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皆が本当に
調和するためには、
一人ひとりが
明確に
自分の意思を持つ
しかない。
自分の願いを持つ
しかない。
一人ひとりが
自分の意思で
自分の道を歩む。
それは人々を
分離させるのではなく、
調和を生み出す。
いまだに、
一人ひとりが
意思を持ったら
組織はバラバラになる、
と
思い込んでいる人は
多い。
真逆だ。
意思を失った人ほど
脆弱な存在は
ない。
そして
その集まりである
組織ほど
脆弱な存在は
ない。
それはあまりに
当たり前なことだけど、
その当たり前を
私達はついつい
忘れてしまう。
人を
コントロールせねば
人は
動かない。
いやいやいや。
コントロールされて
本当に嬉しい人は
一人でもいるだろうか?
コントロールされて
本気で動く人が
いるだろうか?
もちろん、
生死に関わるくらいに
追い詰められれば
話は別だけど。
意思のない
調和はない。
とはいえ、
自分の意思で
生きるのと、
自由に生きるのは
また異なることだ。
自分の意思で
生きるためには、
あえて
不自由に向かって
いかねばならない時は
多い。
それも含めての
広義の自由
という言い方も
できるけどね。
意思。
最近、この言葉を
私はよく使う。
使う必要が
あるからだ。
あなたの
意思は何ですか?
という問いを
本当によく投げる。
自分の意思を
自分が無視するほど、
心が淀む
ことはない。
つづく
風が
吹いている。
強い風だ。
一方向から
というよりも、
様々な方向から
突風も伴い
吹き荒れている。
最も
危険な風だ。
私達は
今その中に
立っている。
ここからさらに
進むかどうか?
吹き荒ぶ風の
中を
あえて進まねば
ならない
ことはない。
風の動きを
感じながら、
風が止む瞬間に
前に一気に
進む。
実は私はそれを
最もお勧めするが、
しかし
その方法でしか
進めない、
というのも
あまりに選択肢が
狭い。
風が吹いて
いようと
いまいと、
どの状態でも
進める私達で
ありたい。
現実や状況は
よく観察し、
現実や状況は
よく受け入れ、
できることと
できないことを
区別し、
自らの能力も
客観的に見つめ、
その時その瞬間の
選択をするのが
最善だ。
最善の道を
行けばいい。
だが。
それをいつでも
逸脱できる
私達でも
ありたくないか?
いつでも
逸脱できる私達
だからこそ、
最善の選択を
し続けられる。
そういうもの
ではないか?
「最善」を
「守り」の口実に
してはならない。
「最善」とは
あくまでも
進むための選択だ。
進まないのを
風のせいに
してはならない。
あらゆる
現実の中で
自分自身の
私達自身の
意志は
意思は
何か?
ということだ。
私達は今、
その意志(意思)を
問われているんだ。
つづく
組織にも
真本音は発生する。
それはまさしく
「発生」だ。
個人であれば、
真本音は
生まれた時から
存在している。
しかし組織の場合は
そうではない。
組織を構成する
人達が、
組織に魂を
宿すのだ。
すると
変な言い方だが、
人から組織が
自立する。
ある瞬間から
組織そのものに
魂の意思や願いが
芽生える。
それが
組織の真本音
だ。
・・・・・・
組織のサポートを
させていただいていると、
あっ、もうすぐこの組織に
真本音が生まれるな。
・・・というのが
ありありとわかる。
その時の空気感は
独特のものだ。
ただし、そこで
本当に無事に
真本音が生まれるか
どうかは、
わからない。
生まれそうで
生まれない
という組織も多い。
そこには
大きな段差が
あり、
いわゆる
組織としての脱皮
が必要だ。
実は私は
そのサポートを
させていただくのが
一番楽しい。
まるで生命が
生まれる瞬間のような
感動を
得られるからだ。
・・・・・・
組織が真本音を
持つと、
組織はその真本音に
基づいて
成長(進化)しようと
し始める。
経営者がどのような
意思を持つか
とはまた別次元で、
組織が組織の
意思と願いを
持つのだ。
その組織は、
自らの社会的使命、
社会的役割を
果たそうとし始める。
それをちゃんと
キャッチできるかどうか?
が、
その組織が
持続的な成長を
続けられるかどうかの
境目となる。
ところが。
組織自身のその
真本音と、
組織を構成する
経営者や社員さん達の
意思に、
ギャップが生まれる
ケースも多い。
多くの場合は、
組織そのものが
望む進化のスピードに、
経営者や社員さん達が
ついて行けなく
なるのだ。
組織の進化に
人の進化が
追いついて行けない、
ということ。
その歪みによって
ストレスを抱えて
しまっている組織も
多い。
しかし逆に、
組織そのものの真本音
と、
経営者や社員さん達の
真本音が、
見事に調和、融合
している組織も
ある。
こういった組織は、
皆が
幸せだ。
社員さん達は
自らが主役となっている。
自らの人生を
良くすることと、
組織の成長や
働きがいが
一致してくるのだ。
あまり年齢で
区別をつけるのは
好きではないが、
でもやはり傾向として、
若い人達の会社に
そういった会社は
増えている気がする。
そんな会社が
増えるのは、
それ自体が
社会貢献だなと
私は思う。
・・・・・・
組織は
創業者のもの、
ではない。
経営者のもの、
でもない。
組織は
組織である。
社会に生まれた
一つの「存在」
である。
意思や願いを持つ
「存在」
である。
と、
最近私は強く
感じるようになった。
皆で
ここに「存在」している
組織を
大切に育む。
まるで、
子育てのように。
一人一人が
自らが所属している組織に
そんな愛着を
自然に
持てるようになるといいな、
と
強く思うね。
つづく
同じ人でも
「意思」
を持つと
見違えるようになる。
本来の「意思」とは
「自分が中心である」
という意識の上で、
初めて発動するものだ。
「自分が中心」
とは、
組織上のことでも
立場上のことでも
ない。
自分が
すべての中心であり
宇宙の中心であり
世界の中心である。
それが
摂理である。
と
感覚的に理解
している状態だ。
そして実際に
それは、
自然の摂理だと
私は思う。
・・・・・・
「中心」に立って
初めて人は
「本来の自分」
に戻れる。
つまり「意思」とは
本来の自分から
生み出されるもの
だ。
こうなると
人は
見違えるように
活き活きとし、
その人の魅力も
溢れ出す。
・・・・・・
夢やビジョンも
その状態になって
初めて
浮上する。
逆に言えば、
その状態にならねば、
その人にとっての
本当の夢もビジョンも
絶対に
見つからない。
つまり、
夢やビジョンは
人から与えられるもの
ではない。
自分の内から
湧き出るものだ。
・・・・・・
夢やビジョンを
持つと、
人はみんな
今の環境を捨て、
会社を辞め、
独立をするのでは
ないか。
と
思われがちだ。
いや、
そうではない。
むしろ私は
その逆をたくさん
拝見した。
真の意思を持ち、
真の夢やビジョンを
持つ人は
ほぼ例外なく、
「今、自分のいる
環境を愛する」
ようになる。
「今ここが
自分の出発点である」
という事実を
知り、
受け入れるように
なるからだ。
・・・・・・
真の意思を持つ
者は、
今の環境における
今の「現実」に対して、
魂を込める
ようになる。
「この現実はいや
だから、
この現実には
向かわない」
というのが
なくなる。
「すべての現実と
誠実に向き合う」
ようになる。
真に自分の望む道を
開く人は
全員、
そうなる。
・・・・・・
そして、
一人ひとりが
「中心」となり、
一人ひとりが
「意思」を持ち、
一人ひとりが
「夢・ビジョン」に
向かう、
そんな組織は
とてつもない
「調和」
を起こす。
「調和」とは
「進化」である。
そんな組織を
私は
増やしたい。
そんな社会を
私は
実現したい。
おかげさまで、
同じ「ビジョン」を持つ
仲間と
今の私は共に
進めている。
本当に
ありがたいことだ。
つづく
あぁこの道で
よかったのだな。
とわかる瞬間は
頻繁に来る。
自然に
来る。
だから、
意図的に、無理に、
そう思わなくてもいい。
自分を信じられない
のなら、
無理に
信じなくてもいい。
ただ、
次の一歩、
その次の一歩、
を
誠実に
進めばいい。
・・・・・・
私達の心は
それほど強くは
できていない。
にも関わらず、
「心は強くあらねば」
と
皆、思い過ぎだ。
もちろん
そう思うこと自体が
悪いわけではないが、
心が弱いことを
言い訳に
し過ぎてないか?
心が整わないことを
言い訳に
止まっている
だけではないか?
心は
弱いものだ。
なかなか
整ってくれない
ものだ。
それはもう
諦めてしまおう。
それよりも、
前に
進もう。
・・・・・・
心は弱くとも、
私達の魂は
常に
ちゃんとここにある。
心とは、
外の影響
環境の影響によって
揺らいだり
右往左往するものだが、
魂は
そうじゃない。
ちゃんと常に
ここにあり、
ちゃんと常に
次の一歩を
示してくれる。
そんな魂の意思
のことを私は
『真本音』
と呼んでいる。
・・・・・・
心が傷ついているから
真本音が出ない。
ということは
あり得ない。
それは自らが
真本音から
目をそらしているか、
もしくは、
目をつぶっているか。
どちらかだ。
・・・・・・
この道が
正しいかどうか?
自分にとっての
正解かどうか?
それは
後でよくわかる。
今は
考えなくてもいい。
それよりも、
素直に誠実に、
現実を見つめ、
次の一歩を
決めよう。
それが
あなたの真本音
だよ。
つづく
実在のレベル(心の中)
は整ってきたのに、
それを
行動に移せない、
つまりは、
現象化(現実化)できない、
という意味での
不一致による歪みが
様々な不調和を発生させた。
というのが、
ここ数年の世の中全体の
傾向だ。
しかしそれ以前は、
実在のレベル(心の中)
そのものが
まったく整っていなかった。
そんな時代が
長く続いた。
その頃に比べれば、
随分と
問題は浅くなってきた。
対策も
楽になってきた。
とはいえ、
この数年も
大変だった。
本当に。
・・・・・・
実在そのものが
整わないことによる、
実在と現象の不一致。
それが改善され、
実在は整ったが、
まだ現象化の力が弱い
ことによる不一致。
これがここ数年の
傾向。
そして今、
この傾向がまた崩れ、
私達は
さらに前に進もうと
している。
実在が整い、
それがそのまま
現象化されていく。
という実に健康的な
世の中に
ここから急ピッチで
近づいていくだろう。
ようやくここまで
来たんだなぁ、と
ちょっとだけ
感慨もひとしおだが、
しかし
感慨に浸っている
場合ではない。
これまでは
あえて言えば、
病気を治す時代。
ここからは、
健康体に近くなり
どんどん
進む時代だ。
そういった意味での
時代の「断絶」が
あった。
・・・そう、
過去形だ。
つまり既に
「断絶」を越えたように
私は思う。
・・・・・・
これからの時代を
私は
「自業自得の時代」
と呼ぼうかな。
そう。
ようやく「自業自得」が
機能する時代に
なれたのだ。
「自業自得」とは
とても良い意味で
私は捉えている。
良いことをしたら
良いことが返ってくるし、
悪いことをしたら
悪いことが返ってくる。
という実に
健康的な状態。
だからとても
わかりやすい。
自分に悪い「現実」が
来たら、
要するに
自分に問題があるのだ。
だから
しっかり「反省」すれば
いい。
反省して次に進めば
道は開いていく。
実に
健康的だ。
・・・・・・
ということは、
真本音の願いに
基づき
日々、行動する人は
そういった
道が開かれていく。
そうでなければ、
道は頓挫する。
迷って止まり続ける
人は、
そこから一歩も
動けなくなるし、
進もうとする人は
進むことができる。
要は
その人の意志(意思)に
よる。
意志(意思)が
そのまま
現実化し、
自分に返ってくる。
単純明快。
だから、
これからこそ、
自分の生き方を
大切にするといい。
迷ったら、
自分自身に問えばいい。
本当は
自分は
どうしたいのか?
と。
ここに真摯であれば、
真摯な現実が
返ってくるだろう。
つづく
もう
何度も何度も
言い続け、
そして
書き続けてきた
ことであるが、
苦しいことを
苦しい、
と
感じることは
健康的である。
辛いことが
あれば、
辛い
と感じ、
悲しいことが
あれば、
悲しい
と感じ、
怖いことが
あれば、
怖い
と感じる。
イライラする
ことがあれば、
そのまま
イライラ
すればいい。
それらは
すべて
健康的だ。
感じていることを
そのまま
感じることこそが
健康的だ。
ただし、
「感じている」
こととは
つまり、
「反応している」
ということ。
その
「反応」
に対して、
「反応」
で返しては
ならない。
そこには
明確な自分自身の
「意思」
が必要だ。
そして
その「意思」
とは、
「真本音の意思」
であることが
重要だ。
何を感じても
いい。
何を思っても
いい。
ただし、
次の自分の
言動の
すべては、
選択の
すべては、
真本音の意思
によって
為されるもの。
という
生き方ができれば
人生が本当に
楽になる。
反応によって
生まれる意思も
あるが、
それは本来の
意思ではない。
それは
意思のふりをした
幻影であり、
いつかは必ず
消えていくもの。
いつかは必ず
消えていくものに
基づいて
次の一歩を決めて
しまうからこそ、
私達は
後悔をするし、
次の苦しみを
生み出して
しまう。
本当の
意思。
本来の
意思。
それに基づいて
次の一歩を
決める。
人生も
仕事も
すべて
そうする。
その生き方が
できると
いい。
それができれば
すべては
調和する。
組織も
社会も
調和していく。
そしてその
調和こそが
進化を生む。
やはり
これがすべての
原理原則だ。
つづく