自分を解放できるといいね

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「無」の中に

入る。

 

しかし入って

わかるのは、

 

本当は

「無」などない、

という事実だ。

 

そこには

「すべて」がある。

 

だから

何も観えない。

 

一見すると

「無」のように

見えるだけ。

 

そしてその

「すべて」の中から

私達は

常に何かを

「選んで」いる。

 

私達が選んだ

その何かによって

「現実」は

創られる。

 

私達は

常にそうやって

「現実」を

生み出し続けている。

 

・・・・・・

 

生み出された「現実」を

目の当たりにすると、

 

それはまるで

「自分」とは別個の

存在のように

見える。

 

それが

自分の望むもので

あるならば、

私達は喜び、

 

辛いものであるならば、

私達は

避けよう、とか

逃げよう、とする。

 

いずれにしても

自分とは別個のものが

自分に対して

降りかかってくる。

 

と、

認識する。

 

だから「自分」は

常に、

被害者になったり

加害者になったり

する。

 

被害者も

加害者も

それはそれは

辛いものだ。

 

その辛さが

人生であると

私達は思い込みながらも、

 

自分とは別個の

存在である「現実」に

振り回されて行く。

 

結果として

「現実」に反応するだけ

反射するだけの

自分となって行く。

 

しかしそれはもう

「自分」ではない。

 

そこに

本来の「自分」は

ない。

 

・・・・・・

 

すべての「現実」とは

自分が生み出している

ものである。

 

ということを

受け入れることは

それ自体が

相当に辛いことだ。

 

到底、

受け入れられること

ではない。

 

「現実」と「自分」を

分離しているからこそ、

私達は何とか

ここに立てている。

 

と、

私達は思う。

 

誰かや何かの

せいにすることで、

自分のバランスを

何とか保っている。

 

しかしそのバランスは

ほんのちょっとの

強い刺激や作用に

よって、

 

すぐに

壊れる。

 

壊される。

 

それをまた

常に恐れながらも

私達は

生きる。

 

しかしそれが

本当に

「生きる」

ということだろうか。

 

・・・・・・

 

すべての「現実」とは

自分が生み出している

ものである。

 

という到底

受け入れがたいことを

 

本当の意味で

 

飲み込むことが

できたとしたら、

 

そこで私達は

初めて

何かから

解放される。

 

言いようのない

「自由」を

手に入れる。

 

「自分」を

手に入れる。

いや、

思い出す。

 

「自分」を思い出して

初めて、

 

私達は

自分の中(内在的世界)に

おける、

 

ある一つの「境界」

 

超えることができる。

 

その「境界」の

向こう側にあるものを

見出すことが

できる。

 

その向こう側に

あるのは

 

発想の宝庫

 

だ。

 

つまり、

私達には

 

「境界」を超えなければ

得られない発想が

あるのだ。

 

その発想を

「直観」

私は呼んでいる。

 

・・・・・・

 

すべての「現実」とは

自分が生み出している

ものである。

 

ということを

理屈で自分に

飲み込ませようとしても

それは土台、

無理なことだ。

 

しかもそれは決して

器の大きな人格者に

なる、

ということではない。

 

それはそういった

こととはまったく

別次元の話だ。

 

なぜならそれは

単に、

「思い出す」ということに

他ならないから。

 

「思い出す」

だけなので、

本当は、「思い出せ」れば、

誰もがそれを

何の抵抗もなく

受け入れられる。

 

というか、

受け入れるも何も

ない。

 

すべてが自分

なのだから。

 

その「思い出す」状態に

なるための

唯一の方法は

 

自らの

真本音度合いを

高めるしかない。

 

これが私の

結論だ。

 

残念ながら

これ以外の方法は

 

ない。

 

だから私は

どのような状況に

なろうとも、

 

昨日も今日も明日も

 

そのためのサポートを

粛々と

やり続けるのだ。

 

つづく

 

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