての目的は

クライアントさんに

本当の意味で自由になっていただく

ことなんです。

 

まぁ、ここで書いてしまった以上

「密かな」では

なくなってしまいますが。

 

でも、本当にいつも

そればかりを願って

サポートしています。

 

ですからクライアントさん達は

どんどん自由になり、

私と同じくらいに

自由になっていきます。

 

すると、

私との共鳴・共振が

起こります。

 

人は、

本当の意味で自由になると、

非常に深い

共鳴と共振を

起こします。

 

それは

「調和」

と言えるものです。

 

その「調和」は

「進化」を起こします。

 

とは言え、

以前の私は恐らく

世の中の誰よりも

「不自由」だったと思います。

 

絶望的な不自由さの

中でずっと生きていました。

 

そう考えますと、

どう観ても、

私は、今が一番、幸せです。

 

こんなことを書くと

傲慢に思われるかも

しれませんが、

私はすべての人が

私と同じような自由を

得られるといいなぁ、と

思っています。

 

特に、

組織のリーダーや

組織の要となる人達が

本当の自由を得られれば、

その組織全体に

「自由の調和」が

巻き起こります。

 

それは非常に

幸せな状態です。

 

私は世の中全体が

そうなるといいなぁと

真剣に思っています。

 

そこで、

次回からは

「自由」をテーマにした記事を

書かせていただこうかなと

思います。

 

そして、

本当の意味で自由になるための

セルフコーチングの手法

なども

いくつかご紹介できればな

と思っています。

 

お楽しみに。

 

つづく

 

本当に自由な人ほど、周りとうまくいく

真本音で生きる、

ということは

自由を得る、ということです。

 

自由とは、

現実レベル(現象レベル)における自分の環境のことを

言うのではありません。

 

ここはあえて断言しますが、

現象レベルにおける環境的な自由を

どれだけ実現しても、私達は決して

「自由」を感じません。

 

それにより満たされることはないのです。

 

私達人間が本当の意味で自由を感じられるのは

心が自由

である時です。

 

ですから、

自分の不自由さを自分以外の何かのせいにしている人は

決して自由になれません。

 

真本音で生きるということは、

一般的に言われる「人格者になる」ということでは

ありません。

 

「私は、こうあらねばならない」

「人の成長は、こうでなければならない」

という意識で自分を律するようになると

その人はどんどん不自由になっていきます。

 

ですから、

人格者を目指している人ほど、

真本音度合いが低い、という事実を

これまで私は本当にたくさん目の当たりにしてきました。

 

「自由になろう」としても

自由にはなれません。

むしろ、

どんどん不自由になります。

 

なぜなら、

「自由になろう」という縛りを自分自身に

与え続けることになるからです。

 

自由を目指している人は、

自由という縛りを自分に与えていて、

とてつもなく不自由です。

 

やはり、真本音度合いは

低いです。

 

真本音で生きる、とは

自分の中の揺るがない心に素直に生きること。

私達の中には

どのような環境に置かれても決して

揺るがない強烈な願いがあります。

 

その願いは、

「この願いを持って生きよう」という意図を

持つことで発生するものではありません。

 

最初から、ここ、にあるものです。

 

自分=その願い、と言ってもよいです。

 

その願いこそが、本来の自分自身

なのです。

 

真本音度合いを高めるとは、

その願いに向かう度合いを高める、ということ。

つまり、

本来の自分に戻る度合いを高めること。

 

それをすることで

人は初めて、自由を感じ始めます。

 

ですから、

真本音で生きることによって

その人の顔からは「険しさ」や「苦しみ」や「困惑」や「悔恨」が

どんどん抜けていきます。

 

一言で言えば、

憑き物が落ちた

という、非常に晴れやかな表情になっていきます。

 

それは、自由、だからです。

 

そして真本音度合いを高めれば高めるほど、

周りとの調和性も増していきます。

 

つまり人は、

自由になればなるほど、

周りと調和する

・・・ようにできているのです。

 

自由を目指せば目指すほど周りと不調和を起こす、

のであれば、それは

本当の自由ではない、ということです。

むしろ、不自由な方向に向かっているということです。

 

もしくは、

その自由さがまだまだ中途半端である

ということです。

 

人は、

完全に自由になれば

完全に世界と調和します。

 

そのようにできています。

 

私はまず、コーチングにおいては

そのような完全調和の状態を創ります。

 

このような書き方をすれば

とてつもなく凄いことのように思われるかも

しれませんが、

「そうではないのです!」

ということをお伝えするために

このブログを書かせていただいているのかもしれません。

 

これまでも何度か書かせていただいたように

私が行なっているコーチング、・・・というよりも

「真本音コミュニケーション」は

私だけが行なえるものではありません。

 

すべての人が

普通にできるコミュニケーションです。

 

むしろ、

人間が本来持っている最も自然な

コミュニケーションである、

と言ってもよいでしょう。

 

それを私は、一人でも多くの人が

思い出せるといいな、と願います。

 

真本音度合いが高まれば、

誰もが「真本音コミュニケーション」ができるように

なります。

 

真本音で生きる、ことは

伝播するのです。

 

つまり、

「自由」は伝播します。

 

だから私はこのお仕事を

させていただいています。

 

さて。

 

木村さんのお話に戻ります。

 

木村さんと私の間には、

完全調和の状態が出来上がりました。

だから私は彼に、

「あなたは、コーチに向いていません」

と伝えることができました。

(→前回記事)

 

通常であれば、

その人が必死に取り組んでいることに対して

真っ向から否定をしているわけですから、

その私の一言を受け入れることはできません。

 

しかし、木村さんと私は完全調和してます。

 

私は、木村さんが最も「欲しい一言」を

彼に伝えている、という状態になっています。

 

ですので、その一言は

効きました。

 

その一言を聴いて、

彼は大笑いされたのです。

 

「あっははは!

そこまではっきり言われると

気持ちいいですねぇ」

と。

 

その瞬間に、

彼を覆っていた雲が一瞬にして

ほとんど取れてしまったのがわかりました。

 

私は木村さんに問いました。

 

「なぜ木村さんがコーチに向いていないか、

わかります?」

 

木村さんはにこやかに

答えました。

 

「はい、だって私は、

自分が主役でいたいからです。

だから、ロックバンドやってますしね。」

 

つづく