チームパフォーマンスコーチ

気持ち良い気づきに負けるな

芋づる式に
気づきが
連発することが
ある。

それはもう
爽快だ。

しかし、
こういう時ほど
注意した方が
いい。

途中から
気持ち良さが
気づきを
引っ張ることが
ある。

そうなると
もう
それは
ただの「思いつき」
レベルとなる。

本質的な
気づきと、

思いつき

根っから異なる。

気づきとは
勢いで
広げるものでは
ない。

本当に
大切な気づきは

たった
一つ

で良い。

純度の高い
気づきを
得たら、

調子に
乗らずに、

その気づきを
しっかりと
自分の中心に
抱こう。

全能感
という言葉が
あるが
これは危険だ。

自分が
何でもできる!
という
感覚のままで
生まれる気づきは

大概、
途中から
おかしくなる。

中には
これに
ほだされたままに

日々を過ごす
人もいる。

大体は
本人の自己満足に
終わる。

気づきは
一つでいい。

そして
その一つを
大切に

冷静に

育てる
ことだ。

私達の実在は
そんなに
やたらめったらに
教えてくれる
もんじゃない。

気持ち良さに
負けない
ように。

つづく

似たもの同士だからといって

空の青と
海の青は

同じ青
なのに

全く違う。

二つの青が
混ざり合う
ことはない。

同様に、

同じような
個性(色)を
持っていても

混ざり合えない
人は
いる。

むしろ、
混ざり合っては
ならない人、

という
言い方の方が
本質的だ。

でもやはり
方向性は
同じ色。

そういう人
同士は、

あえて
離れる方が
いい。

離れて
それぞれの
世界を創る。

すると、
空は海の青を
見て、
「美しいなぁ」
と思えるし、

海は空の青を
見て、
「美しいなぁ」
と思える。

きちんと
離れるから
こそ、

お互いの
美しさを感じ合い、

お互いを
尊重し合ったり

離れている
からこその
シナジーが起きたり
する。

似たもの同士は
集まれ!
なんて
こだわる必要は
ない。

人と人は
距離感こそが
大切。

近ければ
良い
ということは
ない。

どの人とは
どの距離感で
関わるか?

という
問いを私達は
これからこそ
大切にしよう。

つづく

ここから動き方を変えていきます

実在と
現象が
隔たっている

というのは
ほとんどの人が
そうだ。

そういった
世の中に
なってしまって
いる。
何千年も。

その状態を
一気に
変えていくことは
とても難しい。

しかし
この10年間で
成されたことは

奇跡とも
表現できる
ものだ。

ただその
奇跡は
残念ながらまだ
ほとんど
現象化されて
いない。

現象化の
始まりが
昨年、つまり
2023年。

それを私は
「0の年」

呼んでいる。

そして
2024年。

今年を私は
「1の年」

呼んでいる。

どうだろう?

皆さんの
周りは
いかがかな?

実在が現象化
する
という意味での
変化を
感じられている
だろうか?

私の周りでは
今年に入ってから
本当に
変化が激しい。

人々の
脱皮や羽化の
連続だ。

そして
脱皮や羽化を
し始めている人との
出会いも
急増している。

私は
身一つなので、
サポートにも
限界がある。

それでも
やれるところまで
やってみる
つもりだ。

脱皮や羽化を
サポートするには
自分自身が
ちゃんと
脱皮や羽化を
貫徹しなければ
ならない。

その体験を
通じて
初めて、

脱皮・羽化段階の
人には
・何をして良いか?
・何をしてはならないか?

感覚的に
わかるようになる。

そういった
サポートタイプの人も
また
急増している。

現象レベル
での
変化の始まり。

正式には
昨年からだが、

私の印象的には
今年から、
ついに
本格化した

というところだ。

それを見越して
私もずっと
準備してきたので、

私は私の
動き方を
これから
変えていく。

もっと
効率的・効果的な
動き方に。

また具体化
したら、
ここで
報告していく
つもりだ。

つづく

ここで問いかけよう

あなたの
身体の
中心部分に

意識を
向け、

そこに
問いかけて
みてほしい。

「今、私は
順調か?」

と。

なかなか
答えが
スッキリしない
時は、

「何が順調で、
何が順調ではない
のだろう?」


問うてみると
いい。

今は、
とても順調に
物事が
進みやすい
潮流だ。

この状況で
もし
順調でない
ならば、

それは
あなた自身に
何らかの
問題がある。

こういう時
こそ、
何が問題か?

明確にしよう。

ここを
ちゃんと
やっておけば、

あとが
楽になる。

つづく

場からのプレゼント

足元から
突然、

エネルギーを
補給される
ことがある。

素直に
感謝だ。

その場に
プラスのエネルギーが
ある
ということだ。

あらゆる「場」には
エネルギーが
ある。

もちろん
マイナスエネルギー
の場も多い。

ある組織で

ある一定以上の
人達の
エネルギーが
高まることで、

場自体のエネルギーも
高まり始める。

すると
場が人を育てる
ということが
始まる。

そして
ある瞬間に
ふと

場から
エネルギーを
いただけることが
ある。

私の場合、
それを
足元から
いただく。

足元から
感じる。

下から
ジワジワと
心地良い
パワーが
昇ってくる。

あたたかく
落ち着いた
エネルギー。

これを
感じると、

あぁこの会社も
よくなったなぁ、

実感できる。

私の大きな
悦びの
一つ。

人を
育てる
とは
場を
育てる
こと
でもある。

人と場

セットだ。

そんな
見方をすると
面白い。

つづく

本当のエネルギーとは

風が流れ、
草花が
そよぐ。

一見、
穏やかに
見えるのだが、

実は
そういうものほど
本質的な
エネルギーが
高かったりする。

本当に
エネルギーの
高いものには
ゆとりがある。

ゆとりは
穏やかさを
生む。

逆に、

表面上の
激しさに
目を奪われ
過ぎては
ならない。

現象の
エネルギーと
実在の
エネルギーは
違う。

現象の
エネルギーは
使えば必ず
枯渇する。

実在の
エネルギーは
無尽蔵だ。
ただし、
そのエネルギーの
源泉を開く
ことは
なかなかに
難しい。

源泉は
すべて
「自然」の中に
ある。

例えば、
自然な生き方を
日々、
しっかりできている
人は、

実在のエネルギー

満ちている。

常に
内側から
エネルギーが
湧いている状態。
つまり、
その人自身が
源泉となれている。

私の
サポートとは
そうなるための
もの、
というのが基本だ。

安易な
現象の
エネルギーアップ
ではなく、

しっかり
じっくりと
その人の
もしくは
その組織の

実在エネルギーの
源泉を探す、

そして
掘り起こす。

これが
できると
その人や組織は

どんどん
穏やかに
なっていく。

静かに
なっていく。

源泉を得た
静けさ、

穏やかさ。

誰もが
体験できる
ことだ。

つづく

できればなんとかしたい

太陽に
翳りが
観える。

実在の
レベルで。

太陽が
悲しんで
いる。

おい、
どうしたんだ?


問う。

大したことは
ないさ、

返ってくる。

が、
悲しみは
確かに
伝わってくる。

思わず
涙が
出る。

本来、
明るく
燃え続ける
はずの存在が、

翳っている。

それだけでも
普通じゃ
ないのに、

この悲しさ

異常だろ。

いや、
大したことは
ない。

あなたの
ダメージに
比べれば、

・・・と。

・・・・・・

皆、
それなりに
ダメージを
負っている。

実在の
レベルでは
相変わらず

激しい
修復が
必要だ。

人が
ちゃんと
進んでいける
正常な
世の中に
治療するために。

人の
魂が
健康でいられる
ように。

人知れず、
ではなく

すべての人が
実在の
レベルで

実は
頑張っている。

現象の
自分達は

つゆ知らず。

実在の
自分は

ひっそりと
しかし
激しく
常に
頑張っている。

・・・・・・

この
世の中は

実在と現象

によって
成り立って
いる。

どちらかを
整備すれば
良い、
というわけには
いかない。

しかも
順番としては、

実在が
現象化する

というのが
正常だ。

だからまずは
実在を
何とかせねば。

それを皆、
痛いほど
わかっているから
努力する。

命を
かけてでも
必死に。

・・・・・・

太陽の
翳りは
なくなるのか?

私が
生きている
間に。

できれば
なんとか
したい。

できれば
この

数年で。

つづく

真本音で束縛する

右と左から
ガッシリと
身体を
固定されたような
窮屈さ。

本当は、
もう少し
右往左往
したいのだが、

この道を
この方角に
一寸のズレも
許さずに

今は
進まねば
ならない、と。

今ここで
少しでも
ズレてしまえば、

ここでの
僅かなズレの
蓄積が、

将来的には
致命傷と
なる。

だから
ここは
身体を
寸分違わず、

しっかりと
縛りつけ

水平に
垂直に
間違いなく
進む。

そんな無茶な、

いつも思う。

でもたまに
そうなる。

自分で自分を
そのように
縛るのだ。
真本音で。

真本音とは、
本来は
自由の象徴だ。

真本音で
生きれば
生きるほど、
私達は
開放される。

毎日を
自由に
生きる。

という状態に
感覚的に
入れる。

たとえ
環境的な
縛りがあっても。

つまり
どのような
環境においても

自由な自分
として
現実に向かい、
道を開く。

それが
真本音。

つまりは
実在の自分の
意思。

ところが
その実在の
意思が

どのような
環境においても
自分を
縛りつけることが
ある。

真本音で
進んでいるのに
窮屈だ。

そのような
ことは
特例だが、

たまに
ある。

道が
ないのだ。

そこしか。

選択肢が
本当に
ないのだ。

そこしか。

今のこの
世界は
そういった意味で

こんなにも
ひん曲がって
いるのかと
びっくりする。

そこまで
難しい世界
なのか、と。

そう、
なのだ。

私達の
この世界は
現象レベルで
見るならば、

落ちるところまで
落ちた。

だから
普通では
進めない。

しょうがない。

今は
自分を
縛ろう。
真本音で。

それにより
現実に

正確な

風穴を
空けよう。

真本音で。

まったく
我慢の
世の中だ。

つづく

気軽な再出発

トツン、
と 
何かが
落ちた。

トツン、
と 
落ちて
消えた。

大事な
ものだ。

絶対は
落としては
ならないもの。

なのに
落として
しまった。

落ちて
消えたものは
もう
戻らない。

また
始めから
やり直しだ。

この、
「やり直し」

できることこそ
私達人間の
大いなる力の
一つだが、

やり直す
ためには

「始めから
やり直しだ」

という
自覚が必要
だ。

ところが
それができない。

落として
しまった。

消えて
しまった。

という
事実を
受け止められない
からだ。

真面目すぎる
人に
多い。

そういう
意味では、

変な表現
だが、

もっと
不真面目で
いい。

あ、
落ちちゃった。

あ、
消えちゃった。

まっいっか、
また
やり直そう!

というくらいの
軽さが
必要だ。

私達は
大切なもの
ほど、

軽い気持ちで

落として
しまう。

それもまた
人間。

落として
消えてしまって
初めて
それが大切だった

気づいたりもする。

それもまた
人間。

であれば、
また
気軽に
始めよう。

再出発は
気軽で
いい。

つづく

命のやりとり

悲しみと

苦しみと

ほんの僅かの
喜びと。

そういうのが
ない混ぜに
なって

困惑しながら

その人は
ここにいる。

なぜ
私は
ここに
来たのだろう?

この会社に
とって
私は
本当に必要か?


問いながらも、

私に
伝わって
来るのは、

もう少し
根源的な問い。

この世の中に
私は
本当に必要か?

・・・それを
この人は
迷っている。

命を
投げ出すことを
厭わない
人だ。

一歩
間違えれば
人生を
捨ててしまう。

さて、
私は今、
この人に、

何を
伝える?

何を
伝えない?

本人の
自覚のない
ままに

ご自身の
人生を
懸けている
人は
急増している。

やりとりを
間違えれば、

その人の
人生展開は
180度
変わってしまう。

真っ当に
歩いている
人が

真逆に
向かってしまう
かも。

そういった
恐れが
感覚的に
私を襲う。

痛みにも似た
その感覚を

私はいつも
大切にする。

決して
誤魔化さずに
その場で

受け切る。

そうして
初めて
わかるのだ。

私が
どうこうでは
なく、

この場

だからこそ
本当に
必要な
一言が。

命の
やりとり。

それが必要な
場が
急増している。

つづく

世の中は変わる

眠っていた
ものが
眼を覚ます。

それは
世の中全体の
何か。

うごめく
何か。

一見、不気味
だが、
しかし実は
そうではない。

逆のもの。

希望とも
呼びたいもの。

そんな気配を
今は
強く感じる。

恐らくで
あるが、

またもや
何らかの
節目を迎えそうだ、

我々は。

以前は
10年に数回しか
起こらなかった
ことが、

今は
数ヶ月で
何度も起こる。

半年前と
今は
あまりにも
違う。

それを
自覚する感性が
できるだけ
たくさんの人に
あるといいな。

いや実際は
あるのだが、

感性があることを
本人が
認めていない。

惜しいな。

まぁそれよりも
私は
やることを
やろう。

今日も
明日も。

今、
目の前の
クライアントさんは

羽化しようと
している。

苦しそう。

追い詰められた
苦しみ。

そのまま
苦しみ続けて
ください。
大変だけど。

今は
羽化の苦しみ
なので。

・・・そう
伝えるしか
ない。

自分の
力のなさと

人と
向き合える
悦びと、

できる
最大をしようと
し続ける
必死さと。

そのギリギリの
やりとりの
中でこそ

ふと
強く
感じ取れるんだ。

世の中は
また
変わろうと
している。

つづく

仲間とは?

垂直に
成長する。

垂直に
進化する。

そのため
だったら

何でも
やる。

気がつけば
私の周りには
そんな人達
ばかりと
なった。

普通の成長の
仕方では
納得いかない
のだ。

ずっと
そういう人達を
探し続けてきたので、

こうなるのは
当然と言えば
当然なのだが、

しかしそれに
しても

毎日が
楽しい。

幸せだ。

垂直上昇しよう
とする
人との会話は
とにかく
楽しい。

これは
年齢は
関係ない。

経験も
関係ない。

子どもだって
そういう人は
いるんだ。
むしろ
増えている。

そんな子と
喋るのは
とても幸せ。

学ぶことも
多い。

どちらが
どちらを
サポートする
とか
指導する
とか

そういうのを
超えた
関係。

同じ場所に
留まって、
仲間だね!

やるのではなく、

進み続ける
ことで
自然に調和する

年齢を
超えた仲間たち。

世の中の
すべての
人達が
そうなれると
素晴らしい。


私は願い続けて
いるし、

そのために
今日
自分にできることを
全力で
やっている。

そんな中、
私は
さらに加速しよう

思う。

仲間たちの
様子を見て、
その気になれた。

仲間は
私に
パワーをくれる。

ありがたい
ことだ。

つづく

直観力を増すための思考

頭を使う
ことは
大事だ。

私は常に
直観直観

ばかり言っているが、

直観力の
ある人は
もともとしっかりと
思考を続けてきた
人達だ。

何も考えずに
生きていけば、

肝心の
直観も
鈍っていく。

正確に
言えば、

直感と直観

区別が
つかなくなって
いく。

つまりは、

単なる思いつき
なのか、

それとも
本質的な気づき
なのか、


区別が
つかなくなって
いく。

いつも
真面目に誠実に
そして必死に
物事を
考え続けている人は

その辺りの
区別が
よくわかる。

直観力が
増すほどに。

ただし、
何でもかんでも
思考すればいい、
という
わけでは
もちろん、ない。

私が思考で
特に大事だと
思うのは、

「準備」

だ。

仕事においても
趣味においても
何においても、

何か物事に
取り組む時は
しっかりと
準備をする。

例えば、
部屋の掃除を
する時も、

どこをどのように
どの順番で
やろうか?

と、
前もって
しっかり段取りを
考える。

明日、
ミーティングが
あれば、

そのミーティングを
どんな場に
するか
しっかりイメージ
する。

このように
一つ一つの物事への
取り組み方を
しっかり
考え続けている
人は、

直観力が
高まりやすい。

要するに、
丁寧な
生き方。

真面目に
丁寧に
生きる人は
やはり強い。

ちょっとした
コツがわかれば、

直観力は
ぐんぐん
伸びていく。

つづく

魂を大切に

実在のレベル
では、

私達の
身体の中心を
流れ続けている
ものがある。

それは
エネルギーと
表現しても
良いのだが、

あえて言えば、
実在レベルの
血液のような
もの。

この流れが
滞ってしまうと、
私達は
健康に生きる
ことができなくなる。

身体に血液が
必要なように、
これは
魂の血液
と言ってもいい。

私は
これがちゃんと
流れているかどうか

常にチェック
している。

流れていれば、
多少の無茶は
しても大丈夫。

でも
滞っていたら、
決して
無理はしない。

魂を
壊してしまったら
もう
おしまいだ。

それは
心を壊す
レベルの話では
ない。

心も大切
だが、

魂をもっと
大切に。

魂は強い、

魂は
いつも健康だ、

魂は
エネルギーに
満ちている、


思い込んでいる
人が
多いようだが、

決して
そうではない。

魂だって
大切にしなければ
壊れていく。

特に今の
世の中、

今の
時代はね。

つづく

どこに立ってる?

足元に
意識を向けて
みよう。

今のあなたは
どこに
立っている?

実在のレベルで
それが
わかるかな?

足元に
意識を向けて
自然に浮かぶもの
があれば、

それを
大切にしよう。

ちなみに
今の私は

沼の水面の
上に
立っている。

ちょっと
浮くような
感じで。

広い沼だ。

湖と
言っても良いが、
でもやはり
沼だ。

底は
感じない。

底は
感じないのだが、
なぜか
底が
よく見える。

水は
とても
澄んでいるから。

自分の
足元の実在が
わかったら、

それについて
解釈などは
何もしないで
おこう。

意味も何も
考えない。

ただ、
常にその
足元を意識しながら

日常生活に
向かおう。

そして
足元の変化に
敏感であろう。

それを
続ければ
様々な意味での
気づきが
起こるだろう。。

実在レベル
では
私達は
いろんな場所に
立つ。

その時その時

最もふさわしい
場所に。

ちゃんと
真本音で
決めて
それをし続けて
いる。

それを
そのまま
楽しもう。

つづく

降りてくる?

まるで
宇宙の彼方から
飛来したかの
ように、

実在のレベル
では
目の前に
降りてくるものが
ある。

ただ、
私は基本、

このように
「降りてくる」
ものが
あまり好きでは
ない。

よく
「降りてくる」
という表現を
使う人がいるのだが、

これも実はあまり
好きではない。

なぜなら
真の発想とは

自分の中心から
湧き上がる
ものだからだ。

ただ、
降りてくるものが
降りてくるのは
確かだ。

ただ、
それを
そのまま受け取り
「降りてきた!」

喜んでそれを
使っているうちは

その人は
自律している
ことにはならない。

それらを
ちゃんと
自分に取り込み、

自分の
意志・意思として
ちゃんと

自分

を通して
内側から
発現すること。

それをせねば
自分自身が
まずは
納得しない。
当然、
人に納得して
もらうことも
できない。

実は、
結構、
変なものも
いっぱい
降りてくるんだよ。
この世の中は。

この世で
実際に
生きているのは、

顕在意識の
私達
なのだがら、

顕在意識で
ちゃんと
それらを選別、そして
意思決定すること。

降りてくるもの

依存するな。

私達は
ここで
生きている。

つづく

チョコチョコ走り回る

ネズミ花火の
ように、
チョコチョコと
走り回る。

火を
吹きながら。

まったく
落ち着くことが
ない。

そんな人が
いる。

好きにさせて
おこう。

その人は
今、
そうしたい
だけなのだ。

存分に
チョコチョコと
走り回れば、

ある瞬間に
気が済む
時が来る。

そうすれば
落ち着く。

それまでは
遠巻きに
見守ろう。

間違っても
自分も一緒に
チョコチョコと
走り回らない
こと。

それをすれば
ずっと
そのチョコチョコは
終わらなく
なる。

終わりのある
ことは
終わるまで

待てば
いい。

これも
基本。

つづく

救おうとするな

後ろに
突っ走ろうと
する人が
いる。

それだけで
周りの人達は

特に
前に進もうと
する人達は

迷惑を
かけられる。

タチが悪い
のは、
本人は
自分が後ろに
向かっていることを
自覚していない
ことだ。

残念ながら、

そういう人には
できるだけ
関わらない
方が良い。

後ろに向かう
人を
前に向かせよう、

などとは
思わないことだ。

そこに
どれだけエネルギーを
使っても
変わらない。

本人の意志が
変わらないからだ。

それよりも、
まずは
自分自身が
為すべきことを
為すこと。
粛々と。

我々にできる
最大のことは
これだ。

人を救おう
などとは
思ってはならない。

本当に
人を救えるのは、
自分の
為すべきことを
しっかり
為し続けている
人のみだ。

人のことより
まずは
自分のこと。

自分を
しっかり
自律させること。

それが
基本。

つづく

ついに始まった

あの人が
変わった。

この人も
変わった。

クライアントさん
達が
次々に

羽化

していく。

知ってる?

昆虫って、
サナギの時、
その中では

液体に
なってるんだって。

そう
聴いたんだ。

凄いだろ。

それまで
成長させてきた
自分の形を

一度
液体化
させてしまうんだ。

ゼロに
戻して
しまうんだよ。

その上で
まったく新たな
姿となり、

成虫として
再び
生まれる。

それが
羽化。

それを
しているんだ、
クライアントさん
達は。

もちろん
私自身も
経験はあるけど、

側から
観ていると、
口あんぐり
だよ。

人間は
凄いよねぇ、
昆虫と同様に。

世界は
凄い、と
言うべきか。

バタバタバタ
と、
同時期に
皆が
羽化している。

大変革の
始まりだ。

どれだけ
現象が
混乱を極めようと、

この流れは
もう
止まらない。

つづく

もう眩しくないよ

煌めく
太陽だと
思っていたものが、

眩しくて
目を逸して
いたものが、

実は
自分自身だった
なんて、

最初は
誰もが
思いもよらない。

眩しすぎて
どうしても
目を
開けられない
から。

でも
そのエネルギーを
持って
生まれたのが
あなただ。

そのエネルギーの
使い道も
すでに
知っている。

生まれた
時からね。

その
エネルギーに
負けない、

いや、
それを
コントロールできる
自分に
なる。

そのために
ここまで
きたんだろ?

自分を
鍛えながら。

もう
目を開ける
時だ、
眩しくても。

あなたの
目は
もう
焼きつくことは
ない。

しかと
自分を見つめ、
理解し、

わかったら
もう
準備は完了だ。

準備は
もうすぐ
完了なんだよ。

つづく

月のメッセージ

月が
昇る。

大地の
向こうから。

じっと
見つめる。

月が
私を。

私は
待っている。

彼の
メッセージを。

荒れてるな。

想像以上に。

でも
想定内だ。

当然だよ、
荒れるのは。

無理をして
でも
進むと
決めたのだから、
我々は。

誰も
傍観は
していない。

だから
安心して
後押しができる。

だから
そろそろ
合図が必要だ、
君からのね。

永遠からの
一点。

悠久の
流れの中での
たった一つの
チャンス。

行っていいぞ。

私はもう
隠れない。

つづく

世界の終わりと始まり

これまで
世界
だと思って
いたものが、

忽然と

消え始める。

みるみる
間に。

感情が
働く前に、

完全に
消えた。

その
インパクトは
激し過ぎる
のだが、

何しろ
感情が
働く前に
すべてが終わった
わけだから、

心の
動かしようも
なく、

ただそこに
呆然と
佇むのみ。

悲しみも
孤独もなく、

自分
そのものも
なく。

そこに
あるのは
永遠の空間。

本当は
空間
などとは言えない
何か
なのだろうが、

3次元の
私の頭では
空間
としか言えない
のだ。

ただしそれは
決して

ではない。

ただ、
何も
いない。

存在が
いない。

でも

ではないのだ。

私は
私という
区別すら
つけることが
できずに、

ただ
そこにいた。

いや
「いた」とは
言えない状態で
いた。

そこに
世界は
なく、

永遠が
過ぎていく。

永遠
そのものと
なればもう
時間
などという
概念もなく、

でもやはり
永遠が
過ぎていく、
としか
表現のしようが
ない。

永遠が
過ぎた後に、

ポツンと

新たな
一点が生まれた。

明らかに
その空間とは
別のもの。

その空間が
生んだのか、

それとも
どこからか
きたのか、
わからない。

が、
異物のような
その一点が、

二点に
分かれた。

そして
二つは
愛し合い、

新たな
世界と
なっていく。

気がつけば
私は
その新たな
世界で
生きている。

生きている。

つづく

また流れ出したが

止まっていた
ものが
また
流れ出した。

流れては
止まり、

止まっては
流れる。

この
遅さと
地道さ。

これが
この3次元世界の
特徴だが、

イライラ
しながらも、

やはり
流れ出すと
嬉しい。

何度も
止まり
何度も
流れ、

というのを
繰り返して
行くうちに、

徐々に
流れそのものの
純度が
増していく。

清らかに
なっていく。

今回の流れ
では
それを
とても強く感じた。

水の質が
変わった!
という
感じ。

いや、
質というよりも
成分そのもの、

分子そのもの

変わったのでは
ないか、
くらいに。

となるともう
それは
水では
ないな。

じゃあなんだ?

ある種の
楽しみが尽きない。

つづく

有り難迷惑だったのだが

私達には
背骨が
ある。

背骨が
しっかりして
いなければ

しっかり
立つことすら
できない。

ところが、
実在レベルでの
背骨を
失ってしまっている
人が多いのは、

なんと
悲しいこと
だろう。

背骨を失くした
ままに
生きる人生は

悲し過ぎる。

今のこの
世の中は
悲しみばかり。

悲しみが
満ち溢れている。

背骨を
持てば、

自分で
立たねば
ならない。

できれば
ずっと
何かに
寄りかかって
生きていきたい。

だから
私には
背骨がないんです!

ということを
アピールしながら
生きる。

・・・結局は
そうなってしまって
いる
人が多い。

本当は
それが最も
自分自身が
悲しむことなのに。

背骨を
取り戻そう!

・・・これが
私の活動の
すべて
かもしれない。

みんな
背骨を
思い出して、
それぞれの
現実に
向かい合って
いこう。

そんな
非常にシンプルな
世の中に
したい。

それだけ
なのだが、

多くの人に
とってそれは、
有り難迷惑
のようだった。

ずっと
そうだったよ、
本当は。

それが
ようやく
変わってきたのが
この数年かな。

私の言葉が
とても
届きやすくなった
のは、
とても嬉しい。

が、
まだまだ。

ここから
さらに
私は私の
発信度合いを
開放していくことに
する。

つづく

内面より外面だ

地に足は
しっかり
ついているかな?

ちゃんと
意識は
「ここ」にあるかな?

現実を
観ているかな?

フワフワと
想像の
中だけでの
想いの強化
では
何も進まない。

実在を
感じるのと

内面を
見つめるのと

は、
ある意味
真逆の行為だ。

内面を
見つめること
自体は
大事だが、

内面を
見つめ過ぎて
現実を
観なくなるなら、

いっそのこと
内面も
見ない方がいい。

私達が
「外面」だと
思っているもの、

つまりは
あらゆる「現実」
は、

自分の内面の
反映でしかない。

本当に
自分を理解
したいなら、

外面を

つまりは
現実を

観続ける方が
いい。
何の解釈も
なく。
あるがままに。

願いを
大切に!


私は
言い続けて
きたが、

その願い
とは

内面には
ない。

外面(現実)に
向き合い続ける
ことで
初めて
見つかるものだ。

実在とは
内面には
ない。

実在とは
現実だ。

現実
そのものだ。

つづく

最大のピンチで向き合う

暗闇を
明るく
照らす。

そんな
瞬間が
ある。

人と人が
向き合う時。

初めて
向き合えた
時。

これまで
様々な淀みや
歪みが
発生し続けていた
その組織に、

突然、
灯台の光が
届くように。

方向さえ
定まれば、
そちらに
進めばいい。

皆、
方向が
わからないから
迷い続ける。

方向は
実は
ある。

でもそれは
そこにいる
人と人が
向き合わないと

決して
観えてこない。

人とは、
向き合うために
存在している
もの。

その真理を
忘れずに
在り続ける。

それだけの
ことなんだけどね。

混沌が
MAXで

もう
ダメかも


諦めかけた時
こそが、
チャンスだ。

皆、
わかってるんだ。

もう
後回しには
できないことを。

だから
そこで
向き合う。

向き合うことで
急に
道が
照らされる。

つづく

これが自分の姿だ

この世は

が、いっぱい
ある。

そこかしこ
に、

自分自身の
鏡が。

鏡が
なければ
自分の姿を
自分で理解する
ことは
できない。

だから、
鏡を観よう。

でも、
多くの場合、

鏡を見ても
それを
自分の鏡である
とは
認識しない。

それを
受け入れず
拒絶する人も
いる。

すべて
自分が
映っている
だけなのに。

その姿を
他人だ

思い込もうと
する。

望まない
姿が
あると、
それを見なかった
ことにするか、

他の誰か
何かの
せいにする。

自分のこの
心と体以外は

自分では
ない


思い込もうと
する。

本当は
知っている
くせに。

鏡は
そこかしこに
ある。

反射している
だけだ、
自分の姿を。

自分の
生き方を。

最初から
すべての鏡を
観ることは
難しいかも
しれない。

だから
まずは
自分が最も
大切にしているもの
から。

大切にしたい
誰か、

大切にしたい
物、

大切にしたい
事柄、

大切にしたい
現実、

・・・これらを
あるがままに
見つめよう。

そこに
自分の真の姿が
映っている。

何も
解釈せず。

映っている
そのままを
受け入れよう。

すると
他の鏡も
徐々に
観えてくる。

観えるのは
最初は
辛いだろうが、

ある程度
ちゃんと
観続ければ、

ある瞬間
から

急に
楽になるよ。

つづく

儚い人生を生きる

線香花火
というのは
儚いイメージだ。

小さく
燃え上がり、

光り、

そして
すぐに光は
落ちる。

消える。

儚いが、
それは
私達のこの
世の中も
同様。

線香花火の
ような
世界だな、

私はよく思う。

悪い意味

言っているのでは
ない。

私は、

その
儚さこそが
魅力だと
思うし、

好きだ。

人の心も
儚い。

人の意志も
儚いね。

でも、
そこが
好きだ。

儚いものを
紡ぎ合い、

持続させ
発展させる。

よちよち
歩きでも

なんとか
前に
進もうとする。

命も
すぐに
消えてしまう
(ように見える)。

私は、
この一瞬の
儚い人生と

自分
という人間を

満喫したい。

つづく

人間、わけがわからない

自分の
内側と

外側の

区別が
つかなくなることが
最近、
特に増えてきた。

つまり
自分の内面、

心の中

が、
どこなのか?

目の前の
現実こそが
自分の内面では
ないか?

という
感覚と共に、

本当の現実は
自分の
体の内側に
存在している

という
感覚。

この二つの
感覚が
別個に際立って
現れることも
あれば、

その二つの
感覚が
混ざり合い、
重なり
溶け合いながら
現れることも
ある。

そうなると
わけが
わからなくなる。

で、
その
わけのわからない
という状態が

楽しい。

人間という
のは、
自分のことを
理解すれば
するほど、

さらに
わからなく
なる。

どこまで
わかっても

どこまでも
わからない。

だから
人間なんだろう。

どれだけ
感性を
高めても、

どこまでも
鈍感だと
思えてしまう。

感性の
高まりは
無限大。

ここに関しては
本当に
限界はないのだな、

思える。

人間は
奥深すぎる。

でも
だからこそ
生きることが
楽しいし、

私の仕事が
楽しい。

今日のあの
クライアントさんは
なぜ
あのような
変化を
急にしたのか?

わかるの
だけど、
さっぱり
わからない。

クライアントさんの
内面と
外面も

私から観ると
混在している。

内面と
外面が
裏返っている
クライアントさんも
いる。

あんた
何者?


言いたくなるが、

お互い
人間同士。

わけの
わからない
存在同士。

そんな人間が
今、これから
社会を
大きく変えていく。

そのような認識は
あまり
ないかも
しれないが、

私には
感じる。

世の中
全体も、
内面と外面が
ごちゃ混ぜに
なってきた。

これは
混乱するよ。

破壊と
創造の
連続だ。

人間の
やることだ。

どこまで
行っても

わけが
わからない
だろう。

つづく

この世界での最も楽しい進み方

ほんの一瞬
のことで
あるが、

自分の
これからの
道が、

本当に
一瞬、

すべて
観渡せることが
ある。

一瞬なので
具体的なことは
わからない。

でも
一瞬であっても、
すべて
観渡せるのだ。

このインパクトは
あまりに
大きい。

わからない
のに
すべてが
わかった

という
状態。

実は私は
この体験を
すべてのクライアントさん達に
してもらえるといいなぁ、

いつも願いながら
サポートさせて
いただいている。

わからない
けど
わかった
状態。

わかったけど
何も
わからない
状態。

これが一番、
楽しい。

この
未来が絶対に
予測不能
という
3次元の世界での

最も楽しい
生き方、
進み方。

・・・であると
私は
思うんだな。

つづく