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目の前に
船がある。
船と言っても、
ボートのように
小さい。
しかも
よく見ると、
泥でできているのでは
ないか、
と
思うくらいに
不安定で弱々しい。
こんな船で
荒海に飛び出せば、
一発で
沈んでしまいそうだ。
命の保証は
ない。
普通であれば
こんな船、
絶対に乗りたくない
のだが、
でも、
私の魂が
「ここに乗るのが
私だ」
と
ほざいてやがる。笑
・・・こんな場合
私はどうするかと
言うと、
迷うことなく
その船に乗る。
たとえ沈んでも
恐らく
(本当に、恐らくだが)
後悔はしない。
・・・・・・
目の前に
船がある。
今度は
「超」がつくような
豪華客船だ。
最新型だ。
遊ぶ施設も
充実してそうだ。
毎日、
美味しい料理も
満喫できそうだ。
快適な日々が
過ごせそうだ。
こんな船で
世界一周できたら
さぞかし楽しいだろうなぁ、
と思う。
そんな人生
いいなぁ、
と思う。
でも、
私の魂が、
「この船には
乗らない」
と言えば、
私は決して
乗らない。
多分、
(本当に、多分だが)
後悔はしない。
・・・・・・
これを
「真本音で生きる」
と
私は呼んでいる。
真本音で生きる
とは、
自分の心に素直に
生きるのとは
ちょっと違う。
余計に難しくなるかも
しれないが、
あえて言えば、
自分の魂の意志
に素直に生きる
ということだ。
心と魂の違いに
ついては、
あえてここでは
触れないが、
この違いを
区別できることは
人生において
とても有意義だ。
・・・・・・
これは、
心を置き去りにする
生き方、
というわけでは
ない。
なぜなら、
魂の意志通りに
生きれば、
結果として
必ず、
どっかのタイミングで、
心も満足する
からだ。
逆に言えば、
どれだけその時の
心が望んだとしても、
それが
魂の意志とは異なる
選択であれば、
心は後で
必ず
苦しくなる。
心と魂は
分離しているのだが、
しかし
根底では
つながっている。
心にエネルギーを
与えているのは
魂だ。
魂の意志とは
別の生き方をすれば、
エネルギーは間違いなく
減退する。
だから、
自分自身の魂の意志を
ちゃんと
自分で知る必要が
ある。
・・・・・・
私の推奨する
セルフコーチングとは、
この、
魂と心の
区別をつける力を
身につけることに
直結する。
魂と心の意志の
区別をしながら生きる
状態になるための
自分との向き合い方
だ。
言葉を換えれば、
真本音と反応本音
の区別をつける
ために行なうのが
私の推奨する
セルフコーチングだ。
今の世の中は
この区別がないために
混乱している。
区別がないから
人生も混乱する。
区別をつければ、
すべてが
調和を始める。
単純なこと
なんだ。
区別は
大人も子どもも
誰もがつけられるように
なる。
ただ、みんな
そのやり方を知らない
だけだ。
知らないのであれば、
ちゃんと伝えていこう。
今の私の活動の
ほぼすべては、
これに尽きるかな。
つづく
あぁこの道で
よかったのだな。
とわかる瞬間は
頻繁に来る。
自然に
来る。
だから、
意図的に、無理に、
そう思わなくてもいい。
自分を信じられない
のなら、
無理に
信じなくてもいい。
ただ、
次の一歩、
その次の一歩、
を
誠実に
進めばいい。
・・・・・・
私達の心は
それほど強くは
できていない。
にも関わらず、
「心は強くあらねば」
と
皆、思い過ぎだ。
もちろん
そう思うこと自体が
悪いわけではないが、
心が弱いことを
言い訳に
し過ぎてないか?
心が整わないことを
言い訳に
止まっている
だけではないか?
心は
弱いものだ。
なかなか
整ってくれない
ものだ。
それはもう
諦めてしまおう。
それよりも、
前に
進もう。
・・・・・・
心は弱くとも、
私達の魂は
常に
ちゃんとここにある。
心とは、
外の影響
環境の影響によって
揺らいだり
右往左往するものだが、
魂は
そうじゃない。
ちゃんと常に
ここにあり、
ちゃんと常に
次の一歩を
示してくれる。
そんな魂の意思
のことを私は
『真本音』
と呼んでいる。
・・・・・・
心が傷ついているから
真本音が出ない。
ということは
あり得ない。
それは自らが
真本音から
目をそらしているか、
もしくは、
目をつぶっているか。
どちらかだ。
・・・・・・
この道が
正しいかどうか?
自分にとっての
正解かどうか?
それは
後でよくわかる。
今は
考えなくてもいい。
それよりも、
素直に誠実に、
現実を見つめ、
次の一歩を
決めよう。
それが
あなたの真本音
だよ。
つづく
ある方から
ご質問をいただいた。
「真本音と魂は
同じものですか?」
その人は、
ある大手企業様で
とても重要な役割を
されている人で、
これまで人生を
「全力」で生きてきた
人だ。
だから私も
全力でお答えする
ことにする。
・・・・・・
本当は、
本来は、
魂と真本音は
イコールのはず
のものだ。
つまりは、
魂の意思が
真本音である、
と言っていい。
しかし残念ながら、
今はそう言えない
事情がある。
私達のほとんどが、
魂レベルの反応本音
を持ち合わせている
からだ。。
これがきつい。
これが
尋常ならざる
エンティティを
生む。
(エンティティとは、
ストレスの濃度が
ある一定以上に高まり、
物質化したもの。
念の塊であり、
「生き霊」と訳される
こともある。)
いつも企業様で
多くの人と
向き合っていると、
私はこの
魂レベルの反応本音
をダイレクトに感じ、
受け取る。
これが本当にキツく、
私は自分が受けた
ストレスを
浄化するために
夜を徹することが
頻繁にある。
逆に言えば、
多くの人達が
それほどのストレスを
持ちながら、
生きている。
夜中にストレスに
苦しみながら、
私はいつも
思うのだ。
よくもまぁ、
こんなストレスを
抱えていて、
あの人は
平気な顔をしている、
と。
しかし本当は
平気ではない。
ただ
麻痺をしている
だけのことで、
本当はとても
苦しんでいる。
他人事では
ない。
ほとんどの人が
そうなのだ。
・・・・・・
ではこれが、
「現代社会」と呼ばれる
最近の傾向なのか?
と言うと、
私はそうではない
と感じている。
恐らくこの
魂レベルの反応本音
は、
人類のこの数千年の
歴史の中に
常にあり続けたもの
だと
私は思う。
本来は
魂には
反応本音は
つかない。
本来は
魂には
ストレスは
生じない。
・・・はずなのに、
そうではない
状態のままに
人類は
歴史を重ねてきた、
のだと
私は思っている。
どうして
そう思うか?と
問われても
上手く答えることは
できない。
しかし、
毎日それらのストレスを
受け取り、
向き合っていれば
誰もが同じ印象を
持つのではないか。
それほど、
それは
ひどい。
はっきり言って
私は、
私を含めた人類は、
魂レベルの
病気にかかっている
と、
自覚している。
「自覚している」
とあえて書いたのは、
自覚した人が
増えてほしいという
願いからだ。
病気は
自覚しないと
治らない。
でも、
自覚すれば
治そうという
意図が働く。
そして
私達の真本音は
(全員の真本音は)
この病気を
全力で治そうと
思っている。
その自らの
真本音の想いと
共鳴することが
大事であると
私は思うし、
それを自覚する人が
増えれば増えるほど、
一気呵成に
この病気は
改善されていくのでは
ないか、とも
思っている。
これが、
私の「現場感覚」
だ。
・・・・・・
真本音の叫び。
病気を治したい
という
叫び。
そのためには、
今ここで
こんな行動を
しよう!
という訴え。
これが、
私達の中に
ある。
真本音度合いが
高まれば、
その「叫び」や「訴え」に
敏感になる。
それは
悪いことではない。
麻痺しているのが
最も
ひどい状態だ。
その麻痺状態から
抜け出し、
今ここから
一つずつ
一歩ずつ
健康状態に戻そう
という、
そのきっかけになる。
しかし。
その「叫び」や「訴え」に
敏感になっても
それでも
耳を塞いでしまう
人がいる。
本当は
聴こえていても、
聞こえていない
ふりをしているのだ。
最近の私の
憤りのほとんどが
ここにある。
真本音の
叫び。
それは、
魂の叫び
と言ってもいい。
これが
心の中に
鳴り響いている。
にも関わらず、
多くの人は
耳を塞いだままだ。
「叫び」さえ聴けば、
自分が今、
何をすべきか?が
皆、
わかるはずだ。
私達の真本音は
決して
無茶は言わない。
自分に
できることしか
言わない。
でも、
自分にできることすら
やろうとしない、
そんな人が
多過ぎるのは
悲し過ぎる。
でも少なくとも私は、
自分にできることを
する。
そう決めている。
私自身の
真本音の叫びと
訴えに
真摯に耳を傾けると、
決めている。
つづく
心を開放する
のと、
魂を開放する
のは
違う。
恐らく、
この区別が
つかないことが、
今の世の中の
現状を
招いていると
私は考える。
心を開放すれば、
心は
元気になる。
しかし、
魂を開放したからと
言って、
魂が元気になる
とは限らない。
むしろ、
私達の魂は、
自分自身の元気さを
いつも
調整している。
つまり、
元気でない状態を
意図的に
創り出している。
この真実に
気づかないと
道を誤ることが
多い。
私達の
決めている道
とは、
単純に
魂が元気になる
方向
・・・ではないのだ。
・・・・・・
魂の意思を
私は
『真本音』
と呼んでいる。
厳密に言えば、
ちょっと違うのだが、
まぁ、ほぼ
そうなので、
ここでは
そういうことにする。
真本音に素直に
生き(行き)、
真本音度合いが
高まることで、
何が起こるかと言えば、
魂の元気度合いを
調整できる
ようになる
のだ。
つまり、
いつも元気であろう
と欲求する
状態から卒業し、
今はこの
元気度合いで
進もう
という
魂の意思に
そのまま素直に
進むことができる
ようになるのだ。
私達の魂が
最も大事にしている
ことの一つは、
「自分自身の
エネルギー量」
と
「周り(もしくは現実)の
エネルギー量」
の
「調和」
である。
ここで不調和が
起こってしまうと、
進むべき道が
開かなくなってしまう
ことがあるからだ。
私は、
「尊重」
という行為の
最も根本的
根源的な要素は
これであると
思っている。
人を尊重する。
現実を
尊重する。
社会を
尊重する。
とは、
まずは
エネルギー量を
尊重するところから
始まるのだ、
と。
エネルギー量の
尊重は、
その場その場の
「調和」には
なくてはならない
要素だ。
ここが上手くいけば、
エネルギーの循環
が起こる。
すべての物事は
この
「循環」によって
進められていく。
循環が
スムーズに行けば
行くほど、
それは
真本音の道
となる。
循環が
スムーズでなければ、
一見して
どれだけ現実が
上手く展開していても、
必ずどこかで
淀みが起こる。
するとその
淀みを解消するための
新たな流れを
起こさねば
ならなくなる。
大体の場合、
そこで使われる
エネルギー量は
果てしなく
大きい。
我々が思っている
以上に。
そして結果として、
その「調整」のために
(「調和」のために、ではない)
大半のエネルギーを
費やさねばならなく
なる。
つまりそれは、
本来
エネルギーを
使うべきところに
使えていない
状態だ。
これでは結果として、
道は
開かない。
どのような
「循環」を
起こすか?
そのためには、
今、自分の発する
エネルギーは
どれくらいが
良いのか?
この調和を、
私達の魂は
最も大事にする。
そしてその
指針を
一つの「意思」として
心の中に
浮上させる。
それこそが、
「真本音」
である。
・・・・・・
真本音で生きる
ことで
すべては
調和を始める。
真本音を無視する
ことで
すべては
不調和となって行く。
間違っては
ならないのは、
現実が上手く
行っている
ことが
調和とは限らない
ということだ。
現実が
思うように進まなく、
試行錯誤が
続いたり、
暗中模索に
入っていても、
それが
調和のために
起きているのか、
それとも
不調和の結果として
起きているのか、
その判別を
きちんとすること。
ちゃんと
真本音で進めて
いるのであれば、
今のこの視点を
持つだけで、
答えは
わかるはずだ。
ここで
答えがわからない
のであれば、
そこには
何らかの不調和が
存在している。
・・・・・・
今回はちょっと
難しい文章の
表現になったかな。
でも
この文章の意味の
本質が
ピンとすぐに
わかる人は
「コーチ」の素養が
あると
私は
思うけどね。
つづく
苦しい体験をすることで
成長ができる
わけではありません。
苦しみを抱き続ける
からこそ、
私達は成長できるのです。
心が激しく
揺さぶられる過去と
対峙しながらも
「今」を進む人。
そんな人は、
揺れ動く心が
そこにあるにも関わらず、
とてつもなく
静謐です。
心は嗚咽しても
魂が
静かなのです。
そんな人と
向かい合うと、
こちらも
静かになっていきますね。
私は
そんな人を
どこまでも
応援したいなぁ。
・・・・・・
心と魂の
区別のつく
コーチが
増えるといいなと
思います。
心は
揺れて
いいんだよ。
揺れるままで
いいんだよ。
でも、
魂が揺れ、
魂が傷つくことは
やめようよ。
・・・そんな
ちょっとした助言の
できるコーチが
今の世には
必要です。
心は
そのままでいい。
たったその一言を
聴くだけで、
どれだけ私達は
救われることか。
・・・・・・
魂を大切にできる
コーチとは、
命を大切にできる
コーチです。
心の痛みから
逃れることで、
命を傷つけてしまう人が
います。
それを
止めるのは
残念ながら
本人には難しいのです。
そこは
ちょっとお節介でも、
傍にいる人が
止めなければいけません。
しかしそれができる人は
多くはありません。
私達はもっと
「人間」を学ぶべきでは
ないでしょうか。
「人間」を真剣に
学ぼうとする人に
私は
コーチになって
もらいたいな。
つづく
『反応本音』。
・・・真本音に対する言葉として
私はよく使います。
外からの影響により、
その反応として
出来上がる私達の心。
それが反応本音です。
反応として
出来上がりますので、
それは基本的には
弱いものです。
不安定です。
しかし、これは
私達の心の表面に常に
現れ続けますので、
反応本音そのものを
自分である、
という認識をしている人が
多いです。
もしくは、
反応本音のパターンを
「これが私である」
と思い込んでいる人も。
ただ、
いつもこういった書き方を
しますので、
反応本音は良くないものだ、
とか、
薄っぺらいものだ、
とか、
レベルの低いものだ、
とか、
そんな印象を持ってしまうかも
しれませんね。
ですからあえて申しますが、
反応本音とは
私達人間にとって
なくてはならないものであり、
宝でもあります。
反応本音があるが故に
私達は
人としての幸せを
感じることができます。
反応本音があるが故に
現実とより深く
関わり合うことができます。
反応本音があるが故に
真本音が活きる
のです。
もともと
反応本音とは、
現実世界において
真本音で生きやすいように
という目的のために
私達の真本音が自ら
発生させているものです。
私達は
真本音のみでは
この現実世界は
生きられません。
真本音と反応本音の
コラボによって初めて
生きる(活きる)ことが
できます。
ちょっと
わかりづらいですか?
ではあえて、
反応本音を「心」、
真本音を「魂」、
という言葉に
置き換えてみます。
(本当はちょっと短絡的な
置き換え方ですが。)
私達はこの現実世界では
魂のみでは
生きられないのです。
魂と心が
結びついて初めて
この世での
成長が成り立ちます。
今、目の前に一つの
現実があり、
その現実に対して
「どのような心で
関わって行こうか?」
を魂が決めるのです。
つまり、
魂が上司で
心が部下のようなもの
ですね。
魂が心を
活かすのです。
つまり、
真本音が
反応本音を活かす
のです。
反応本音は、
現実世界における経験によって
次々に生み出されます。
つまり、
経験を積めば積むほど
反応本音のバリエーションが
増えます。
その増えたバリエーションの中で
「今回は、どの反応本音に
活躍してもらおうかな」
ということを
真本音が決めるわけです。
つまり、
真本音と反応本音は
セットなのです。
それが
本来の姿です。
ところが、
反応本音が増え過ぎると
私達は
肝心要の真本音を
忘れてしまいます。
自分自身の真本音を
無視するように
なってしまいます。
すると、
真本音のないままで、
もしくは、
真本音にフタをした状態で、
反応本音のみで
現実に関わるようになります。
それにより、
現実も自分自身も
おかしなことに
なっていきます。
本来は
真本音と反応本音はセット
なのに、
真本音を忘れて
反応本音のみで
生きてしまう。
言い換えれば、
本来は
魂と心はセットなのに、
魂の意思を忘れて
その時その時の心の意思
のみで生きてしまう。
それにより、
その人の人生の一貫性は
失われ、
いったい何のために
自分は生まれてきたのか?
何のための
人生だったのか?
を忘れた状態で
ただただ惰性で生きていく、
ということになります。
その状態を実は、
最も嫌うのが
私達の真本音であり、
魂です。
ですので、
真本音(魂)は怒ってしまいます。
(喩えです。)
怒ってしまった結果として
真本音(魂)は
隠れてしまいます。
(これも喩えです。)
それにより、
「中心」を失った私達は
非常に不安定となります。
ストレスも
大量発生します。
残念ながら、
そういった状態になっている人が
とても多いのが
今の世の中です。
「中心」がないのは
とても不安であり
不安定ですので、
私達はとりあえずの「中心」を
無理矢理に自分に
設定します。
無意識に。
その多くは
反応本音による「中心」です。
本来は
真本音が「中心」に
来るはずなのですが、
それとは別の「中心」を
無理矢理に「中心」と
してしまうのです。
それでますます
真本音(魂)は怒り、
ますますストレスが発生し、
ますます、
自分がわからなくなります。
それも、
今の世の中の多くの人の
傾向です。
ですから、
「中心」を本来のものに
戻さなければなりません。
きちんと、
自らの真本音に
「中心」になってもらうのです。
それにより初めて、
私達は
「本来の自分」
を取り戻します。
逆に言えば、
「中心」を本来に戻さずして
私達に安定は
訪れません。
本来の「中心」ではないままで
自分を変えようとしても
それは難しい相談です。
たとえ自分が変わったとしても
本来の「中心」でないならば、
どのような自分に変わっても
不安定さは変わりません。
真本音中心の自分に
戻ること。
それにより、
あらゆる反応本音達も
生きて(活きて)きます。
自分自身が
活きて来るのです。
ですから私のサポートは
まずは
「中心を変える」
つまり、
「中心を真本音に戻す」
ところから始まります。
そこから始めるのが
最も簡単で、
最も楽だからです。
つづく
これまで何十年もかけて
培ってきたもの、
育んできたもの、
継続してきたもの、
などが、
一気に崩壊してしまう。
音を立てて、
崩れ落ちてしまう。
そんな人生展開や
組織展開をしている人が
今、急激に増えています。
「ずっとここにあったもの」
が、
なくなる。
「ここにあるのが当然なもの」
が、
なくなる。
その、
茫然と自失。
その後にやってくる
絶望。
虚無感。
それらの大きさは
到底、耐えられる気が
しません。
これまでずっと
がんばってきたことは
いったい何だったのだ?
自分はいったい
何のためにここまで
きたのだろうか?
自分がここにいる
意味も
意義も
すべてが白紙になり、
生きることへの
気力が
なくなります。
そのように、
自分という人間が
耐えられる範疇を
逸脱してしまっている展開に、
我を失っている人が
増えています。
それでも
さらにがんばって
踏ん張ろう、
立ち続けよう、と
するのですが、
足元の地面そのものが
崩れ落ちていく感覚で、
踏ん張るどころの
騒ぎではありません。
その人にとっては
すべての崩壊に等しく、
かつ、
自己崩壊に
等しいものです。
肉体だけでなく、
魂さえもが
死んでしまう感覚。
崩壊の現実の前で
そのように
自分のすべてが崩壊してしまう
感覚の中にいる人が
増えています。
崩壊の波。
これが、
今の世の中に流れる
潮流の一つです。
その潮流に
呑み込まれそうになった
場合、
まずはぜひ
していただきたいことが
あります。
それは、
「現実の崩壊」
と
「自分の心や魂の崩壊」
の
区別をつけること
です。
今、目の前にある
その現実は、
過去の自分のとってきた
様々な選択や行動の
「結果」です。
つまりは、
「過去の原因」による
「結果」が、
今、目の前に現れている
ということです。
今、目の前にありますが
それは
過去にすでに創られたもの
ということです。
その現実は
過去のもの。
そして、
その結果を見つめている
今のあなたのその心と魂は
今のもの、
です。
過去のものを
今のもので
見つめています。
その、
過去のものと
今のものを
区別してください。
一度、完全に
切り離してください。
分離
させてください。
「現実」が崩壊したからと言って、
今ここにあるあなたの
心や魂までもが
崩壊する必要は
まったく
ないのです。
その分離が
しっかりできたら、
今度は、
今の自分の心と魂そのものに
だけ
意識を向けてみて
ください。
まずは、
心へ。
恐らく、心は
目の前の「現実」を見て
相当のショックを受け、
取り乱しているでしょう。
目の前の「現実」と
同じように、
崩壊しようとしているかも
しれません。
でも、
安心してください。
それが、
心というものです。
現実からのショックを
そのまま受け取るのが
心であり、
現実による反応を起こすのが
心です。
反応本音の集合体、
それが心です。
ですから
取り乱すのが
普通です。
その普通の現象としての
心をそのまま
観察してください。
あぁ、ただ、
取り乱しているだけだな
と、
わかるはずです。
それでOK。
次に、
魂へ
意識を向けます。
魂だけに
意識を向けます。
あなたの魂は今、
光を放っていますか?
それとも
光を失おうと
していますか?
心ではありません。
魂です。
魂だけに
意識を向けます。
輝いているでしょ?
わかります?
なぜなら今、
あなたは
甚大なる「崩壊」と
しっかりと向かい合っている
からです。
崩壊に対して
目を瞑ってしまえば、
それは現実逃避です。
現実逃避に入った
その瞬間から、
私達の魂は
光を失います。
しかし、
どれだけ厳しい現実が
あろうとも、
その現実と向かい合う
その姿勢がある限り、
魂は強い光を
放ち続けます。
そしてその光が
ある限り、
私達人間は
大丈夫です。
その光を見つめ、
その光に
癒されてください。
それは
自分自身の光です。
命の光です。
それを見つめ続ければ、
ある瞬間に、
次の一歩がわかるはずです。
このような激しい崩壊の中でも
次に自分が何をすればよいか?
が観えるはずです。
それが観えるまでは
じっとしていればよいです。
その代わり、
観えたらその通りに
動きましょう。
それが新たな
道となります。
たった一歩でも道を創れば
その道は続きます。
そしてある時に
必ずわかります。
あぁそれは、
自分にとって必要な
崩壊だったのだな、と。
今は
無理にわかる必要は
ありませんし、
無理にわかっては
ダメです。
余裕もゆとりもなくて
よいです。
そのままで。
ただ、
・現実と
・心と
・魂の
区別をつけましょう。
最後に私達を
救い、
導いてくれるのは
私達自身の魂の意志です。
それこそが、
真本音です。
つづく
どのような心があろうとも、
それらをただ
あるがままに
観察することのできる
自分。
なんの操作もなく、
なんの評価もなく、
なんの解釈もなく。
ただその存在を
存在のままに
承認できる自分。
そんな自分になれた時、
それができているその「自分」とは
いったい何者でしょうか?
当然、
今ものを考えたり
ものを見ているこの自分は
私達自身の
顕在意識です。
しかし、
顕在意識そのものは
非常に不安定な
存在です。
すぐに揺らぐし、
すぐに不安になるし、
すぐに自信をなくします。
なのに
この安定感は
どうしたことでしょう?
すべての自分と
あるがままに向き合う
自分になることにより、
私達のこの
もともと不安定だった顕在意識は
とてつもない
安定感を得ます。
まるで、
永久不滅の
大地に立っているようです。
この
大地は何でしょう?
この
安定感は何でしょう?
この
安心感は何でしょう?
この
満たされた感覚は?
この
自然に溢れる確信は?
・・・これが、
私の言うところの
『真本音』
です。
最も醜い自分自身と
完全に向き合える人のみが
初めて実感できる
心の大地です。
心の大地とはつまり、
「魂」そのものです。
もしこの
真本音という大地を
実感できるようになりましたら、
ぜひ
自分自身に問うてみてください。
自分の真本音に問う、
最初の質問です。
『私は今この瞬間、
どんな生き方を
したいのだろうか?』
・・・と。
それは極めて
シンプルな答えとして
返ってくるでしょう。
もし理由づけや
説明の必要な
複雑な言葉であれば、
残念ながらそれはまだ
真本音ではありません。
その一言を
つぶやくだけで、
身も心もすべてが
スッとする、
説明不要の
納得の一言が返ってこれば、
それは紛れもなく
真本音の答えです。
その「生き方」が
真本音で生きるための
最初のキーワードと
なります。
これを私は
『人生理念』
と呼んでいます。
人生理念は、
日常のあらゆる場面で
その一言をつぶやけば、
「本来の自分」
を思い出させてくれるでしょう。
私は本当は
どんな生き方を
今ここで実践したい
人間であるか?
・・・を思い出させてくれます。
いつもそれを
つぶやきながら
今この瞬間を大切に
自分の行動や振る舞いを
決めていくことが、
真本音で生きる
ファーストステップです。
これができている状態が
人としての「普通の生き方」
です。
そして、
これができていることで
私達の魂と心の
一貫性が取れ、
心から淀みが消えていきます。
淀みが消えることで
自然に浮上するのが、
『直観』
です。
次に自分が何をすればよいか?
をありありと教えてくれる
確信の答えです。
あとはその確信に
従って動く
だけのことです。
思えば・・・。
私達人間は、
この、
真本音と反応本音の区別が
つかなくなったところから
「普通の生き方」が
できなくなったのだと思います。
本当は、
「区別をつける」などという
言葉そのものが不自然なくらい、
その二つは
あまりにも違います。
目と鼻の区別をつけるのと
同じくらいに
それは簡単なことだった
はずです。
しかし私達人間は、
自分の真本音のことを
あまりにも忘れて
しまいました。
あまりにも
無視し続けて
しまいました。
だから、
人としての「普通の生き方」も
人としての「本来の幸せ」を
感じることも、
できなくなってしまいました。
もう一度、私達は
人間としての
原点に戻る必要があると
私は思います。
自分を理解する。
反応本音達を理解し、
真本音を理解する。
そこから始めるのが
最も大切なことだと
私は思うのです。
つづく
「心を込める」というのと
「魂を込める」というのでは
本質的にまったく異なるものがあると
私は思っています。
かなり短絡的な表現になるのですが、
・心の意志とは、反応本音
・魂の意志とは、真本音
という区別の仕方をするのも
ある意味、わかりやすいかもしれません。
(本当はちょっと違いますが・・・。)
真本音で生きる、
とは
魂を込めて生きるということに
なりますが、
魂を込める、というと
かなり力の入ったイメージや、
精も根も尽き果てる
という印象がありませんか?
実際にはまったく
逆なのです。
魂を込めることで
私達の心はとても自由になります。
力が抜けます。
魂が込められているので、
心の次元で力を入れる必要が
なくなるのです。
ですから、
魂を込めて生きている人、
つまりは、真本音で生きている人
の多くは、
とても自然体です。
人の個性にもよりますが、
どこか飄々としており、
取っつきやすく、
いい意味で、いい加減で
一緒にいてまったく疲れません。
(立場上、あえて疲れる雰囲気を
出している人もいますが。
それはあくまで、立場上です。)
しかしそういった人と向き合うと、
私はその人から
とてつもないパワーが伝わってくるのを
感じます。
そのパワーは表面上のことではないので、
お腹の底からジンジンと
伝わってくる感覚です。
表面上で気合いを入れまくっている人とか、
言葉レベルで
「魂を込めろ!」とか「命を込めろ!」
と言っている人の多くからは
私はまったくパワーを感じません。
むしろ、
無理に表面上だけ取り繕っている感じで
パワーを奪われます。
魂を込めて生きている人は
一見、力が抜けていますが、
一緒にいるだけで、
内側からこちらもパワーが湧いてくるのが
わかります。
そういった人と一緒にビジネスができると
とても幸せです。
皆がどんどん
元気になるからです。
ビジネスとは「結果」が大事ですが、
「結果」だけが大事なわけでは
ありません。
パワーがどんどん高まりながら
「結果」が出ているのか、
反対に、
疲弊をしながら「結果」が出ているのか、
を私はいつも重要視します。
いくら結果が出ていても、
疲弊度が日々増しているようなら、
何かを抜本的に変えなければ
なりません。
ある意味、私は
「結果は出ているけど日々、疲弊度が増している」
という状態を最も問題視します。
「人のパワーが日々高まり続けることで
自然に結果が出続ける」
という状態創りが、
本来のビジネスだと思うのです。
こういったことを言うと、
「いやいや、ビジネスとは
そんな甘いものではないのですよ」
という声を、
私はこれまでさんざん聴いてきましたが、
私はそれこそが、
「反応本音時代のビジネス」
であると思っています。
時代は変わったのだと言うことを
まずは私達自身が
認識しなければなりません。
私達はもっと「幸せ」に
物事を進めることができるのです。
そしてそれを「若者」達は
本能的によくわかっています。
結局、何が言いたいのかと言いますと、
そういった「若者」達を
妨げてはならない、ということです。
「若いから甘い」
「若いから何もわかっちゃいない」
という認識こそが、
これからの時代では、古いです。
「経験がなければ、できない」
という時代も
終わったのです。
むしろ、私達の世代の「経験」とは
「反応本音の時代を生き延びるための経験」
です。
時代が変わった今、
その経験に捕らわれることこそが
命取りです。
時代は、
変わったのです。
「反応本音の時代」は
とうに終わり、
「真本音の時代」に
入っているのです。
(→前回記事)
人の働き方。
ビジネスの仕方。
組織の在り方。
それらを、
これまでの経験則を超えて、
抜本的に変革するのが、
今の私達のテーマでしょう。
そしてそれは今は、
まだまったく進んでいません。
世界の最先端と言われる
企業や組織においても、
それはまだまったく
進んでいないのです。
・・・という現実と
まずはしっかりと向き合わねばならないと
私は今、
日々、痛感しています。
つづく
明けましておめでとうございます。
皆さんにとって
2017年とは、
どのような一年でしたでしょうか?
そして、
2018年を
どのような一年にしたいですか?
私達の人生には
様々な節目があります。
節目とは私達にとって
とても大切なものです。
もちろんそれは、
真本音レベルでも言えることです。
例えば、
今この文章を書いているこの瞬間に、
ちょうど0時00分になりました。
つまり、
2017年が終わり、
2018年が始まりました。
その瞬間の私自身の真本音に
意識を向けますと、
まずは、色が変わったのが
わかりました。
先程までの私の真本音が発していた色は
「赤」でした。
それが、2018年が始まった瞬間から
「薄い青」に変わりました。
薄いと言っても、本当に薄いわけではなく、
本当はとても濃いのですが、
光が強過ぎて、薄く見えるのです。
と同時に、
これまでその光は、
一点に、とても強いエネルギーを
集中させていましたが、
今は、まるで台風のように、
周りに向かってエネルギーを放出し始めています。
ただしそれは、
まだまだ非常にゆっくりです。
しかし、
だんだんと、日にちが進むに連れて、
回転は速くなるでしょう。
この私の真本音の変化が
何を意味するか?については、
これからゆっくりとセルフコーチングを
することにします。
ただ、この台風のようなエネルギーを
見つめていますと、
ある一つの言葉が浮かんできます。
それは、
『出会い』
です。
恐らく、これから私は
数多くの人達と、出会っていくことに
なるでしょう。
そして恐らく、その出会い方は、
そのスピードは、
これまでの比ではないと思えます。
きちんと出会うべき人と出会えるために、
私は、一日一日、
すべきことを着実に行なっていくでしょう。
もちろんこれまでもそうして来ましたが、
これからは、
ちょっと枠を外すかも知れません。
このように、
何かの節目を越える度に、
私達の真本音は、
テーマを変えます。
人生における揺るがぬ願いやビジョンは
変わらずにあり続けますが、
そこに向かうためのテーマは、
その時その時に変化します。
皆さんも
同じです。
そう言えば、
先日、ある方から
「真本音というのは、魂のことですか?」
と尋ねられました。
正確に言えば、少し違うところもあるのですが、
まぁでも、
そう捉えていただいても間違いはありません。
真本音とは、
自分自身の魂であると捉えてみて、
自分は心ではなく魂では、
2017年は、何を大切にしてきて、
2018年は、何を大切にしようとしているのか?
そんな目線で、
自分自身と向き合ってみると
よいですね。
2018年、
皆さんにとって、羽ばたく一年と
なりますように。
つづく
新規事業プロジェクトメンバー一人一人について
私は、木村さんと弓江さんと
語り合っています。
まずは、日下部さんについて
充分な語り合いができたと、
私達の中で、完了感が生まれました。
(→前回記事)
「たけうちさん、
次は、前芝(まえしば)について
考えたいのですが。」
「じゃあそうしましょう。
どんな方ですか?」
「まだ若いです。25歳の男性社員です。
しかし私は、彼がどう頑張るか?で
新規事業プロジェクトだけでなく、
全社に与える影響が大きい気がしています。」
「ということは、弓江さんからしてみれば、
彼こそが、要となる社員だと思うんですね?」
「そうです。」
「どんなところで、
そう思われるのですか?」
「彼はとにかく、素直なんです。」
「へぇ。」
「若い、ということもあるでしょうが。
でも、根っからの素直さがあるように
思うんです。」
「なるほど。
具体的にはこれまで、どんな場面やどんな瞬間に、
彼の素直さを感じましたか?」
「例えば彼は、お客様からの受けが
とても良いのです。
みんなが彼のファンになります。
彼の力になりたい、と思うようです。」
「おぉ、それは凄いですね。
彼のどんな振る舞いが、そうさせていると
思いますか?」
「たけうちさんの言葉を借りて言えば、
彼は、向き合う、ということが
できるのだと思います。
いつも堂々とお客様と向き合って、
しかも、相手の話を親身になって聴いて、
しかも、言われた期待には必ず答えようとします。
自分が言ったことも、必ず実行します。」
「それは、なかなか期待できる人ですね。」
「ただ・・・。」
「ただ?」
「はい、ただ・・・、私はなんかちょっと彼が
無理をしているようにも思うんです。」
「どんな風に?」
「ちょっと、従順過ぎると言いますか・・・。」
この辺りで私は、
前芝さんの「実在」を感じ始めました。
まるで、本人が目の前にいるかのような、
感覚があります。
私は、その「実在」に意識を
向けました。
そして私も感じました。
あぁ彼は、相当に無理をしている、と。
「なるほど。
私も直観的に、彼はかなり無理をしている
気がしますね。」
「はい。
彼の素直さは、本当に素晴らしいと
思うのですが、実はかなりストレスを
得ているのではないかと、
少し心配になります。
いつも前向きだし、笑顔も絶やさないし、
ムードメイカーなんですけどね。」
「では、
直観的にお答えいただきたいのですが。」
「はい。」
「彼の真本音と、今の行動は、
ズレがありますか?」
一瞬、弓江さんは目を閉じました。
そして明確に答えました。
「ズレズレです。
・・・そうか。
ズレズレなんだ。
あれだけ頑張ってるのに・・・。」
「木村さんは、どう思われます?」
「そうですね。
彼はある意味、とても器用なんだと
思います。
時々、世渡りが上手いなぁ、若いくせに、
と思うことがあります。
でも、かと言って、不快に思うことは
ほとんどないのですよ。
彼の素直さの方が強調されている
気がします。」
恐らく、前芝さんという人は、
軽薄な人ではないのでしょう。
一つ一つの物事に、心を込めて
取り組むことは間違いないと思います。
しかしそこには、
魂が入っていない・・・。
心は込められているのに、
魂は、入っていないのです。
実は、こういったタイプの人を
私は随分と多く見てきました。
実は、こういった人ほど、
若いうちはまだ良いですが、
年齢を重ねるに従い、
かなりの強烈なストレスに
苛まれるようになるのです。
つづく