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本当のつながりを育てよう

 

人と人は

つながっている。

 

・・・なんて、

最近、よく

言われるように

なった。

 

とても

喜ばしいことだ。

 

企業でも

「つながり」

という言葉を

よく聴くように

なった。

 

私達は誰もが

つながりを

欲している。

 

時々、

「私は孤独がいい」

という変わり者も

いるが、

普通の人は

孤独な人生よりも

量はともかくとして、

本当の意味で

つながりを感じられる

人が

一人でもいれば

心は安らぐ。

 

ただし、

そういった風潮の中で、

安直なつながりが

増えてしまった

という事実も

確かにある。

 

「私達、

つながってます」

自己満足し合う

関係。

 

これも

増えている

気がする。

 

・・・・・・

 

自己満足の

つながりは、

はっきり言って

虚しい。

 

本当は

つながっていない

ということを

本人達が

一番よく

わかっている。

 

しかし

一人なのは不安

なので、

自己満足でも何でも

つながりを

増やそうとする。

 

残念ながら、

これも

「現実逃避」

の一種だ。

 

現実逃避を

すれば、

真本音度合いは

下がる。

 

つまり

私達の心は

苦しみを

増していく。

 

つながりを

増やせば増やすほど

苦しみが

増していく。

 

それはまるで、

大都会の

人混みの中で

孤独を感じる、

あの感覚に

似ている。

 

・・・・・・

 

本当に今、

私が

つながりたいのは

誰か?

 

この問いと

真正面から

向き合ってみよう。

 

そして

その答えがわかれば、

その人のことを

とことん

考えよう。

 

オススメは、

その人が

今ここにいる

イメージをしよう。

 

そしてイメージである

その人に

真剣に意識を

向け続けよう。

 

実は、

はっきりくっきりと

イメージができた場合は、

それはすでに

イメージ(幻影)ではなく、

「実在」

である。

 

その「実在」に

真剣に意識を

向けてみよう。

 

その人の「実在」から

自分へ

何が伝わって

来るだろうか?

 

そして自分は

何を感じ、

 

その人に対して、

何をしたいと

思うだろうか?

 

何を今、

すべきだと

思うだろうか?

 

自然に出る

その答えに、

素直に行動

してみよう。

 

実はこれ。

 

私が毎日

行なっていること

である。

 

私は、

次の日にお会いする

すべての人の

「実在」を感じ、

すでに前の日に

一人一人と

コミュニケーションを

取ってしまうのだ。

 

その上で、

次の日に

実際にその人達に

会う。

 

すると、

すべてが

調和する。

 

これを私は

「実在コミュニケーション」

と呼んでいるが、

 

この力を持ち、

この力を使いこなす

人のことを

「コーチ」

と呼んでいる。

 

・セルフコーチング

・実在コミュニケーション

・実際のコーチング

 

それらすべての

力を持って初めて

「コーチ」だ

というのが

私の考えだ。

 

こういったコーチを

私は

増やしていきたい。

 

つづく

 

いつもエネルギーが溢れている

 

どれだけ

疲労・疲弊

しても、

 

どれだけ

身や心が

ズダボロに

なっても、

 

それでも

自分の内側から

溢れ出る

エネルギーが

ある。

 

その光の

強烈さ。

 

心地良さ。

 

あたたかさ。

 

それらを

常に感じ取れる

感受性を

持ってほしい。

 

それが

真本音のエネルギー

であり

魂の放つエネルギー

だ。

 

その光が

わかったら、

光の中に

入るといい。

 

そして、

光の中心を

目指すといい。

 

中心を目指せば、

その光が

どれだけ深いものか、

よくわかる。

 

光の世界は

無限に

どこまでも深く

深く

続いていく。

 

そして

ようやくたどり着いた

その中心。

 

そこには

いったい

何がある?

 

そこには

何が

観える?

 

何を

感じる?

 

そして、

何が

聴こえる?

 

その中心に

あるものこそが、

あなたの

本質だ。

 

そして、

その本質からの

今のあなたへの

メッセージ

だ。

 

ぜひその

本質を、

あなた自身が

理解してほしい。

 

そして

光の中心から

放たれる

そのメッセージを

素直に

受け止めてほしい。

 

素直に

動いてほしい。

 

それが

生きる基本

であると

私は思う。

 

つづく

 

本当に人をサポートしたい?

 

私はよく

「調和」

という言葉を使うが、

 

であるが故に

誤解も

多いようだ。

 

調和とは、

上手く進むこと、

もしくは

物事を上手く進めること、

思われがちだ。

 

が、

実は

「上手く進めよう」と

思えば思うほど、

不調和が起きる

というのが

現実だ。

 

ある企業の

管理職のAさん。

 

Aさんは管理職として

あらゆることを

「上手く進めよう」

とされていた。

 

ある意味

それが彼の

理念とも

言えた。

 

しかしAさんのもとでは

問題ばかりが

日々、起こっていた。

 

上手く進めたいのに、

なぜ、

問題ばかりが

起こるのだ?

という

Aさんの悩み。

 

次々に新たな問題が

起こり、

その対処のための

時間ばかりが

過ぎていく。

 

生産性は

極度に低く、

当然

実績も上がらない。

 

私はこんなに

頑張っているのに。

 

なぜ

こんなにも

部下達は

非協力的なんだ?

 

という

Aさんの悩み。

 

「あなたのその

上手く進めようという

在り方が

すべての元凶です」

 

私ははっきりと

Aさんに伝えなければ

ならなかったのだが、

こういったことは

本当によくある

ことだ。

 

・・・・・・

 

「調和」「調和」と

言いながらも、

本当のことを言えば、

私は普段、

「調和」のことなど

これっぽっちも

考えていない。

 

私が考えているのは

ただ一つ。

 

今ここで

何をするか?

 

である。

 

そしてそれに

集中すると

決まって、

 

「これはどう見ても

波乱しか

起らないだろう」

 

と思われる行動を

私は取ろうと

してしまう。

 

私の顕在意識は

私も人間なので、

その「波乱」を

恐れる。

 

「いやいやいや、

そんなこと

したくないよー!」

いつも心の中で

叫ぶことになる。

 

しかし

私の真本音が

それを望んでいるので

あれば、

やはり私は

真本音通りの行動を

選択する。

 

波乱は

起きてもいいや。

 

何が起きても

最後までしっかり

向き合いきるぞ。

 

私はいつも

覚悟を決める。

 

そして

何の淀みもなく

その行動を

私は取る。

 

すると、

びっくりするくらいに

すべてが

「調和」する。

 

実はこれは

ほとんど毎日の

ことである。

 

しかし、

毎日これを体験

しても、

慣れることがない。

 

常に私は

「波乱」の恐れを

抱いている。

 

しかし

それは単なる

恐れに過ぎず、

私は私の真本音の

通りに動く。

 

毎日、

ヒリヒリする。

 

これがある意味、

「コーチ」の

仕事である。

 

・・・・・・

 

「コーチ」は

サポート役である。

 

しかしよく、

 

「私はリーダーに

向いていないから、

サポート役に

徹します」

 

という声を聴く。

 

正直言って、

サポート役というのは、

そんなに

生易しいものではない。

 

サポート役

だからこそ、

その人の人生の

生き方がそのまま

ダイレクトに

サポートの仕方に

反映される。

 

曖昧な生き方を

している人は

曖昧なサポートに

終始する。

 

すると

サポートを受ける側

にとってみたら

たまったものではない。

 

サポート役とは、

本当の意味で

自分自身を

リードできる人、

つまりは

「自分自身のリーダー」

となれる人でないと

難しい。

 

・・・・・・

 

「サポート役」

人生の目的と

している人がいる。

 

その人へ、

私は今こそ

メッセージしたい。

 

まずは、

自分の中の

その意志に

気づいてほしい。

 

あなたにしか

できない

「サポート」が

ある。

 

それを見つけ出し、

それを発揮する、

という

人生の道に

入る勇気を

持ってほしい。

 

もう始める時だ。

 

私は思う。

 

つづく

 

今、答え出るよ

 

今こそ、

 

「自分は何のために

ここにいるのか?」

 

という

極めて本質的な

問いと

向かい合った方が

いい。

 

それは、

 

「自分は何のために

この人生を始めたか?」

 

という

ことだ。

 

すべての人生には

目的があり、

 

その目的を

誰よりもよく

理解しているのは

自分自身である。

 

だからこれは

人に訊くことでは

ない。

 

これまで何度も

自問自答してきたが、

全然、答えが

わからなかった。

 

という人も

いるかもしれない。

 

しかしそれでも

同じ問いを

投げてほしい、

今こそ。

 

問いには

答えが出る瞬間が

必ずあるものだ。

 

その瞬間が

今、

ではないか?

 

答えは

100%すべてわかる

必要はない。

 

ただ、

ほんの一部だとしても、

わずかなヒント

だとしても、

今、ここで

掴むべき、知るべき

大事な一言が

あるのではないか?

 

それは

自分から自分への

メッセージ。

 

必ず

受け取らねば

ならない

メッセージ。

 

人生は、

受け取るべきメッセージ

を、

受け取るべき瞬間

に、

きちんと受け取るかどうか?

によって

決まる。

 

自分自身の

「何のために」

を果たせるかどうかは、

ほぼ、

そこで決まる。

 

今が

その時では

ないか?

 

今こそ、

しっかりと

自分の声を

聴くときではないか?

 

つづく

 

怖がらずに加速せよ

 

進むスピードも

ある限界を

超えると、

 

まるで

静止しているような

感覚に

なる。

 

そこには

永遠の静寂

すら

感じる。

 

実はこれが

最も

安定した

状態だ。

 

多くの人は

スピードを

出すことや、

加速することを

怖がる傾向に

ある。

 

特に、

これまで

経験したことのない

スピードや

加速感は

極度の恐怖を

呼ぶ。

 

しかしそれは

である。

 

その恐怖は

幻。

 

実在

ではない。

 

つまり

どこまでいっても

反応本音レベルの

ものでしかない。

 

私達は

本能的に

知っているのだ。

 

どこに

本当の

安定と安心が

あるか?

ということを。

 

・・・・・・

 

加速をするときは

確かに

エネルギーが

必要かもしれない。

 

しかし

一度スピードに

乗ってしまえば、

あとは

それに身を

委ねるだけだ。

 

スピードに

乗ることで、

私達は

余分な力を

抜くことができる。

 

本当に

必要な時に

必要なだけ

力を込めれば

よい。

 

それは

非常に楽チンな

状態である。

 

短絡的に

あえて言えば、

スピードに

乗ってしまえば、

こっちのもん

である。

 

・・・・・・

 

私がサポートに

入らせていただく

企業様は

ほぼ必ず、

 

次のステージに

進もう

 

という強い

意志を持つように

なる。

 

もちろん

私が強引に

そうさせている

のではない。

 

むしろ私は

私の嗅覚で、

そういった企業様に

近づいて

行っているのだと

思う。

 

そういう組織に

関わり、

真本音度合いを

高めていけば、

その組織は

ほぼ間違いなく、

 

不安定期

 

に入る。

 

しかしこれは

決して

悪いことではない。

 

急加速する

前兆だ。

 

未知の領域に

入る決意が

高まるとき、

 

人も組織も

不安定になる。

まぁ、

当たり前の

ことだ。

 

人も組織も

不安定になれば、

多くの場合、

 

止まろう

とする。

 

ここで

「慎重に物事を

進めましょう」

などという

サポートをするならば、

 

そのコーチは

害にしか

ならない。

 

そこでこそ、

 

「もっと前に!」

 

と、

後ろから

お尻を蹴飛ばす

くらいの勢いで

サポートする人こそが

本来の

「コーチ」だ。

 

それができる

人は、

残念ながら

まだまだ少ない

ようだ。

 

なぜなら、

コーチその人も

急加速や

未体験を

怖がるから。

 

しかし

それではもう、

道は

開かないのだ。

 

・・・・・・

 

未知の領域、

未知の次元、

そして

未知のステージに

進もうとしている

人と

組織が

今、

急増している。

 

それを私は

実在のレベルで

強く

実感している。

 

しかし

それを後押しする

「コーチ」が

足りない。

 

圧倒的に

足りない。

 

今のままでは

間に合わない。

 

つづく

 

元気であればいい、わけではない

 

心を開放する

のと、

魂を開放する

のは

違う。

 

恐らく、

この区別が

つかないことが、

今の世の中の

現状を

招いていると

私は考える。

 

心を開放すれば、

心は

元気になる。

 

しかし、

魂を開放したからと

言って、

魂が元気になる

とは限らない。

 

むしろ、

私達の魂は、

自分自身の元気さを

いつも

調整している。

 

つまり、

元気でない状態を

意図的に

創り出している。

 

この真実に

気づかないと

道を誤ることが

多い。

 

私達の

決めている道

とは、

単純に

魂が元気になる

方向

・・・ではないのだ。

 

・・・・・・

 

魂の意思を

私は

『真本音』

と呼んでいる。

 

厳密に言えば、

ちょっと違うのだが、

まぁ、ほぼ

そうなので、

ここでは

そういうことにする。

 

真本音に素直に

生き(行き)、

真本音度合いが

高まることで、

何が起こるかと言えば、

 

魂の元気度合いを

調整できる

ようになる

 

のだ。

 

つまり、

いつも元気であろう

と欲求する

状態から卒業し、

 

今はこの

元気度合いで

進もう

 

という

魂の意思に

そのまま素直に

進むことができる

ようになるのだ。

 

私達の魂が

最も大事にしている

ことの一つは、

 

「自分自身の

エネルギー量」

 

 

「周り(もしくは現実)の

エネルギー量」

 

 

「調和」

である。

 

ここで不調和が

起こってしまうと、

進むべき道が

開かなくなってしまう

ことがあるからだ。

 

私は、

「尊重」

という行為の

最も根本的

根源的な要素は

これであると

思っている。

 

人を尊重する。

 

現実を

尊重する。

 

社会を

尊重する。

 

とは、

まずは

エネルギー量を

尊重するところから

始まるのだ、

と。

 

エネルギー量の

尊重は、

その場その場の

「調和」には

なくてはならない

要素だ。

 

ここが上手くいけば、

エネルギーの循環

が起こる。

 

すべての物事は

この

「循環」によって

進められていく。

 

循環が

スムーズに行けば

行くほど、

それは

真本音の道

となる。

 

循環が

スムーズでなければ、

一見して

どれだけ現実が

上手く展開していても、

必ずどこかで

淀みが起こる。

 

するとその

淀みを解消するための

新たな流れを

起こさねば

ならなくなる。

 

大体の場合、

そこで使われる

エネルギー量は

果てしなく

大きい。

我々が思っている

以上に。

 

そして結果として、

その「調整」のために

(「調和」のために、ではない)

大半のエネルギーを

費やさねばならなく

なる。

 

つまりそれは、

本来

エネルギーを

使うべきところに

使えていない

状態だ。

 

これでは結果として、

道は

開かない。

 

どのような

「循環」を

起こすか?

 

そのためには、

今、自分の発する

エネルギーは

どれくらいが

良いのか?

 

この調和を、

私達の魂は

最も大事にする。

 

そしてその

指針を

一つの「意思」として

心の中に

浮上させる。

 

それこそが、

「真本音」

である。

 

・・・・・・

 

真本音で生きる

ことで

すべては

調和を始める。

 

真本音を無視する

ことで

すべては

不調和となって行く。

 

間違っては

ならないのは、

 

現実が上手く

行っている

ことが

調和とは限らない

ということだ。

 

現実が

思うように進まなく、

試行錯誤が

続いたり、

暗中模索に

入っていても、

 

それが

調和のために

起きているのか、

それとも

不調和の結果として

起きているのか、

 

その判別を

きちんとすること。

 

ちゃんと

真本音で進めて

いるのであれば、

今のこの視点を

持つだけで、

答えは

わかるはずだ。

 

ここで

答えがわからない

のであれば、

そこには

何らかの不調和が

存在している。

 

・・・・・・

 

今回はちょっと

難しい文章の

表現になったかな。

 

でも

この文章の意味の

本質が

ピンとすぐに

わかる人は

「コーチ」の素養が

あると

私は

思うけどね。

 

つづく

 

人のため、と軽々しく言うけれど

 

世の中には、

 

まずは

「自分のために」

を中心に生きると

結果として

「人のために」

なる人と、

 

まずは

「人のために」

を中心に生きると

結果として

「自分のために」

なる人の

 

2種類のタイプが

ある。

 

いや、

すべての人は

何だかんだ言っても

「自分のために」

が中心でしょ。

 

という

意見もある。

 

もちろん

もっともである。

 

ほぼ、

みんなそうである。

 

しかし、

ほんのわずかだけど、

確かに

後者のタイプの

人がいる。

 

「わずか」

というのは

現時点では

1%にも満たない

割合だ。

 

他の

99%以上の人は

前者のタイプであり、

自分を顧みず

人のためだけに

生きることで、

結果として

ただの自己満足になり

結果として

誰も幸せにならない

ということになる。

 

しかし。

 

わずか1%未満であるが、

後者のタイプがいるのは

事実だ。

 

しかも。

 

約30年後には

その割合は

10%くらいまでに

増加するだろう。

 

つまり、

これから生まれてくる

子ども達は

後者のタイプが

多い。

 

後者のタイプを

私は

あえて、

『コーチタイプ』

と呼ぶ。

 

・・・・・・

 

今でも

わずかであるが、

「コーチタイプ」

の人はいる。

 

しかし

そういったタイプで

あるにも関わらず、

 

いや、

そういったタイプで

あるからこそ、・・・かな、

 

今の世の中に

絶望してしまい、

「人のために生きる

ことに何の意味が

あるのだろう?」

と、

無気力になって

しまっている人も

いる。

 

実は、

そういった人との

出会いが

最近、増えている。

 

この人、コーチタイプだな、

とわかったら、

私はできるだけ

それを伝えるように

している。

 

すると

伝えられたその人は

すごく

ホッとした表情と

になる。

 

安堵感に

包まれるのだ。

 

「もっと、自分のために

生きなさい、といつも

周りから言われます。

でも、どうしても

その気持ちが

湧かなかったのです。

私は自分が無気力の

廃人だと思って

いました。」

言われた人も

いる。

 

そういった人に

「利他」

という言葉は

必要ない。

 

実は私は

「利他」という言葉が

いまいちピンと来ない。

 

言葉自体は

大事な意味だと

思うが、

しかし、

本当に「利他」で生きる人には

そんな言葉は

必要なく、

天然でそうなのである。

 

しかも

まずは「自分のために」

生きることが大事

というタイプの人が

「利他」という言葉を

使うと、

大概はおかしなことになる。

 

「私の信条は、

利他です」

と自己アピールするように

なるし、

それによる利他は

当然のことながら

本当の利他ではない。

 

そういう人は私は

もっと徹底的に

「自分のために」

生きた方が良いと

思っている。

 

自分のために生き、

自分の望みを

叶える人生を

徹底的に目指せば、

 

本当に

徹底的に目指せば、

 

その人は間違いなく

自らの真本音に

行き着く。

 

真本音は

他の人の真本音と

つながっている。

 

すると、

「自分のために=人のために」

が自然にできるように

なる。

 

それを私は

次元が上がる

とも表現するが、

それが自然の

道だ。

 

つまり、

本当に天然で

利他で生きる人には

利他という言葉は

必要ないし、

そうでない人は

利他という言葉を

使うことで

利他から遠ざかって

しまうのだ。

 

だから、

利他という言葉を

使うこと自体に

私は違和感がある。

 

・・・・・・

 

いずれにしても

「人のために」

生きることが

自分の力になる

「コーチタイプ」

の人は

これから増えていく。

 

コーチタイプの人は

私は単純に

コーチになればよい

と思っている。

 

もちろん

「コーチ」と名乗る

必要はない。

 

しかし、

人のために

徹底的に生きれば

よい。

 

約30年後、

1割に増えた

コーチタイプの人が

本人の素養の通り、

人のために

人をサポートしながら

生きる世の中に

する。

 

これが私の

ビジョンである。

 

つづく

 

さぁ、行こう

 

強い人よ。

 

自分のその

本来の強さを

もっと

理解してほしい。

 

あなたは

そんなものでは

ない。

 

今、あなたが

知っているその

強さは、

まだまだ

仮の強さだ。

 

本来の

1000分の1にも

満たない。

 

だから

自分で自分を

評価するなど、

意味がない。

 

あなたはまだ

自分を

知らないのだ。

 

見たことが

ないのだ。

 

という事実を

知ってほしい。

 

いや。

 

本当は

もう

知ってるね。

 

知ってることを

認めてほしい。

 

強い人よ。

 

あなたは

求められている。

 

あなたを

待っている人が

たくさんいる。

 

あなたのその

本来のパワーを

注がなければ

ならない人達が

いっぱいいる。

 

あの人も、

この人も、

あの部署も、

この部署も、

あの会社も、

この会社も、

 

あなたのその

パワーを

欲している。

 

そして、

あなたとの

出会いを

欲している。

 

強い人よ。

 

あなたがその

本来の力を

認めなければ、

 

あなたは

先に進めない。

 

あなたが

先に進まなければ、

出会いも

起きない。

 

あなたはもう

そこに

留まっていては

ならない。

 

次の世界へ、

次のステージへ

進まなければ

ならない。

 

あなたは本当は

そのことを

誰よりもよく

自覚している。

 

強い人よ。

 

私がいても

いなくても、

あなたは

たくましく

着実に

進むことができる。

 

自分を

信じてほしい、

とは言わない。

 

ただ、

そこにある

「確信」に

気づいてほしい。

 

あなたの準備は

もう

整っているのだ。

 

つづく

 

私達にできることは、最善を尽くすことだ

 

何を

あきらめて、

何を

あきらめずに

進むか?

 

「あきらめ」

がいけない

わけではない。

 

むしろ、

人生、あきらめ

が肝心だ。

 

あきらめるべき

ことに

執着をしすぎることで、

本当に大切な何かを

あきらめてしまう

ことがある。

 

私が

「脱皮」

と呼んでいる、

人間にとっての

大きなステップアップの

瞬間は、

何かを手放すことで

多くは

成される。

 

「手放す」とは

別の表現を

使えば、

「あきらめる」

ということだ。

 

あきらめるべきを

あきらめた時、

初めて

「絶対に

あきらめては

ならないこと」

わかる。

 

それについては、

何があっても

どんな状況に

陥ろうとも、

手放しては

ならない。

 

あきらめては

ならないのだ。

 

・・・・・・

 

私が

『真本音の願い』

と呼んでいるものは、

その内の

一つだ。

 

真本音の願いは

何があっても

あきらめては

ならない。

 

この現実世界は

結構厳しくて、

八方塞がりに

なることが多い。

 

特に、

経営においては

そうだ。

 

にっちもさっちも

行かなくなると、

そこで多くの人は、

「ここは

願いよりも

現実だ」

となってしまう。

 

そして

願いをあきらめ

現実への対応へと

走る。

 

もちろん

現実への対応は

必須だ。

 

自分が

折れなければ

ならないことも

あるだろう。

 

しかし、

「願い」だけは

手放しては

ならない。

 

ここで「願い」を

あきらめるからこそ、

その後の展開が

常に

現実に翻弄され続ける

ものとなる。

 

現実が、

理想通りに

進むことは

ほぼ、ない。

 

現実が、

思惑通りに

進むことも

ほぼ、ない。

 

しかし

忘れないで

ほしい。

 

そのような展開を

呼び込んでいるのは、

紛れもなく

私達自身の

真本音だ。

 

真本音は、

「必要な瞬間に

必要な試行錯誤を

経験する」

ことを

常に望んでいる。

 

試行錯誤をしない

ことが

「スムーズに進む」

ということでは

ない。

 

きちんとした

試行錯誤を

繰り返すことで、

結果として

「スムーズに進む」

のだ。

 

しっかりと

試行錯誤を

体験・経験・実感

すること。

 

胸に

「願い」を

抱きながら。

 

この繰り返しが、

真本音度合いを

圧倒的に

高めていく。

 

・・・・・・

 

「過去」という

原因によって

「今」という

結果が

現れる。

 

ならば、

「今」ここで

現実に翻弄された

一歩を進めば、

「未来」もずっと

翻弄され続ける

道となる。

 

どのような

現実が

起ころうとも、

それは

「過去の結果」と

あきらめて、

 

真本音の願いを

大切に抱きながらも、

「今」出せる

最大の一歩を

踏み出そう。

 

真本音の願いの

ない状態での

一歩を

「妥協」

と言う。

 

真本音の願いを

抱いた状態での

一歩を

「最善」

と言う。

 

たとえ同じ一歩でも

中身は

本質は

まったく異なる

一歩だ。

 

物事は

理想通りには

行かない。

 

でも

私達は

最善を尽くす

ことは

できるはずだ。

 

そしてその

「最善」

とは、

真本音の願いを

中心にした

生き方からこそ

生まれるものだ。

 

つづく

 

あなたの影響力は計り知れない

 

人が人に与える

影響の大きさは、

私達が想像している以上に

大きいはずだ。

 

例えば。・・・

 

ある企業研修を

するために

私は朝、会場に

向かっていた。

 

通勤ラッシュの

駅。

 

階段を降りる時に、

ふと

すれ違った人と

一瞬だけ

目が合った。

 

ほんの

一瞬だけ。

 

そして、

それだけ。

 

あとは、

何事もなく

その人と私はすれ違い、

私は研修会場に

向かった。

 

一日の研修を終え、

いつものように

一日を振り返っている時、

 

そのすれ違った人との

一瞬の目線の一致

がフラッシュバック

された。

 

と同時に

確信と共に

わかった。

 

今日の研修の

あの展開は、

あのすれ違った人との

あの瞬間がなければ

起こり得なかった

ものだ、

と。

 

あの時あの瞬間、

私は紛れもなく

あの人から影響を

受けた。

 

何だろう

それは?

 

そうか、

私はあの時

あのすれ違った人の

瞳の奥に、

とても深い悲しみを

感じたのだ。

 

それが強く

私の中に

刺激として残っていた。

 

そして今日の

研修の受講生さん達。

 

彼らの中の

あの人とあの人に

私は同じ悲しみを

感じた。

 

なるほど。

 

だから

あの展開になったか。

 

そして、

あの展開がなかったら

今回の研修は、

これほどにも深く

影響を与えられるものには

なってなかった。

 

あの、

すれ違った人に

感謝だ。

 

あれがあったことで、

今日、

人生が変わった人も

いるだろう。

 

とてつもない

感謝だ。

 

・・・というような

こと。

 

程度の差はあれど、

こういったことは

日常茶飯事だ。

 

私はたまたま

一日の振り返りを

丁寧に行なうし、

セルフコーチングの

力もある。

 

だからこういったことに

気づけるが、

多くの人は

知らず知らずに

このように

影響を与え合って

生きているのだ。

 

・・・・・・

 

私は常に、

周りのあらゆる人達に

良い影響を与えられる

自分でいたいと

願っている。

 

ここで言う

「良い影響」

とは、

力を与えるとか、

癒しを与えるとか、

そういった意味では

ない。

 

その人その人に

「調和した影響」

を与えたいと

思うのだ。

 

上記の例で言えば、

私はすれ違った人から

深い悲しみ、という感覚を

得た。

 

それ自体は

私にとってみれば

不快なものと

言えるだろう。

 

特に、研修直前の

私にとっては

普通であれば

感じたくない感覚だ。

 

疲れるし。

 

しかし、

それがあったからこそ、

私は結果的に

より良い研修ができた。

 

調和とは

そういった意味である。

 

単に

力を与えるとか、

気持ちの良さを与えるとか、

その場のみの

影響を言っている

わけではない。

 

実は、

真本音度合いが高まる

ということは、

そういった「調和」を

周りに与え続けることが

できるようになる。

 

仕事でも

家庭でも

街を歩いていても。

 

あらゆる場所、

あらゆる場面で。

 

・・・・・・

 

「コーチ」

という視点から言えば、

 

コーチングの場や

研修の場のみで、

自分の状態を

良い状態にしようと

しているコーチが

多いように思うが、

 

私はそれは

真のコーチとは

言わない。

 

朝から晩まで

24時間、

自分を良い状態に

し続けている人こそが

私はコーチができる

と思っている。

 

ただし「良い状態」とは

先程と同じだ。

 

モチベーションが高い

とか

すがすがしい気持ちでいる

とか

そういったことではなく、

 

周りとの「調和」を

し続けることができる

という意味だ。

 

コーチングの場だけ

真本音度合いを

高める

のではない。

 

というか、

むしろそんな不自然な

ことはできないのだが。

 

毎日、

一日一日、

朝から晩まで、

一刻一刻、

真本音で生き続けることが、

 

人間にとって

最も楽なことであり、

 

それを実践し続けることが

コーチとしての

必須の生き方であると、

私は思う。

 

つまり、

コーチングの場だけ

特別な自分に

なるのではなく、

コーチング以外の場も

コーチングの場も、

24時間同じ自分で

いる人こそが、

コーチと言えるだろう。

 

そしてその

「同じ自分」

とは、

「自然体の自分」

「本来の自分」

だ。

 

つづく

 

育成者は、育成し過ぎだ

 

コーチングが

なぜ必要か?

 

問われたら、

いろんな

答えはあるだろうが、

私が真っ先に

答えたいのは、

 

想定外を

生み出すため

 

ということかな。

 

はっきり言って、

すべてのクライアントさんに

言えることだが、

自分自身の本来の

魅力や能力を

ちゃんと知っている人は

いない。

 

これは

断言できる。

 

私はコーチとして

その

「本来持っているもの」

を掘り起こそうとする。

 

クライアントさんと

向かい合っていると、

ある瞬間に

その人の「未来」が

観えることが多い。

 

例えばその人が

2〜3年後に

どのように活躍されているか

が映像として

まざまざと

浮かび上がってくる。

 

私はコーチとして

その映像が

実現する方向に

サポートをする。

 

しかし、

である。

 

コーチングによる

サポートをしていると、

私の当初の

その未来像は

ことごとく

打ち砕かれる。

 

想定外の

展開となるのだ。

 

もちろん、

良い意味で

である。

 

つまりは

ほとんどのクライアントさんは、

私のイメージの

上を行く。

 

この人、

こんなことも

やっちゃうの!?

 

この人、

こんな現実を

創っちゃうの!?

 

この人、

こんなすごい人

だったの!?

 

と、

まずは私が

驚くことになる。

 

つまり、

クライアントさんは

私の「範疇」を

超える。

 

そして、

私の

手に負えなくなる。

 

それが

実に楽しい。

 

これがコーチングの

一番の醍醐味であり、

魅力であると

私は

思っている。

 

・・・・・・

 

このような

コーチングの展開と

なるために、

絶対的に必要なことが

ある。

 

それを一言で

言えば、

 

『何もしない』

 

となる。

 

私は

思うのだ。

 

コーチは

何もしない

に限る。

 

コーチが

何かをしては

ならない。

 

と。

 

変な表現であるが、

それくらいの

「覚悟」

を持って

コーチングに臨むのが

真のコーチであると

思う。

 

だいたい、

コーチのみならず、

人の育成に

関わる立場の人は

例えば、

会社で言えば

管理職の立場の人も

含めて、

 

やり過ぎ

 

である。

 

育成のために

余分なことを

 

やり過ぎ

 

なのだ。

 

やり過ぎによって

不調和が

起こる。

 

やり過ぎによって

育むべき

成長の芽を

潰してしまっている。

 

人の育成で

最も重要で

かつ

最も難しいのは

 

「何をしないか?」

 

を見極めることだ

私は思う。

 

・・・・・・

 

何をするか?

 

ではなく、

 

何をしないか?

 

をきちんと判断

できるコーチを

私は

増やしたい。

 

実は私は

人から助言を

求められても、

一切何も答えない

ことが

多い。

 

大袈裟ではなく、

ほぼ毎日、

そんな展開がある。

 

私が

何を言っても、

「何も言わない」

以上の効果を

発揮しないと

わかるからだ。

 

だから、

「お願いします。

アドバイスを一つでも

いいのでください」

どれだけ求められても、

頑として

答えないことにしている。

 

そういったことを

毅然とし続ける

コーチが

ほしい。

 

人は

アドバイスを求められれば、

喜んで

相談に乗ってしまう。

 

相談に

乗られている自分って

すごいなぁ、という

喜びで

乗る人もいれば、

 

純粋に、

何か力になってあげたい

という気持ちから

乗る人もいるだろう。

 

しかし

真のコーチの

基本スタンスは、

「何もしない」

である。

 

このスタンスの上で、

「ここだけは

一言、伝えた方が良い」

と、

真本音で直観し、

その最低限のみを

行なうコーチを

私は

育成したいのだ。

 

そうすれば、

コーチの「範疇」を超えた

想定外のコーチングが

もっと

増えるだろう。

 

世の中が

求めていることは

これではないだろうか。

 

つづく

 

根っから固い人なんていない

 

スッゲー

頭の固い人が

いる。

 

これは

こうあるべき。

 

あれは

あああるべき。

 

完璧で

あらねばならない。

 

これは

許されない。

 

・・・そんなことばかりを

言い続ける

人がいる。

 

私は

そういう人ほど

あるがままを

見つめる。

 

じーっと

その人を見つめて

いると、

 

その人が

腰を振りながら

踊っている姿が

浮かんだりする。

 

「そんなこと

どーでもいーじゃ〜ん!」

 

と言いながら、

クネクネと

踊っている姿が

観えたりする。

 

それは

イメージではない。

もちろん、

私の妄想でも

ない。

 

その人の

実在である。

 

それを観たとき、

何だよー、

何、かったるいこと

やってんだよー、

私なんかは思ってしまう。

 

そして多くの場合は、

最善のタイミングで

ダイレクトに

伝える。

 

あなた、

本当は

踊ってるでしょ。

 

って。

 

ほとんどの場合、

その人は

キョトン

とする。

 

そりゃそうだ。

 

でも私は

言い張る。

 

そんなこと

どーでもいー、って

本当は

思ってるでしょ、

と。

 

タイミングさえ

間違えなければ、

多くの場合、

その人は

その瞬間から

壊れ始める。

 

もちろん、

いい意味で。

 

・・・・・・

 

固い。

 

固すぎる。

 

人はどうして

こんなにも

固くなって

しまったんだろう。

 

なんて、

よく思うのだが、

そう言えば、

私も昔はよく師匠から

言われたもんだ。

 

「お前は

固すぎる」

 

と。

 

本当に悩み

ましたよ。

 

どうすれば

柔らかくなるんだぁぁぁーっ!

 

って。

 

頭を抱えましたよ。

 

でもそうやって

頭を抱えている時点でもう

固かったんだけどね。

 

・・・・・・

 

固さ、

とは

防御だ。

 

そう

断定しても

よいのではないか。

 

自分を

守りたい

だけだ。

 

そう

言い切っても

よいのではないか。

 

その固さが

もしなくなれば、

自分が

消えてしまう、

と本人は

どこかで思っているのだ。

 

そんな

わけはないのに。

 

・・・・・・

 

固いヤツを

柔らかくしよう、

なんて

思わない方がいい。

 

そのような

意図を持てば、

ますます

固くなる。

 

私も

意図は持たない。

 

だから突然の

私の行動に

いつも私自身が

驚いている。

 

あなた本当は

踊ってるでしょ。

 

って、

なんて失礼な。

 

と思うのだが、

根っから真剣に

真正面から

私はその人に

フィードバックしている。

 

それにより

一気に壊れる

人もいれば、

 

徐々に

ゆっくり

壊れる人もいる。

 

いずれにしても

みんな

壊れる。笑

 

だって、

固さなんて

実は

脆弱なものだ。

 

真本音の

エネルギーに

比べれば。

 

私は

真本音のエネルギーを

照射している

のだから。

 

・・・・・・

 

恐らく、

「コーチ」という役割は

自己防衛を

少しでもするようなら、

成り立たなくなるだろう。

 

だから、

固さのある人には

はっきり言って

無理だ。

 

しかし、

人間には誰しもに

固さは

ある。

 

かつての私は

固さの権化

だった。

 

だから

誰もが「コーチ」に

なれる可能性は

あるのだが、

 

しかし、

それには覚悟が

必要だ。

 

どんな刃を

向けられても、

裸で向き合う

覚悟だ。

 

それができる人こそが、

人の「固さ」を

壊すことができる。

 

常に

丸腰で

人と向き合えること。

 

「コーチ」には

必要な覚悟だ。

 

つづく

 

この混乱は、本当に混乱か?

 

「静かなほど、

エネルギーは高い」

 

これは、

私が今のお仕事を

20年以上続ける中で

実感するようになった

一つの原則だ。

 

ここで言う

「静か」

とは、表面上のことでは

ない。

 

例えば先日、

新宿駅を歩いていたら、

行き交う人混みを

観ながら、

とても静かだな、

と感じた。

 

この感覚

わかるだろうか?

 

これをもし

「よくわかります」

という人がいたら、

その人はほぼ間違いなく

「コーチ」に

向いている。

 

それはともかく、

 

あえて言うならば、

「行動が静か」

でも

「心が静か」

でもなく、

最も的確な表現で

言えば、

 

「魂が静か」

 

ということに

なるだろう。

 

心が静か

なのと、

魂が静か

なのは

根本的・本質的に

異なることだ。

 

この区別は

とても大事で、

私が人や組織を

サポートさせていただく

時に、

まずもって

最も大事にしているのが、

クライアントの皆さんの

魂は今、

ちゃんと静かになる方向に

進んでいるだろうか?

ということだ。

 

そしてある時に

突然、

その人の魂

(もしくは、その組織の魂)

が、

とても静かになる

瞬間がある。

 

それは

何かの「予兆」を

表している。

 

現実のレベルで

何かが

起こるのだ。

 

・・・・・・

 

魂が静かに

なった上での

現実の変化は

実際に何が起ころうとも、

 

それは

とても素晴らしいことで

あり、かつ

とてもその人(その組織)に

とって

必要なことである、

 

という事実が、

ある時から

わかるようになった。

 

たとえそれが

「混乱」であったと

しても。

 

ちょっと極端な例で

恐縮だが、

例えば、社員さん達が

会社を大量に

辞めてしまう騒動が

起きたとする。

 

その時に私は、

静けさのもとに

起きたのか?

それとも

騒がしさのもとに

起きたのか?

を観極める。

 

静けさのもとに

起きたことであれば、

それはその会社に

とっては、

脱皮や進化のために

どうしても必要な

ことだった、

という判別をする。

 

もちろん、

辞めていった社員さん達

の人生にとっても

である。

 

逆に、

騒がしさのもとに

辞めていったのであれば、

それは

その組織に何らかの

解決すべき問題点が

ある、

という判断をする。

 

ここをもし間違えると

とんでもないことに

なる。

 

言うなれば、

「加速のために」

起きたことなのか?

「問題があって」

起きたことなのか?

の判別である。

 

この観極めは

「コーチ」には

必須の感性だ。

 

例えばもし、

社員さん達が

「加速のために」

辞めていったとしても、

社長さんは多くの場合、

とてもガックリきているし、

いったい何が

問題だったのだろう?

と深く悩むことになる。

 

そこを、

「社長、ここは

悩むべきところでは

ありません。

このままさらに

グングン進んでください」

と、

言えるかどうか。

 

これを確信を持って

言える人を私は

「コーチ」と

呼んでいる。

 

ちょっと極端な

例であるが。

 

・・・・・・

 

もっと

端的に言えば、

 

・悩むべきところか?

・加速すべきところか?

 

の判別をつける

ということだ。

 

これは残念ながら、

当人には判別が

とてつもなく難しい

のだ。

 

第3者的視点を

持つ者にしか

できない、と

言っても

言い過ぎではない。

 

世の中は

これから

ますます「混乱」と「混沌」が

多くなるだろう。

 

そんな時こそ、

その表面的に現れる

「混乱」と「混沌」の

本質を観極めることの

できるコーチが

私は必須であると

思っている。

 

つづく

 

ちゃんと丁寧に進んでる?

 

人や組織のサポートを

させていただいていると、

 

結局は、

「継続」で

決まるな。

 

と思うことが

多い。

 

ある時ある瞬間に

人は脱皮し、

組織も次元を変え、

一気に

大変化を遂げる。

 

しかしそれは

日々の積み重ねが

あってこそである。

 

一日一日。

 

一刻一刻。

 

丁寧に自分と

向き合い、

 

丁寧に人と

向き合い、

 

丁寧に現実と

向き合い、

 

自分の

本当の意思、

つまりは真本音の意思

に基づき、

素直に

一つ一つ

行動をする。

 

一日の

始まりと終わりには、

必ず

静かな時間を

とり、

 

今日は

どのような一日に

するか?

 

今日は

どのような一日

だったか?

 

明日は

どのような一日に

するか?

 

を落ち着いて

発想する。

 

もし

反省することがあれば、

しっかりと

原因を見つめ

反省する。

 

後悔やモヤモヤが

あれば、

やはりその根本までもを

しっかりと

見つめる。

 

言うなれば

当たり前のことであるが、

そういった

一つ一つのことを

大切に

していく。

 

それが

自分を大切に

することであり、

 

人生を

大切にする

ことだ。

 

そういった人には

必ず、

脱皮の瞬間が

訪れる。

 

脱皮をすれば

世界が

変わる。

 

いや、

本当は世界は

変わっていないが、

世界への

向き合い方と

捉え方が変わり、

 

その人は

これまで体験した

ことのない

「自由」

を得る。

 

そしてその

「自由」の中でまた、

一つ一つ

一刻一刻

丁寧に

生きていく。

 

これの

連続である。

 

それをせずして

「私は脱皮を

したい!」

「私は急成長を

したい!」

と言っても、

どだい無理な相談だ。

 

この3次元の世界

においては、

やはり

「積み重ね」が

大切であり、

「継続」が

大切だ。

 

ただ、

それを反応本音で

行ない続けても

残念ながら

進みは遅い。

 

それらをすべて

真本音で

行なうこと。

 

それが最大の

近道だ。

 

最大の近道

とは

丁寧なコツコツ

によって

初めて

見出されるもの。

 

道は

そこにある。

 

一本道は

目の前に

ある。

 

しかしそれを

自覚するには、

毎日の

コツコツ

だ。

 

地道な一歩を

真本音で

進むことだ。

 

つづく

 

屈託のない笑顔はあるか

 

屈託のない

笑顔というのは、

いいねぇ。

 

どれだけ

年齢を重ねても、

まるで

子どものような

無邪気な笑顔を

見せる人が

いる。

 

その瞬間は

ハッとするような

風が吹く。

 

実は。

 

真本音度合いが

高まると

そういった笑顔が

増える。

 

心の中の

余分な何かを

手放せば手放すほど

そういった笑顔が

増える。

 

人間は

まずは

笑顔から

変わるもの

なのかもしれない。

 

・・・・・・

 

実は。

 

今、

日々

感じていることであるが、

 

赤ちゃんでも、

2〜3歳の幼児でも、

険しい笑顔の

子ども達が

増えた。

 

笑顔の奥に

苦しさが

観える。

 

すると私も

とても

息苦しくなる。

 

電車の中などで

そのような

子ども達を見ると、

いったいこの社会は

どうなってしまったのか、

思わざるを得なくなる。

 

私は日々、

次世代の子ども達に

よりよい社会を

残したい、

との想いで

今のお仕事を

続けているが、

 

それよりも前に

子ども達が

子ども達でいるうちに

潰れてしまうのでは

ないか、

という危機感を

 

今はとても強く

持つようになった。

 

私は、

子ども達の

真本音度合いを

もっと

高めたい。

 

そのためにも

これまでは

大人達に向かって

きたが、

もっと子ども達に

直接何かを

する必要は

ないだろうか?

 

そんな問いが

浮かぶように

なった。

 

今は何も

わからないが。

 

・・・・・・

 

ところで。

 

先日、

私のビジネスパートナーと

ミーティングを

しているときに、

 

これまで何度も

問われ続けていた

質問を

また受けた。

 

「たけうちさんは

何のために

企業のサポートに

向かっているのですか?」

 

ふと。

 

これまでとは

まったく

別視点の答えが

浮かんだ。

 

「私は、

若い人達が

真に成長できる

組織を

増やしたいのだ」

 

と。

 

今の多くの組織は、

若い人達の

成長を助長できる

ものには

なっていないのでは

ないか。

 

若い人達は、

我々の世代よりも

間違いなく

「意識の次元」が

高い。

 

という実感が

私にはある。

 

次元の高い

人達が

本来のその人らしく

伸び伸びと

活躍しながら

成長を続ける。

 

それができる

組織は

あまりに少ないのでは

ないか。

 

今の子ども達は

さらに

意識の次元は

高そうだ。

 

そんな彼らは

あまりに低い次元の

今の社会の

空気感の中で、

もうすでに

絶望感を抱いている

のではないか。

心の深奥で。

 

我々の世代が

創った組織のままでは、

恐らく

ダメだ。

 

我々の世代の

発想の範疇で

創られた組織では

恐らく

ダメだ。

 

これまでにない

まったく新しい

組織を

若い人達と共に

創り出していく、

 

もしくは、

若い人達が中心で

創り出すことを

我々の世代が

サポートする。

 

そんな

意識の転換が

必要なのではないか。

 

私は思う。

 

だから。

 

だから。

 

だから・・・。

 

私は強く

思うのだ。

 

今の世の中には

コーチが

必要だ。

 

若者達を、

子ども達を

きちんとサポート

できる、

コーチが

必要だ。

 

つづく

 

わずかな風を大きく育てる

 

風の流れ

がある。

 

それは始めは

ほんのわずかな

そよ風かも

しれない。

 

しかし私は

そのわずかな

空気の動きを

必ずとらえようと

する。

 

風なきところに

本来の流れは

起きない。

 

ほんのわずかでも

風の流れる場所には

風を流す

自然の営みが

働いている。

 

自然の摂理

とも言える。

 

これのないところに

自然ではない摂理を

創造しようと

することは、

単なる傲慢である。

 

多少、傲慢でも

結果が出ればよい、

という考え方も

ある。

 

しかし私は

知っている。

 

それでは

長続きしない。

 

それでは

次世代にまで

脈々と続く

永続的な流れは

決して生まれない、

と。

 

・・・・・・

 

ほんのわずかな

そよ風を見つけたら、

私はそれを

育む。

 

最初は

そ〜っと。

 

繊細に。

 

慎重に。

 

そしてその風が

徐々にたくましくなれば、

私も徐々に

大胆になっていく。

 

そして

ある瞬間に

風の強さの次元が

変わる。

 

その時を逃さず、

私はそこに

本気のエネルギーを

注ぐ。

 

するとその風は

うねりとなって

まるで龍のごとくに

周りを巻き込んでいく。

 

そして気がつけば、

全体が

龍そのものに

なっていく。

 

以上が、

私がいつも大切に

している、

組織活性化サポートの

原理だ。

 

・・・・・・

 

この流れを

成すためには、

意図を

手放すことだ。

 

意図は

自然の摂理を

崩してしまう。

 

ただ真摯に

真剣に、

まずはそよ風を

見つける。

 

見つけたら

育てる。

 

非常に

コツコツとした

仕事である。

 

これは残念ながら、

その組織に

所属している

当事者の皆さんには

不可能なことである。

 

その組織から

少し距離を置いている

第3者だからこそ

できること。

 

これが

コーチの役割

である。

 

これができるためには、

コーチは

自然の摂理に即した

生き方を

自らが実践していなければ

ならない。

 

それが

真本音度合100%の

人生だ。

 

真本音度合100%とは、

人格者になることでも

神になることでも

超能力者になることでも

ない。

 

「自分」

になることだ。

 

本来の自分

だ。

 

だから自分の個性が

なくなってしまうわけでは

ない。

 

むしろ

自分の個性は

際立つ。

 

本来の個性が

芽を出し

伸び、

そして花開くのだ。

 

自らが

それを成すからこそ

人や組織の

サポートができる。

 

そういった意味で

真本音度合100%に

なって初めて、

私はその人を

「コーチ」

と認める。

 

ただし。

 

真本音度合100%

になってから

コーチを始める

のではない。

 

真本音度合100%を

目指しながら

コーチを続けるのだ。

 

真剣に

目指しながら。

 

その真剣さと

進化のスピードによって

コーチの力は

一気に開花し、

開花の途上で

生まれるエネルギーが

人や組織に

力を与える。

 

コーチが

人や組織を

進化させるのではない。

 

コーチとは

人と組織と

共に

進化し続ける

存在だ。

 

つづく

 

そこかしこに種はある

 

このお仕事を

させていただいていて、

私が楽しみにしている

ことの一つは、

 

その人の中に潜む

『種』

を見つけること

である。

 

「種」と言うくらいだから、

まだ、

芽は出ていない。

 

つまりは

本人にその自覚は

ないし、

本人だけでなく、

周りの人達も

よくわかっていない。

 

しかしそれは

確実に存在していて、

その種が

発芽し、

一気に伸びることで

 

「この人には

こんな面があったんだ!」

 

と、皆が

驚くことになる。

本人も含めて。

 

そういった「種」を

見つけることが

私の役割の一つであると

思っている。

 

そして、

そういった「種」こそが、

実は、

その人の真本音の個性

だったりする。

 

つまりは、

本来のその人の魅力

であり、

本来のその人の能力

である。

 

それが「発芽」することで

その人の所属している

組織に

大きなインパクトと

進化をもたらすことは

とても多い。

 

・・・・・・

 

自分の持っている

「種」と

真逆の人生を

生きている人は多い。

 

例えば、

 

「私は人と関わることが

苦手なんです。

本当は、一人で生きて

行けるものなら

一人だけで生きて

行きたい。

できるだけ人と

関わりたくないんです」

 

と言いながら、

私と向き合うと本当に

オドオドしてしまう

人。

 

そんな人にこそ

コーチに向いている人が

多かったりするのだ。

 

その場合、

私は結構いつも

ダイレクトに

フィードバックする。

 

「あなたは私のような

コーチという職業に

向いているんですよ」

 

と。

 

当たり前のことだが、

最初は

ほぼほぼ信じて

もらえない。

 

しかし私は

その人に

「人と向き合う機会」

を創る。

 

時には

半ば強引にでも

創る。

 

すると、

初回からその人の

「コーチとしての能力」

は開花し始める。

 

そして、

「人と向き合うのは

結構楽しいのですね」

と、

かなりの短期間で

なる。

 

それはそうだ。

 

「種」とは

言葉を変えれば

その人の

「天性の才能」

だ。

 

「天性の強み」

だ。

 

才能や強みとは、

現時点で

発揮されているものとは

限らない。

 

しかし

少しのチャンスと

少しの努力で

開花し始めるのが

才能であり強み

である。

 

・・・・・・

 

同じような展開として、

これまで

人と関わることも

嫌い、

ましてや

リーダーシップなどとは

無縁の人生だった人の

中に、

とてつもないリーダーが

いたりする。

 

その場合も

私は結構、ダイレクトに

本人にフィードバック

する。

 

「あなたは本当は

リーダーに向いて

いるんですよ」

 

と。

 

これは本当に

いつも信じて

もらえない。

 

しかしやはり、

リーダー的な活躍の

機会を

半ば強引に

創っていく。

 

すると同様に、

それは開花する。

 

このように、

一人の個人には

眠っている「種」が

必ずある。

 

その「種」を

「発芽」させることは

組織にとっても

重要な「発芽」

となる。

 

・・・・・・

 

少しの刺激を

与えることで

「発芽」しそうな

「種」を持っている人。

 

その人のことを

私は

『要』

と呼んでいる。

 

組織の中ではまずは、

この、「要」を

見つけることが

とても重要な

ステップだ。

 

そして、

「要」に対して、

刺激を与えていく。

 

「発芽」のための

刺激だ。

 

面白いことに、

一人の人の

「発芽」は、

 

次の人の

「発芽」を

誘発する。

 

それにより

「発芽」の連鎖が

組織に起こる。

 

そして、

「発芽」する人が

組織全体の中の

1割を超えると、

 

その組織自体が

「発芽」を始める。

 

つまり、

組織の性質が

変わり始めるのだ。

 

この変質を

「進化」

と言ってもいい。

 

「要」を見つけ、

「発芽」を誘発させ、

組織に「進化」を

もたらす。

 

これが

私の仕事だ。

 

これができる人の

ことを私は

「コーチ」

と呼んでいる。

 

そういった意味での

「コーチ」は

今とても

求められている。

 

だから早々に

育成しなければ

ならない。

 

つづく

 

子どもだって自律する

 

『子が育ちますように』

 

という祈りは、

すべての人の

本能の中心に

脈々と

流れ続けるものだ。

 

私は思う。

 

子は

親のその祈りを

受け、

自らを成長・進化

させようとする。

 

この祈りと想いが

すべての

原動力になっているように

私には

思えてならない。

 

もちろんこの祈りは、

実際の親子

だけに当てはまる

ものではない。

 

例えば、

私のクライアント企業様の

ある社長から感じる

社員さん達への想いは

これとまったく

同質のものだ。

 

・・・・・・

 

私は、5歳の息子と

できるだけ

向き合うようにしている。

 

彼と共に時間を過ごし、

彼との会話を続けていると、

時々、

彼の真本音からの

メッセージが届く。

 

その多くは、

 

「今は私を

自由にさせないでください。

ここでしっかり

私に何が大切かを

何をしてはならないかを

教え込んでください」

 

というものだ。

 

このメッセージを

受け取った時、

私はできるだけ

その通りに

応えることにしている。

 

これはダメ。

 

こうしなさい。

 

やめなさい。

 

こんな言葉が

多く飛び交う。

 

今の息子のテーマは、

 

「一つを決めて

一つをする」

 

である。

 

彼は本当に

発想力と行動力が

豊かで、

しかも様々なことに

興味関心が向く。

 

一つのことを

始めても、

すぐに別のことに

目移りしてしまう。

 

一つを

やりっぱなしで、

次のことに

向かってしまう。

 

そんな時に、

「きちんと今、決めたことを

最後までやりなさい」

と叱る。

 

「心を

落ち着かせなさい」

 

「人を大切にして

自分が今、

どう動けばよいかを

相手の気持ちになって

決めなさい」

 

という言葉も

毎日のように

かけている。

 

恐らく、

こういった話を聴けば、

「それは5歳の子に

すべき教育ではない」

という反対意見が

出るかもしれない。

 

5歳であれば

「もっと伸び伸びと

させてあげた方がいい」

と。

 

しかし私の息子は

徹底的に

伸び伸びと自由だ。

 

なぜなら彼は

真本音度合い100%で

生きているから。

 

彼はすでに

人生のあらゆることに

向き合い、

自らの意思と意図で

動いている。

 

つまりは

私の言葉で言えば、

自律している。

 

もちろん幼いが故に

できないことは

大人よりも圧倒的に

多い。

 

知らないことも

多い。

 

しかし、

そういった未経験が

故の行動範囲と、

自律できているかどうか、

はまったくの別次元の

話だ。

 

彼はもちろん

子どもだからこそ、

親に依存している。

 

親がいなければ

生活もできない。

 

しかし、

実は、依存と自律は

対義語ではない。

 

彼は

自らの意思と意図で

依存している。

 

つまり、

自律した心で

依存している。

 

そんな彼だからこそ、

きちんと

教えるべきことを

教えなければならない。

 

・・・・・・

 

なんて

偉そうなことを書いたが、

その彼への教育を

しているのは

ほとんどが私の妻

である。

 

妻と息子との

コミュニケーションを

見ながら、

私は多くを学んだ。

 

「子が育ちますように」

 

という祈りを

実行するとは

こういったことか、

と。

 

そして私はそれを

様々な企業様での

人の育成と

組織活性化の

参考としている。

 

親の子に対する

育成の仕方こそに、

すべての育成の

原点がある。

 

と、今の私は

思うようになった。

 

・・・・・・

 

まずは

真本音度合いを

高めること。

 

その上で、

しっかりと

指導すること。

 

これこそが

本質であると

今の私は思っている。

 

そして

これができるコーチを

増やしたいと

思っている。

 

つづく

 

悔恨の浮上は、解放である

 

砂漠のような

ところに

私はいる。

 

夜だ。

 

星は

出ている気配は

ない。

 

漆黒の闇が

私を覆っている。

 

私は

四つん這いの

ような格好を

している。

 

私の両手は

砂を掴んでいる。

 

私の手は

震えている。

 

渾身の力で

砂を

掴んでいる。

 

私の目からは

止めどなく

涙が

溢れ続けている。

 

私の表情は、

自分では見えないが、

恐らくは、

鬼のごとき

怒りの表情か、

もしくは、

情けなさの極みの

ような、

深い悲しみの

表情か。

 

私の心の中には

チクショー

チクショー

チクショー

・・・

という私自身の

叫びが

こだまし続けている。

 

悔恨の

念。

 

あまりにも

深い

悔恨の念。

 

私は

その塊だ。

 

怒りはすべて

私自身に

向けられていた。

 

悲しみはすべて

自分の人生

そのものに

向けられていた。

 

人に対する恨みも

きっと

とてつもなく

大きなものだったろう。

 

しかし

それをかき消すくらいに

私は私を

責め続けていた。

 

・・・・・・

 

この情景は、

記憶なのだろうか。

 

よくわからない。

 

しかしそれは

紛れもなく

「体験」だ。

 

「体験」として

私のこの体に

そして

魂に刻まれている。

 

この情景を

思い出したのは、

そんなに遠い

昔ではない。

 

確か、

17〜8年前だ。

 

当時の私はすでに、

今のお仕事を

していたが、

「真本音」とは

まだ出会って

いなかった。

 

この「体験」を

思い出してから

だろうか。

 

私の人生は

大きく

向きを変えた。

 

・・・・・・

 

「体験」の浮上。

 

失われていた「記憶」

の浮上。

 

これは、

決して悪いことでは

ない。

 

「浮上」とは

「解放」を意味する。

 

逆に言えば、

「浮上」していない

ということは、

自分の知らぬところで

それらに自分は

「支配」されている

ことになる。

極端な表現であるが。

 

私のその「体験」の

「浮上」の前は、

恐らく私の人生は、

それに「支配」された

ものだったろう。

 

つまりは、

そのあまりにも深い

悔恨。

 

これに苛まれ、

これを打ち消すために

私は

生きていたのだろう。

 

悔恨を

打ち消すための

人生。

 

悔恨から

逃げるための

人生。

 

別の視点から言えば、

それまでの私の

人生は、

「償いのための人生」

だったのだと

思う。

 

自分を責め続け、

そんな自分は

「償いのために生きよう」

と決め、

それをすべての

モチベーションの源泉

とした。

 

恐らく、

こういう人は

多い。

 

もちろんほとんどの

人には

自覚はないだろう。

 

しかし、

はっきり言おう。

 

自分を

責め続けることを

自分の中心とし、

 

悔恨から

抜け出すことを

人生の目的とし、

 

償うために

生きる、

 

ということは

自分自身の

本来の力の

1割をも

発揮できない人生になる。

 

・・・と。

 

償いたいことが

ある。

 

だから、

償うために

人生を生きる。

 

・・・これでは

一生をかけても

償いは成就しない、

のだ。

 

真の償いとは、

 

『自分自身を

真に幸せにすること』

 

である。

 

自分が

真に幸せにならねば、

自分が

周りを幸せにすることは

不可能だ。

 

この当たり前の

事実は、

もちろん頭ではずっと

わかってはいたが、

 

本当に

紛れなく淀みなく

本当に

心と魂の底から

そう断定できるように

なるために、

私はこの10数年間を

費やしたように

思う。

 

人生は

修行である。

 

もちろん、

そうだ。

 

しかし、

人生は修行である

言い続けているうちは、

真の自分には

近づけない。

 

自分の本当の

人生の目的には

到達できない。

 

人生は

修行である、

というのは

自己満足の行為だ。

 

償いを目的に

するのも、

自己満足だ。

 

自分も周りも

誰もが

それで真の悦びを

得ることは、ない。

 

身も心も魂も

そのように

断定できるように

なったとき、

初めて私達は

本当の人生を

始めることができる。

 

初めて私達は

自分の使命を

知ることができる。

 

何のために

ここにいるのかを

ありありと

知ることができるのだ。

 

つづく

 

思い切って信じてみよう

 

広い野原を

走っていたら、

断崖絶壁に

出た。

 

地面が割れ、

深い谷が落ちている。

 

絶壁から顔を出し、

恐る恐る下を

覗けば、

その谷はあまりに深く、

下は暗く、

まるで奈落の底だ。

 

ここを落ちたら

一巻の終わりだと、

全身が震えた。

 

でも私は

この深い谷を

越えなければ

ならない。

 

ここを飛び越えて、

向こう岸に行き、

さらに野原を

突き進まなければ

ならない。

 

しかも、

期限が

迫っている。

 

切り落ちた

深い谷の向こう岸まで

恐らく50mほど。

 

さて、

どう行くか?

 

・・・・・・

 

すると、

向こう岸に

人が現れた。

 

こちらを見て

ニコニコしている。

 

手を振ってきた。

 

私も手を

振った。

 

声が聞こえた。

 

「早く

おいでよ!」

 

と。

 

「渡る術が

ないんだ!」

 

と私が

叫ぶと、

 

「大丈夫!

思い切って

飛んでごらん。

飛べば、

暗い谷の奥から

風が吹き上がってきて、

あなたが

落ちることはないから。

そして、

その風が

あなたをこちら側まで

運んでくれるから!」

 

との返事。

 

私はその人を

じっと見つめた。

 

するとその人も

私を

見つめてきた。

 

50mも離れているのに、

目と目が合った瞬間、

つながり合えた

気がした。

 

嘘を言っているようには

思えなかった。

 

とは言え、

本当にその人の

言う通りになる確証は

何もない。

 

とは言え、

ここを飛び越える

術も

他にはない。

 

どうする?

 

あなたなら

どうする?

 

・・・・・・

 

私は

躊躇なく

跳んだ。

 

すると、

本当に暗い谷から

風が吹き上がり、

私は

飛んだ。

 

風に身を委ねると

難なく

向こう岸に

たどり着いた。

 

その人は

その様子を

ニコニコと

見守っていた。

 

その人のもとに

降り立つと、

その人は

 

「おかえり」

 

と笑った。

 

「あなたは

どなたですか?」

 

と私が

訊くと、

 

「何言ってんの」

 

と、

さらに笑いながら、

突然その人は

私に近づいてきた。

 

えっ?と

驚く間もなく、

その人は

私に溶け込んだ。

 

それで

わかった。

 

なんだ、

私じゃないか。

 

私の

真本音だった、

と。

 

・・・・・・

 

私は私の

真本音を信じた。

 

だから、

すぐにこちらに

来れた。

 

しかしもし

信じていなかったら

どうなっただろう?

 

間違いなくまだ

もとの場所に

いただろう。

 

そして

ここをどう渡るかを

悩んでいるか、

もしくは

あきらめるか・・・。

 

いずれにしても

多大な時間が

かかるだろう、

ここまで来るには。

 

そう思いながら

野原をさらに

進むと、

またもや

断崖絶壁が。

 

今度は

向こう岸まで

100mくらいある。

 

しかし

またもや向こう岸に

人が現れた。

 

遠くて豆粒の

ようだが、

やはりあれも

私の真本音なのだろう。

 

その人は

「おいでおいで」と

手で合図をした。

 

だから私はまた

躊躇なく

跳んで、

そして飛んだ。

 

あっという間に

次の岸へ。

 

恐らくこれから

どれだけ多くの

谷が現れても、

その向こうに

真本音が現れるならば、

私は難なく

進み続けるだろう。

 

もちろん

谷の難易度は

これからずっと

高まるかもしれない。

 

しかし、

やることの本質は

同じだろう。

 

真本音を信じて

その通りに

進むだけだ。

 

私は、

最初の50mの谷で

経験ができた。

 

だから

より確信を持って

真本音の通りに

進むことができるように

なった。

 

みんな

そうなればよいと

思う。

 

真本音は

無茶しない。

 

いやいや、

跳ぶのは無茶でしょ、

言われるかも

しれない。

 

しかし、一度でも

跳んでしまえば、

それがまったく

無茶ではないことは

よくわかるのだ。

 

そんなもんだ。

 

だから

思い切って

やってみようよ、

真本音の通りに。

 

つづく

 

迷いの真っ只中にいます

 

人生は

試行錯誤の連続

である。

 

悩み、迷い、

それでも決断し、

やってみて

結果が出て、

また、迷う。

 

その連続。

 

真本音度合いが

高まると、

それがなくなるのですか?

 

と、時々

訊かれるが、

 

それは

なくならない。

 

何も

変わらない。

 

えぇ〜?

じゃあ、意味ないじゃん。

思われるかもしれないが、

そうではない。

 

試行錯誤には

2種類あるからだ。

 

つまりは、

どれだけ試行錯誤しても

前には進めない

という

試行錯誤がある。

 

同じところを

グルグル回り続ける

試行錯誤だ。

 

これは本当は

試行錯誤とは

言わない。

 

停滞、

と言った方がよい。

 

もう一つは、

手応えのある

試行錯誤だ。

 

これは、

試行錯誤自体に

とてつもない充実感を

得る。

 

とはいえ、

あくまでも試行錯誤

なので、

本気で悩むし

本気で迷う。

 

しかし、そこを越えて

自分なりの決断ができると、

目の前の視界が

一気に開ける。

 

それはまるで、

すべてから

解き放たれ、

すべてから

自由になれたような

そんな感覚。

 

これを私は

「脱皮」

と呼んでいるが、

 

この、脱皮を伴う

試行錯誤が

本来の試行錯誤だ。

 

真本音度合いが

高まるということは、

 

「停滞の試行錯誤」が

なくなり、

 

「脱皮の試行錯誤」のみが

始まる

 

ということになるのだ。

 

・・・・・・

 

もちろん、

悩むのも

迷うのも

苦しいことだ。

 

できれば、

悩みも迷いも

まったくない

人生がいい、

と思うだろう。

 

しかし人間、

面白いもので

そういった意味での

安定を得ると、

途端に

生きがいを失くし、

「自分」を失くす。

 

生きがいとは、

生きる意味を

感じていること。

 

生きる意味を

感じない人生は

誰もが

放棄したくなる。

 

「私は安定を

求めます」

誰もが言う。

 

安定のために

がんばっている人は

多い。

 

しかし、

そういった意味での安定を

実際に手に入れてしまうと、

残念ながら

冒険したくなるのが

人間だ。

 

実はここで言う

安定

は、本来の安定では

ないからだ。

 

・・・・・・

 

本来の安定とは、

自転車のような

ものである。

 

つまりは、

進み続けることで

安定する。

 

止まってしまうと

倒れてしまう。

 

それが自転車であり、

人間も

同じようなものだ。

 

ということを、

何万人という人達と

向き合うことで

私は実感した。

 

私達は

「進むことによる安定」

最も望む生き物

なのだ。

 

恐らくこれが

宇宙の摂理

だ。

 

だから私は

人間の本能の中心は

「進化」

であると思っている。

 

・・・・・・

 

進化が始まると、

誰もが

イキイキする。

 

目は輝き、

その人らしさが溢れ、

「毎日が楽しくて

しょうがありません」

と言う。

 

進化が止まると、

途端に人は

元気を失くすし、

輝きを失くす。

 

それは

あまりにも

顕著だ。

 

顕著すぎて

笑ってしまう。

 

そして、

進化にどうしても

必要なのが

「試行錯誤」

である。

 

もちろん

「脱皮の試行錯誤」

だ。

 

真本音で生きる、

とは

そういった

私達人間の本能に

素直に生きる、

ということで、

 

それにより

多くの人達の人生は

冒険的になる。

 

冒険、

と言っても

決して、無茶は

しない。

 

真本音は

「できることしか

しない」

のだ。

 

しかし、

素直にそれを

やり続けると、

側から見れば、

 

「あの人

無茶だ」

 

と思われることは

しばしばあるが。

 

でも本人は

決して

無茶はしていない。

 

できることを

着実に

日々、行ない続けて

いるだけ。

 

しかもそれは

自分にとって

最も「適度」な

刺激を伴いながら。

 

だから、

楽しい。

 

真本音の人生に

入ると、

すべてが楽しくなる。

 

そういった人生は

誰もが、

つまりは全員が

手に入れることが

本当はできる。

 

・・・・・・

 

実は、

今の私は

試行錯誤の真っ只中

にいる。

 

迷いの

真っ只中だ。

 

手がかりが

つかめない。

 

まったく

つかめない。

 

だからこそ、

とてつもなく

面白い。

 

と、

素直に感じることが

できるのは、

ずっと真本音で

生きてきた成果かな、

とも思う。

 

つづく

 

「指示」できるコーチが必要だ

 

私は夜、22時以降に

スカイプなどを使った

コーチングをすることが

多い。

 

夜中にしか

コーチングできない人も

いるからだ。

 

スカイプは基本的に

声のみで行なう。

 

声のみに

集中する。

 

そういったコーチングも

それはそれで

独特の良さがある。

 

クライアントさんの

姿は見えないのに、

あまりにも

まばゆい光を

感じることが

実は、よくある。

 

今も、お一人のコーチングが

終わったところであるが、

私はその人の光に

ずっと包まれていた。

 

その人は

今日のコーチングで

大きく開放された。

 

もはや、

「脱皮」という次元

ではない。

 

あえて言えば、

「羽化」

と言えるものだろうか。

 

サナギだったその人が

まるで突然変異のように

成虫へと

姿を変えた。

 

そして、

これまでいた地中から

抜け出て、

一気に大空に

高く飛び上がった。

 

果てしなく

上昇を続けていく。

 

そんな姿が

ありありと観えるような

コーチングだった。

 

・・・・・・

 

こういう時、

私は

やっぱり人の可能性は

無限なんだなぁ、

と、いやでも

思ってしまう。

 

と同時に、

なんでこんなコーチングが

できたのだろうか、と

自分でも

わからなくなる。

 

恐らく、

意図がないからこそ

できることなのだろう。

 

本当に私には

まったくの

意図がない。

 

その人を

開放させてやろう、

とか、

気づきを与えてやろう、

とか。

 

それどころか、

その人が

成長するといいな、

という意図すら

ないかもしれない。

 

もっと言えば、

コーチングによって

良い成果が出れば

いいな、

という意図すら

ない。

 

何も、

ない。

 

その状態で

向き合うからこそ、

恐らく私は

その人の真本音の

「鏡」

となれるのだろう。

 

人は

本当の「鏡」を

観れば、

わかるものなのだ。

 

自分が何者で、

本当は

何を為すべきか?

ということを。

 

それは

他者が教えることでも

指導することでも

ない。

 

すべての人が

自分と向き合い、

自分自身と語り合う

ことでしか、

見つけられない

ものなのだ。

 

・・・・・・

 

意図を

手放す。

 

これができる

コーチが

ほしい。

 

そんなコーチが

増えると

本当に

よいだろう。

 

一般的には

コーチとは、

答えを与えない人

のことを言う。

 

あくまでも、

クライアントさん自身が

答えを見つけ出すのを

サポートするのが

コーチだ。

一般的には。

 

しかし、

完全に意図を

手放すことが

もしできたとしたら、

 

そのコーチは

「教える」

ことができるのだ。

 

「答えは

こうですよ」

と。

 

「あなたは今、

こうすべきですよ」

と。

 

はっきり明確に

断定的に

教えることや、

指示することすら

できる。

 

意図のない

状態での

指示。

 

これほど

強烈なものは

ない。

 

そんなことができる

コーチを

私は育成したい。

 

つづく

 

組織のどこかにツボがある

 

自分の可能性に

気づいていない人が

多いのと同様に、

 

自社(もしくは自部署)の

可能性に

気づいていない組織も

実に多い。

 

しかも、

たった一人の人の

ちょっとした振る舞いが

その組織の可能性を

大きく左右している

ケースも多い。

 

例えば、

Aさんがちょっとだけ

表情を曇らせると、

その瞬間に

そこにいる誰もが

口をつぐんでしまう。

 

するとそこで

本来、出されるはずだった

大切な意見が

出されなくなる。

 

本当はそこで

出される意見が、

組織の方向性に

大きな影響を与えたはずのに、

そのたった一つの意見が

出なかったばかりに、

組織は迷走を続ける。

 

・・・というような場面を

私は数多く拝見してきた。

 

表情を曇らせたAさんには

もちろんその自覚は

ないし、

それに影響を受けた

何人もの人達にも

その自覚はない。

 

自覚がないままに

迷走への流れを

創ってしまっている。

 

そしてそれが

その組織の

パターン(クセ)と

なっている。

 

ちょっと極端な例だが、

これに近い組織は

本当に多いのだ。

 

そんな時、私は

意見を出せなかった皆さんに

「意見を出しなさい」

という風には

しない。

 

Aさんのちょっとした

表情の曇りが

出ないように

まずは

Aさんに働きかける。

 

Aさんは無自覚に

やっているので、

単純に言えば、

Aさんにそれを

教える。

 

すると

たったそれだけで

Aさんの表情は変わり、

たったそれだけで

組織の空気感が

大きく変わる。

 

そんな簡単に

いくの?

 

本当にそんなことが

あるの?

 

と思われるかも

しれないが、

実は、

そんなことばかり

である。

 

私は常に

「一点」

を探している。

 

今のこの組織の「現実」を

創り出している「一点」は

どこにあるか?

を探している。

 

それはほとんどの場合、

「この人が原因だ」

と特定される。

 

もしくは、

「この人とこの人の

関係性が原因だ」

というのも多い。

 

逆に言えば、

その「一点」を解決せずして

本当の解決には

つながらない。

 

本当は

たった一つのツボを

押せば、

体はすぐに治るのに、

そこを外して

様々な治療を

立て続けに行なうようなもの。

 

的を外した対策は

残念ながら

効果としては

何十分の一となる。

 

多くの人は

組織活性化を

難しく考え過ぎている。

 

そして

あまりに多くの

対策を打ち過ぎている。

 

それにより逆に

不調和が起きてしまう。

 

下手をすると、

「この組織はもうダメだ」

とあきらめモードになる。

 

あきらめる必要は

ない。

 

注意深く

ツボを探せばいい。

 

「一点」を

見つければいい。

 

「一点」を見つけ、

そこを押す。

 

するとそこは

改善され、

次の「一点」が見えてくる。

 

そうしたらその

次の「一点」を

押す。

 

するとさらに

次の「一点」が

見えてくる。

 

そうしたらまた

それを押す。

 

その連続。

 

それにより、

組織活性化の流れが

大きくなる。

 

ツボ探し。

 

「一点」探し。

 

それができるのが

「コーチ」である

と私は思っている。

 

前にも書いたが、

「コーチ」とは

企業という組織の

コーチングができて

初めて「コーチ」だと

私は思う。

 

組織は

人の集まり。

 

誰かのどこかに

ツボはある。

 

必ず、ある。

 

つづく

 

それは本当に望む成長か

 

生まれてからずっと

地中にいた生き物が

初めて地上に出て、

太陽の光を浴びた時の

驚きとは

どのようなものだろうか。

 

実際の生き物が

どうとか言うことではなく、

自分がそうなったつもりで

想像してみよう。

 

例えば、

最初から目が

見えるとしよう。

 

初めて地上に出たら、

どうなるだろうか。

 

もちろん、

太陽のあまりの明るさに

目は眩むだろう。

 

地中にいた

窮屈さがなくなり

戸惑うだろう。

 

しかし

そういった表面的な

こととは別として、

何かがとても

「静か」になるのでは

ないだろうか。

 

と、

私なんかは

思うのだ。

 

なぜなら

似た経験を私は

何度もしている。

 

あの

独特な感覚。

 

戸惑いと

嬉しさと

静けさと。

 

そしてその後に

やってくる、

内側から

溢れ出ようとする

自らのエネルギー。

 

しかしそのエネルギーは

やはり

静けさを伴う。

 

むしろ、

「安心する」

「安寧を得る」

と表現した方が

よいだろう。

 

何か大いなるものに

包まれる感じだ。

 

それを自らが

発していると知ったとき、

みんな

誰しもが驚くと同時に、

思い出すのでは

ないか。

 

あぁこれが

私であった、

と。

 

安心と安寧とは、

自らを思い出すことによる

わかりやすい

感覚なのだろう。

 

・・・・・・

 

コーチという

お仕事をしていると、

とても多くの方々が、

 

「私、成長しました!」

 

と喜び勇む瞬間と

出会う。

 

その時こそ私は

とても注意する。

 

何かから

解放された瞬間の

喜びに

私は注意する。

 

その視点として

最も大事にしているのは、

その人が、

 

静かかどうか?

 

である。

 

もちろん表面的な

ことではない。

心の奥底、

それを、魂、と言っても

いいが、

そこの静けさを

観察する。

 

成長は

エネルギーを呼ぶ。

 

やる気を呼ぶ。

 

前向きさを

呼ぶ。

 

しかしその根底が

静かかどうか?

によって、

 

その「成長」が

永続的か

刹那的か

がわかるのだ。

 

要するに、

「刹那的な成長」

という

ものがあるのだ。

 

これによって

生み出される

エネルギーは、

 

短期間で

枯渇する。

 

間違いなく。

 

そしてその後には

必ず、

「虚無」

が来る。

 

つまりは

「反動」が来るのだ。

 

そしてその人は、

「成長の喜び」と

「反動としての虚無」

行き来するようになる。

 

それは結果として

とてつもなく

疲れることだ。

 

そしてそこに

「進化」

はない。

 

このような成長の

ことを私は、

 

「膨張」

 

と呼んでいる。

 

・・・・・・

 

とても残念であるが、

「膨張」を

成長と信じて、

そして、

「膨張のエネルギー」を

成長のエネルギーと

信じて、

邁進する企業は

あまりにも多い。

 

私の役割は

まずはそれを

止めることだと

思っている。

 

なぜならその先に

待っているのは

「破裂」だからだ。

 

実のない膨張は

間違いなく

破裂する。

 

風船が

大きくなり過ぎて

破裂するのと

同様だ。

 

風船の中身は

何もない。

 

ただ、

枠が大きくなっている

だけのことだ。

 

中身がないから

枠が広がれば広がるほど、

その枠は

薄く弱くなっていく。

 

そして

ある限界を超えることで

破裂する。

 

あまりにも

自然な道のりで

ある。

 

しかしそれに

気づかない企業と、

 

それに気づかない

コーチが

多過ぎるのでは

ないだろうか。

 

膨張は

わかりやすい。

 

今の世の中では

ある意味、

実現もしやすいかも

しれない。

 

だからと言って

本当にそれで

いいのか?

 

私達は、

刹那的な

成長に

喜んでいる

場合だろうか?

 

つづく

 

本当は、確信はそこにある

 

あらゆる反応本音から

解放されて、

真本音そのものと

なれている状態を

私は

 

『真本音状態』

 

と呼んでいる。

 

本当は

このように名付けることに

かなりの抵抗が

ある。

 

なぜならこの状態が

「特別な状態である」

という印象を

与えてしまうから。

 

私からしてみれば、

この状態は本当は

人間にとって

最も「普通」の状態であり、

この状態にいることが

「当たり前」のことだと

毎日つくづく感じている

のだが、

 

逆に私が

そのようにお伝えすると、

どうも多くの方は

「わけがわからなくなる」

ようだ。

 

確かに、

20年くらい前の私に

その言い方をすれば、

理解不能になるか、

もしくは、

「理解しているつもり」

になるかもしれない。

 

だから本当は

「普通の状態」

なのだが、

それをあえて

「真本音状態」と呼び、

まるで普通ではないような

表現をしている。

 

・・・・・・

 

真本音状態になると、

「すべてがわかっている」

状態となる。

 

とは言え、

それは顕在意識のレベルで

わかっているのではなく、

 

「私はすべてが

わかっているんだなぁ、

本当は」

 

という事実(真実)が

ありありとわかっている

状態である、

ということだ。

 

だから、

そんな自分の中から

生まれる

あらゆる発想や判断や

決断の数々を

掛け値なしに

信じることができる。

 

「信じる」と言うとまた

語弊がある気も

するが、

あえて言えば、

すべての自分の発想と

行動に

「確信を持てる」

感覚だ。

 

もちろんそれが

本当に正しいかどうか?

はわからない。

 

それに

「確信が持てる」

とは

「正しいと思える」

と言うことでもない。

 

「正しいとか

正しくないとか、

そんなことどっちでも

いいじゃん」

 

という状態である。

 

「そんなことよりも

今の私はこれを

やるんだ。

それが当たり前のことだし、

宇宙の摂理だ」

 

くらいに

思えていることが

「確信」かな。

 

あえて言えば、

 

「思い出す」

 

感覚に近い。

 

あぁそうそう。

私はここで

こうするんだったな、

と。

 

まるで未来の自分が

過去である今の自分を

思い出している

感覚だ。

 

過去の出来事を

思い出し、

「そうそう、あの時

私はこう動いたよな」

という感じで、

今の決断を

するのだ。

 

その判断が

正しいかどうかは

別として、

その感覚のまま

毎日を動いていれば、

 

必然的に

すべてが調和する。

 

「調和」というのは

何も、

すべてがスムーズにいく

ということでもないし、

 

「不調和の調和」

ということもあるが、

 

しかしそれでも

やはり、

「こんな風に

人生は自然に

展開していくものなのか」

という実感を

驚きと共に

得ることはできる。

 

・・・・・・

 

私がいつも

最大にエネルギーを

注いでいるのが、

 

そこにいる人々が

自ら意図的に

真本音状態に戻れる

ようになる。

 

という状態に

することだ。

 

組織の中で

全員とは言わなくても、

1割以上の人が

そうなれると、

組織のエネルギー(パワー)

は変質する。

 

社会に対して

良いエネルギーを

発し続ける組織と

なり、

その結果として

業績が向上していく。

 

もちろんそこまでには

紆余曲折があるが、

その紆余曲折の

一つ一つもすべてが

「調和」への道だ。

 

その状態まで

サポートできる人の

ことを私は

「コーチ」

と呼んでいる。

 

そんなコーチを

私は

増やしていきたい。

 

つづく

 

ここにいるから

 

ビルの谷間から

ふと上を見上げると、

 

真っ青な

空があり、

 

あぁ、空はいつも

あり続けて

きたんだなぁ、

 

と思うと、

我に返るような

感覚を得る。

 

我に返る

とは

今ここに帰る

ということ。

 

私達は

今この瞬間に

生きている。

 

「現実」は

今この瞬間

のみに

存在する。

 

「人生」は

今この瞬間の

連続で、

それ以上でも

それ以下でも

ない。

 

という事実を

身をもって思い出す

と、

ホッとする。

 

そして

改めて思うのだ。

 

今を楽しもう。

 

と。

 

今を嚙みしめよう。

 

と。

 

つづく

 

掴みたいものがあるんだ

 

私は早く

「要なし」

になりたい。

 

「たけうちさんは

もう

必要ないよ」

 

と言われたい。

 

すべての

クライアントさんから

そう言われたいし、

 

世の中からも

そう言われたい。

 

そうすれば

私は

安心して

引退できる。

 

早くその日が

来れるように

今は

がんばっている。

 

・・・・・・

 

私は本当に

多くの人の人生と

触れ合ってきた。

 

その人の人生は

その人のもの。

 

その人の人生は

私の人生では

ない。

 

その区別は

とても大切であり、

区別をすることが、

コーチとしての

必須の

在り方である。

 

だからこそ

「他者だから

できる最大の

サポート」

が可能になる。

 

「あなたの人生は

私の人生だ」

なんて言おうものなら、

何たる傲慢!

となるだろう。

 

人への愛とは

自分と

自分以外の人とを

区別するところから

始まる。

 

そしてコーチという役割は

「その人の人生は

その人のもの」

という

尊重から始まる。

 

・・・という

基本がある。

 

この基本を

わかっていない人は

人をサポートしては

ならない、

ということは重々に

わかっているし、

 

そうしている。

 

しかし、

その上で

あえて言おう。

 

私は

人をコーチングさせて

いただきながら、

その人と

いつも

「一つ」

になる。

 

そして

その人の人生と

「一つ」

になる。

 

その人の喜びとも、

その人の苦しみとも、

「一つ」

になるのだ。

 

ちゃんと

区別はついて

いる。

 

私と

あなたは

違う。

 

現実世界では

そうなっている。

 

しかし、

実在の世界では

私は

確かに

「一つ」

になっている。

 

私は

すべてであり、

すべては

私であり、

あなたは

私であり、

私は

あなたである。

 

という

ことに

なっている。

 

区別は

ついている。笑

 

でも、

そうなってる。

 

・・・・・・

 

例えば今日は、

12名の人と

向き合った。

 

すると

今の私の中には

12名が

まだいる。

 

そして

12名の

人生を

そのままに

ありのままに

感じている、

 

というよりも

やっぱり正確に

表現すれば

「一つ」

となっている。

 

そして今、

12名分の

喜びと苦しみを

感じている。

 

これはいったい

どういうこと

なのだろう?

 

何のために

私は

こんなことを

しているのだろうか?

 

・・・・・・

 

いや、

答えはよく

わかっている。

 

わかってないけど

わかっている。

 

もちろん

自己満足で

やっているわけでは

ない。

 

はっきり言って

これ、

日によっては

とてつもなく

苦しいのだ。

 

自分の生命力の

ほぼすべてを

使い切ってしまう

日もあるし。

 

とてもとても

自己満足のレベルで

できることでは

ない。

 

かと言って

私は

満足している。

 

満足というよりも

悦び

である。

 

何でだろう?

 

恐らくこれは

必要なことが

できている

悦びなのだと

思う。

 

これを私は

約10年、

毎日続けているが、

 

その体験は、

これから

私がすべき

あるゆることにおいて

必要なことだと

わかるからだ。

 

この体験を

通じてしか、

人に伝えられない

ことがあるのだ。

 

私はこれまで

何万人もの人と

向き合ってきたが、

 

その人と自分を

区別して

分離して

向き合うことでは

得られないものを

得ようとしていることは

よくわかっている。

 

もし途中で

自分の生命力が

持たず、

自分が死んでしまっても

それはそれで

しょうがないと

いつも覚悟を

決めてきた。

 

ひょっとして

明日、

死んじゃうかも、

いつも思って

ここまできた。

 

私にだって

守りたいもの、

守るべきものがあるので、

絶対に

死にはしないと

決めているが、

 

でも、

その覚悟は

確かにあった。

 

そうまでしても

私には

掴みたいものが

あるのだ。

 

そのための

人生であると

よく

わかっている。

 

だから明日も

私は

あらゆるものと

「一つ」に

なる。

 

その経験を

日々、

積んでいく。

 

それをしなければ

絶対に

気づけない「何か」を

得るために。

 

私は私のこの

真剣さが

怖いとも思う。

 

でも

しょうがない。

 

最初から

決めている

道だからね。

 

つづく

 

受講生さんが凄くてね

 

『ザ・セルフ』 という

セルフコーチングの手法を

集中的に修得していただく

新しい講座を始めたが、

 

やってよかったな、

つくづく思っている。

 

ちょうど今、

半分を過ぎたところ

であるが、

 

なんと、

私の中では

ある意味での

完了感がある。

 

もう、皆さん

大丈夫ではないか。

 

得るべきものを

得たのではないか。

 

このまま

講座を終えてしまっても

よいのではないか。

 

とさえ

思っている。

 

いったいこの

完了感は

何だろうか?

 

そこを自分なりに

セルフコーチング

してみたい。

 

・・・・・・

 

まず真っ先に

思い浮かぶのは、

 

皆、すでに

「一本道」

に立てている、

ということだ。

 

私達人間には

全員、

「一本道」が

ある。

 

それは、

生まれた瞬間から

自分が自分に

約束した

人生の道である。

 

最初は

その道を探すのが

人生の目的となる。

 

そして見事に

それを見つけたら、

人生の第2ステージに

入る。

 

つまりは

その「一本道」を

突き進むのだ。

 

今回の受講生さんは

講座のスタート時では、

ほぼ全員、

人生の岐路に

立っていた。

 

もしくは、

立とうとしていた。

 

自分の道を

見つけたい。

 

本当の道を

見つけたい。

 

という意欲が

高かった。

 

だから、

セルフコーチングが

非常に効いた。

 

そして今、

全員が

「一本道」に

立った。

 

もちろん、

その「一本道」のすべてが

見通せているわけでは

ない。

 

しかし、

自分が今、

一本道に立っているのか?

いないのか?

という判別のつけ方と、

 

そしてその

一本道を堂々と

進むためにはどうすれば

よいか?

 

ということを

理屈ではなく

体得したのだと思う。

 

だからもう

私なんかがいなくとも

皆さんは充分に

自分の道を歩いていけるな、

という

実感がある。

 

それが私の

完了感になっている

のだと思う。

 

・・・・・・

 

もう一つ浮かぶのは、

 

皆さんは完全に

オープンになった

という事実だ。

 

変な言い方をすれば、

「裸になった」

ということになる。

 

そして、

裸の方が

まったくもって

人生を進むには

楽である、

という真実を得た

ということだろうか。

 

もちろん、

日々の悩みはある。

 

迷いも

出る。

 

自分を失うことも

あるだろう。

 

しかし、

どうすれば

本来の自分に

戻れるか?

 

どうすれば

裸の自分に戻れるか?

 

そして、

裸の自分に戻ることが

どういうことなのか?

 

裸の自分に戻る

ことで

何が起こるのか?

 

ということを

やはり理屈ではなく

体得できたのだと

思う。

 

要するに、

「自分らしさ全開」

である。

 

かと言って、

それがゴールでは

ない。

 

それが

「スタート」

である。

 

自分らしさが

全開になってからが、

本当の成長(進化)の

スタートであり、

 

自分の発する

エネルギーと魅力と

力の数々は

これから本格的に

開発される。

 

まだ見ぬ自分との

出会いも、

これから本格的に

始まるだろう。

 

しかし

その「スタート地点」に

立てたということが

素晴らしい。

 

これがまた

完了感になっている

のだと思う。

 

・・・・・・

 

恐らく、

講座をスタートさせた時点

での、

皆さんの真本音の目的は

すでに

果たされたのだと思う。

 

しかし講座はまだ

半分弱、

残っている。

 

ということは・・・。

 

ここで私は

改めて

自分の役割に

気づく。

 

私の役割とは、

皆さんの真本音の

想いに

お応えするだけでなく、

 

さらに

皆さんの真本音が

当初願っていた以上の

「加速」を

ご提供することである、

と。

 

表現によっては

かなり傲慢な感じ

ではあるが。

 

しかし思えば、

自分がかつて体験

したことのない

「加速」を得たい、

という人達が

ここには集まっている

ように思う。

 

期待以上の

加速を

したい。

 

という期待。

 

それにまた

お応えするのが

私の役割なのだろう。

 

すでに皆さんは、

心の中だけでなく、

「現実」をも

変えた。

 

今日も

「次々にいろんなことが

起こります」

と喜びながら

ご報告くださった。

 

しかしそれはまだ

序の口である

ということを

今後、さらに

体験を通じて

知っていくのだろう。

 

そのきっかけを

ご提供するのが

私の役割であると、

改めて

感じ入ったのが

 

今日だった

のかな。

 

つづく

 

躊躇を外してみようかな

 

「完了感」。

 

何かを100%

やり切った

感覚。

 

99%ではなく、

101%でもなく、

100%の時にしか

得られない

独特の感覚。

 

それが

今の私にある。

 

なぜだか

わからないのに、

ある。

 

時々、

こういうことがある。

 

理由もなく、

完了感のみが

湧き上がる。

 

こういう時は

実在のレベルで

何かを

完了させたのだろう。

 

「実在」とは

心の中の現実。

 

心の中で

確固たるものとして

生まれたもの。

 

恐らくであるが、

長年かけて

構築を目指して

やり続けてきたことが

完成したのだろう。

 

もちろん、

本当の意味での

完成は

ない。

特に実在に

おいては。

 

しかし、

一つの段階において

何かが完成し、

次のステージに

入っていくのだろう。

 

・・・・・・

 

実在における

完了感を得た

ということは、

 

これからそれが

現象化

するということだ。

 

つまり、

心の中の現実が

実際のこの世界の

現実として

現れる。

 

それが何かは

今のところ

まだ自分でも

把握できていないが、

 

何となく

楽しみである。

 

・・・・・・

 

さて。

 

これから私は

何をしようか?

 

もちろん

コーチを育成する

ことは

決めている。

 

そのコーチと一緒に

たくさんの

現場に入ることも

決めている。

 

まだまだ

やることは多い。

 

これからさらに

増やしていく。

 

ただ。

 

これまでの私を

私は一つ大きく

変えねばならない、

 

と、今わかった。

 

これまでの私は

私の真剣さを

私以外の人に向ける

ことを

躊躇してきた。

 

いや、

そのつもりはなかった

のだが、

今、本当に

そう思った。

 

変な言い方

であるが、

私は私の真剣さが

実は、ちょっと怖い。

 

真剣すぎる

からだ。

 

私のこの真剣さを

受け止め切れるのは、

私の妻だけであると

これまでは

思ってきた。

 

しかしそれでは

いけない。

 

それでは

進めない。

 

私は私の真剣さを

徐々にではあるが、

解放しようと

思う。

 

実在で

何が完了したかは

わからないが、

そうしなければ

その完成したものは

現象化できないと

今、わかった。

 

ちょっとずつ

躊躇を

外そう。

 

う〜む、

勇気が要るね。

 

つづく

 

怖いからこそ見つめよう

 

今、

問題の核心は

何か?

 

本当は、

このダイレクトな

問いに素直に

向き合えば、

 

ほとんどの問題は

8割方は

解決してしまう。

 

しかし私達には

その、

素直さ

がない、

 

場合が多い。

 

核心を観る

のが

怖いのだ。

 

だから

まずはそこから

目を背けることに

全力になる。

 

もちろん、

そうなっている自分を

自覚することは

ない。

 

自覚できたら

大したものだ。

 

だから私は

いつもいつも

この問いを

大切にしている。

 

今、

問題の核心は

何か?

 

・・・・・・

 

問題の核心は

恐怖感の

その先に

ある。

 

そりゃそうだ。

 

問題の核心

だからこそ

恐怖感が湧く。

 

つまり、

最も怖い方向を

見つめれば、

そこに

実にシンプルな

核心が

潜んでいる。

 

いや、

本当は潜んでなんか

いないのだが、

あまりの恐怖によって

そいつの前では

私達は

目を瞑ってしまうのだ。

 

全力で

目を瞑る。

 

で、

わからない

わからない

と言い続ける。

 

時には、

目を瞑っているその

まぶたの上に、

くっきりとした

キラキラの目を描いて、

 

ほら、

私、ちゃんと

目を開いているでしょ!

 

とアピールする

人もいる。

 

もちろんやはり

本人にその自覚は

ない。

 

逃げることに

必死だという

自覚が。

 

そういう人と

向き合うと、

あまりの恐怖感と

あまりの拒絶感に

私は

言葉を失う。

 

怖いものを

怖いと言えれば、

もっと楽になるのに。

 

本人は最も

楽ではない道を

邁進する。

 

まぶたの上に

描いた偽物の目を

堂々とこちらに見せ、

 

ほら、

私はこんなに真剣に

自分の使命に

向かっています、

 

と訴え続ける。

 

自分の人生を

邁進しています、

 

と。

 

・・・・・・

 

そのように

全力で逃げようと

する人は、

 

どうやら

私からのお墨付きを

もらいたいようだ。

 

つまり、

「たけうちさんが

いいね、って

言ったから、

私はこれで

いいんだ」

という

お墨付きだ。

 

このお墨付きを

ほしいが故に、

あえて私に相談

してくる人もいる。

 

しかし私は

決して

そのような「お遊び」

にお付き合いする

ことはない。

 

そのような

「お遊び」は

ダメですよ。

もっと

真剣に生きましょうよ。

 

というニュアンスの

空気感を

ほんのちょっとだけ

私は

その人に向ける。

 

すると多くの場合は、

とても残念なことに

一目散に

私の前から

去っていく。

 

私は別に

「もっと強くありなさい」

とは

一言も言っていない。

 

私はただ

「もっと真剣になろうよ」

伝えているだけだ。

 

真剣になる、

とは

自分の弱さを

知ることだ。

 

自分の恐怖を

知ることだ。

 

知ればいい。

 

だって

人は

弱いから。

 

でも、

自分の弱さを

素直に認めることで、

人は

一歩ずつ

強くなっていけるから。

 

完璧な人間など

いない。

 

何度も言うが、

私だって

人間として相当の

ヘナチョコだ。

 

でも私は

そのヘナチョコぶりを

知っている。

 

そこから

目を逸らさないように

している。

 

それだけで

いいのだ。

 

それだけで、

ちゃんと

進めるのだ、

私達は。

 

「あるがまま」を

見つめよう。

 

それができれば、

問題の核心は

すぐにわかるし、

 

そしてその核心は

実は、

結構、可愛いものだった

ということも

わかるのだ。

 

つづく