解釈

その試練に意味はある?

 

あぁ、なるほど!

と思う。

 

そういうことか、

と。

 

あとですべて

合点が行く。

 

そんな瞬間が

来る。

 

私はその瞬間が

来るまでは、

物事の意味を

あえて

考えないようにしている。

 

よく、

前向きに物事を

捉えようとする傾向の人に

多いのだが、

 

どんな物事にも

意味を見出そうと

する。

 

それ自体は

大事なことだが、

それを

頭で解釈しているのは、

実は

オススメできない。

 

確かに

物事には意味が

ある。

 

その意味を摑むことも

大事だが、

それは「解釈」すること

ではない。

 

むしろ

解釈することで、

本来の意味とは

別の意味を

自ら見出し、

本来学ぶべきことを

学ばずして、

 

もしくは

学んだつもりになって

 

次の一歩に向かって

しまう。

 

そしてそれにより

様々な不調和が

起こる。

 

極端な例だが、

以前に

ものすごく体調不良に

悩まされている人がいて、

 

しかしその人は

「この体調不良には意味が

あるんです。

ここをしっかりと乗り越えなさい

という思し召しなんです」

言われていたが、

 

私は思わず、

「早く医者に行きなさい」

言わざるを得なかった。

 

前向きな人は

特に、

「試練」を意味あることとして

必然的なものとして

前向きに捉えようと

する傾向が高いが、

 

それも大事なんだけどね、

でもあえて

極端に言うよ、

 

そんな、

試練ばかりに向かうよりも

もっと

楽な道を行こうよ。

 

あえてもっと

極端に言っちゃおう。

 

試練にわざわざ

向かうなんて、

暇なんじゃない?

 

・・・と。

 

試練探しをして

自己満足している人は

残念ながら

多い。

 

物事に意味を見出そうと

する人ほど

その傾向が高いのは

本当に残念だ。

 

しかし。

 

私達にはもっと

やるべきことが

あるのではないか?

 

もっと

そんなことよりも

全力を尽くすべきことが

あるのではないか?

 

自分自身との

(自分の真本音との)

約束があるだろう。

 

人生の願いが

あるだろう。

 

そこに

向かおうよ。

素直に。

 

そして、

真剣にそこに

向かおうとする人は、

常に、

 

真剣に

最も楽な道を

見出そうとする。

 

そして

一つ一つの物事、

自分に降りかかる

あらゆる現実を

 

真摯に

受け止める。

 

真摯に受け止めはするが、

解釈はしない。

 

ただ、

受け止めるだけ。

 

それをすれば、

ある時ある瞬間に

必ず

「わかる」ときは来る。

 

あぁなるほど、

そういうことだったか、

と。

 

これも一つの

人生の醍醐味では

ないか。

 

つづく

 

苦しんだり、喜んだり

 

今日は冷たい雨が

降っていたね。

 

私は日帰りで

出張だったのだが、

 

電車を降りて

駅のホームで

少し震えながら

冷たい雨を

見ていたら、

 

今日という一日

とても愛おしくなった。

 

今日も昨日も

一昨日も、

何人もの人と会い、

向かい合ったが、

 

皆、それぞれに

辛さ

を持っていた。

 

その辛さとは

ほとんどの場合、

その人の

価値基準が

生んでいる。

 

これは

正しい。

 

これは

間違っている。

 

本当は

こうなることが

正解だと思うのに、

なんで物事は

こうなってしまうんだ!

 

という

憤りの苦しみ。

 

本当は

こうあるべきなのに

なんであの人は

わかってくれないんだ!

 

という

悲しみの苦しみ。

 

それは

物事や人に

向けられるばかり

ではなく、

 

自分自身にも

向けられる。

 

正しい。

 

間違っている。

 

ここは正しいが、

ここは違う。

 

なんで私は

こんなに

間違ったことを

してしまうんだ!

 

と自分を

責め続ける。

 

ほとんどの

人は、

自分の解釈に

よって

自分を

苦しめている。

 

それを

「幻影」と言い、

 

それは

本当の苦しみ

ではないのだが、

 

私達人間の

苦しみのほとんどは

その、幻影

である。

 

だからもう

そんな苦しみは

しなくていい、

ということを

言いたいのでは

ない。

 

そういった

私達人間の営み

そのものが

妙に

愛おしくなったのだ。

 

一日は、

解釈と共に

始まり、

 

解釈と共に

終わる。

 

人は

解釈によって

喜び、

解釈によって

苦しむ。

 

その世界

そのものを

愛おしく

思ったのだ。

 

冷たい雨だから

嫌だなぁ、

というのも

解釈。

 

雨の中

歩きたくないなぁ、

なんで

出張の日に限って

雨なんだ、

という解釈。

 

こんな日は

きっと

ひどいことが

起こるに違いない、

という解釈。

 

そう思っていたら、

素敵なことが

たくさん起こり、

逆にとても

嬉しくなった。

 

これも

解釈の成せる技。

 

人間って

面白いね。

 

正しいと

思うことは

受け入れて、

 

そう思えない

ことは

受け入れない。

 

それって

まったく

自由じゃない。

 

これをきっと

不自由

と言うのだろう。

 

本当の

自由とは、

 

正しいとか

間違っているとか

関係なく

すべてを

受け入れること。

 

受け入れる

とは

肯定する

ことではない。

 

ただ、

受け入れるだけ。

 

すべてを

受け入れて、

その上で

次の一歩を

決めること。

 

そういった人の

人生には

きっと

多くの選択肢が

観えてくるのだろう。

 

しかし

そうなれない自分が

ここにいて、

 

実際には

不自由な中で

毎日

苦しんでいる。

 

理屈では

わかっていても

どうにもならない。

 

人間って

大変だ。

 

でも、

面白い。

 

面白がるのが

受け入れる

ということかな?

 

なんか

全部ひっくるめて

愛おしくなった。

 

今日という

一日が

愛おしくなった。

 

うぅ〜、

さみぃ・・・。

 

つづく

 

いいかげんにやめなさい

 

目の前に

「現実」があるのに、

 

その「現実」が

まったく見えなく

なることがあります。

 

見ているのは、

ただの「雲」。

 

しかもそれは

心の中の「雲」。

 

心の淀み。

 

そうなると

私達は、

その「雲」に勝手に

「映像」を

映し出します。

 

「映像」とは

私達の勝手な

解釈によるもの

です。

 

自分の解釈によって

創り出した映像を

自分で眺め、

 

それが

事実であると

思い込み、

 

その映像に即して

私達は

次の行動を

決めてしまいます。

 

それにより、

不調和が

発生します。

 

しかも

それをしているのは

自分だけでなく、

相手も同じ。

 

自分も

相手も

それぞれが

勝手に創り出した

映像に基づいて

お互いの関わり方を

決めます。

 

不調和が起こる

のは

当たり前ですね。

 

・・・・・・

 

私達人間にとって

解釈は

もちろん必要な

ものですが、

 

事実を解釈する

ならまだしも、

解釈によって

生み出された幻影を

解釈し、

 

さらにその解釈を

また解釈し、

 

・・・を繰り返せば、

それはそれは

苦しい人生に

なります。

 

解釈とは本来、

より良い人生に

なるために

あるものなのに、

 

解釈によって

苦しみが増すのは

実にもったいない

ことです。

 

自らの解釈によって

自らを

がんじがらめに

する。

 

「自分」という

人間さえ、

解釈の賜物

だったりします。

 

自らの解釈で

自らの個性までも

固めてしまう。

 

コリコリに

固まった自分が

「夢を持って

進む」

ということをしても、

 

それはもう

コリコリに

固まった人生

でしかありません。

 

「夢がわからない」

という人もいます。

 

コリコリの自分からは、

当然ですが、

夢も願いも

生まれません。

 

・・・・・・

 

「私はこういう

人間ですから」

 

という言葉を、

いったい私は

何百回、何千回

聴いたことでしょう。

 

多くの人が

まるで

確信を持ったかの

ように、

そう言うのです。

 

「私はこういう

人間ですから」

 

それを言って、

喜ぶ人が

一人でも

いるでしょうか?

 

自分も含めて、

誰も喜ばない

言葉です。

 

でも、

「私はこういう

人間ですから」

が、

唯一の

安全地帯であるかの

ように、

その人は

解釈しています。

 

・・・・・・

 

ピコン、ピコン、・・・

カラータイマーの

鳴っている人が

多いです。

 

本当は、

太陽エネルギーは

そこかしこに

あるのに。

 

エネルギーは

どこにいても

補充できるどころか、

 

常に

満タン状態で

生きていくことは

できるのに。

 

なのに、

「自分はこういう

人間ですから」

と言いながら、

 

エネルギーを

自分自身で

枯渇させています。

 

そのうちに、

本当に

エネルギーが

切れてしまいます。

 

エネルギーが

枯渇して

しまっているのは、

 

世の中の

せいでは

ありません。

 

状況の

せいでも

ありません。

 

他の誰の

せいでも

ありません。

 

自分の

生き方の

問題です。

 

自分が

変わるしか

ないのです。

 

いえ、

自分が

本来の自分に

戻ろうとする。

 

たった

それだけの

ことなんです。

 

つづく

 

あなたは、あなたが知るあなたではない

 

あなたの

胸の中心に

大事に抱き続けている

願いとは

何でしょうか?

 

あなたは

その願いに

いつも意識を

向けていますか?

 

毎日、

ほんの少しずつでも

その願いに

近づいていますか?

 

自分を

自由にする。

とは、

願いに素直になる

ということです。

 

今の自分を

自分で評価し続け、

今の自分を

基準に

未来を決めるよりも、

単純に

自分の願いに素直な

今日を生きてみる。

 

ということを

一日一日

続けることで、

私達は

本来の自分自身を

開くことができます。

 

・・・・・・

 

あなたは

自分が好きですか?

 

自分が嫌いですか?

 

自分のどこが

嫌いで、

自分のどこが

好きですか?

 

・・・なんてことを

一度、

考えるのを

やめませんか?

 

多くの人が

「自己評価」を

し過ぎです。

 

もちろん

自己評価は大事

ですが、

それを

「今の自分の解釈」

によってしても

実はほとんど

意味がありません。

 

よく、

自分の短所を直す

よりも

長所を伸ばした方が

いい、

と言われますが、

 

ちょっと極端な

ことを言えば、

 

そんなことは

どうでもいいじゃない、

私は時々

言いたくなります。

 

そんなことよりも、

自分の

真本音の願いに

素直に

今日を生きることだけ

してみれば

いいじゃない、

と。

 

ちょっと乱暴な

言い方ですけどね。

 

でも、

願いに生きれば、

自分という人間は

ある時ある瞬間に

とてつもなく大きく

変貌することが

あるのです。

 

明らかに

それまでの自分の

延長線上にはない

まったく新たな自分が

一気に花開くのです。

 

自己評価を

解釈によってし続け、

それを指針にしていては、

その開花は

一生起きません。

 

人間とは

もっともっと

奥の深いものです。

 

私達自身の

解釈の尺度を

超えた存在なのです。

 

自分と向き合う

とは、

自己評価することでは

ありません。

 

自分を

解釈することでは

ありません。

 

あるがままの自分を

ただ見つめること。

観察することが

基本です。

 

あるがままに

見つめれば、

必ず、

あまりに強烈な

あなた自身の願いに

気づくはずです。

 

あなたは

「願いが服を着て

歩いている」

存在なのです。

 

すべての人が

そうなのです。

 

解釈の人生から

願いの人生へ。

 

そろそろ

人生のシフトチェンジを

してみませんか?

 

つづく

 

オープンな生き方をしましょう

人の声に

耳を傾ける。

 

本当にこれが

できる人は

素敵です。

 

ところが、

傾けているつもりで

まったく人の話を

聴いていない、

という場合があります。

 

というか、

ほとんどがそれです。

 

なぜなら

私達には自分自身の

「解釈」

というフィルターが

あるからです。

 

人が何をどう

伝えようとも、

どうしても自分の

フィルターを通してしまう。

 

これが

私達人間です。

 

能力が高まり、

経験と実績が高まり、

人望が高まり、

・・・そういった状態に

なればなるほど、

いつの間にか、

自分の解釈の権化に

なってしまいます。

 

私自身も本当に

ここだけは

気をつけています。

 

気をつけていても

知らないうちに

裸の王様になっていた

ということが

何度もあります。

 

そういった時、

周りの人達は

決して自分には

反対意見を言いません。

 

ほぼみんなが

イエスマンになります。

 

私は私自身に

反対意見を言ってくれる人が

いなくなった時に

とても注意をします。

 

そして、

常日頃から

私と接してくれている

人達が、

どのような空気感と

眼差しで

私を見てくるか?を

注意します。

 

本当に私といて

みんなは

幸せなのだろうか?

という視点で

できるだけあるがままを

感じ取ろうとします。

 

・・・・・・

 

セルフコーチングの

素晴らしいところは、

自分自身の心の声に

耳を傾ける

というところです。

 

自分の心の声を

あるがままに聴く

というのは、

実は結構難しいのです。

 

なぜなら

他の人との関係と

同じく、

私達は自分自身の心の声

に対しても

解釈のフィルターを

つけてしまうからです。

 

自分の心なのに、

自分でフィルターを

通すのですよ。

 

ですから、

多くの人達が

自己理解ができて

いません。

 

自分自身のことを

誤解していますし、

現実とは違う

自己イメージを

持っています。

 

自分のことなのに

自分が一番わかっていない、

というのも

私達人間の特徴の

一つです。

 

ですから、

セルフコーチング力が

高まることで、

自己理解が進みます。

と同時に、

そこで培った

「あるがままを受け取る力」

は、

対人関係においても

活きてきます。

 

つまり、

セルフコーチング力の

高い人は、

人とのコミュニケーション力も

高くなるのです。

 

・・・・・・

 

少し言葉を変えれば、

 

自分と向き合うことの

できる人は、

人とも向き合うことが

できる

 

ということになります。

 

「向き合う」とは

あるがままを受け取れている

状態です。

 

そして人生は、

あるがままを受け取れて

こそ、

本当の面白味も

醍醐味も

味わえます。

 

自分の解釈のフィルターを

バリバリに

張り巡られている

ということは、

要するに

自分の世界の中に

閉じこもっている

ということです。

 

自分という狭い世界に

閉じこもったままで

人生を進むのと、

すべてをオープンにし、

広い世界をそのまま

感じ取りながら

人生を進むのとでは、

当然、

人生展開も幸せ度合いも

満足度合いも

根本的に変わります。

 

オープンな生き方を

しましょう。

 

それが自分を

生かすということです。

 

そのためにも

まずは自分と向き合う

ことが大切ですね。

 

つづく

頭で解釈せず、体に問う

後悔した出来事があると、

私達はできれば後悔の念を

「なかったことにしたい」

と思います。

 

その結果、

その出来事に後から

様々な「解釈」を

つけたりします。

 

「あれは

しょうがなかったんだ」

 

「不可避な流れで

自分にはどうしようも

なかった」

 

「別の選択もあったとは

思うが、

あれはあれでいいのだ」

 

などなど。

 

時には、

 

「あの出来事には

これこれこのような意味が

あったのだ。

だからそれでいいでは

ないか」

 

「あの出来事によって

自分はこんな成長が

できた。

だから良いではないか」

 

などのように、

自分の「解釈」によって

その出来事を

肯定的に捉えようと

する場合もあります。

 

「解釈による肯定化」

 

・・・は、ダメです。

 

最も

やってはいけません。

 

これを

クセのようにいつもいつも

し続けている人がいますが、

そういった人ほど、

心の奥にストレスが

溜まり続け、

気がついた時には

体を壊す寸前、という人も

私はこれまで数多く

出会ってきました。

 

「解釈」とは

顕在意識レベルで

頭の中での無理な

変換をしているだけの

行為です。

 

物事の捉え方を

変えてみたり、

別の角度から

物事を見つめること

自体は

大事です。

 

しかし、

自分を説得するかのように

顕在意識のみで

強引な解釈をし、

それを「答え」とするのは

本当に

やめた方がよいです。

 

顕在意識のみを

解釈によって

捻じ曲げても、

それ以外の私達の

意識は

納得していません。

 

しかも

体は正直です。

 

頭の解釈を

どれだけ変えても

苦しいものは

苦しいのです。

 

むしろ、

頭の解釈を

強引に変えることで

その苦しみは

倍増します。

 

「前向きに生きる」

とは、

解釈を変えることでは

ありません。

 

・・・・・・

 

『セルフコーチングを使った

良い後悔の仕方』

 

の続きを行きます。

(→前回記事)

 

私達が

私達自身の最も素直な

気持ちを知るためには

体の反応を観るのが

最も簡単です。

 

後悔した出来事を

ありありと思い出した時、

体のどの部分に

どのような反応が出るか?

をまずは

特定しました。

 

そしてその反応の出た

場所に

じーっとただただ

意識を向け続けます。

 

例えば、

両肩が重い、

という反応があった場合、

その両肩にのみ

意識を向けます。

 

これを続けると、

その両肩に

さらに

何かを観たり、

何かを感じたり

するようになります。

 

例えば、

両肩に黒い大きな

岩のようなものが

乗っかっているイメージが

自然に観えたりします。

 

もしくは、

何もイメージは観えなくとも、

両肩に何かが

乗っかっている感覚のみが

ありありと

感じられるかもしれません。

 

そこまでできたら、

その「イメージ」

もしくは

「感覚」に、

問いかけてみてください。

 

「君は

何にそんなに

後悔しているの?」

と。

 

すると、

人によっては

その「答え」が

言葉となって自然に

浮上してくるかも

しれません。

 

例えば、ですが。

「あの時、私は

あんなことを言うんじゃ

なかった」

というように、

まるで会話をしているかのように

答えが返ってきます。

 

もし答えが返ってきたら、

さらにその答えを

理解しようとします。

 

例えば、

「あんなこと、というのは

具体的に

どんなことを

言うんじゃなかったと

思ってるの?」

というように。

 

その会話は

自分自身と会話をする

というよりも、

誰かそこに別の人がいて

その人の話を

聴いている

という感じで進めると

やりやすいでしょう。

 

誰かの相談を

聴いているイメージ

です。

 

これをすることで、

自分自身が

何に最も後悔しているのか?

を特定することが

できます。

 

この

「特定」が

ポイントです。

 

実は、

ここがずれている人が

かなり多いです。

 

「私はあの出来事を

すごく後悔しているんです」

と言いながら、

その後悔のポイントが

ずれているのです。

 

本当の後悔を

見つめることを

無意識に拒絶するために

このようにポイントを

ずらしてしまっているケースが

多いようです。

 

ずれたポイントに対して

どれだけ向き合っても

それでその後悔が

解消されたり浄化される

ことはありません。

 

一つの出来事の中でも、

本当はどのポイントで

私は何を後悔をしているのか?

絞り込むことが必須です。

 

それを頭の解釈で

しようと思っても

無理です。

 

このように、

体の感覚に

問うことで

初めて観えてくるのです。

 

しかし

セルフコーチングに

慣れない内は、

すぐにこのような会話には

ならないかもしれません。

 

その場合は、

問いかけだけを行ない、

あとはただじっと

待つことをします。

 

待っていると

言葉にはならないけれど、

でも何となく

答えが「わかった」

という感覚になることが

あります。

 

何となく「わかった」ら、

それを自分なりに

言語化します。

ここは

頭の解釈でも結構です。

 

大事なのは、

最初から頭で

解釈しないことです。

 

自分の体や

体の感覚そのものに

まずは

「問う」こと。

 

そして、答えを

「待つ」こと

です。

 

つまり、

「問うて、待つ」

というのが、

セルフコーチングの

基本的姿勢です。

 

たとえ

答えがまったく

わからなくても、

それでも

「問うて、待つ」

ことをしてください。

 

これを繰り返していると、

だんだんと

答えがわかるように

なります。

 

今日はここまで

とします。

 

つづく

 

私達は人間であることを見失っていないか

「直観」とはまるで、

過去の出来事を思い出す

かのような感覚で

現れます。

・・・ということを、

前回の記事で書きました。

(→前回記事)

 

なぜなら「直観」とは

高い次元の自分自身からの

メッセージでもあるからです。

 

今、どうすれば良いか?

次の一歩は何が最善か?

 

その答えはもう

私達自身がよくわかっているのです。

正確には、

高い次元の私達自身が

知っているのです。

 

それを思い出すような感覚で

浮かび上がらせながら進むのが、

直観で生きる、ということで、

それは何も特別なことでは

ありません。

 

それが私は

「人が普通に生きている状態」

であると思います。

もしそれができていないのであれば、

今の状態が「普通ではない」

ということです。

 

そういった意味では

私達は

「普通」に戻らねばなりません。

 

「普通の生き方」

に戻すのです。

 

実は、「直観力を高める」ための

方策を一言で表現すれば

そうなるのです。

 

『普通の生き方に戻す』

もしくは、もっと端的に

『普通に生きる』

ということです。

 

では、

現在の私達は

何が「普通ではない」のでしょうか?

 

そのまず根本的な一つは、

「自分のことを

あまりにも見ていない」

「自分のことを

あまりにも知らない」

「自分の心に

あまりに目を向けていない」

「自分とあまりに

向き合っていない」

・・・ということになります。

 

日々のお仕事や生活のために

「すべきことをこなす」

ことにのみに私達は時間と意識を

使っているのではないでしょうか。

 

自分を見つめるよりも

ネットを見たり、テレビを見たり、

人の様子を伺ったり、

人の評価を気にしたり。

 

自分以外の何かに

意識を向け過ぎです。

 

いえ、外の世界に意識を向けることは

大事なのですが、

後々の記事で書きますが、

外の世界に意識を向けているように

見えて実は、それもできていない、

というのが今の私達の状態です。

 

上手く表現できませんが、

「外の世界も見ていないのに、

自分の心にも意識を向けていない」

という状態です。

 

つまりは、

「何も見ていない」

状態と言ってもよいでしょう。

 

これが、

現代人の特徴の一つだと

私は日々、実感しています。

 

私達現代人は、

「何も見ないまま」に

毎日を過ごしているのです。

 

「何も見ないまま」に

ただ、自分自身で勝手な解釈をし、

その解釈が事実であると誤解し、

その解釈に揺らされ

その解釈に脅され

ながら生きています。

 

要するにそれは

「生きている」

とは言えない状態だと

私は思います。

 

どう見ても、

「普通」ではありません。

 

かなりドギツい言い方を

していますが、

決して大袈裟ではないと

思います。

 

何も見ずに解釈のみで生きる

というのは

本当に辛いし苦しい生き方だと

思います。

 

その状態で

「直観」など出ようはずが

ありません。

 

高い次元の自分と

つながれるはずも

ありません。

 

さらにドギツく言えば、

なんか、人間ではない、ような

気さえするのです。

 

人間ではない生き方を

まるでそれが人間の生き方で

あるかのように思い込み

日々を過ごしている。

 

そんな状態。

 

ここを私達は

抜け出さねばなりません。

 

早急に。

 

残念ですが、

これまで様々な組織を

拝見してきましたが、

そのほとんどの組織が

そういった状態でした。

 

そこを「普通」の状態に

戻すのが

私の役割であると

いつも認識していました。

 

私の中では、

「すごい組織を創ろう」

というのとは違い、

「普通の組織になろう」

という感覚です、いつも。

 

普通の人間として、

普通に生きて、

普通にみんなでチームを創り、

普通に共に幸せになっていく。

 

そんな当たり前のことが

できるようになればよいなと

思います。

 

そんな組織が増えることで、

社会全体が

「普通」に戻っていくのではないかと

私は思っています。

 

では、

「普通の生き方」に戻すには

どうすればいいか?

 

次回はそこから

始めます。

 

つづく

 

正義、って重いんだねぇ

私達人間のほとんどの苦しみは

幻影です。

 

幻影と言っても、

実際に起きている現実は、

現実です。

 

しかし本当は、

その現実が私達に苦しみを与えている

わけではありません。

 

現実とは

どこまで言っても

現実でしかあり得ません。

 

その現実をどう受け止めるか?

を私達は自ら決めています。

 

自ら、解釈をしています。

 

その段階で、

自らに苦しみを与えます。

 

例えば、

とても厳しい現実が目の前にあったとしても、

もし似たような経験が過去にあったとすれば、

その人の苦しみは減退するでしょう。

 

自分は過去に、このような現実を

乗り越えたことがある、

という経験は、私達の苦しみを

減退させます。

 

しかしだからと言って、

今の現実が変わるわけではありません。

 

私達の現実を受け止める解釈が

変わるだけのことです。

 

つまり私達は私達自身の解釈により

苦しみを増減させています。

 

「人生は苦しい」

と思う人の多くは、

自分でその苦しみを創り出している

だけのことです。

 

私達はそういった解釈の世界から

脱け出すことが

本当は誰もができます。

 

ただ、現実をあるがままに

感じ取るだけの日々の始まり。

 

するとその瞬間から、

現実はまったく違った世界を

私達に見せてくれます。

 

現実を、あるがままに感じ取ることが

できればできるほど、

私達は、自分自身がいかに自由であるか?

を知ることになります。

 

脱皮をするというのは、

現実をあるがままに捉えられない原因となる

強い解釈の衣を

一つ脱ぎ捨てることである、

という言い方もできます。

 

今、弓江さんは

「正義」という解釈を脱ぎ捨てようと

しています。

(→前回記事)

 

実在レベルで表現すれば、

弓江さんが脱ぎ捨てようとしている

「正義」は、

弓江さんの左足に絡みついています。

それを取り払えば、

弓江さんはその「正義」から自由になれます。

 

しかしそれが

なかなか取れません。

 

「どうすれば、

取り払えそうですかね?」

 

「木村リーダーに

取ってもらおうかな。」

 

「わかりました。

それはなかなか良いアイデアですね。

では木村さんに取ってもらいましょう。」

 

思わず、木村さんが言います。

「えっ、私にできますか?

どうすればいいんでしょう?」

 

「簡単ですよ。

今、弓江さんが言われた“正義”は、

単なるイメージではなく、実在です。

ですから木村さんにもわかるはずです。

意識を弓江さんの左足に

向けてみてください。

何か見えませんか?」

 

「見える、というよりも、

確かに何か異物があるような

感覚がありますね。」

 

「それで充分です。

木村さん、その異物は

どうすれば取れると思います?」

 

「えっ? ・・・そうですね。

どんなやり方でもいいですか?」

 

「もちろん、いいですよ。」

 

「私が、私の手ですくい上げても

いいですか?」

 

「できそうですか?」

 

「はい。」

 

そう言われた木村さんは、

弓江さんの左足の踵の近くに手を伸ばし、

一気にその「正義」をもぎ取ってしまいました。

 

「あっ、軽くなった!」

 

と弓江さんがびっくり。

 

「たけうちさん、

今、私の両手にその“正義”がありますが、

これ、どうしたらいいでしょう?」

 

「どうされたいですか?」

 

「たけうちさん、

受け取っていただけます?」

 

私は笑いました。

 

「しょうがないですね。

じゃあ、私がいただきます」

と言いながら、

私は、木村さんから弓江さんの「正義」を

受け取りました。

 

ド〜ンと腰の辺りが

重くなりました。

 

実はこういった展開、

しょっちゅうあるんです。

 

私はよく、

脱皮をした人の古い皮を

受け取ります。

そして浄化をします。

 

その古い皮があまりにも重く、

苦しいものであればあるほど、

私の場合は、腰に来ます。

 

まるでギックリ腰になったかのような

感覚が来るのです。

場合によっては

立てなくなってしまうこともあります。

 

それだけその古い皮は

その人にとって重いものであった

ということです。

 

これは「イメージ」の話ではありません。

あくまでも「実在」の話ですので、

こういったことが起こるのです。

 

そして、重い皮をもらうたびに、

私はいつも思うのです。

 

人間というのは、

こんなに重いものを抱えながら

生きているんだな、と。

 

つづく