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私の心の奥には
祈りがあるな、
と
ある時にわかった。
祈りとは
信仰心という
意味ではない。
他に言葉が
ないので、
どうしてもこの表現に
なってしまうが、
それは確かに
祈りだ。
しかも
何を具体的に
祈っているのかは
わからない。
でも確かに
祈りなのだ。
本当に苦しい
時期だった。
自分という人間を
根こそぎ
捨ててしまいたいと
考えていた
時期だった。
八方塞がり。
どこにどう向かっても
私には地獄しか
待っていない。
と、
そんな風にしか
考えられない
日々だった。
そんな中で
気づいた
私の中の祈り。
それは
自分を救い出す
ための祈り
ではなかった。
それは
私自身が
生まれてきた意味
だと思えた。
八方塞がりで
今は何をどうすれば
良いのか
さっぱりわからないが、
ただ
この祈りだけは
持ち続けようと
決めた。
恐らくであるが、
人は全員、
祈りを持っている。
私と同じように。
たくさんの人と
向き合いながら、
私は今では
ほぼすべての人に
祈りの存在を
感じる。
私はいつも
その人の祈りを
感じながら
人と向き合う幸福を
感じているのだが、
残念ながら
当のご本人が
それに気づいて
いない。
あなたには
祈りがありますよ。
などとは
伝えない。
伝えても
意味がない。
あなたは
祈りですよ。
と
本当は伝えたいのだが、
それをしては
恐らくすべてが
逆効果に働くだろう。
祈りは
自分で感じ取るしか
ない。
言葉はないが
自分という存在の
根源的なもの。
それと歩むのが
人間なのだと
思う。
私は一つの祈り。
皆の中の
たった一つの
祈りだ。
つづく
祈るしか
ないではないか。
人が人に
影響を与え、
人が人を
変える。
・・・そんな力が
自分にある
などと
勘違いするのは
傲慢の極みだ。
と、
悲しい結果を
何度も何度も
私は
体験した。
傲慢な自分を
反省するしか
ないのだが、
しかし
傲慢だとわかって
いても、
何とかしたい
ではないか。
目の前の人が
孤独に
陥っている。
孤独が故の
自虐的な
方向に進もうと
している。
それを
渾身の力で
止めたいでは
ないか。
傲慢と
言われようと。
身の程知らずだ
と
言われようと。
その人の
悲しさが
そのまま伝わって
くるのだ。
こんなにも
悲しいのに、
その人自身が
それを
知らない。
そっちは
ダメだって!
と
声を大にして
叫べば叫ぶほど、
その人は
その言葉を
拒絶する。
何とも
ならない。
この悲しみは
その人の
ものなのに、
私はまるで
私のもののように
受け取り、
嘆く。
傲慢だろう。
わかっている。
でも
何とかしたい
ではないか。
でも
何とも
ならんのだ。
私は無力だ
と思うし、
そう思う自分を
本当に
傲慢だと呆れる。
でも
もういいよ。
そんな心が
あるのが
私だから。
こんな悲しい目に
遭っても、
それでも私は
この仕事を
やめようとは
思わない。
これまでも
一度も思わなかったし、
今日も
思わなかった。
きっと
明日も
思わないのだろう。
どれだけ
何ともならんのだ
と
わかっていても、
それでも
何とかしよう
と
思ってしまう。
何者だ?俺は
と
自分を罵りながらも、
そんな自分を
止めようと
しない。
疲れるだけだと
わかっていても、
それでも私は
その人の
悲しみを
手放すことができない。
呆れた
ものだ。
自分に対しても
人に対しても
ホントに。
執着かな?
いや
違う。
これは
願いだ。
祈りだ。
祈りであれば、
祈るしか
ないだろう。
つづく
目も眩むような
怒りがある。
それは
私のものでは
ない。
それは
「人々」のものだ。
人々は今
怒っている。
真本音の怒り
だ。
その中心に
あるものは、
自己が消滅してしまう
のではないか、
というくらいに強い
進化への欲求
だ。
私のことなど
どうでもいい。
・・・乱暴に書くと
そんな意志を
感じる。
しかしそれは決して
自己犠牲では
ない。
それは
「すべてを生かす」
ための想いであり、
自分の生命を
本当の意味で
燃やし活かす
ための想いだ。
私のことなど
どうでもいい。
となって初めて
覚醒する自分が
いる。
本来の自分が
そこにいる。
その
本来の自分が
怒っている。
自分自身に対して
怒っている。
なぜ、
そんなことに
こだわるのだ?
なぜ、
ここであえて
止まるのだ?
なぜ、
止まっていることを
誤魔化すのだ?
なぜ
そこまでして
いい格好をし続けるのだ?
と。
「本来の自分」を
そこまで怒らせて
しまった自分を
反省するといい。
「反省」とは、
自己評価ではない。
自己を評価している
場合ではない。
「反省」とは
悔恨の心と
向き合うことだ。
自分自身の
最も深いところにある
悔恨を
あるがままに
見つめ
対峙することだ。
これをせずして
あなたはあなたの
本当の気持ちを
知ることはない。
本当の祈りに
気づくことはない。
もう
誤魔化すな。
自分自身を。
つづく
祈りとしての
怒り。
そんなものが
ある。
私が
「真本音の怒り」
と
表現しているものだ。
真本音自体には
感情はない。
真本音とは
自分自身と
自分の周りの現実の
すべてを
あるがままにただ
観察し、向き合い
続けている存在だ。
しかし、
真本音は
反応本音と
結びつく。
本来、反応本音とは
現実世界において
調和しながら生きるために
真本音が生み出したものだ。
真本音と反応本音は
仲間。
会社で言えば、
真本音が「創業者」と
するならば、
反応本音は
「創業者に共感して
集まってきた仲間達」
だ。
そんな真本音は
反応本音を
活用する。
反応本音と共に
歩む。
その中で、
今は「怒り」という反応本音と
共に進もう、
と
真本音が決めた時に
「真本音の怒り」
は発生する。
それは
真本音と反応本音の
コラボの一つの
カタチだ。
もし、
自分の中に
言いようのない
激しい怒りがあれば、
その中心を
見つめてみてほしい。
その中心に
光はあるだろうか。
その中心に
輝きはあるだろうか。
もしそれを
感じることができるなら、
その光(輝き)は
自分自身の祈りだ。
祈りに基づいた
怒り。
それが
真本音の怒りだ。
これが生まれた時は
決して
その怒りを
抑えてはならない。
怒りを
開放する方向に
進めば、
そこから
真の調和が
始まるんだ。
つづく
自分の未熟さを
呪う時間があれば、
それを
祈りに変えるといい。
悔しさも後悔も、
自分自身への
蔑みも、
罪悪感も、
すべて
祈りに変えることが
できる。
ビジネスにおいては
「祈り」という言葉は
ほとんど使われる機会は
ないが、
しかし私は
本当に真剣に
ビジネスに取り組んでいる
人達からは
いつも「祈り」を
感じ取る。
それは飽くなき
成長意欲でもある。
もちろん
我欲ではないし、
自己満足でもない。
関わる人達に、
例えば、
お客様達に、
もっともっと上質な
価値を、
もっともっと広い範囲で
提供し続けたい。
それにより
もっと深い喜びが
世の中に
広がりますように。
・・・あえて言葉に
すれば、
こうなるだろうか。
そのあまりにも
純粋な想いを感じる時、
私にはそれが
「祈り」の感覚として
実感できる。
ビジネスはもちろん、
ボランティアではない。
ボランティアでは
ないからそこに
純粋さはない、
と
短絡的に考えることは
愚かだ。
純粋な想いが
きちんと
事業としての発展に
繋がっていく、
そのような形となって
現出していく
その様は
芸術的ですらある。
やはりそれは
「祈りの結晶」だ。
「祈り」という言葉自体は
自覚していなくても、
それを
当たり前のように
毎日し続けている人は
間違いなく
増えている。
特に
若い人達に
それを私は感じる。
もちろん
年齢ではない。
しかし、
初めて会った瞬間に
「祈り」を感じる
若い経営者は
確かに増えている。
それは
希望であると
私は思っている。
彼らは
自分自身の現時点での
不甲斐なさを
本当に呪う。
自分を
責める。
そこまでしなくても
よいのに、と
思うのだが、
しかしそれも
人間だ。
実に
人間らしい。
そして
私達人間には
全員、
そういった呪いのような
心を
祈りに変換する力が
ある。
そんなサポートが
できたらいいな、と
最近は
特に強く思っている。
つづく
少年が佇んで
川を見つめていた。
太陽が沈み、
日が翳り、
少年の表情も
もうすぐ
見えなくなるだろう。
だから私は
今のうちに
彼の横顔を
じっと見ることにした。
私は彼の
横顔が
好きだった。
少年は
私から見られているのを
まったく気にもせず、
ただ
川を見つめ続けた。
少年には
夕日の赤が
よく似合った。
これから
人生に繰り出して
行くはずなのに、
まだまだ
スタートラインから
それほど進んで
いないのに、
なぜか彼には
夕日の赤が
よく似合った。
悲しげな
表情が
似合っていた。
君はここまで
いったい
何を見てきたの?
そう
問いかけたく
なるのだが、
いつも私は
口をつぐんだ。
彼の悲しげな
顔の
その一枚奥には、
とてつもない
意志を
感じるからだ。
何をどう
話しかけても、
少年のその意志を
汚してしまう
気がした。
だから私は
じっと彼を
見つめるだけに
した。
少年は
佇んでいた。
夕日の赤が
とてもよく
似合っていた。
・・・・・・
彼はきっと
何も知らないのに、
すべてを
わかっていた。
これまでの
彼の歩みに
降りかかってきた
ことも。
これから彼の身に
起こるであろう
未来も。
自分だけでは
ない。
他人の痛みも
喜びも
すべてを
彼はわかっていた。
なぜ自分が
また
ここにいなければ
ならないのか。
それを見つめる時、
どうしても
その悲しげな顔に
なってしまう
という
その事実さえも
彼はよく
わかっていた。
少年の目に映る
その川と、
彼は自分の区別が
ついていないのだろう、
と
私は思った。
彼は
川であり、
そして
彼は彼で
あった。
その、
誰も感じることのない、
悲しさを
彼は確かに今、
感じているのだろう。
それがわかる分だけ、
私は彼に
何もできないでいた。
・・・・・・
少年の意志の
強さを、
私は恐らく
誰よりもよく
知っている。
だから私は
少年と共に
いる。
少年の隣に
立ち続けている。
私は彼を
支えるのだろうか?
いや、きっと
支えなくとも
彼は
歩んで行くのだろう。
私は
祈ればよいのか?
彼のために
祈り続けるだけで
よいのか?
恐らく彼は
それすらも
望んでいないだろう。
大人になった彼は
きっと
私の存在に
気がつき、
きっと笑顔で
私に言うのだろう。
ずっと
そこにいて
くれたんだね。
ありがとう、
と。
その日が来るまで
私は、
ただそっと
彼の隣に
立ち続けよう。
つづく
もし
自分という人間の
すべての中心が
たった一つの
「祈り」だとしたら、
あなたの中心にある
「祈り」とは
何だと思いますか?
祈りとは、
言葉で表現すれば
「〜〜しますように」
ということになります。
この「〜〜」の部分に
あなたの場合は
何が入ると思いますか?
これ。
結構、究極の問いだな、
と思うときが
あります。
たくさんの人と
向き合っていますと、
ある時ある瞬間に
その人の「祈り」を
ダイレクトに
感じることがあるのです。
しかしそれはもちろん
上記のような言葉として
表現できているわけでは
ありません。
それはまるで
エネルギーの塊のような
もので、
それがダイレクトに
こちらに向かって
きます。
そして、
私自身の祈りに
ダイレクトに突進し、
混ざり合い
融合し合い、
一つになったかと思いきや、
すぐに新たな
波のような
渦のような
竜巻のような
すごいエネルギーが
湧き起こり、
それが上昇し
それが私の全身を
包み込み、
私はその渦に巻き込まれながらも
それがとてつもなく
心地よく、
その心地よさの中で、
その人への「問い」が
浮かび、
その問いをその人に
投げることで、
その人は突然に
一気に脱皮をする
という、
・・・実はこんなことが
よく起こります。
祈りと祈りの
共鳴、響鳴。
祈りが祈りを
コーチングする。
祈りと祈りが
共に何かを創り合う。
そんな感覚です。
私はよく
「願い」という言葉を
使いますが、
すべての人の「願い」の
中心には
「祈り」があるのではないか、
と
そんな時はいつも
思うのです。
・・・・・・
あなたの祈りは
何だと思いますか?
それが
中心にある祈りなのかどうか、
は別として、
あなたが心の中で
呟くことで、
あなた自身の心が
豊かになる感覚の、
そして、
静かにエネルギーが
高まっていく感覚の
祈りの言葉を
見つけることは
かなりオススメです。
その祈りを
毎日、いつでもどこでも
呟き続けることで、
私達は
「本来の自分に戻る」
感覚を得ることができます。
その感覚で
一つ一つの自分の行動を
していけば、
真本音度合いは
かなり高まるでしょう。
日本人は
無宗教な国だと
よく言われますが、
宗教を信じるとか
信じないとか、
そういったこととはまったく
別の次元で、
自分の中にある
祈りを
自分自身で大切にすることは
とても
健康的なことであると
私は思います。
つづく
<ご案内>
自分の中心を自ら見つめることが
できる自分になりませんか?
自分と向き合う力を
高めましょう。
ご興味ありましたら、
以下の無料動画をどうぞ。
↓↓↓
『人生を真剣に生きたいあなたへ』
昔の私はですね、
実は、
大変におこがましい
「夢」
を持っていました。
それは
何かと言いますと、
「すべての人々を
幸せにする」
というのが
夢だったんです。
おこがましいでしょ。
でも、
この夢を持ったのは
確か
中学2年くらいの時です。
当時の私は、
自分は世の中で
最も劣った人間だ、
と思い込んでいました。
つまりは、
劣等感の塊でした。
でも
その一方で、
親父とお袋が小さな
会社をやってまして、
毎日毎日
真剣に神棚に
お祈りをしているのを
見ており、
真似事みたいな感じで
自然にお祈りを
するようになったのですね。
普通の
神棚です。
でもそこに毎朝、
私も手を
合わせました。
その時の私の
心の中のお祈りが、
「世の中のすべての人が
幸せになりますように」
だったんです。
そして
中学3年くらいの時かな。
それにもう一文句が
付け加わりました。
「世の中のすべての人が
幸せになりますように。
そのための第一歩を
私が踏み出せますように」
となったんです。
ものすごくおこがましい
ですが、
でも、本当に真剣に
祈っていました。
これを毎日毎日
ずっと続けました。
続けたからと言って
私は
人のために生きた
わけではありません。
自分のことしか
考えない人間でしたし、
お世辞にも
立派な人だったとは
思えません。
でも、
自分の実際の行動は
どうであれ、
とにかくその祈りを
毎日毎日真剣に
繰り返しました。
恐らくその祈りとは、
自分自身の本来を
呼び覚ますためのもの
であったと、
今の私は思います。
毎日の祈りを
繰り返さなければ、
私は私の真本音と
出会えなかったかも
しれないと
今の私は思います。
「夢」にも
いろいろあります。
でも私にとっての
「夢」とは
祈りでした。
・・・・・・
夢とは
単なる空想である、
という人もいます。
もちろん
そういった夢も
あるでしょう。
でも、
祈りにも似た
気持ちを喚起する
夢を
すべての人は
持っています。
実現できるかどうか?
ではなく、
今の自分がどうか?
とも関係なく、
ただただ
自然に湧き上がってしまう
祈りのようなもの。
そういった
夢もありますね。
株式会社真本音を
立ち上げた時、
ある社長さんから
神棚を
プレゼントしていただきました。
久しぶりに
神棚と向かい合いながら、
あぁあれは、
私にとっての
セルフコーチングの
始まりだったのだな、と
実感しています。
で、
今、神棚と向かい合うと、
当時の私の祈りと
今の祈りは
まったく変わらない。
私は今でも
心から真剣に、
すべての人々が
幸せになりますように、
と祈っているのです。
なんだ、これは
私の真本音だったのだな
と、
今、改めて思います。
・・・・・・
すべての人々が
幸せな世界。
それは本当に
夢物語のようです。
でも
もし本当にそのような
世界を実現できたら・・・、
と思うと、
ワクワクします。
幸せは
人それぞれです。
それぞれの
幸せを感じればいい。
でも、
高い次元では
すべての人の幸せは
「一つ」です。
「一つ」の幸せ。
「それぞれ」の幸せ。
その両方を
大事にしたいなぁと
ホントに思います。
そう
思えるから
しょうがない。
そう
思う自分に
素直でいようと
思います。
自分に素直になるのが
一番ですしね。
・・・・・・
つい先日。
ある一人の人が、
心と魂の中にある
余分なものをすべて
取り払い。
そして別のある人が
心と魂の中にある
余分なものをすべて
取り払い。
その二人が
向かい合って、
長年のわだかまりを
すべて解消して、
心と魂の絆を
結び直す、
という場面に出会いました。
その日は
一晩中、
私は嬉しくて嬉しくて
泣き続けました。
やっぱり、
人が本当の幸せを
手に入れた瞬間と
出会うと、
私は自分が「人間」であることに
心の底から
誇りを持ち、
最高に嬉しくなるようです。
今のこのお仕事は
そういった機会を
毎日のように
与えてくれます。
このお仕事に
出会えたことに
感謝感謝ですし、
でも、
このお仕事に出会えたのは
中学2年からの
私自身の祈りのおかげかな、
とも思います。
「夢」
大事にしましょう。
祈りにも似た「夢」が
誰にもあります。
それが実現できるかどうか?
とか、
今の自分がどうか?
とか、
そんなことは関係ない。
祈りにも似た「夢」が
あるならば、
それを毎日、
祈りましょうよ。
私はこれからも
毎日
祈り続けます。
つづく
人の本能の中心には
「進化」
があります。
・・・ということを私はよく
言いますし、
このブログでも書いてきました。
では、
進化の中心とは
何でしょうか?
これを言語化することは
非常に難しいのですが、
現時点でこの世の中で
一般的に用いられている言葉の中で
最も近いものを選ぶとすれば、
『祈り』
となります。
「祈り」と書くと、
途端に宗教チックになったり
スピリチュアルな臭いがしますが、
でもやはり、
最も近い言葉はこれかな。
これまでのブログでも
何度も書かせていただきましたが、
私はもともと
ひどい人間でした。
いまだに、
かつての私以上に
反応本音やエンティティの凄い人に
出会ったことがありません。
かつての私以上に
執着の凄い人に
出会ったこともありません。
あのままの私でもし
進んでいたら、
私は間違いなく私の命を
絶っていたでしょう。
その場合、だいたいいつくらいに
それをしていたかも
今となってはリアルに
わかります。
恐らく10年以上前に
私は自分が自分でいることに
耐えられなくなっていたと
思います。
そんなにひどい私でしたが、
幸いなことに
自分の真本音を実感する
瞬間に出会えました。
それ以降、
私は私の人生理念を
「向き合う」
という言葉として設定し、
何があっても
どんな状況でも
自分自身と向き合い続けることを
誓いました。
激しい反応本音達。
目もくらむような
エンティティ達。
(エンティティとは、
ある一定以上の濃度に高まった
ストレスの集合体を言います。
日本語に訳せば、
「生き霊」となります。
そう書くと、怖いですが、
すべての人にエンティティは
あります。常に。)
それらと向き合うことは
吐き気をもよおすなどという
生易しいものでは
ありませんでした。
でも私はそれを
それこそ取り憑かれたように
毎日続けました。
その結果たどり着いたのが
「祈り」
でした。
私は私の中心に
確固たる「祈り」があることを
ついに自覚ました。
その「祈り」とは
言葉になるものでは
ありません。
しかし確かにそれは
「祈り」です。
「祈り」は永遠に
続くものです。
何かが達成されることで
成就するものでは
ありません。
しかしその「祈り」に
触れるだけで、
すべてが満たされる
気がしました。
私は
自分自身と「向き合う」のと
同じくらいの真剣さで
私以外の人々と
「向き合う」ことを大切に
しました。
多くの方々から
毎日、多くのストレスや
エンティティを
受け取りました。
これも私の宿命なのですが、
私ほど、
他者のストレスやエンティティを
自らの中に吸収してしまう人も
まだ一度も見たことが
ありません。
その人のエンティティを
受け取ると、
私はその人が苦しんでいるのと
まったく同じ苦しみの感覚を
覚えました。
その人が実際に
何に悩んでいるのか?までは
当然わかりませんが、
その人の苦しみそのものは
感覚として、その通りに感じるのです。
これが私の体質でした。
100人の研修を行なえば、
100人の苦しみを
私はいつも受け取って
きました。
それらとすべて
向き合い続けてきました。
向き合うことで
それらはすべて浄化される
のですが、
その浄化をするために
朝まで眠れなかった日など
数えきれないほどあります。
というか、
それが日常化していました。
私自身の苦しみ。
人間の苦しみ。
それらのすべてと
向き合い続けることが
私の宿命なんだと
完全に(良い意味で)諦めたのが
2007年のことです。
私には
何もできない。
人を救うなんてことは
当然できないし、
世の中をどうとかしようなどとは
おこがましい、の極致だ。
しかし、
私はただ
「向き合う」ことを
し続けよう。
私にできる最大の行為が
「向き合う」ことだ。
・・・そう決めて、
とにかく
「向き合う」ことに徹し、
それのみをしよう、と決め、
あとは自分の中から
あらゆる「思惑」や「意図」を
手放しました。
するとようやく
実感できたのです。
あぁそうか。
すべての人の中心に
「祈り」
はあるのだな、と。
それは決して言葉にすることは
できないけれども、
それを大切にした生き方の
できている人は
その人の心も人生も
満たされるのだな、
と。
「真本音」とは、
その人の「祈り」から
発せられる全意識です。
「祈り」に基づいた
生き方をするのか?
それとも
それを自ら裏切る
生き方をするのか?
それにより、
その人の人生の
「満たされ度合い」は
根底から変わります。
どれだけ
現象レベルでの成功を
手に入れても、
その人が自らの「祈り」に
沿わない生き方をしている以上、
その人が真に
満たされることは
永遠にありません。
であれば逆に、
自分の「祈り」に基づいた
人生を送ること。
「祈り」に基づいた
ビジネスを展開すること。
それができれば
どんなに良いだろう。
どんなに
幸せだろう。
これが私の
サポートのすべてです。
人が、
自らの、言葉にならない
「祈り」を実感し、
それを大切にした生き方や
仕事の仕方や
ビジネスの展開が
できるようになる姿は
私のエネルギーの源泉です。
そんな人を
一人、また一人と
増やしていきたいというのが
私がここにいる理由の
すべてかな。
つづく