罪悪感

いつまで止まってる?

 

今、自分は

なぜ

ここにいるのだろうか?

 

ということを、

もっと

真剣に考えてほしい。

 

・・・と

伝えたい人が

実に多い。

 

要するに、

考えていない。

 

自分と

向き合っていない。

 

本当は、

とてつもなく深い

意味と

願いが

心の中にある。

 

今ここで

本当にすべきこと、

したいことが

自分の中に

確固たるものとして

存在している。

 

にも関わらず、

自分自身がそれに

気づかずに、

 

ただ惰性で

日々を過ごしてしまう。

 

すべきことが

あるのに、

自分で

「決めて」いるのに、

 

それを

しない。

 

それにより、

心の奥の方で

自分を責め、

 

罪悪感が湧き、

 

ストレスが

生じる。

 

ストレスが

ある濃度を超えると、

それは

「エンティティ」と呼ばれる

物質化をする。

 

ストレスの念

だ。

 

それがまた自分を

苛む。

 

そして毎日が

自分の発生させている

エンティティとの闘い、

となっていく。

 

だから余計に

すべきこと、

したいことが

わからなくなる。

 

その状態に

入ってしまっている

人が、

本当に多い。

 

以前から

「二極化」の話は

させていただいているが、

 

全力以上のスピードで

進む人が

増える一方で、

 

そのように

エンティティによって

止まってしまう人も

増えている。

 

その二極化が

ますます激しい。

 

自分自身に対して

怒り、

罪悪感を持つ。

 

そして、

大きくエネルギーダウン

する。

 

正直言って、

これほど馬鹿げた

ことはない。

 

一歩、また一歩、

一つ一つ、

 

本当にやりたいことを

自ら考え、

地道にちょっとずつ

やり続けるだけの

ことなのだが、

 

それを

しないんだなぁ。

 

私達は

急がねばならない。

 

もう時間が

ないのにね。

 

つづく

 

その願いは、自由をもたらす?

てんでバラバラな記事を

書いているように

思われるかもしれませんが、

ここのところのこのブログの記事の

すべての根底に流れている

テーマがあります。

 

それは、

「自由」

です。

(→【あなたは自由に生きていますか?】)

 

自由とは何か?

 

自由を阻害するものは何か?

 

真に自由になるために

必要なものとは何か?

 

真に自由になるために

どうすればよいか?

 

これらの問いが

すべての根底にありつつも、

様々な視点から

書かせていただいています。

 

もう一度、この辺りで

それを思い出していただくと

よいかなと思いました。

 

今回も

そんな視点からの

お話です。

 

さて。

 

人間とは何でしょうか?

 

・・・と問われたと

します。

 

私は、

人間と向き合い続ける

お仕事をさせていただいて

いますので、

毎日のようにこの問いと

向かい合っています。

 

これまで、様々な視点から

様々な答えを

見出すことができましたが、

この問いに関しては、

「これがベストアンサーだ」

という結論は出さない方が

よいと思っています。

 

その方が

もっともっと人間探究を

楽しめます。

 

その前提のもとで、

その問いについての

ある視点からの一つの答え

(あくまで私が実感した答え)

を申し上げます。

それは、

人間とは、

 

『願いのカタチ』

 

である。

・・・ということです。

 

「願いが服を着て歩いている」

のが人間である、と。

 

ただしその願いには

いろいろな願いが

あります。

 

私の言葉で表現すれば、

真本音の願いもあれば、

反応本音の願いも

あります。

 

どのような願いだとしても、

私達人間は、

 

「願いの一点」

 

を決めています。

 

つまり、

今の自分は、

今日の自分は、

どの「願い」のために

生きるか?

ということを無意識に

決めています。

 

そしてそれを

自分の「中心」として、

すべての言動を

無意識に

自分で決めています。

 

願いの一点を決めずに

日々を生きている人は

私が実感する限りでは

一人もいません。

 

ですから、

次の問いが非常に

重要だと思うのです。

 

「私は今、

どのような願いの一点を

中心にして

生きているのだろうか?」

 

ここが、

反応本音の願いだとしたら、

その人の心の中には

残念ながら

ストレスが湧き続けます。

 

真本音の願いだとしたら、

その人は

中心からパワーが

湧き続けます。

 

そういった

単純明快な法則が

あります。

 

反応本音の願いとは、

「満たされないものを

満たそうとする願い」

です。

 

ですのでそれは、

「枯渇した中で湧く願い」

です。

 

枯渇した中で

湧きますから、

多くの場合それは結果として

周りの人から

「何かを奪う」

願いとなります。

 

そういった人と一緒にいると、

単純に、

パワーを奪われ続けます。

 

あの人と一緒にいると

疲れる。

 

あの人と一緒にいると

苦しい、辛い。

 

あの人と一緒に

いたくない。

 

そんな印象を持ってしまう人の

中心には

そういった「枯渇した中で湧く願い」

が設定されています。

 

そして、

周りからパワーを奪い続けて

いることを、

一番よくわかっているのは

その人自身です。

 

ですからその人は

無意識のレベルで

自分を責め続けます。

つまり、

罪悪感というやつです。

 

罪悪感とは、

自分で自分を

傷つける行為と同じです。

 

ですからずっと

ストレスが湧き続け、

その人自身も

パワーが減退します。

 

つまり、

パワーを奪っているのに、

自分からもパワーが

奪われ続ける、

という状態に入っています。

 

で、ますます枯渇し、

ますます人からパワーを

奪おうとします。

 

その悪循環。

 

それを引き起こしてしまうのが

反応本音の願いを

中心に置く生き方です。

 

それに対して

真本音の願いとは

それ自体が

自分自身にパワーを

与えます。

 

願いが叶っているかどうか?

ではなく、

その願いを持つこと自体で

パワーが宿るのです。

 

そしてそのパワーは

周りに伝播します。

 

真本音の願いを

中心に生きている人と

一緒にいると、

誰もが元気になります。

 

あの人ともっともっと

一緒にいたいな、と

本能的に思うようになります。

 

さて、

どちらが

自由な人生となるでしょうか?

 

言わずもがな

ですね。

 

では、

真本音の願いとは

どんなものか?

を、もう少し詳しく見て

いきましょうか。

 

つづく

 

苦しんでいるのに、救えない・・・

「虚勢を張る」ということについて

書かせていただいています。

(→前回記事)

 

虚勢を張ることに

パワーを使い続けている人は

自分が真本音で決めている「道」を

見つけることはできません。

 

虚勢を張る心というのは

単なる反応本音の一種に

過ぎません。

 

しかしこれをし続けますと、

心全体がまるで

発泡スチロールのように

なっていきます。

 

心が動かなく

なるのです。

 

血が通わなくなります。

 

固まります。

 

しかも、

叩けばすぐに崩れて

しまうほどに、

弱いのです。

 

そんな

発泡スチロールのような自分を

一番わかっているのは

自分自身ですから、

そんな自分を守るために

その人はさらに虚勢を張る

ようになります。

 

そのうちに

そんなことをし続けている

自分に対して

罪悪感が増してきます。

 

「罪悪感」。

 

これは私達の心にとっては

最もキツく

苦しいものです。

 

なぜなら罪悪感とは

自分を責め続ける気持ち。

ですから、

喩えて言うならば、

自分の心に自分で

ナイフをぐさぐさと

突き立てているような

ものです。

 

自分で自分の心を

傷つける行為が

罪悪感を持つことです。

 

これは本当に

キツい。

 

心のエネルギーが

一気に奪われます。

 

要するに心は

格段に弱まります。

 

それにより

ますます発泡スチロール化

が進みます。

 

そしてますます

虚勢を張ります。

 

虚勢を張る、というのが

クセになり、

虚勢を張ることでしか

生きていけなくなります。

 

発泡スチロール化した

弱い自分の心を

少しでも傷つけそうな

人を見つけたら、

その人をまずはこちらから

攻撃するようになります。

 

攻撃される前に

攻撃するのです。

 

人を攻撃する

とは、

完全に

弱さの現れ以外の

何物でもありません。

 

しかし

人を攻撃しながら

それがさらなる罪悪感になり

内側から

自分で自分を攻撃

するようになります。

 

まさしくそれは、

心の八方塞がり。

 

延々と続く

悪循環です。

 

この状態では、

たとえ目の前に

自分の本当に望む道が

現れたとしても、

それに気づくことは

あり得ません。

 

ところが、

虚勢を張る自分とか、

罪悪感とか、

人を攻撃するクセは、

治そうと思っても

そうそう簡単には

いきません。

 

すべては

自己防衛の手段

なのですから、

治そうと思っても

不安感が増すだけです。

 

人は、

不安の方向に努力することは

難しいです。

 

その方向に進めば進むほど

安心感が増すとか、

希望の光を感じるようになるとか、

とにかく、

居心地の良い方向にしか

努力はできません。

 

「悪いものを治そう」

だけでは

続かないのです、

何事も。

余程、追い詰められない

限りは。

 

以前の私もそうでしたが、

こういった状態に

陥っている人に

たくさん出会います。

 

その度に

私は思います。

 

私達はもっと自分を

「救おう」

としなければならない、

と。

 

「治そう」とか

「修正しよう」ではなく、

「救おう」

としなければならない

のではないかと

私は本当に思うのです。

 

ところが

他者がその人を救う

ということは

できません。

 

自分のことを救えるのは

自分のみ

なのです。

 

私はコーチとして

多くの人と関わらせて

いただきながら、

「この人を救ってあげたい」

と、本当に毎日のように

思います。

 

でも、

「この人を救ってあげたい」

というこの気持ちの

なんと傲慢なことか。

 

上から目線とか

そういったレベルの

ことではなく、

何か、根本的に

人としての尊厳を

無視している気持ちであると

私は思うのです。

 

でもそれでも

「救ってあげたい」

と思ってしまいます。

 

それくらいに

苦しんでいる人が

今はあまりに

多いです。

 

しかも、

それだけ自分の魂や心が

苦しんでいることを

本人が気づいていない。

 

なんで気づかないままで

いられるのだろうか?と

不思議でならないのですが、

麻痺したままでいる。

 

私はその度に、

本当に失礼で良くない

表現ですが、

昔、中学生時代に

理科の授業で行なった

カエルの解剖を

思い出します。

 

解剖をされるカエルは

麻酔薬に浸けられます。

 

麻酔薬に浸けられた

カエルは

自分のお腹を

引き裂かれているのに

気づいていません。

むしろ、

気持ちの良さそうな

顔をしていることに、

当時の私はかなり

ショックを受けた覚えがあります。

 

その状態と同じ人が

今の世の中には

いっぱいいるのです。

 

思わず、

「救ってあげたい」と

思ってしまいます。

 

でも、

それは傲慢ですし、

どれだけそう思っても

不可能なことです。

 

私達人間は、

自分を救うのは自分だけである

という「摂理」の中で

生きています。

 

しかもそれが

人としての尊厳です。

 

それを私は

コーチとして決して

忘れてはならないと

いつも自分を戒めています。

 

だからこそ、

発見できたのかも

しれません。

 

自分で自分を救う

方法を。

 

その方法を

示すことが、

私の役割となりました。

 

その方法を

実際に使うかどうかは

本人しだいです。

 

努力するのも

本人しだい。

 

私ができるのは

方法を示すことだけ。

 

しかもその方法は

自然の摂理に沿った

ものでなければなりません。

 

でも私は

多くの方と向き合いながら

それを見つけることが

できました。

 

それは、

自分の本当に望む道を

見つける方法、

という言い方もできます。

 

ではその方法とは?

 

これを次回以降、

ゆっくりじっくりと

お話しさせていただきます。

 

つづく