チームパフォーマンスコーチ

遠過ぎるのだろうか

遠い遠い存在で
あるはずのものが、

急に
近くなる。

近くなったら、
これまでまったく
見えてなかった
ものたちが、

明らかに
なる。

明らかになる
ことで、
ますますそれが
輝くことも
あれば、

逆に
光を失うことも
ある。

近づくことを
ずっと
望んでいたのに、

近づくことで
壊れてしまう
ものもある。

近づけば
よい、

というものでも
ない。

が、
近づきたい
という素直な気持ちも
大切だ。

永遠、
という時間が
我々には
あるわけではない。

すべて
限られた中で
生きている。

すべてに
近づくことは
できない。

きちんと
一つずつ
選ばねば。
自らの
意志として。

遠いところに
ある存在。

もうすでに
近いところに
ある存在。

そのすべてを
その距離の
ままで、

しっかりと
観察しよう。
丁寧に。

そうすれば、
距離
そのものに
感謝が湧くだろう。

距離の意味が
わかるかも。

この世は
様々な存在が
あるが、

「距離」も
存在の一つ。

距離ともしっかり
向き合おう。

「距離感」こそ
調和の大事な
要素でもあるし。

つづく

あまりにクネクネした道だ

人生が
クネクネ道に感じる
ことがある。

まぁ実際、
現実レベルでは
そうだよね。

何も障害がなく
スムーズに
一本道として進む
ということは
ほぼ、あり得ない。

本能的に
そういった進み方を
私達人間は
望んでいないし。

試行錯誤のない
進み方に
何の価値も
感じない。

基本、
それが人間
というものだ。

不可能を
可能にする。

できなかったことが
できるようになる。

視野が
開ける。

視座が
高まる。

見えなかった世界が
見えるようになる。

・・・そういった体験
や経験を
私達は望んでいるし、

そのプロセスに
人としての幸せと
「活性」を感じる。

自分の成長を
自覚する
喜び。

心が健康ならば、
皆、それを
望んでいる。

幼い子ども達を
見ていれば
よくわかることだ。

そういった意味で
クネクネ道を
楽しむ、というのが
私達の進み方だし、

クネクネ道に
見えるのも、
私達のもともとの
特質の一つだろう。

よく言うことだが、
私達の真本音は

順風満帆に
進むことではなく、

充実した試行錯誤を
しながら進む
ことを
大切にしている。

だから、
クネクネをあるがままに
受け入れる。

ということが
本当にできれば、

実はクネクネと
見えていた道が、

それこそが
一本道であったと、

自分の人生の
本来の道、
最短の道であったと

よくわかるように
なる。

クネクネこそ
最短。

そう捉えて、
一歩一歩を丁寧に
誠実に
歩もう。

走ろう。

魂を込めて
最善を
尽くそう。

つづく

何を愛するか

何にでも
揺らめき
は大事だ。

揺らめきが
なければ
進化はない。

綻び
と言っても
いい。

完璧ではなく、
綻んでいる
ところ。

それがあるからこそ
私達は
人間でいられる。

そして人間とは
「進化」のカタチだ。

なので、
綻びを許さない、
とか
揺らめきを許さない、
というのは
人間として生きる
ことを

そのものを

否定、拒絶している
ことに
なってしまう。

それはとてつもなく
疲弊する
生き方だ。

綻びと、
揺らめきを
あえて
放置する勇気が
私達には必要だ。

「私」
という人間を
観よう。

その実相を。

どれだけの
綻びと、
どれだけの
揺らめきが
ある?

それを
一つずつ
丁寧に見つめよう。

そして
そのすべてを
愛そう。

それが
「私」を
愛するということだ。

「人」を
観よう。

その実相を。

そのすべての
綻びと、
揺らめきを
愛そう。

難しそうかい?

難しそうでも
やろう、
とする意志。

その意志そのものが
愛というエネルギーを
発し、

そのエネルギーが
すべての
綻びと揺らめきを

内側から
活かすんだ。

それこそが、
進化の一つの
カタチだ。

つづく

ヒントはわずかなんだ

一本の
志。

スックと
毅然と
立つ。

中心には
強い光が
あり、

それを
小出しに
している。

少しずつ
少しずつ
闇雲にならぬ
よう、

光を発する。

その光を
時々思い出し
ながら、
私達は
人生を進め、

ある
ふとした時に、

それが
自分の大いなる
志に基づく
ものであったと
気づく。

志が
本来の光を
発し始めるのは、

そこからだ。

自らの志は
自ら 
見つけなければ
ならない。

発見。

志は最初から
そこにある
のだが、

それは
まさしく
発見
というにふさわしい。

発見できて
初めて、
人生は
本格的に幕を
開く。

残念ながら
幕を開かないままに
人生を終えてしまう
人は多い。

自らの志に
気づけぬまま。

志のヒント

光だ。

わずかずつ
奥の方から
漏れ続ける
光。

自分から自分
への
ヒント。
メッセージ。

それを
受け取る自分に
なるには、

今を
素直に
生きる
しかない。

つづく

世界は揺らめいている

非日常の空間に
身を置けば、

それだけで
刺激が入り、
普段では出ないような
発想が出たりする。

大事なことで
ある。

しかし、
「非日常」と言うだけ
あって、
私達はなかなか
「日常」から
出ることは難しい。

毎日同じ
ルーティン。

毎日同じ
生活。

毎日同じ
サイクルが
続く。

・・・と
思いがちだが、
実はそうではない。

もし
「非日常」を体験
したければ、

意識を「世界」に
向け続けよう。

意識を「外」に
向け続けよう。

私達は
「内面」にいるから
「いつもと同じ」
となってしまう。

なぜなら
心の中の自分の位置
を、
私達は常に定めて
そこから動こうとはしない
からだ。
本能的に。

意識を「外」に
向け続け、

「世界」を感じ
続ける。

可能であれば
24時間ずっと。

眠っている時間
以外はずっと。

すると
自然にわかる
だろう。

一日として
同じ日はない、
と。

昨日の「世界」と
今日の「世界」は
まったく違う。

もっと言えば、

5分前の「世界」と
今の「世界」は
まったく違う。

私達のこの3次元の
世界は、
ずっと固定されている
ように思われがち
だが、

それは
内面の私達が
勝手にそう決めつけて、
思い込んで
いるだけで、

実際の「世界」は
変化し続けている。

この世の現実は
映し出された
現象(映像)に
過ぎない。

・・・ということが
よくわかる。

それは常に
揺らめいている。

一瞬として
安定しない。

固定されない。

ゆらゆらと
変化を続け、

独特の
波長を放ち、

儚く、脆く、
幻影的だ。

まるで夢の
ように。

・・・ということが、
真剣に「世界」を
感じ続ければ続けるほど
わかってくる。

「日常」とは
いったい何だろうか?

思わず問いたく
なる。

そしてその
「世界」の揺らめきの
中で、

私達自身も
揺らめいている。

一つとして
固定化されたものなど
なかったのだ。

それらを体感すると、
その一瞬、

今この一瞬、

この一瞬にしか
存在しない
今。

その希少性を
肌でわかりながら、

「今」だからこその
発想が
浮かぶようになる。

そしていわゆる
「毎日が刺激的」
となるわけだ。

私達は実は
そういった「世界」に
住んでいるんだよ。

つづく

10年前の彼から

体の中の
違和感に
焦点を当てる。

滞りが
ある。

誰のものだ?

一つは
私自身の
もの。

発想しなければ
ならない
何かが
あるようだ。

まだ
発想しきれて
いない
何か。

じゃあそれは
この後、しっかり
セルフコーチング
しよう。

しかし
それだけじゃ
ないな。
まだある。

誰のものだ?

あぁ、
彼だ。

10年前に
出会い、
少しだけ話した
彼だ。

すっかり
彼のことは
忘れていたが・・・。

そうか、
10年前、
私は彼から重要な
メッセージを
いただいたんだ。

でも、
その時の私には
それを
重要なものであると
認識することが
できなかった。

のみならず、
キャッチすることすら
なかった、
真面目に。

もう一度、
今、
10年前のあの時に
戻ろう。

彼から
いただいたメッセージ
を、
もう一度、
胸の真ん中で
しっかりと
受け止めてみよう。

あ、
スッキリした。

10年前の
滞りが、
今、ここで浮上した
わけだ。

気づくのに
10年かかった
わけだ。

でもきっと
気づくタイミングは
今が
最善なんだろう。

つづく

命の宿命

今、
あなたの芯
には
何がある?

何かそこに
芽生えたものは?

もし
芽生えたとしたら
何が?
新たな
命として。

人は、
一つずつ
命を紡いでいく。

一つずつ
命を
生み出していく。

一つずつ
命を
込めていく。

自分自身に
対しても
そうだ。

私達は
一つの命を
大切に保存しながら
生きている
のではない。

新たな命を
生み出し続け
ながら、

その連続として
生きている。

生み出せなく
なった時が、
いわゆる
死、だ。

死ぬまで
生きる。

それは
命を
生み出し続ける
ことだ。

つづく

望みがあるのは

意識を
外へ外へ
向ければ、

つまり

自分の
内の世界から
出れば出るほど

生きるのは
楽になる。

一般的には
逆だと
捉えられている
かもしれないが。

本当はね、

内が
外で、

外が

なんだよ。

自分のことを
本当に
理解したいのなら、

意識を
外へ外へ
向け続けよう。

内面を
探しても、
本当に望むものは
何も見つからない。

内が
外で、

外が

だからね。

みんな、
望む人生を
送りたいと
思っている。

死ぬ時に
いい人生だった、

言いたいと。

じゃあ
望む人生は
どこにある?

それは
意識を
外へ外へと
向け続けることで
初めてわかるもの。

内が
外で、

外が

だからね。

つづく

ここからの時代の土台は

強固な土台を
築くことは
大切だが、

土台は、
固めてしまっては
ならない。

最近、
私のビジネスパートナー達と
ミーティングしていた時に
一人が話したことだけど、

耕し続ける

ことが
大切だな、と。

「耕し続ける」
ことこそが、土台を
本当の土台たらしめる
のではないか。

なぜなら
土台とは、

いや
土台だからこそ、

進化し続ける必要が
あるから。

特にここからの
時代、

固まる

とは
イコール衰退だ。

固めてしまっては
ならない
時代。

衰退なら
まだしも、

固めた瞬間に
一気に崩壊する
かも。

では、

あなたの土台
とは何だろう?

あなたは
何を
耕し続けることで、

自らの土台を
永続的に安定した
ものとする?

つづく

怒りを真本音と共に

じっと
自分の手を
見る。

手は何かを
語ろうと
している。

相手から
何かを受け取った
合図だ。

私は手の
感覚に
意識を向けるように
した。

相手に
向かい合った
まま。

相手の手は
私の手に
何か“電波”のような
ものを
送り続けている、
のがわかった。

しかもそれは
かなり
強烈だ。

私は心の中で
少し
覚悟を固めた。

何があっても
瞬時に
素直に
動こう、と。

そしてあとは
場に
委ねた。

“場”とは
“世界”である。

今ここに
小さく区切られて
いるにせよ。

“世界”に委ねる
覚悟を持てば、
いつも何らかの
チャンネルが
変わる。

私の中に
瞬時に

“怒りの感情”


湧いた。

次の瞬間、
私は
相手にそのまま
怒りをぶつけていた。

相手は
目を見開き、
驚きながらも

・・・そりゃそうだ、
まさか私が
ここで怒るとは
思ってもいないだろう・・・

急に全身が
萎むように
なった。

そして俯きながら
涙を流した。

50歳を超えた
男性が、
まるで子供のように
泣くなんて、

本人にだって
信じられない
ことだろう。

でも
必要だから
このような展開に
なった。

“真本音の怒り”

私が呼ぶもの。

それは
ちゃんと
合図がくる。

合図にのっとって
私はただ
委ねる。

強烈な一言と
共に、
私の魂の込められた
怒りの塊が、

躊躇なく
相手の魂を
直撃する。

滅多に使う
ことはない。

が、
必要があれば
いつでも使う
用意はある。

これが私の
コーチング。

真本音に委ねた、
相手と自分の
コラボとしての

魂と心の
やりとりだ。

つづく

反省は終わらない

人生の
反省は
どこまで
繰り返せば
良いのだろう。

きっと
終わりは
ないのだろう。

後悔。

悔恨。

ふとした時に
蘇る。

その度に
痛い。

しかし
いくら現実の
レベルでは
解決したとしても、

痛いものを
痛いと
認識する
その素直さは、

失っては
ならない
と思う。

痛いことを
したのだ。

その痛みは
すでに
私のものだ。

その痛みが
私の人生で
あり、

今の私
そのものだ。

年齢を
重ねれば
痛みはますます
増すかもしれない。

しかしその
事実こそを
大切に、

歪めず
逸らさず
まっすぐに。

痛いなぁ・・・。

つづく

腕が重い

もし、
利き腕とは逆の
腕が
重くなってきたら、

その重みは
しっかり
感じ取った方が
いい。

その重みは
どこから
来ている?

誰のもの?

誰から
もらった?

その重みは
何を
メッセージしている?

あなたは
何をどう
対処しなければ
ならない?

重みの
奥にあるもの。

その実在。

それは
何を見つめている?

何を
目指している?

あなたはそのために
何をしようと
する?

何をしたいと
思う?

あなたが
何かを為すまで、

その重みは
続く。

それだけ重要な
メッセージだ
というわけさ。

つづく

いてててててて・・・

人の心の
痛みを、

そのまま
感じるかい?

ダイレクトに?

もしそうで
あれば、
それはあなたの
宿命だな。

自分で選んだ
自分の個性だ。

諦めるしか
ない。

その辛さ、
私も同じだ。

あまりに
辛いだろう。

それでも
その辛さから
目を逸らしては
ならない。

辛さを感じる
からこそ
できるサポートが
ある。

辛さを感じる
からこそ
それは
「ヘルプ」には
ならない。
決して。

なぜなら
人を「ヘルプする」
ということは、
その辛さを
結果的に
さらに増してしまう
ということが
よくわかるだろうから。

その辛さは
本来、
その人のものだ。

それを
その人自身が
乗り越えなければ
ならない。

本人が
乗り越えなければ
辛さは
永遠に続く。

それが本当に
よくわかるだろう、
その痛みが
わかるなら。

人間は
痛い存在だ。

皆、
辛い中で
生きている。

しかしそれを
肩代わりしよう
などと
思ってはならない。

それこそ
傲慢だろう。

皆、
自分で乗り越える
ために
生きている。

でも
自力では難しい、
という状況の人は
多い。

だからこその
「サポート」
だ。
決して「ヘルプ」
ではなく。

その人が
自らの足で
歩んでいくのを
サポートする。

痛みがわかる
からこそできる
サポートがある。

それが
あなたの
役目だ。

つづく

背後にいるだろ

すぐ背後に
自分
がいる。

本来の
自分がいる。

実在の
自分がいる。

ちょっとだけ
ズレたところに。

であれば、
その背後の
自分に

あえて
委ねてみても
良いのではないか。

一日中
委ねなくても
いい。

ただ、
ここぞ!
という時に、

勇気を
持ってね。

もう、
これまでの
枠の中でしか
生きていけない自分から
卒業しよう。

これまでと
同じ思考、同じパターンで
動く自分を。

そのためには
本来の自分に
委ねてみる
ことだ。

最初は
慣れないかも
しれないが、

すぐに
それが自然体と
なる。

だって
それが
本来の自分
だからね。

つづく

あなたの波長で

シンプルな
生き方を
していると、

それだけで
恐れられる
ことがある。

例えば、
私はただまっすぐに
その人を
見ているだけなのだが、

見透かされている
気がします

と、
恐れられて
しまう。

何の駆け引きも
なしに、
純粋にオープンに
自分の想いを
訥々と語るだけなのだが、

ついていけない
気がします

と、
腰を引かれて
しまう。

以前は
そういった場合、
自分を抑え
相手の「波長」に
合わせていたが、

もちろん
そういったことは
大切だが、

今はもう
やめた。

もう
そんなことを
している時間が
なくなってきた。

そのような仕方で
進む時代でも
なくなってきた。

・・・と
強く感じるから。

あるがままの
私を
そのままに
出す。

それによって
引く人は引く。

近づく人は
近づいてくる。

そういった意味では
私はもう
「コーチ」では
ないのだろう。

もう2年くらいも
前に、
「コーチ」で在り続ける
ことを
やめる、と決めた
からね。

本当に
その時以来、
その通りに
生きてきた。

おかげで
今は、
私が何の努力も
せずに
私との波長の合う
人達ばかりが
周りにいる。

非常に
楽だ。

こんなわがままな
生き方で
良いのだろうか、

思った時期もあったが、

今はあえて
堂々と
断言しよう。

それが必要な
時代だ、
と。

私だけじゃない。
みんな
そうではないか。

真本音を大切に
生きている人で
あるほどに。

自らの波長を
自ら 
捻じ曲げるのは
もうやめよう。

もっと
自然でいい。

怖いかも
しれないが、

そのように
生きてこそ、

あなたにしか
成せない
調和(=進化)が

成されるのでは
ないか。

つづく

手のメッセージ

もし心が
空白のまま
まったく
動かなくなったら、

何も言わず

何も考えず

ただ
手を動かして
みよう。

手は、
何かを語る
かもしれない。

勝手に動き、
何か
文字や文章を
書き始めるかも
しれない。

書いている
うちに

その「主語」が
わかってくる。

「主語」は
自分かもしれない。

自分以外の
誰かかも
しれない。

いずれにしても
それは
大切なメッセージだ。

心が空白
ということは、

心の表層を
覆っていたもの達が

一時的とは言え、

消えている状態
だ。

自らの心に
捕らわれず、

純粋な何かを
目の当たりに
できるかも
しれない。

そのメッセージ
とは
静かに対座
しよう。

静かに。

それだけで
いい。

つづく

スーッと!

スーッと
進む時が
ある。

あらゆる
ことが。

スーッと
何の躊躇も
障害もなく。

そんな時は
全身全霊の
力を抜こう。

成り行きに
任せよう。

こんな進み方を
してしまって
良いのだろうか?

という
実に人間らしい
疑問が湧くだろう。

疑問の心は
そのままに

でも
成り行きに
任せてしまおう。

そうして
私達は、

スーッと

次のステージに
進むのさ。

つづく

過去を!

過去を
超えていけ。

堂々と、

過去を
超えていけ。

過去は、
超えるために
ある。

過去は、
これまでの
土台だ。

その土台を
壊す勢いで。

その土台が
壊れることで

さらに
その下から

もっと頑丈な
土台が
姿を現す。

だから
過去の自分を
守ろうとは
するな。

守っても
意味がない。

が、しかし
しっかり
愛そう。

過去の自分と
向き合って

愛の目線で
向き合って。

それだけで
壊れる。

愛とは
壊すこと。

壊れることで
浮上する。

“本当”
が。

自分の
“本当”
を知ろう。

それが
勇気だ。

遊気だ。

過去を
超えていけ。

今こそ。

未来は
開かれている。

つづく

何か、来るものへの畏れ

海の向こうから
何かが
迫ってくる。

得体の知れない
何か。

その何かを
避けるように
生きてきた。

その何かが
来る前に
何とかしなければ
という焦りは
常にあった。

追い立てられる
ような日々。

誰にもその
畏れと焦りを
言うことはなかった。

第一、
言葉として上手く
表現できない。

ひょっとすると
この感覚は
人類共通の
ものかも知れない。

本当は皆、
同じものを
共有し、

それを
避けるように、

かつ、

準備を急ぐように
歴史を
重ねてきたのでは
ないか。

とすら
思うようになったのは
最近のことだ。

人間の
宿命か?

それとも
私個人の
宿命か?

それがよく
わからぬまま
私は今、
ここにいる。

行手の海は
大きく深い。

彼方どころか
目の前の
水面の下にすら

目は届かない。

そのような
自然の摂理と
向かい合わせで
我々は
生きているのだ。

謙虚に
ならざるを得ない。

私は私の
やることを
やる。

今日も
明日も。

それは
変わらない。

畏れと焦りは
まだ続く。

日々、
高まっている。

きっと
もうすぐ
なのだろう。

私は私の
人生と命を
かけて、

今ここに
魂を込める。

つづく

弱々しいが折れない

暗闇の中で
ある一点のみ、

スポットライト

明かりが
当たる。

そこに
小さな可愛らしい
花が一輪。

青紫色の
見たことのない
花。

弱々しい。

支えて
あげなければ、
すぐにでも
折れてしまいそう。

枯れて
しまいそう。

だからこれを
何としてでも
守らねば
ならない。

と、
訳もなく感じた
のが、
20年前。

その時から
何となく
わかっていた
のだが、

その花は、
私自身。

本来の私
そのものだ。

本来の私が
こんなにも
弱々しく
なっている。

もう一人では
存続し得ない
くらいに、と。

当時は
恐怖と共に
焦る気持ちを
抑えつつ、

いつもその花を
見つめるように
気をつけた。

もう
20年経った。

今もまだ
その花は
ある。

相変わらず
小さいし
弱々しい。

しかしもう
枯れることは
なく、

折れることも
ない。

それは
わかる。

もう、
守る必要も
ない。

ただ、
そこに
あるだけ。

この
弱々しさは
私の個性
なのだろう。

私はどこまで
いっても
私だった。

でも、
決して
折れない存在
だった。

今は
その花を
見つめるたびに

元気を
貰えるんだ。

つづく

ここで大事な問い

さぁ、
今回は
問いだ。

今このタイミングで
とても大事な
問い。

・・・

私は今、
何に操られている?

そこから
自由になるために、
毎日、何をする?

・・・

自由になるには、
習慣が必要だ。

自由は
一日にして
成らず。

つづく

心と体の力を抜こう

一回、
力を抜いて
ごらんよ。

まずは
体の力を
抜く。

横になり、
頭のてっぺんから
順に
足の爪先まで。

まるで地面に
自分の体が
吸い込まれて
しまうかのように。

体全体が
溶けてしまう
かのように。

自分が
自分であると
わからなくなる
くらいに
体の力を
抜く。

その上で
今度は
心の力を抜く。

心の力を抜く
ということは
無心になる
ということではない。

もちろん、
真本音度の高い人は
すぐに無心に
なれる。

でもほとんどの
人の場合は、

心の力を抜けば、
これまで
抑えつけていた
あらゆる心達が
解放されて、

心の中は
実に騒がしくなる。

それでいい。

騒がしいままに
しておけばいい。

見たくもない
気持ち、

知りたくもない
想いなど、

出てきてしまう
だろう。

でも
それでいい。

こういったことも
ちゃんと
毎日やろう。

毎日やれば
まるで
感冒薬を飲み続けた
ように、

心と体が
本質的に
元気になってくる。

失われた
エネルギーが
戻ってくるよ。

我々現代人は、
力を
入れ過ぎだ。

余分な力を
ずっとかけながら
生きるから
疲れてしまう。

力を抜く、
ということを
意識的意図的に
行わないと、

この時代は
生きていけないよ。

つづく

健康な日々のために

心の中に
しこりのような
黒い物体が
ないかい?

場合によっては
心のあちこちに。

それらは
解消されない
自分の念。

もしくは、

人からもらって
しまった念
の場合もある。

いずれにしても
そのまま
にしていては
キツい。

私の場合は、
一日の終わりに
それらの物体は
すべて
解消する。

綺麗さっぱり
解消してから
睡眠に入る。

それをしなければ
睡眠の質が
極度に悪くなるし、

寝つきも
目覚めも
良くない。

目覚めが
良くないということは、
次の日の
その一日全体に
影響を及ぼして
しまう。

一日一日
しっかり丁寧に、

心の中を
整える。

その生き方に
よって
人生のハンドルを
握ることが
できるようになる。

自分の意思が
出やすくなるし、

自分の意思で
動きやすくなる。

しこりの解消の
ために
やることは
ただ一つ。

存在承認だ。

その黒い物体達
一つ一つを
丁寧に
見つめる。

その物体の
一つ一つが
何を訴えているのか。

何を望んでいるのか。

何を嘆いているのか。

それらを、
「知る」。

知る
だけでいい。

知ったら、
愛す。

「愛す」
と言っても、
労わりの目線を
向けるだけだ。

あまりに強い
しこりは、
心の中で
ハグをする感じに
した方が良いかも
しれないが、

ほとんどは
そこまでの必要は
ない。

自分の真摯な
目線を
誠実に
それに向けるだけ。

それだけで、

たちは、
成仏する。

長年、
それらを溜めてしまうと、
病気になる。

心か体の
どちらかを
壊すことになる。

だから、
一日一日
丁寧に。

健康な日々を
生きるために。

つづく

フラフラでいいだろ

やじろべえ
のように
フラフラ
ゆらゆら
している。

微妙で
絶妙な
バランスで。

ほんの僅かな
風で
崩れてしまいそうな
バランスで。

でも
実は決して
崩れない。

フラフラ
ゆらゆら
しながらも、

ずっとそこに
いるのが
摂理。

なぜなら
それは
「すべて」と
一体だから。

そのフラフラ
ゆらゆら
それ自体が、

世界そのもの
だから。

脆弱に
見えて、

実は
完全に
安定している。

それが
本来の
「人間」
の姿さ。

本来の
「あなた」
の姿さ。

フラフラ
ゆらゆら

柔軟性さ。

フラフラ
ゆらゆら
するように
人間はできている
のさ。

だから、
フラフラ
ゆらゆら

なくそう、
直そう、
などとはしなくて
いい。

それよりも
世界と一つに
なれる
生き方、

自分の本来の
生き方を
すればいい。

つづく

真の仲間は誰?

あなたと
共に
進む人は誰?

形の上
だけじゃないよ。

本質的に、
だ。

実在の
レベルでも

あなたの隣に
いつもいて、

あなたの周りに
いつもいて、

いつも同じ
方向を見つめ、

いつも同じ
志で語りかける。

あなたに
語りかけ
続けている。

あなたが
転べば、
じっと見守って
待っていてくれる。

あなたが
急加速すれば、
同じようなペースで
急加速する。

あなたが
自由に
自分の望むペースで
進むのを

一切、
阻害しない。

自由に進む
あなたと、

共に
いつも進んでいる。

それは
誰だ?

それこそ
真の仲間
ではないか。

つづく

向かい風と共に

風は
感じるだろうか?

風は
多くは
向かい風だ。

前方から
私達の方に
吹いてくる。

逆風と言えば
逆風だ。

でも、
それが
爽快ではないか。

顔に吹き寄せる
風を
感じながら、

その気持ちよさ
に浸りながら

私達は
進み続ける。

もし
追い風だと
したら、

人生は
つまらない

思わないか?

自力で進んだ
実感は
極度に減るだろう。

私達は
自力で進みたい
生き物だ。

もちろん
独りよがりという
意味ではなく。

向かい風の
中で、
皆で協力し合い、

人間として

人間の
自力として

進みたい。
それが
私達だ。

風を
楽しもう。

その爽快さを
あるがままに
感じながら。

向かい風は
気持ちよいのだ。

つづく

途中までしか見えない

どんなに広く
しっかりした

しかも
まっすぐな

一本道だと
しても、

私達はその道の
途中までしか
見ることはできない。

ひょっとすると
ほんの
2〜3mとか、

次の一歩くらいの
距離とか、

それくらいしか
見ることが
できない。

その道が
真本音の道で
あればあるほど。

なぜなら
その道は、

自己進化の
道だから。

進化の過程、
今の自分の
レベルで
見えるところまでは
見える。

でもその先は、
自分が
進化度合いを
高めなければ
決して見えないように、

自分で
決めている

わけだ。

ここまで
成長できたら
ここまで
わかるように
しよう。

ここまで
準備できたら
ここまで
見えるように
しよう。

これが
私達が自らに
設定している
人生の進み方だ。

だから、
見えなくて
当然。

ただし、
どれだけ
見えなかったと
しても、

今進むこの
一歩が、

その一本道を
進む一歩かどうか
は、
判別がつく
はずだ。
真本音で生きて
いるならば。

だから、
見える範囲で
人生を
楽しもう。

未来の
わからなさ

楽しもう。

この先に
何があるのか?

未知に向かう
からこそ
この人生には
意味がある。

価値がある。

つづく

今日も驚いた

驚愕の
直後の

静寂。

・・・どうも
言葉にすると
大袈裟に
聴こえる。

でも
こういう表現しか
思いつかない。

私達が
普段の何気ない
生活の中で
為していることは、

実はそれに近い
出来事は
たくさんある。

よーく観察
してみると
いい。

こんなはずは
ない。

なぜ
こんなことが
起こり得るのか?

という現象に
それは
満ちている。

本当の
驚きは、

直後に
静寂がくる
ものだ。

我を忘れる
からこその
静寂。

それは
次元が高まり
その現象と
「一つ」
となっている証。

私達は
「一つ」に何度も
なりながら、

自分自身が
ここにいることを
確認
し続けている。

何度も何度も。

でなきゃ、
ここ
には居られない
のだ、
私達は。

もっと
世界を観察
するといい。

日常を
観察するといい。

それは
驚愕に
満ちている。

つづく

初めての自然体

自分自身が
ずっと
育んできたものを、

例えば、
「自分自身」
を、

意味がなかった

感じてしまうことは

人として
辛いことだろう。

でも、
実はずっと
自分自身が一番
それをよく
わかっていた。

その事実を
見れなかっただけだ。

目を逸らし
続けた。

だから
あらゆることに
おいて、

力み(りきみ)

が生じた。

不自然な力が
常に
入っていた。

その不自然さが、
人との関係を
不自然にした。

不自然な
人間関係しか
つくれない人は、

とても疲れる。

いつの間にか
人生に
疲れてしまった。

慢性的に
漠然と、
疲れてしまった。

だから
病気になった。

体が
ひどいことに
なった。

ひょっとして
自分は
死んでしまうかも
しれない、と

不安になる
一方で、
もうすぐ人生を
終えるかもしれない
という
安堵感も
本当は、あった。

もう、
どうでも
よくなった。

あとは
落ちていく
だけ。

堕ちて
いくだけ。

・・・だった
はずなのに、

突如として
自分の奥の方で

が生まれた。

それを感じた
時、
正直、最初は、

面倒臭いな

と思った。

このまま
堕ちていければ
楽だったのに、
と、
何者かを
恨んだ。

が、
実はこれも最初から
わかっていたこと。

その光は
一度、生まれて
しまえば、

あとは
大きくなるしか
ない。

なぜならそれは
私自身だから。

私が本当に
育んできたのは、
この

だったのだから。

しょうがない。

生き直すか。

・・・と、

覚悟を決めた
その人。

私の前のその人は
初めて
私の前で
自然体となった。

つづく

もうタイミングだろう

自己開放
すると、

人はこんなにも
安定できるのか、

今更ながらに
驚く。

「本来の自分」
という表現を
私はよく使うが、

「本来の自分」
というのは、
誰もが根っから
安定している。

大地に
根を張っている。

しかも
自由自在に
飛び回ることも
できる。

私は私。

周りの環境が
どうなろうとも、
状況が
どうなろうとも、

私は私だ、
と。

もちろん
良い意味でね。

意固地でも
何でもなく、

私でいることを
ちゃんと自分が
守れる。

しかも、

周りとの
繋がり感と
一体感が

当たり前のように
ある。

孤独は
消える。

煩わしさも
消える。

平穏無事
というよりも、

常に進み続ける
爽快さがある。

言葉にすれば
そのような感じに
なるのだが、

すべて感覚的な
ものなので、
表現はし切れない。

ただ、

あぁ私だ。

という
悦びで常に
満たされている。

そんな人の
目は、

疲れた私を
癒してくれる。

最近は、
毎日、癒されて
幸せだ。

人は、
意図を持たなくても、

本来の自分で
ありさえすれば、

周りに
力を与えたり、

疲れを
癒したり、

時には
心を救ったり

することも
できるんだ。

あなたも
自己開放の準備は
とっくに
整っているのではないか。

つづく