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自力で超えるんだ

 

あなたの中心軸に

今、

どのような「大樹」が

あるだろうか?

 

よく観察して

ほしい。

 

昨日までの

「大樹」は

どうだっただろうか?

 

そして

今の「大樹」は

どうだろうか?

 

さらに

明日以降の「大樹」は

どうなっていくだろうか?

 

今、

「大樹」は

大きな変化の最中に

ある。

 

だからその変化が

わかるはずだ。

 

ありありと。

 

「大樹」が未来に向かって

どう育って行くか?も

 

よくわかる

はずだ。

 

その「変化」を

自覚してほしい。

 

そしてその「変化」が

本当にきちんと

成されるように

 

努力

してほしい。

 

具体的には

その「変化」とは

何がどう変わることなのか?

 

自分の考え方を

どう変化させ、

 

自分の行動を

どう変化させ、

 

自分の成果を

どう変化させることに

 

努力

すべきなのか?

 

それを

今は早急に

明確にしてほしい。

 

私達は今、

とてつもなく大事な

境目にいる。

 

一つの境界線に

たどり着こうと

している。

 

そこをちゃんと

超えられるように、

 

自分で自分の

「変化」を

 

マネジメント

してほしい。

 

ここは、

自力で

超えて行くところだ。

 

つづく

 

良いセルフコーチングをするには

 

私はよく

セルフコーチングを

する。

 

つまりは、

自分に問うて

自分で答えを出す、

ということを

じっくりと落ち着いて

する。

 

それは

街中にあるカフェで

行なうし、

電車の中でも

行なう。

 

私の場合、

結構、雑踏が好きだ。

 

周りがガヤガヤしていて

人の気配があって、

いろんな「人生」が

私の周りに

溢れている状況が

良い。

 

電車に乗るときも、

ガラガラよりも

ある程度混み合って

いた方が良い。

 

そうだな。

 

一番いいのは、

座席がすべて埋まっていて、

立っている人が

チラホラいる。

 

これくらいが

ちょうどいい。

 

私はいつも電車では

立って

セルフコーチングをする。

 

・・・・・・

 

セルフコーチングを

するときは、

 

まずは、

 

自分の中に今、

「どんな問いがあるか?」

を探る。

 

探る、と言っても

頭で考えるわけではない。

 

自分自身の

「等身大」

を感じながら、

「無心」

になるのだ。

 

「ただそこに在るだけ」

 

という状態に

なる。

 

そして、

待つ。

 

ただ、

待つ。

 

すると、

私の中にある問いが

自然に

浮上してくる。

 

それはまさに

「浮上」

という言葉がピッタリだ。

 

別の表現を使えば、

「思い出す」

感覚に近い。

 

つまりは、

「問いを創り出している」

わけではないのだ。

 

「そこに在るものを

見つける」のだ。

あくまでも。

 

そういった問いが

見つかれば、

自動的に

「答え」もわかる。

 

なぜなら

「そこにある問い」には

必ず、

「最善の答え」がセットで

ついているからだ。

 

「最善の答え」がわかれば、

人生も仕事も

実に楽に

進むことができる。

 

・・・・・・

 

しかし

セルフコーチングの前提である

 

「等身大で無心になる」

 

というのが、

一般的には

難しいようだ。

 

これができるように

なるためには、

 

心の中の

状態管理ができなければ

ならない。

 

心がいつも

混沌・混乱していては

 

もしくは、騒がしい状態で

あっては

 

なかなか「無心」には

なれない。

 

じゃあどうすれば良いか?

と言うと、

 

これはやはり

「真本音度合いを上げる」

しかない。

 

真本音度合いの

高い人ほど、

 

心や魂は

静かになっていくからだ。

 

だから、

セルフコーチングのやり方を

お伝えする場合には、

 

まずはどうしても

真本音度合いの高め方を

お伝えしなければ

ならない。

 

真本音度合いが

高まらずして

良いセルフコーチングは

できないのだ。

 

と同時に、

良いセルフコーチングが

できることで

真本音度合いは

さらに高まっていく。

 

その好循環を

創り出すことが

重要だ。

 

・・・・・・・

 

というわけで、

そろそろ

セルフコーチングの講座を

再開しようかと

思っている。

 

11月くらいに

開講できると

いいかなぁ。

 

そこでは

真本音度合いの高め方

から

入っていくことになるだろう。

 

そのうち、

募集動画を創ると

思いますので、

 

ご興味ある人は

コメントください。

 

動画が出来上がりましたら、

お送りします。

 

つづく

 

すごいスピードだ

 

今は、

加速することに

躊躇しない方が

いい。

 

存分に

アクセルを踏めば

いい。

 

中途半端は

やめてしまおう。

 

スピードを出すことに

ついては

全力を出せばいい。

 

・・・・・・

 

過去最高スピードに!

などと

思う必要もない。

 

過去とは

比べることができない

くらいの、

 

次元の異なる

スピードを出せば

いい。

 

すでに準備が

整っている

あなたなら

できるはずだ。

 

そのための

準備だったのだから。

 

・・・・・・

 

あなたの加速による

波紋は

どこまでも

広がっていくだろう。

 

そんな時代に

なれたのだ。

 

周りのペースを

気にしながら

「合わせる」必要も

もはや、ない。

 

あなたの起こす

波紋を

皆、待っている。

 

胸を張って

先頭を走れば

いい。

 

・・・・・・

 

もうすぐあなたは

無我夢中に

なるだろう。

 

自分がわからなく

なってしまう

くらいに。

 

それでいい。

 

自分を見失うくらいに

前に進め。

 

加速せよ。

 

・・・と

あえて言おう。

 

きっと

新しい世界と

出会えるよ。

 

つづく

 

覚悟がないから進めない?

 

本当は、

「覚悟」

はみんな

持っている。

 

始めから。

 

ただ、

それを

忘れてしまっている

だけ。

 

だから、

 

「覚悟を持て」

 

ではない。

 

「覚悟を思い出せ」

 

が正しい。

 

100%とは言わず、

その「覚悟」の

ほんの片鱗でも

思い出すことが

できれば、

 

幼い子どもですら

 

ちゃんと

進む。

 

その道に

進む。

 

振る舞いも

変わるし、

表情も

姿勢も

生き様も

変わる。

 

それが

我々人間だ。

 

もう少しで

自分の「覚悟」を

思い出せそうな

人が

今、

増えている。

 

でも、

思い出す直前で

躊躇している。

 

思い出すことを

怖がっている。

 

本当は

何も怖いことは

ない。

 

思い出し、

その方向に

進む

その瞬間から、

その人は

心の真の平穏と

安定を

手に入れる。

 

にも関わらず、

私達は

「覚悟」を思い出す

ことに

恐怖を感じる。

 

恐怖を

乗り越えてほしいな。

 

一歩を

進んでほしいな。

 

自分自身の

「覚悟」

なのだから、

 

まずは

自分自身が

認めてほしいな。

 

と、

切に願っている。

 

つづく

 

エネルギーに呑まれるな

 

時々、私は

自分でも怖くなる

くらいに

モチベーションが

高まる時が

ある。

 

最近は特に

その頻度が上がって

いるが、

 

実はそういう時ほど

慎重になる。

 

自分の内側から

エネルギーが

大量に溢れ続けると、

 

ある意味、

 

何も

観えなくなる。

 

エネルギー量が

凄くて、

視界が真っ白に

なる。

 

しかもそれは

とても気持ちの良い

状態であるし、

 

何でもできてしまう

感覚にもなる。

 

要するに、

「何も怖くない」

という

状態だ。

 

この状態のまま

私は

「絶対に」

人に

会わないことに

している。

 

なぜなら

自分のエネルギーに

そのままほだされて、

イケイケどんどん

のまま

突っ走ってしまう

からだ。

 

そしてそういう時ほど、

目の前の人を

置いてけぼり

にしてしまうか、

 

もしくは

知らぬ間に

傷つけてしまう。

 

イケイケどんどん

の気分になること

自体は悪くはないが、

そのまま現実を

進めるのは

大抵、

後でおかしなことに

なる。

 

だから

自分の中から

あまりにも大量な

エネルギーが湧いて

来た時は、

 

私は必ずまず、

自分の足元を

見つめる。

 

ちゃんと、

自分の足が

観えるか?

 

ちゃんと

大地に立てているか?

 

を確認する。

 

足元が観えない

場合は、

そのエネルギーの

放出を

止める。

 

と言っても

なかなか止まって

くれないのだが、

 

自分の体の

中心に、

そのエネルギーを

大事に大事に

抱くようにする。

 

そして

「我に返る」

ことにしている。

 

・・・・・・

 

エネルギーは

大事。

 

モチベーションアップ

も大事。

 

しかし、

何も観えない状態で

進むことは

本当に

やめた方がいい。

 

私が特に

企業経営者の

コーチングで

気をつけているのも

ここだ。

 

社長が単なる

イケイケどんどんで

進まないこと。

 

ちゃんと、

あらゆる現実を

見つめて、

観察して、

見極めて

進むこと。

 

エネルギーを

放出しなければ

進めない、

のであれば

それは

その人のエネルギーが

まだ少ない証拠だ。

 

エネルギーの

少ない人は

自分を鼓舞しなければ

進めないから。

 

本当に

エネルギーの高い

人は

静かだ。

 

肩の力を抜き、

静かに

微笑んでいる。

 

力を入れずとも

淡々と

自然体のまま

決めたことをすべて

やれる。

 

つまりは、

持っているエネルギーを

「落ち着いて」

発揮できる。

 

どこに

エネルギーを

集中させて、

どこで

エネルギーを

あえて分散させて、

どこで

エネルギーを

あえて鎮めるか?

ちゃんと

わかりながら

進むことができる。

 

その状態に

常に

「戻る」

ために、

私のコーチングは

あるのかもしれない。

 

人にはもともと

内包されたエネルギーが

必ずある。

 

それが発揮されるように

なるのは

当たり前。

 

ちゃんと真本音で

生きれば、

皆、そうなれる。

 

問題は

そこからだ。

 

開放された

エネルギーを

どのように

コントロールするか?

だ。

 

つづく

 

その道ではないよ

 

無理矢理に

進むことは

良くない。

 

川が

川上から川下へ

流れていくように、

 

自然の摂理に

沿って

流れて行けば

いい。

 

普通に

流れればいいのに、

私達はついつい

余分なことをする。

 

時には

川下から川上へ

上ろうとしてしまう。

 

当然、

それには困難が

伴う。

 

その困難を

越えることが

成長である、

と考える向きも

あるが、

 

どうしても

私にはそれは

自己満足に

見えてしまう。

 

ちゃんと自然に

流れて行けば、

その流れに

乗ることで

発生する

「進むための課題」

が来る。

 

自然に流れる

からこそ、

 

進むからこそ、

 

目の前に

立ちはだかる

課題が来る。

 

どうも

その課題から

逃げるために、

あえて

川下から川上へ

向かい、

 

「俺は

すごいだろ」

 

「俺は

頑張っているだろ」

 

「俺は

挑戦しているだろ」

 

とやっている

人が多いのが

現実ではないだろうか。

 

あなたのその

悩みや課題は、

あなたが今、

本当に取り組む

ものなのか?

 

それが

あなたの人生

であり、

 

あなたの

真本音の願い

なのか?

 

・・・・・・

 

自然に流れる

というのは

楽なことであるが、

 

しかし

楽なことでは

ない。

 

「進む」

という意味では

楽に進めるので

あるが、

 

いつも言うように、

人間とは

「進化を望む」

生き物だ。

 

進化のために

乗り越える壁を

私達は

自ら自分に

課す。

 

それが

楽ではない。

 

楽だったら

課題とは

言えないから。

 

しかし。

 

楽ではないが、

それとしっかりと

真正面から

向き合えば、

 

それに

真正面から

取り組めば、

 

その一歩一歩

魂に満ちるような

充実感が

生まれる。

 

それを感じながら

日々、進むことは

とても

楽である。

 

楽では

ないけど、

とても

楽。

 

という状態に

入る。

 

「進む」

とは

「安定」

である。

 

自転車が

前に進んでこそ

安定するように、

 

前に進むことで

感じることのできる

安定こそを

私達は皆、

求めている。

 

・・・・・・

 

進めば進むほど、

不安定さを

感じる

その方向に、

 

本来の

道はない。

 

それは

あなたの進む

道ではない。

 

もっと

安定を

求めればいい。

 

ただしその

安定は、

止まることによる

安定ではない。

 

進もうと

決意することだけで

安定感を得る、

その道だ。

 

川下から

川上へ進もうと

している人は、

自分を

偽っている。

 

本当は

その道は違う、

とわかっているのに

自分を偽り

その道に進もうと

する。

 

もう一度

言おう。

 

あなたの

その道は

あなたの

道ではない。

 

もっと

あなたには

安定の道が

あるはずだ。

 

もっと

ぐんぐんと

進める道が

あるはずだ。

 

もう、

自己満足の

進み方をするには

もったいない

時代に入った。

 

これからは

川の流れが

とことん速くなる。

 

早くその流れに

乗ることだ。

 

あなたの

人生の流れ

だ。

 

それを

つかむことだ。

 

そのためには、

本当は

あなた自身が

よくわかっている

あなた自身の

真の課題に、

 

勇気を持って

向き合うことだ。

 

つづく

 

思いつきと直観は違うんだ

 

人生は

やみくもに進む

よりも

しっかりと

見極めて進んだ方が

よい。

 

・・・という

言い方をすると、

 

いつも

「直観、直観・・・」

と言っている

私の言葉とは

矛盾しているように

聞こえるだろうか?

 

実は

矛盾しているようで

まったくそうでは

ないのであるが、

 

その理由は

後で書くとして、

 

人生に

「戦略」は

とても大事である。

 

いや、

人生だけではない。

 

あらゆることに

「戦略」は

必要だ。

 

例えば、

私は今後、

 

「人材育成戦略コンサルタント」

 

という肩書きも

自分につけようかな、

と考えている。

 

人材育成にも

組織開発にも

すべてに

「戦略」は必要だからだ。

 

しかし、

「戦略」を考えない

どころか、

その視点すらない

人や組織が

圧倒的に多い。

 

一般的に

言われることだが、

 

「戦略」とは、

戦いを略す

こと。

 

つまりは、

最も楽な道を

見出すこと

である。

 

それをしっかりと

考えることは

あらゆる物事において

必須のことだと

私は思うのだ。

 

・・・・・・

 

コーチングにおいても

まったく同じことが

言える。

 

私はいつも

徹底的に

クライアントさんの

コーチングの戦略を

練る。

 

どの道に

進むことが、

そのクライアントさんの

道が

最も開きやすいか?

 

そのためには

どのようなコーチングを

すればよいか?

 

を考える。

 

これはコーチとして

当たり前のことだと

思う。

 

組織コーチング

(チームコーチング)

の場合も

同様である。

 

ただし、

戦略を

練って練って練って、

その上で

クライアントさんの

前に実際に出て、

コーチングを始めた

瞬間に、

 

私はすべてを

白紙にする。

 

白紙、というよりも

頭の中から

外して、

横に置くことに

している。

 

その状態で

ただ「あるがまま」に

クライアントさんと

向き合えば、

 

そこで

最善の「直観」が

湧くのである。

 

充分に

戦略を練って

準備をしたからこそ、

直観が

働くのである。

 

つまりは、

 

戦略とは

充分に練るもの。

 

と同時に、

 

その上で

横に置き、

直観を促すもの。

 

である。

 

というのが

私が現場で身につけた

感覚だ。

 

・・・・・・

 

どうすれば

直観力を

養えますか?

 

というご質問を

よくいただく。

 

もちろん

その土台となるのは、

 

「日々、

真本音で生きること」

 

だ。

 

それは

最低条件。

 

その上で、

 

「しっかり考えること」

 

が大事だ。

 

直観というと、

考えることとは

対極にあるイメージ

だが、

そうではない。

 

よ〜く物事を

考える人ほど、

良い直観が生まれる。

 

ただし、

自分の考えに

固執していては

ダメ。

 

よ〜く考えた上で、

それに

囚われないこと。

 

その考えを

横に置いたり、

手放したりする

柔軟性、

 

もしくは

遊び心、

 

が必要だ。

 

・・・・・・

 

私は直観型の

人間ですから、

物事をあまり

つべこべ考えないように

しているんです。

 

という人と

時々出会うが、

 

それは

違う。

 

それは

自己満足だ。

 

本当の直観とは、

自分も

人も

すべてを

幸せに導いてくれる

ものだ。

 

自己満足の

わがままな

直観は、

 

直観ではなく、

 

単なる

思いつきに過ぎない。

 

思いつきの

人生は

やめよう。

 

思いつきで

進むくらいなら、

 

しっかり考えて

悩み続けた方が

まだマシな

人生になる。

 

つづく

 

その人であり、私であり

 

人と向かい合って

いると、

 

その人と

自分との

区別がつかなく

なる時がある。

 

特に

1on1のコーチングを

しているときは

そうだ。

 

決して

その状態を

オススメするわけでは

ない。

 

むしろ

「調和」という

意味においては、

 

その人

自分

 

は、

きちんと分離

していて、

区別ができている

方が望ましい。

 

・・・のだが、

それでも

区別がつかなく

なる時がある。

 

そういった時は

そうなることに

意味があるのだと

 

ある意味

諦めて、

 

私はその状態に

委ねるように

している。

 

すると

当然であるが、

その状態だからこそ

言葉が

私の中から

浮かび上がって

くる。

 

その言葉の

数々は

決して多くはないが、

 

しかし

私の印象としては、

 

「言葉の放流」

 

に感じられる。

 

その言葉達は

私の中から

出るものであり、

 

かつ、

 

その人の

真本音が、

自分自身に対して

向けた

メッセージでも

ある。

 

そのメッセージは

時には

非常に厳しい

ものであるケースも

多い。

 

人と人の

コミュニケーション

というのは

実に奥深い

ものだ。

 

こんなに

区別がつかなく

なるのであれば、

いっそのこと

最初から

「一つ」であれば

いいのに、

 

と思うことも

あるのだが、

 

しかし私達は

「分離」していることに

また

大いなる意味がある。

 

高い次元では

「一つ」

でも

 

低い次元では

「分離」

している。

 

それが

「人間」という

とてつもなく

面白い存在。

 

そんな存在

だからこそ

できることが

あるのだろう。

 

やはりそれは

「進化」。

 

進化とは、

一つのものが

分離し、

また一つに

戻り、

また分離し、

また一つに・・・

 

という繰り返しに

よって

成されて行く。

 

分離している

ものが

一つになろうと

する

エネルギーを

「愛」

と言う。

 

分離していなければ、

愛は

生まれない。

 

愛を生み出すのが

私達「人間」

という存在だ。

 

ということを

区別のつかない

状態のまま

私は実感するのだ。

 

「一つ」を

感じるからこそ、

「分離」している

私のことを

その人のことを

愛おしく思う。

 

この

言いようもない

独特の感覚を

 

私は「コーチ」として

人として

これからも

大事にしていきたい。

 

つづく

 

本当に決めているかい?

 

結局は、

 

・決めているか

・決めていないか

 

の違いだけ

なのだろう。

 

人生が

進むかどうか?

は。

 

決めていれば

その方向に

進み、

 

決めていなければ、

たとえどれだけ

意気込んで

いようが、

そちらの方向には

進まない。

 

それは、

声を張り上げれば

よい、

というものでは

ない。

 

気合いを入れれば

よい、

というものでも

ない。

 

第一、

本当に決めている

人は

 

静かだ。

 

気合いを入れる

必要も

情熱を昂ぶらせる

必要も

ないからだ。

 

なぜなら

決めているから。

 

それを

する。

 

ただ、

それだけの

ことだから。

 

・・・・・・

 

「決めるぞーーっ!」

 

と、

決めること自体に

気合いを入れる

人もいるが、

 

まぁ、

難しいね。

 

決めるとは

そういった

ことではない。

 

気合いを入れなければ

決められない

ということは、

 

決めていない

証拠だ。

 

そこに

波風は

必要ない。

 

状況の好転も、

潮流も、

 

実際のところは

必要ない。

 

まずは

決めること。

 

本当に

決めれば、

 

そこから

潮流は

起こるし、

 

状況は

好転を始める。

 

・・・・・・

 

決める人と

決められない人の

違いは

 

あまりにも

単純だ。

 

普段の、

 

一日一日の、

 

生き方

で決まるのだ。

 

いざ、

人生を左右する

大事なことを

決断しようと思っても、

 

普段の生き方が

自ら決める

生き方をして

いなければ、

それは土台

無理な話だ。

 

私の表現で

言えば、

 

普段、

 

一日一日を、

 

真本音で

自ら決めて

生きているか?

だ。

 

ほんの些細な

ことでもいい。

 

例えば、

今日はどこで

ランチしようか、

ということでも

いい。

 

ちゃんと、

「真本音で決める」

こと。

 

一つ一つの

仕事に

真本音で

向かうこと。

 

そうすれば

「魂」が

活性化する。

 

人生の大きな

決断とは、

心でするものでは

なく、

 

魂で

するものだから

だ。

 

いざという時に

魂が

発動するかどうか?

 

これが、

決めるか

決められないか

の境界線だ。

 

そして、

魂を込めて

決めることができた

人は

 

静かだ。

 

・・・・・・

 

魂で、

 

「コーチ」という

仕事をしよう、

 

と決める人を

これから

私は探す。

 

仕事でなくても

いい。

 

組織の中で

自分は

「コーチ」という

役割を担っていこう、

 

と決める人を

私は探す。

 

そろそろ

動き出そうと

思う。

 

つづく

 

一体全体、何をするんだ?

 

人類にとって

今からの30年というのは、

その後の歴史を

決定づけるだろう、

私は見ている。

 

どのような歴史を

創っていくかは

すべて

私達人類の

「自業自得」

である。

 

どうせ世の中は

自分の力の

及ばないところで

勝手に

進んでいくから。

 

という人が

多ければ多いほど、

歴史は

混乱と混沌の方向に

進むだろうし、

 

自分の人生を

真剣に生きることが、

人類そのものの

歴史に大きな影響を

与えるだろう。

 

という実感を得る人

が増えれば増えるほど、

調和と進化の方向に

歴史は進むだろう。

 

この30年間で、

私達はどれだけ

それを自覚できるか?

 

ここに

懸かっている。

 

・・・・・・

 

「一体全体」

という言葉が

あるが、

 

「一体」が

「全体」を

決める。

 

「一体」が

「全体」を

決定づける。

 

・・・ということだ。

 

「全体」が

「一体」に

影響を与えることも

もちろん多いが、

「全体」とは

たったの「一体」から

大きく揺らされ

変わっていく。

 

組織サポートを

させていただいて

いると、

そのことはとても

よくわかる。

 

たったの一人が

本当に

この組織を良くしたい!

決意することで、

それが一気に

「全体」に影響を与える

という場面を

私は数知れず見てきた。

 

それは

組織上における

立場の上下は

関係ない。

 

新入社員さんの

たったの一言で、

その会社の命運を

左右する

新規事業や新会社が

立ち上がったことも

あった。

 

しかしまた、

逆もある。

 

例えば、

どれだけ組織のトップである

社長が

組織を変えたいと

願い行動をしても

つゆとも変わらず、

という場面も

たくさん見てきた。

 

「全体」に

影響を与えられる

「一体」と、

そうではない

「一体」。

 

この違いとは

何だろうか?

 

・・・・・・

 

その答えは、

私の言葉で表現すれば、

単純である。

 

「真本音かどうか?」

 

である。

 

つまり、

その「一体」が

発しているその言葉が、

行動が、

真本音と結びついて

いるかどうか?

だ。

 

と同時に、

次のようにも

言える。

 

「次元が高いかどうか?」

 

もちろんこれまでの

人類の歴史では、

次元の低い意識が

世の中を

動かしてきたことも

多かった。

 

しかしこれからは

少々、様相が

異なってくる。

 

実在(心の中の現実)

現象(心の外の現実)

結びつきが、

この数年で

格段に強くなっている

からだ。

 

今後もこの傾向は

ますます高まる。

 

次元の高い

発想ほど、

現実化しやすい

という傾向が

日々、高まっている

のだ。

 

意識の次元が

高まれば高まるほど、

私達はすべてを

「一つ」

と捉える。

 

「捉える」という

よりも、

真実はそうなのだが、

その真実を

自然に思い出せるように

なるのが、

「次元が高まる」

ということだ。

 

つまり高い次元では、

「自分の幸せ=周りの幸せ」

という発想が

当たり前のように

生まれ、

 

自分のために

がんばっていることが、

すべての人のためにも

なる、

という状態になる。

 

ここに真剣に

なれる人が

一人でも現れれば、

その組織(全体)を

大きく揺るがす。

 

社会(全体)を

大きく揺るがす。

 

という真実を

皆が思い出していけば、

私達の歴史は

調和と進化の方向に

向かうだろう。

 

・・・・・・

 

人類は

生き延びることが

できるか?

 

混乱と混沌に

よって

疲弊する歴史ではなく、

 

本当に人々が

幸せを追求できる

歴史を

創り出せるか?

 

そのために、

「私」は

今日、何をするか?

 

ちょっと大きなことを

言っているようだが、

実は決して

そうではなく、

 

私達が

日々の日常に対して

自分のすべきことを

しっかりとし続ける

ことが、

「一体」が「全体」に

影響を与える

最も近道だ。

 

自分自身が

かけがえのない

「一体」

であるという自覚。

 

自分の今日の

生き方が

(特に実在のレベルでは)

「全体」に影響を

与え続けている

という自覚。

 

今こそ

それを持ちつつ、

進もうではないか。

 

つづく

 

覚悟の日

 

青空は

すがすがしい。

 

晴れ渡った空を

見上げると、

私達は

すべてから解放された

爽快さを感じる。

 

そこに

無限さを感じたり、

自然の偉大さを

感じることもある。

 

空は

大きい。

 

私達は思う。

 

ところが、

別の視点から見れば、

 

空は

私達の限界を

示してしまっている、

 

とも言える。

 

空の下で

生きるのが、

人間。

 

と、

私達は

思い込んでいる。

 

青空があることで

その向こうの

世界が

見えなくなっている。

 

私達の世界は

青空に囲まれた

中だけである、

 

と、

私達はみんな

どこかで

そう思い込んで

生きている。

 

「無限」

を思わすと同時に、

それが

「限界」

をも表している。

 

「空」

とは不思議な

存在だ。

 

・・・・・・

 

「無限」

だと思っているのに、

実はそれこそ

自体が

「限界」

を表している。

 

というが、

私達人間の

「心」

の特徴でもある。

 

「空」

「心」

とてもよく似ている。

 

というよりも、

私達の

「心」

の一つの反映が

「空」

とも言える。

 

そんな

私達の「心」に

 

2月2日、

一つの大きな

「扉」

が開いた、

 

という実感を

私は強く

抱いた。

 

これまで

「空」

だと思っていたものに

大きな穴があき、

もっとその先の

広く深い世界、

つまりは「宇宙」を

身近に

感じ取るようになった、

 

・・・みたいな

感じ。

 

もしくは、

 

これまで

「空」だと思っていた

ものが、

いったん崩れ去り、

もっともっと

大きな世界が

広がった、

 

・・・とも

言えるか。

 

そう感じ取れた

原因も

よくわかる。

 

「覚悟」

 

をしたのだ。

 

多くの人達

が。

 

「進む覚悟」

だ。

 

心の中の現実

である

「実在」

に意識を向けると、

 

とても多くの人達が

2月1日を境に

自分の人生を

大きく前進させようと

「覚悟」

しようとした。

 

それは

これまでの「前進」

とは

次元が異なり、

 

まるで

それまでの自分達の

限界であった「空」を

超えていくような

「覚悟」

だ。

 

「実在」のレベルでは

そういった

「覚悟」

を完了させた人が、

この2月2日は

とても多かったのでは

ないか。

 

・・・・・・

 

私の5歳の息子は

とても珍しく、

最近はずっと

体調がすぐれなかった。

 

そして

ついには

インフルエンザに

かかった。

 

そして

2月2日、

体調が復活した。

 

復活した彼は

立ち上がり、

 

私と妻の前に

立ち、

 

静かに、

しかし

とても深く、

 

力強く、

 

一言

語った。

 

「僕は

進む。」

 

一つの

象徴だな、と

思った。

 

つづく

 

俯瞰しながらここにいる

 

どれだけ山々が

大きく高く

猛々しくても、

 

宇宙から見降ろせば

それは

単なるヒダにしか

見えない。

 

しかし、

宇宙から見れば

単なるヒダでも、

 

近くまで寄って

見れば、

山々は一つ一つが

個性的で

実に美しい。

 

宇宙から

俯瞰する視点

と、

 

現地現場で

一つ一つの存在を

実感する視点。

 

私達は

両方の視点を

持ちながら

生きることが

できる。

 

それが

人間の一つの

特徴。

 

毎日、

一日一日、

目の前の「現実」と

向かい合い、

 

一歩一歩

必死に進んでいく

のも人生。

 

でも

人生全体から

その「一日」を

俯瞰すれば、

 

それはちょっとした

ヒダにしか

見えないかも

しれない。

 

10年前の自分が

全力で悩んでいた

ことも、

今では

「いい思い出だ」

とか

「あの経験が

あったからこそだな」

とか、

 

ゆとりを持って

客観的に、

まるで他人事のように

眺めることも

できる。

 

・・・・・・

 

視野を大きく

持つことは、

 

小さな視野を

失くすこと

 

・・・ではない。

 

むしろ、

大きな視野を

持つ人ほど、

 

目の前の

ほんの小さな

一つ一つを

 

大事にして

ほしい。

 

なぜなら、

 

「全体」

「一つ一つ」

 

同じものだから。

 

「全体を大事にする」

とは

「一つ一つを大事にする」

ことと

同じことだから。

 

器が大きい、

とは

粗野になること

ではない。

 

私の知っている

本当に器の

大きな人は、

 

目の前の

たった一つの事象や

たった一人の人を

 

真剣に見つめ、

 

そしてそれらと

真剣に

向き合う。

 

・・・・・・

 

人生を

大事にする

 

とは、

 

今日を

大事にする

 

ことであり、

 

今を

大事にする

 

ことだ。

 

と同時に、

 

人生全体の

視野を

常に持ち、

 

今の自分が見通せる

最も遠くの

ビジョンを

描き続け、

 

未来も過去も

すべてを含めた

全体の視点から

 

今を

見つめる。

 

今、

すべきことを

決める。

 

真本音で

生きる、

ということを

あえてもう少し

詳しく表現すると、

そのようなことに

なるだろうか。

 

そんな生き方の

できる人が

増えると、

いいな。

 

そのためには

今の世の中には

「コーチ」

が必要だ。

 

2月を迎え、

そろそろ

「コーチ育成」の

本格的な段取りに

入ろうと

思う。

 

「コーチ」募集と

「コーチ」探しを

始めようかな。

 

つづく

 

おっ? この音は

 

カチッと

 

オフから

オンへ

 

スイッチの

入る

音がした。

 

それは

私の中の

スイッチか?

 

それとも

目の前にいる

クライアントさんの

スイッチか?

 

それとも

世の中全体の

スイッチか?

 

なんか、

 

「すべて」

 

のような

気がする。

 

恐らく

これまでも、

何度も

何度も

こうやって

我々は

新たなスイッチを

入れ続けて

 

ここまで

やってきた。

 

その度に

何かが

本質的に

変化した。

 

もしくは

何かが

始まった。

 

しかし、

今回のは

 

なんか

とても大きな

スイッチの

ような

気がする。

 

あなたも

感じているかな?

 

あなたの

何が

始まるのだろう。

 

私の

何が

始まるのだろう。

 

世の中の

何が

始まるのだろう。

 

さぁ、

今日は大事な

スタート

日だ。

 

あなたは

何をする?

 

つづく

 

喜びは大事にね

 

私は

「コーチ」というお仕事を

させていただいている

関係上、

これまで何度も

「達成感」

というものを

体験させていただいた。

 

もちろん

自分自身が何か

達成するのも嬉しいが、

クライアントさんが

何かを達成した喜びは、

形容のしようがない。

 

そんな時は、

心の底から

うわーーーっ!!

という激しい感情が

湧いてくるのであるが、

 

ここで私は

一つのことを

学んだ。

 

これ、

結構オススメ

である。

 

・・・・・・

 

何かと言うと、

 

溢れんばかりの

喜びは、

 

「体の中心に

大事に

抱いておくとよい」

 

ということだ。

 

まぁ、時には

その気持ちを

思う存分に

発散させてしまうのも

アリなのだが、

 

ぜひこれ

やってみてほしい。

 

体の中心

と言うと、

おヘソの奥の

体の中心部分だ。

 

ここに

喜びのエネルギーを

大事に大事に

しまうイメージだ。

 

「しまうなんて

もったいない」

思うかもしれない。

 

でも、

やってみてほしい。

 

中心に抱いた

その瞬間から、

体の中心から

あたたかい何かが

ずっと自分を

満たしてくれるのだ。

 

喜びは

発散すると

短時間で

消えていってしまう。

 

しかし

大事に抱くと、

長時間

ずっとずっと

そこから自分を

満たし続けてくれる。

 

とても

安定するし、

安心する。

 

心が

豊かになる。

 

そしてその状態で

また

次への一歩を

進む。

 

すると

さらにまた

新たな喜びが起こる。

 

それをまた

体の中心に

抱くのだ。

 

大事にね。

 

するとずっと

喜びに満たされた

人生となる。

 

実は

これを発見したのは

10数年前。

 

その時から

私はずっと

喜びを感じながら

生きているのかも

しれない。

 

かなり

オススメ。

 

やってみてね。

 

つづく

 

あなたに炎はあるかい?

 

自分の中の

燃え盛る炎は

わかるかな?

 

常に

止めどなく

燃え続ける

炎。

 

それを

認識できたら

大したもんだ。

 

その炎は

変わんないんだ。

 

物事が

好転することで

大きくなったり、

 

上手くいかなく

なることで

小さくなったり、

 

・・・そういった炎は

本当の炎では

ない。

 

その場その場

の幻影だ。

 

そうではなく、

どんな状況でも

いつ

いかなる時でも

 

自分の中心で

燃え続ける

炎。

 

それをみんな

持っている。

 

それを

認識できるように

なれたら、

大したもんだ。

 

・・・・・・

 

もしその炎を

認識できたら、

 

その

炎そのもの

なってみよう。

 

炎と

一体化

するのだ。

 

自分=炎

となるのだ。

 

ただただ、

何の意図もなく

何の思惑もなく

燃え続ける

だけの存在。

 

そうなった時、

あなたは

何を

感じるだろうか?

 

・・・・・・

 

私は

自分の中の

その炎と

一つになると、

 

「永遠」

を感じるなぁ。

 

そして、

炎なのに

とてつもなく

「静けさ」

を感じる。

 

本来の強さ

とは、

永遠の静けさを

湛えているんだなぁ

わかる。

 

それが

人間。

 

私達

全員。

 

「コーチ」という

お仕事をしていると、

 

クライアントさん

ご本人よりも

早く、

私はその人の

炎を感じることに

なる、

のがほとんどだ。

 

自分のことよりも

他者のことの方が

よくわかるから、

人間は。

 

ご本人よりも

早く

その炎を見つけると、

 

この炎を

いかにご本人が

自覚するか?

 

が、

コーチングの最大の

テーマになる。

 

そして、

ある時ある瞬間に

ご本人が

自覚できると、

 

やっぱり

嬉しいねぇ。

 

私の

最高の幸せ

の一つだ。

 

・・・・・・

 

人というのは

やっぱ

すごいなー、って

思う。

 

突然変異を

起こすから。

 

でもそれは

その人が

何か別者に

変わるわけでは

ない。

 

本来のその人が

顔を覗かせる

だけなんだけど、

 

でもそれを

側から観ていると、

突然変異のように

感じる。

 

しかも

面白いことに、

その突然変異に

ご本人は

まったく気づいていない

ことの方が

多い。

 

ご本人にとっては

あまりにも

自然な変化

だからだ。

 

・・・・・・

 

「変化」を

もたらすのは

他者ではない。

 

あくまでも

「自分自身」

だ。

 

コーチは

単なる

「鏡」に過ぎない。

 

しかし、

本当に「鏡」に

なり切ることで、

 

初めて

突然変異は

やってくる。

 

突然変異だけど

極めて自然な

変化、

それが

やってくる。

 

もちろん

コーチに

意図はない。

 

意図を持っては

できないことだ。

 

だって

すべては

本人がやっている

ことだから。

 

人の

本来の凄さ

「炎」

を見つけ、

引き出せる、

 

意図を持たずに

引き出せる、

 

そんなコーチを

育成したいし、

増やしたい。

 

つづく

 

進む人と進めない人の違いは

 

「進む人」

ぜひ、

自分を癒して

ほしい。

 

「進む」とは

常に全力を出し続ける

ことでは

ない。

 

本当の「進む」

とは

「永続的に進む」

ということ。

 

であれば、

・どこで全力を尽くし

・どこで休むか

しっかり決めること。

 

それを

見極めること。

 

それができて

初めて

「進む」

ことができる。

 

・・・・・・

 

「進もうとしない」

人は、

私は基本的には

コーチングしない。

 

もちろん、

組織の場合は

別であるが。

 

ほとんどの組織には

「進もうとしない」人が

いる。

 

そういった人達も

「進む」状態に

しなければならないのが

私の仕事だ。

 

だが、

そんな場合でも

まずは私は

「進もうとする人」を

サポートする。

 

「進もうとする人」が

実際に

ぐんぐん進み始める

ことで、

「進もうとしない人」が

「進んでみようかな」

に変化することを

知っているからだ。

 

そういった意味では

やはり、

私は

「進もうとする人」を

サポートする。

 

・・・・・・

 

「進もうとする」が

進めない、

 

という人にとっては、

恐らく私のコーチングは

かなり厳しいもの

だろう。

 

ある時は

「コーチング」を超えて

「指導」したりも

する。

 

まるで上司にように

「やれ!」

とやるときもある。

 

私のコーチングは

ある意味、

「怖い時間」

かもしれない。

 

しかし反対に、

「進む人」

にとっては、

私のコーチングは

「癒しの時間」

になっているようだ。

 

私との

コーチングの時間で

自分を癒し、

 

自分を

リセットし、

 

自分のエネルギーの

源を取り戻し、

 

そして、

「現場」へと

戻っていく。

 

私のコーチングを

受けることで、

「現場」での

気づきが

何十倍にも深まり、

 

そして、

「現場」における

自分の指針が

何十倍にも

明確になる。

 

こういうコーチングは

コーチである私も

実に楽しい。

 

いつも

クライアントさんと

笑い合いながら、

真本音の

コミュニケーションが

取れるからだ。

 

こういった

コーチングのできる

クライアントさんを

増やしていくのも

私の目標の

一つだ。

 

・・・・・・

 

「たけうちさんと

一緒にいると、

何か見透かされている

気がして

怖いんです」

 

と、

よく言われる。

 

それを言う

ということは、

その人は何かを

「誤魔化している」

証拠だ。

 

人生の現場において

何かを

誤魔化しながら

生きているのだ。

 

ただし、

人間誰しも

「誤魔化し」は

あるもんだ。

 

誤魔化している

ことを、

「誤魔化しているんだ」

と自ら認めること

が、

スタートかな。

 

何を

誤魔化しているか?

 

は、

その人の今の

最大のテーマと

なる。

 

誤魔化している人を

私が嫌う

ことはない。

 

それよりも、

その「誤魔化し」を

しっかりと

見つめ、

向き合うことを

するとよい。

 

そのための

サポートを、

といつも思っているので、

そういった人にとっては

私のコーチングは

「怖い時間」

なのだろう。

 

自分と向き合う

ことを

恐れる人は、

いつも私に対して

逃げ腰だし、

 

実際に

逃げて行ってしまう

人もいる。

 

私が

大きな悲しみを

感じる瞬間だ。

 

・・・・・・

 

そりゃ、

人はみんな

誤魔化しがあるよ。

 

でも、

その誤魔化しに

思い切って

目を向けよう。

 

誤魔化しと

向き合うことが、

自分と向き合う

第一歩だ。

 

もし本気で

「進もう」

とするならば、

まずは

自分の誤魔化しを

自分で

受け入れることかな。

 

そこからが

スタートだ。

 

つづく

 

何という大変な人生だ

 

「阿鼻叫喚」

という言葉があるが、

実は

私にとっては

非常に身近な

言葉だ。

 

なぜなら

私は日々、

人々の「阿鼻叫喚」と

向き合っている

からだ。

 

ほとんどの人は

気づいていないが、

ほとんどの人は

心の内面に

「阿鼻叫喚」を

抱えている。

 

あるがままに

真正面から

向き合い続ければ、

私はいつもそれを

ダイレクトに

受け取ってしまう。

 

1対1のコーチング

であれば、

まだ楽だ。

 

しかし

例えば、数十名の研修形式

の場となると、

その数十名分のものを

私は感じたり、

受け取ったりする。

 

それは

かなり

凄まじい時がある。

 

なぜなら

「阿鼻叫喚」とは

人と人が集まることで

相乗効果を起こすことが

あるからだ。

 

・・・・・・

 

今でも思い出す。

 

かなり前のことで

あるが、

ある中堅企業様の

サポートに

入らせていただいた。

 

その企業様には

10名近くの経営幹部さん

達がいた。

 

彼らの

「阿鼻叫喚」は

凄まじかった。

 

一人一人のそれは

普通くらいなのだが、

その10名が集まると、

それは

10倍くらいに

膨れ上がっていた。

 

その時私は

それを

「阿鼻叫喚の台風」

のように感じた。

 

正直言って、

それを感じた時、

私はその会社の

組織活性化サポートの

お仕事を受けたことを

少々、後悔した。

 

私の身がもたない

のではないかと

思ったからだ。

 

しかしあれは

いい経験になった。

 

物事が

どうしても

上手くいかない時、

 

いったい

人と人は

どのように

関わり合っているのか?

 

ということを

まざまざと

知ることができたのだ。

 

その幹部さん達は、

「阿鼻叫喚」の叫びを

続けながらも、

普段、

実に巧妙に

お互いの足を

引っ張り合っていた。

 

もちろんそれは

顕在意識レベルの

話ではない。

 

だから、

当の本人達は

そのことにまったく

気づいていなかった。

 

しかし

潜在意識レベルでは

毎日、そこでは

戦争が起きていた。

 

・・・・・・

 

人生のテーマ、

ということを

考えるとき、

 

私は時々

武者震いをするような

身の引き締まりを

感じる。

 

すべての人には

人生のテーマが

ある。

 

それは

真本音のレベルに

おいて、

である。

 

その真本音レベルの

人生のテーマが、

 

「阿鼻叫喚の

連鎖を止める」

 

という

人がいるのだ。

 

その人は、

自分自身が最も

「阿鼻叫喚」を

解放してしまう人と

常に

出会い、

 

その人との

「阿鼻叫喚」の

相乗効果を起こし、

 

身も心も

ボロボロになりながらも、

それを

自らの力で

乗り越えていこうと

する。

 

それを

人生で繰り返して

いる人が

いるのだ。

真本音の

レベルで。

 

何という

無茶なことを・・・、

私なんかは

思ってしまう。

 

もっと楽なテーマで

生きていけば

よいものを、

と。

 

しかし

現実にそういう人は

多い。

 

時には

それが社長さんで、

すべての社員さん達と

「阿鼻叫喚の連鎖」

を起こしている人さえ

いる。

 

「阿鼻叫喚の連鎖」を

超えていくためには、

結論としては

「愛」

しかない。

 

しかしそれは

「愛」と一言で

片付けられるほど、

生易しいものでは

ない。

 

しかしそれでも

その人は

それに

立ち向かっていく。

 

真本音レベルで

それを

し続けている人を、

 

私は純粋に

サポートしたいと

思うのだ。

 

つづく

 

新たな講座の最初の終わり

 

人は、

たくましい。

 

本当は

ちゃんと

地に足が

ついている。

 

ガッシリと

まるで

根が張ったかのように

揺るがずに

立っている。

 

みんな、

そうだ。

 

しかし

そんな自分を

本人が

知らない。

 

知らないから

揺らぐ。

 

知らないから

迷う。

 

本当の

自分の姿を

知ればいい。

 

思い出せば

いい。

 

ただ、

それだけの

ことだ。

 

・・・・・・

 

セルフコーチング力を

徹底的に

向上させる、

 

という目的で

始めた新講座

『ザ・セルフ』

が、

修了した。

 

全6回。

 

4ヶ月に渡る

講座だったが、

 

たった4ヶ月で

これだけのことが

できるもんなんだなぁ、

 

感嘆することが

できた。

 

受講生の皆さんは

間違いなく、

本来の自分を

感じ取れている。

 

ここまで来るのが

大変なのだが、

しかし

本当はここからこそが

スタートだ。

 

本来の自分を

思い出したら、

そこから

本来の人生が

始まる。

 

本当の

挑戦と

試行錯誤は

ここからだ。

 

ただ、

 

今は一人一人が

自分の足で

自分の大地に

立っている。

 

これは本当に

喜ばしいことだ。

 

・・・・・・

 

人は

たくましく

なればなるほど、

 

肩の力が

抜けていく。

 

静かに

なっていく。

 

しかしその奥に

潜むエネルギーは

極めて強く、

そして明るい。

 

それは

無尽蔵の

エネルギー

だからだ。

 

自分と向き合う

とは、

その無尽蔵の

エネルギーと

向き合うという

ことでもある。

 

そして、

無尽蔵のエネルギー

無尽蔵に使えばいい

という

ものではない。

 

どこに

どれだけの

エネルギーを

どのように

使うか?

 

それを

自由自在に

自ら選択し

実行することが、

「自分の人生」

である。

 

「自分の人生」の

始まりを

皆さんは

手に入れた。

 

であれば、

思う存分に

進んでほしい。

 

ここからが

本当の

加速だ。

 

つづく

 

100%、自分を縛る

 

少し前に

「自由」について

書かせていただいた。

→【自由とは何だろうか】

 

ここではまた

別の視点から

「自由」について

書いてみたい。

 

・・・・・・

 

「自由」とは

自分を縛ることである。

 

と書くと

驚くだろうか。

 

もしくは、

ひょっとすると

なるほど!

と思う人も

いるかもしれない。

 

自分を

完全に、100%、

縛ってみる

 

という体験を

私はオススメする。

 

今日は

何をするか?

 

今日は

何をしないか?

 

何を

どのような順番で

どれくらいの

時間をかけて

どのようにするか?

 

・・・等を、

一日の始まりに

完全に

決めてしまう。

 

そして

一分一秒

すべて決めた通りに

そのままに

動いてみるのだ。

 

もちろん、

仕事などでは

突発的にやらなければ

ならないことも

入ってくるだろう。

 

その場合は、

その時点で一度

立ち止まり、

もう一度、

計画をしっかりと

組み直せばいい。

 

そして、

「完全に自分を縛って」

自分をその通りに

動かすのだ。

 

・・・・・・

 

もし可能であれば、

それを

「一日」の単位ではなく、

 

「人生」

という単位で

行なってみてもよい。

 

自分の人生の

道のりを、

完全に決めてしまう

のだ。

 

もちろん

未来のことは

わからないことだらけだし、

現時点では

描けないことの方が

多いだろう。

 

しかしそれでも

描けるところまでは

しっかりと描き、

 

例えば、

10年間でこれを

しよう。

 

3年間でこれを

しよう。

 

この1年間で

これをしよう。

 

この3ヶ月間で

これをしよう。

 

今月は

これをしよう。

 

今週は

これをしよう。

 

今日は

これをしよう。

 

というように、

すべてを

「決めてしまう」。

 

そして、

それを外すことを

一切、

許さない。

 

完全に自分を

縛り、

「これ以外の選択肢は

ない」

と決めてしまう。

 

決めたことに

関しては、

一切の「迷い」を

許さない。

 

迷っても

迷った瞬間に

その迷いを

捨ててしまう。

 

とにかく、

自分が決めた通りに

自分を

完全に

縛るのだ。

 

・・・・・・

 

もしくは、

自分で自分を

縛るのではなく、

 

それを

他者にやってもらっても

いい。

 

「今日一日は、

完全に、あなたの

言う通りに

私は動くから、

私の動きをすべて

指示してください」

 

と、お願いし、

その人の言う通りに

本当に行動するのだ。

 

なんなら、

それを何日間か

続けてもいい。

 

・・・・・・

 

以上を

本気でやってみて

ほしい。

 

きっとそこに

「自由」

を感じるはずだ。

 

すべてから

解放された感覚を

得るはずだ。

 

中途半端では

ダメ。

 

100%やり切る

こと。

 

100%やると

決めること。

 

そうすれば

「自由」の感覚を

得られるはずだ。

 

よくよく考えると、

私は日々、

徹底的に

私自身を

縛り続けているのかも

しれない。

 

これができるように

なってから

私は本当に

「自由」になれた。

 

すべてから

解放され、

 

本来の自分

取り戻せたので

ある。

 

つづく

 

子へ 友へ

 

ここから

進もうとしている

人へ。

 

あなたの

これまでの

悔恨のすべてが

あなたの

財産だ。

 

時間は

後戻りできない。

 

だからこそ

そこまで

悔やみ

悲しむ。

 

だからこそ

それは

宝物だ。

 

魂を

かきむしるくらいの

それがあるから

あなたは

あなたにしか

できない

次の一歩を

見出せる。

 

あなたにしか

出せない

一歩を

踏み出せる。

 

自分は

人として

未熟だ。

 

あなたは

そんな経験を

数え切れないほど

重ねてきたかも

しれない。

 

しかし

やはり

それこそが

あなたの

道だった。

 

その道が

あるからこその

今のあなた

だ。

 

もちろん、

今のあなたも

未熟だろう。

 

これからの

あなたも

悔恨をいくつも

重ねるだろう。

 

しかしやはり、

それを重ねる

未来にあなたも

 

それがあるからこそ

あなた

なのだ。

 

悔しさを

捨てず、

悲しみを

隠さず、

 

涙を

止めず、

 

そのままで

 

あるがままで

 

そのままの

あなたで

 

あるがままの

あなたで

 

これからも

信じる道を

進んで行って

ほしい。

 

あなたが

あなたで

いる限り、

 

あなたが

自ら

進もうとする

限り、

 

皆があなたを

支えるだろうし、

 

少なくとも

間違いなく

 

私は

あなたを

応援するよ。

 

つづく

 

もっと自分の器を信じてほしい

 

どうやら、

自分の器を

小さく捉え過ぎている

人が多いようだ。

 

本来は

地球規模の器

であるにも関わらず、

 

半径1mくらいの

範囲でしか

物事の発想をしない、

 

そういった

狭い視野でしか

物事を見ない、

 

というくらいに、

「本来」と「実際」の

差異の大きな人が

多いようだ。

 

それでは、

「自分」は

活きない。

 

この「差異」により、

多大なストレスが

常に心の中で

発生し、

 

それに苦しんでいる

人が多いのだ。

 

それって

とてもとても

もったいないと

思うのだが。

 

・・・・・・

 

「等身大」という

言葉は、

 

「まぁ自分はそもそも

これくらいの大きさ

だから」

 

というように

謙虚な意味で

使われる場合が多いが、

 

別に謙虚に

ならなくてもいいよ。

 

と言いたくなる。

 

そこで謙虚に

なったって、

はっきり言って

何の意味もない。

 

地球規模の器の人は

地球規模の

発想をすれば

いい。

 

よく、

 

「自分がこれから

何をすればよいのか、

見えてこないのです」

 

というご相談を

受ける。

 

特に最近は

ほぼ、毎日のように

受けている。

 

そういった場合の

多くは、

 

自分を小さく

見過ぎ

 

なのだ。

 

もうちょい、

自分というものを

あるがままに

感じてみては

どうだろうか。

 

自分の

「大きさ」

を。

 

・・・・・・

 

「これまで私は、

この年齢になるまで、

実際には

それほど大きなことは

何もできていません。

だから、

私はこれくらいの人間

なのだと思います。

それをよくわかった上で

今後のことを

考えたいと思います」

 

・・・って、

本当にそれでいいの?

 

本当にそれで

あなたは幸せ?

 

周りは

幸せになる?

 

もちろん、

無理に大きなことを

考える必要は

ないけど、

 

謙虚に考え過ぎる

ことで、

自分が真本音で

望んでいる道が

見えなくなってしまう

ことの

もったいなさ

を、知ってほしいな。

 

これまでの経験

これまでの実績

のみで、

自分を判断するのは

やめましょうよ。

 

私が知っている

ほとんどの人達は、

 

これまで

あえて

「自分を抑えてきた」

傾向が高い。

 

あえて

「本来の自分の力を

出さずに生きてきた」

傾向が高い。

 

なぜなら、

「世の中の準備」が

整っていなかったから。

 

「世の中の真本音度合いが

ある一定以上に

高まるまでは

自分をあまり出さない

ようにしよう」

と決めてきたのだ。

 

それは

エネルギーの

バランスを取るため。

 

世の中のエネルギー

(ここで言うエネルギーとは

「次元の高さ」とイコール

と捉えていただいても

よいです)

と、

自分自身の持つエネルギー

が調和を起こせる状態を

 

これまでの人生では

待ち続けていた

ということ。

 

そしてここ数年、

具体的には

2013年くらいからの

この5〜6年で、

 

世の中の

(次元という意味での)

エネルギー量は

格段にアップした。

 

それを

頭ではなく、肌で

感じ取っている人々は

 

ようやく今、

重い腰を上げ、

 

本来の自分の力を

解放しようと

している。

 

その段になって、

「いやいや、

私の等身大は

これくらいだから」

とやるのは、

 

まったく意味がない

どころか、

「害である」

と言ってもよいのでは

ないか。

 

もっともっと

「あるがままの自分」

を感じ取って

ほしい。

 

そして

本当の意味での

「等身大」

の自分として、

今後の発想を

してほしい。

 

あなたは

そんなに

ちっぽけでは

ない。

 

断じて。

 

つづく

 

あえて怖い方に進もう

 

怖いことを

「怖い」と感じる

感性は

とても大事だ。

 

怖さとは

乗り越えるもの

ではない。

 

怖さとは

純粋に感じ取る

ものだ。

 

感じ取る

だけでいい。

 

しっかりと

感じ切ることだ。

 

ここを

中途半端にするから

足が前に

出なくなる。

 

感じ切ることで

「怖さがあるからこそ」

の進み方が

できるようになる。

 

それは多くの場合、

「地に足のついた」

進み方となる。

 

つまり怖さとは、

「味方」である。

 

・・・・・・

 

それは

私の5歳の息子を

見ていると

よくわかる。

 

私の息子は

かなりの怖がりだ。

 

すぐに

「怖い、怖い」

と言って

尻込みをする。

 

私も子どもの頃は

極度の怖がりだったが、

それ以上に見える。

 

しかしあえて私は

そのままに

放っておく。

 

「怖がらずにやれよ」

とは

あえて言わないことに

している。

 

ただ、

それをする意味だけ

伝える。

 

これに挑戦することで

こんな良いことが

あるのだよ、と。

 

それでも

「怖い」を連発する

のだが、

 

ある一定の時間が

経つと、

まるでそれまでの

記憶がなくなって

しまったかのように、

 

突然に

毅然とそれを

始めるのだ。

 

その変わり身に

私はいつも

茫然とするのだが、

 

あぁ彼は、

怖さをきちんと

感じ切ったな、

とわかるのだ。

 

反応本音を

しっかりと

感じ切ると、

真本音が

発動する。

 

今、自分が

何をすべきか?

 

に対して

真摯になれる。

 

毅然となれる。

 

それは

大人も子どもも

同じだ。

 

ただしこう書くと、

「邪魔な反応本音を

捨て去ることで

真本音が発動する」

という印象を

持たれてしまうかも

しれない。

 

いや、そうじゃない。

 

反応本音が

あるからこそ、

真本音の一歩は

より

毅然としたもの、

安定したものと

なるのだ。

 

反応本音は

真本音の

「味方」だ。

 

自らの

反応本音を

愛する人は、

自らの

真本音を

愛することができる。

 

つまりは、

自分自身を

本当の意味で

愛することができる。

 

それにより

私達は

自分を信じ、

最善の一歩を

踏み出し続けることが

できる。

 

・・・・・・

 

怖がる自分を

責めないで

ほしい。

 

責めても

何も生まれない。

 

怖がるからこそ

最善の一歩が

踏み出せるという

事実を

知ってほしい。

 

怖さは

次元を低める

ものではない。

 

怖さがあるからこそ、

私達は

次元の高い選択が

できる。

 

これからの時代は

「勇気」の

必要となる時代だ。

 

過去のやり方を

あらゆる意味で

手放さなければ

ならない。

 

過去の常識を

超えてゆかねば

ならない。

 

そんな時代に

存在している我々が

大事にすべきが、

「怖さ」

である。

 

あえて

「怖い」方に

向かおう。

 

「怖さ」を

感じ切りながら。

 

つづく

 

私達はどちらを行く?

 

きっと、

私達は今、

岐路に立っているのだと

思う。

 

人が

人としての本質を

さらに深め、

そして高めていく

道を進むのか?

 

それとも、

その道を放棄し、

これまで通りの

私達を

これまで通りに

ただ流して行く

だけなのか?

 

当然、

こういった書き方を

すれば、

「前者の方がいい」

ということに

なるだろうが、

 

しかし前者の道には、

勇気と決断が

要る。

 

もちろん私達の

真本音は、

その勇気と決断を

しようとしているが、

 

現時点では、

ほとんどの人は

後者の道を選ぶのだと

思う。

 

なぜなら

多くの人達は、

「今ここにいるまま」

を維持したいから。

 

現状維持

だ。

 

これまでと同じ

やり方で、

これからも進んで

行ければいい、

と願っている。

 

それは

「安定」を求める

私達人間の本能の

一つかもしれない。

 

しかし実は、

本当は

「現状維持」は安定では

ない、

ということを

私達は本能的に

知っている。

 

その事実に

気づいた人はむしろ、

現状維持を恐れる

のであるが、

多くの人は

その事実にすら

蓋をしている。

 

要するに、

「面倒臭い」

のだ。

 

様々な事実を

目の当たりにして、

問題が起こる前に

きちんと対処しておく、

という生き方が

面倒臭い。

 

これを私は

「怠慢」

と呼んでいる。

 

・・・・・・

 

放っておいても

いずれ、

何とかなるだろう。

 

と、

私達はどこかで

思っている。

 

これこそが

「怠慢」の

典型であるが、

それをまた

認めようとしない。

 

隣の家が

火事で燃えていても、

それはあくまでも

隣の家のことで、

何だかんだ言っても、

自分の家に

燃え移ることは

ないだろう、

タカをくくっている。

 

いや、本当は

タカをくくるどころが、

自分の家に燃え移る

ことを恐れているのだが、

しかし

その気持ちに蓋をして、

 

「大丈夫、

問題ない」

 

と言い張る。

 

常に問題を

後回しにして、

いざ、

本当に自分の家に

火が燃え移ってから

大慌てする。

 

そして

「何でこうなるんだ!」と

文句を言うか、

 

もしくは

「もっと早く対処すれば

よかった」と

後悔する。

 

本当は

自分の「怠慢さ」が

すべてを

招いている。

 

そこに皆、

気づくといい。

 

偉そうに言っているが、

私もずっと

「怠慢」だった。

 

だからよく

わかるのだ。

 

それが

どんなに酷い現実を

引き起こすか?

を。

 

そして

どれだけ

自分や他人を

傷つけるか?

を。

 

・・・・・・

 

人としての

「本質の道」を

行くか?

 

それとも

「怠慢の道」を

行くか?

 

この岐路に

今の私達は

ある。

 

もちろん私は

前者に行きたいと

思っているし、

 

多くの人が

そうなるといいな、

願っている。

 

私にできることは、

そのために

私にできる最大のことを

毎日、

し続けること。

 

私は

「コーチ」という

役割を通じて

それをしているが、

 

そういった「コーチ」を

増やすために

動くのも

私のできることの

一つだ。

 

「コーチ」を増やす

と言っても、

大量生産は

しない。

 

できるわけが

ない。

 

たとえ少人数でも、

一人一人

丁寧に私は

発掘し、

そして

指導する。

 

つづく

 

自分の叫びを自覚しよう

 

ある方から

ご質問をいただいた。

 

「真本音と魂は

同じものですか?」

 

その人は、

ある大手企業様で

とても重要な役割を

されている人で、

 

これまで人生を

「全力」で生きてきた

人だ。

 

だから私も

全力でお答えする

ことにする。

 

・・・・・・

 

本当は、

本来は、

魂と真本音は

イコールのはず

のものだ。

 

つまりは、

魂の意思が

真本音である、

と言っていい。

 

しかし残念ながら、

今はそう言えない

事情がある。

 

私達のほとんどが、

魂レベルの反応本音

を持ち合わせている

からだ。。

 

これがきつい。

 

これが

尋常ならざる

エンティティを

生む。

 

(エンティティとは、

ストレスの濃度が

ある一定以上に高まり、

物質化したもの。

念の塊であり、

「生き霊」と訳される

こともある。)

 

いつも企業様で

多くの人と

向き合っていると、

私はこの

魂レベルの反応本音

をダイレクトに感じ、

受け取る。

 

これが本当にキツく、

私は自分が受けた

ストレスを

浄化するために

夜を徹することが

頻繁にある。

 

逆に言えば、

多くの人達が

それほどのストレスを

持ちながら、

生きている。

 

夜中にストレスに

苦しみながら、

私はいつも

思うのだ。

 

よくもまぁ、

こんなストレスを

抱えていて、

あの人は

平気な顔をしている、

と。

 

しかし本当は

平気ではない。

 

ただ

麻痺をしている

だけのことで、

本当はとても

苦しんでいる。

 

他人事では

ない。

 

ほとんどの人が

そうなのだ。

 

・・・・・・

 

ではこれが、

「現代社会」と呼ばれる

最近の傾向なのか?

と言うと、

私はそうではない

と感じている。

 

恐らくこの

魂レベルの反応本音

は、

人類のこの数千年の

歴史の中に

常にあり続けたもの

だと

私は思う。

 

本来は

魂には

反応本音は

つかない。

 

本来は

魂には

ストレスは

生じない。

 

・・・はずなのに、

そうではない

状態のままに

人類は

歴史を重ねてきた、

のだと

私は思っている。

 

どうして

そう思うか?と

問われても

上手く答えることは

できない。

 

しかし、

毎日それらのストレスを

受け取り、

向き合っていれば

誰もが同じ印象を

持つのではないか。

 

それほど、

それは

ひどい。

 

はっきり言って

私は、

私を含めた人類は、

魂レベルの

病気にかかっている

と、

自覚している。

 

「自覚している」

とあえて書いたのは、

自覚した人が

増えてほしいという

願いからだ。

 

病気は

自覚しないと

治らない。

 

でも、

自覚すれば

治そうという

意図が働く。

 

そして

私達の真本音は

(全員の真本音は)

この病気を

全力で治そうと

思っている。

 

その自らの

真本音の想いと

共鳴することが

大事であると

私は思うし、

 

それを自覚する人が

増えれば増えるほど、

一気呵成に

この病気は

改善されていくのでは

ないか、とも

思っている。

 

これが、

私の「現場感覚」

だ。

 

・・・・・・

 

真本音の叫び。

 

病気を治したい

という

叫び。

 

そのためには、

今ここで

こんな行動を

しよう!

という訴え。

 

これが、

私達の中に

ある。

 

真本音度合いが

高まれば、

その「叫び」や「訴え」に

敏感になる。

 

それは

悪いことではない。

 

麻痺しているのが

最も

ひどい状態だ。

 

その麻痺状態から

抜け出し、

今ここから

一つずつ

一歩ずつ

健康状態に戻そう

という、

そのきっかけになる。

 

しかし。

 

その「叫び」や「訴え」に

敏感になっても

それでも

 

耳を塞いでしまう

人がいる。

 

本当は

聴こえていても、

聞こえていない

ふりをしているのだ。

 

最近の私の

憤りのほとんどが

ここにある。

 

真本音の

叫び。

 

それは、

魂の叫び

と言ってもいい。

 

これが

心の中に

鳴り響いている。

 

にも関わらず、

多くの人は

耳を塞いだままだ。

 

「叫び」さえ聴けば、

自分が今、

何をすべきか?が

皆、

わかるはずだ。

 

私達の真本音は

決して

無茶は言わない。

 

自分に

できることしか

言わない。

 

でも、

自分にできることすら

やろうとしない、

そんな人が

多過ぎるのは

悲し過ぎる。

 

でも少なくとも私は、

自分にできることを

する。

 

そう決めている。

 

私自身の

真本音の叫びと

訴えに

真摯に耳を傾けると、

 

決めている。

 

つづく

 

全力を尽くしてからの話だ

 

自分が

全力を出したら

どうなるか?

 

を、

知っているか?

 

知らないので

あれば、

ぜひ

知るべきだ。

 

何でもいい。

 

全力を

尽くしてみる

べきだ。

 

全力を

尽くさなければ

見えない世界が

ある。

 

そして、

全力を

尽くさなければ

見えない自分が

いる。

 

全力とは、

100%の力を

出し切ること。

 

もうこれ以上は

できない、

絶対にできない、

思えるところまで

力を尽くすことだ。

 

それが

真本音の判断か、

反応本音の判断か、

この際、

どちらでもいい。

 

・・・・・・

 

最近、

一つ気づいた

のだ。

 

私の

真本音の話を

聴くことで、

途中までは

真本音度合いを

高めて

いい感じになるのだが、

 

途中から、

自己満足に走り、

 

自分は

真本音で生きている

つもりになっていても、

著しく

真本音度合いを

低めてしまう人が

いる。

 

どうして

そうなるのか?

 

その理由が

今一つ判別できずに

ここまできた。

 

でもやっと

単純な答えの一つに

たどり着いた。

 

「全力を

出したことがない」

のだ。

 

全力を出したことの

ない人が、

真本音の話を聴くと、

 

全力を避けるために

真本音を理由に

現実逃避を

始めるのだ。

 

「私の真本音は

こう言っています。

だから、私は

それをせずに、

これをします」

と。

 

しかしその

「私の真本音」は

本当の真本音

ではない。

 

「真本音」という

言葉を

都合よく

使っているだけの

ことだ。

 

・・・・・・

 

企業様のサポートの

場合、

 

実は、私はこれまで、

真本音度合いの

高まった人にこそ

 

より厳しい現実を

与える、

ということを

してきた。

 

例えば、

その会社の社長から、

その人に対して、

非常に厳しい

「目標」を

与えていただいたりした。

 

厳しい「現実」を

与えられ、

 

しかしそれに対して、

「真本音で

立ち向かう」

ことにより、

 

「どのような状況でも

真本音で生きる

力を養成する」

ことが

できるからだ。

 

真本音で生きる

とは、

好き勝手に動ける

状況をつくる

ことではない。

 

どのような状況でも

私達は

真本音で生きる

ことができる。

 

そしてその結果

自分の望む

道を開くことが

できる。

 

それを

体験を通じて

学ぶことを

私はこれまで大切に

してきた。

 

だから、

真本音度合いの高まった

人にこそ、

あえて

その人にとっては

厳しい現実を

与えたりした。

 

それが、

私が大事にしてきた

「サポート」の

一つだ。

 

それは

言葉を変えれば、

 

その本人が

全力を尽くす場面を

設定した、

 

とも言えるのだ、

ということに

最近、気づいた。

 

・・・・・・

 

全力を尽くした

時の

自分を知ること。

 

これを知らない

人は、

傲慢になる。

 

変な言い方だが、

 

本当に全力を

尽くした人は、

自分の

あまりの力のなさに

茫然と

するはずだ。

 

自分とは、

何もできない人間

だった。

 

という事実に

茫然自失と

なるはずだ。

 

この経験がない

人は、

全力を尽くした

経験がない

ということだ。

 

こうなった時、

人は初めて

「自分」を知る。

 

「自分の現在地」

を知る。

 

そして

そんな人に

「真本音」の話を

すると、

一気に花開く。

 

どこまでも

自分を

開花し続けさせる。

 

・・・・・・

 

傲慢な人

ほど、

「自信がない」

と言う。

 

全力を尽くした

ことがないから、

傲慢なのだ。

 

全力を尽くした

経験のある人は

謙虚だ。

 

謙虚な人は、

「自信がない」

とは

言わない。

 

自信がない

のは

当たり前だし、

 

自信があるとか

ないとか、

そんなことは

関係ないからだ。

 

それよりも、

自分の

本当にすべきこと

(イコール、それは

したいこと)

に、

向かうことが

自分の人生であると、

わかっている。

 

それこそが、

真本音で生きる

ということだ。

 

つづく

 

自由とは何だろうか

 

「自由」とは

何だろうか?

 

このテーマを最初に

自覚したのは、

もう16〜7年前だ。

 

当時、私は

師匠の会社の

雇われ社長をしていたが、

そこから飛び出し、

自分で一つの

会社を立ち上げた。

 

その時に

自分の中から

浮上してきたのが

このテーマだった。

 

以来、私は

このテーマをずっと

探究している。

 

・・・・・・

 

これについては

いろんな視点からの

いろんな答えが

あるだろう。

 

ただ、

私からみれば、

多くの人が

「勘違いの自由」を

欲しているように

思えてならない時が

ある。

 

それは

「状況に自由を

求める」

ということだ。

 

つまりは、

「自由な状況に

なりたい」

と思い、

その「状況」を手に入れる

ことを

「自由である」

と思い込んでいる

ことだ。

 

残念ながら

それにより私達が

本当に「自由」を

感じることは

ない。

 

いや、正確には

あるにはあるが、

それは一時的な

ものだ。

 

もうちょい、

わかりやすく

言おうか。

 

多くの人は、

 

「何でも自分の

思う通りにできる

状況にしたい」

 

と思い、

その状況を

実現できている

ことを

「自由になれた!」

と言う。

 

例えば、

「この会社では

自分は自由に

やれないから、

別の会社に行って

自由にやるんだ」

 

とか、

 

「独立をして

自分の好きなことを

やるんだ」

 

とか。

 

そしてその通りに

する人がいるし、

私はそれを

止めることもないが、

 

それでその人が

本当に「自由」を

手に入れることは

極めて稀だ。

 

なぜなら

その人の

「心が自由」

ではないからだ。

 

一つ言える

とても大事な

こと。

 

それは、

 

私達人間は、

どれだけ

「状況が自由」に

なっても、

本当の「自由」を

感じることは

ない。

 

「心の自由」

を手に入れない

限りは。

 

・・・・・・

 

「自由にできる

状況になれば、

私は自由に

なれる」

 

でも、

 

「自由にできる

状況になければ、

私は自由には

なれない」

 

というのは、

本当に「自由」

だろうか?

 

私は、

本当の「自由」とは、

 

「どのような状況でも

自由でいられる

自分でいること」

 

だと

思っている。

 

そこに必須なのが

「心の自由」

である。

 

どんな状況でも

「心が自由でいられる自分」

である人は

一生、「自由」で

いられるだろう。

 

そして、

私の表現を使えば、

 

「心が自由」

であることと、

 

「真本音に素直に

生きること」

は、

 

まったくの

イコールである。

 

私達は、

どのような状況でも

真本音に素直に

生きることが

できる。

 

「自由な状況

だから、

私は真本音で

生きることができる」

 

ということでは

ない。

 

それは

真本音ではない。

 

私達の真本音は

「状況」は

選ばないのだ。

 

この会社でも

あの会社でも

独立をしても

しなくても、

 

私達は

「今ここ」で

「いつでも」

真本音で生きる

ことができる。

 

その本質を

本当に理解できて

いる人は、

 

常に「自由」だ。

 

・・・・・・

 

以上のことを

しっかりと

理解できている人に

私は

「コーチ」に

なってもらいたい。

 

ここを理解

していないと、

「人を自由にできる」

サポートは

絶対に無理だからだ。

 

今の世の中は

残念ながら、

とても不自由だ。

 

みんな

自由を求めて

不自由に

生きている。

 

つづく

 

ただ純粋にモヤモヤしてみよう

 

私は

心の中にモヤモヤが

あるうちは、

決断しないように

している。

 

どれだけ

考えに考えても、

モヤモヤが晴れない

うちは、

その決断は

後で覆ることが多い

のを知っているからだ。

 

しかし

それがわかっていても、

ついつい考え込んで

しまう。

 

そういった時は

「決断しない」

ということを

決断した上で、

そのモヤモヤと

対峙する。

 

しっかりと考え、

しっかりと悩む。

 

すると面白いことに、

「決断しない」

という前提があるからこそ、

そのモヤモヤが

生きてくるのだ。

 

何のためのモヤモヤか?

がある瞬間に

忽然と観えてきたり、

 

本当は何に

迷っているのか?

が突然に理解できたり。

 

反対に、

これは全く意味のない

迷いだな、と

わかることもある。

 

いずれにしても、

「決断のために

モヤモヤする」

のではなく、

「ただ単純に

モヤモヤするために

モヤモヤする」

ことで、

発見することは多い。

 

セルフコーチング

の基本である。

 

・・・・・・

 

ところが、

その人のモヤモヤを

何でもかんでも

その場で解消しよう、

 

というサポートをする

コーチがいる。

 

コーチングの

いろんな手法やら

何やらかんやらの

手法やら

を使って。

 

そして、

「私のセッションを

受けると、

スッキリするでしょ」

アピールしたいが

ための

コーチングをし続ける。

 

それはもはや

コーチではない。

 

ただの

大迷惑だ。

 

スッキリするに

越したことはないが、

 

本来のスッキリは

モヤモヤすべきを

しっかりと

モヤモヤし切ることで

初めて得られるもの。

 

コーチの自己満足

で得られる

ものではない。

 

・・・・・・

 

しかしまぁ、

昨日の記事と言い、

 

なんか今の私は

苛立っているのか?

 

文章を書くと、

憤り系のものに

なるな。

 

どうやらかなり

モヤモヤしている

ようだ。

 

さぁ今から

しっかりこれと

対峙してみるか。

 

つづく

 

想いは行動に移しなさい

 

セルフコーチングや

コーチングの

本質は、

 

「現実を変える」

 

ことにあると

私は思っている。

 

現実を変える

ために、

まずは自分の

「本当の想い」

を知る。

 

本当の想いに

基づいた行動を

することでしか、

本当に望む方向に

現実を変えることは

できないからだ。

 

当たり前の

ことであるが。

 

そして、

「本当の想い」

を知るために、

自分自身の心の

状態を

整える。

 

心を自ら

スッキリとさせ、

晴れやかな状態で

いるための術を

身につける。

 

それをまた

セルフコーチングと

言うのだが。

 

しかしそれは

あくまでも、

①心の状態を整え、

②本当の想いを知り、

③現実を変える

というステップの

最初の段階に

過ぎない。

 

ところが。

 

①を手に入れる

ことで、

満足をしてしまう人が

いる。

 

もしくは、

②までは行くのだが、

③を行わない

人がいる。

 

残念ながら、

③を行わなければ、

すべて

「自己満足」

である、

と私は考える。

 

人生は、

行動してなんぼ、

である。

 

行動に移し、

想いを形にし、

現実を変えて行くのが

人生だ。

 

①ができないが故に

③ができない人が

いるが、

それは当たり前だと

私は思うし、

それはしょうがないな、と

私は思う。

 

しかし、

①と②ができるように

なった上で、

③を拒否・拒絶し、

①と②の気持ち良さの

中で

浸り続ける人がいる。

 

私は

そういった人を

見ると、

どうしても

無性に

腹が立つ。

 

・・・・・・

 

できないから

できない、

のはしょうがない。

 

どうすれば

できるようになるか?

を考え、

一歩ずつ進めばいい。

 

しかし、

本当はできるにも

関わらず、

できないふりをして

やらないのは

本当に腹が立つ。

 

そして、

①と②ができるように

なり、

しかし③をしない人は

 

本人が気づかない

うちに、

心の麻痺が

始まる。

 

心の麻痺によって、

自分自身の

真本音と反応本音の

区別が

つかなくなる。

 

せっかく

①と②ができるように

なり、

自分の真本音が

わかるようになっても、

 

③をしないことで、

真本音が

見えなくなってしまうのだ。

 

ところが、

麻痺が起きているために、

本当は

真本音が見えなくなって

いるにも関わらず、

「見えているつもり」に

なる。

 

そういった人の

多くは、

 

「これが私の真本音だ」

 

と、周りに主張

するようになる。

 

「私の真本音が

こう言っているから

私はこうするのだ」

 

という主張が

多くなる。

 

なぜ「主張」になるかと

言えば、

それは自分自身に対して

「言い訳」

をしているからだ。

 

本当はそれは

真本音でも何でも

ない。

 

③から逃れるための

ていのいい

言い訳に過ぎない。

 

本来すべきこととは

別のことに向かい、

ただただ

気持ちの良いことしか

しないための、

単なる

言い訳に過ぎない。

 

「私の真本音が

こう言っているから

私はこうするのだ」

 

・・・ばかりを

言い出したら

かなり要注意だ。

 

すでに

その人は

真本音度合いを

下げている。

 

本当に

真本音で生きている

人は、

そんな言い方は

しない。

 

私はこの状態に

入ってしまっている人を

「真本音に依存している」

と表現している。

 

本当は

真本音に依存は

できないし、

本当の真本音は

依存などはさせない

のだが、

「真本音」という言葉を

使いながら、

その人は

自分の意志(意思)を

放棄しているのだ。

 

こういった人を

見ると、

私はとても

腹立たしくなるし、

悲しくなる。

 

・・・・・・

 

もし、

10の想いがあれば、

100行動する、

 

くらいが

ちょうど良いのでは

ないかと

私は思っている。

 

行動すれば、

いろんな壁に

当たる。

 

たとえ

真本音で決めて

行動しても、

そこには必ず

壁がある。

 

しかしその壁に

当たることで

私達は

学ぶことができる。

 

真本音で生きる

とは、

壁を回避して上手く

生きることではない。

 

本当に必要な

壁に当たり、

 

本当に必要な

体験・経験をし、

 

本当に必要な

試行錯誤を

繰り返し、

 

本当に必要な

進化成長をし、

 

結果として、

本当に望む現実を

手に入れる。

 

これが

真本音で生きる

ということ。

 

この、

最も大切な部分を

決して

間違えないでほしいと、

私は

切に願っている。

 

つづく

 

声変わりしたかな?

 

真本音度合いが

高まったり、

意識の次元が

高まったりすると、

 

まずは

どんなところに

変化が

現れるか?

 

その現象は

様々であるが、

意外なところを

一つ。

 

それは

「声」

である。

 

真本音度合いが

高まると、

声が変化する。

 

声の聴こえ方

自体は

変わらないかも

しれない。

 

しかし

何か、が

変わる。

 

恐らく、

波長が変わるのだと

思う。

 

真本音度合いの

高い人の声を

聴いていると、

 

とてつもなく

癒されるのだ。

 

それは

大人も子どもも

同じ。

 

その人の声が

私の鼓膜を震わせる

だけで、

とても幸せな

感覚が

全身に広がる。

 

ある人がふと漏らした

言葉が

真本音から発せられた

場合、

それを聴いた瞬間、

私は体の芯が

ゾゾゾッとなることが

ある。

 

それはとても

気持ちのよい

ゾゾゾッ、なのだが、

 

それも恐らく、

その一言だけ、

声の波長が変わる

からだと思う。

 

なかなか

面白いでしょ?

 

企業のリーダーや

管理職さんで、

真本音度合いが

高まることで、

 

「どれだけ部下に

厳しくしても、

部下が私の話を

ちゃんと聴いて

くれるようになりました」

 

と言われる人が

多い。

 

これも、

声の波長が変わる

からかも

しれないね。

 

癒しの波長であれば、

厳しいことを伝えても、

どこかあたたかく

伝わるだろうから。

 

やはりすべては

自分の生き方。

 

真本音に素直に

生きるかどうか、で

あらゆることが

変わって行くね。

 

つづく

 

子ども達は感じ取っている

 

私の息子は5歳で

子ども園に

通っている。

 

毎日はとても

無理であるが、

週に何回かは

できるだけ夕方に

お迎えに行くように

している。

 

息子との会話の時間

を取りたいという

目的があるが、

 

子ども園にいる

子ども達の「集団」を

感じてみたい

という

目的も大きい。

 

あの「集団」の中に

入ると、

今の幼い子達の

真本音からのメッセージ

をたくさん

知ることができる。

 

今、彼らは

世の中を

どのように捉えていて、

何を感じ、

自分がどう動こうと

思っているのか?

 

それを

真本音のレベル

(魂のレベル)

で知ることが

できる。

 

これは実は、

私のお仕事の

大きなヒントと

なっている。

 

なぜなら私は

彼らのような子ども達が

将来、

大活躍できる社会に

したいと思っている

からだし、

そのためにも、

そういった組織(会社)を

増やしたいと

願っているからだ。

 

子ども達の

感受性は

素晴らしい。

 

我々の世代よりも

真本音の度合いも

意識の次元も

明らかに

高い。

 

我々が創り出した

のとは

違った社会を

彼らは創り出して

くれるだろう。

 

その土台を

今のうちから

創っておく必要が

あると

私は思っている。

 

・・・・・・

 

これまで彼らから

いくつもの

真本音メッセージを

感じたが、

 

最近、最も

印象的なのは、

 

「大人達みんなが

こなし過ぎてる」

 

という

メッセージだ。

 

もちろんそんなことを

言葉で言われた

わけではない。

 

しかし彼らの

空気感を言葉にすると

こうなる。

 

「こなす」

というのは、

「魂を込めていない」

ということだ。

 

「妥協している」

ということだ。

 

日常の一つ一つの

行動、

それはほんの些細な

ことかもしれないが、

 

一つ一つの

大人達の振る舞いに、

子ども達は

悪い意味の「適当さ」を

感じてしまっている。

 

しかもそれが今は

日々、

増大している

ようなのだ。

 

そこに子ども達は

「気持ち悪さ」を感じ、

そのストレスが

私に伝わってきた。

 

子ども達は

親や、

周りの大人達に対して

「幸せであってほしい」

と常に

願っている。

 

自由奔放に見えて、

実は、

親や大人達の

幸せのために

「こうしよう」と

彼らなりに思いながら

行動していることは

とても多い。

 

子ども達は

親(大人達)の生み出す

ストレスに

敏感になっており、

 

多くの子ども達が

親(大人達)が

発生させたストレスを

肩代わりしている。

 

だから私は、

子ども達を通じて、

大人達のストレスを

子ども園では

よく受け取って

帰ってくる。

 

今、それらの多くは

「妥協のストレス」

だ。

 

自分の真本音を

無視し、

「まぁこれくらいでいいか」

と妥協しながら

生きる大人が

多いのだろう。

 

特にその妥協の度合いが

最近は増えている

ようだ。

 

子ども達の

感受性は高い。

 

大人達の生き方が

彼らにダイレクトに

影響を及ぼしている

という事実を

我々はもっと

知った方がいい。

 

「子ども達に

幸せになってほしい」

 

とか、

 

「次世代につながる

社会にしよう」

 

とか、

 

軽々しく我々は口に

するが、

 

そのためには

まずは、

普段の我々の

生き方こそを

もっとしっかり

するべきではないか。

 

もっと

一つ一つの物事に

魂を込める

べきではないか。

 

つづく