チームパフォーマンスコーチ

生き方、で決まるんだよ

 

人との出会いに

期待してはならない。

 

出会いが人生を

変えることは

もちろんあることだし、

 

出会いは

人生においては

宝物のようだ。

 

だからと言って

そこに期待をして、

「出会うために

今日を生きる」

ことをしてはならない。

 

出会いを目的と

してはならない。

 

・・・・・・

 

それよりも、

「今の自分の生き方」

大事にしよう。

 

私は本当は

どう生きたいのか?

 

今、本当は

何をしたいのか?

 

それを

「人生の視点」から

真剣に問おう。

 

自分自身に。

 

問い続けよう。

 

たとえ答えが

出なくとも、

問い続けるべきことは

ある。

 

粛々とそれを

続けることで、

日々は間違いなく

進化していく。

 

真本音度合いは

高まっていく。

 

その結果として、

日々の調和も

高まり、

 

出会うべきタイミングで

出会うべき人と

出会える、

 

という「結果」を

得る。

 

・・・・・・

 

以上をあえて、

私の表現で

さらにシンプルに

言い直そう。

 

「現象」に

期待してはならない。

 

自分の中の

「実在」に

目を向けること。

 

「実在」を

粛々と

行動に移し、

 

自らの意思で

「現象」を

創り出すことだ。

 

これがすべての

調和の原点だ。

 

もうすでに

あなたには

できるはずだ。

 

つづく

 

なんでそんなに納得するんだ?

 

昔、私にまだ

セルフコーチングの力が

まったくなかった時代、

 

私は物事に悩むと

よく、

星空を見上げた。

 

昼間であれば、

青空を

見つめ続けた。

 

天気が悪ければ、

さらに若い頃に行った

ヒマラヤの山々や

日本の山々を

心の中にイメージした。

 

とにかく、

大きなもの

広大なもの、

そして

私達人間の力が

まったく及ばないものに

意識を向け続けた。

 

すると、

目の前の物事が

小さなことのように

思えた。

 

思えるだけで

本当はそうではないのだが、

でも、

私の視界は大きくなり、

 

その大きな自分から

今の自分を

見つめることができた。

 

だから私は

大自然のような

大きなものに

憧れた。

 

自分は小さく、

自然は大きい。

 

その大きさを

目指した。

 

が、

目指してはいたが、

そこには決して

たどり着けないのだと

思っていた。

 

大自然と

自分が

分離していたのだ。

 

・・・・・・

 

今は

ちょいと違う。

 

大自然と自分は

つながっているし、

実は

「一つである」

ことを

実感として身に沁みて

理解している。

 

でっかい宇宙の中に

人はいるが、

 

実は

人の中にも宇宙があり、

 

内の宇宙と

外の宇宙は

完全に一致することも

実感としてわかる。

 

しかしそれは

決して

傲慢な感覚ではない。

 

その感覚は

「祈り」に近い。

 

私は

一つの祈りでもあるし、

全体の祈りでもある。

 

言葉で表現しようと

すると、

わけのわからないものに

なってしまうが、

 

感覚として捉えると、

当たり前のことを

言っているだけだ。

 

・・・・・・

 

なんか久しぶりに

わけのわからないことを

書いている気もするが、

 

先日、

私のビジネスパートナーから、

「いやいや、

たけうちさん、最初からいつも

わけがわからないですから、

慣れてますよ」

と言われた。(苦笑)

 

私のパートナー達は

素晴らしい。

 

私のわけのわからなさに

わけがわからないままに

ちゃんと真摯に

向き合い続けてくれる。

 

誠にありがたい。

 

・・・・・・

 

私は、

5歳の息子には

できるだけわけのわからない話は

しないことにしている。

 

ところが、時たまであるが、

ポロっと出てしまうことがある。

 

先日、二人でおもちゃ屋に

行った。

 

すると息子が

「このおもちゃ買ってほしい」

と言った。

 

「そりゃダメだ」

 

と私が伝えると、

「え〜、なんで〜、なんで〜!」

とゴネ始めた。

 

あんまりゴネるので、

 

「そのおもちゃさ、

真本音度合いが低いんだよ」

 

と思わず言ってしまった。

 

もちろん、

「真本音」とかそういうことを

説明したことはない。

 

しかし彼は

私のその一言を聴いた

途端に、

 

「あ〜そうなんだ」

 

と納得したのだ。

 

似たようなことは

他にもあった。

 

外食しようとして

お店を探している時に、

私が思わず、

 

「ちょっとここのお店、

次元が低いんだよな。」

 

と呟いたら、

 

「あっそう、じゃあやめよ」

 

と普通に返ってきた。

 

もちろん

「次元」なんて言葉を

使ったことはない(と思う)。

 

なんでこんなに

納得するんだ?

 

俺の子だからか?

 

とは思うが、

しかしこの感覚、

この、本質的なことを

実に素直に受け止める

この感覚は、

 

今の若い世代の人達には

本当によく感じることだ。

 

おそろしいなぁ、

(いい意味で)

と思う。

 

・・・・・・

 

最近、

本屋さんなどを見ると、

結構良い本が

出始めている気がする。

 

ちゃんと本質を

大切にした本だ。

 

残念ながら、

ほんの少し前までは、

本質を語っている風で

真逆なことを言っている

本が多かった。

 

なんかやっぱり

時代が

潮流が

良くなってきているのかな。

 

「実在」は完全に

良くなったので、

それが「現象」化され

始めている

ということだな。

(最後にちょっとだけまた

わけのわからないことを

書いてみた。)

 

つづく

 

その試練に意味はある?

 

あぁ、なるほど!

と思う。

 

そういうことか、

と。

 

あとですべて

合点が行く。

 

そんな瞬間が

来る。

 

私はその瞬間が

来るまでは、

物事の意味を

あえて

考えないようにしている。

 

よく、

前向きに物事を

捉えようとする傾向の人に

多いのだが、

 

どんな物事にも

意味を見出そうと

する。

 

それ自体は

大事なことだが、

それを

頭で解釈しているのは、

実は

オススメできない。

 

確かに

物事には意味が

ある。

 

その意味を摑むことも

大事だが、

それは「解釈」すること

ではない。

 

むしろ

解釈することで、

本来の意味とは

別の意味を

自ら見出し、

本来学ぶべきことを

学ばずして、

 

もしくは

学んだつもりになって

 

次の一歩に向かって

しまう。

 

そしてそれにより

様々な不調和が

起こる。

 

極端な例だが、

以前に

ものすごく体調不良に

悩まされている人がいて、

 

しかしその人は

「この体調不良には意味が

あるんです。

ここをしっかりと乗り越えなさい

という思し召しなんです」

言われていたが、

 

私は思わず、

「早く医者に行きなさい」

言わざるを得なかった。

 

前向きな人は

特に、

「試練」を意味あることとして

必然的なものとして

前向きに捉えようと

する傾向が高いが、

 

それも大事なんだけどね、

でもあえて

極端に言うよ、

 

そんな、

試練ばかりに向かうよりも

もっと

楽な道を行こうよ。

 

あえてもっと

極端に言っちゃおう。

 

試練にわざわざ

向かうなんて、

暇なんじゃない?

 

・・・と。

 

試練探しをして

自己満足している人は

残念ながら

多い。

 

物事に意味を見出そうと

する人ほど

その傾向が高いのは

本当に残念だ。

 

しかし。

 

私達にはもっと

やるべきことが

あるのではないか?

 

もっと

そんなことよりも

全力を尽くすべきことが

あるのではないか?

 

自分自身との

(自分の真本音との)

約束があるだろう。

 

人生の願いが

あるだろう。

 

そこに

向かおうよ。

素直に。

 

そして、

真剣にそこに

向かおうとする人は、

常に、

 

真剣に

最も楽な道を

見出そうとする。

 

そして

一つ一つの物事、

自分に降りかかる

あらゆる現実を

 

真摯に

受け止める。

 

真摯に受け止めはするが、

解釈はしない。

 

ただ、

受け止めるだけ。

 

それをすれば、

ある時ある瞬間に

必ず

「わかる」ときは来る。

 

あぁなるほど、

そういうことだったか、

と。

 

これも一つの

人生の醍醐味では

ないか。

 

つづく

 

着実に進む「一秒」と共に

 

少し、

「人生」を

意識してみようか。

 

まずは

目を閉じよう。

 

深呼吸をしながら

リラックスしよう。

 

そして、

「時間」に意識を

向けよう。

 

一秒、また一秒と

時間は過ぎていく。

 

何がどうあろうが、

着実に

一秒一秒、時間は

進んでいく。

 

その「一秒」にのみ

意識を向け続けよう。

 

この一つの瞬間と

そのつながりとしての

「時間の流れ」。

 

これが

「人生」だ。

 

これが

私達の「存在」だ。

 

この「時間の流れ」に

乗っかって

今ここに

私達はいる。

 

「時間の流れ」から

外れてしまえば、

私達は存在のものを

失ってしまう。

 

これこそが、

この3次元の世界の

掟だ。

 

・・・・・・

 

そう言えば、

いつも私はこの

「時間の流れ」を

意識している。

 

「時間の流れ」と

共にある自分を

意識している。

一日中。

 

ここに意識を

向けると

明らかにわかることが

一つある。

 

それは、

 

「どの一秒に

何をするか?」

 

こそが大事だ

という真実だ。

 

つまりわかりやすく

言えば、

 

「タイミング」

 

が大事だ。

 

同じ行動でも、

タイミングが変われば、

その後の展開の

「すべて」

が変わると言っていい。

 

例えば、

Aさんに何を言おうと

する。

 

その決めた一言を

「いつ言うか」

によって

Aさんの反応も

その後の展開も

大きく変わってくる。

 

行動だけではない。

 

「決断」も

そうだ。

 

私がいつも

クライアントさんに

お伝えし続けていることの

一つは、

 

「いつ決断するかを

決めましょう」

 

ということ。

 

つまり

「どのタイミングで

決断をするか?」

「どの一秒で

決断をするか?」

によって、

決断の内容も

その後の展開も

やはり「すべて」

変わってくる。

 

真本音度合いが

高まるということは、

その「感性」が

非常に豊かになる

ということでもある。

 

真本音度合いが

高まれば、

 

・今、何をするか?

・今、何をしないか?

 

そして

 

・いつ、何をするか?

・いつ、何をしないか?

 

ありありと確信として

わかるようになる。

 

すると

悪い意味での「迷い」が

なくなる。

 

つまり、

極端に言えば、

 

「タイミング」を掴むことさえ

できるようになれば、

「迷い」はなくなるのだ。

 

それこそつまり、

「時間」を

「一秒一秒」を

そして

「人生」を

大事にしているという

ことだろう。

 

「自分」を

大事にしている

ということだろう。

 

「人」を

大事にしている

ということだろう。

 

つづく

 

紡ぐ人生は楽しいな

 

これまでのやり方を

大きく変えようと

する場合、

 

私がいつも行なうのは、

私が信頼する人に

 

「すべて委ねてしまう」

 

という方法だ。

 

例えば、

家庭であれば

妻であるし、

ビジネスであれば

パートナー達に

委ねてしまう。

 

正直言うと、

私のこれまでの

やり方や考え方と

真逆な時もある。

 

そんな時はやはり、

心に少しばかりの

抵抗が生まれるが、

 

まぁまぁ

これくらいの抵抗

どうでもいいじゃん、

 

私の真本音は

判断してしまう。

 

すると、

私の心が抵抗を起こした

ものに限って、

私の想定外の

良い結果が現れる。(苦笑)

 

そこで知る羽目に

なる。

 

これまでの自分の

考えは

固かったんだなぁ、

と。

 

私ももう51歳なので、

知らない間に

私の周りの人達のほとんどが

私よりも年下になった。

 

気をつけないと

ついつい私がすべてを

仕切ってしまいそうになる。

 

だからいつも

かなり気をつけている

つもりだ。

委ねるなら

本当に

委ね切ろう、と。

 

・・・・・・

 

似たようなことだが、

 

私はできるだけ

経験の浅い人や

未経験者の意見を

あるがままに

受け止めることに

している。

 

実際に、

周りの人達の目に私が

どのように映っているかは

知らない。

 

あのクソ頑固オヤジ、

 

と周りは見ているかも

しれないが、

 

それでも私は私なりに

すべてを

受け取ろうとしている。

 

どんなに

未熟な意見でも、

 

「未熟」の一言で

片付けることは

極力しないようにしている。

 

それよりも

まずはそれらの意見を

自分の中に

「インプット」

する。

 

「肯定する」

のではない。

 

ただあるがままに

「インプット」

するのだ。

 

これが大事だと

思っている。

 

そうすると、

インプットされた

それらの発想達と、

 

これまで私自身が

培ってきた発想が、

 

私の中で

「チャンククロス」

する。

 

ちなみに

「チャンククロス」とは

私の造語だが、

 

「別々の発想と発想が

紡がれる」

 

と言うような意味だ。

 

紡がれた発想達は、

相乗効果を起こしたり、

 

統合されたり

融合されたり

しながら、

 

さらに次の新たな発想を

生み出す。

 

そんなことが

私の潜在意識の中で

起こり、

それが「気づき」や「ひらめき」

として浮上する。

 

私はそれが

楽しくてしょうがない。

 

私は

あらゆるお客様とも

それをやっているので、

 

100社のサポートに入ったら

100通りのまったく異なる

サポート展開となる。

 

常に

そのお客様との間でのみ

生まれるものがある。

 

お客様との

「チャンククロス」

がある。

 

それが実に

冒険的だし、

刺激的で、

 

だからこそ私は

このお仕事に

いまだに熱中しているのかも

しれない。

 

でもよくよく考えたら、

それは私のお仕事だけの

話ではなく、

 

人生とは

そういうものなのだと

思うな。

 

つづく

 

答えは現場にある

 

料理を作るためには

材料と道具が

必要だ。

 

材料と道具は

いろんな種類が

あるほど、

いろんな料理が

作れて良いだろう。

 

だから

たくさんの材料と道具を

仕入れる。

 

たくさんの材料と道具を

抱える。

 

たくさんの材料と道具を

増やし続ける。

 

・・・で、

そこで満足して

終わり。

 

という人を

私はたくさん見てきた。

 

大事なのは

そこか?

 

もちろんそれも大事だけど、

もっと大事なことが

あるのではないか?

 

それは、

 

自分は

誰のために

どんな料理を

本当は

作りたいか?

 

・・・ではないか?

 

どれだけ材料があっても

道具があっても

そこで満足するのではなく、

それらを活用して

何をするか?

 

何のために

何をするか?

 

・・・ここに対して

私達はもっと真剣に

なるべきではないか。

 

・・・・・・

 

人生を進ませる、

とは、その

「何のために何をするか?」

に向かうことを言う。

 

ただし、

この答えはなかなか

見つからないことも

確かだ。

 

だから真剣に

見つけようとする。

 

見つけようとするだけでも、

人生は進む。

 

ただ漠然と

材料や道具を集めるのではなく、

その答えを

真剣に見つけようと進むことで、

自ずと、

良い材料にも道具にも

出会えるのだ。

 

・・・・・・

 

実は。

 

この仕事を始めた

20数年前の私は、

かなりの不勉強だった。

 

本を読んだりしながら

勉強するのが

億劫で億劫で。

 

だから、

ほぼ何のノウハウも

ないままに

コンサル現場に入った。

 

それはそれで

大問題なのだが、

でも、

何も知らなかったからこそ

必死に

人と向き合った。

 

今、目の前にいる

この人は、

どうすれば元気に

なるのだろうか?

 

どうすれば

成果を上げられる

のだろうか?

 

そればかりを

考えて考えて考え

尽くした。

 

で、

目の前の人に

試してみた。

 

というよりも、

その人本人と一緒に

試してみた。

 

当然、上手くいくこと

いかないこと、

様々だった。

 

しかし私は

「現場」から学ぶことが

できた。

 

本から学ぶよりも

先に

現場から学べた。

 

本で学んだり、

セミナーを受講して

学んだりしたのは、

「現場」での自分の学びが

間違っていないかどうか、を

確認するためだった。

 

今となっては

この順番で良かったと

思っている。

 

おかげで

「現場にこそ、本当の

答えがある」

ということを

私は知ることができた。

 

・・・・・・

 

たった一つの

材料でいい。

 

たった一つの

道具でいい。

 

今、自分が持っている

ものを使って、

 

真剣に、

 

自分は

何のために

何をするか?

 

を考えながら

目の前の「現場」に

向かってほしい。

 

特に

「コーチ」を目指す人には

それをしてもらいたい。

 

ちゃんと勉強して

力をつけてから

コーチの仕事を始めます。

 

・・・じゃないのだ。

 

それ言っているうちは

一生、コーチにはなれない。

 

人生は

「現場」だ。

 

仕事も

「現場」だ。

 

経営も

「現場」だ。

 

机の上には

ない。

 

自分にしか

創れない料理を

現場で創ろうではないか。

 

つづく

 

節目となる一日だった

 

24歳の時、

あるカリスマ経営者から

「お前には人生の目的がない」

と言われた。

 

当時の私は

私なりに目的は持っていた

つもりだった。

 

それは

「人生の終わりに、

あぁ、いい人生だった、と

満足できること」

というものだった。

 

しかしそれをその社長に

伝えたところ、

一笑に付された。

 

「そんなのは

目的ではない」

と。

 

「目的とはもっと

具体的なものだ」

と。

 

私の人生の目的探しは

あの時から始まった

のかもしれない。

 

その後、私はすぐに

当時勤めていた会社を

辞めた。

 

そして一年間で資金を

貯め、

旅に出た。

 

一年半ほどの

バックパッカーだ。

当時はまだそんな言葉は

なかったと思うが。

 

そして帰ってきて、

人との出会いを経ながら、

今の仕事に出会った。

 

あの社長の一言から

もう27年が経った。

 

27年後の今、

私は人生の具体的な

目的を持っている。

 

今、気づいたのだが、

その目的は

今から27年後の達成を

目指したものだ。

 

今、ちょうど

中間地点にいるのだな。

 

・・・・・・

 

27年前の私が

「人生の終わりに、

あぁ、いい人生だった、と

満足できること」

と言いながらも

イメージしていたのは、

 

私自身が

一人で人生を終える

場面だった。

 

当時の私は、

 

私のことを

本当に理解してくれる人

など、

一人もいない。

それが人間というものだ。

 

と、完全に

思い込んでいた。

 

それが今は

どうだろう。

 

まだそんなに人数は

多くはないが、

私のことを真に

理解してくれる仲間が

今はいる。

 

死ぬときは

どうも私は賑やかに

死んでいくイメージばかりが

出てくる。(笑)

 

そこに悲しみななく、

最期まで

充実感に溢れている。

 

そんなイメージ、

・・・というよりも「実在」が

私の中にある。

 

今日という一日は

そこに大きく近づく

大事な一歩となった。

 

気がつけば、

7月末。

 

意図したわけではないが、

いつも大きな節目が

7月と8月の合間に来る。

 

私はまた

変わる。

 

仲間と共に。

 

世の中への影響の仕方も

ここから一気に

変えていきたい。

 

つづく

 

コーチになるなら自律せよ

 

私がどうして

経営者の方々を中心に

コーチをさせていただいて

いるかと言うと、

 

やはり経営者は

立場上、

真剣にならざるを得ない

環境にあるからだ。

 

一歩間違えれば

ビジネスも人生も

大きく左右してしまう、

 

自分の人生だけなら

まだしも、

社員さん達もそのご家族も

含めた人生を

大きく左右してしまう、

 

そんなヒリヒリするような

決断をしなければならない

立場であるからだ。

 

本気で悩むし、

本気で落ちるし、

本気で這いつくばる。

 

もちろん

経営者以外の人達だって

同じだろう。

 

人生みんな

本当に悩みながら

進んでいる。

 

しかしやはり

社会的影響の大きさと

独特の孤独感と

圧倒的な重圧と、

 

それらに苛まれ、

真本音を忘れ、

反応本音にまみれながらも

それでも必死に

進もうとしている人を見れば

 

どうしたって

応援したくなる。

 

それが結果的に

経営者の方々が多かった

ということだ。

 

そして、

いつも書かせていただいて

いることだが、

 

私は「コーチ」を

育成したい。

 

世の中には「コーチ」が

足りなさ過ぎるから。

 

しかもその「コーチ」は

本物のサポート力を

持っていなければならない。

 

だからよく

「コーチになりたいのですが、

私を指導してくださいますか?」

とご依頼をいただくのだが、

 

そんな時に私が必ず

お伝えするのが、

 

「ではまずは

コーチとして独立をしてください。

小さくても良いですから、

自分で経営を始めてください」

 

ということだ。

 

自らが自らの

経営もできない人が

「コーチ」はできないからだ。

 

以前はそうでもない、

とも思っていたが、

やはり本物のサポート力は

 

「自律」した人からしか

出てこない、

つくづくわかったのだ。

この数年で。

 

私はすでに

自律している人を

サポートしたいし、

 

今はできていなくても

本気で自律しようと

している人を

サポートしたい。

 

そんな人にこそ、

「真本音で生きる」

ということの真髄を

体験を通じて

会得してほしいのだ。

 

自律した人が

さらに自律度合いを

高めれば、

 

調和の波が起こる。

 

自律調和。

 

そんな社会に

早くたどり着くためにも

私はさらに加速しなければ

ならないな。

 

つづく

 

夏のサンタクロース

 

夏にサンタクロースの話を

するのも何だが、

 

サンタはいいなぁ、

と思う。

 

なぜなら

すべての子ども達に

プレゼントを与えるから。

 

プレゼントの中身が

どうとか言うことよりも、

 

私はあのプレゼントとは

「命のエネルギー」

だと思っている。

 

人としての

生きる上での大切な

エネルギーを

「プレゼント」という形を

とりながら、

すべての子ども達に

与えている。

 

しかも毎日与えるのではなく、

年に一度だけ、

最低限必要なだけ

与えている。

 

そこもいいなぁ

と思う。

 

・・・・・・

 

サンタのおじさんは

年に一度だけのお仕事で

いいなぁ、と

思われるかもしれない。

 

きっと夏は暇なんだろうなぁ、

と。

 

いやいやいや、

私はちょっと違った考え方を

している。

 

きっと

サンタのおじさんは

夏も必死に働いているのだと

思う。

 

もちろん、自分がサンタである

ことを隠しながら。

 

きっと

コーチをしているんじゃ

ないか、と。(笑)

 

たくさんの人達と

日々、向き合い、

 

たくさんの人達の

喜びや悲しみや

幸せは苦しみや

いろんなことを

ダイレクトに受け取り続けて

いるのだと思う。

 

サンタのおじさんは

きっと

「現場」が好きだ。

 

「生きる」という現場に自分も

分け入って、

一人ひとりといつもしっかりと

向き合い、

いろんな人の人生を

噛み締めているのだろう。

 

だからこそ、

年に一度、最高の

プレゼントを

与えることができるのだ。

 

・・・・・・

 

本当はサンタのおじさんは、

子ども達にプレゼントを

と言いながらも、

 

大人達にも

プレゼントを与えている。

 

「命のエネルギー」という

プレゼントを、

子ども達へとはちょっと

違った形で

与えている。

 

・・・のだと思う。

 

だから結構、

大変だな。

サンタさん。

 

きっと

サンタのおじさんから

してみれば、

すべての人達が

「子ども達」

なのだろう。

 

「すべての子が

ちゃんと育ってほしい」

 

というのが

彼の願いなんだろうな。

 

サンタのおじさんは

実は

結構たくさんいるような

気もする。

 

できれば、

みんながサンタのおじさんに

なれると

いいな、

 

そんな世の中に

なれるといいな、

 

と思う。

 

つづく

 

堂々とはこういうことか

 

怖がりなのは

良いことだ。

 

怖がりだからこそ

悪い意味での無茶

をしなくなる。

 

怖がりだからこそ

足元に目がいく。

 

ちゃんと一歩一歩を

慎重に

真剣に

進もうとする。

 

・・・・・・

 

私の5歳の息子は

とにかく明るい。

 

天真爛漫と言って

よいだろう。

 

いつもオープンで

誰とでもすぐに

友達になる。

 

しかし

とても怖がりだ。

 

しかも、

自分が怖がりであることを

まったくもって

気にしていない。

 

・・・というよりも

それを誇りに思っているのでは

ないかと感じるほどに、

 

堂々と怖がる

 

のだ。

 

これ、本当に私は

見習うべきだなと

いつも思っている。

 

私なんかは

怖がりの自分を少し

恥ずかしく思ったりする。

 

そしてそれを

人様に見せないように

したりするのだが、

息子は

本当にあるがままに

躊躇なく

まったくもってオープンに

怖がるのだ。

 

しかも側から見ていると、

コイツ、本当に怖いんだな

とわかるし、

 

コイツ、本当に小心者だな

とわかる。

 

しかし

あまりに堂々と怖がるので

笑えてしまうのだ。

 

つまりは

深刻でなくなってしまう。

 

そして息子は

自分を怖がらせる原因

となるものを

自分で対処するなり

除去するなり

状況を変えるなりして、

 

安心を得ると、

 

途端に

何事もなかったかのように

進み出す。

 

毅然と。

泰然と。

 

おいおいお前、

さっきまであんなに

怖がってたじゃないか、

ツッコミを入れたくなるのだが、

 

ちょっと前まで

怖がっていた自分を

まるで記憶喪失してるんじゃ

ないかと思うくらいに

忘れて、

あまりに堂々と

前に進む。

 

怖がるのも

堂々。

 

進むのも

堂々。

 

本当に

勉強になる

今日この頃。

 

つづく

 

あったかい人達だな

 

本当に情に厚い

人は、

 

情に流されないな、

いつも思う。

 

人の痛みとか

心の傷の辛さとか、

 

そういうことを

すべてわかった

上で

 

あえて

厳しくできる。

 

あえて

人を突き放したり、

手放したり、

 

手を差し伸べる

ことをやめたり、

 

そういったことを

すべき時に

しっかりと

できる。

 

本当にその人の

成長を

願っているからこそ

 

冷たくも

できる。

 

だけど常に

目は優しい。

 

人の情や

振る舞いを、

 

愚かな部分も

すべて含め

 

優しく

あたたかく

見つめ

見守っている。

 

あまりむやみに

人は褒めず、

 

でも

褒めるときは

本当にその一言に

魂が乗る。

 

そういった

情に厚い人が

私のクライアントさんには

多いな。

 

だから私は

いつもあったかい。

 

人間の

あったかみを

いつも感じ続ける

ことができる。

 

幸せなことだな、

と思う。

 

そう言えば、

以前の私は

人と一緒にお酒を飲みに行く

ことはほとんどしてこなかった。

 

でも、

ここ7〜8年かな、

そういう機会が徐々に

増えてきた。

 

私はウィスキーが好きで、

しかも

ストレートでチビリチビリと

やるのが好きなのだが、

 

情の厚い人と

飲んでいると、

 

ウィスキーの味わいも

より深く

厚く感じるから

面白い。

 

真本音コミュニケーション

をしながら

ウィスキーを飲むのは

 

今では

私の人生の

最大の楽しみの一つ

かもしれないな。

 

年齢を重ねるほど

楽しみが増えていく

というのは

とてもありがたい。

 

でもこれが

真本音で生きる

ということなのだろう。

 

真本音で生きれば

人生は

日々、

豊かになっていくんだ。

 

より幸せに

なっていくんだ。

 

つづく

 

風になろう

 

どれだけ蒸し暑くても、

風を感じた瞬間に

私達は心地良さを

感じる。

 

「風」。

 

空気の流れ。

 

逆に私達自身が

動くことで

空気の流れを

感じ取ることもできる。

 

先日、

湿度が非常に高い日に、

5歳の息子と少しだけ

サイクリングをした。

 

自転車を漕ぎ出した

瞬間に

蒸し暑さが消し飛んだ

のにはびっくりした。

 

自分自身が

風になったようだ。

 

同じ場所に

留まり続けると

私達は淀んでしまう。

 

止まることは

衰退を意味する。

 

そう言えば、

私は電車が好きなのだが、

電車に乗りながら

セルフコーチングをすることが

とても多い。

 

前に進んでいるその状態が

最も発想が湧きやすい

からだ。

 

やはり私達人間は

動くことで

進むことで

活性化するように

できているらしい。

 

・・・・・・

 

自分が進んでいるか

どうかがわからない。

 

と、時々

相談される。

 

とても単純な確かめ方が

ある。

 

今、毎日が

気持ちいいかどうか?

 

と自分に

問えばいい。

 

感覚の問題だ。

 

日々、何が起こっているか?

という理由づけは

必要ない。

 

本能的感覚的に

答えればいい。

 

今、私は

毎日が

気持ちいいだろうか?

 

気持ちよくないので

あれば、

止まってしまっている

可能性は高い。

 

真本音の望んでいること

を、していないか、

 

しているつもりに

なっているか、

 

どちらかだろう。

 

・・・・・・

 

今日、お会いした

若い経営者は、

 

もっと

スピードを

上げたい!

 

心の底から

呟いていた。

 

あぁ、本能に素直で

いいな、と

思った。

 

自分に素直で

いいな、と。

 

素直な人が

増えるといい。

 

私は素直な人を

サポートしたいな。

 

凄い加速が

できるように。

 

心地良い「風」と

なれるように。

 

つづく

 

真面目か、不真面目か

 

私は、

真面目な人にほど、

「もっと不真面目で

いいよ」

と伝えるし、

 

不真面目な人には、

「もっと真面目に

やれ」

と言う。

 

矛盾しているように

思う?

 

矛盾していないんだな、

これが。

 

・・・・・・

 

「真面目」

って、いろんな捉え方が

あるけど、

私は

 

「与えられた一つの枠を

壊さずに、

その枠を守りながら

がんばり続ける」

 

という風に

考えている。

 

不真面目な人は

第一、

この「枠」を守らない。

 

「こうしろ」と言っても

その通りにしない。

 

例えば、

朝は8時から仕事だ、

という決まり事があっても

それを守らない。

 

とか、

 

ちゃんと人には挨拶しような、

と注意しても

まったく守らない。

 

とか。

 

人に枠を与える意味は、

一つには

「基本をしっかりする」

というのがある。

 

基本や基礎が

しっかりするからこそ、

その人は良い方向に

伸びていく。

 

地盤がしっかり

していないと、

ちゃんとした家が

建たないのと同じだ。

 

不真面目な人の多くは、

地盤がフニャフニャにも

関わらずに、

自分勝手に

自己満足の家ばかりを

建てようとする。

 

しかしどんな家を

建てても、

地盤が緩いから

安心して住むことすら

できない。

 

それでは

誰も喜ばない。

 

だから

「真面目にやれ」

と言う。

 

一方、

真面目な人の多くは、

基本や基礎はできてるけど、

いつまで経っても

自ら「枠」を壊そうとしない。

 

与えられた枠から

出ようとしない。

 

だから、

その人が本来持っている

独創性のようなものが

生まれない。

 

そういう人の創る家は

いつまで経っても

つまらない。

 

遊び心もない。

 

安心して住むことは

できるかもしれないが、

それ以上の魅力が

ないのだ。

 

だから、

そういつまでも

枠に捕らわれずに、

たまには

「もっと不真面目で

いいよ」

と伝えるのだ。

 

大事なのは

真面目か

不真面目か

ではない。

 

両方できること

だ。

 

ここは真面目に。

でも、

ここは不真面目に。

 

・・・と

自ら選択できる

ことだ。

 

「真面目」と「不真面目」

という表現に

もし抵抗があるなら、

次のように

言い換えてもいい。

 

「基本に忠実」

「望みのままに」

だ。

 

・・・・・・

 

基本を修得する

努力もせずに

「望みのままにやりたい」

と思っている人が

多過ぎはしないか。

 

本当に望みのままに

やりたいのなら、

もっとちゃんと

勉強せい。

 

努力せいよ。

 

一方で、

勉強と努力をして

そこで満足してしまっている

人も

多過ぎないか。

 

せっかく基礎が

あるんだから、

もっと

好きにやれよ。

 

冒険しろよな。

 

自分の望みに

素直になろうな。

 

つづく

 

本来の力を知ってる?

 

私は

「コーチ」

を名乗っているが、

 

コーチというお仕事の

重要な役割は、

 

その人の本来の

魅力や力を

その人自身が

活用できるようにするサポート

 

だと思っている。

 

自分自身の

「本来」

人はあまりにも

知らない。

 

「本来」ではない部分の

魅力や力を

伸ばそうと努力している。

 

しかし残念ながら

そこはなかなか

伸びない。

 

伸びないから

自信喪失する。

 

結果として、

「自分なんて価値がない」

本気で思い込むように

なる。

 

今日も実はちょっと

そんな場面が

あったのだが、

 

そんな時、私は

実に悲しくなる。

 

私はもう長く

このお仕事を続けているので、

ある時から

その人の本来のエネルギーを

感じ取れるようになった。

 

しかしそのエネルギーを

ちゃんと使っている人は

ほぼいない

という事実を知った。

 

エネルギーが

そこにあるのに

その存在に気づかず、

 

魅力や力が

充分にあるのに

「価値がない」と

思い込む。

 

人により

程度の差はあるが、

 

私の目から観ると

9割以上の人が

そうだと映る。

 

いや。

 

ここは躊躇せずに

言おう。

 

99.9%以上の人が

そうだと

私の目には

映っている。

 

だから

思う。

 

いったい

この世の中は

何なんだ!と。

 

人の本来を

発揮できない

世の中。

 

しかしそれは

世の中が

悪いわけではない。

 

世の中は

一人ひとりが

創り出している。

 

だから、

一人ひとり

その人本人、

つまりは

「自分」のせいだ。

 

と、

悲しくなるのだ。

 

もちろん、

そういう私だって

まだまだ「本来」は

出せていないだろう。

 

でも少なくとも

私は

「本来を出せていない」

という事実を

知っている。

 

そして

何とかしよう!と

している。

 

何とかしよう!と

する人が

増えるといいな。

 

そのためにも

私は今のお仕事を

がんばるよ。

 

つづく

 

直観を楽しもう

 

直観を大事に

しよう。

 

と私はよく

言うのだが、

 

どうしてもそこに

自信の持てない人は

多いようだ。

 

直観か思考か?

 

となったら、

いつもの思考による答えを

選択してしまう。

 

以前も書いたが、

思考が悪いわけでは

ない。

 

むしろ、

思考をしっかりする人ほど

直観は生まれやすい。

 

しかし、

思考をしっかりする人ほど

直観のその根拠のなさと

奇抜さに

どうしてもついて

いけなくなってしまうのだ。

 

自分自身の発想

なのに。

 

・・・・・・

 

そこでお勧めなのが、

 

できることから

直観で動いてみる

 

ということだ。

 

大層なことで

なくていい。

 

例えば、

 

今日のお昼は

何を食べようか?

 

とか、

 

これから乗る電車は

何両目にしようか?

 

とか。

 

そのくらいの身近な

ところで、

まずは直観の通りに

動いてみよう。

 

そして

思考して出した選択と

直観による選択の

 

行動した時の違いを

体験するのだ。

 

体験してもし

ちょっとでも面白かったら、

もう少し冒険的なことで

直観に素直になってみる。

 

そうやって

直観で動く頻度を

徐々に上げていくとよい。

 

ただし。

 

思考をするのを

やめてください、

ということではないので

ご注意を。

 

何度も書くが、

しっかり思考する人ほど

直観は生まれやすい。

 

だから、

しっかり思考すれば

いい。

 

でも、

決めるときは

直観で決める。

 

そんなメリハリを

つければいい。

 

・・・・・・

 

これを続けると、

 

直観の出やすい時と

出にくい時の

違いがわかるように

なるだろう。

 

どんな時に

出やすく、

どんな時に

出にくいか?

 

その原因が

徐々にわかってくる

はずだ。

 

原因がわかれば

対策が打てる。

 

できるだけいつも

直観が生まれやすい

状態であるために

何をすればよいか?

 

その対策を

習慣化する。

 

これがお勧めだ。

 

・・・・・・

 

自分という人間の

神秘さ。

 

自分という人間の

深さ。

 

そして

自分という人間の

面白さ。

 

それらの片鱗は

直観と共に生きる

ことによって

現れる。

 

これは人生の面白さ

にも直結する。

 

同じ人生、

 

同じ時間、

 

同じ環境、

 

にいるのなら、

少しでもそれらを

楽しんでみたいと

思わないかい?

 

つづく

 

意図通りにいかねーなぁ

 

本当にやろうと

思っているのに

できないこと。

 

本当は

やろうとしていないのに

どんどん進んで

しまうこと。

 

本当は

どっちでもいいのに

決断を迫られること。

 

本当は

こっちがいい!と

思っているのに

その逆の展開ばかり

起こること。

 

・・・人生は

自分の意図通りに

進まないことばかりだ。

 

それを

意図に即して進むように

するにはどうすれば良いか?

 

ということを

皆、

考え過ぎではないか。

 

これは私の意見だが、

 

ここは

諦めた方がよい。

 

・・・・・・

 

面白いことに

ここを諦めると、

 

次々に想定外の調和が

起きてくる。

 

まったく意図通りに

物事が進まないのに、

 

自分の想定以上の

結果が出たりする。

 

自分の想像もしていなかった

素敵な展開が

起きたり。

 

そして気がつくと、

当初自分が

願っていたことは

いつの間にか

実現されている。

 

もちろんそれは

真本音の願いに

限ってのことだが。

 

・・・・・・

 

私達は

「上手くいかない」

思い過ぎだ。

 

かと言って

「なんだかんだと

上手くいっている」

無理に自分を納得させる

必要もない。

 

・上手くいく

・上手くいかない

 

という次元に

いなければいい。

 

上手くいっても

いかなくても、

それらを楽しもうと

すればいい。

 

と私は思う。

 

実は、

 

こういう面で言えば、

私の日々は、

上手くいかない

ことばかりだ。

 

ほぼ、

自分の意図や

思惑通りに

進まない。

 

とは言え、

頭の中では

「こうなるといいな」

という思惑は

いつも生まれる。

 

でも、

その通りにいった

ためしがない。

 

「ほらやっぱり

思惑通りには

いかないよな」

 

と、

事実を目の前にしながら

私はいつも

内心、苦笑いしている。

 

が、それも含めて

すべてを

楽しむことにしている。

 

委ねることに

している。

 

・・・・・・

 

ただし。

 

かといって

思惑や意図を考えることを

やめる

こともしない。

 

私は仕事の準備は

とてもしっかりとする。

 

コーチングも研修も

イメージングを

しっかりする。

 

その努力は決して

怠ってはならないし、

それをしない人が

「上手くいかない」と

嘆いていても、

 

そりゃそうだろ、

と思う。

 

意図通りに

いかないことが

わかっていても、

しっかりと自分の意図を

顕在化するのだ。

 

それをすると、

意図通りいかないこと

自体を

楽しめるようになる。

 

そして、

自分の意図を超えた

素敵な展開を

目の当たりに

できる。

 

そしていつも

純粋に思えるのだ。

 

人生ってのは

すげーなぁ。

 

人間ってのは

すげーなぁ。

 

ってね。

 

つづく

 

ちょうど100%のスピードで

 

無茶する人が

多い。

 

多い、というか

増えている。

 

そう言えば

以前にもこんなこと

書いたっけな。

 

しかし

その時以上に今、

急増している。

 

無茶がいけない

わけではないが、

 

あまりの無茶は

不調和を

起こしてしまう。

 

たとえその方向が

真本音が望む

方向だとしても。

 

最大速で

進むことは大事だが、

 

自分の限界を超えた

最大速は

自己コントロールを

失わせる。

 

今、自分が出せる

最大速は

どこまでだろうか?

 

という視点は

とても大事なんだ。

 

それこそが

自己マネジメントでは

ないかな。

 

・・・・・・

 

自分に問うて

みてほしい。

 

私は今、

躊躇しているだろうか?

 

と。

 

していない。

 

と直観的に

答えが浮かべば

OK。

 

次に問うて

ほしい。

 

自分は今、

無理をしているだろうか?

 

と。

 

直観的に

 

している。

 

と返ってきたら、

それは

あまりよろしくない。

 

躊躇はしていないが、

無理はしている

という状態。

 

これは残念ながら

長続きしない。

 

それどころか

シワ寄せが

周りに与えられてしまう。

 

結果的に

物事の展開が

遅くなってしまう。

 

101%でもなく、

99%でもなく、

 

ちょうど100%の

力とスピードで

進もう。

 

それを見極めることが

今の私達の

テーマでもある。

 

これができれば

世の中は

進化を続けられる。

 

すると、

私達の100%そのものが

進化をし、

さらにスピードアップ

できる。

 

それによりさらに

世の中の進化も

スピードアップする。

 

この循環を

創り出そう。

 

躊躇はしなくて

いいが、

無理はするな。

 

楽しみながら

進もう。

 

つづく

 

痛いものは痛い

 

本当に

泰然自若としている

人は、

 

心に傷のない人

ではない。

 

第一、

心に傷のない人は

一人もいない。

 

本当に

泰然自若としている

人は、

 

心に傷があるという

事実を

引き受けている

人だ。

 

傷のあるのが

当たり前、

・・・と。

 

そしてその傷を

治そうともしない。

 

そのままで

いい。

 

あるがままで

いい。

 

と、

良い意味で

開き直っている

人だ。

 

人間誰だって

痛いのはいやだ。

 

だから

痛さから

逃れようとする。

 

それは

自然なことだ。

 

しかし、

逃れようとすることと、

痛さを麻痺させることは

まったく別のこと。

 

麻痺は

ダメだ。

 

本当に自分が

おかしくなる。

 

痛い。

逃げたい。

でも痛い。

でも逃げたい。

でもやっぱり

痛い。

 

・・・と

あるがままに

痛がることが

健康的だ。

 

そして

それはもう人として

しょうがないことである

と、

人の宿命を

受け入れることで

 

その人には

光が溢れる。

 

真本音の

光だ。

 

人の宿命を

受け入れるからこそ

真本音は

浮上する。

 

痛いものを

痛い!

と素直に感じるからこそ

真本音は

浮上する。

 

そしてその真本音は

光に溢れている。

 

その光に包まれれば、

私達は、

 

痛さそのものは

変わらないが、

 

痛くても大丈夫、

 

という自分に

なれる。

 

そして、

痛いままに、

 

いや、

その痛さがあるが

故に、

 

自分の次の一歩を

ちゃんと

見極めることが

できるようになり、

 

その痛さがあるが

故に、

自分の道を

見出せるようになる。

 

それが

真本音の力であり、

真本音の道だ。

 

痛がる自分。

 

逃げようとする

自分。

 

すべてOKだ。

 

逃げても

痛いものは痛い。

 

だから

絶望的になる。

 

それもOK。

 

それが

人間ではないか。

 

そんな自分自身を

引き受けよう

ではないか。

 

つづく

 

変態よ、しっかり生きよ

 

通常、

私達人間の

自然な成長の途上では、

 

成長している本人は

自分の成長には

気づかないものだ。

 

例えば、

身長が日々、伸びている

ことを、

本人は、ほぼ自覚しない。

 

成長が自然であれば

あるほど、

自覚はない。

 

ところが、

たま〜に、ではあるが、

本人が

自ら気づくケースがある。

 

あっ、

今、私は大きく

変わろうとしている。

 

・・・と。

 

もちろん

自己満足でそう思い込む

というケースも多い。

 

それはともかくとして、

自分で自分の

本質的な成長に気づく

大半のケースは、

 

特異点にある時

 

だ。

 

これまでの成長の

道のりからは

かなり大きく外れた

成長を

突然、

人はすることがある。

 

それをよく私は

「脱皮」

と表現しているが、

 

ただし今回の話の

特異点とは

脱皮をも超えている。

 

完全に逸脱した

成長。

 

「変態」

 

とも言える。

 

幼虫が羽化して

成虫になるような

ものである。

 

この「変態」の

直前、

もしくは最中、

もしくは直後に、

 

自分のあまりの

変化に

自分で気づくのだ。

 

その場合の多くは、

人は自分の

根本的変化に

 

慄(おのの)く。

 

そして

慄きのあまりに、

せっかくの「変態」が

中途半端になったり、

 

本来とは違う方向に

進んでしまうことも

ある。

 

だから

「変態」の心構えを

ここに書いておきたい。

 

・・・・・・

 

心構えを

一言で表現すれば、

 

「抗うな」

 

となる。

 

「変態」の不安定さは

尋常ではない。

 

自分が

まったくわからなくなる

ケースも多い。

 

私のサポートを

受けてくださっている

人の場合は、よく

 

「自分の真本音がまったく

わからなくなりました」

 

という表現をされる。

 

それはもう、

人生が終わってしまう

のではないか、

という恐怖に近い。

 

いや、

それ以上かな。

 

自分が「無」になるような

恐怖だ。

 

そうなるともう

やみくもにもがいて

もがいて

もがきまくってしまう

のだが、

 

それを

いっさい諦める

のだ。

 

自分自身を

大いなる大自然に

委ねてしまうくらいに。

 

その時の

オススメの心のつぶやき

がある。

 

『どうでもいいじゃん』

 

だ。

 

ある意味、

すべてを投げ捨てて

しまうのだ。

 

川の激流に

飲み込まれて、

もう諦めて

命を投げ出し、

激流のままに流されていく

ような感じだ。

 

これを

続けてほしい。

 

かと言って、

 

日常生活は

ちゃんといつも通りに

すること。

 

えぇ〜っ?

できないよ!

 

と思われるかも

しれないが、

それが

できるのだ。

 

ここが面白い

ところ。

 

「変態」は病気でも

何でもない。

 

むしろ

超健康的な大成長なので

 

どのような状態でも

ちゃんと

日々のすべきことは

できる。

 

ちなみに私は

私自身の「変態」の最中にも

毎日、いつものように

コーチングや研修を

行なっていた。

 

心の中はもう

死んだ状態だったのだが、

 

不思議なことに

いつも以上の

良い仕事ができた。

 

これは

病気ではないのだ。

 

だから、

ちゃんと仕事を

するように。(笑)

 

これが

もう一つの心構えかな。

 

「変態」を理由に

サボるなよ、

という。

 

・・・・・・

 

「変態」の状態は

長く続く人もいる。

 

人によっては

何ヶ月も続く人が

いる。

 

そんなの耐えられないよ、

思われるかもしれないが、

 

何度も言うが、

これは病気では

ない。

 

死にそうな気持ちに

なっている人に

「しっかり生きなさい」

と言うのも

なんだが、

 

でも、

 

ちゃんと

今こそ

しっかり生きなさい。

 

つづく

 

出会っちまったな

 

私とあなたが

出会えたということは、

 

それぞれ

真摯に人生を

進めて来れた

証だろう。

 

ここまで

よく来たなぁ、と

まずは

お互いを称え合おう。

 

と同時に

出会いは

スタートだ。

 

出会ったことで

私達は

新たな「覚悟」を

求められる。

 

出会わなければ

できないこと

私達はこれから

立ち向かって

いく。

 

その準備が

できたらこその

出会いであるが、

 

準備ができた

ことと

これからさらに

進むことは

また

別のことだ。

 

本番は

ここからだ。

 

これまでは

序章に過ぎない。

 

これまでお互いに

培ったものを

私達は

超えていかねば

ならない。

 

これまでの

私達に

執着している

場合ではない。

 

壊すべきものを

壊すのは

これからであり、

 

そこは

かなりの勇気が

必要かもしれない。

 

まぁでも、

そういったことを

すべて

引き受けた我々

だからこそ

 

こうやって

同じ時間に

同じ空間に

いるのだろうね。

 

これから私達は

未知の領域に

進むのだろう。

 

だいぶ

怖いかもよ。

 

でも、

一歩一歩

楽しんで行こうよ。

 

つづく

 

それは言い訳だ

 

人生に

言い訳は要らない。

 

ところが

言い訳ばかりを

している人は多い。

 

誰に対して?

 

自分に

対して、だ。

 

心の中は

言い訳の宝庫。

 

常に

自分で自分を

納得させようと

言い訳を続ける。

 

それにより

大切な一日が

過ぎていく。

 

・・・・・・

 

言い訳であることを

最も知っているのは

もちろん

自分自身だ。

 

だから

言い訳を続ける自分を

責める自分が

発生する。

 

すると、

責める自分に対して

さらなる言い訳が

始まる。

 

それに対して

さらに責める自分。

 

言い訳のループ。

 

その結果、

自己分裂が激しくなり、

自分同士の戦いが

始まる。

 

その戦いにより、

人生を開拓するエネルギーの

大半は失われる。

 

残念ながら、

その状態で

自分の真本音の願いを

実現する人生を

創り上げるのは

不可能だ。

 

第一、

自分の願いそのものが

わからなくなる。

 

・・・・・・

 

ここから抜け出す

唯一の道は、

 

言い訳なくす、

ことではない。

 

言い訳をする自分を

愛する、

ことだ。

 

言い訳。

 

・・・人として

出るのは当たり前だろう。

 

言い訳の出ない自分になろう

などとは

思わない方がいい。

 

だって無理だから。

 

だって

人間なんだから。

 

私達の心には

様々な「自分」が

発生しては

消えていく。

 

そのように

私達の心は

できている。

 

だからこそ、

進化する。

 

心のない人間に

進化はない。

 

心がある、ということは

様々な「自分」が

発生する

ということだ。

 

それら

「すべての自分」

を、

愛することができるか

どうか、だ。

 

愛とは、

肯定することでは

ない。

 

肯定か、否定か、

という次元に

愛はない。

 

愛とは、

 

そこに在るものを

ただ

「そこに在るんだな」

認めることだ。

 

その「あるがまま」を

見つめることだ。

 

たった

これだけのことで

私達の中には

エネルギーが満ちてくる。

 

そのエネルギーこそが

愛の本質だ。

 

このエネルギーは

私達が自らの身を削って

創り出しているものでは

ない。

 

大自然に

もともと存在する

エネルギーが

「すべての存在を

あるがままに

見つめる」

という姿勢(生き方)に対して

 

引き寄せられて

くるのだ。

 

つまり、

私達の「今ここでの生き方」

こそが

私達自身に

エネルギーをもたらして

くれる。

 

そして

その愛のエネルギーに

満ちた者は、

 

自分だけでなく、

周りのあらゆるものへ、

そのエネルギーを

自然照射できるようになる。

 

だから

その人には人が集まり、

さらにエネルギーが集まり、

その人の人生は

満たされたものへと

好転していく。

 

・・・・・・

 

だから。

 

今この瞬間の

自分自身の「生き方」が

すべてを決定する。

 

その「生き方」の

基本は、

 

自分と

どう向き合うか?

だ。

 

自分のすべてを

あるがままに

見つめることができれば、

 

現実のすべてを

あるがままに

見つめることができる。

 

これを

「真摯」

と私は呼んでいる。

 

真摯な生き方を

しよう。

 

それは

今この瞬間から

すぐにでも

誰にでも

できることだ。

 

つづく

 

これをしなければ先に進めない

 

どれだけ力を

尽くしても、

届かないものは

ある。

 

どれだけ自分を

生きようとしても

見えないものは

ある。

 

自分の中で

「こうありたい」と

抱く理想を

 

その通りに

実践、実現できる

ようには

この世はできていない。

 

何の試行錯誤や

努力もなしに、

「成功」し続けるようには

この世はできていない。

 

この世を

そのようにしたのは、

別に神様でも何でもない。

 

私達自身だ。

 

私達の真本音だ。

 

追えば追うほど

わからなくなる。

 

求めれば求めるほど

遠のいてしまう。

 

その葛藤や

迷いや苛立ちや

自暴自棄。

 

それらを

私達は

一つ一つ丁寧に

「超えていく」

ことを

実は最も望んでいる。

 

なぜなら

それは「進化」への

最短の道だから。

 

しかし、

 

だから人生は

辛い。

 

・・・と言うつもりは

ない。

 

実は、

 

思い通りに

ならないところに

道を創っていくことは

 

さほど

難しいことではない。

 

答えはちゃんと

私達の中に

あるのだし。

 

私の表現で言えば、

自らの真本音に

素直に生きればいい。

 

そうすれば、

必要な試行錯誤を

必要なだけして、

 

必要なプロセスを

経て、

 

ちゃんと

願いや祈りは

叶っていく。

 

真本音で生きれば、

真本音の願いと

祈りは

 

淡々と

叶っていく。

 

真本音で生きなければ、

真本音の願いは

いつまで経っても

わからないし、

 

当然、

真本音ではない

願いを目指しても

それは

叶わない。

 

自分が本当に

目指しているものは

何か?

 

それをするために

今、

何をすれば良いか?

 

その単純な

答えは、

真本音に素直に

生きることで

 

実は

本当に簡単に

淡々と

観えてくる

ようにできている。

 

しかし

その状態に行くまでが

大変で、

 

その過程で

私達は

大概、

自暴自棄になる。

 

何をやっても

上手く行かない。

 

全然

想い通りに

ならない。

 

・・・であれば、

自分自身が

真本音では

ないのだ。

 

自分の「生き方」に

何か

圧倒的な

「間違い」

があるのだ。

 

もちろんその

「間違い」とは、

世間一般から見た

「間違い」ということではなく、

 

自分の中で

「間違い」と決めている

間違いだ。

 

「その生き方は

違うよ」

 

「そっちでは

ないよ」

 

ということを

自らにメッセージしている

ということだ。

 

そして

その「間違い」の

多くは、

皆、ほぼ共通している。

 

次の問いを

自分に投げて

みよう。

 

「私は今、

目の前にある

すべての現実に

真摯に

向き合っているだろうか?」

 

「私は今、

目の前にある

すべての現実を

真摯に

見つめているだろうか?」

 

「私は今、

目の前にある

すべての現実に

真摯に

魂を込めて向かって

いるだろうか?」

 

上手くいくこと。

いかないこと。

 

好きなこと。

嫌いなこと。

 

やりたいこと。

やりたくないこと。

 

そのすべての

「現実」に

ちゃんと向かい合って

いるかどうか?

 

まずこれが

できないうちは、

 

真本音は

遠のいてしまう。

 

という単純な

理由がある。

 

それができていない自分を

私達は「間違っている」と

認識する。

真本音では。

 

だから、

 

まず、

それをしなさい。

 

できるかどうか

ではなく、

「しよう」と

しなさい。

 

自分の道で悩む

のは、

その次の段階だな。

 

つづく

 

この世界がある限り

 

海岸の岩に立ち、

じっと

海を見つめている。

 

身じろぎもせずに、

彼は海を見つめている。

 

海には

強い日差しが反射し、

波々が美しく

輝いていた。

 

水平線は大きく

広がり、

 

海と空の境目は、

同じ青なのに

くっきりと際立っていた。

 

彼はその

境目を

見つめていた。

 

ここから見れば、

境目は単なる一本の

線だ。

 

しかし

その線に向かって

旅を続けたとしても、

その線は永遠に

埋まらない。

 

海は海のままであり、

空は空のまま。

 

両者が

混じり合うことは

ない。

 

彼は小さく

呟いていた。

 

人生は

キツいな。

 

・・・・・・

 

彼はすでに

全部のエネルギーを

使い果たしていた。

 

立っているのが

やっとだ。

 

だから、

海と空の輝きが

彼にはキツかった。

 

それでも今は

ここに

立たねばならない。

 

彼は

座ってはならないし、

ここを

立ち去っても

ならないのだ。

 

それが

彼の宿命だった。

 

・・・・・・

 

水平線の

わずかな一点に

モヤがかかった。

 

最初は

見えるか見えないか

くらいの小さな

黒さだったのに、

 

それはみるみる

大きな黒点となった。

 

暗い雨雲。

 

恐らく、

あそこでは

激しく嵐が

荒れ狂っている。

 

周りは本当に

穏やかなのに、

 

あの黒点の辺りだけ

空気が歪んでいるのが

よくわかる。

 

放っておけば

あの黒点はさらに広がり、

いずれはこの世界のすべてを

覆ってしまうだろう。

 

彼は

自分の両手を

見つめた。

 

もう、

エネルギーは

残っていない。

 

でも、

行かねば

ならない。

 

彼は

黒点に向かって

飛んだ。

 

・・・・・・

 

しばらくすると

黒点は

消えた。

 

彼が

やったのだ。

 

それが彼の

役割だった。

 

黒点が消えたと

同時に、

彼も消えてしまった。

 

生きているのか

いないのか?

 

恐らく、今は、

彼自身にも

それはわからない

だろう。

 

彼は

黒点と戦った

わけではない。

 

彼は

黒点を愛した

のだ。

 

彼は

黒点を消そうと

したのではない。

 

ただ、

愛した

のだ。

 

そしてもちろん、

彼は

自己犠牲をしている

わけでもない。

 

エネルギーが

あるとかないとか、

そういったことに

関わらず、

 

どんな状態でも

自分の役割を

全うできることが

彼には単純に

幸せだった。

 

人生は

キツい。

 

あまりにも

多くのキツさを

知り過ぎた。

 

でもだからこそ

できることがある。

 

彼は

風だ。

 

この世界が

ある限り、

 

彼は

海も空も

渡っていく。

 

つづく

 

まずは問いを探すんだよ

 

今、

あなたの中にある

最大の「問い」は

何だろうか?

 

私達人間は

「問い」と共に

生きている。

 

自分自身に問うては、

その答えを見つけ、

 

さらに問うては、

その答えを見つけ、

 

・・・の繰り返しで

生きている。

 

幼い子どもは

親にたくさんの質問を

する。

 

実はその習性が

人生でずっと

続くのが、人間だ。

 

ただ、

そういった「問い」に

いつしか私達は

意識を向けなくなって

しまう。

 

「問い」はあるのに、

「問い」に気づかない

状態になってしまう。

 

それを「大人」と

言うのかもしれないが、

 

本当はみんな

子どもでしょ?

 

子どものままでしょ?

 

未熟でしょ?

 

なぜなら人は

「進化」の反映。

 

「進化」をカタチにすると

「人」になる。

 

だから私達は

本当はずっと

未熟なままだ。

 

未熟だからこそ

ずっと「問い」がある。

 

自分の中の「問い」と

いつもいつも

しっかりと向き合い続ける

ことで、

私達は私達の願う

進化を続けることができる。

 

今、

あなたの中にある

最大の「問い」は

何だろうか?

 

あなた自身の「問い」を

探してほしい。

 

考えるのではない。

 

探す、のだ。

 

すでにある「問い」を。

 

それがあなたの人生を

一気に進めてくれる。

 

つづく

 

慣れないねぇ

 

これまでいつも見ていた

景色達が

まるで初めて見るかのように

新鮮に映ることは

誰もが一度は体験したことが

あるだろう。

 

あの感覚は

とても大事だね。

 

「あるのが当たり前」

だと私達はついつい

思ってしまう。

 

「慣れる」という

やつ。

 

しかし「慣れる」というのは

人が持つ大事な能力の

一つでもある。

 

「慣れる」からこそ

適応ができる。

 

これがなければ

我々は大変

生きづらいだろう。

 

・・・・・・

 

人が人に

慣れる。

 

これも日常で

起きていること。

 

今日、あるクライアントさんから

「ようやく、たけうちさんの

コーチングに慣れてきました」

と言われた。(苦笑)

 

でもそれを言われた瞬間に

私は一つ

気づいのだ。

 

「私は全然、慣れていない」

と。

 

この仕事を始めて

もう23年以上になる。

 

これだけ経っているにも

関わらず、

 

私は相も変わらず

コーチングの毎セッション、

緊張しまくっている。

 

緊張しやすいのは

私の性質なのだが、

なんでいつもこんなに

緊張するのだろう?と

不思議に思う。

 

私をご存知の人は

「えっ? あれで緊張

してるんですか?」

と言われるかも

しれない。

 

外面的雰囲気がどうかは

私にはわからないが、

内面的には

 

誰とでも

どんなときも

どんな場面でも

 

私は

緊張しまくっている。

 

まるで

コーチングのデビュー戦

のような感覚だ。

 

その感覚で

いつも全力で

セッションに向かっている。

 

・・・・・・

 

私の大好きな

ジャズミュージシャンに

マイルス・デイヴィス

という人がいる。

(もう30年近く前に

亡くなっている。)

 

私は彼の生み出した

音楽も大好きだが、

人としての彼も

大好きで、

随分と彼にまつわる本を

読み漁った。

 

彼のことをよく知る人に

よると、

彼は、ジャズのセッション

(そういえば、ジャズも

「セッション」と言うんだよね)

において

一度も手を抜いたことが

ない、と言う。

 

どんなに体がボロボロでも

彼は自分のその時持っている

命のエネルギーのすべてを

セッションに込めていたらしい。

 

だから

ステージを降りた瞬間に

倒れ込むこともあり、

それが毎晩続くことも

あったようだ。

 

私は彼と会ったことは

もちろんないが、

何となく彼の生き様や

セッションの取り組み方には

共感を覚える。

 

まぁ結構、破天荒な人

だったらしいので、

私にはその破天荒さは

ないが、

 

でも、命のぶつけ方が

ちょっと似ているような

気もする。

 

彼のトランペットの音を

聴いていると、

それが伝わってくるんだ。

 

一度でもいいから、

彼と直接向き合って

みたかったな、

よく思うのだ。

 

彼もきっと

「慣れる」ということは

あまりなかったのではないか。

 

・・・・・・

 

「慣れる」のが

いけないわけじゃない。

 

むしろ

「慣れた」方がいいと

私は思う。

 

が、「慣れる」ことで

失ってしまうものが

ある。

 

それを失わない「努力」は

必要ではないか。

 

私は今の仕事の引退を

27年後と決めている。

 

きっと27年後の

最後の日も、

私は緊張で

ガチガチなんだろうな。

 

つづく

 

シンプルな問いを一つ

 

ちょっとした簡単な

自問自答を

してみよう。

 

単純に

自分自身に

この問いを投げてみよう。

 

「今、毎日、楽しい?」

 

まるで他者に

投げるように

自分に投げてみたら、

 

どんな答えが

浮かんでくるかな?

 

次に、

こう投げよう。

 

「今の毎日の楽しさは

100点満点で何点くらい?」

 

自然に浮かぶ数字を

自覚しよう。

 

例えば、

40点だったとして、

 

「0点ではなく

40点だと思えた理由は

何だろう?」

 

そして、

 

「100点ではなく

40点になってしまった

理由は何だろう?」

 

というように

順番に自問自答しよう。

 

浮かぶ答えは

すべて紙に書くと

いいかな。

 

書いているうちに

次の発想が

浮かぶことがあるから。

 

そして最後に、

 

「では、40点を少しでも

点数アップするために、

何をする?

何をしない?

何を変化させる?

何は変化させない?」

 

やはり紙に

どんどん書こう。

 

そして

「これをやってみよう!」

 

と自然に思えることが

あれば、

 

ぜひ実行してみよう。

 

簡単なセルフコーチング法

の一つでした。

 

つづく

 

すべてを引き受けてしまおう

 

勇気を持って

進むことは

難しいかな?

 

例えば、

これまでの環境を

大きく変革したり、

 

新たな環境に

移ったり、

 

例えばそういった

かなり大きな決断を

したい!と

本気で思っても、

 

その一歩を踏み出すのは

怖いことかな?

 

そんな時、

その怖さや気弱さを

消そうとする人が

とても多いのだけど、

 

そんな時ほど

怖さも弱気も

しっかりと

味わい尽くすといい。

 

むしろ

その怖さと弱気と

ずっとずっと

共に進もうという

意志を持つくらいが

いい。

 

人として

怖さがあるのは

当たり前。

 

弱気があるのも

当たり前。

 

これらと私は

一生、親友でい続けよう。

 

くらいに

思ってしまおう。

 

そこを

決めてしまおう。

 

すると

その覚悟によって

初めて発現する

境地がある。

 

それが

「遊気」

だ。

 

私はよく

勇気を

「遊気」

と書く。

 

結構これ

本質を突いていると

思うんだ。

 

人生

遊びが如し。

 

という

どこかの偉い人が

言われた言葉が

あるらしい。

 

かなり昔から

好きな言葉だ。

 

本当に

人生の辛さや

自分の弱さを

引き受けた者からしか

出ない言葉では

ないだろうか。

 

人生

遊びが如し。

 

どうせなら

怖さも弱気も一緒に

なって

すべてを

遊び心を持ちながら

引き受けてしまおう。

 

「自分」

のすべてを

引き受けてしまおう。

 

そんな自分だからこそ、

観える景色や

道が

あるもんだ。

 

つづく

 

感情を解放してこそ安定する

 

美しいものを見て、

「美しい!」

と素直に感動できる

心は健康的だ。

言うまでも

ないことだが。

 

真本音度合いが

高まることで、

まず私が変化したのは、

 

涙もろくなった

ということかな。

 

素直に

泣けるようになった。

 

それは

感動だけでなく、

悲しみや

時には怒りや

寂しさや、

 

あらゆる感情が

素直に出るように

なった。

 

とは言え、

人前ではほとんど

泣かないけどね。

 

真本音度合いが

高まれば高まるほど、

私は

感情の起伏が激しく

大きくなった。

 

しかし

だからと言って

不安定にはならない。

 

むしろ

だからこそ

安定できるようになった。

 

感情とは、

自分を不安定にするもの

ではないのだ、

本来は。

 

自分を安定させるために

自分の感情を制御せよ、

というのが

一般的に言われたりするが、

それは逆効果だ。

 

それをとことん

やり尽くした私が

体験的によくわかる。

 

感情は

解放せよ。

 

ただし。

 

その前に

真本音度合いを

上げよ。

 

・・・ということが

大事だ。

 

順番が

大事。

 

真本音度合いが

高まるということは

心の中に「大地」が

出来上がるイメージだ。

 

揺るがない大地。

 

嵐が来ようが

槍が降ろうが

ビクともしない大地。

 

それを常に

実感できるからこそ、

あらゆる感情を

解放しても

まったく揺るがなくなる。

 

むしろ

あらゆる感情の解放は

自分自身の開放となり、

 

オープンとなった自分は

「愛」

というエネルギーを

発するようになる。

 

逆に言えば、

感情をいつも

押し殺している人からは

愛のエネルギーは

発現しない。

 

・・・・・・

 

人の悲しみは

深い。

 

人の苦しみも

深い。

 

まるでブラックホールの

ように。

 

永遠の深みを

感じる。

 

だから怖い。

 

向き合うのも

見るだけでも

怖い。

 

しかし

安定の大地を得て、

常に帰る場所を得れば、

私達は

あらゆる心と

向き合うことができる。

 

そして

その大地は

すべての人の中に

確かに存在している。

 

存在しているものを

自覚する。

 

実感する。

 

これが

本当の自分を生きる

最初のステップだ。

 

つづく

 

若者はまだ眠っている

 

あなたは

普通の成長の仕方で

満足がいくかい?

 

それとも

逸脱した成長を

してみたいという

欲求があるかい?

 

ステップアップという

言葉があるが、

階段を一段一段着実に

登って行く成長も

私は素晴らしいと思う。

 

しかし、それと共に、

「階段なんて関係ないや!」

という勢いで、

何段もひとっ飛びで

駆け登ったり、

 

もしくは、

登る階段そのものを

根底から変革し、

ロープウェイにしてしまったり、

 

そんな成長も

凄いな、と思う。

 

逸脱した成長。

 

もっとも

本人は、自分は逸脱した成長を

し続けている、

と思いながらも、

本質的には全然そうではない

という例は

たくさんある。

 

それはそれとして

ここでは横に置いておいて、

 

本質的な成長で

かつ

逸脱した成長を遂げようと

する人を見ると、

 

結構、私は

シビれてしまう。

 

応援したくなる。

 

実はそんな若者が

増えている。

 

・・・・・・

 

若い人が

逸脱した成長を

目指す姿を見ると、

ついつい

「もっと着実に行けよ」

と言いたくなるのは

人間味だろう。

 

しかしこれからの時代、

本当に必要なのは、

 

「もっと行けよ!」

 

と、

後ろからさらに

加速をサポートするような

大人達の意志である

と、

私は思っている。

 

もちろん若者にも

いろんな人がいる。

 

だから一概に

決めつけてはならないが、

 

しかし

はっきり言おう。

 

特に20代以下の

若者達の何割かは、

 

それ以上の世代の

我々には持っていない

「何か」がある。

 

その「何か」は

非常に次元の高い

何かだ。

 

それを、

我々世代の価値観をもってして

潰してはならない。

 

ちょっと極端に言えば、

縛りつけることによって

成長を促す時代は

終わった。

 

もっと極端に言えば、

 

あえて

「レベル」という言葉を

使えば、

 

彼らは

我々よりも明らかに

レベルが高いのだ。

 

何のレベルか?

 

と問われれば、

 

一つは、

意識のレベルであり、

 

一つは、

それに伴う

能力のレベルだ。

 

彼らがそれらを

素直に発揮できるように

なれば、

 

この世の中は

次世代、次々世代へとつながる

素敵なものと

なって行くだろう。

 

そのための

想いと、手段と、仕組みの発想を

彼らは

持っている。

 

ただし。

 

それらすべては

まだまだ彼らの心の奥に

眠っている。

 

眠ったものを

掘り起こすのは

彼ら自身だ。

 

我々世代は

それをサポートすることが

役割だ。

 

と、私は強く思うのだ。

 

これから私は

もっともっと

若い人達と接し、

共に進もうと思う。

 

そして、

同じように考える私と同じ世代の

人達とつながり、

やはり、共に進もう

と思う。

 

企業サポートも、

「若い人達が活躍できる組織」

に進化するためのサポートが

主となるだろう。

 

これが

現時点における私の

志だ。

 

つづく

 

願いか? 惰性か?

 

あなたは今、

丘の上に立っている。

 

かなり

高い丘だ。

 

見晴らしがいい。

 

そこから見渡せば、

自然も都市も

様々なものが

目に飛び込んでくる。

 

・・・そんなイメージを

してみてほしい。

 

すると、

 

あなたは

どんな丘に立っている

だろうか?

 

季節は?

 

時刻は?

 

天気は?

 

空気は?

 

音は?

 

そして、あなたは

何を見渡して

いるだろうか?

 

それを見ながら、

何を感じているだろうか?

 

あなたの中には

どんな心の声が浮かび、

 

そして

どんな願いが

その奥に

潜んでいるだろうか?

 

・・・・・・

 

私達には

願いがある。

 

願いがあるから

ここに

存在している。

 

人生を生きる

とは、

その願いを見つけ、

その願いに向かうこと、

だ。

 

それにより

願いはさらに

進化する。

 

願いの進化こそが

自分の進化だ。

 

人の進化だ。

 

迷ったら、

願いに戻れば

いい。

 

願いがまだよく

わからなかったとしても、

 

願いに戻ろう

 

という意志を

持つだけでいい。

 

いや、

違うな。

 

迷わなくても

毎日それを

するといい。

 

よくよく考えたら

私は毎日、

 

いや、

 

毎時、毎分、毎秒、

それを

し続けているかも

しれない。

 

だから

人生が満たされるものに

なったのだな、

今、気づいたな。

 

・・・・・・

 

あなたは

何だ?

 

あなたは

願いだ。

 

あなたの

願いは何だ?

 

それが

あなただ。

 

私達は皆、

願いなんだ。

 

願いが

現実化したものが

人間だ。

 

その本質を

忘れては

ならない、

何があっても。

 

時代は

変わった。

 

願いなしでも

ごまかしながらでも

何となく生きていける

時代はもう

終わった。

 

願いにフタをすることで

発生する空虚感。

 

それをモロに

感じる時代になった。

 

惰性で生きていける

時代は

終わったんだ。

 

だから我々は

これからは

これまで以上に

迷うだろう。

 

答えのない迷路に

入り込むことも

頻繁にあるだろう。

 

人生においても

社会的に見ても。

 

だからこそ

願いに戻ろう。

 

願いに戻って

「今」

に向かおう。

 

これがやはり

基本であり、

 

その基本が

あまりにも重要になるのが

これからの毎日だ。

 

一日、一日、・・・

 

時間は着実に

過ぎていく。

 

願いとして

生きるか、

惰性で

生きるか、

 

すべては

自分自身に

かかっている。

 

つづく