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目の前に
まっすぐな道が
延々と
続いている
イメージをしてみて
ください。
もし
どうしても
曲がった道しか
イメージできない場合は、
どうすれば
まっすぐな道に
なるだろうか?
と自分自身に
問うてください。
まっすぐな道に
なるために、
今の自分に
必要なことは
何だろうか?
まっすぐな道に
なるために、
今の自分が
変えなければ
ならないことは
何だろうか?
などの問いも
よいでしょう。
まっすぐな道を
イメージできる人は
その道を
一気に進もうと
今、
決意しています。
しかもその
スピードは、
恐らく、
過去最高
です。
過去最高の
加速と
過去最高の
速度を
出そうと
しています。
過去最高を
記録するために、
今の自分に
必要なことは
何だろう?
今の自分が
今のうちに
準備しなければ
ならないことは
何だろう?
と、
自分に問うて
みてください。
・・・・・・
「過去最高」に
挑戦しようと
する人が、
今、
過去最高に
増えていると
私は最近
強く実感しています。
結構、
今の私は
感無量です。
あぁやっと
こんな時代に
なったのだなと、
なぜか
とても思えます。
まずは
この状態までに
来たかったんだ、
と
私の真本音も
笑っています。
きっと今、
私と同様に
真本音が笑っている
人が
多いのでしょう。
とても
穏やかな
気分です。
実在のレベルで
これだけ
穏やかさを
感じるのは、
ひょっとすると
生まれて初めて
かもしれません。
・・・・・・
「まっすぐな道」
の彼方に、
もし観えるものが
あれば、
それをしっかりと
キャッチしてください。
例えば私の場合、
七色に輝く
光が観えます。
その光と
じっくり向き合って
いますと、
何となく伝わってくる
メッセージが
あります。
それを言葉に
すると
次のようになるでしょうか。
「あなたはまだ
本当の自分を
まったく知らない。
これからだよ、
本当に楽しいのは。」
はははっ。
まぁ、
楽しみましょうか。
つづく
あなたは
たった一人。
他は
誰もいない。
広く
永遠に続く
大地に
一人。
孤独。
そんな
不安な中でも、
それでも
あなたが
進みたい道とは
何ですか?
周りに誰も
理解者が
いなくても、
それでも
あなたが
切り拓きたい
道とは
何ですか?
いや・・・、
孤独な道は
私は進みたく
ない。
人の協力を
得られない道で
あれば、
私が進むことは
ない。
・・・と、
あなたは
思っているかも
しれませんが、
いえ、
あなたの中には
間違いなく、
たった一人でも
進みたい道が
存在して
います。
たった一人でも
その道を
行く。
そんな覚悟を
あなたは
生まれながらにして
持ち合わせて
います。
そこにそろそろ
気づけると
よいですね。
誰しもが
孤独は
いやですから、
というよりも、
私達のあらゆる
恐れの
根元には、
孤独への
恐れ
がありますから、
そんなことは
考えたくも
ないかも
しれません。
しかし
最も根源的な
恐れに
立ち向かって
までも、
進みたい道が
あなたの
中心には
確かに
存在している
はずです。
そろそろ
そこに
目を向ける
ときですね。
一人でも
進もう、
とする覚悟。
それは
あなたの
存在意義そのもの
でもあります。
そこを
しっかり
自覚し、
その想いと
願いを
しっかりと
抱き、
たった一人でも
歩き始めた
その時にこそ、
あなたの
本当の仲間、
ファミリー達は
あなたの
人生に
現れるのです。
あなたには
仲間が、
ファミリーが
います。
しかし
彼らは、
あなたが
たった一人でも
進もうとする
その
尊い意志にこそ
共鳴
するのです。
つづく
だってさぁ、
よく考えてごらんよ。
あなたが
生まれてきたことで、
いったい
どれだけの人が
救われたと
思う?
あなたは
自分の存在なんて
ちっぽけなもの
だと
思っているようだけど、
少なくとも
私は
あなたに
救われたのよ。
そりゃ、ね
あなたがいなければ
生きてられなかった、
なんて
そんな大袈裟な話では
ないよ。
でもね、
私はね、
私の心はね、
随分と
救われたのよ。
あなたの
知らないところ
でね。
そうだね。
確かにあなたは
私に何か
立派なことを
してくれた
わけではないよ。
うん、
たくさん
傷つけられた
気もする。
でも
あなたがいなければ
起こらなかった
ことは
たくさんあるの。
あなたがいなければ
始まらなかった
ことも
たくさんある。
ほんのわずかな
ことかも
しれないけど、
私は
救われたよ。
あの時の
あなたのちょっとした
笑い顔に。
あなたのちょっとした
つぶやきに。
あなたの
存在そのものに。
あなたが
いなければ、
私の人生は
違ったものに
なってるよ。
確かに
それが良かったかどうか、
なんてわからない。笑
でも
私の人生には
あなたとの出会いが
入っているの。
こうやって
あなたと
出会ったのだから。
それが
事実なのだから。
私は
私の人生で
あなたと
出会った。
ということは、
それが
私の人生。
あなたとの
出会いのない
私の人生は
ない、
ってことなの。
あなたは
私の人生で
必須なの。
そこに
良いも悪いも
ない。
厳然たる
事実。
人はね。
誰しもね。
必ず
その人の
「風」
を吹かせるの。
その人
ならではの
「風」。
出会うという
ことはね、
その「風」に
当たる
ということなの。
私は
あなたの「風」に
当たったの。
それによって
私の「風」も
影響を受けたの。
「風」同士が
影響し合って
それぞれが
お互いの「風」を
変化させ合って、
そして時には
「風」と「風」が
新たな「風」を
生み出すこともある。
そうやって
私達は
自ら生み出した
「風」のコラボによって
今、ここで
生きている。
あなたにしかない
「風」があって、
その影響は
測り知れないよ。
私達の体は
こんなにも小さいし、
一個しかないし、
できる行動も
わずかだけど、
「風」は
一度吹いたら
永遠に吹き続ける
んだよ。
その影響は
測り知れない
んだよ。
あなたの存在は
測り知れない
んだよ。
あなたは
あなたの「風」を
生み出し切れた?
あなたにしか
吹かせられない
「風」を
躊躇なく
吹かしてる?
あなたの「風」は
私を救い、
そして
多くの人を
救っていく。
その自覚を
しっかり持ってね。
だからもう
こんなところで
立ち止まらないで。
人生は
まだまだ続く。
だって
あなたの「風」を
待っている人が
いるのだから。
あなたとの
出会いを
待っている人が
いるのだから。
つづく
あなたの目の前には
大勢の観客が
います。
あなたは
壇上に立って、
彼らに向かって
話をしています。
皆、とても熱心に
あなたの話を
聴いています。
あなたは
必死に語ります。
自分自身の
人生について
語っています。
人生において
見つかったこと、
得られたものに
ついて、
全身全霊で
語っています。
すべてを
語り終えた時、
たくさんの拍手が
湧き起こりました。
その拍手の中で、
あなたは
ホッとしました。
・・・・・・
すると突然、
舞台の端の方に
スポットライトが
当たりました。
そこには
重々しい顔をした
人達が数名、
座っていました。
「審査員」という
貼り紙が
見えます。
どうやら各分野の
エキスパート達
のようです。
人生のエキスパート
です。
突然、司会者も
現れ、
「審査員の先生方、
今のお話はいかが
でしたか?
彼の人生は
いかがでしたか?」
と問いました。
すると、
「審査員」と呼ばれた
数名のエキスパート達が
順番に印象を
述べ始めました。
褒める部分も
ありますが、
概して、
かなり辛辣な意見や、
「もっとこうしなさい」
というアドバイスが
多く出されました。
あなたは先ほどの
拍手を忘れ、
だんだんと心が
萎んでいきました。
一通りの話が
終わったところで、
司会者が
言いました。
「はい、では
審査員の皆さん、
彼の人生の点数は?」
すると、
電光掲示板に
大きく数字が
映し出されました。
「30て〜〜ん!!」
と司会者が
叫びました。
「30点です!
残念ながら失格です。
予選落ちですね〜。
でも、次回も是非
挑戦してください。」
と司会者は
にこやかに
言いました。
観客からは
あたたかい拍手が。
しかし
あなたにはそんなものは
もう、
聞こえていませんでした。
30点・・・。
失意の中で
あなたは
うなだれました。
・・・・・・
私達の心の中には
常に
「審査員」が
います。
そして常に自分に
対して、
ダメ出しをし続けます。
もちろん
自分自身を
応援してくれる心も
あります。
しかし「審査員」の
意見は絶対で、
あなたは自身の中の
その意見に縛られ、
その結果、
人生を進めるうちに
徐々に
自分自身を萎縮
させていきます。
自分を
審査することは
大事。
自分を反省したり、
振り返ることも
大事。
客観性も
大事。
しかしそれらは、
「伸び伸びと生きる」
という前提のもとでこそ
意味があるのでは
ないでしょうか。
「審査員」の
ない時間。
「審査員」の
ない空間。
「審査員」の
ない人生。
「自由になる」
とは、
そういった瞬間が
増えていくことでは
ないでしょうか。
そして
大変、面白いことに、
私達人間は、
そういった
「自由時間」が
増えれば増えるほど、
周りと「調和」し、
「審査員」の点数も
格段に
上がっていくのです。
つづく
ある暗い倉庫の中で
遊んでいた子どもが
ふと、
外に出たとします。
外は
太陽の光が
注いでいます。
出た瞬間は、
それがあまりにも
まぶしくて、
目を開けて
いられません
でした。
しかし次第に
目が慣れて
きました。
周りを見渡すと
とても気持ちの良い
草原が
広がっていました。
青空と
爽やかな風と
広々とした
大地。
草原はどこまでも
続き、
その子は
大はしゃぎで
走り回って
遊びました。
ふと見ると、
倉庫がありました。
とても小さい。
あぁそうか、
さっきまで
あそこの中に
いたんだ、
とわかりました。
あんな小さな
中にいたんだ、と。
そこでもう一度、
倉庫の扉を開け、
中を覗いて見ると、
真っ暗で
何も見えません。
しかも中は
窮屈で、
空気も淀んで
います。
わぁ、さっきまで
こんな中に
いたんだ、
とびっくりしました。
いや、もう
ここには
戻りたくないなぁ、
と。
ふと、
気配がしたので
その子は
後ろを振り返りました。
すると、
ニコニコした
「家族」が
いました。
あっ、家族だ
と
一瞬でわかりました。
久しぶりに
会えた!
と思いました。
「母親」が
言いました。
「倉庫の中で
何やってたの?
随分と長い間
入ってたね。」
「うん。
あそこが僕の家
だと思ってた。」
「あはは、
何言ってんの。
あなたの家は
あそこでしょ?」
と「母親」の指差す
方向を見ると、
とても大きく、
しかも可愛らしく、
そして居心地良さそうな
建物が見えました。
あぁそうだ。
あそこが僕の
家だった。
僕はいつも
あそこで
寝起きしていた。
とても楽しい
毎日だった。
あっそうか。
僕はあそこで
育っていけば
いいんだ。
暗い倉庫の
中でじっとして
いなくてもいいんだ。
と思い出し
ました。
「父親」が
言いました。
「あの倉庫の中で
何をしていたんだい?」
「う〜ん。
何をしていたんだっけ?
なんか大切なことを
していたような・・・。
あっそうか。
探し物を
していたんだ。」
「見つかったのかい?」
「ううん。
そういえばまだ
見つかってないや。」
「それは
見つけた方が
いいものかい?」
「・・・そうだなぁ。
見つけた方が
いいかな。」
すると、
「兄弟達」が
言いました。
「そうなんだ。
じゃあ僕らも
手伝おうか?」
「ほんと!?
それは嬉しいなぁ。」
「そうしよ、そうしよ、
一緒に探してあげるよ。」
「わ〜い!
そうしよう!」
「兄弟達」は
その小さくて
暗い倉庫の中に
一緒に入りました。
最初は
暗くて何も見えなかった
けれど、
やはり中に入れば
暗さに目が慣れて
きます。
「兄弟達」は
協力して、
探し物をしています。
その子は、もう
知っています。
今のこの倉庫は
僕の本当の家ではない、
と。
しかし今の僕には
とても大切な場所で、
ここでしか
見つからないものが
あると。
でも、
ここで見つけたいものを
見つけられたら、
再び
外に出ることが
できる、と。
そして、外には
僕の本当の「家」が
ある、と。
その子はそれを
思い出しました。
だから、
あえてこの倉庫の
中にいる
意味も意義も
わかります。
しかも
「兄弟達」も
今はいます。
すると、
この倉庫が
より愛おしくなって
きました。
倉庫よ、
ありがとう!
そんな気持ちに
なってきました。
・・・・・・
真本音の人生を
歩き始める、
というのは、
そんなような
ものですね。
つづく
最近、増えている
のですが、
心の中に
「竜巻」
を持っている人が
います。
強烈な竜巻がずっと
心の中で暴れ続け、
その竜巻に自らが
飲み込まれ、
グルグルグルグル
と
目が回り続け、
自分が毎日、
何をしているのか?
自分が本当は
何をしたいのか?
自分が今、
何に取り組めば良いのか?
などが
まったく見えなくなって
しまっています。
・・・・・・
その竜巻を
止めることは
本当はとても
簡単なのですが、
多くの場合は、
その本人が
止めようとして
いません。
目が回っている自分
でい続けよう
としているのですね。
その理由の多くは、
「見たくないものが
ある」
からです。
要するに
現実から目を
背けてしまって
いるのです。
しかし稀に、
それを
真本音で行なっている
人がいます。
その場合、
真本音は何を
望んでいるのでしょうか?
理由は
単純です。
自分を
進ませない
ためです。
・・・・・・
私達の真本音は
「現実との調和」
を重んじます。
その結果、
自分自身が
進む準備が整って
いても、
現実(状況)の準備が
整っていない場合、
現実(状況)が整うのを
じっと待つ、
ということをします。
しかし
自分自身の準備が
整ってしまうと、
人は皆、
とにかく前へ前へと
進みたがります。
そんな自分を
抑えるために、
あえて、
自分の中に竜巻を
起こし、
そこに自分を
封じ込めるのです。
エネルギーの高い
人ほど、
そんなことをします。
・・・・・・
たけうちさん、
なんか最近、私は
心がとても
不安定なんです。
理由が
わかりません。
いつもなぜか
落ち着きません。
冷静な
判断もできません。
周りの状況を
きちんと把握したり、
ありのままに
現実を観ることも
できていない感じが
します。
私はまずい状態では
ありませんか?
そのように
クライアントさんから
問われるケースが
最近、増えています。
面白いことに
真本音度合いの高い
人ほど
そうなります。
私は
「そのままで
いいですよ」
と笑って答えます。
「今、わざと
グルグル回って
いますから。
しばらくそのままで
回っていてください」
と。
「えぇ〜!?」
と言いながら、
そのクライアントさんは
途端に楽しげに
なります。
今はそれで
良いのです。
そのうちに、
ピタリと竜巻は
止まります。
そしてその瞬間から
あらゆることが
ありありと観える
ようになります。
そうなったら、
全速力で
進みましょう!
つづく
あっ、今
この選択をすれば、
私は私で
なくなってしまうかも
しれないな。
これまで
「私である」
と思っていた私が
壊れてしまいそうだな。
「私」というダムが
決壊して
しまいそうだな。
・・・そんな風に
思う瞬間は
ありませんか?
そんな風に
思う瞬間を感じる人
が増えているのでは
ありませんか?
自分が自分を
壊す、
というテーマについては
これまでも何度か
書かせていただきました。
その時に、
「どのようにすれば
自分を壊すことが
できるのでしょうか?」
というご質問を
いただいたりも
しました。
まずは、
「自分を壊す」
というのは決して
悪いことではない、
ということを
頭で認識することが
大事です。
壊れるというのは
とても怖そうな
ことですが、
そして、
壊れてしまうと
「私」という存在が
なくなってしまう、
そんな喪失感も
ありますが、
壊れても
壊れても
決して消えないのが
「私」
なんです。
壊れても
壊れても
そこに「私」は
存在し続けます。
そして
壊れれば
壊れるほどに
「私」は
「本来の私」に
近づいていきます。
しかもそれを
「進化」と
言います。
壊れることは
決して悪いことでは
ありません。
では、
どうすれば
壊れるのか?
まずは意図的に
「壊そう」とは
しないことです。
意図的に壊す方法も
もちろんありますが、
それはある意味
「上級者」のできる
ことです。
ほとんどのケースでは
「勝手に壊れていく」
のです。
「自然に壊れていく」
のです。
ただし、
壊れる方向の
何らかの選択をする
という「きっかけ」が
必要です。
「きっかけ」とは
その選択への
「第一歩」
を踏み出すことです。
・・・・・・
冒頭に書きました、
「あっ、この選択をすれば
自分は壊れるな」
という感覚を
私達は何となく肌で
感じることができます。
それを肌で感じた場合、
実は私のこれまでの
現場感覚では、
ほぼ9割くらいの人が
そこでその選択から
逃げてしまいます。
まぁ、
当たり前ですけどね。
だって、
怖いから。
怖い方向には
人は行かないですから。
しかし、
真本音度合いが高まると、
その「怖い選択」が
気になってしょうがなく
なります。
これまでは
あっという間に
逃げていたのに、
今回は
逃げようとはするけど、
なんか気になってしまう。
「本当に逃げてしまって
いいのだろうか?」
という疑問が
湧き始めるのです。
そしてある時に、
その「怖い選択」を
ついに、
エイヤッと選んで
しまいます。
そしてその人は
本当に
壊れます。
しかし、
壊れた後の開放感も
同時に得ます。
それが一つの体験
となり、
その後も
「壊れる選択」を
続けるようになります。
そして、
「壊れる選択」こそが
最善だとわかるように
なり、
「壊れる選択」こそが
最も楽しく充実し、
しかも最も楽である
ことも知るように
なります。
そしてついには、
「普通に進む」とは
壊れる選択を
し続けることだと
いう状態になります。
ここまで来ると
ほぼ、
真本音度合い100%
です。
進化への道
まっしぐら、
という状態です。
そしてこれも
これまで何度も
書かせていただきましたが、
その
進化への道まっしぐら
という状態こそが、
私達人間が
最も安定し、
安心できる状態である
ということです。
決壊することは
怖いのに、
本当は
決壊し続けることこそが
最も楽だった。
・・・という、
人間とは実に実に
面白い存在です。
つづく
迷うことが
いけないわけでは
ありません。
むしろ
人生とは
迷いである。
と言っても
よいでしょう。
大切なのは、
自分の中に発生した
迷いと
対峙することです。
今、
私は
何に
迷っているのか?
自分と向き合う
基本は
これです。
・・・・・・
時々、
「私には迷いが
ありません」
という人が
います。
もし本当に
そう思っているのなら、
それは
大間違いです。
迷いがない
わけがありません。
なぜなら
迷いをもたらすのは
私達自身の
真本音だからです。
毎日毎日
自分自身に
最善の迷いを
もたらすのが、
ある意味、
真本音の仕事
でもあります。
なぜ
真本音は
そのようなことを
するのか?
それは
「答え」に気づいて
もらうためです。
まず私達の中には
「答え」が
生まれます。
そしてその答えに
自らが気づくために
「迷い」が
発生します。
答えのない迷い
は
ありません。
今、気づくべき
大切な答えに
行き着くための
手段が
迷いです。
そういった意味で、
・自分の迷いに
瞬時に気づき、
かつ、
・その迷いの答えに
瞬時に気づく。
・・・ということでの
「迷いのない人」
はいます。
つまり、
迷いのない人とは
迷いそのものがない人
ではなく、
誰よりも早く迷いに気づき、
誰よりも早く
答えを見つけ出せる
名人だと言うことです。
・・・・・・
ただし、
私達の真本音が
大切にしていることが
もう一つあります。
それは、
・迷うタイミング
と
・答えを出すタイミング
です。
要するに
「タイミング」
です。
このタイミングは
早すぎても
遅すぎても
いけません。
最高のタイミング
があります。
ですから、
ある時にふと
迷いに気づき、
しかしその答えは
なかなか
見つからずに、
モヤモヤを続け、
しかし、
ある最高のタイミングで
答えを見つける
ことができる。
・・・ということが
できれば、
人生のすべてが
調和を始めます。
迷っていることを
迷ったままに
していることに
迷いがない、
という人。
ここまでできる人
こそが、
真に
「迷いのない人」
ですね。
・最もよいタイミングで
迷いを見つけ、
・最もよいタイミングで
答えを見つける。
・あとはそれを
そのまま実行するだけ。
真本音で生きる
とは、つまりは
そういうことなのです。
つづく
やめるべきことは
やめた方がいい、
きっぱりと。
やめるべきことを
やめずに
ずっと続けることは、
10トンの重りを
足につけながら
全力疾走をし続ける
よりももっと
物事の効率も
現実の展開も
悪くなります。
手放すべきを
手放す。
これが
人生のとても重要な
原理原則。
3次元世界の
掟です。
マネジメントにしても
リーダシップにしても、
何をやらないか?
そして
何をやめるか?
これを明確にすることが
ファーストステップ
です。
このファーストステップを
きちんと経ずして
良いマネジメントも
良いリーダーシップも
あり得ません。
やめるべき、
手放すべき、
を
そのままにして
前に進もうとすることは
傲慢の極みです。
・・・・・・
と、
かなり断定的に
書きましたが、
でもやはりこれは
決して大袈裟な表現では
ありません。
人生が思うように
進まない。
いつも何かしら
妨害や障害ばかりが
自分に降りかかる。
こういった場合の
ほとんどは、
ここに原因が
あります。
自分が人生において
何をするか?
何が人生の目的か?
といった重要な答えも、
手放すべきことを
手放さなければ、
一生、見つかりません。
これは、
私達の真本音が
決めていることです。
私達の真本音は
私達の進化の度合いを
手放せるか?
手放せないか?
で測ります。
何ができるか?
では、
測らないのです。
「できることが
増えていく」
というのは実は、
単なる「膨張」です。
「進化」とは
余分なものをどんどん
脱ぎ捨てていくこと
だからです。
ある一定以上の何かを
脱ぎ捨てたり
手放すことで、
私達の真本音は
私達自身の
「準備が整ったな」
と判断します。
そして、
次のステージに
進もうとします。
それがステージアップに
つながります。
・・・・・・
手放すべきものから
目を逸らしていては
何も始まりません。
手放すには
勇気が必要ですが、
手放すこと自体は
とても簡単です。
勇気をもって
しっかりと
手放すべきものを
見つめましょう。
しっかりと
見つめながら、
毅然と
手放しましょう。
あなたにはもう
それができる
はずです。
つづく
あなたは
そのままでいいです。
変わろうと
しないでください。
自分の思う通りに
わがままに。
自分がいけない、
なんて思わないで
ください。
もっともっと
わがままに
思うままに、
自分を変えようとせず、
自分はOKだと信じて
好きなように
やってください。
・・・時々ですが、
私はクライアントさんに
そのようにお伝えする
ことがあります。
私がそうお伝えすると、
多くの場合、
「えっ?
いいんですか?」
という反応が
返ってきます。
自分がわがままに
なってしまうと
大変なことが
起こるのではないか。
不調和や戦いばかりが
巻き起こるのでは
ないか。
そんな風に
お考えになるのですね。
まぁ当たり前です。
普通はそうですからね。
・・・・・・
もちろん
私がそのように
お伝えするのは、
その人自身の
真本音が
「そのように私に
伝えてください」
と望んでいるのが
わかるケースのみ
です。
「あなたは
そのままで。」
「自分が変わらなきゃ
ならないと
一切思わないで
ください。」
実は、
この言葉を
お伝えすることで、
その人は
変わり始めるのです。
変わり始めると
言っても、
別人になるのでは
ありません。
本来のその人が
ニョキニョキと
芽を出し始める
のです。
・・・・・・
一見、自由奔放に
生きている人に
限って、
その実、
心の中では
かなり真面目な部分を
お持ちの人は
多いです。
しかしその「真面目さ」は
反応本音だったり
します。
本当はその人は
自由奔放さを
100%発揮することで
周りと完全調和できる
のに、
その真面目さによって
その100%を
阻害してしまいます。
すると途端に
不調和が起こります。
つまり、
自由奔放に
行き切れば良い
のに、
行き切れないので
様々な問題が
起こることに。
そういう人に対して
周りの人は
「あの人は
自由奔放だから
様々な確執を
起こしてしまうのだ。
だから
あの人の奔放さを
制御しなければ
ならない」
と判断します。
まぁ当然ですけどね。
しかし、
その制御をすれば
するほど、
確執や不調和は
さらに起こることに
なるのです。
100%の奔放さを
発揮することで、
面白いことに
その人は
本来の自分の在り方を
取り戻し、
結果として
とても穏やかな空気感に
なっていきます。
そういった変化を
もたらすために
必要なアドバイスが、
「そのままで
いてください。」
「自分が変わらなきゃ
ならないと
一切思わないで
ください。」
なのです。
そういったタイプの
人が、
時々、いるのです。
・・・・・・
真面目さが
いけないわけでは
ありません。
むしろ私は、
真面目さこそが
人の進化には
必須のことだと
思っています。
しかし、
真面目さと
自由奔放さは
対義語では
ありません。
人は、
本当に自由に
なれば、
自然に真面目に
なります。
自分を悪い意味で
制御してしまう
真面目さとは、
本当はそれは
真面目、ではなく、
単に
周りとの確執を
恐れるあまりの
妥協に過ぎなかったり
するのです。
つづく
どんどん加速をして
スピードを速めよう
とする人ほど、
どうしても
焦る傾向にあります。
また、
人にもよりますが、
真本音度合いが高まり、
高い次元の自分の意識を
認識できるように
なることで、逆に
低い次元の自分の
ノロさや、
現実の進む遅さや、
変化のあまりの
少なさに、
これまで経験したことの
ない
焦りを感じ、
「早く何とかしなければ」
と
右往左往し始めてしまう
ことがあります。
私の表現で
端的に言えば、
「実在と現象のギャップ」
というヤツです。
このギャップを感じる
感性を得ると、
「このままではいけない」
という使命感が
湧いてきます。
その使命感自体は
とても大切なもの
ですが、
あえてそういった方々に
私が申し上げたいのは、
焦ってはならない!
ということです。
焦っても
何も始まらない
からです。
そして、
せっかく真本音度合いが
高まっているのに、
焦ることで
大切なものが
観えなくなってしまいます。
その結果、
真本音度合いが
低まってしまうことも
あります。
焦りの気持ちが
芽生えた時こそ、
一度、止まる。
ドッシリと構える。
自分を
自然体に戻す。
そして、
様々な現実の
一つ一つを
しっかりと
あるがままに
観察する。
ということを
お勧めします。
余分な行動(言動)の
一つが
一つの不調和を
起こします。
焦りからくる
行動(言動)は
一切やめて、
ただ、
じっと観察を
続けましょう。
そして、
本当に自分が
迷うことなく、
「今、これをしよう!」
と、100%思えること
のみを
行動に移しましょう。
やみくもに
石を池に投げ入れても、
波紋が入り乱れるだけ
です。
たった一つの
的確な波紋を
広げましょう。
その波紋は
深く深く
影響を及ぼしながら
永遠に広がり
続けます。
たった一つの石で
すべての展開が
根底から変わることも
あるのです。
焦ったら、
止まりましょう。
そして、
ここぞという瞬間に
走り出しましょう。
どうせなら
気持ちの良い
全力疾走を。
つづく
人が人を想う
気持ちの
なんと深いことか!
と、
この仕事をしていますと、
感嘆すること
ばかりです。
例えば、
誰かが誰かを
否定する。
「あいつとはもう
一緒にいたくない」
と言ったとする。
しかし、
その言葉の
さらに奥からは、
その人の
強い意志が
伝わってくることが
あります。
「私はあの人を
救いたいのです」
と。
もちろんそれは
ご本人自身が
気づいていない
想いです。
気づいていないのに、
こちらに
強烈に伝わって
きます。
こういった想いを
浴びるにつけ、
私はコーチとして、
第3者にしか
できないサポート
を徹底的に
することを
心密かに
誓います。
人の想いの
深さは、
私の原動力でも
あります。
想いは
カタチにする。
必ず。
それが私の
誓いです。
つづく
始めよう!
もし、今何かを
始めようかどうか?と
迷っている人が
いたとしたら、
私はそう
オススメします。
始めよう!
2018年は、
始めるには
うってつけの年
です。
世の中全体の
真本音には
潮流というものが
あります。
今は
その潮流が、
始めよう!という
意志に
力を与えてくれます。
新たに何かを
始めることは
もちろん
勇気の要ること
ですが、
勇気さえ出せば、
最初の一歩を
踏み出せば、
新たな世界が
一気に
広がるでしょう。
これまで、
私はちょっと
真本音の度合いの
低い人生
だったかな?
と反省している人も
ここで思い切って
始めることで、
人生の転換を
はかることも
できるかもしれません。
もちろん
闇雲に
やけっぱちに
始めるのは
オススメできませんが、
心を静かにして
目を閉じて、
自分の心と
しっかりと向き合って
「私が
私自身の人生を
しっかりと創っていく」
という
覚悟の気持ちが
あるのでしたら、
ここは
一歩を踏み出して
みましょう。
・・・・・・
いつも
書かせていただくこと
ですが、
この3次元の世界は
未来に何が起こるか?が
わからないところに
魅力があります。
これは
3次元世界特有の
魅力です。
これがあるからこそ、
人生の難しさも
あるわけですが。
しかしよくよく
考えますと、
私達はまずは
勇気を奮って
この世界に生まれて
きました。
これ以上に
勇気の要る
始まりは
ありません。
そこを
くぐり抜けてきた以上、
私達にはすでに
必要な勇気は
備わっています。
少し前の私は
「勇気とは
遊気である」
とよく
自分自身に
語りかけていました。
おかげで
結構、
いざという本番には
強かったかな。
いざとなると
「遊気」
が働いてくれたので。
でもその「遊気」は、
「始めよう」と
思った瞬間に
実際に始めてしまう、
という経験の
連続によって
育まれるものだと
思うのですよね。
・・・・・・
始まり。
というのは
ワクワクしますね。
ヒリヒリも
します。
人生の
醍醐味です。
毎日が始まり、
というくらいに
人生を楽しめると
よいですね。
昨日まで
創り上げたものを
守る人生も
大事ですが、
毎日、心の中では
ゼロリセットをして、
新たな人生が
始まるくらいの意識で
一日を始められる
というのも
なかなかのもんです。
むしろその方が、
昨日まで培ったものが
結果的にはすべて
活かされるかな。
人生とは
始まりである。
極端に言えば
そんな人生にしても
よいのでは
ないでしょうか。
つづく
これまでの
延長線上の未来を
描くことは、
もういっそのこと
やめて
しまいましょう。
そこに
私達の
本当に望む未来は
ありません。
よくよく考えると、
人生が
きれいな比例直線
のように
進むことは
ほぼありません。
どこかで
これまでの流れが
断絶し、
どこかで
これまでとは
まったく別の
地点に飛んだり、
別の世界に
ワープしたり、
非直線的に
進みます。
要するに、
思惑通りには
進まないのが
人生です。
なぜなら
私達の真本音が
「思惑を超える」
ことを
望んでいるから
です。
非線形
の人生。
これが、
普通の人生です。
・・・・・・
どうせ
思惑通りに
いかないのであれば、
その
思惑通りに
いかないこと自体を
楽しみましょう。
思惑通りの法則に
則らない、
という法則を
そのまま受け入れる
ことで、
私達は
ある種の
次元の異なる
安定感を得ます。
何が
起きてもいいし、
何も
起こらなくても
いいや。
というところに
立ち、
すべての思惑を
手放し、
ただ
「ここ」
にいる。
そのような状態に
入ることで、
非線形の人生は
一気に
加速します。
反応本音のレベル
では、
それを
「怖い!」
と認識するかも
しれませんが、
それは
あくまでも
反応本音。
その反応本音すら
そのままに
しておきます。
つまり
心もそのまま。
何がどのように
動いてもいい。
という状態に
しておきます。
・・・・・・
ということは
つまり、
現実で、
何が起きても、
何も起こらなくても、
いい。
心の中も、
何が起きても
何も起こらなくても
いい。
という状態にします。
これを
私のよく使う言葉で
さらに端的に
言えば、
実在も
現象も
どうなっても
いいや。
・・・という状態。
実在も
現象も
あるがままで
いいや。
・・・という状態。
こうなることで
私達は
完全なる自由を
手に入れます。
非直線的で
非線形の
人生を、
まったく
思惑を持たずに、
完全に
コントロール
する状態と
なります。
そこに至って
私達は
知るのです。
なんだ、
すべては
「一つ」
ではないか。
すべては
「私」
であり、
すべては
「あなた」
ではないか。
私がこれまで
「思惑」と
呼んでいたものは、
全体の中の
たった一個の
細胞が、
全体から
分離された
とてつもなく狭い
視野の中での
とてつもなく
小さな意図に
過ぎなかったのだ、
と。
本当の意図は
ここにあった。
本当の意図は
「すべて」に
あり、
そして
「私」にあり、
さらに
「あなた」に
あった、
と。
言葉にすると
ややこしく
なりますが、
以上を
「感覚として」
完全に
理解している、
・・・というよりも
思い出している
意識を
『8次元の意識』
と私は呼んでいます。
・・・・・・
8次元の意識を
思い出したと
言っても、
低い次元の意識が
なくなることは
ありません。
すべてが一つである、
とわかっている
意識もあれば、
すべてが分離した
中で生きる意識も
あります。
すべての次元が
共存する
世界。
それが、
「人間」
です。
そんな「人間」が
繰り広げる人生
なのですから、
それが
面白くないわけが
ありませんね。
つづく
真本音で生きる
ことは
幸せですか?
と問われる
ことがあります。
もちろん幸せ
ですよ。
と答えるのですが、
では、
何が幸せですか?
と問われると、
一瞬、返答に
窮することがあります。
なぜなら、
何が?
と言われても、
すべてが、
としか言いようが
ないからです。
しかし、
すべてが
という答えほど
曖昧な表現も
ありません。
もっと明確に
ならんかな?
と思うのですが。
・・・・・・
すると、
次にはこう
問われたりします。
ということは、
すべてが理想通りに
いくのですか?
と。
いや〜、
もちろんそうなると
良いのでしょうが、
残念ながら
理想通りに事が進むことは
ほぼ、
ないのです。
「理想」は
大事なのですが、
「理想」とは所詮、
今の自分が解釈する
最高の状態
にしか過ぎません。
例えば、
10年後の自分の理想と
今の自分の理想は
変化する可能性が
ありますね。
下手をすると
真逆になることさえ
あります。
自分にとっての「理想」
とはどのようなものか?
というのは、
実はかなり曖昧です。
ただ、
今の自分なりの「理想」
を描くこと自体は
大事なのですけどね。
・・・というようなことを
踏まえた上で
もう一度言うと、
理想通りに進むことなど
ほぼ、ありません。
この3次元の世界に
おいては、
理想がそのまま
現実化するという状態は
滅多には実現しません。
そのように
できています。
もっと言えば、
そのように
私達の真本音が
決めているのです。
つまりは、
私達の真本音は
理想通りにいかないことを
望んでいます。
かと言って
不幸になることを
望んでいるわけでも
ありません。
理想と現実の
ギャップを楽しむ、
ことを
真本音は望んでいますし、
私達の解釈でしかない
理想を
超えていくことをまた、
真本音は望んでいる
のです。
以前は
ああいうことが理想
だったのに、
今の私は変わったなぁ。
今は、
こういうことが理想だな。
・・・という変化を
私達の真本音は
楽しみます。
そして、
「理想通りに物事が
進むこと」
を望むのではなく、
「自分にとって
本当に必要な
試行錯誤を続けること」
を
望んでいるのです。
ですから、
真本音の人生には
次々に課題が
現れます。
しかしその課題に
真正面から向き合い、
最善だと思う一歩一歩を
進むことに、
私達の真本音は
無上の悦びを得るのです。
なぜなら
私達の本能の中心は
「進化」だからです。
物事の「達成」とは
「進化」のための
ステップに過ぎません。
「達成」はとても
大切です。
しかし、
「進化」につながらない
「達成」では、
私達の真本音は
悦びません。
「進化」につながる
試行錯誤と
一つ一つの達成を
私達は
真から望んでいるのです。
・・・・・・
そういった意味で、
真本音で生きると、
日常で起こる
あらゆる現実が
「幸せ」となります。
一歩一歩の
試行錯誤にこそ、
深い悦びを感じます。
もちろん、
何か達成した時も
強い喜びを得ますが、
真本音で生きている人は、
達成の喜びの
その瞬間に、
もう次の未来へと
視線を向けています。
反応本音レベルで
それをしようとすると
非常に疲れてしまう
のですが、
真本音でそれを
続けることは、
私達の中に眠っている
無尽蔵のパワーを
掘り起こすことに
直結します。
う〜ん。
しかしやはり
言葉にするのは
難しい。
説明しようとすると、
なんか堅く
なっちゃうね。
説明なしに
ただただ感覚的に
お答えすると、
真本音で生きるとは、
すべてにおいて
満たされた幸せを
感じることなんです。
まぁ、
体験するしか
ないかな。
人間であれば、
誰もが当たり前のように
体験できることなので。
つづく
2018年は、
現実(現象)的にも
心の中(実在)においても
様々な課題や困難が
現れ、
それを乗り越えることで
脱皮し、
新たな自分として
進み、
するとさらなる課題や
困難が現れ、
それを乗り越えることで
さらに脱皮し、
また新たな自分を
(より、本来の自分を)
手に入れ、進み、
またまたさらなる課題が
現れ、
・・・という感じで、
次々に脱皮を繰り返し、
前に前に
加速しながら進む人が
多いのではないでしょうか。
何度も書いていますが、
進む人と
進まない人の
二極化が激しく、
進む人は
目の前に現れる課題
に対して、
実に真摯に向かい合い、
実に真剣に
取り組みます。
進まない人は
真剣に取り組むふりを
しながら、
真剣にその課題から
逃げ続けます。
その区別が
本当にわかりやすく
なってきたのが、
この2018年でも
ありました。
まだ終わって
ませんけど。
・・・・・・
2018年最後の3ヶ月を
どのように過ごすか?
は、
やっぱりとてつもなく
重要です。
なぜなら
2019年という年も
とてつもなく重要
だからです。
まぁ、
毎年毎年
とてつもなく重要
なんですけどね。
でもここ数年の
生き方が
今後の数十年の
自分の人生を
決めてしまうという
傾向には変わりは
ありません。
今の私達の
生き方と行き方が
私達のこの人生の
ほぼすべてを
決定づけてしまいます。
・・・・・・
ここでもう一度
皆さんに
改めて大切にして
いただきたいのが、
「人との関わり方」
です。
例えば、
明日、Aさんとお会い
するとします。
すると、
その実際にお会いする
までに、
皆さんはしっかりとした
準備をされるでしょうか?
ただ何となく
Aさんとお会いし、
ただ何となく
Aさんとの時間を
過ごすのでしょうか?
私はそれは
あまりにも
もったいないと
思います。
せっかく
「共に過ごす」時間
「共に創り上げる」時間
があるのです。
その瞬間は
「人生を共有」
しています。
そこでしかできない
大切な何かが
必ずあるはずです。
その「何か」を
一つ一つ丁寧に
しっかりと果たしていく、
ということが
私達の人生の展開に
与えるインパクトは
やはりこれも
とてつもなく大きい
のです。
人と共有する
時間の大切さ。
こう書くと
当たり前のことのように
思えますが、
人を大切にするとは、
その人との時間を
大切にする
ことだと
私は思うのですね。
私は、Aさんとお会いする
その前日には、
必ず、
①今回のAさんとの時間の
本当の目的は何か?
②私はAさんに何を
メッセージすればよいか?
③私はAさんに何を
問いかければよいか?
この3点は必ず
明確にします。
この3点通りに絶対
しなければならない、
ということではなく、
この3点をあらかじめ
セルフコーチングして
明確にしておくことで、
実際のAさんとの時間が
生きてくる(活きてくる)
のです。
特に私はいつも
「実在コミュニケーション」
という方法を使って
①〜③を明確にしますが、
その方法については、
そのうちにこのブログでも
書かせていただくことに
なると思います。
人生で
直接的に交われる人の
数は
限られています。
そのとても貴重な
時間を、
一つ一つ大切にすることが
自分自身の人生を
大切にすることでも
ありますね。
つづく
真本音度合いが
高まると、
「出会いの感覚」
にすごく敏感に
なれます。
例えば私の場合、
知り合いの経営者から
ある社長さんを
ご紹介いただいたと
します。
その社長さんと
初めてお会いした
その瞬間に、
「あっ、この人の会社には
私の出会うべき人が
いるな」
と直観します。
すると、
もう一歩その社長さんに
近づきたいな、
とか、
もう一歩その社長さんの
会社のことを知りたいな
とか、
そんな気持ちに
自然になります。
で、その通りに
していると、
気がつくとその会社の
サポートに入らせて
いただく展開となります。
そしてそこで
本当に「出会い」が
起こります。
よく
「赤い糸で繋がっている」
という言い方をしますが、
実在のレベルでは
それは本当に
あります。
その「赤い糸」に
敏感になるには、
自分自身の真本音に
素直に生きることです。
・・・・・・
出会うべき人とは
出会った瞬間に、
「あっ、この人だ!」
とわかるケースが
ほとんどですが、
時々、
わかるまでに
時間のかかることも
あります。
その場合は
自分自身の真本音が
わざとそのように
しています。
恋愛に喩えれば、
会った瞬間に
一目惚れするケースと、
じっくり時間をかけて
関係を育て、
その結果
「この人のことが大好きだ」
と実感できるケースが
あるのと同様です。
どちらが良い悪い
ではなく、
どちらも必然です。
そういったプロセスを
楽しむことが
大切です。
でもいずれにしても
その大切な人とは
出会わなければ
何も始まりません。
・・・・・・
時々、
人との出会いを求めて
生きている人が
いますが、
残念ながら
出会いを目的にしている
うちは、
本当に出会うべき人とは
出会えません。
赤い糸の人とは
出会えないのです。
まずは、
自分自身の人生を
しっかりと
生きること。
自分の真本音の道を
進むこと。
その道の途上に
必然的に
出会いは起こります。
その道を行かずに
出会いばかりを
求めれば、
本来の道から
外れてしまいます。
外れれば
一生出会えなく
なります。
出会いを求めるのは
その時点で
依存です。
自らの人生は
自ら創り上げていく
という自立心と
自律心を持った人に
出会いは起こります。
・・・・・・
私はおかげさまで、
本当にわかり合える
人達が
周りにたくさんいます。
いつの間に、
こんなにも
満たされた人生に
なれたのだろう?と
びっくりします。
以前の私は
ずっと孤独でした。
私のことを
本当に理解してくれる人は
世の中には一人もいない、
と信じていました。
人間なんて
わかり合えないのが
当たり前。
わかり合うなんて
ことを求めること自体が
間違いだと
ずっと信じていました。
それが本当に
どうしたことだろう、と
心の底から
びっくりです。
こういった状態を
創りたい、と
求めたわけでは
ありません。
自分の真本音に
素直に、
一日一日を、
そして
一刻一刻の時間を
過ごすようになった
だけのことです。
以前は
敵ばかりでした。
でも今は、
本当に仲間に
恵まれています。
理解者が常に
一緒にいてくれます。
みんな
そうなるといいな、
と思います。
新たに
企業様のサポートに
入ると、
孤独な人がそこには
たくさんいます。
皆、
自ら孤独の中に
入り込んでいます。
以前の私と
一緒です。
勿体ないなぁ、と
本当に思います。
私がその孤独を
癒してあげよう、
などと
おこがましいことは
思いません。
私にできることは
丁寧に
一歩一歩、
そういった人達と
真本音で関わる
ことだけですね。
つづく
進もうとする人。
進もうとしない人。
この二極化が
激しくなって久しい
ですが、
恐らく10月からは
さらに激しく
なるでしょう。
進もうとしない人は
進もうとする人の
足を引っ張る度合いを
高めるでしょう。
進もうとする人は、
これまで以上に
パワーを高め、
足を引っ張られても
ますます平気に
なっていくでしょう。
すると、
進もうとしない人は
ますますクサってしまい、
心を閉ざして
しまうでしょう。
ますます
進まなくなり、
孤独になって
いくでしょう。
そういった人達が
一人もいなくなってほしい
と私は願いますが、
現実はなかなか
そうはいきません。
・・・・・・
進もうとしない人を
進むようにサポート
することは
極めて困難です。
なぜなら
進むかどうかは、
最後は本人が
決めることですから。
刺激やきっかけを
他者が与えることは
できても、
最後は本人が
決めます。
本人が
「進まない」と
決めたならば、
その人は頑として
動きません。
超能力を使っても
無理でしょう。
人間は
そのようにできています。
ただ・・・、
本人に進む意志が
あるにも関わらず、
進めない人も多いです。
本当は
ほとんどがこの
パターンです。
今は進んでいなくとも、
本人に
本当の意志があるならば、
何とかなります。
そういった人には
他者からのサポートも
効きます。
時間はかかるかも
しれませんが。
・・・・・・
組織のサポートにおいては、
この
①進もうとして進む人
②進もうと思っても進めない人
③進もうとしない人
の3つの区別をつけることが
重要です。
そしてまずは、
①の人を徹底的にサポート
します。
一般的には
①にはもうサポートは
必要ない、と
思われがちですが、
まったく逆です。
①の人にこそ
サポートが必要です。
特にこれからの時代は。
①の人達が
これまで以上に凄いパワーを
持ち、
これまで以上の加速を
始めることで、
組織全体には大きな
インパクトが起こります。
それにより
組織そのものが
パワーを高めます。
それにより、
②の人達が自然に
進めるようになったり
するのです。
全員ではありませんが。
ひょっとすると、
③の人が②に変化する
可能性も出てきます。
これが
組織サポートの
基本です。
・・・・・・
私はまずは
①の人達に、
徹底的に
セルフコーチングの力と
真本音コミュニケーションの
力を
身につけてもらいたいです。
すると、
その人自身はもとより、
組織全体の次元が
高まり始めます。
①の人が次々に
増え始め、
その人数が全体の
1割を超えると、組織は
脱皮を繰り返すようになり、
変質します。
その状態を
引き起こすのが
私の役割です。
そしてこれは
組織だけでなく、
社会においても
同様のことが言える
のではないかと
私は思っています。
そういった意味で
私は
私と同じことのできる
コーチを
増やしたい。
そう強く
願います。
それは
「人」だけでなく、
「組織」にも影響を
与えられる
コーチです。
そんなコーチ育成の
動きを、
再びとっていこうかなと
考えています。
つづく
誰の心の中にも、
「私が今ここにいる意味」
が必ずあります。
よく、
「私はここにいる意味がない!」
と、
自分の存在意義が
見えなくなるケースも
ありますが、
それでも、
「ここ」にいるということは
必ず、
「ここ」だからこその
意味があります。
それがわからないのは、
その環境がいけない
のではなく、
自分自身の
「ここ」での生き方
が、何かずれて
いるのです。
これは、
会社ということでも
言えますし、
「人生」そのものに
おいても
言えることです。
・・・・・・
今ここで
私は、
ここでこそすべき
生き方を
実践できている
だろうか?
という問いは
とてつもなく
重要です。
この問いの答えを
知るための
最も良い方法は、
自分の
魂が悦んでいるか?
を確認することです。
私達の(「心」ではなく)
「魂」は、
自分の望む生き方
と
自分の実際の行動
が
一致するほど
悦びます。
一致しないほど
苦しみます。
その苦しみは
私達が想像している
以上に大きなもの
です。
今、自分の「魂」が
悦んでいるかどうか?
をチェックすることは
人生においても
仕事においても
必須のことであると
私は思っています。
チェックの方法は
慣れれば簡単です。
・・・・・・
自分のおへその奥の
体の中心と、
頭のてっぺんの
中心を
一本の線で結ぶ
イメージをします。
それが体の
中心軸
になります。
その中心軸を
さらに頭のてっぺんから
上の方に上の方に
伸ばしていく
イメージをしてください。
ずっとずっと上に
伸びて、
空とか宇宙までに
到達するくらいに
伸ばします。
まずはこれが
簡単にできるかどうか?
です。
もちろん
慣れているかどうかも
ありますが、
何度やっても
これが上手くいかない
場合は、
その人の魂は
悦んでいません、
ということになります。
魂の元気さが
なくなっているのです。
そして
そのイメージが
上手くできた場合は、
今度は、
空まで伸びている
中心軸そのものを
しっかりと意識しながら
感じ取ってください。
例えば、
その太さとか、
輝き度合いとか、
まっすぐ度合い
とか。
中心軸を
じーっとしばらく
感じ取った時に、
感じ取れば
感じ取るほど
自分が
居心地よくなるかどうか?
をチェックします。
中心軸を感じていると、
すごく安心する。
心が安定する。
心がやすらぎ、
何となく
心が毅然と
してくる。
・・・というように
思えるならば、
その人の魂は
悦んでいます。
居心地が
悪くなったり、
不安になったり、
不安定になったり、
途中でだんだん
中心軸が消えてしまったり、
する場合は
その人の魂は
悦んでいません。
いずれにしても
中心軸を感じながら、
ゆっくりと
自分自身に問うて
ください。
私が、
ここでこそすべき
生き方とは
何だろうか?
私は
生き方を
修正した方が
よいだろうか?
修正するとしたら、
何をどのように
変化させると
よいのだろうか?
など。
自分の望む
生き方と、
自分の実際の
行動や振る舞いを
一つ一つ
丁寧に
一致させていく。
これこそが、
私達が本質的に
元気になれる
最も自然な方法
です。
そして、
魂が悦ぶことで、
私達は自然に
「私が今ここにいる意味」
を知ることが
できるのです。
つづく
人が
人として
最も魅力的なのは、
「進もうとする意志」
に素直に生きている
時なんだな、
と、
やはり私は
つくづく思います。
現時点での
自分のレベルが
どうであるか?
よりも、
今、どれだけ自分が
進化に対して
真剣か?
やはりここに
尽きるのだと
私は思います。
本日、
『ザ・セルフ』
という新しい講座が
始まりました。
始まりというのは、
やはり
いいですね。
これまで
進んで来たけれでも、
さらに加速して
進みたい人。
これまで
進もうとして来たけれど、
それが叶わず、
自分がどの方向に
進めば良いか?が
わからない、
しかし、
それをとにかく見つけて、
進みたい!と
願う人。
いずれにしても
進化に対して
とても真剣です。
そういった人達と
共に過ごす場は、
やはり
とてつもなく
私は幸せです。
『ザ・セルフ』は
恐らく、
私のライフワークに
なると思います。
本当にまだ
始まったばかりで、
これからが
試行錯誤の繰り返し
でしょうけども、
この講座自体が
様々なカタチに進化
しながら、
広がり深まって
行くのだと思います。
赤ん坊が
生まれた感覚。
この赤ん坊を
これから皆さんと共に、
ゆっくりじっくりと
育てて行くつもりです。
・・・・・・
今年は私は
株式会社真本音を
立ち上げました。
そして今回、
新たな講座も
始まりました。
さらに、
新しいクライアント企業様での
サポートも
何社か始まっています。
今の私のテーマは、
「始めよう」
なのだと思います。
ですから、
さらにこの後も
様々なことを
始めます。
実は、
最近、一つ新たな夢が
できました。
もちろん、本当は
その夢は
私の中に最初から
存在していのだと
思いますが、
それがほんの
数日前に
顕在化しました。
その夢は
私のもともとの
人生ビジョンと
直結するものです。
夢が顕在化
したことで、
新たな理念も
言語化できました。
新たな私として
日々が
始まっています。
こういった
毎日は、
本当にヒリヒリするくらいに
楽しいですね。
つづく
人や組織のサポートを
させていただく時に、
私がいつも
最も気をつけている
ことは、
私自身の意図を
まったく持たない、
ということです。
これは本当に、
まったく
持たないです。
私が意図を持ったら、
その時点で、
あらゆるサポートが
意味を成さなく
なるでしょう。
もちろん私は
クライアント企業の社長から
「こうしてほしい」
というご要望を
たくさんいただきます。
例えば、
「売上の上がらない
管理職を
売上を上げられる状態に
してほしい」
など。
当然のことですが、
「結果」を
求められます。
そして私も当然ですが、
「結果」を
とても大切にします。
「結果」が出なければ
意味がない
とすら思っています。
しかし、
だからこそ、
私は、私自身の「意図」を
すべて手放します。
・・・・・・
ご要望は
すべて受け取ります。
私自身に
しっかりと
インプットします。
ご要望そのものと
「一体化」
します。
その上で、
私は「意図」を
手放します。
「意図」を手放すことで
私は完全に
「自由」
となります。
その状態で私は
すべての方々と
向き合います。
すると、
私が向き合う方々も
徐々にですが
「自由」となっていきます。
「自由」とは、
「真本音が自由となっている」
状態を言います。
私は
皆さんの真本音を
「自由」な状態に
したいのです。
そのために、
まずは私自身が
「自由」になります。
すると「自由」は
目の前の人に伝播し、
その人の真本音も
「自由」となります。
・・・・・・
私の「自由」と
目の前の人の「自由」。
自由と自由が
向き合う状態。
この状態を
創り上げるのが、
まずは私の目指す
ところです。
人は
本当に自由になると、
二つの面白いことを
起こします。
一つは、
「自分のすべきことを
しっかりしよう」
となるのです。
迷いなく、
淀みなく。
そして
もう一つは、
「目の前のこの自由な人を
私は活用しよう」
となります。
その瞬間から、
「たけうちがその人を
コーチングする」
という場が
本質的に変化し、
「その人が
たけうちを活用する」
という場になります。
そうなったらもう
あとは、
その人の真本音に
委ねるだけ
です。
そうなるとその人は、
自分自身の真本音に
基づいて、
現実と向き合い、
現実に対して
必要な行動を起こし、
自分が望み、かつ
周りも望む結果を
自ら生み出すようになります。
私がどうこう
引っ張る必要は
まったくありません。
勝手にその人が
現実を創っていくのです。
ということはつまり、
私は私の「意図」を
挟む余地が
どこにもないのです。
私が何かの思惑を持ち、
その方向に
引っ張る必要は
まったくないし、
それをすればするほど、
それは
「その人自身の場」ではなく
「たけうちコーチの場」
になってしまいます。
そして当然ですが、
もしそうなってしまった場合、
望む結果は
出るはずがありません。
・・・・・・
中途半端な自由は
ただのわがままに
なります。
それは
反応本音レベルの
自由です。
それは実は
本当は自由ではなく、
わがままという名の
束縛でしかありません。
人は
本当に自由になれば、
そして
本当に真本音で生きれば、
自分が
すべきこと、
周りから求められていること、
に対して、
本気で応えようとします。
束縛されて
そうしようとするのではなく、
自由な状態で
本気でそうしようと
思うのです。
なぜなら私達人間は、
「自分だけの幸せ」
よりも、
「自分も周りも幸せになる」
ことに
本質的な悦びを感じますし、
「自分が起点となって
周りが幸せになっていく」
ことに
無上の悦びを
得るからです。
それが
人の本質。
私はその本質を
どこまでも
大切にしたサポートを
したいのです。
つづく
あぁ、私は
もう、すべてを
知っているんだなぁ・・・。
しみじみと
そのように実感
することは
ありませんか?
すべての答えは
自分の中にあるし、
自分の人生において
どのようなタイミングで
何を始めれば
よいのか?
そして、
何を終えれば
よいのか?
何を手放せば
よいのか?
どこで
加速すれば
よいのか?
どこでいったん
止まれば
よいのか?
誰と出会えば
よいのか?
誰と離れなければ
ならないのか?
何を目指し、
どのような
試行錯誤をし、
どのような学びを
次に活かせば
よいのか?
・・・そういった
様々な
自分にしかわからない
人生の選択の
答えは、
やはり
自分の中に
明確に存在するのだなぁ、
と、
しみじみと
自覚する瞬間。
その瞬間、私達は
自分の中に
確かに存在する
始めから
存在する
「覚悟」のようなものを
感じ取ることも
できます。
その覚悟とは、
自分自身との
「約束」を果たす
覚悟です。
・・・・・・
今、
私がしようとしている
この選択は、
私自身との
「約束」を
果たすことに
繋がるのだろうか?
という問いを
常に自分自身に
投げ続けることは
とても有用です。
思えば、日々、
私がやり続けている
自分への問いは、
極端に言えば、
要するにこの問いに
集約されるのかも
しれません。
それくらいに
重要な問いです。
ただし、
やはりここでも
念のために申しますが、
約束を果たす、
というと
実に窮屈な感じが
するかもしれません。
しかしそれは
まったく逆です。
あぁ自分は今、
自分自身との約束を
果たし続けているなぁ、
と思える
安堵感。
そして
安心感。
そして
充実感と
満たされ感は、
他のあらゆる喜び
よりも
勝るものでしょう。
さらには、
約束を果たしていると
実感できる毎日は、
イコール
「調和の毎日」
でもあります。
あらゆる物事が
必要な時に
必要な形で
起こるようになります。
出会いや別れ、
試行錯誤や気づき、
達成や未達成。
それらすべてが
最も良い形として
現れます。
・・・・・・
よく、
「自分のために生きる」
という言葉が
使われますが、
私は、
「自分のために生きる」
とは、
「自分との約束を
果たすために生きる」
ことであると
思っています。
そのためには、
自分との約束を
思い出さなければ
なりませんね。
真本音で生きる
とは、
約束を思い出す
生き方にシフトする、
ということでも
あるんですよ。
つづく
人は一気に
「花開く」
ことがあります。
これまでのその「花」は
閉じていたのですから、
「花」が開けば、
その人はまるで
別人に生まれ変わった
かのように
周りからは見えます。
もちろんそれは、
ただその人の中に
眠っていたものが
開いただけのこと
ですから、
その人は
その人のままです。
別の存在に
なるわけでは
ありません。
しかも当の本人は
自分が大きく変化した
という自覚を
まったく持たないケースさえ
あります。
昨日までの自分と
今日の自分は
何も変わらない。
と本人は
思っているのに、
周りからは
「あの人、生まれ変わった」
と見られるのです。
人の面白さと
人間関係の面白さは
こんなところにも
あります。
・・・・・・
「私、花開きたい!」
と本人が意図している
うちは、
残念ながら
本当の意味で「花開く」
ことはありません。
よく
「私はこんなところが
変わりました!」
と喜び勇んで
報告してくる人がいますが、
残念ながらその多くは、
自己アピールの域を
出ません。
とはいえそれが
いけないことであると
私は思っていません。
自己アピール自体は
全然OK。
ただ、
自己アピールに余念の
ない人が、
肝心の「花開く」チャンスを
自己アピールのために
逸してしまっている場面も
多く拝見しました。
そうならないといいな、
とは思います。
・・・・・・
人が本当の成長(進化)を
遂げているときは、
その人の意識は
「自分」には
向いていません。
その人の意識は
内側へは向いていません。
常に
「外」に向かっています。
「社会」に
向かっています。
この世の中で
自分がすべきことや
本当にしたいことに
集中しています。
しかしこういった書き方を
すると
次のような誤解も
生まれやすいです。
「ということは、
自分とは向き合わない
方がいいのか」
「周りのことだけを
考えればいいのか」
というような誤解です。
これについては
まったく逆です。
自分自身と
向き合い続ける人ほど、
社会とも現実とも
向き合えるのです。
本当に
自分と向き合っている
人は、
自分の素敵な部分も
自分の素敵ではない部分も
すべてを
「あるがまま」に
捉えることができます。
それが本当にできると
実に面白いことが
起こります。
つまりは、
そこまで自分と向き合うと、
「自分のことなど
どうでもよくなる」
のです。
成長しようが、
しまいが。
プラス指向だろうが、
マイナス指向だろうが。
元気があろうが、
疲れていようが。
「どちらでもいいや」
となるのです。
そして、
「それよりも
自分のやるべきこと
やりたいこと
を粛々と進めよう」
となるのです。
この状態こそが、
意識が外に向いている
状態です。
逆に、
自分自身と
中途半端にしか
向き合っていない人は、
多くの場合、
自分の都合の良い
部分にしか
目を向けなくなります。
ということは、
自分の見たくないものには
フタをします。
そして
フタをしている自分を
本当はよくわかりながらも
それを
誤魔化そうとします。
誰に対して誤魔化すかと
言えば、
自分自身に対して
誤魔化そうとします。
その結果、
「私はこんなところが
成長できた!」
という自己アピールに
なったり、
「私はこんな
社会貢献をしている!」
という、
これも自己アピールに
過ぎない状態と
なったりします。
つまりこれは、
意識が内側に
向かっている状態です。
内側を誤魔化すために
外に向かう
フリをしているのです。
当然ですが、
本当に意識が
外に向かっている人は
外(現実)がよく
観えていますから、
結果として「調和」が
次々に起こります。
そして、
外に向かっているフリ
をしている人は、
きちんと外(現実」が
観えていませんから、
「不調和」が
起き続けます。
似て非なるもの。
この違いは
大きいですね。
・・・・・・
意識を外に向ける
ためには、
まずは徹底的に
自分自身と向き合う
こと。
私が
セルフコーチングを
推奨する理由は
ここにあります。
自分と向き合う
とは
現実と向き合う
と
同義語なのですね。
それができる人こそが
自然に花開きます。
そんな人を私は
増やしたいのです。
つづく
私達の人生は、
長くてもせいぜい
100年程度のものです。
ですからどうしても、
私達には
100年以上のスパンの
時間感覚や
視野の広さを
持つことができにくいです。
未来を考えると言っても、
2〜30年先というのは
遥か先のように思えますし、
日常における長期の視点
と言えば、
3年とか5年くらい
ではないでしょうか。
ましてや今は
時代の流れが速く、
変化も激しいですので、
来年の今頃の世の中を
イメージすることすら
困難になっています。
目先のことに
精一杯になる
私達。
目先のことに
精一杯になる
社会。
予測のつかない
人生。
予測のつかない
時代。
であるが故に
あえて、
1000年という
時間の流れを
感じてみませんか?
・・・・・・
1000年後の世の中を
イメージするのは
ほぼ、無理です。
もちろん
ファンタジーであれば
描けるかもしれませんが。
ですから無理に
描く必要はありません。
そうではなく、
「1000年の時」
そのものを
感じてみるのです。
・・・・・・
目を閉じて
ください。
そして自分が
どんどん巨大化する
イメージをしながら、
巨大化する
「感覚」を得てみて
ください。
どんどん巨大化
します。
大気圏を突破して
宇宙にまで
はみ出てもよいです。
地球よりも
大きくなっても
よいです。
太陽系よりも
銀河系よりも
大きくなっても
よいです。
宇宙そのものよりも
大きくなっても
よいです。
とにかく
巨大化する
「感覚」を楽しみます。
そして、
自分にとって
最も居心地の良い
大きさになれたら
そこでストップします。
無理に大きく
なり過ぎる必要も
なく、
「居心地の良い」大きさ
であれば、
どれくらいでも結構です。
その大きさのまま
今度は
目を閉じたままの状態で、
時間を
急速に未来に進めて
ください。
もちろん
そういったイメージを
すればよいのですが、
ただしやはり、
時間がどんどん進む
「感覚」を得ます。
3倍速、5倍速、10倍速
100倍速、1000倍速・・・
というように
どんどん時間の流れを
速くします。
そして
100年、200年、・・・
と時間を進めてください。
何度も申しますが、
「感覚」が大事です。
そして
「あっ今、
1000年先まで来たな」
と思えたら、
そこでストップします。
そこが、
1000年後の
未来です。
もちろん、
「感覚的に」ですが。
1000年後の未来が
どうなっているかは
考える必要は
ありません。
ただ、
1000年後のその
「感覚」だけを
しっかり味わってみて
ください。
もちろん今の自分が
1000年後も生きている
わけではありません。
ですから、
これを感じている
自分は何者か?
などを考える必要も
ありません。
ただただ、
1000年後の「感覚」
のみをしっかりと
感じ続けます。
しばらくそれを
していると、
その「感覚」が自分に
馴染んで来ます。
その「感覚」が
普通になって来ます。
そうなれたら今度は、
1000年前の自分に
想いを馳せます。
つまりは、
今現在の自分に
想いを馳せるのです。
1000年後の未来から
今の自分を想った時、
あなたは
今の自分を
どのように感じ取る
でしょうか?
そして、
今の自分に対して
どのようなメッセージを
伝えたくなるでしょうか?
・・・・・・
上記の方法を
「感覚」を大事に
何度かやってみて
ください。
すると「感覚」が
研ぎ澄まされて
来ます。
私がよく言う
「実在」
とは、
まずは「感覚」で
感じ取るものです。
本当は、
「感覚」すら超えた、
つまりは
脳の感知する五感を
超えた部分で
得られるものこそが
「実在」なのですが、
そこに至るまでの
最も近道が
「感覚」を研ぎ澄ます
ということなんです。
上記の方法を
イメージではなく、
「あるがままの感覚」
として
楽しめるようになると、
結構面白い
発想が生まれます。
それは、
今の私達の
100年という人生の枠
を超えた、
超然とした自分自身
からの
メッセージです。
つまりそれは、
高い次元の自分自身の
メッセージと
イコールなのです。
つづく
あなたは今、
どこに立って
いるのだろうか?
あなたは今、
どの方向を
向いているのだろうか?
あなたは今、
何を見ているのだろうか?
あなたには
高い理想がある。
その理想への
想いは深い。
しかしそうであるが故に
あなたは今の自分に
自信を失くしている。
理想と現実の
ギャップに
言葉を失っている。
我を
失っている。
そしてあなたは、
自分を
責めている。
こんな自分は
不甲斐ない、と。
自分のあまりの
力の無さに
茫然としている。
自分のあまりの
勇気の無さに
憤っている。
こんなはずでは
なかった。
私はもっと
できるはずだった。
でも
現実を前にしたら
ビビりまくって
いる。
一歩も
足が
動かない。
こんなはずでは
なかった。
こんなに
情けない自分
だったなんて。
私は
私が
嫌だ。
・・・と。
・・・・・・
私はあえて
そんなあなたに
伝えよう。
あえて
厳しく
伝えよう。
自分を
責めるな、
と。
自分を
責めている暇が
あったら、
一歩でも
前に進め、
と。
どうすれば
次の一歩を
進めるか?
そこに意識を
集中せよ、
と。
自己卑下。
自己嫌悪。
罪悪感。
それらはみんな
自己満足だ。
自分を
どれだけ責めても
誰も
喜ばない。
自分自身も
喜ばないし、
周りの誰も
喜ばない。
そんなのは
何の生産性も
ない。
時間の
無駄だ。
命の
無駄だ。
人を
愛したい
あなたならば、
できるかどうかは
別として、
本気で
愛そうと
しなさい。
自分を責めるのは
単なる
自己愛。
そこには
真剣さのカケラも
ない。
現実逃避の
言い訳にしか
過ぎない。
だから早く、
そこから
抜け出しなさい。
あなたは
何のために
ここにいるのか?
あなたは
何のために
ここに来たのか?
あなたは
何のために
私と出会ったのか?
あなたの
人生への想いと
願いは
何だったのか?
あなたは
人に
何をもたらしたいのか?
あなたは
社会に
何をもたらしたいのか?
それらを
今一度、
しっかりと
思い出しなさい。
それらは
理想だ。
そして
この人生は
理想通りには
行かない。
そんなことは
重々に理解している
あなただったろう。
我々にできるのは、
理想を胸に
抱きながらも、
最善の一歩を
踏み出し続ける
ことではなかったか。
弱っちい自分で
いいではないか。
それでも
あなたには
足がある。
それでも
あなたには
意志がある。
であれば、
次の一歩を
踏み出せよ。
間違っても
いいから
踏み出せよ。
つづく
今の世の中、
残念ながら
「進もうとしない人達」
は、たくさんいます。
「進もうとしない」
とは、
進化の道を行こうとしない
ということです。
そういった人は
進化よりも
膨張への道を
ひた走っています。
膨張とは、
規模のみが大きくなったり
影響力のみが大きくなったり、
つまりは
中身が伴わない
成長のことを言います。
次元の上がらない
現実レベルだけの成長を
言います。
例えば、
企業で言えば、
売上や業績が上がり続けると、
「このまま行けばいい」
と思ってしまいがちです。
現実レベルで
「上手くいく」
という状態に入ると、
人は
進化を止めてしまう
可能性があるのです。
しかし、
膨張の先には必ず
「破裂」
があります。
膨張しきった上で
破裂するのです。
現実が壊れて
いくのです。
例えば、
わかりやすい例では、
売上が上がって
いい気になっていたら、
ある日を境に突然に
商品が売れなくなってしまった
とか。
業績が上がって
いい気になっていたら、
ある日、突然に
社員さんが大量離脱
してしまった、とか。
中身のない成長には
必ず
「終わり」
が来るのです。
それが、
自然の摂理です。
・・・・・・
永続的成長。
それが「進化」の
道です。
「次元を上げ続ける」
道です。
ところが、そこに本気で
進んで行く人は
現時点では
まだまだ少ないのが
今の世の中です。
本当は、
進化の道に
入った方が、
私達人間はとても
楽なんですけどね。
とても心が
満たされるし、
人としての根本的な幸せを
日々、感じ続けることが
できるのですけどね。
それがあるが故に
永続的に、そして自然に
成長できるのですけどね。
でもなかなか
そうはならない人が
多いです。
でも、一方で
一部とは言え、
進化の道を本気で
進もうとしている人も
います。
今はそういった人が
急増している状態です。
まだまだ割合的には
少ないですが。
ところが。
最近、一つ困った傾向が
現れてきています。
進化の道に入った人が、
周りの人達を見て、
皆があまりにも
進化とは真逆な方向に
進もうとしているので、
「失望」
してしまっているのです。
ガックリ
してしまっているのです。
そしてある意味、
クサってしまっているのです。
進化の道に入る人は
自然の流れとして、
周りの人達も
進化の道に入れるように
サポートを始める人が
多いです。
「共に進化して行こう!」
と思うのですね。
そして、
周りの人達に力を注ぐ
ようになるのですが、
その周りの人達が
あまりにも
進もうとしないので、
クサってしまうのですね。
気持ちは
わかります。
実は私も
何度も何度も
クサりかけました。
気持ちはわかりますが、
ここは
あきらめずに
がんばりましょう。
私達がクサってしまったら、
それで終わってしまいます。
すべてが
止まってしまいます。
まずは、
私達は私達自身を
幸せにしましょう。
周りがどうこうではなく、
まずは
私達自身が
自らの進化の道を
自ら、味わい
楽しみ尽くしましょう。
その姿が
周りの人達に与える
影響は
測り知れないです。
そして、
何が起ころうとも、
何か起きなくても、
私達は
自らの行動の一つ一つは
真本音で
決め、
真本音で
実行しましょう。
それを日々、
今この瞬間、
やり続けるだけです。
物事は、
意図したように進まない
ことばかりです。
であれば、
意図を手放して
しまいましょう。
そしてただ純粋に
今この瞬間の
自らの真本音の意志に
自分自身を
委ねてしまいましょう。
それをし続ければ、
意図通りには
進まなくても、
願いは必ず
叶うのですから。
つづく
人って
みんなそうだと
思うのですが、
自分のことを
否定されたり、
無視されたりすると
辛いですよね。
心の中には
反応本音がいっぱい
発生しますし、
否定されたら、
その人のことを
今度は自分が
否定したくなります。
そしてその通りに
争いや戦いに
入ってしまうことも
あります。
しかしそうならないように
我慢しよう
という人も多いですね。
いずれにしても
我慢しよう、
というのも反応本音ですので、
反応本音のコミュニケーション
になるのには
変わりはありません。
否定される人生は
いやですね。
無視される人生も
いやです。
・・・・・・
じゃあ、
自分が否定されないために
自分は人を肯定しよう、
という考え方も
ありますが、
実際は、
否定と肯定は
表裏一体です。
同じ次元
です。
否定か
肯定か
という場所にいる限り、
心が穏やかになることは
ありません。
自分を
肯定しよう。
人を
肯定しよう。
と、よく言われますが、
もちろんそれは
大事なことではありますが、
でもやっぱり
私は
違和感を覚えます。
だって、
肯定しよう!
って、疲れませんか?
不自然だと
思いませんか?
・・・・・・
否定をやめよう。
肯定もやめよう。
という話では
ありません。
否定と肯定は
必要です。
仕事においても、
間違った仕事の仕方を
していたら、
きちんと否定しなければ
なりませんし、
良い仕事の仕方を
していたら、
きちんと肯定することも
大事です。
しかし
本当の意味で、
あるがままに
否定し、
あるがままに
肯定する
ためには、
否定と肯定を
超えた次元に
自分自身の基点を
置くことが大切です。
否定も肯定も
超えた場所に立つ人
こそが、
純粋に
必要な否定と
必要な肯定が
できる、
ということです。
・・・・・・
我欲による
否定は
人を傷つけます。
そして、
我欲による
肯定も
実は人を
傷つけることになります。
もちろんそれは
我欲が基点ですから
そうなります。
どの意識が
基点かによって
否定も肯定も
根本的に
意味が変わってきます。
・・・・・・
否定も肯定も
超えた次元。
それは、
すべてをあるがままに
見つめる
という意識の次元です。
「見つめる」
を本当は
「観つめる」
と書きたいですね。
何の評価も判断も
解釈もせずに、
ただ、そのものを
観つめる。
その意識の次元を
「7次元」
と私は呼んでいます。
真本音度合いを
高めることで、
この7次元の意識が
芽生える人が
出てきます。
7次元意識で
物事を観れる人が
組織の中の3%を
超えると、
その組織は
劇的な変化を始めます。
まずはその状態を
創ることが、
私の組織サポートの
目的の一つです。
つづく
私達は自由です。
・・・なんて断言をすると
皆さんの心の中には
どんな気持ちが
発生しますか?
自由であるわけ
ないだろうが。
とか、
心の自由になれても
現実は自由には
なれないよ。
とか、
自由であろうとすることは
大事だけど、
実際にはそれは無理だ。
とか。
否定的な心の声が
出てくるケースが
多いのではないかな?
もちろん私の心にも
否定的な声は
発生します。
人がどれだけ
不自由か。
みんながどれだけ
不自由の中で
もがいているか。
そういったことを
いやというほど
見てきましたしね。
でも、
私達は自由です。
と一言つぶやいた時に、
心の中のほんのわずかでも
一つの部分が、
そりゃそうだよ、
当たり前だよ。
と、応えていませんか?
もしそういった部分を
感じることができたら、
そこがあなたの
真本音です。
・・・・・・
私達の真本音は
自由です。
自由であるが故に
きちんと
目の前の現実を
大切にします。
自由であるが故に
現実を尊重しながら
「現実的な一歩」
を進もうとします。
現実を尊重する
ということは
「今を尊重する」
ということです。
今を、
現実を、
尊重することは
自分を縛ることでは
ありません。
いろんな選択肢があり、
どの選択をすることも
できる、
という自分がいて、
その上で、
現実を尊重した選択を
する。
これが、
真本音で生きる
ということです。
ですから
私達の真本音は、
悪い意味での
無茶はしません。
悪い意味での無茶
とは、
本人が
「絶対無理だ」
とわかっていて進むこと
です。
真本音の道は
「絶対無理だ」と思いながら
進む道ではありません。
「ここを行くのは
当たり前」
「ここを行くのが
最も幸せ」
「ここを行くのが
私の人生」
であると、当然のように
思える道が
真本音の道です。
その道を
当然のように
進んでいると、
時々ですが、
周りからは、
「あの人、
無茶するよなぁ」
と見られたりします。笑
しかし本人は極めて
当たり前の選択を
しながら、
当たり前に進んでいる
だけなのです。
当たり前の道を
当たり前のように
進めることをまた、
自由、
と言います。
・・・・・・
どのような現実の
中にあっても、
私は自由ですよ。
と当たり前のように
言える人が増えると
いいなぁと
私は思います。
そういった人が
増えて行くと、
組織は調和しますし、
世の中も
調和していきます。
本当の「自由」と
「調和」は
同義語です。
一人一人が
「自由」になることが
社会の「調和」に
直結します。
そのために私は
今日も明日も
コーチとして
がんばります。
つづく
真のコーチとは
真のコーディネイター
でもある、と
私は思っています。
例えば、
Aさんが何かに悩んで
いたとします。
Aさんの悩みの
解決策を
見つけようとする場合、
「答えはAさんの中に
あるから」
ということで、
Aさんに様々な問いを
投げることを、
一般的にはコーチングと
言われています。
もちろん必要に応じて、
コーチが何らかの
アドバイスや提案も
するでしょう。
しかし私は
そういったことをする
以前に、
次のことがとても
重要であると思っています。
すなわち、
Aさんの悩みの
解決策は、
誰と一緒に考えれば
よいだろうか?
もしくは、
誰がAさんに
アドバイスをすると
よいだろうか?
もしくは
Aさんのその悩みを
誰にぶつけると
よいだろうか?
という視点です。
特に組織においては
これはとても大切で、
一人の悩みを
一人の中だけで
解決するのは
もったいないと
私は思うのです。
これは別に
「悩み」だけに言える
ことではなく、
例えば、
「目標」についても
同様のことが言えます。
Aさんの目標を
達成するために、
誰が関われば
よいだろうか?
ということです。
人と人との
関わり。
そして、
人と人との
相乗効果。
そして、
相乗効果の上での
一人では到底
実現できないであろう
「現実」の創造。
そういったことを
促すサポート役が
コーチであると
私は考えます。
ですから
真のコーチとは
真のコーディネイター
である必要があります。
・・・・・・
AさんとBさんが
タッグを組んだら
100のパワーが出た。
でも、
AさんとCさんが
タッグを組んだら、
10000くらいのパワーが
生まれた。
ということは、
日常茶飯事のように
あります。
ですからその意味でも、
今、このAさんと
誰が組めばよいのか?
これを見極める力は
コーチには必須です。
しかしその見極めの
力をつけるためには
かなりの経験が
必要である。
・・・と、
ちょっと前までの私は
思っていました。
しかしどうやら、
そうでもないようです。
実は、
経験値の低い
若い人達の感性で、
この見極めができてしまう
という場面に
最近、多く遭遇しました。
最近の若い人達の
感性は凄い、
です。
しかしそれは
「若い」から凄い
のではありません。
次元の高い人達が
どうやら、
今の若い人達には
多いようなのです。
誰と誰を
組み合わせれば
よいか?
を見極める力は、この
次元の高さが
直接影響します。
・・・・・・
今の若い人達、
つまりは
10代や20代、そして
30代前半くらいまで
でしょうか、
これらの人達には
次元の高い人が
多いようです。
しかしもちろん
そういったことを
彼らは自覚していません。
天然で
やっています。
そういった彼らに
対して、
彼らをどのように
育成するか?
ということについては、
これまで私達の世代が
培ったやり方では
まったく通用しません。
次元の高低によって
育成の仕方は
根本的に変わるからです。
そういったことも踏まえ、
そろそろ私は
「次元」について
真剣に語らねばならないかな
と思い始めています。
物事には
「区別」が必要です。
区別すべきをしっかりと
区別することによって
次の一歩が
初めて観えてきます。
人の成長という視点では
最も基本的な区別は
「真本音と反応本音」
でした。
そして、次の区別が
「次元」
なのだと思います。
ですから「次元」について
多くの方々が
知る必要のある
時代になったのだな、と
今、強く思います。
このブログでも
いよいよ「次元」について
ダイレクトに
切り込んで行こうかな、と
思っています。
つづく
未知の世界
というものに対して、
不安や恐れの気持ちが
出るのが普通ですが、
それらはすべて
反応本音です。
私達の真本音は
未知の世界に向かう
ことに対して
至福の悦びを
得ます。
それが
人間の本質だから
です。
では、
反応本音というのは
真本音を阻害する
存在なのでしょうか?
いえ、
違います。
反応本音があるからこそ
私達の真本音は
より的確な
次への一歩を
選択することができるのです。
なぜなら
もともと反応本音とは
真本音が生み出した
ものだから。
現実と
より的確に向き合い、
より誠実に
関わり合うために
生み出したものだから。
つまり、
私達の心の中には
本当は
余分なものなど
一つもないのです。
私はよく
「手放す」という
表現を使います。
「余分なものを
手放すことで
本来の自分に戻っていく」
という
言い方もします。
しかし本当は
それすらも
「余分なもの」では
ありません。
それは、
「手放されるもの」
であり、
「手放されるという
役割を担うもの」
という
存在だからです。
そういった意味で
余分であるという
役割を演じる
必要なもの
なのです。
・・・・・・
先日、
私のあるクライアント企業様の
社員さんの一人が、
お仕事で大きなミスを犯して
泣いていました。
全力で仕事をしたのに、
お客様にまったく
認められないだけでなく、
ミスまで犯したと。
「私はこの仕事を
辞めようとまで
思いました」
と言いながら、
涙を流しました。
「でも、
そんな自分ではいけない
ことはわかっています。
辞めたいなどと考える
弱い自分ではいけないことを。
それではプロでは
ありませんから。
私はもっと強くあらねば
なりません」
と、その人は
言われました。
そして、
平静を装おうと
していました。
いやいやいや・・・、
私はそれを
止めました。
「あなたは健康ですよ。
何の問題もありません。
お仕事で失敗
したのでしょ?
全力を尽くしたのに
認められなかった
のでしょ?
ミスまでしたんでしょ?
泣きたくなるのは
当たり前じゃないですか。
私でも泣きますよ。
そして、
辞めたくなるのも
当たり前じゃないですか。
くじけるのも
当たり前。
そういった反応本音が
わっと出て来ている
のだから、
まったくもって健康です。
ですから、
もっと、きちんと
落ち込んでくださいよ。
中途半端に
浮上しようなんて
思わないでください。
ダメですよ。
前向きになっちゃ。
せっかくひどい心の状態に
なってるんだから、
そのままひどい状態で
あり続けてください。
しっかりと
超マイナス思考になって
とことんまで
落ち込んでください。」
そんなことを
申し上げました。
必要な現実が
目の前に来て、
必要な反応本音が
湧き起こっているのです。
ちゃんとこの経験を
「経験しきる」
ことこそが大切です。
それを私達の真本音は
望んでいます。
そして
この経験をしきることで、
必ず真本音は
発動します。
次へのパワーは
必ず湧き出します。
そして、
自分の進化のために
次に自分が
何をすればよいか?
が
必ず観えて来ます。
・・・・・・
私達は
私達の真本音を
もっと信じた方が
いい。
私達の真本音は
未知の世界に
突き進もうとしています。
そのために
自分にとって
最も必要な経験を
プレゼントし続けます。
何が起きても
自分自身の
真本音を信じ、
あらゆる現実と
真正面から
向かい合い続ける。
その生き方(行き方)を
する覚悟を持てば、
流れは
あっという間に
始まるのです。
つづく