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仕事と家庭で
ボロボロになって
しまっている
ある社員さんが
いる。
状況は何も
変わっていない
のに、
ある日、
急にその人は
輝き始めた。
一つ一つの
言葉が
スーッと私に
伝わってくる。
どうしたの?
と
訊くと、
何がですか?
と。
どうやら本人は
自分の変化に
気づいていないようだ。
だいぶ
変化したように
思うけど・・・?
そうですね。
よくわかりませんが。
私もそう思います。
・・・その瞬間に
わかった。
その人は
自分の人生を
引き受けたのだ。
この現実は
私のものだ、と。
この現実が
私の人生だ、と。
追い詰められて
追い詰められて
ついに
覚悟を持った。
その迫力。
本人には
自覚されないが。
でもこれこそが
道を開いて
行くのだな、と、
改めて
実感。
つづく
いろいろ
言いたいが、
今のあなたに
本当に
伝えたいことは
たった
一つだ。
ここから
どんな現実が
目の前に来ても、
決して
目を逸らすな。
何があっても
何もできなくても
向き合い
続けろ。
・・・
20年前の
私に
真本音の
私が
強く
語りかけた
こと。
そこだけは
守ったな。
だから
今、ここに
いる。
20年間、
守り続けた
こと。
つづく
挑戦しよう!
という意志が
またそこかしこに
溢れてきている。
どんどん皆が
動き始めている。
それ自体は
とても良いことだ。
挑戦というのは、
自分のこれまでの
限界を超える
ための行為だ。
だから
これまでと同じことを
同じ範疇でしていても
意味はない。
しかしその
「限界を超える限度」
がある。
その境界線
ギリギリのところまで
挑戦して、
それ以上になりそうなら
スッと引く。
・・・これはとても
大事なことだ。
上手く行くために
そうしよう、
ということではない。
その挑戦を
本当に実りのあるもの
にするためだ。
境界を越えて
しまえば、
それは単なる
「無謀」となる。
そういった意味で、
「挑戦」とは
明らかに「闇雲」とは
違う。
「勢い」だけで
行なうことでは
ない。
「挑戦」には
ちょっと離れたところ
から
じっと自分自身を
観察する目が
必要だ。
だから、
本当に覚悟を持って
真本音で
挑戦をしようと
する人は、
とても心が
クリアになる。
限界を超える
が故に
これまで観えなかった
ものが
観えるようになる。
自分の情熱を
じっと観察する
自分が
常にいる。
それは
頭の冷静さとは
まったく本質的に
異なるものだ。
「ここまではいい」
でも
「ここからはダメだ」
と
瞬時にわかる。
そこが境界線だ。
挑戦の限度
だ。
もう一度言うが、
上手くやるために
これをするのでは
ない。
そして、
本当にそういった
「挑戦」のできている
人は一方で、
自分自身の恐怖心も
観えている。
自分がいかに
怖がっているか、も
ありありと
わかる。
そしてそれを
消そうとはしない。
怖さを感じながらも
進む。
怖さを克服する
というよりも、
怖さと共に
進む。
自分の弱さと
共に進む。
これが
「挑戦」だ。
だから
怖いのは当たり前。
怖くなければ
それは
「挑戦」ではない。
つづく
今日、
長男と
ある田舎を一緒に
歩いていた。
空は晴れ渡り
風が
とても気持ちよかったな。
こんなに
気持ちいい風が
あるんだ、
と
びっくりしたな。
その時、
一瞬
ある「祈り」が
私の頭をかすめた。
その一瞬を
見逃さず、
私はその「祈り」を
捕まえた。
私は何を
祈ったか?
それは
具体的なある人の
ある、具体的な
未来だった。
あぁ本当に
そうなるといいな、
と
思ったら、
それをずっと
強烈に
祈り続けている
自分が
いたことを、
その時に
知った。
そして次の
瞬間に、
私は開放
された。
ある「枠」が
サーッと
風と共に
洗い流されて
いた。
人間というのは
面白くて、
「枠」が
消え去って初めて
自分が「枠」の
中にいたことを
知るんだ。
私は大空に
舞い上がるような
感覚があった。
そして
あの、
理念が来た。
それは
明確な一つの
言葉。
その言葉を
しっかり
認識した時に、
最初に思ったのは、
あーここに
たどり着くまでに
54年も
かかってしまった。
ということ。
と同時に
私のこれまでの
54年の人生の
意味が、
これまでとは
さらに
次元の異なる
深さで、
明確に
わかったことだ。
きっと
そうは言っても
私には
まだまだ「枠」がある。
これからも
それを一つずつ
洗い流して
行くのだろうが、
しかし今回のは
ちょっと
大きい。
特にこの3年間は
独特の
苦しみがあったが、
なるほど
この「枠」を
超えるためだったか。
自分がやっている
ことは、
自分では本当に
わからんものだ。
私達はやはり
意図を超えた
ところで
自分の人生を
コントロール
している。
その自分自身の
流れに
委ねることだ
と、
それがちゃんと
できたんだな、
と、
自分を褒めて
やったよ。
風の中で。
つづく
落ち着け、
落ち着け、
と
何度自分に
言い聞かせても
落ち着けない
時がある。
そんな時
私は、
次の二つのどちらだろうか?
と区別する。
本当に
落ち着きたいのに
落ち着けないだけの
悪い心の状態に
なってしまって
いるのか?
それとも
実はこの
落ち着かない状態
こそを
今の私は真本音で
望んでいるのか?
・・・の
どちらだろうか、と。
前者であれば、
私はいったん
自分のやろうとしている
ことを
すべてストップして、
「何もしない」
時間を創る。
これこそが
最優先だ。
これをして
本当にクリアに
物事が観えるように
なってから、
もう一度
歩みを始める。
落ち着かないまま
進めば進むほど、
結果的には
あらゆる混乱が起き、
すべてが遅延する。
それなら
いったん止まって
ちゃんと進み直した
方がいい。
後者の場合、
私は思いっきり
落ち着かない状態
のまま
進む。
闇雲に
進んでしまう。
なぜならその
「闇雲さ」こそを
私は真本音で
望んでいるからだ。
もちろん
そんなことをすれば
いろんなことに
ゴツゴツと
ぶつかるだろう。
痛いだろう。
しかしその痛みを
経験を
真本音で望んでいる
わけだ。
なら、
ちゃんと痛いことを
やる。
今この痛みを
味わっておかないと、
きっと
未来の自分が
本当に困るから。
いずれにしても
最初にする
区別が重要だ。
似て非なるもの。
表面的には
同じ落ち着きなさも
本質は
随分と違うものだ。
つづく
使命。
命の
使い方。
自分は
自分の人生で
何のために
どのようにして
自分の命を
使って行くか?
自分は
社会において
どのような役割を
自分で
果たしていくか?
それらの
答えは
皆、全員、
自分自身で
決めている。
真本音で
決めている。
ところが
それが
わからない。
見えない。
なぜなら、
準備ができて
いないからだ。
自分で決めた
使命に
自分で気づくには
「準備完了」
と
自分自身が
自分に
OK!
を出さねば
ならない。
しかし、
OK!
さえ出れば、
それは
一気に
浮上する。
側からよく
人を観察
していると、
それがよく
わかる。
あっ、今この人
使命が
浮上したな、
と。
今日も、
ある人のコーチングで
それが
起きた。
その人の中で
一気に使命が
浮上したのが
ありありとわかった。
でも私は
それを言わない。
心の中で
密かに
その人を祝福する
のみ。
ここまで来たら
コーチが
サポートしては
ならない。
使命とは
自分で見つける
もの。
自分で
顕在化するもの。
あとは
楽しみながら
見守るだけ。
もうすぐだ。
コーチとしての
至福の時。
つづく
自分の中が
空っぽだな。
と
感じる時は
チャンスである。
それは
心が完全に
満ちている状態
だから。
「空っぽ」
とは、
焦点のない状態。
「すべて」が
あるがまま
の状態。
それは
「無」とは
真逆のものだ。
だからもし
「空っぽ」になれたら、
あらゆる創造性の
源になれる、
そんな自分の状態に
あるということだ。
だから
恐れる必要は
ない。
「空っぽ」を
楽しめばいい。
「創造も何も、
まったく発想が
浮かんでこないのですが・・・」
と
言われることが
ある。
それはまだ
発想が浮かび上がる
タイミングではない、
という
だけのことだ。
焦る必要は
ない。
「泰然と待つ」。
「空っぽ」の人に
お勧めの
在り方だ。
もし
「空っぽ」の中に
一点が
見つかったら、
その一点
のみに
集中しよう。
他には
脇目も振らず、
その一点を
徹底的に
追求・探求しよう。
・・・
もう一つ
面白いのは、
そんな「空っぽ」の
自分を
いろんな人に
触れさせることだ。
いろんな人からの
刺激を受けることで
思いもよらぬ方向に
創造性が発揮される
ケースは多い。
もしくは、
「空っぽ」の自分
だからこそ、
周りのいろんな人に
深いレベルの
刺激を与えることも
できる。
もちろんこれは
無意識に、だ。
自分自身に
とっても
周りの人に
とっても
「空っぽ」の自分は
面白い。
だから「空っぽ」を
楽しもう。
つづく
自分の魅力は
自分では
わからないもんだ。
自分の個性を
真逆に
捉えている人も
結構、多い。
昔々、
ある人から、
「竹内さんは
笑顔よりも真剣な顔
の方がいい」
と
言われたことがある。
へぇ、そうなんだ、
と
びっくりした。
それまでは
とにかく笑顔でいよう
とし続けていた。
そこから
無理な笑顔は
やめることにした。
自分が周りに
どのように映っているか?
は本当に
わからないものだ。
実は最近、
・・・というか
もう一年くらいに
なるか、
私は「サーベイ」を
やっている。
ビジネスパートナー
と共に
「竹内が直接、
人に会わなくても
その人の本質的な
魅力や能力や強みを
見つけ、
その人に書面を通じて
メッセージする」
という
コンセプトで始めた。
実は、
構想の始まりは
5年前。
時々、中断しながらも
ずっと開発を
続け、
数十社で
モニタリングもし、
大変、ご好評を
いただいた。
28問の問いに
お答えいただき、
そのデータに基づいて
私が分析し、
一件一件丁寧に
レポートを書く。
またそのうちに
このブログでも
正式な案内なども
しようかと
思うが、
これが実に
楽しい。
お会いして
いないのに、
その人がまるで
目の前にいるような
感じがするのだ。
もちろん
サーベイをした上で、
研修やコーチングに入る、
という企業様も
ある。
サーベイをして
その人の人物像が
ありありとわかった上で、
実際にご本人と
お会いすると、
サーベイでの印象
そのものなので、
思わず笑って
しまったりもする。
メッセージを
すでにお伝えした
上での
研修・コーチングなので、
これがまた
実に
楽しい場になる。
これはちょっと
本腰を入れて
広げていこうと
思っている。
おかげさまで
いろんな方々からの
お声をいただきながら、
サーベイの種類も
増えた。
私は分析者
であるが、
本質は「コーチ」と
何も変わらない。
一つの狙い
であり
願いは、
自分の魅力は
まずは
自分が知ろう。
・・・である。
自分を見損なったり
見誤ったりするのは
もったいないよね。
つづく
問い一つ。
『今、目の前に
ある、
そのモヤモヤの
向こう側には
何がある?』
モヤモヤとは、
漠然と
モヤモヤしている
だけでは
解決しない。
モヤモヤは
しっかりと
見つめる必要が
ある。
それが
何となく薄〜く
存在するもの
だとしても。
いや、
実はそういった
モヤモヤの方が
根が深いケースは
多い。
モヤモヤを
ちゃんと
見つめる。
そして
その中に入り、
ちゃんと
感じる。
モヤモヤを
感じ切ろう
とする。
全身で
感じ切ろう
とする。
そこまですると
ようやく
その向こう側が
観えて来る。
出口が
わかるのだ。
そこで初めて
モヤモヤの
真の意味が
わかる。
モヤモヤとは
新たな世界への
入り口に
大抵は
あるものだから。
つづく
ここは
無理をしては
いけないな、
と
ここは
頑張って
限界を超えてやろう、
と。
この二つの区別が
つくといいな。
人はよく、
頑張るべきところ
を見誤る。
例えば、
頑張るべき物事、
対象、目的などを
見誤る。
頑張るべき課題、
問題点を
見誤る。
頑張るべき場所、
環境を
見誤る。
頑張るべき時間、
タイミングを
見誤る。
・・・見誤って
ばかりだ。
真本音で
生きよう。
自分の本当の
真本音の
願い。
それを常に
心の中心に
置き、
願いに基づいた
毎日を
送ろう。
できるところから
でも。
それをする以外に、
頑張るべきものを
区別する力は
決して
養われない。
真本音度を
高めるという
ことは、
どこで頑張れば
良いか?
が
判別できるように
なる
ということだ。
もちろん
一般的な判別
ではない。
答えは
自分にしか
ないのだから。
自分の人生の
答えは、ね。
つづく
心の中に
実在する
「高原」
を見つけよう。
それは
誰にでも
ある。
非常に気持ち良い
風の吹く
広々とした
高原だ。
青空が
広がり、
暑くも寒くも
ない
暖かな日差し。
静かに揺れる
お花達。
ところどころ、
木々もある。
遠くまで
見渡すことが
でき、
自分自身も
心身ともに
広々と
開放される。
そんな
高原。
心の中に
それを見つけたら、
その中に
どっぷりと
入り、
その大地に
大の字になって
休もう。
日差しに
全身を包まれ、
そして
大地からは
地熱を感じさせる
ような
パワーが
やさしく伝わってくる。
私の場合、
椅子に座ったままで
それをするが、
そのまま数分
ウトウトと
眠ってしまうことも
ある。
それでいい。
慣れれば、
立っていても
外を歩いていても
これができる。
これをすれば、
「自分」
が戻ってくる。
地に足のついた
自分が。
何かが
とても落ち着き、
何かが
シャンとする。
その状態で
物事の発想を
する。
「高原」は
イメージで
創り出すのでは
ない。
もう最初から
自分の中に
存在するもの。
実在するもの。
それを
「見つけ出そう」。
つづく
今日はまた
重要な問いを。
次の二つ。
直観的な
答えを
見つけよう。
・・・
今のあなたの
視野を
30倍に広げると、
今のあなたの
やろうとしていることは
どう見える?
そして、
あなたは自分の
何を変えたい?
・・・
理屈じゃなく
直観でね。
浮かんだ発想は
大事にしよう。
つづく
未知の領域に
いるということは、
「未知」なだけに
わからないこと
だらけだ。
「わからない」
が
普通であり、
通常状態
だ。
だから、
「わからない」まま
進むしかない。
「わからない」のに
進む、
のではなく
「わからない」
からこそ
進む。
同じ場所で
迷っていても
答えは永久に
見つからない。
答えのわかる
場所まで
移動し続ける
しかない。
もちろん
その場所の見当すら
つかないケースが
ほとんだろう。
だったら
直観に従う
しかない。
私達がこれまで
ずっと
直観力を鍛えて
きたのは、
この時の
ためだ。
未知の領域に
おいて
進み続ける
ためだ。
どうせぶつかる
なら
良いぶつかり方
をしたい。
どうせ転ぶなら
良い転び方
をしたい。
そのための
直観だ。
良い試行錯誤の
ための
直観であり、
上手くいくための
直観ではない
ということを
肝に銘じておこう。
もちろん、
わかることも
ある。
それは
「道はできる」
ということだ。
私達が進む
限り、
道は
できていく。
つづく
豪雨に見える
状況も、
実は
自分が創り出している
幻影に過ぎない。
しかしそれを
幻影である、
と認識しても
何の意味もない。
それは
現実だ。
幻影だろうが
実在だろうが
そこにあるのだから
すべては
現実だ。
そう捉えて
真摯に向かう
しかない。
幻影の痛みは
幻影だが、
でも実際に
痛むのだから
しょうがないだろう。
痛くない、
なんて思い込む
必要はない。
むしろ、
痛い痛い!と
泣き叫べばいい。
痛いものを
痛いと
ちゃんと感じるから、
私達は
ちゃんと進めるのだ。
雨は雨。
晴れは晴れ。
一つ一つ
丁寧に
噛み締めながら
進もう。
都合の良いこと
のみを受け入れ、
都合の良くないこと
からは逃げる。
そんな生き方
だからこそ、
エネルギーは
減退し、
虚しさは
増し続け、
ついには
何の気力も
出ないようになる。
雨が降っている
から
気力がなくなる
のではない。
逃げ続けるから
気力が
削がれている
わけだ。
今、
豪雨に立つ
人は多い。
豪雨であると
ちゃんと
認めることだ。
そして
雨粒に向かって
顔を上げよ。
雨は私達を
殺しはしない。
風邪はひく
かも知れないが、
結局はそれで
鍛えられる。
豪雨を
楽しめる自分に
なってゆく。
限界を超える
感覚がすると、
ついつい
逃げたくなるが、
逃げたくなる
心も
そのままに。
逃げたいよー!
と叫びながら、
進めばいい。
今の私達には
進む選択しか
ないのだから。
つづく
自分で
コントロールしよう
とするから
余分な力が
入る。
自分の
コントロールを
諦める。
すると、
途端にすべてが
進み始める。
それが
結果的には
大きな視点での
自己コントロールと
なる。
未知の領域の
進み方とは
そのようなものだ。
もともと
始めから
自分の範疇は
超えているのだ。
これまでの
自分では
対処できない世界に
今、いるわけだ。
これまでの
経験は
意味を成さない
どころか、
望むものと
真逆の効果を出す
ことさえあるだろう。
その点、
経験のまだ少ない
若者の方が
簡単だろう。
しかし、
年齢を重ねた人は
もう
未知の領域を
進むのは無理だ、
とは
言わないでくれ。
人生は、
そんな寂しいもの
ではないだろう。
よく言われること
だが、
人の創造性は
どれだけ年齢を
重ねても、
伸び続ける
ものだ。
それを
自分の意志で
発揮させるかどうか
だけの違いだ。
これまでの
人生は、
未知の領域に
突入できる自分に
なるための
準備期間。
その準備に
長い年月をかけ、
コツコツと
自分の土台を
育ててきた。
しかしその
土台は、
あなたの考えている
土台ではない。
そんな浅い
ものではない。
あなたの土台は
もっと深くに
ある。
それは
あなた自身には
認識し得ないものだ。
しかしそれを
あなたは
着実に育ててきた。
その
真の土台を
活かすためには、
あなたが今、
土台であると
思っているそれを
手放すことだ。
それが
これまでの自分を
超えるということ。
未知の領域の
進み方だ。
つづく
心の中に
嵐が荒れ狂うと
私は
やった!
と
喜ぶ。
なぜなら
大事な気づきを
得る前兆だからだ。
問いにもならない
気づき
というのが
ある。
本来は
気づきの前には
問いが浮かぶ。
問いを明確に
した上で
答えを見つけるのが
気づき
の基本だ。
しかし今は
超加速の
真っ只中。
問いを待っている
時間がない
こともある。
その場合、
問いを
すっ飛ばす。
そして
嵐が来る。
心全体が
竜巻に呑み込まれた
ようだ。
我を失う。
だが
それでいい。
それくらいで
ないと
たどり着けない。
私は
嵐に身を任す。
まったく
抗わない。
多少、痛いが
飛ばされるところへ
素直に
飛ばされる。
時には
全身が苦痛で
悲鳴を上げることも
ある。
それでも
構わない。
抗わない。
すると、
暗い嵐の中に
一点の光が
現れる。
現れても
そこには
行かない。
意図は
持たない。
光が
来てくれるのを
待つ。
追えば
逃げる。
嵐の中だが、
静かに
待つ。
泰然として
待つ。
すると
ある瞬間に
フッと光は
目の前に現れる。
私はその中に
吸い込まれる。
そして、
気づき
を得る。
問いをすっ飛ばす
気づきなので、
何についての
ことなのか、
さっぱり
わからない。
わからないが、
やはり
何も解釈せずに
素直に受け取る。
何かが
ストンと
肚に落ちる。
そして私は
根本的指針を
得る。
後でゆっくり
セルフコーチングして
それを言語化するが、
その前にもう
私は
動いている。
そして
動きながら
気づきの意味を、
内容を
知るのだ。
刺激的だろ?
他の人も
こういうこと
やってる人は
いるのかな。
もしくは、
こういうこと
やれるように
なりたい人は
いるのかな。
つづく
急成長を
したり、
超加速を
する人は、
もちろん
ゆとりがない。
しかも
無駄なことを
たくさんする。
当たり前だろう。
未知の領域に
進んでいる
のだから。
ゴツゴツと
壁にぶつかったり、
自ら転んだり。
満身創痍。
当たり前だ。
それだけ
真剣だということだ。
上手く進もう
と
考え過ぎるよりも、
自分らしく
自分の生き方を
大切にしたい!
と
望めばいい。
どうせ
上手くいくはず
ないのだから。
もっと言えば、
ここで
上手くいってしまえば、
どう考えても
後々、もっと苦労する
ことになる。
上手くいく
=逃げている証拠
くらいに
今は思っておけば
ちょうどいいくらいだ。
しかし、
私も人間だ。
側から見ていれば、
ついつい
手を差し伸べたく
なる。
そこをグッと
我慢して、
「見守る」
ことに徹する。
これが
最善最大のサポート。
サポートする側の
人間は、
これができるかどうか
で
本当のサポートが
できるかどうかが
決まる。
これもまた
大変なことだ。
いずれにしても
今は皆、
大変だ。
当たり前だろう。
未知の領域に
進んでいる
のだから。
つづく
今、
不安に
苛まれている人が
多い。
いつもは
安定した生き方が
できているのに。
不安には
二つある。
反応本音レベルの
不安と、
真本音レベルの
不安だ。
真本音そのものが
不安になる
わけではない。
しかし、
真本音がわざと
自分を「不安」の中に
ぶち込む。
自らの反応本音と
手を組み、
不安の反応本音の
中に
自分をぶち込んで、
出れなく
する。
わざと。
もちろん
理由がある。
理由は
単純。
大きな脱皮を
するためだ。
羽化
と言ってもいい。
自分を
「変態」させる
大事なステップだ。
人は
不安にならなければ
なかなか
自分を失うことは
ない。
もちろん
不安以外にも
様々な手段は
とれるが、
変な表現だが、
不安が最も
お手軽で
効果的・効率的だ。
何も事件が
起こらないのに、
勝手に
自分を失うことが
できるからだ。
自分を失わねば、
脱皮は
できない。
これまでの
自分の範疇に
いるうちは、
決して
自分を超えることは
ないからだ。
今、
とてつもなく
不安な人へ。
その不安に
具体的な理由が
あるか、
ないか、
は関係ない。
いかなる理由から
くる
不安であっても、
もし
これまで経験した
ことのないような
巨大な不安で
あって、
かつ
自分を完全に
失ってしまっている
ようなら、
あきらめよ。
不安から
逃げることを
あきらめるんだ。
その不安を
徹底的に
浴び続けよう。
もちろん
その辛さ苦しさは
私もよく
わかっている。
そんな簡単な
ことではない。
私は何度も
逃げたし、
何度も
乗り越えたことも
ある。
だから
強く言う。
最後まで
その不安、
浴びよ。
徹底的に。
自分の進化の
ために。
つづく
今回は二つの問いを
投げよう。
今、このタイミングで
しっかり考えよう。
・・・
これまでの私の
最大の悔しさとは?
それは、
何をもたらす
ためのもの?
・・・
実はこの問いは、
あまり頭で
考えない方がいい。
思考で答えを
出すことで
ズレた答えを導き出し、
せっかくの「悔恨」が
本来の意味を
成さなくなる可能性の
方が
圧倒的に大きいから。
私達人間は
自分に都合の良い
思考をするのよ。
悔しさから
自分を
救い出すために。
だから通常は、
私は
悔恨は悔恨のまま
あるがまま
しっかりとそれを
感じ続けることを
お勧めするのだが、
しかし、
今は特別。
今は、一気に
次のステージに
進もうとしている人が
多い。
上記の問いを
しっかり考えた上で、
その後、
本質的答えが
直観として浮かび上がる
可能性は高い。
そう。
しっかり考えながらも
本当の答えは
直観を待とう。
その前提のもとで、
上記の問いと
しっかり
向かい合ってみよう。
つづく
気持ちのよい
風の中に
立っていると、
風の感触のみに
意識を奪われ、
周りの景色が
目に映らなくなる。
風と共に
私自身も
空に舞い上がっていく
気になる。
この
体という制限が
もしなくなれば、
どれだけ自由に
なるだろう。
どれだけ
遠くに
行けるだろう。
自分自身に
問うてみる。
私は今、
何に縛られている?
いつの間にか
何を前提にして
すべてを発想している?
私が今
立っているこの
地面は、
土台は、
本当に今の私に
必要なものか?
もっと
心を解き放ち、
魂を解き放ったら、
本当は私は
何をしたい?
本当は
何者として
進みたい?
以上の問いを
あなたにも
プレゼントしよう。
ステージが
変われば、
前提が変わる。
あなたのこれまでの
前提は
もう、
前提ではないのだよ。
つづく
人生には
決断をしなければ
ならない時が
ある。
その決断とは
もちろん
その人自身が
しなければ
意味がない。
決断の瞬間から
逃げてしまう。
・・・それによって
人生の混乱は
始まる。
当たり前の
ことだが、
自分の人生の
最終意志決定者は
自分自身だ。
誰かにそれを
譲ろうとしても
そうはいかない。
他者から
いかなる影響を
受けようとも、
自分が決めた
その選択は
自分のものだ。
だからこそ、
ちゃんと
自分と向き合い、
自分の人生と
向き合い、
自らの意志で
決めなければ
ならない。
これができない
ことで、
命を落とすことすら、
人には
あるのだ。
昨日と今日。
私のクライアントさん
3人が、
人生(そしてビジネス)の
大決断を
された。
無上の
喜び。
つづく
一見、
混乱としか思えない
状況の中でこそ、
生まれ出づる
ものがある。
激流に
呑み込まれながらも
その中に
動かぬ静かな
光がある。
さっきまでは
確かに
なかった光。
今、ここで
生まれ出た
もの。
それは、
残念ながら
激流の中でしか
生まれない。
だからこそ
私達は
わざと激流に
身を投げることが
ある。
もしくは
激流を自ら
創り出すことさえ。
激流は
我を失う。
わけが
わからなくなる。
諦めそうに
なる。
そして
諦めるとか
諦めないとか
それすらも
わからなくなった
その時に、
それは
生まれる。
その光を
観ると、
たとえそこに
我を忘れた自分が
いたとしても、
激流のまま
だとしても、
とても静かに
なる。
とても静かに
その光を
両掌で
そっと掬い上げる。
掌の中の
光。
激流の中で
涙する。
そして
私達は
生まれ変わるのだ。
新たなステージを
始めるのだ。
私自身が
そうだったし、
そこに立ち会うのが、
私の仕事だ。
光は
すぐ目の前に
あるんだよ。
つづく
また卵が
割れる。
いったい何度
殻を破れば
気が済むのか。
そう思い、
半ば飽きれながらも
ニンマリする。
本当は
一つずつ破っていく
殻なのに、
3つくらい
一気に
爆発させる。
そんな進み方を
しようと
している。
今、
私のクライアントさん
とか
ビジネスパートナー達
は
そんな状態だ。
どうせ
一気に進むなら、
中途半端な
迷いは
横に置いて
とことん
真一文字に
進んでほしいな。
そう私は
願っている。
まぁとはいえ
かく言う私も
似たようなものか。
ひょっとすると
ここからは
人生最大の
超加速かもしれない。
つづく
何も見えない
ことは
怖いかもしれないが、
恐れることは
ない。
何も見えないことを
楽しめる
自分になろう。
何も見えなくても
わずかな
「感覚」
を
捕らえる。
自分の行きたい
方向は
こっちの方だと。
わずかでいい。
「こっちではないな」
と何となく
わかるだけでもいい。
何となく
違和感がある。
何となく
モヤモヤする。
何となく
抵抗感がある。
何となく
悪い意味の怖さ
がある。
何となく
変な疲弊感が
ある。
何となく
狭まる感じがする。
・・・等々、
わずかなその
進めない感じ、
それを
掴めばいい。
それがあるなら
そちらに
行かず、
それらを感じない
方向に進む。
何も見えなくても
いい。
見えないことを
楽しみながら。
一歩進む。
次の一歩を
進む。
見えなくても
自分の感覚を
信じて。
するとある瞬間から
突然、
何かがわかる
ようになる。
見えなかった
何かが
突然、
現出する。
なぜ、
そうなるか?
それは
すべて自分の意志で
進んでいるからだ。
自分の感覚で
自分を信じて
進んでいるからだ。
信じるとは
意志だ。
意志を持つ人には
いずれ
必ず
見えてくるもんだ。
つづく
2週間以上
続いた
激しい消耗戦が
ようやく
終わった。
急がねば
ならないという
焦りと、
焦って一歩を
踏み出しては
本末転倒だという
戒めと。
それらの
葛藤のような
ものも
今回は実に
大きかった。
真本音で
進もうという
実直さが
あればあるほど、
キツかった
のかもしれない。
だが、
やり遂げた。
もちろん、
やり遂げた
と言っても
すぐに「次」への
スタートだ。
それも
わかっているが、
束の間の
安堵も大事だ。
自分の選んだ
この道の
この進み方は
側から見れば
決して
幸せなものでは
ないだろう。
しかし
こう行く
と
決めたんだ。
決めて
進んでいるので
清々しい。
どのような道も
どのような進み方も、
自分で
決めるかどうか、
だな。
一つの峠
のようなもの。
今回は
それを越えた。
越えれば
ここから
「カタチ」が
始まる。
ここまでの
成果が
「カタチ」となってゆく。
それを
楽しみながらも
しかし
それを見つめる
だけでは
済まさない。
やはり
止まることは
ない。
「次」に
進むんだ。
つづく
今は
湧き出るエネルギーを
そのまま
使い切っている
感じだ。
ギリギリの
ところにいる。
だから
ゆとりのない人が
多いだろう。
妙な疲れが
ある場合は、
それは必然的な
ものであると
認識し、
無理をしないこと。
気合いだけで
進もうと
しないこと。
セルフコーチング
とは、
自己のエネルギーマネジメント
でもある。
以下の問いを
自分に投げてみよう。
・・・
今の私は
通常の何%のエネルギー
を出せるだろうか?
そして
その制限を
超えないために、
何を
やめようか?
何を
どんなやり方に
変えようか?
特に
自分が今、
気をつけるべき
ことは?
そして
この状態を
いつまで続ける
必要がある?
・・・
多少、無理をしても
良い時と
そうではない時が
ある。
今は
自らを客観的に
観察しながら、
決して
無理はしないことだ。
つづく
もし心が
内に籠っているな
と
感じたら、
世界を
感じてみよう。
外に出て、
できるだけ
広い場所に出て、
世界全体に
意識を向ける。
広げる。
それは
自然の豊かな場所
でも良いし、
街の真ん中でも
いい。
静かな場所でも
良いし、
人がたくさんいる
雑踏でも
いいんだよ。
できれば、
いろんな場所に
行き、
いろんな「世界」を
感じよう。
私達は「世界」の
中にいる。
内に籠り過ぎると
「世界」と
分離してしまう。
その分離感こそが
私達をさらに
不安にさせる。
意識をどんどん
「世界」に広げ、
「世界」と一つになる
くらいの
感覚まで。
私はいつもこれを
やり続けている。
いつもこれを
続ければ、
たとえ
一人でいても、
家の中にいても、
常に
「世界」を感じる
ことができるようになる。
「世界」と共に
「ここ」にいる。
という状態に
なれる。
私達人間には
「つながり感」
が必要なんだよ。
つながるために
人は存在
しているのだから。
だからまずは、
「世界」そのものと
つながってしまおう。
つづく
今回は
大事なチェックを。
まず、
自分の「中心軸」を
意識しよう。
ここで言う「中心軸」
とは、
自分のおへその奥
辺りの体の中心点と、
自分の頭頂部の
中心点を
結んだものだ。
二つを結べば
体の中に中心軸が
走っているように
感じるだろう。
その中心軸を
さらに
上と下に伸ばそう。
上は
天(宇宙)と繋がる
くらいに。
下は
地球の中心と繋がる
くらいに。
まっすぐに立って
やった方が
やりやすいかも
しれない。
地球の中心と
天(宇宙)を繋ぐ
一直線。
これが「中心軸」。
それに貫かれている
自分。
これを
イメージしようと
した時、
はっきり
「中心軸」を感じる
ことができるかどうか?
途中で
「中心軸」が見えなく
なっていたり、
何かモヤモヤしたものが
へばりついていたり。
もしくは、
「中心軸」のはずなのに
グニャグニャと
曲がっていたり。
・・・とにかく
スッキリとまっすぐに
「中心軸」が見えない
場合、
その
モヤモヤした部分に
意識を集中して
向けてみよう。
もしそこに
激しい不安・絶望・不信
のようなものを
感じたら、
それは
あなたのもの
ではない。
他の誰かから
受け取ってしまった
「念」である。
つまりは
「エンティティ」と
呼ばれるものだ。
エンティティとは
ストレスの濃度が
ある一定以上に高まることで
実体化したもの。
念の塊だ。
それは
人から人へ
まるでウィルスのように
伝染する。
今、
真本音度の低い人達
のエンティティが
凄い。
街を歩いていると
そこかしこに
それを感じる。
本来は
真本音度が高ければ、
ちゃんと自分の
真本音に素直に
生きていれば、
そのようなエンティティ
に対しても
耐性は高く、
しっかり睡眠を取れば
解消できるはずだが、
今はあまりに
街に氾濫している
エンティティが多いので、
それを受けて
しまい、
言いようのない
不安・絶望・不信
などの気持ちに
苛まれてしまっている
人が
増えている。
しかしそれは
その人自身の
不安・絶望・不信
ではない。
そういった「念」を
受け取って
感じ取って
しまっているだけだ。
上記のように
自分の「中心軸」を
意識し、
もしそこにエンティティの
存在を感じたら、
そこに
ド直球に
あなたの目線を
向けよう。
エンティティを
攻めるわけではない。
癒すわけでも
ない。
ただ、
エンティティと
向き合うだけ。
意識の矢印を
向けるだけだ。
それだけで
エンティティ達は
あなたのもとを
離れる。
攻めては
いけない。
戦っては
いけない。
ただ、
まっすぐに
見つめるだけ。
真剣な
眼差しで。
あなたの
「自分の人生を生きる」
という意志を
向けるだけ。
するとその
「真剣さ」に
エンティティ達は
ここは自分のいる
場所ではない、
と感じ、
去っていく。
先ほども書いたが、
今、
真本音度の低い人達は
とても激しく
揺れている。
こういう時こそ、
真本音で生きる私達は
自分の人生を
毅然と進もう。
自分のすべきこと
したいことに
素直に、誠実に。
その意志が
私達自身を
楽にする。
エンティティを
相手にしている
場合ではない。
つづく
全身全霊
という言葉は、
ちょっと力が
込められ過ぎて
疲れるイメージが
あるかもしれないが、
私は結構
好きだ。
最近は常に
この在り方を
大事にしている。
物事の発想を
する時も、
何か
文章や書類を
書く時も、
人に
ものを伝える
時も、
全身全霊を
大事にしている。
私の場合は
全身に力を
入れるというよりも、
自分自身の
全身すべての細胞に
意識を向ける。
細胞の一つ一つ
すべてに
私の魂が宿っている
感覚を得ながら、
目の前の
一つの物事に
意識を向ける。
すると明らかに
余分な力が抜ける。
そして、
私の解釈という
範疇を超えた
振る舞いができる。
しかも
これをすればするほど
私の細胞達が、
全身が
喜んでいる感覚が
増すのだ。
この感覚は
結構、気持ちよくて、
ここのところ
何もしていない時ですら、
私は私の細胞達に
意識を向けるように
なった。
細胞
とは言わないまでも、
このように
意識を自分の全身に
行き渡らせることは
とても大事だな。
つま先とか
指先とか
あんまり意識しないでしょ?
普段から
意識を向け続ける。
これが
「大事にする」
ということの基本だな、
と改めて思うよ。
体だけでなく、
あらゆることに
言えるよな。
つづく
たった一文字の
新たな理念が
私の中に
生まれたようだ。
たった一文字で
かつ
私に大きなパワーを
与えてくれる
理念であることは
わかる。
でも
肝心のその一文字が
わからない。
どれだけ
心を無にしても
浮かんでこない。
思考では
決してたどり着けない
ことはわかるので、
直観をじっと
待っている。
が、
わからない。
実はこれまでも
こういったことは
よくあった。
そんな場合は
「わからない」という
気持ち悪さを
そのまま感じながら
1分1秒を
過ごしていく。
自分にとって
非常に大事な理念
であることは
ヒシヒシ感じるので
「わからない」という
ことが本当に
気持ち悪い。
首を掻きむしり
たくなるような
じれったさ。
でもそれすらも
共に
時間を過ごす。
わかる時は
必ず来る。
その瞬間が
訪れるまで、
このままで。
こういったことも
セルフコーチングの
基本だ。
つづく