- ホーム /
- 現実
私が見ている
世界と、
あなたが見ている
世界は、
当然、違う。
事実は一つでも、
私達は
解釈の生き物なので、
「現実」は
人の数だけ
存在する。
それで
いい。
それが
人間。
だから私は
その人の
「現実」を
知ろうとする。
私の知る「現実」と
その人の知る
「現実」は
違うのだという前提に
立って。
これが
人と関わる
基本ではないかと、
私は
コーチという役割を
続けてようやく
知った。
皆、
人の「現実」を
自分の「現実」に
染めたがる。
人の「現実」を
自分の「現実」に
引き込もうとする。
そこに
無理がある。
さて・・・。
あなたには
あなたの
創りたい「現実」が
あるだろう。
それは
私の創りたい「現実」
とは
当然、異なるものだ。
それで
いい。
それぞれ
異なる「現実」を
創ろう。
そう思える人と
こそ
本当の仲間と
なれるのではないか。
つづく
「無」の中に
入る。
しかし入って
わかるのは、
本当は
「無」などない、
という事実だ。
そこには
「すべて」がある。
だから
何も観えない。
一見すると
「無」のように
見えるだけ。
そしてその
「すべて」の中から
私達は
常に何かを
「選んで」いる。
私達が選んだ
その何かによって
「現実」は
創られる。
私達は
常にそうやって
「現実」を
生み出し続けている。
・・・・・・
生み出された「現実」を
目の当たりにすると、
それはまるで
「自分」とは別個の
存在のように
見える。
それが
自分の望むもので
あるならば、
私達は喜び、
辛いものであるならば、
私達は
避けよう、とか
逃げよう、とする。
いずれにしても
自分とは別個のものが
自分に対して
降りかかってくる。
と、
認識する。
だから「自分」は
常に、
被害者になったり
加害者になったり
する。
被害者も
加害者も
それはそれは
辛いものだ。
その辛さが
人生であると
私達は思い込みながらも、
自分とは別個の
存在である「現実」に
振り回されて行く。
結果として
「現実」に反応するだけ
反射するだけの
自分となって行く。
しかしそれはもう
「自分」ではない。
そこに
本来の「自分」は
ない。
・・・・・・
すべての「現実」とは
自分が生み出している
ものである。
ということを
受け入れることは
それ自体が
相当に辛いことだ。
到底、
受け入れられること
ではない。
「現実」と「自分」を
分離しているからこそ、
私達は何とか
ここに立てている。
と、
私達は思う。
誰かや何かの
せいにすることで、
自分のバランスを
何とか保っている。
しかしそのバランスは
ほんのちょっとの
強い刺激や作用に
よって、
すぐに
壊れる。
壊される。
それをまた
常に恐れながらも
私達は
生きる。
しかしそれが
本当に
「生きる」
ということだろうか。
・・・・・・
すべての「現実」とは
自分が生み出している
ものである。
という到底
受け入れがたいことを
本当の意味で
飲み込むことが
できたとしたら、
そこで私達は
初めて
何かから
解放される。
言いようのない
「自由」を
手に入れる。
「自分」を
手に入れる。
いや、
思い出す。
「自分」を思い出して
初めて、
私達は
自分の中(内在的世界)に
おける、
ある一つの「境界」
を
超えることができる。
その「境界」の
向こう側にあるものを
見出すことが
できる。
その向こう側に
あるのは
発想の宝庫
だ。
つまり、
私達には
「境界」を超えなければ
得られない発想が
あるのだ。
その発想を
「直観」
と
私は呼んでいる。
・・・・・・
すべての「現実」とは
自分が生み出している
ものである。
ということを
理屈で自分に
飲み込ませようとしても
それは土台、
無理なことだ。
しかもそれは決して
器の大きな人格者に
なる、
ということではない。
それはそういった
こととはまったく
別次元の話だ。
なぜならそれは
単に、
「思い出す」ということに
他ならないから。
「思い出す」
だけなので、
本当は、「思い出せ」れば、
誰もがそれを
何の抵抗もなく
受け入れられる。
というか、
受け入れるも何も
ない。
すべてが自分
なのだから。
その「思い出す」状態に
なるための
唯一の方法は
自らの
真本音度合いを
高めるしかない。
これが私の
結論だ。
残念ながら
これ以外の方法は
ない。
だから私は
どのような状況に
なろうとも、
昨日も今日も明日も
そのためのサポートを
粛々と
やり続けるのだ。
つづく
何もない、
ということは
すべてがある、
というのと
同じことだ。
すべてがある、
ということは
何もない、
というのと
同じことだ。
すべてがあり、
何もない。
何もなく、
すべてがある。
・・・このような状態の
ままでいることは
私達が
「今ここ」に存在している
意味と価値を
失くすことだ。
私達は
「すべて」
の中から
「一つ」
を決める存在だ。
これが
私達のやること
だ。
一般的な言葉を
使えば、
「決断」
だ。
私達は
決断をする
存在だ。
自ら決断をしない、
ということは
その事実をもって
自分の人生を
生きていない
ということに
なる。
自分は今、
本当に
自分の決断を
しているのだろうか?
という問いは
人生への真摯さの
基本となる。
・・・・・・
私達は
二つの世界
を生きている。
一つは
心の外側の世界。
いわゆる
現実の世界。
外在的世界だ。
もう一つは
心の内側の世界。
内在的世界だ。
この境目にいるのが
我々人間だ。
現代社会に生きる
私達は特に、
外在的世界に
目を奪われがちだ。
ありとあらゆる情報が
入ってくる。
ありとあらゆる現実が
降ってくる。
その中で、
その情報達への
単なる反応として
決断をしてしまう。
しかしそれは
本来の決断ではない。
ただの
反応だ。
反射だ。
自分の人生を生きる
ことを望みながらも、
ただの
反応・反射のみで
人生の時間を
消費している。
本当の決断を
するためには、
外在的世界はもちろん
大事だが、
内在的世界にも
しっかりと意識を向ける
必要がある。
私達の心の中は
宇宙と同じだ。
外在的世界における
宇宙と同等の
宇宙が広がっている。
その宇宙では
今、いったい
何が起きているか?
これも一つの
現実だ。
外在的世界における
現実。
そして
内在的世界における
現実。
「現実と向き合う」
とは
この二つの現実と
向き合う、ということに
他ならない。
そして
二つの現実と
ちゃんと向き合えた
場合にのみ、
本当の自分の決断
ができるのだ。
・・・・・・
自分自身の
決断
から逃げてはならない。
決断を放棄する
のは
人生を放棄する
のと同じだ。
自分の人生だ。
特に今こそは、
反応・反射
をしている場合ではない。
二つの現実と
ちゃんと向き合い、
今ここで
一つ一つ
自らの決断をしながら
毎日を過ごしてほしい。
今のあなたには
あなただからこそ
すべきことが
あるはずだ。
つづく
私達はどうしても、
・目の前にある「現実」
と
・自分の中にある「願い」
を
分離して
捉えてしまいがちだ。
「願い」は願い。
「現実」は現実。
「願い」と「現実」には
当然
ギャップがあるわけで、
そのギャップが
いやだ、
と感じるし、
ギャップがあるからこそ、
まぁ所詮、
「願い」なんて叶うわけ
ないし、
と
どこかでついつい
思ってしまう。
ギャップを埋めることが
生きがいだ!
と
前向きに考えることの
できる人もいるが、
残念ながら
稀だ。
だから人によっては
「願い」を持つこと
自体が
意味がない、
ともなる。
そこまでいかなくとも、
「願い」は願い。
「現実」は現実。
所詮それらは
別々のものだ、
となりやすい。
そして
「願い」とは分離された
「現実」に向かう。
「現実」のための
「現実」に向かう。
それはそれで
大事なんだけどね。
・・・・・・
コーチングの醍醐味
の一つは、
「願いと現実をつなぐ」
ところにあると
私は思っている。
しかもこれは
「ギャップを埋める」
という
意味ではない。
将来、「願い」を実現しよう、
という意味ではない。
(もちろん、それはそれで
大事だが。)
今、ここで、
そう、
今、この瞬間に
「願いと現実をつなぐ」
のだ。
もっと言えば、
「願いと現実を
つなぎ続ける」
のだし、
ちょっと言葉を換えれば、
「今この瞬間の現実に
願いを込める」
ともなる。
「願い」とは
「願い」であること自体が
素晴らしいし、
意味がある。
もちろんその「願い」を
叶えることができれば
尚、素晴らしいが、
叶っても叶わなくても
人は
「願い」を持っていること
自体で
エネルギーが湧く
生き物であり、
「願い」を持っていること
自体で
幸せになるし
満たされる生き物だ。
ただしそこには
一つ重要な条件があって、
「願い」であれば
何でもいい、
というわけではない。
一言で言えば、
「真本音の願い」
であることが重要だ。
しかも
「真本音の願い」
とは、
私達が新たに創り出す
ものではない。
もともと
私達の心の中心に、
(魂に、と言ってもいい)
最初から
あり続けるものだ。
それを見つけ、
それを常に自覚し、
今この瞬間に
大切にし続けること。
常に「願い」を
思い出し続けながら、
「現実」に向かうこと。
これができると、
その人は
本来の魅力を
パァーーーッと
発揮するようになるし、
先天的な能力も
開花し始めるし、
先ほども書いた通り
常に
「満たされた状態」
になれる。
この状態にまで
サポートするのが
コーチングの
「第一段階」
だ。
だから私は
この仕事が大好きだし、
でも本当は
コーチングなんぞなくても
みんなが自然に
その状態になれる
社会にしたいな、
と
願うのである。
つづく
大空を見上げることは
大事だが、
見上げるのであれば
その前に、
今ここで立っている
自分自身の足元に
意識を向けてみよう。
ちゃんと自分は
自分の両足で
ガッシリと安定して
立っているだろうか?
立っているつもりが、
自分以外の誰かや
別の何かに
しがみついていたり、
寄りかかっていたり、
もしくは
抱っこされていたり、
していないだろうか?
立っているその場所は
安定した健康的な
大地だろうか?
足元のおぼつかない
沼地だったり、
蟻地獄のような
砂漠だったり、
踏ん張りの効かない
場所ということは
ないだろうか?
ちゃんと
健康的な大地に
自らの足で
しっかりと立つ者だけが、
ちゃんと
健康的に大空を
見上げることが
できるんだ。
足元も見ずに
空ばかりを見続ける
人がいる。
日々のやるべきことを
やらずに
自分の願いばかりに
意識を向ける
人がいる。
・・・・・・
今、目の前にある
自分の「現実」に
もしくは「課題」や「問題」に
向き合い、
行動し、
一歩ずつでも道を創る。
それができない人は
夢に向かっては
ならない。
もっと
極端に言おう。
夢を描いては
ならない。
なぜならそれは
本当の夢では
ないから。
現実に向き合えない
人の心からは
本当の夢は
浮上しないように
私達人間は
できている。
夢を描くならば、
真本音の夢を
描いてもらいたい。
しかしその真本音とは
まずは「現実」を
とても大切にしている。
「現実」を大切にする
生き方が日々できるからこそ、
真本音は
「未来」を観せてくれる。
それが本当の
夢でありビジョンだ。
・・・・・・
今、本当は
何が問題か?
自分が
向き合わねばならない
現実とは何か?
自分が立ち向かわねば
ならないものとは何か?
今、自分は
何をすべきか?
目をそらさずに
見つめてほしい。
もうそろそろ
本気にならんとな。
つづく
どれだけ力を
尽くしても、
届かないものは
ある。
どれだけ自分を
生きようとしても
見えないものは
ある。
自分の中で
「こうありたい」と
抱く理想を
その通りに
実践、実現できる
ようには
この世はできていない。
何の試行錯誤や
努力もなしに、
「成功」し続けるようには
この世はできていない。
この世を
そのようにしたのは、
別に神様でも何でもない。
私達自身だ。
私達の真本音だ。
追えば追うほど
わからなくなる。
求めれば求めるほど
遠のいてしまう。
その葛藤や
迷いや苛立ちや
自暴自棄。
それらを
私達は
一つ一つ丁寧に
「超えていく」
ことを
実は最も望んでいる。
なぜなら
それは「進化」への
最短の道だから。
しかし、
だから人生は
辛い。
・・・と言うつもりは
ない。
実は、
思い通りに
ならないところに
道を創っていくことは
さほど
難しいことではない。
答えはちゃんと
私達の中に
あるのだし。
私の表現で言えば、
自らの真本音に
素直に生きればいい。
そうすれば、
必要な試行錯誤を
必要なだけして、
必要なプロセスを
経て、
ちゃんと
願いや祈りは
叶っていく。
真本音で生きれば、
真本音の願いと
祈りは
淡々と
叶っていく。
真本音で生きなければ、
真本音の願いは
いつまで経っても
わからないし、
当然、
真本音ではない
願いを目指しても
それは
叶わない。
自分が本当に
目指しているものは
何か?
それをするために
今、
何をすれば良いか?
その単純な
答えは、
真本音に素直に
生きることで
実は
本当に簡単に
淡々と
観えてくる
ようにできている。
しかし
その状態に行くまでが
大変で、
その過程で
私達は
大概、
自暴自棄になる。
何をやっても
上手く行かない。
全然
想い通りに
ならない。
・・・であれば、
自分自身が
真本音では
ないのだ。
自分の「生き方」に
何か
圧倒的な
「間違い」
があるのだ。
もちろんその
「間違い」とは、
世間一般から見た
「間違い」ということではなく、
自分の中で
「間違い」と決めている
間違いだ。
「その生き方は
違うよ」
「そっちでは
ないよ」
ということを
自らにメッセージしている
ということだ。
そして
その「間違い」の
多くは、
皆、ほぼ共通している。
次の問いを
自分に投げて
みよう。
「私は今、
目の前にある
すべての現実に
真摯に
向き合っているだろうか?」
「私は今、
目の前にある
すべての現実を
真摯に
見つめているだろうか?」
「私は今、
目の前にある
すべての現実に
真摯に
魂を込めて向かって
いるだろうか?」
上手くいくこと。
いかないこと。
好きなこと。
嫌いなこと。
やりたいこと。
やりたくないこと。
そのすべての
「現実」に
ちゃんと向かい合って
いるかどうか?
まずこれが
できないうちは、
真本音は
遠のいてしまう。
という単純な
理由がある。
それができていない自分を
私達は「間違っている」と
認識する。
真本音では。
だから、
まず、
それをしなさい。
できるかどうか
ではなく、
「しよう」と
しなさい。
自分の道で悩む
のは、
その次の段階だな。
つづく
私達は
「今この瞬間」
に生きている。
「今この瞬間」
以外の現実は
ない。
本当は
実在のレベルでは
「今この瞬間」
とは
「永遠」であり
「すべて」であり
過去も未来も
あらゆるものが
「一つ」になっている
のであるが。
しかし
私達の顕在意識は
「今この瞬間」
のみを
「現実」と
認識している。
であれば、
「今この瞬間」を
受け入れよう。
「今この瞬間」に
自分に起きている
あらゆる状況を
受け入れよう。
「今この瞬間」
を
自分のものに
するのだ。
目をつぶったり、
目を逸らすから、
それは
自分と乖離
していく。
自分の
コントロール外
となる。
「今この瞬間」
と
対峙せよ。
すべての現実
と
向き合おう。
向き合うことで
恐怖を感じたり、
絶望を感じる
こともあるだろう。
次の一歩が
まったくわからなく
なることもあるだろう。
であれば、
向き合うだけで
いい。
わからなければ
ただただ
向き合い続ける
だけでいい。
それだけで
「現実」は
自分のものとなり、
そこから
自分の人生が
始まる。
もう何十年も
人生を生きているのに、
いまだに
自分の人生に
なっていない人が
いる。
「今この瞬間」
と
対峙せよ。
私は
厳しいことを
言っているかい?
いや、
最も楽な生き方を
言ってるんだけどね。
つづく
現実を大事にする
とは
どういうことだろうか?
それは、
起きている事実に
きちんと
目を向けること。
というのは
もちろんある。
が、
その事実を
目の当たりにした
自分自身の
心の動きにも
きちんと
目を向けることも
大事だ。
最近ずっと
書かせていただいて
いるように、
「現実」とは
心の外のみで起こること
ではなく、
心の内で起きていること
も含めての
「現実」であるから。
内と外の
「現実」。
私は常に、
人や組織のサポートを
させていただいている時、
この二つの現実の
関係性に
目を向ける。
例えば、
内が外に
影響を与えているのか?
それとも、
外が内に
影響を与えているのか?
もちろん
両方に決まっているのだが、
影響の与え方の強弱が
人や組織によって
随分と違うのだ。
しかも
「影響を与えている」
と言っても、それは、
「内と外が一致している」
わけではない。
内と外が
どれだけ一致していて、
どれだけ
乖離(分離)しているのか?
も重要な視点だ。
と同時に、
影響の中身も
注視する。
こうやって書くと
だいぶ難しい印象
かもしれない。
まぁ確かに、
難しいかもしれない。
しかし慣れてくると、
内と外の現実を
両面から捉えることで、
外の現実しか
見ていない状況では
決して知ることのない
「循環」
が観えてくる。
それが
好循環であれば
それをさらに
助長すれば良いのだが、
悪循環であれば
どこかでそれを
断ち切り、
新たな「循環」を
起こさねばならない。
そのきっかけとなる
「一点」を
探し、
最善の「刺激」を入れる
ことこそ、
私のサポートの
本質だ。
・・・・・・
このブログを
お読みいただいている
皆さんは恐らく、
心の内側の現実
について
かなり深いご興味を
抱いている方々なのだと
思う。
最近、
「コメントください」
とブログ上で申し上げた
ところ、
私が想像していた以上の
皆さんから
かなり「真剣」な
メッセージをいただいた。
このブログは
特に多くの人に拡散する
意図を
ほとんど持ち合わせて
いないので、
これまで私と
何らかの関わりのあった
方々のみが
お読みいただいていると
思いながら
書かせていただいてきた。
しかし、
私のまったく知らない
方々からのメッセージを
いただき、
ちょっと驚いた。
こういったことを
続けていると、
ご縁というのは
広がっていくのだな、
と
改めて実感した。
そこで・・・、
心の内側の世界に
強い興味を
お持ちの方々にこそ、
あえて
お伝えしたいことが
ある。
それは、
「心の内側を
探究するために
最も大事なことは、
心の外側と
しっかりと向き合う
ことです」
ということだ。
私が
心の内側の現実を
探究できたのは、
多くの人々と
向き合い続けた
からだ。
企業という
ビジネスの現場に
おいて、
そこで日々起こり続ける
様々な出来事と
真摯に
向き合い続けたからだ。
心の内側の
探究とは、
心の内側を
観ることだけではない。
心の外
(一般的に言われる「現実」)
を
味わい尽くすことで
それは成される。
つまり、
外に意識を
向け続ける。
100%。
これを続ければ、
自然に
心の内側の動きを
感じ取れるようになる。
人間は
面白い。
心の内を
大事にしようと
思う人ほど、
心の外を
大事にする。
そして、
心の外のみを
大事にしようと
思う人ほど、
心の内を
大事にする。
ということを経なければ
本質を知ることは
ないように
できているから。
内も外も
両方大事にすることが
自分を
人生を
大事にすることだ。
というのが、
私達人間という存在が
選択した
進化の法則だ。
つづく
「世界」とは
二つある。
一つは、
「心の内の世界」、
もう一つは、
「心の外の世界」。
そして
それぞれに
「現実」
がある。
心の内の現実
のことを
私はいつも
「実在」
と呼んでいる。
心の外の現実
のことを
私はいつも
「現象」
と呼んでいる。
一般的には
心の外で起きていること
(つまりは「現象」)
のことを
「現実」と
呼んでいるのだろうが、
今書いたように、
「現実」は
心の外だけで
起きていることでは
ない。
この視点がないから
「現実」を変えることが
極めて困難になる。
私が大事にしている
サポートとは、
心の内と外の
二つの「現実」を
一致させる
ことだ。
心の外の現実
(つまり、現象)
のみを
上手くいかせようと
皆、し過ぎている。
たまたま
上手くいくかも
しれないが、
しかしそれにより、
心の内と外が
不一致になる可能性が
高い。
この「不一致」が
あらゆる
不調和を起こす。
実は、
「不一致」による
ストレスが
私達人間にとって
最もキツい。
現実(この場合は、現象)が
上手くいっているのに、
本人はそれほど
幸せでなかったり、
物事が上手く
進んでいるのに、
疲労感・疲弊感ばかりが
高まっていくのは
そこに原因がある。
心の内の状態が
悪ければ、
心の外の状態も
悪くなる。
心の内の状態が
良ければ、
心の外の状態も
良くなる。
これが
「健康」
ということだ。
心の内の状態が
良くないのに、
心の外の状態のみが
良くなっていく。
この状態に
なっている人や組織
を、
私は最も
「危険」
とみる。
そのため、
私が行なっている
サポートには
大まかには
次の二つの段階が
ある。
①心の内を良い状態にする。
②心の外を良い状態にする。
つまり、
心の内の状態を
整えた上で、
それが心の外に
反映するように
する。
これを
一言で表現すれば、
『実在を現象化する』
となる。
これさえできれば、
もう私のサポートは
要らないのではないか、
とすら
私は思っている。
・・・・・・
以上の話に
「真本音」
という言葉を絡めると、
次のようになる。
①心の内の
真本音度合いを
高めた上で、
②心の外の
真本音度合いを
高める。
ということだ。
つまり、
「真本音度合い」
という尺度には
2種類ある
ということだ。
①を
「潜在的真本音度合い」
②を
「顕在的真本音度合い」
と
私は呼んでいる。
心の内の真本音度合いを
高める、とは
どういうことか?
の詳細については
また改めて
書かせていただくとして、
人は、
まずは心の内が整えば、
かなり元気になる。
しかし
本当の元気さとは、
それがちゃんと
心の外に反映する
ことだ。
つまりは、
心の内にある
本当の想いに基づき、
それを
行動に移し、
結果を出す。
それが
できるように
なってこそ、
本当の元気さ、
永続的な元気さ、
に
つながっていく。
ところが、
②は
勇気が要る。
①までは
できたのに、
②で止まってしまう
人がいる。
私が最近
「進め!」
と言っているのは、
②をせよ!
ということだ。
要するに、
「行動せい!」
ということだ。
①だけで
気持ちよくなって
満足するな、
と。
そして当然であるが、
②までをサポート
できる「コーチ」が
必要だ。
そしてさらに
当然であるが、
そのためには
コーチ自らが、
自身の人生において、
②までが
できていなければ
ならない。
①しか
できていないのに、
もしくは、
①すら
できていないのに、
「私は人のサポートを
します」
と言っている人が
多過ぎはしないか。
そういった
コーチによるサポート
を受けた人は、
①すらどんどん
ひどくなっていく
のだ。
(→【コーチ探し、始めます】)
つづく
なんでみんな
こんな苦しいままで
平気なんだろう?
と、よく思う。
心が麻痺しちゃってる
のかな。
私は
人と向き合うと
その人の苦しみを
そのまま感じ取ってしまう。
その人が
感じているのと
まったく同じように
感じてしまうのだ、
ということに
10年以上前に気づいた。
もちろん、
その苦しみの詳細は
わからない。
実際にその人に
何が起きているのかも
わからない。
でも、
苦しみの感覚は
ありありとわかるし、
それが、
悲しみなのか
怒りなのか
絶望なのか、
そして、
それをその人自らが
創り出しているのか、
それとも
誰かから受け取って
しまっているのか、
などはわかる。
時々は、
その人の
心の叫び声が
聴こえたりもする。
「助けてくれ〜!!」
と叫んでいる人は
いっぱいいる。
にも関わらず、
その人は表面上は
へっちゃらな顔を
している。
最初は
それは装っているのかな、
とも思っていたが、
どうも違うようだ。
多くの場合は、
自分で自分のその苦しみに
気づいていない
ようだ。
「気づかないまま
行けばいいじゃないか」
という意見も
あるだろうが、
やはり
そうはいかない。
苦しみが
ある限界を超えると、
それは
「病気」に
なってしまうから。
それは、
体の病気として
現れることもあるし、
心の病気として
現れることもある。
苦しみを
苦しみと
感じることの
健康さ。
それを私は常に
訴えている。
・・・・・・
現実と
きちんと
向き合っているか?
という
問い。
これを受けて、
向き合っていると
迷いなく答えられる人は
稀ではないか。
人は本当は
現実と
向き合えば向き合うほど、
楽になる。
しかし
現実には
苦しみの象徴が
たくさんある。
だから
目を背けたくなる。
目を背ければ
その時点で
現実逃避だ。
現実逃避は
多大なストレスを
生む。
この状態のまま
人が人を
サポートすることは
極めて難しい。
サポートする側の
人間は、
少なくとも
現実とはきちんと
向き合い続けており、
自ら発生させるストレスは
最小限であるのが
望ましい。
それができている人を
私は
「コーチ」
と呼ぶ。
・・・・・・
現実と
きちんと向き合っているか
どうか?
その最も簡単な
判断基準は、
「自分の家族と
きちんと向き合って
いるかどうか?」
・・・だ。
家族というのは、
やはり
大事だ。
その人の人生の
基盤になる。
家族との関わりは
人生との関わり
に反映される。
自分の家族と
向き合えていない人が
コーチをやると、
最悪のコーチングになると
言っていい。
表面上は
どれだけ素晴らしい
コーチングになったとしても、
根底が
あまりに脆弱に
なるのだ。
家族と向き合えていない
コーチは
その時点でもう
本物ではない。
・・・・・・
どれだけ
セルフコーチングをして
内面を整えたとしても、
自分の目の前にある
現実を整えずして
人生は
進まない。
その「現実」の
最も基本となるのが
「家族」
だ。
例えば、
両親。
例えば、
兄弟姉妹。
例えば、
妻、
もしくは、夫。
例えば、
子ども。
関係が
上手くっているかどうか、
ではない。
もちろん
上手くいっていることに
越したことはないが。
関係が
上手くいっていても
いっていなくても、
ちゃんと
向き合い続けているか
どうか、
だ。
つづく
あなたは今、
どこに立って
いるのだろうか?
あなたは今、
どの方向を
向いているのだろうか?
あなたは今、
何を見ているのだろうか?
あなたには
高い理想がある。
その理想への
想いは深い。
しかしそうであるが故に
あなたは今の自分に
自信を失くしている。
理想と現実の
ギャップに
言葉を失っている。
我を
失っている。
そしてあなたは、
自分を
責めている。
こんな自分は
不甲斐ない、と。
自分のあまりの
力の無さに
茫然としている。
自分のあまりの
勇気の無さに
憤っている。
こんなはずでは
なかった。
私はもっと
できるはずだった。
でも
現実を前にしたら
ビビりまくって
いる。
一歩も
足が
動かない。
こんなはずでは
なかった。
こんなに
情けない自分
だったなんて。
私は
私が
嫌だ。
・・・と。
・・・・・・
私はあえて
そんなあなたに
伝えよう。
あえて
厳しく
伝えよう。
自分を
責めるな、
と。
自分を
責めている暇が
あったら、
一歩でも
前に進め、
と。
どうすれば
次の一歩を
進めるか?
そこに意識を
集中せよ、
と。
自己卑下。
自己嫌悪。
罪悪感。
それらはみんな
自己満足だ。
自分を
どれだけ責めても
誰も
喜ばない。
自分自身も
喜ばないし、
周りの誰も
喜ばない。
そんなのは
何の生産性も
ない。
時間の
無駄だ。
命の
無駄だ。
人を
愛したい
あなたならば、
できるかどうかは
別として、
本気で
愛そうと
しなさい。
自分を責めるのは
単なる
自己愛。
そこには
真剣さのカケラも
ない。
現実逃避の
言い訳にしか
過ぎない。
だから早く、
そこから
抜け出しなさい。
あなたは
何のために
ここにいるのか?
あなたは
何のために
ここに来たのか?
あなたは
何のために
私と出会ったのか?
あなたの
人生への想いと
願いは
何だったのか?
あなたは
人に
何をもたらしたいのか?
あなたは
社会に
何をもたらしたいのか?
それらを
今一度、
しっかりと
思い出しなさい。
それらは
理想だ。
そして
この人生は
理想通りには
行かない。
そんなことは
重々に理解している
あなただったろう。
我々にできるのは、
理想を胸に
抱きながらも、
最善の一歩を
踏み出し続ける
ことではなかったか。
弱っちい自分で
いいではないか。
それでも
あなたには
足がある。
それでも
あなたには
意志がある。
であれば、
次の一歩を
踏み出せよ。
間違っても
いいから
踏み出せよ。
つづく
実は個人的には
「奇跡」
という言葉は
あまり使いたくありません。
安易に使っている
人を見ると、
奇跡なんて本当は
ないのになぁ、
と思ってしまいます。
だって、
すべて「必然」
ですからね。
一見、奇跡に見えても、
そこに至るまでには
着実な
一歩一歩が
必ずあるのです。
しかもそれは
現実(現象)レベル
だけではなく、
実在レベルでこそ。
・・・・・・
このブログでは
ずっと
・実在
・現象(現実)
と言う書き方を
しています。
もともとこの言葉は
大昔の哲学者の方々が
使われていたようですが、
私は彼らがこれを
どう捉えていたか?よりも、
この言葉の持つ
本質的な響きがとても好きで
使っています。
現象の奥には
必ず実在が
あります。
「人間」という
視点で言えば、
・人の起こす現実
・人の行動や振る舞い
・人の顕在意識
・顕在意識のちょっと下の
潜在意識(ほぼほぼ顕在意識)
この4つを私は
「現象」
と呼んでいます。
そしてその奥にある
潜在意識のレベルを
「実在」
と呼んでいます。
一見すると、
本当に実在しているのは
私達の創り出す現実とか
私達の行動や振る舞い
のように思いますが、
いえいえ、
それらは単なる
反映に過ぎません。
心理学の世界で
よく言われるのですが、
それらは
映画のフィルムが映し出した
映像に過ぎないのです。
とは言え、
映像だから意味がない、
実体がない、
とも
私は思っていません。
この世は
映像によって
成り立っていますから、
映像(つまりは、カタチ)
こそが大事だとも
思っています。
つまり、
映画でいうフィルムが
実在ですが、
フィルムも大事、
映像も大事
なのです。
実際に映画を
楽しむためには
映像がなければ
なりませんしね。
どんな
フィルム(実在)があり、
それが
どのように
映像化(現象化)
されているのか?
こここそが
最も大切なところですね。
・・・・・・
そして、
映像(現象・現実)は
私達の脳みそがキャッチ
します。
つまりは、
五感がキャッチします。
しかし、
フィルム(実在)は
五感では
キャッチできません。
脳を使っては
キャッチできない
のです。
ところが、
実在を
そのままキャッチする
力を、本当は
誰もが持っています。
大変、ありがたいことに
私は
ずっとコーチを続けてきたことで
ある時から
実在をキャッチできるように
なりました。
自分の脳を使わずに
映像化(現象化・現実化)
する以前のものを
キャッチできるように
なりました。
もちろん
先ほど述べた通り、
これは私独自の力では
決してありません。
人間であるならば、
すべての人が
もともと持ち合わせている
能力の一つであり、
それは私達人間が
言葉を覚えるのと同様に
努力によって
すべての人が
身に付けることができます。
その方法さえ
知っていれば。
実在をキャッチ
できるようになることで、
あぁ、奇跡なんて
本当はないんだな、と
よくわかります。
すべては
必然です。
起こるべきことが
起きているだけ。
私は、
実在をキャッチし、
実在と現象のつながりを
あるがままに
観察でき、
適切なサポートのできる人
のことを
「コーチ」
と呼んでいます。
そして、
そのような「コーチ」を
私は
増やしていきたいのです。
嬉しいことに、
すでに何人かの人が
「コーチ」として
活躍し始めています。
・・・・・・
「コーチ」になるためには
まずは、
セルフコーチングできることが
必須です。
自分自身の
実在を
脳を使わずに
感知できること。
そして、
自分の実在の意思を知り、
それを的確に
現象化(現実化)
できること。
これができると、
人は
とてつもなく幸せ
です。
まずは
そのような状態になることが
ファーストステップ
です。
そのためにも
セルフコーチング系の
学びの場を
これから増やして
いきます。
楽しみにしていて
ください。
つづく
今のあなたにとっての
「現実」
とは何でしょうか?
その象徴的なものを
一つ選ぶとすれば
それは何でしょうか?
この質問を
私のクライアントさんに
してみてました。
あるクライアントさんは
答えました。
「それは、
鏡に映った私の顔です。」
また別のクライアントさんは
答えました。
「それは、
会社の数字です。」
さらに別のクライアントさんは
答えました。
「それは、
家族の笑顔です。」
さらにさらに、
例えば、・・・
「我社の社員達の
ムードです。」
「今年になってひどくなった
腰痛です。」
「お金です。
銀行の残高です。」
「自分と向き合う人の
表情です。」
「自分のスケジュール帳に
書かれた予定です。」
「最近出てきた
白髪です。」
「妻からの
ありがとう、です。」
「机の上に溜まった
書類の束です。」
「息子の成長する
姿です。」
・・・などなど。
人によって
「今の現実の象徴」
は異なるでしょう。
あなたにとっての
それは
何でしょうか?
一つ特定してみて
ください。
・・・・・・
その
「今の現実の象徴」
が決まったら、
そこに100%の意識を
向けてみてください。
他のことは
何も考えない。
そのことだけを
考える。
もしくは、
イメージします。
100%、その「象徴」と
向き合った時、
その「象徴」から
あなたは何を
受け取りますか?
その、受け取ったものは
どんな「感覚」がしますか?
感覚に敏感になってください。
その、
受け取った感覚を
あえて言葉で表現すると
それは、
「Yes」
に近いものでしょうか?
それとも、
「No」
に近いものでしょうか?
つまりは、あなたは
その「現実の象徴」から
「Yes」
と言われているでしょうか?
「No」
と言われているでしょうか?
それを判別
してみましょう。
面白いことに、
たとえ現実が
上手くいっているとしても、
「No」
を感じる場合があります。
逆に、
現実が上手くいっていなかったり、
大変厳しいものだったとしても、
「Yes」
と言われているように
感じる場合もあります。
「Yes」か「No」か?
これは実は
とても重要です。
「No」を感じる場合は、
あなたは
今の「現実」から
「No」を
突きつけられているのです。
つまり、
「今のままではいけないよ」
と言われているのです。
それは
「今のあなたの生き方では
いけないよ」
ということです。
「あなたは変わらなければ
ならないよ」
ということです。
物事がどれだけ
上手くいっていたとしても
「No」は「No」なのです。
ここにもし
早く気づくことができて
しかもその「No」を
素直に受け取ることが
できれば、
その人は、
大したものです。
逆に、
現実が厳しく、
思ったように進んでいなくても
もし「Yes」を受け取ったしたら、
どれだけ物事が
上手くいっていなくても、
「Yes」は「Yes」です。
あなたは
最善を尽くすことが
できているのです。
最善を尽くす、とは
本当にやろうと思うことを
きちんとやり、
やってはならないと
思うことを
決してやらない、
という選択が
日々、できているという
ことです。
それが、
真本音でできている
ということです。
それであるならば、
このまま最善を尽くし通せば、
必ず道は
開かれます。
・・・・・・
どちらにしても
大切なのは、
『現実と向き合う』
ことです。
100%正面から
向き合うことです。
現実と向き合うのが
辛い。
・・・のだとしたら、
それは、100%でない
からです。
中途半端が最も
辛いです。
開き直って
100%向き合えば、
楽になります。
私達の真本音は、
現実と向き合うことを
常に願っています。
それができる自分であれば、
真本音は必ず
発動します。
逃げれば
真本音はそっぽを向き、
開き直れば
真本音は発動します。
極めて単純です。
真本音が発動すれば、
何がどうあっても
道は開かれます。
つづく
自然の摂理という視点から
観たとき、
私達は、大河の流れに
身を委ねるということが
人として大切なことであり、
それが「自由」につながることである
ということを
昨日、書かせていただきました。
流れに身を委ねることで、
今度は
私達自身が自らの
流れを創り出すことが
できます。
自らの流れ。
・・・それは
「循環」
です。
私達が「生きる」ということは、
私達自身が何かを
「発想」
し、
その発想に基づき、
「行動」
し、
その行動によって何らかの
「結果」
を得る、ということです。
「結果」という言葉を
「現実」という言葉に
置き換えることもできます。
発想して、
行動して、
結果(現実)を得ることを、
一言で
「経験」
と言います。
「経験」により、私達は
次の「発想」をします。
「経験」により
次の「発想」に影響が
及びます。
そしてその「発想」により、
それがまた次の
「行動」につながります。
発想、行動、結果(現実)、
そして、
次の発想、行動、結果(現実)
そして、
次の発想、行動、結果(現実)
・・・・
この「循環」を私達は絶え間なく
続けています。
ところが
「循環」には、
その「循環」そのものに
力が宿ります。
「循環」を回すうちに、
慣性力が働き、
私達が意図しなくとも
ある時から勝手に
その「循環」が回り続けるように
なります。
それはまるで、
自転車を漕ぎ出したら、
スピードに乗った後は、
勝手に自転車が前に進むのと
同じようなものです。
すると、その
勝手に回り出した「循環」が
その人の人生のパターンと
なります。
それが固定観念を
生みます。
つまり、
「これが人生というものだ」
という固定観念、
「これが私という人間だ」
という固定観念です。
その固定観念が
その人にとっては
「真実」となります。
するとその人は
ある時からその「真実」に
基づき、
さらにその「循環」を
同じように回し続けるように
なります。
こうして、
その人の人生や
個性が
形作られていきます。
でもこれは果たして、
「自由」
と呼べるものでしょうか?
自ら生み出した流れ、
自ら生み出した循環。
その中から
出ることができない・・・。
年齢を重ねるということは
そういった自分なりの人生、
自分なりの真実を
固定化させることである、
という思い込みも
世の中には蔓延しています。
年齢を重ねるに従って、
私達はどんどん
自らの創り出した循環のパターンに
呑み込まれていく。
これはやはり、
自由ではないですね。
人生を変える
ということは、
本当は、
実に容易いことです。
自ら創り出している循環を
変えるだけのこと
なのですから。
ほんの一つの発想、
ほんの一つの行動を
変えるだけで、
人生は劇的に
変わっていきます。
その事実を
あまりにも多くの人が
知りませんし、
信じていません。
しかし、
信じていないものを
「信じなさい」
と言って、
他者がその人を変えることも
ほぼ、不可能です。
洗脳というものも
ありますが、
あれは、本当は
本人が洗脳されたがっている
という理由があります。
それも本人の選び出している
循環の中の
一つの現象に過ぎません。
私達は結局は
自らの意志で生きています。
もちろん、
あまりに理不尽な環境に
生まれ、
自らの意志、という概念すら
わからない人も
世界中にはたくさんいます。
でも、
それでもやはり私達は
自らの意志で
自らの循環を創り出して、
その中で生きています。
その循環を変えることが
できるのは
本人だけです。
それこそが
人の真実。
ですから
循環を変える方法は
たったの一つです。
本人が
「変えよう」
とすることです。
いえ、
正確に言えば
「変えよう」と思っているうちは
まだその循環に
捕らわれています。
ですから、
なかなか変わりません。
私が
私自身の経験と、
多くの方々と向き合いながら
実感することができた、
循環を変えるための
最大最善の方法があります。
それは、
「循環の原点を変える」
ことです。
原点を変えても実は、
循環そのものは
これまでと同じように
回り続けます。
しかし、
原点が変わることで
本人が気づかないうちに、
つまり
本人が「変えよう」としなくても
ある時は、徐々に
ある時は、劇的に
循環は変質します。
もちろん
「原点を変える」こと自体は
その人の意志です。
実は・・・。
表面上の循環を
変えることよりも、
原点を変える方が
簡単なのです。
一番簡単なところを
変える。
それが「原点」。
原点を変えることで
知らぬ間に循環が変わる。
・・・これが私のサポートの
本質です。
ではその
「原点」とは何か?
「原点」を変えるとは
どういうことか?
について、
次回以降に書かせて
いただきます。
つづく
私達は現実世界に
生きています。
現実世界に生きるとは、
この世界の空気を吸い、
この世界の様々な現実に触れ、
この世界で行動をする
ということです。
逆に言えば、
その実感がなければ、
それは「生きている」とは
言えません。
今年に入ってから
このブログでは
一貫したテーマとして
「次元を上げる」
ということについて
お話しさせていただいています。
次元というのは
「実在」レベルでのお話です。
つまりは、
心の中のお話です。
ところが、
どれだけ次元を高めたとしても
それを「現象」レベル、
つまりは現実レベルで
それが発揮されていなければ
それは、何も変わっていない
のと同じなのです。
つまりは、
「心の中」と「行動」の
一致をさせること。
「心の中の願い」と
「現実のカタチ」を
一致させること。
それをせずに、
心の中のみで
「私は次元が高まった!」
と喜んでいても、
それは自己満足に過ぎません。
次元の高まりを
実感できたのであれば、
それをすぐさま
行動に移すことです。
自分の振る舞いの
たった一つでもよいですから、
実際に変えることです。
もちろん、
次元が高まれば
無意識にそれが成される
ことも多いです。
自分の意識しないところで
自然に空気感が変わったね、
自然に振る舞いが変わったね、
自然に行動パターンが変わったね、
ということはあります。
しかし
私達には顕在意識があります。
この世で生きているのは、
顕在意識です。
顕在意識レベルでの
「意図」が
大事です。
私は、
ここが変化した。
こんな風に
次元が高まった。
だから、
私はこれから、
この私の想いを
このように行動に反映させよう。
・・・そんな「意図」が
大切です。
無意識に変化する部分と
顕在意識的に
変化させようとする部分、
それが一致した時に初めて
「脱皮」が成立します。
片方だけでは
成立しないのです。
「今の自分の状態」と
「理想の自分の状態」の
あまりのギャップに
悩む人が増えています。
ギャップがあるのは
当然です。
どれだけ「実在」レベルで
成長しても、
それを「現象(現実)」レベルで
実現するのは、
私達の顕在意識に
他ありません。
ギャップを感じるからこそ、
その気持ち悪さがあるからこそ、
私達は
行動を変化させることができます。
では、
私は、私の何を
変えれば良いだろうか?
・・・この問いを
常に大切にすることですね。
昨日の私と
今日の私が
同じであるはずはありません。
実際に、
実在レベルでも
この3次元世界においては
それは別物です。
以前のブログでも
書かせていただきましたが、
0.1秒前の自分と
今の自分と
0.1秒後の自分は
すべて別物なのです。
分離しているのです。
それが同じであると
思っているのは、
単なる「思い込み」にしか
過ぎません。
分離しているからこそ
できることがあります。
分離しているからこそ
チャンスがあります。
私達は
いつでも自分を
「変化」させることが
できるのです。
顕在意識を使って。
自分を本当に
成長(進化)させようと
思うのであれば、
本気で
「変わろう」
としてください。
顕在意識レベルで。
すると、
「実在」での変化と
「現象(現実)」での変化の
一貫性が
取れてきます。
それにより、
私達は本当に
望む方向に
変化できます。
心の中だけを
変えてもダメです。
行動を
変えなければ。
急速な次元の高まりを
しているあなたにこそ
お伝えしたい
メッセージです。
つづく
私達人間のほとんどの苦しみは
幻影です。
幻影と言っても、
実際に起きている現実は、
現実です。
しかし本当は、
その現実が私達に苦しみを与えている
わけではありません。
現実とは
どこまで言っても
現実でしかあり得ません。
その現実をどう受け止めるか?
を私達は自ら決めています。
自ら、解釈をしています。
その段階で、
自らに苦しみを与えます。
例えば、
とても厳しい現実が目の前にあったとしても、
もし似たような経験が過去にあったとすれば、
その人の苦しみは減退するでしょう。
自分は過去に、このような現実を
乗り越えたことがある、
という経験は、私達の苦しみを
減退させます。
しかしだからと言って、
今の現実が変わるわけではありません。
私達の現実を受け止める解釈が
変わるだけのことです。
つまり私達は私達自身の解釈により
苦しみを増減させています。
「人生は苦しい」
と思う人の多くは、
自分でその苦しみを創り出している
だけのことです。
私達はそういった解釈の世界から
脱け出すことが
本当は誰もができます。
ただ、現実をあるがままに
感じ取るだけの日々の始まり。
するとその瞬間から、
現実はまったく違った世界を
私達に見せてくれます。
現実を、あるがままに感じ取ることが
できればできるほど、
私達は、自分自身がいかに自由であるか?
を知ることになります。
脱皮をするというのは、
現実をあるがままに捉えられない原因となる
強い解釈の衣を
一つ脱ぎ捨てることである、
という言い方もできます。
今、弓江さんは
「正義」という解釈を脱ぎ捨てようと
しています。
(→前回記事)
実在レベルで表現すれば、
弓江さんが脱ぎ捨てようとしている
「正義」は、
弓江さんの左足に絡みついています。
それを取り払えば、
弓江さんはその「正義」から自由になれます。
しかしそれが
なかなか取れません。
「どうすれば、
取り払えそうですかね?」
「木村リーダーに
取ってもらおうかな。」
「わかりました。
それはなかなか良いアイデアですね。
では木村さんに取ってもらいましょう。」
思わず、木村さんが言います。
「えっ、私にできますか?
どうすればいいんでしょう?」
「簡単ですよ。
今、弓江さんが言われた“正義”は、
単なるイメージではなく、実在です。
ですから木村さんにもわかるはずです。
意識を弓江さんの左足に
向けてみてください。
何か見えませんか?」
「見える、というよりも、
確かに何か異物があるような
感覚がありますね。」
「それで充分です。
木村さん、その異物は
どうすれば取れると思います?」
「えっ? ・・・そうですね。
どんなやり方でもいいですか?」
「もちろん、いいですよ。」
「私が、私の手ですくい上げても
いいですか?」
「できそうですか?」
「はい。」
そう言われた木村さんは、
弓江さんの左足の踵の近くに手を伸ばし、
一気にその「正義」をもぎ取ってしまいました。
「あっ、軽くなった!」
と弓江さんがびっくり。
「たけうちさん、
今、私の両手にその“正義”がありますが、
これ、どうしたらいいでしょう?」
「どうされたいですか?」
「たけうちさん、
受け取っていただけます?」
私は笑いました。
「しょうがないですね。
じゃあ、私がいただきます」
と言いながら、
私は、木村さんから弓江さんの「正義」を
受け取りました。
ド〜ンと腰の辺りが
重くなりました。
実はこういった展開、
しょっちゅうあるんです。
私はよく、
脱皮をした人の古い皮を
受け取ります。
そして浄化をします。
その古い皮があまりにも重く、
苦しいものであればあるほど、
私の場合は、腰に来ます。
まるでギックリ腰になったかのような
感覚が来るのです。
場合によっては
立てなくなってしまうこともあります。
それだけその古い皮は
その人にとって重いものであった
ということです。
これは「イメージ」の話ではありません。
あくまでも「実在」の話ですので、
こういったことが起こるのです。
そして、重い皮をもらうたびに、
私はいつも思うのです。
人間というのは、
こんなに重いものを抱えながら
生きているんだな、と。
つづく
厳しさ、
とは何でしょうか?
学生の頃、私は登山をやっており、
一人の登山仲間にこの質問を投げてみました。
彼は答えました。
厳しさとは、
やさしさである。
これは今でもかなり
本質をついた答えだなぁ、と
私は思います。
本当の厳しさを自分に向けることは、
自分自身への本当のやさしさです。
しかし、
本当の厳しさを自分に向けている人が
どれだけいるでしょうか?
自己満足の厳しさ
の人はたくさんいます。
つまり、
厳しくする必要のないところで自分に厳しくし、
それを乗り越えることで
自己満足しています。
そういった人は、
真本音度合いが著しく減少します。
こんなに厳しくしているのだから
いいじゃないか。
・・・そんな言い訳をしながら生きています。
自分を誤魔化しています。
だから人とも向き合えなくなります。
自己満足の厳しさを自分に与えているうちは
どんな人と向き合っても
調和は起こりません。
ですから私は
本当の厳しさを自分自身に向けることが
できる状態になるまでを、
まずは一人一人サポートします。
本当の厳しさとは、
「本当は今、自分は、どんな現実(課題)に
向き合えばいいか?」
をきちんと明確にすること。
そして、自分の状態がどのようなものであっても
毎日真摯にその現実(課題)に
立ち向かうことです。
こうやって書くと、
それは本当に厳しい感じがするでしょうが、
実は、これをすると私達人間の心は
明らかにパワーが溢れます。
内側から力が湧いてきて、
いつも満ち足りた状態になります。
つまり、
幸せなのです。
ですから、
本当の厳しさを自分に与えることのできる人は
本当に純粋に
「楽しい」
と実感します。
それこそが、自分にやさしくする
ということではないでしょうか。
厳しさとは
気持ちよいものなのです。
これが、
真本音で生きる、ということでもあります。
(→前回記事)
木村さんは最初、
本当の厳しさと自己満足の厳しさの区別が
ついていませんでした。
ですから、
「プロコーチになる」などという
自己満足のビジョンに向かったりしました。
でも徐々に
「自己満足は気持ち悪い」
ということが、感覚としてわかるようになりました。
そこまで来れば、
充分に人と調和することができます。
一方の弓江さん。
彼女が今、向き合うべき現実(課題)は
木村さんだったのです。
彼をサポートすること。
それが弓江さんの最重要課題です。
ようやくこの二人が
向き合える状態となりました。
私はワクワクしながら、
二人コーチングの場に臨みました。
つづく