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- 2020年 12月
2020年は
面白い感覚の年
だった。
ちょうど一年前くらいに
感じていたのは、
2019年と2020年は
つながっている、
という感覚。
つまり
節目がない。
もっと言えば、
2020年、という存在
自体を
あまり感じない。
という感覚が
昨年末にあり、
実はその感覚は
結局今日まで
消えなかった。
私の中では
いまだに
2020年は始まって
おらず、
2019年の年末に
いる状態のまま
一年が過ぎてしまった
のだ。
しかしその一方で
2020年は
随分と新しいことを
始めた。
さっき数えてみたら、
この一年で
6つの新たな挑戦を
した。
そのことごとくが
想定以上に
良い成果を出せた。
なかなかこんな
一年はないな、
というくらいに
現実は動いた。
しかしでもやはり、
2020年という
存在感はなく、
一年前のそのまま
の場所に
私はいる感じがする。
恐らく、
実在のレベルでは
その通りなのだろう。
実在のレベルでは
あえて
何も動かさず、
同じ場所にいて、
しかし
現実(現象)のみを
動かした。
そんな一年
だったのだろう。
逆に言えば、
それの意味する
ところは大きい。
この一年で、
実在と現象の
一致感は
格段に増した。
要するに、
実在の状態が
すぐに現象化する
ようになった。
タイムラグが
かなり縮まった。
実在が現象を
待つ。
・・・ということを
行なったのでは
ないかな、と思う。
そしてこの12月辺りから
ようやく
実在が動き始めた。
これまでに
ない、
実在〜現象の一致感
で。
そういうことで
言えば、
いよいよ
だ。
今年の年末年始は
大きな節目と
なりそうだ。
つづく
息が苦しくなれば、
私達は
たったそれだけで
周りを見れなく
なる。
ほんのちょっとした
ことで、
私達は現実と
向き合えなくなる。
そして
一度、内に篭れば
そこから出ることは
非常に困難だ。
弱いものだな、
と思う。
しかしその
自分の弱さを
自ら知り、
受け入れている人は
強い。
弱い自分を
何とかしようと
するよりも、
弱い自分を
もう、そういうものだと
諦めて、
その上で、
じゃあどうするか?を
探究する。
それが
人の強さとなる。
弱さとは、
強さの
きっかけである。
弱さを
強さに変える
のではない。
弱いままだからこそ
強くなれる。
これが
私達人間だ。
そして、
強さとは
頑固さではない。
頑固さとは
弱さの一つの
現れだ。
強さとは、
しなやかさであり、
柔軟性であり、
包容力だ。
しかし
包容力とは
「私はすべてを
包み抱きます」
とやっている人は
まやかしだ。
それは
強さのフリを
しているだけで、
フリが上手いだけ
である。
真に包容力の
ある人は、
自分の包容力には
気づいていない。
ましてや
それを「売り物」
にはしない。
自分の弱さに
真摯に
向き合い続ける人
こそが、
自然に
包み抱くことが
できる。
本人の意図
ではなく。
しかしこう考えると、
まったく人間とは
難しい。
よくこんな難しい
生き物が
生まれたものだと
感心する。
しかし
難しいと思うから
難しい。
やることは
至ってシンプルだ。
今この瞬間を
真摯に生きる
のみだ。
弱さも
強さも
そのままに。
あるがままに
生きるのみだ。
つづく
私達は、
余分なことを
し過ぎなのだと
思う。
不調和とは
ほとんどの場合、
余分なことを
することによって
生まれる。
何をするか?
の前に
何をしないか?
を決めることは
とても重要では
ないか。
特にこの2〜3年で
本当に痛烈に
私は感じた。
余分なことを
する癖のついている
人は、
余分なことに
人生のほとんどを
使ってしまう。
一つの余分なことは
余分な混乱や
余分な波乱や
余分な葛藤を
生む。
余分なそれらに
反応している
うちに、
人生は
終わってしまう。
だいぶ極端な
言い方をしているが、
何故あえて
こんな言い方を
しているかと言うと、
「人生の時間が
足りない!」
という
とても強い気持ちを
真本音のレベルで
抱いている人が
今、
急増しているのを
感じるからだ。
実は特に
若い人達に
私はそれを感じる。
まだ
20代、30代なのに、
もう
「人生の時間が
足りない!」
と
焦り始めている。
気持ちは
よくわかる。
私もいつも
そう思ってきたから。
しかし
焦れば焦るほど、
また新たな
余分なことを
してしまう。
新たな何かを
始めることは
特に今の時代は
とても大事だが、
しかしその前に
しっかりと
自分自身に
問うてみよう。
まずは、
何をやめるか?
何を
しない!と
決めるか?
つづく
あえて、
狭く暗い部屋の中に
閉じ籠ってみる。
あえて、
目も閉ざし
何も見えない状態に
陥ってみる。
何も見えなく
なった時、
何もわからなく
なった時、
果たして自分は
何をどう判断する
だろうか?
そう考えた時、
ふと、
ひょっとして
今の私が
そんな状態なのでは
ないか?
と
思ったりした。
実は、
目を開いているようで
閉じている。
広い世界にいる
ようで、
狭い中にいる。
わかっているようで
何もわかっちゃ
いない。
ひょっとして、・・・
ではなく
本当にそうではないか、
と
よく思った。
そう考えた時、
では、
そんな私に
できることとは
何だろうか?
と。
で結局
たどり着いたのが、
目が見えていようが、
狭い部屋にいようが、
何も
わかってないとしても、
私は
自分の意志で
進むしかないでは
ないか、
と。
もし
何もわかっていない
のであれば、
少しでも
わずか1ミリでも
わかろうとする。
わからないなりに
今わかることを
信じて
進む。
それしかないでは
ないか、と。
そう考えると、
日々、やることは
同じだな、と。
自分が開く方向に
進む。
本当に開けるかどうか
ではなく、
こっちは
開く方向なのではないか、
と
思える方に
進む。
自分がたとえ
間違っていても、
自分の判断を
する。
それしかない
ではないか、と。
人間として
できることは。
と。
もし間違っていたら、
きっと
ゴツゴツと
何かにぶつかるだろう。
痛い目に
遭うのだろう。
もしかすると
生命の危機に
晒されることも。
でも
自分の判断であれば
それはそれで
しょうがないではないか。
見えていても
見えていなくても、
精一杯
やるしかないではないか。
だから、
見えないから
わからないから
という理由で
止まってしまうことだけは
やめよう。
間違ってもいいから
進んでみよう。
どんなに
怖くても。
できれば、
盾も鎧も脱ぎ捨て、
できるだけ
素っ裸で
進もう。
できれば、
でいいから。
・・・そんなこんなで
ここまでヨタヨタと
歩いてきたように
思う。
本当に、
痛い目ばかりの道のり
だったが、
昔に比べれば、
随分と
歩きやすくなったし、
道も広がっている
ようだ。
仲間も増えた。
「幸せだな」と
感じる瞬間も
増えている。
今の私は
見えているのだろうか?
わかっているの
だろうか?
と、
今でも日々、
問うている。
ひょっとすると、
この問いがあるうちは
大丈夫なのかも
しれないな、と、
ここまで歩いてきて
ようやく
思えるようになった。
私は
先導者でも何でも
ない。
私は
共に歩く者だ。
つづく
あなたの中に
「壊したい自分」
がいるのでは
ないか?
本当は、
経験を通じて
それは
じっくりと壊していくもの
かもしれないな。
でも、
もうそんな時間はない、
と
思ってるんだろ?
であれば、
ダイレクトに今、
壊してしまっても
良いのではないかな。
壊し方は
簡単。
「壊す」
と
決めるだけだ。
その自分を見つめ、
正面から
「君を壊す」
と伝えればいい。
その自分は
反発をするかも
しれない。
反論を
するかもしれない。
しかし
その一つ一つには
しっかりと耳を傾け、
しかし
毅然とする。
そして誠実に
丁寧に
愛を込めて
改めて伝えるんだ。
「もう私の人生には
君は要らない。
どうか私の人生を
応援してほしい。」
・・・と。
それでわかって
くれないようなら、
その自分は
「自分」ではない。
恐らく
他者からもらった
エンティティ(念)だ。
それであれば
放っておけばいい。
自然に消えるから。
とにかく。
「壊したい自分」
を壊せるかどうかは、
あなたの意志
しだいだ。
それ以外は
ないんだよ。
つづく
生きていれば、
様々な「余分なもの」を
私達は
心の中に蓄積する。
そしてその
「余分なもの」達に
自分自身が
翻弄される。
しかし当の本人は
それらを
「余分なもの」
とは認識せずに、
むしろそれらを
「これが私だ」
と認知する。
「余分なもの」を
「余分なもの」と
認知せずに
生きるのが私達だ。
しかし私はここに
人間の素晴らしさ
があると思っている。
人間の
力だ。
・・・・・・
「余分なもの」の
最大の問題は、
そこに目を奪われる
ことで、
自分自身の
「本質的なもの」
を
忘れてしまうことだ。
本来は
「本質」があり、
その周りに
「余分なもの」達が
くっついているはず
なのだが、
肝心の「本質」が
見えなくなって
しまう。
つまりは、
「自分を失う」
という状態だ。
だから私の
サポートは、
「余分なもの」
はそのままに、
でも
「本質的なもの」
も
ちゃんと思い出そう、
とするものだ。
そして
ここからが最も
大事なことなのだが、
もしその人が
自分自身の
「本質的なもの」を
思い出すことが
できたとしたら、
その時点から、
その瞬間から、
「余分なもの」達が
「余分なもの」では
なくなってくる、
という事実だ。
「本質的なもの」
が
それまで存在した
あらゆる「余分なもの」を
一つ一つ丁寧に
「活かす」
ようになるのだ。
そこで発揮される
ものこそが
その人の
「真の個性」
だ。
私は、その
「真の個性」で
生きる人が
社会に溢れる状態を
創りたい、
と思って
この25年間、
今の仕事をやり続けた。
どうすれば
それが実現できる
のだろうか?
というのが
私の探究テーマの
一つであり
根幹であった。
このテーマは
もちろん
これからも続く。
きっと
永遠に続く。
しかし今、
明らかに
新たなステージに
入ることができた。
人が
「真の個性」で生き、
活かし合う社会は、
きっと
深く調和するだろう。
次の25年で
私はそこに向かって
邁進したい。
つづく
私達人間は、
この3次元の世界に
おいては、
使える命の力は
有限だ。
全身全霊
という言葉があるが、
全身全霊になった時に
発揮できるパワーが
有限だ。
なぜかと言うと、
二つ理由がある。
一つは、
この3次元という
世界そのものの
存在意義が
「有限であること」
だからだ。
限りのある中で
どのように
生きるか?
この根本テーマの
もとで
この世界は
成り立っている。
有限だからこそ
私達は
進化できるのだ。
もう一つの理由は、
「リミッター」
を
私達一人ひとりが
自分自身に
つけているからだ。
自分が
ある一定以上に
進化・成長できたら、
このリミッターを
外そう。
そしてまた
次の段階の
ある一定の進化・成長が
できたら、
また次のリミッターを
外そう。
・・・と、
私達は決めて
生きている。
もちろん潜在意識の
レベルでの話だが。
これもやはり
有限であることの
意味を
私達自身が自分に対して
活用しているわけだ。
そして私達は、
有限だからこそ
無限の可能性を
望んでいる。
その「望み」もまた
尊い。
その「望み」自体が、
有限であるからこそ
発生するもので、
これもまた
有限であることの
意義の一つだ。
有限から
無限へ。
その憧憬を抱きながら
私達は
生きているし、
そこに素直に
生きればいい。
そして、
有限から無限へ
近づくための
最短の道は、
「一点」
を決めること。
つまりは、
有限である自分の
命の力を、
エネルギーを、
どこに一点集中
させるか?
を
毎日、丁寧に
誠実に
決めて、
進むこと。
これができている
人は、
日々、「無限」に
近づいている。
命の力は
絞り込むこと。
拡散
させないこと。
そのためにも、
今は何のための
時間か?
今は私は
本当はここで
何をすべきか?
何をしたいか?
自分は今日、
何に自分の心を
込めるか?
魂を込めるか?
を、
常に自分自身に
問いながら
一歩一歩を
進んで行こう。
つづく
自分自身の
エネルギーが
高まったな、
と思えた時に、
一つ
確認をしてみて
ほしい。
自分の「中心軸」
の「回転」を。
自分の「中心軸」が
回転しながら
まるで台風のように
周りにエネルギーを
波及させているか
どうか、を。
もし
そのような「波及」を
感じたら、
その回転数を
上げるといい。
もっともっと
回転数を上げて
エネルギーの放出を
高めるといい。
それにより
さらに
中心軸の内側から
パワーが
漲ってくるはずだ。
自分の真本音を
大切に生きている人
であれば、
今は皆、
そのような状態の
はずだ。
今は、
一気にパワーアップの
できる時。
躊躇する
必要はない。
自分の中心軸を
意識し、
どんどん
さらに自分を
開放しようと
すればいい。
躊躇する
必要はない。
一気に
突き抜ければ
いい。
つづく
怒り
という感情が
出る時、
その怒りに
呑まれてしまうことから
逃げよう逃げよう
と
するよりも、
その怒りと
じっと
向き合うといい。
怒り、だけに
それは
とても騒がしいかも
しれない。
暴れている
かもしれない。
それは
そのままでいい。
ただ、
じっと
見つめる。
すると、
いつか
わかるはずだ。
それが本当に
ただ騒がしいだけの
怒りか、
それとも本当は
とても静かに燃える
怒りなのか。
実は
本当に強いのは
後者だ。
静かに燃え続ける
怒りは
基本的には
消えることがない
からだ。
静かに燃え続ける
怒りには
芯がある。
真がある。
つまり、
ちゃんとした理由が
あり、
その「理由」は
自分自身の「願い」に
関わっているものだ。
だからその怒りに
向き合うことで
私達は
自分が何に
怒っているか?
を知るのと
同時に、
自分は何を
願っているか?
を
知ることができる。
しかもその「願い」は
変わらずに
燃え続けているもの。
真本音の
願いだ。
真本音の願い
という芯のもとで
静かに燃え続ける
怒り。
それを私は
「真本音の怒り」
と呼んでいる。
それは
とてつもなく
エネルギーが高く、
とてつもなく
強い怒り。
しかしそれは
自分自身への
「合図」であり、
自分自身を
「導く」ために
ある。
だから、
真本音の怒りが
生まれたら、
私はその怒りに
身を任すことに
している。
あえて
意図的に
呑まれてみる
のだ。
それにより
「現実」
に突破口を見出す
一点を
創り出すことが
できるかも
しれない。
つづく
人は自分自身に
様々な「リミッター」を
つけている。
悪いことでは
ない。
必要なことだ。
そして、
人生を進めながら
その「リミッター」を
順番に外していく。
進化とは
リミッターを外すこと
とも言える。
リミッターを外す
ためには、
それ相応の自分に
ならねばならない。
「それ相応の自分」
とはつまり
「それ相応の行動」
ができること。
つまりは
自分の
「想いと行動」が
一致すること。
その一貫性度合いが
高まることで
その人は自分自身に
「合格」を出す。
私は
自分の想いを
ここまで実践し
カタチにすることが
できるように
なった。
だから、
次のステージに
行こう。
・・・このように
自分に「OK」を出す
ことで、
「リミッター」を一つ
外すのだ。
これを私は
「脱皮」
とも表現している。
今日も
あるクライアントさんが
「リミッター」を
外し、
「脱皮」した。
コーチングの後、
私の中に
そのクライアントさんからの
真本音メッセージが
残されていることに
気づいた。
『私は次に行きます。
私として。』
一つの巣立ちだな、
と思った。
つづく
つくづく
私という人間は
意図を持ってはならないな、
と思う。
意図を持てば
途端に
「すべて」が小さくなる。
小さな器の中で
小さく
まとまってしまう。
それにより
私自身は嬉しいかも
しれないが、
それはあくまでも
私の自己満足に
過ぎない。
意図した通りの
結果が手に入り、
私は意図した通りに
嬉しいが、
いったいそれの
どこに価値があると
言うのだろう。
どこに人生の
醍醐味があると
言うのだろう。
私は
小さい。
小さい私が
小さな枠の
小さな何かを
創り上げ、
いったいそこに
どんな意義が
あると言うのだろう。
と
つくづく思うのだ。
・・・どんな時に
そう、つくづく思う
かと言えば、
私の意図を超えた
展開を
目の当たりに
した時だ。
この人は
こんなことが
できるのか!
この人達は
こんなに凄い展開を
起こせるのか!
この仕事を始め、
もうすぐ25年。
いまだに
これの連続だ。
「驚嘆」
というやつだ。
驚嘆するたびに
私はつくづく
私の意図の
小っぽけさと
本来の、
人々の可能性の
デカさを
嘆息するのだ。
人間は
凄い。
という
「まいりました」
と
思える瞬間。
今日もそれが
あった。
それが
日常茶飯事に
起きている。
今日も
「俺って小せぇなぁ」
・・・と。
こんな悦びが
他にあろうか。
つづく
どれだけ素晴らしい
力を持った人でも、
自身のエネルギーを
分散させてしまったら
物事は
成し遂げられない。
器用貧乏
という言葉があるが、
器用なために
一つのことに徹することが
できず、
様々なことに手を出し、
結局は何も貫徹しきれない、
という生き方は
特にこれからの時代は
お勧めできない。
不器用でもいいから、
一つの何かを、
自分にしかできない
何かを
極めるといい。
探究すると
いい。
そのためには
自ら、人生の探究テーマを
持つことだ。
初めは抽象的な
テーマでもいい。
でもそれを
毎日、いつも意識しながら
深堀りしながら
生きる。
例えば、
私で言えば、
「自由とは何か?」
これは
19歳の時に持った
テーマだ。
以来、今でもずっと
探究している。
「生きる」
という現場において
探究している。
その答えに
たどり着いたかどうかは
わからないが、
私にしか語れない
独特の切り口で
「自由」を語ることくらいは
できるようになった。
そしてそれが
今の私の仕事のやり方に
深く反映している。
「真本音」という視点に
行き着いたのも、
このテーマがあった
からこそだ。
このように、
自分自身のテーマを
常に持ちながら
生きている人は
増えている。
特に若い人達に
多いように
私は感じる。
難しいテーマ。
人生のすべてを
費やしてでも
自分の人生と共に
歩み続けるテーマ。
そんなものを
持つと良いが、
まずは何でも一つ
自分で決めるといい。
「一つ」。
そう、
「一つ」決めるのだ。
するとその「一つ」は
さらに発展して、
次の新たな「一つ」を
引き寄せてくれるかも
しれない。
分散ではなく、
「一つ」。
たくさんではなく、
「一つ」。
そして
「一つ」に向かう
ことで
エネルギーは常に
集約され、
その「深さ」は
結果的に「広さ」を
もたらしてくれる。
さぁ、今すぐ
探究テーマを決めよう。
つづく
自分自身の
エネルギーを
どう有効活用するか?
と言うことは、
時間を
どう有効活用するか?
と
ほぼイコール
だ。
つまり、
「タイミング」
だ。
人生も仕事も
タイミングで決まる、
と言っていい。
極端ではない。
真本音度合いが
高まる、
というのも、
それにより
人生のあらゆる場面
における
タイミングが合う
ようになってくる。
という効果が
まずはとても大きい。
つまりもっと
具体的に言えば、
『今、何をするか?』
を明確にすること。
そして
『今、何をしないか?』
を明確にすること。
これは
セルフコーチングの
基本中の基本でもある。
単純に言えば、
上記二つの問いを
常に
丁寧に
自分自身に
問い続けることだ。
私はこれを
一日中ずっと
やり続けている。
だから
ひょっとすると
一日で何十回、何百回
問うているかも
しれない。
問いというのは
面白いもので、
いつもいつも
問うていると、
「問う前に
答えが浮かび上がる」
ようになる。
それが要するに
「直観」
というやつだが、
直観とは
本来は
問い
が誘発させるものだ。
大事なのは、
頭で考えるのでは
ない、
ということだ。
自分自身が
まるで他人のように
自分自身に
問うていくのだ。
問うて、
答えが浮かび上がる
のを
待つ、
のだ。
これを丁寧に
やるだけで、
スッキリと
「今」
を大事にできるし、
今、やることに
集中できる。
それにより、
自分のエネルギーが
有効活用できる。
だから
エネルギーに
ゆとりが生まれる。
そして
いつも元気な状態と
なる。
すべては、
地道な
問いから、だ。
何でも
地道さが大事
なんだよな、結局。
つづく
今は、
「変化」
という言葉がピッタリ
くるような
世の中の潮流だ。
現象的にも
そうだが、
実在的にも
そう。
自分自身を
大きく変えたり、
自分のやってきた
ことを
大きく変えたり、
もしくは、
「超」がつくくらいの
加速をしたり。
様々な挑戦を
しやすい潮流だ。
こんな時こそ
大切にしたいのが、
「何もしない時間」
だ。
何もせず、
じっと自分自身と
純粋に
向き合う時間だ。
数分でいいので、
一日の内に
何度もそんな時間を
取り入れるといい。
一つの仕事が
終わるたびに
そんな時間を
とるといい。
自分の心を
見つめ、
自分の原点を
見つめる。
自分は
本当は、
本来は、
何のために
何にがんばろうと
しているのか?
自分の
「本来」を
思い出す時間。
それを
頻繁に取り入れ
ながら、
ちゃんと
「自分」
を持ちながら、
変化
加速
をしていこう。
つづく
人間、
諦めが肝心だ。
もちろん
良い意味で
言っている。
諦めることで
新たな何かが
起こる。
諦めることで
新たな何かが
手に入る。
諦めることで
自分自身が
脱皮する。
しかし、
本来は諦めると
良いのに、
そこに執着してしまう
ことで、
先に進めない人は
残念ながら多い。
だから一つ
しっかりと
仮定してみよう。
「私は今、
脱皮をしようと
している」
と。
その仮定の
上で、
自分自身に
問うてみよう。
「私は今、
何を諦めるべきか?」
と。
答えが浮かんだら、
それを
手放そう!
すぐに。
一刻も早く。
もう迷っている
時間はない。
つづく
これまでの
自分の生き方を
変えてみる、
というのは
かなり勇気の要る
ことだ。
でも
その衝動に
駆られている人は
今、多いのではないか。
もし
あなたがそうであれば、
私はぜひ、
いっそのこと根本的に
これまでとは別の
生き方(行き方)に
挑戦してみることを
お勧めする。
生き方を変える
と言っても、
それは
選択肢が増える
ということだ。
これまで
Aという生き方しか
できなかった人が
Bという生き方も
できるようになり、
つまりは、
AもBもできるように
なり、
自由度が増える
ということだ。
でも本当に
そうなるためには
一度は、
Aを捨ててしまわないと
いけない。
それくらいの
覚悟で
Bで生きなければ、
Bは自分のもの
にはならない。
だから
生き方を変える
には、
中途半端は
ダメだ。
とことん
やっちまえ!
と言いたい。
私は
人間の美しさの
一つは
「変化」
にあると思っている。
覚悟を持って
変化をし続ける人。
そういう人には
一種独特の
空気感が漂う。
そして、
変化をすれば
するほど、
その奥に
その人独自の
揺るがないものも
また
顔を出す。
揺るがないものが
あるからこそ
私達は
思いっきり
変化できるのだ。
覚悟を持ち
根本的に
変わろうとする。
だからこそ
揺るがぬものが
毅然と姿を
現す。
しかし多くの場合、
本人は
そこに気づいていない。
本人は
それよりも
変わり続けようと
する
その衝動に素直だ。
変わり続ける
ことの
揺るがなさ。
そんな時
その人は
最大の魅力と
美しさを
発現している。
つづく
さらに
加速をしてみよう。
たとえ
現時点で最高速を
出していたとしても。
さらに
加速をしてみよう。
それは
未知の領域だろう。
これまでの経験の
活かされない
領域。
そこに
突入してみないか。
自分の範疇で
成長できるのは
当たり前。
しかしそれだけでは
私達人間は
物足りないのだ。
だから
未知へ未知へ
と向かう。
これもまた
一つの本能。
その本能に
素直になって
みるのもよいよ。
未知の領域に
いる時の
自分は、
まるで自分では
ないみたいだ。
無我夢中なのだが、
どこか
静かにすべてを
俯瞰している。
その独特な
感覚は、
新しい自分を
発見する喜びも
伴いながら、
私達の全身に
行き渡る。
これもまた
人が手に入れられる
幸せの一つだ。
加速に
躊躇はいらない。
躊躇をすれば
逆に不安定になる。
手加減なしに
全力で
加速してしまおう。
つづく
時折、私は
目を瞑り、
時間の流れ
のみに意識を向ける
ことがある。
それ以外の
ことは
何も考えない。
「時間」とのみ
ここにある、
という状態になる。
すると、
とても落ち着く。
命とは
時間だな、
とも思う。
私達は
「時間」に拘束されて
人生を始め、
それは
人生の終わりまで
続く。
拘束を
拘束と捉えていると
ちょっと辛い。
しかし別に
無理な捉え方に
変換する必要もない。
拘束されているなら
自ら進んで
拘束されようでは
ないか、と
ちょっと開き直ってみる。
どうせなら
俺は
君(時間)のことを
もっと理解してやろう、
と
開き直ってみる。
すると
何やら不思議な
感覚になる。
なんで
「時間」なんてものが
あるんだ?
という
問いが浮かぶ。
それを
「時間」そのものに
問うてみる。
何で君がいるの?
と。
面白い答えが
返ってきた。
そりゃ
君が望んだからだ。
・・・と。
この拘束は
君が望んだんじゃ
ないか。
・・・と。
お〜そうか。
・・・と
その答えを素直に
受け取ると、
何故だか
「今この瞬間」
が
愛おしくなってきた。
よし、じゃあ
仕事にかかるか。
・・・と
心がリセットできた。
「時間」とは
向き合ってみる
ものだな。
つづく
思えば、
私のサポート
というのは、
心に針治療をする
ような
ものかもしれない。
そう言えば
15、6年も前だが、
私は日々、多くの方々と
向き合い過ぎて
体を壊してしまったことが
ある。
当時は私自身が
まだまだ無数の
自分を阻害する反応本音
のパターンを持っており、
それだけでも苦しいのに、
そこの上に
たくさんの人達の
エンティティを受け取って
いた。
しかもその時はまだ
「エンティティ」というものを
私は知らなかったので
私自身が一体何に
苦しんでいるのかも
わかり切っていなかった。
そんな状態で
毎日、研修も多く、
何十人、何百人という
人達と向き合い続けたので、
ついに自律神経が
まいってしまった。
ものが食べられなく
なった。
どうだろう?
確か一日に
小さなお茶碗に
ごはんを3分の1くらい
しか食べられなくなった。
それ以上食べると
途端に下してしまうのだ。
かなりげっそり
痩せてしまったし、
お客様からも
すごく心配していただいた。
にも関わらず、
私は仕事を減らすことを
まったくしなかった。
でも何とかしなければ
ならない。
と思った私は
針治療に通うように
なった。
そのおかげで
体調は少しずつ改善
した。
針治療は本来は
痛くないものの
ようだが、
私の場合、時たま
ひどく痛みを覚えた。
今から思えば、
それは体の痛み
というよりも
心の痛みだった。
針治療は
体に針を刺すので
見た目、ちょっと怖い。
だから
あえて自分から進んで
それに取り組む人は
あまりいないのかも
しれない。
私のサポートも
同様で、
私のサポートは
心に針を打つようなもの
かもしれない。
だから
最初は結構な人が
怖がる。
もちろん
「怖い」と実際に
言う人はいないが、
怖がっているのが
よくわかる。
そんな場合、
私は最初から
針治療には入らない。
怖くないですよ。
というのを
わかっていただくのと、
その人が
針治療を受けられる
だけの覚悟を持てる
状態まで持っていく。
実はそこまで行くのに
時間がかかる。
逆に言えば、
そこまで行けば
あとはとても楽かも。
やはり、
真本音度合いの
低めの人達は、
私の「心の針治療」を
無性に怖がる。
最初から
真本音度合いの高めの
人達は
何故だか最初から
とても喜んで、
自らブスブスと自分の心に
針を突き刺す。笑
で、そういう人は
あっという間に
数々の成果を
上げていく。
一つ言えるのは、
みんな、
今の時代は
針治療が必要なのだと
いうことだ。
みんな、
本当の意味での健康
とは言えない。
どんな人も。
残念ながら
それが今の世の中だ。
もちろん
自分だけのせいでは
ない。
環境の原因も
大きいだろう。
しかし
今の世の中において
現実を変えていくのは
それができるのは
本人だけだ。
自分で自分を
本質的に鍛え、
ちゃんと自らの道を
創っていけるだけの
たくましい自分創り
もやはり、
本人が進んで
するしかないのだな、と
日々、思っている。
つづく
心が荒れていたら、
行動も荒れ、
心が静かであれば、
行動も静かになる。
・・・という人生から
脱け出よう。
自分の心の状態が
自分の行動を
・・・つまりは
自分の人生を
左右する。
・・・という人生から
脱け出よう。
そんなこと
できるの?
と思われるかも
しれないが、
そんなこと
できるんだ。
誰もが。
もちろん
心を無くす
ということではない。
むしろ逆だ。
心を本当に
大切にするんだ。
心が荒れると、
その「荒れ」を
止めようとしてしまう。
まずは
それをやめる。
荒れている心を
そのまま
大切にする。
そのためには、
荒れている心を
そのまま
観察するんだ。
もしくは
そのまま
「感じる」。
それをすると
一見、とても苦しい
ような気もするが、
「荒れ」から
逃げよう逃げよう
とか
「荒れ」を
無くそう無くそう
とするから
余計に苦しくなる。
むしろ逆に
自ら積極的に
その「荒れ」を
あるがままに
見つめよう、
感じよう、
と
するんだ。
すると、
ある時はその「荒れ」は
スーッと抜けて
いくし、
ある時は「荒れ」は
そのまま残るけど、
その「荒れ」から
少し距離を置いた状態に
なれる。
こういったことに
慣れていくと、
だんだんと
どんな「荒れ」が来ても、
すべての「荒れ」が
愛おしくなってくる。
まぁすべて
自分の心だからね。
自分の心の状態の
すべてを
常に慈しみを持った
眼差しで見つめ、
感じることが
できるようになる。
すると
だんだんと
どんな「荒れ」が
来ても、
へっちゃらになってくる。
「荒れ」は
そのままに。
あるがままに。
しかし
どんな「荒れ」が
あっても、
自らの次の行動は
落ち着いた状態で
しっかりと
真本音で決める
ことができるようになる。
すると
自分の行動に
関してはもう
「自由自在」だ。
そこからだ。
人生が本当に
面白くなるのは。
つづく
物事が
花開くかどうかは、
「継続」
にかかっている。
ほとんどが
そうではないか。
極端に言えば、
ちゃんと継続さえ
すれば、
何らかの成果は
必ず出る。
しかも
もしその「継続」を
真本音で望んでいたら、
そこで育まれた
芽は
ある時ある瞬間に
一気に開花し、
次の次元へと
進む。
つまりは
進化を始める。
でもやはり
その場合でも
「継続」は必要だ。
私は
真面目さとは、
継続すること
だと思っている。
物事を真面目に
継続させる人は
結局は強い。
・・・・・・
今日から一つ、
毎日
継続することを
新たに決めると
いい。
ちょっとした
努力が
必要なこと。
無意識でも
継続できること
ではなく、
あえて、
意図的に
ちょっと努力しなければ
ならないことが
お勧めだ。
それを、
一日置きとか
1週間に一度とか
ではなく、
毎日
必ず続けるのだ。
土日も
関係ない。
毎日
自分の中で
完了感が出るまで
続ける。
すると
それがちゃんと
できることで、
それは一つの
達成感と共に
自信にもつながる。
自分は
継続できる人間だ。
という自己イメージは
とても大事だ。
これがあるのと
ないのとでは、
人生において
手に入れられる
成果の量が
圧倒的に変わってくる。
継続力は
これからの時代
こそ、
必要となってくる。
継続力のある
自分を、
それこそ
継続的に育てる
べきだ。
つづく
自分自身の流れ
と
世の中の流れ
を
無理に一致させる
必要はない。
むしろ
その違いこそが、
その人の個性を
育む。
違いをなくそう
とするのではなく、
その違いを
大切に育てながら
世の中と調和を
しようとする。
それが
生きることの
醍醐味だ。
個性を
なくす方向に
あるのは、
自分自身の中の
自分への
反乱だ。
心の中が
戦争状態になる。
たくさんの葛藤の
渦となる。
その混乱の中で
必死に生きる
ことになるのだが、
混乱の中で必死に
生きるその
パターンが
「自分の個性である」
と思い込む
ことになる。
しかしそれは
その人の本来の
個性ではない。
混乱の中で
生じた
生き方の癖に
過ぎないのだ。
自分の流れは
自分が
大事にする。
とはいえ
世の中の流れも
大事にしようと
する。
両方
大事にしようと
する。
「世の中」を
「組織」とか
「会社」と
言い換えても
同じだ。
会社の中で
自らの個性を
潰すのではなく、
自分の個性を
自分が大事にし
会社の個性も
大事にし
両方大事に
しようとする。
もちろん
すぐに調和は
起こらないかも
しれない。
それでも
両方、大事に
しようとする。
別々のもの、
違ったもの、
を
別々さと
違いを
大事にしながら、
両方を
活かそうとする
ことこそ、
私達人間が
できる
最大の強みの一つ
であり、
これが
新たな次元への
架け橋となる。
別々を
紡ぐことで
次元は
高まるのだ。
自分か、
自分以外の
どちらをとるか?
ではない。
両方を
大事に
紡ぐ。
自分も
世界も
両方大事にし
紡ぐ。
これが
人間の創造性の
源だ。
つづく
洞窟の中に
いる間は、
それがどれだけ
真っ暗闇でも
私達はそこに
いることが
当たり前になって
しまう。
暗闇に目が
慣れていれば、
そこでもいろいろな
ものが見え、
ちゃんと暮らせる。
もちろん
暗闇の中でも
幸せはある。
むしろ
暗闇の中でしか
見出せないような
幸せもあるだろう。
しかし、
突如として
出口が見え、
光が見え、
それがかなり
大きく近づいて
くると、
自分は
なんと暗い中に
いたのか。
自分は
どうしてあんな中で
満足して
いたのか。
という
気分になる。
もし実際に
出口から
外に出ることができ、
その開放感!
あたたかさ!
すべてが見える
喜び!
世界の広さ!
爽快さ!
を
全身で感じ取った
ならば、
なぜ私は
もっと早く出口に
向かわなかったのだろうか
と
自分自身を
呪うかもしれない。
洞窟の中。
洞窟の外。
どちらも
人生だ。
どちらにいるかも
その人の
選択だ。
もし
洞窟の外に
最初からいれば、
洞窟の中の世界など
知る由もないだろう。
洞窟にわざわざ
入ろうなどとは
一生思わないだろう。
いや、
洞窟の存在すら
知らないままかも
しれない。
洞窟の中の人生。
洞窟の外の人生。
どちらが
素晴らしいか?
などという視点は
私は必要ないし、
それは単なる
その人の解釈に過ぎない
と思う。
ただ一つ
思うのは、
人間である以上、
せっかくなので、
両方知る
と良いのではないか。
せっかく
人間なのだから。
両方知った人が、
私はあえて
洞窟の中で生きよう
と
決めるかもしれない。
実際に
そういう人も
確かにいる。
それはその人の
人生の道だ。
両方知った上で
自分で決める。
ちゃんと
自分で決める。
それが
人間ではないかな。
つづく
これまでの
あなたの
『中心核』
が消えて、
新たな「中心核」が
生まれたと
しよう。
これまでの「中心核」は
あなたの体の
どこにあり、
新たな「中心核」は
あなたの体の
どこに
生まれただろうか?
これまでの「中心核」は
どのような形を
しており、
新たな「中心核」は
どのような形だろうか?
これまでの「中心核」は
何を大切にしており、
新たな「中心核」は
何を大切にするの
だろうか?
これまでの「中心核」は
何を願い、
新たな「中心核」は
何を願うだろうか?
これまでの「中心核」
によるあなたは
何者で、
新たな「中心核」
によるあなたは
何者として
在るのだろうか?
最後に、
新たな「中心核」は
あなた自身に
何をメッセージ
しているだろうか?
中心核が
変わるということは
私達にとっては
かなり根本的な
変化なのだろう。
でも
怖がることも
焦ることもなく、
それすらも
楽しんで
進みたいものだ。
新たな自分を
楽しもう。
つづく
この文章を
ご覧いただいている
皆さんへ、
今回はとても
重要なことを
一つ、お話しします。
「決意」
を一つ
決めてください。
それは
あなたがこれまで
一度も決意したことの
ないもの
であることが
重要です。
これまでの人生で
一度も
決めたことの
ないこと。
これまでのあなたの
視点の中には
なかったもの。
でも
それを決意することで
これからの
あなた人生の
「新たなステージ」
が
間違いなく
より良くなって
いくもの。
単純なことで
良いです。
壮大なことでも
いいし、
ほんの身近な
ことでもいいです。
とにかく、
それはあなたに
とって
新鮮なもので
あるところが重要です。
しっかり
考えて、
そして
完全に決めて
ください。
「決意」
ですからね。
ちなみに
私はもう
決めました。
教えませんが。笑
時間がかかっても
良いので、
しっかりと
あなただけの
「決意」を
明らかにしてください。
人に表明する
必要はなく、
あなたの中
だけで
決めれば良いですよ。
つづく
風穴が開いた。
という
気がする。
ずっと
開けたかった
穴だ。
言ってみれば、
52年かかった、
とも言える。
これまでも
何度も
「開いたかな?」
というのは
あった。
しかしその度に
いまいち
だった。
でも今度は
大丈夫かな?
と
思う。
これまでとは
感触が
違い過ぎる。
・・・・・・
実は、
風穴のその先の
世界は
観えている。
観えているのに
そこに行けない
という
もどかしさ。
それが
これまでずっと
続いた。
その感覚が
明らかに今、
消えようとしている。
ちょっと
寂しい気はするが。笑
・・・・・・
人が
育っている。
もちろんまだ
数は少ない。
でも
私が心から
信頼できる人達が、
ニョキニョキと
頭角を
現し始めた。
想いを
カタチに
し始めている。
実在と
現象が
一致してきた。
ついに。
・・・・・・
世の中の
混乱の
奥にあるものを
掴み始めている
人がいる。
奥を感じて
進むのか?
混乱に
呑まれるだけで
進むのか?
今後さらに
人生は大きく
変わってくるだろう。
つづく
私は
「現場」
を大事にしている。
もう四半世紀近く
「コーチ」の仕事を
しているが、
これだけは
ずっと大事に
し続けた。
どれだけ理論が
素晴らしくても、
どうしても
机上の空論
というのが
嫌だった。
だから
迷ったらいつも
「現場」で
人と向き合った。
昔の私は
反応本音がとても
ひどく、
エンティティも
ひどかったので、
心が非常に
不安定だった。
だからすぐに
自信をなくすし、
自分を見失うし、
仕事に出るのが
人と会うのが
とても怖くなった。
でも
そういう時こそ
私は勇気を奮って
人に会いに行った。
それだけは
昔の私を
褒めてやりたい。
内に籠ろうと
してしまう精神状態の
時こそ
私は必死に
外に向かった。
人と
向き合い続けた。
まだ「真本音」という
概念すら見つかって
いなかった頃だが、
その時から
私の人生理念は
「向き合う」
だった。
それをとにかく
実践し続けたので
今があるのだと
思う。
「向き合う」
というのは
人に力やエネルギーを
与えてくるのものだ。
恐らく、
生命力の源は
「向き合う」
という行為ではないか。
人と人は
「向き合う」生き物
だ。
「向き合う」ことを
前提に
創られているのでは
ないか、と
思えるほどだ。
組織でも
人間関係でも、
そこにいる人達と
向き合えているか
どうか?
すべては
そこに尽きる
と
よく「現場」で感じる。
だから私の
サポートの本質の一つは
いかに
そこにいる人達が
向き合える状態に
なるか?
である。
逆に言えば、
みんな、
向き合ってない。
形だけ向き合っている
という人が
多過ぎるのが
今の世の中の
大問題点だ。
今の世の中の
最重要課題は
「向き合う」
かもしれない。
私も人生において
様々な課題や
理念が
生まれた。
でも
最初の理念は
「向き合う」
出し、
最初の課題も
「向き合う」
だった。
そしてそれは
今もずっと
継続している。
一生のテーマ
だな。
つづく
まずは
『自由奔放』
を知ることだ。
自由奔放とは
どういうことか?
を
その本質を
知ることだ。
それがわかったら
自由奔放に
生きては
ならない。
次に行なうのは
『自由自在』
に生きることだ。
「自由自在」
とは、
「現実」をちゃんと
見つめ、
「現実」に合わせ、
「現実」の中で、
これだ!!
と、最も納得の行く
一歩を
踏み出し続ける
こと。
つまりは
自分自身を
自由にコントロール
する状態だ。
これができるには
「自由奔放」
を知らねば
ならない。
「自由奔放」
を知る者のみが
「自由自在」
に生きることが
できる。
その結果、
自分の本当に望む
方向に
現実を拓く
ことができる。
私達は
自由奔放に
生きるために
ここにいる
のではない。
私達は
自由自在に
生きるために
ここにいるんだ。
つづく
未開の地に
進んでいる
日々だな。
と
実感できる時が
ある。
実は今が
そうなのだが、
そんな時は
一日の内に起こる
様々な出来事が
なんだか
他人事のようだ。
つまりは
私の顕在意識が
常にボーッと
している状態で、
イマイチ
現実味がない。
常に私自身の
範疇を
超えてしまって
いるのだ。
通常はそういった
場合、
進むことに躊躇を
するのだろうし、
恐怖も感じるのが
人間なので、
どちらかと言えば
恐怖、という
感覚のおかげで
現実を実感できる
はずだが、
そういったものも
私は感じるのだけど
手放している状態に
してしまうので、
麻痺するのでは
なく
すべてを感じて
いるのだけど、
でもなんだが
自分の人生では
ないようだ。
まぁ、
赤ちゃんが
初めて目にするものに
夢中になって
いる感じかも。
容量オーバーで
すぐに眠ってしまう
あの感じかな。
要するに
起きているけど
容量オーバーで
眠っているのと同じ
状態なのだろうか。
ここのところの私は
そんな感じだ。
でも実は
こういう日々こそ
私は結構好きで、
私は私の
容量オーバーが
好きなようなのだ。
その時は
無我夢中なのだが、
気がつけば
自分の知らない
いろんな発想や
気づきが
手に入っている。
無我夢中で
進んで
しばらく経って
少し落ち着いて、
よくよく
見たら
手にたくさんの
宝物を掴んでいた、
という感じだ。
まぁこれを
「冒険」
と言うのかな。。
人間は
冒険が好きなんだな。
未知の領域。
未知の世界。
現象のレベル
だけではなく、
実在のレベル
でも、
そこに突入していく。
今はそれが
できる状態に
なれたということを
素直に喜ぼう。
つづく
道を拓く力とは
何か?
と
問われたら、
様々な視点の
様々な答えが
あると思うが、
そのうちの重要な
一つとして、
私は
「自分自身の発想の
存在を知る力」
と答えるかな。
これ、
意味わかるかな?
私達の中に
生まれる
発想、って、
最初はほんの小さな
種みたいな
存在なんだよね。
まだ
「発想」にまで
なっていない。
言語化もできていないし、
イメージにも
なっていない。
最初は
ただの「感覚」でしか
ない。
「自分自身の発想の
存在を知る力」
とは、
その「感覚」を
掴む力ということだ。
つまりは、
あっ、
今、自分の中に
発想の種が生まれたぞ。
・・・と
感覚で掴む力だ。
これを研ぎ澄ますと
強い。
「感覚」の在処を
まずは心の中に
見出し、
その場所に
意識を向け、
イメージにも
言葉にもならない
その単なる「感覚」に
エネルギーを
与える。
そしてそれを
大事に大事に
育てるんだ。
するとその「感覚」は
だんだんと
実体を持ち始める。
最初はわずかな
存在感しかなかった
ものが、
だんだんと
そこにあるのが当たり前
くらいになってくる。
すると
そこに様々な刺激を
入れながら
それを育てる。
その刺激とは
「問いかけ」
だ。
「感覚」から始まる
その存在に
問いを投げていく。
するとその
「問い」を栄養に
しながら、
「感覚」は「実体」となり、
「実体」はしだいに、
一つのイメージや
アイデアと
なっていく。
そして
ある瞬間に必然的に
「気づき」
が来る。
あぁ、これをしよう!
こうすればいいんだ!
という
明確な発想となって
それは羽化する。
これが
道を拓いていく。
このように
「気づき」とは
必然的に育てられるものだ。
これをすることを
私は
セルフコーチングと
呼んでいる。
私達は
発想の宝庫だ。
しかし、
発想を自ら見つけ
育てることを
もっとした方がいい。
せっかく生まれようと
している発想だ。
生まれる直前から
生まれやすいように
手をかけるといい。
それが
セルフコーチングの
本質というものだ。
つづく