てんでバラバラな記事を
書いているように
思われるかもしれませんが、
ここのところのこのブログの記事の
すべての根底に流れている
テーマがあります。
それは、
「自由」
です。
自由とは何か?
自由を阻害するものは何か?
真に自由になるために
必要なものとは何か?
真に自由になるために
どうすればよいか?
これらの問いが
すべての根底にありつつも、
様々な視点から
書かせていただいています。
もう一度、この辺りで
それを思い出していただくと
よいかなと思いました。
今回も
そんな視点からの
お話です。
さて。
人間とは何でしょうか?
・・・と問われたと
します。
私は、
人間と向き合い続ける
お仕事をさせていただいて
いますので、
毎日のようにこの問いと
向かい合っています。
これまで、様々な視点から
様々な答えを
見出すことができましたが、
この問いに関しては、
「これがベストアンサーだ」
という結論は出さない方が
よいと思っています。
その方が
もっともっと人間探究を
楽しめます。
その前提のもとで、
その問いについての
ある視点からの一つの答え
(あくまで私が実感した答え)
を申し上げます。
それは、
人間とは、
『願いのカタチ』
である。
・・・ということです。
「願いが服を着て歩いている」
のが人間である、と。
ただしその願いには
いろいろな願いが
あります。
私の言葉で表現すれば、
真本音の願いもあれば、
反応本音の願いも
あります。
どのような願いだとしても、
私達人間は、
「願いの一点」
を決めています。
つまり、
今の自分は、
今日の自分は、
どの「願い」のために
生きるか?
ということを無意識に
決めています。
そしてそれを
自分の「中心」として、
すべての言動を
無意識に
自分で決めています。
願いの一点を決めずに
日々を生きている人は
私が実感する限りでは
一人もいません。
ですから、
次の問いが非常に
重要だと思うのです。
「私は今、
どのような願いの一点を
中心にして
生きているのだろうか?」
ここが、
反応本音の願いだとしたら、
その人の心の中には
残念ながら
ストレスが湧き続けます。
真本音の願いだとしたら、
その人は
中心からパワーが
湧き続けます。
そういった
単純明快な法則が
あります。
反応本音の願いとは、
「満たされないものを
満たそうとする願い」
です。
ですのでそれは、
「枯渇した中で湧く願い」
です。
枯渇した中で
湧きますから、
多くの場合それは結果として
周りの人から
「何かを奪う」
願いとなります。
そういった人と一緒にいると、
単純に、
パワーを奪われ続けます。
あの人と一緒にいると
疲れる。
あの人と一緒にいると
苦しい、辛い。
あの人と一緒に
いたくない。
そんな印象を持ってしまう人の
中心には
そういった「枯渇した中で湧く願い」
が設定されています。
そして、
周りからパワーを奪い続けて
いることを、
一番よくわかっているのは
その人自身です。
ですからその人は
無意識のレベルで
自分を責め続けます。
つまり、
罪悪感というやつです。
罪悪感とは、
自分で自分を
傷つける行為と同じです。
ですからずっと
ストレスが湧き続け、
その人自身も
パワーが減退します。
つまり、
パワーを奪っているのに、
自分からもパワーが
奪われ続ける、
という状態に入っています。
で、ますます枯渇し、
ますます人からパワーを
奪おうとします。
その悪循環。
それを引き起こしてしまうのが
反応本音の願いを
中心に置く生き方です。
それに対して
真本音の願いとは
それ自体が
自分自身にパワーを
与えます。
願いが叶っているかどうか?
ではなく、
その願いを持つこと自体で
パワーが宿るのです。
そしてそのパワーは
周りに伝播します。
真本音の願いを
中心に生きている人と
一緒にいると、
誰もが元気になります。
あの人ともっともっと
一緒にいたいな、と
本能的に思うようになります。
さて、
どちらが
自由な人生となるでしょうか?
言わずもがな
ですね。
では、
真本音の願いとは
どんなものか?
を、もう少し詳しく見て
いきましょうか。
つづく
コメント