チームパフォーマンスコーチ

自分自身との信頼関係を結んでいますか?

私はよく

『自律』

という言葉を使います。

 

「自分を律する」という

言葉を見ると、

自分を縛るようなイメージ

があるかもしれません。

 

が、

私はまったく逆の意味

として捉えています。

 

自分を律することが

できるということは、

自分を完全に

コントロールできる

ということです。

 

言葉を換えれば、

自由自在に自分を

操ることができる

ということです。

 

つまりそれこそが

本当の

「自由」

ではないか、と

私は思います。

 

自由自在に

自分を操ることの

できる人というのは

世の中にいったい

どれだけいるでしょうか?

 

まず、

自分の心を

自分で操ることは

できますか?

 

できませんよね。

 

自分が本当に望む

行動を

望むままに

し続けることが

できますか?

 

できませんよね。

 

自分のちょっとした

振る舞い、

しぐさ、

表情など、

自由自在に

できますか?

 

できませんよね。

 

私達は

思っている以上に

自分を

自由自在に

できていないという

事実があります。

 

しかも、

人に依存している人は

どうでしょう?

 

あの人がなければ

私は立っていられない。

 

もしくは、

あの組織がなければ

あの仕事がなければ

あの人間関係がなければ

私は立っていられない。

 

・・・つまり、

何かに寄りかかりながら

生きていることを

依存と言いますが、

 

もちろん人は、

誰もが何かに

必ず依存していますが、

 

しかしその依存度が

高い人は、

依存している対象が

なくなってしまったり、

なくなってしまう可能性が

見えたりすると、

途端に

我を失ってしまいます。

 

そういった人が、

自分を自由自在に

コントロールできている

とは

到底言えないですよね。

 

「自分」

であるのにも関わらず、

私達は

その「自分」を

きちんとコントロール

できていないのです。

 

その原因の

最も大きなものが、

「自分の心を

コントロールできない」

からです。

 

・・・・・・

 

例えば、

誰かに対して

とても深い憎しみを

抱いてしまった場合、

その憎しみを

自ら解消することが

できるでしょうか?

 

何かに対して

とても深い後悔を

抱いてしまった場合、

その後悔の念を

自ら解消することが

できるでしょうか?

 

実は、

私達の心とは

「自分でコントロール

しようと思えば思うほど、

コントロールできない」

ものなのです。

 

これは、

他人に対しても

同じですね。

 

他人をコントロールしようと

思うと、

逆に反発が返って

きます。

 

コントロールされるのは

誰だって

嫌ですから。

 

自分自身も

同じです。

 

私達の心も

コントロールされることを

とても嫌います。

 

たとえ

コントロールしようと

しているのが

自分自身で

あったとしても。

 

私が、

「自分」と「私」を

区別して捉えた方が良い

と思っている理由が

ここにあります。

 

自分のことは

自分が何とでも

できる。

 

自分の心は

自分が何とでも

操ることができる。

 

・・・と思うのは

傲慢なんです。

 

もしそれが本当に

できていると

思っている人がいると

したら、

それこそ、

思い違いです。

 

恥ずかしながら、

昔の私が

そうだったんですが。

 

だから

私は自分が体を壊し、

それが心の問題で

あると知ったとき、

衝撃を受けたんです。

 

自分が自分の心を

まったく

コントロールできていない

どころか、

理解すらできていない

という事実を

目の当たりに

したからです。

 

傲慢に

なっちゃいけないですね。

 

傲慢は必ず、

足元をすくわれます。

 

・・・・・・

 

私達の心は、

コントロールしようと

思えば思うほど、

コントロール不能と

なります。

 

しかし、

理解・尊重しよう

とすればするほど、

結果的に

コントロールが

効くようになります。

 

いえ、

それはコントロールと

言うよりも、

「私」が「自分」と

調和している、

とか

協業している、

と言った方が

正確ですね。

 

私達は

自分自身と

信頼関係を

結ばねば

ならないのです。

 

なんか

変な表現だと

お思いでしょうが、

これこそが

最も大切なことです。

 

そして、

自分自身との

信頼関係を深めて

いくことこそが、

セルフコーチングの

真髄なのです。

 

つづく

 

後悔する自分を責めてはならない

後悔の念とは、

私達の頭の中ではなく、

体のどこかに

溜まります。

 

それが

「念」

というものです。

(→【体が感じているものとは?】)

 

セルフコーチングとは、

体のどこかにある

その「念」と

ダイレクトに対話を

します。

 

まるでそれが

他人であるかのように

向き合いながら、

対話をします。

 

対話の基本は

「問うて、待つ」

こと。

 

そして

自然に浮かんだメッセージを

「素直に伝える」

ことです。

 

例えば、

後悔の念が

両肩に溜まっていたと

します。

 

両肩に意識を向けると、

まるで黒い大きな岩が

乗っかっているような

重みと苦しさを

感じたとします。

 

その「岩」の重みを

しっかりと

あるがままに

感じ取ることが

スタートです。

 

感じながら

実況中継をすると

良いでしょう。

 

「この重みは

かなりキツイですねぇ。」

 

「重いだけでなく、

首の根元辺りに

痛みも来ていますねぇ。

まるで鋭利な刃物で

えぐられるような

痛みが時々、

ググッと来ますねぇ。」

 

「それからこれは

何でしょうか?

時折、何とも言えぬ

気持ち悪さも

ありますねぇ。

これは何でしょうか?

まるでナメクジがまとわり

つくような、

ヌメヌメとした

何とも言えない気持ち悪さ、

これはなかなかですねぇ。」

 

「あぁ、この黒い岩は

悪意のような気もしますね。

人の悪意の塊の

ようでもあります。

これはどんな悪意

なのでしょうか?」

 

・・・などなど。

実況中継を始めると、

単なる「重み」を

さらに観察し、

さらに詳細に感じ取ることが

できるようになります。

 

ここが

ポイントなのです。

 

詳細に感じることが

できればできるほど、

それは

「客観性」

となります。

 

この「客観性」が

大事です。

 

まるで他人のように

自分と

向き合うためにも。

 

・・・・・・

 

さて、このような

「重み」を両肩に感じたと

します。

 

両肩に乗っかっている

黒く大きな「岩」。

それが、

あなたの「後悔の念」

です。

 

この「念」に対して、

あなたは

何を問いかけてみたい

ですか?

 

ここで大事なのは、

その「念」に対して

評価判断をし、

説得を試みようとか、

その「念」を

取り除こうとか、

消去しようとか、

しないことです。

 

これは

通常の人間関係と

同じです。

 

それをネガティブに捉え、

それを除去しようと

すればするほど、

「反発」が大きくなります。

つまり、

そういったことをすれば、

その「岩」はさらに

大きく重いものに

成長してしまいます。

 

では、

あなたはその「岩」に

対して、

どのようなコミュニケーションを

取りたいですか?

 

・・・・・・

 

まず大事なポイントは

「理解しよう」

とすることです。

 

「理解しよう」

とはつまり、

「知ろう」

とすることです。

 

通常の人間関係でも

「理解しよう」

という向き合い方は、

信頼の芽を

育みます。

 

ですから最初は

次のような「問い」に

なるはずです。

 

「あなたはなぜ、

そこにいるの?」

 

もちろんこれは

責めるような口調で

伝えてはいけません。

 

あくまで、

「理解しよう」

「知ろう」

とするつもりで

尋ねます。

 

すると、

人によって様々な

返答があると思います。

 

例えば、

 

「後悔しているからに

決まってるだろ!」

 

という責め口調で

返ってくることもあるでしょう。

 

もしくは、

 

「助けてほしいんだよ」

とか

「悲しいんだよ」

とか

「寂しいんだよ」

とか。

 

すがってくるような

返答の場合もあるでしょう。

 

そこをさらに

「理解しよう」とする

会話を続けます。

 

「何をそんなに

後悔しているの?」

とか、

「何がそんなに

悲しいの?」

など。

 

より具体的に

その「念」の中身を

知ろうとします。

 

ここを

評価判断せずに

行なうことがポイント

です。

 

ただ「あるがまま」を

知ろうとしてください。

 

その問いの結果、

例えば、

 

「Aさんからの信頼を

完全に失っちゃっただろ。

それを後悔してるんだよ」

 

と返って来たら、

 

「Aさんの信頼を失ってしまった

私自身の行動や振る舞いで

最も後悔していることは何?」

 

などのように、

さらに具体的に

後悔ポイントを特定

していきます。

 

「どの瞬間に、

一番悲しみを感じたの?」

とか

「その悲しみを誘発した

私自身の行動や振る舞いは

何だっただろう?」

とか。

 

問いかけ方は

様々です。

 

まるで他人と会話を

しているかのように

臨機応変でよいですから、

あまり固く考えずに、

「理解しよう」

「知ろう」

とするコミュニケーションを

続けます。

 

すると、

「あぁ、なるほど、

私はここで一番、

後悔をしていたのか!」

 

と合点のいく

ピンポイントを特定

できるはずです。

 

「ここが一番、

嫌だったんだ」

という

最大の後悔ポイントです。

 

これを

自分自身が理解

できたその瞬間に、

後悔の念は

大きく浄化されるはず

です。

 

その時点で、

両肩の重みが随分と

軽減されるのを

感じるでしょう。

 

さて、

会話はまだまだ

続きます。

 

つづく

 

今しか出ない答えがある

セルフコーチング法とは

つまるところ

「自分との向き合い方」

です。

 

「自分と向き合う」

という言葉を

私はよく使いますが、

よくよく考えたら、

「自分と向き合う」

って、

わかるようで

わからないですよね。

 

学校の授業では

そんなことは

教えてくれなかったし、

社会に出てからも

もちろん

誰も教えてくれません。

 

でも私達は全員、

一生涯、

「自分」という人間と

共に歩まねば

なりません。

 

「自分」とはつまり

自分自身なので、

ここにいる自分が

自分で、

他人ではない存在で、

自分とは私のことで、

・・・ん?

 

本当に

「自分」とは私の

ことなのかな?

 

「自分」だと思っている

この存在は、

本当の本当に

私なのかな?

 

そう思い込んでいる

だけではないのかな?

 

「自分」を観ている

この私は

いったい、誰?

 

自分の心を

見つめているこの私は

いったい、誰?

 

「自分」と「他人」を

区別しているこの私は

いったい、誰?

 

「自分」を励ましている

この私は?

 

「自分」を蔑んでいる

この私は?

 

ここでこうやって

考えている私は

「自分」と一致しているのか?

 

・・・というように

わけがわからなく

なりませんか?

 

「心」って

物質なの?

物質じゃないの?

 

物質ではないのなら、

ここに存在している

この私の「心」って

いったい何?

 

私のこの

人格って何?

 

私という存在は

何?

 

そもそも

本当に私はここに

存在しているの?

 

体は確かに

ここにあるけど、

心は

本当に存在しているもの?

 

昨日の心と

今日の心は

変化しているけど、

これはいったい何?

 

なぜ変化するの?

 

変化するということは

別物になるの?

 

昨日の心は

幻?

 

昨日の心と

今日の心は

どっちが本物?

 

もしくは、

そもそも本物なんて

ないの?

 

そもそも、

なんで私は

こんなに悲しむの?

 

なんで私は

こんなに寂しいの?

 

なんで私は

こんなに人を

羨むの?

 

人の幸せを見たときに

生まれるこの

嫉妬心は何?

 

どうして、

こんなに私は

他人と自分を

比べるの?

 

そもそも

他人とは何?

 

自分とは何?

 

比べることで

発生するこの

疲れは何?

 

私はいったい

何がしたいの?

 

あの人はいったい

何がしたいの?

 

何のために

ここにいるの?

 

何のために

関わっているの?

 

何のための

人生なの?

 

何のための

私なの?

 

・・・次々と生まれる

問い。

 

これらの問いに

あなたは

真摯に向き合おうと

思いますか?

 

それとも

面倒ですか?

 

どうして私達の中には

このような

問いが発生

するのでしょうか?

 

・・・・・・

 

私は一つの問いと

出会った時、

その問いに対する答えが

すぐに浮かぶ場合、

その答えを

捨てることにしています。

 

すぐに浮かぶ答えとは、

これまでの自分が

出す答えです。

 

問いに対して、

これまでの自分が

出す答えは

意味がありません。

 

「今の自分」が

出す答えこそが、

今、必要な答えです。

 

答えは

一つではありません。

 

正解も

不正解も

ありません。

 

今この瞬間に

発生する

「最善の答え」が

あるだけです。

 

その

「最善の答え」を

見出すことが

人生においては

とてつもなく

大事です。

 

それは、

これまでの自分、

過去の自分に

こだわっていたり

執着していては

出ないものです。

 

今の自分だからこそ

出せる答えが

必ずあります。

 

それを見つけるのが

セルフコーチングの

本質です。

 

・・・・・・

 

私はあの出来事の

どこに後悔を

しているのだろうか?

 

その問いに対して、

今日出す答えと

明日出す答えは

異なるかもしれません。

 

それで

良いのです。

 

今日しか

出せない答え。

 

今しか

出せない答え。

 

・・・があります。

 

それこそが

重要です。

 

今しか出せない答えは

今しか出せません。

 

それはまるで

人と人の縁と

同じです。

 

赤い糸で

結ばれたような

ご縁のある答え。

 

そんな答えと

スムーズに出会うには、

的確な問いを

的確なタイミングで

投げることです。

 

セルフコーチング力とは

それができる力を

言います。

 

・・・・・・

 

「私」と「自分」は

別物です。

 

そう捉えると

セルフコーチングは

とても面白く

なります。

 

「私」が「自分」と

向き合い、

「私」が「自分」を

より自分らしく

育て上げていく。

 

こんな感覚が

とても大事なのです。

 

つづく

 

自分の答えに素直に生きよう

結局、

誰も私のことなど、

わかってはくれない。

 

私のことを

唯一わかっているのは

私だけだ。

 

私の理解者など

一人もいない。

 

どうせ私は

孤独だ。

 

・・・本当に

そうでしょうか?

 

本当に人は

孤独でしょうか?

 

本当に自分を

理解してくれる人は

いないのでしょうか?

 

自分のことを

実は

一番わかっていないのは

自分自身である、

ということは

ないでしょうか?

 

自慢にも何も

なりませんが、

以前の私は

本当に孤独でした。

 

家族といても

孤独でした。

 

誰もわかってくれないなら、

もういいや。

わかってもらう

必要はない。

 

そのようにいつも

絶望し、

その絶望を

隠しながら

生きていた気がします。

 

ところが。

 

今はどうでしょうか。

 

今日ふと

思ったのです。

 

今、私の周りにいる

人達は、

私以上に

私のことをわかって

くれている人ばかりでは

ないか、と。

 

私の中から

孤独感は、

きれいさっぱりに

消えてしまっています。

 

いったい、

いつからこんな状態に

なったんだろう?

 

なんでこんなに

満たされいるのだろう?

 

と不思議に

思います。

 

毎日お会いする

人達の顔を

思い出すだけで、

胸がキュキューッと

幸せになります。

 

まるで

恋愛をしているかのような

感覚。

 

なんで

こんなに私は

幸せなのだろうか?

 

そう思ったのです。

 

でも

そう言いながらも、

理由は

私自身が一番よく

わかっています。

 

私自身が

真本音で生きている

からです。

 

真本音で生きる

とは、

このような現実を

創り出すものなのだ、

という驚嘆を

実は一番感じているのは

私自身なのかも

しれません。

 

・・・・・・

 

こんな風に書くと、

いいなぁ、たけうちさんは、

思うかもしれません。

 

でも

真本音で生きる、

なんてことは

誰でもできるんです。

人間であるならば。

 

というか、

人としての最も

自然な生き方であり、

最も楽な生き方が

真本音で生きる

ということなのです。

 

いまだに本当に

思うのです。

 

私ほど、

反応本音のひどかった人間は

いないなぁ、と。

 

お仕事上、

本当にありとあらゆる人達と

出会います。

 

面倒な人も

いっぱいいます。

 

でも、

どんな人と向き合っても

いつも思うのです。

 

あぁこの人は

以前の私よりは

よっぽどましだ、と。

 

だからこの人も、

必ず真本音で生きることが

できるはずだ、と。

 

その私の確信が、

クライアントさんに伝わる

からかもしれませんが、

私のクライアントさんは皆、

真本音度合いを

高めていきます。

 

ただし、

それは私が

高めているのは

ありません。

 

私が行なっているのは、

つまるところ、

その人に合った

セルフコーチングの手法を

お伝えしているだけのこと

のように

思えるのです。

 

極端に言うと。

 

・・・・・・

 

セルフコーチング。

 

結局、

自分を変えることが

できるのは、

自分だけです。

 

孤独でしかなかった私が

なぜ今、

こんなに満たされているのか?

と言えば、

私は私を本気で変えよう

としたからだと思います。

 

そのために

真本音で生きることに

躊躇はありませんでした。

 

まるで他人のように

自分と向き合い、

自分に問い、

答えを待ち、

答えが浮かび上がった時に、

時にはその答えに

衝撃を受けたりも

しました。

 

これが私の

答えか・・・、と。

 

その答えの通りに

動くことに

かなりの勇気を

要することも

ありました。

 

でも私は恐らく、

ほぼ100%、

自分の答えを

実践してきたと思います。

 

その結果が

今です。

 

そして今は、

どんな答えが出ても

へっちゃらで

その答えに素直に

行きます。

 

それがどれだけ

刺激的で面白いことかを

身をもって

実感しているからです。

 

今の私の生き方に

難しいことは

一つもありません。

 

自分の真本音に

素直に次の一歩を

決める。

 

・・・それだけのことです。

 

セルフコーチングとは

要するに、

それだけのことをする

ためだけのもの。

 

あまりに

シンプルなゴール。

 

でも

シンプルであるが故に

難しいのかも

しれませんね。

 

昨日までの記事の

続きを書こうと思って

いたのですが、

ちょっと脱線してしまいました。

 

明日は昨日の

続きを書こうかな、と

今は思っています。笑

 

つづく

 

苦しみの三重苦の中にいませんか?

苦しみのない人生は

あり得ませんが、

自らわざと

苦しみをつくる必要も

ありません。

 

しかし

そういった人が

とても多いのも

事実です。

 

特に多いのが、

本当の苦しみから

目をそらすために、

別の苦しみを

自ら創り出す、

というパターン。

 

「ここで私は

これだけ苦しんで

いるのだから、

勘弁してください」

と、

その人は

無意識に訴えて

います。

 

誰に訴えているかと

言いますと、

自分自身に対してです。

 

しかし、

本当の自分自身は

それを

許しません。

 

「お前の苦しみは

そんなところには

ないだろう。

本当はお前は

ここで苦しんでいるのに。

本当の苦しみは

ここにあるのに。

その苦しみと

向き合ってこそ、

お前の人生は

先に進むのに。」

 

と、

本当の自分が

自分自身に

語りかけ続けます。

 

「本当の自分」とは

つまり、

その人の

「真本音」

です。

 

真本音が自らに

語りかけ続けているのに、

本人がそれを

無視し続ける。

 

しかし、

自らの真本音を

無視すること自体が

人として

最も苦しいことの

一つです。

 

本当の苦しみから

目をそらすために、

別の苦しみを

創り出し、

しかし、その別の苦しみに

向かう自分を

自分の真本音が

戒め続け、

しかしその真本音の

語りかけを無視することで

さらに苦しみが

増す。

 

・・・つまり、

「本当の苦しみ」

プラス

「別の苦しみ」

プラス

「真本音を無視する苦しみ」

という

苦しみの三重苦に

見舞われる状態。

 

この状態に

陥っている人が

とても多いのです。

 

ですから私は

いつも

お伝えすることに

なります。

 

人生はもっと

楽に

進むことができますよ、

と。

 

・・・・・・

 

「本当の苦しみ」

から

逃げないこと。

 

それが、

人生を楽に進める

最も重要な原則の

一つです。

 

「苦しみ」の中でも

代表的なものが

「後悔」です。

 

ですから

言い換えると、

「本当の後悔から

逃げないこと」

こそが、

人生を楽に進める

原則です。

 

そのためには

まずは

「後悔と向き合う」

ことです。

 

「向き合う」

とはどういうことか?

を昨日の記事で

書かせていただきました。

(→前回記事)

 

そして、

自分の本当の

後悔の念は、

自分の頭(思考)の中に

あるのではなく、

自分の体の中に

溜まっているのだ

ということを

一昨日の記事に

書かせていただきました。

(→前々回記事)

 

自分の体に溜まっている

後悔の念と

しっかりと向き合うこと。

 

まずはそれをすることで、

後悔の念の

浄化が始まります。

 

つまり、

その時点から

楽になり始めます。

 

「向き合う」

とは、

楽になること。

 

「逃げる」

「目をそらす」

とは

苦しみを増すこと。

 

という、

原理をまずは

しっかりと

理解してください。

 

これは

人間関係でも

同じことですね。

 

・・・・・・

 

さて。

 

セルフコーチングの基本とは

しっかりと向き合った上で

「問うて、待つ」

ことであると

お伝えしました。

 

自分に対して、

まるで他人のように

問いかけをして、

その答えを待つ。

 

この行為と共に、

もう一つ重要な

行為があります。

 

それは、

 

「自分自身に

語りかける」

 

ということです。

 

やはり、

自分とまるで

他人のように向き合い、

自分自身に

自ら

メッセージを

語りかけるのです。

 

それがもし

真本音からのメッセージ

であれば、

それは

あなたの全身に

ジワリと

沁み渡るでしょう。

 

・後悔の念が、体のどこに

あるかを特定し、

・その念と向き合い、

・その出来事のどこに

本当に後悔しているか?を

理解したら、

今度は、その後悔の念に

対して、

・自らメッセージする

のです。

 

そのメッセージとは、

頭で考えて創り出すもの

ではなく、

後悔の念を理解したことで

自然に自分の中から

浮かび上がってくる

メッセージが

良いですね。

 

ですから、

もし何もメッセージが

浮かんでこない場合は、

無理に

これをする必要は

ありません。

 

自然に浮かぶメッセージ

を、

そのままダイレクトに

自分の後悔の念に

伝えるのです。

 

多くの場合、

これにより、

その後悔の念は

一気に浄化されていきます。

 

ただし、

「浄化しよう」という

意図は持たないことです。

 

意図を持てば、

淀みます。

 

淀んだセルフコーチングは

効果を半減させます。

 

淀んだ言葉が

相手に伝わらないのと

同じです。

 

自分自身に対して、

本当に純粋に

思うところを

伝えるとよいですね。

 

さて。

 

ここまでの流れについて

さらに具体的に

どのように進めればよいか?

解説することにします。

 

それは、

明日以降の

記事にて。

 

つづく

 

自分と向き合う力を養うために

「問うて、待つ」

 

これがセルフコーチングの

基本です。

(→前回記事)

 

それは、

単に「思考する」のとは

本質的に異なる

行為です。

 

「思考する」とは

自分事です。

 

「問うて、待つ」とは

ある意味、

他人に対するコミュニケーション

です。

 

他人に対して

向き合っている

ようなもの。

 

この

「向き合う」

というのが

とても大事です。

 

よく私は

「自分と向き合う」

という表現を使います。

 

これはつまり、

自分をまるで

他人のようにして

客観的に

向かい合うということです。

 

それは、

自分から離れる

ということにもなります。

 

自分からいったん離れ、

離れた場所から

自分を見つめる、

自分の声を聴く、

自分の空気感を

味わう、

ということになります。

 

そこで

ポイントとなるのが、

「意識を完全に向ける」

ということです。

 

・・・・・・

 

「意識を完全に向ける」

 

とは、

どういうことでしょうか?

 

例えば、

目の前にペットボトルが

あるとします。

 

それを見て、

「あぁ、ペットボトルが

ここにあるなぁ」

と思うことは、

意識を完全に向けていることには

なりません。

 

それは単に、

「ペットボトルがあるなぁ」

と解釈している

もしくは、思考している

だけのことです。

 

意識を完全に向けるとは、

そのペットボトルを

よく観察する

ということです。

 

よく観察すると、

細かい部分が

リアルに見えてきます。

 

例えば、

ペットボトルの

ラベル。

どのような色を使い、

どのような文字を使い、

どのような文言が

そこに書かれているか?

 

例えば、

ペットボトルの

形状。

どんな形をしていて、

どこがどのように

でこぼこしていて、

どんな直線があり、

どんな曲線があり・・・。

 

などなど、

ペットボトルの

「あるがまま」が

「事実」として

見えてきます。

 

これを

「観える」

と言います。

 

対して、

「見える」

とは、

自分の解釈の入った

みえ方です。

もしくは、

自分のフィルターのかかった

みえ方です。

 

私達は常に、

あらゆる物事を

自分の解釈や思考や

自分なりの思い込み

(これをフィルターと言います)

を通して

みています。

 

それを普通に

「見る」とか

「見える」

と表現します。

 

「観察」とは

あるがままをみること、

それを

「観る」とか

「観える」

と表現します。

 

「意識を完全に向ける」

とはつまり、

それを「観る」

ということです。

 

・・・・・・

 

そして

「向き合う」とは、

相手を「観る」

ということに

他ありません。

 

何の思考も

解釈も

思い込みも

なく、

何のフィルターも

なく、

ただ、あるがままを

観る。

 

そして、

あるがままを

聴く。

 

そして、

あるがままを

感じる。

 

これが

「向き合う」

ということです。

 

そのため、

「自分と向き合う」

とは、

いったん自分から

離れて、

その上で

あるがままを

観察したり

聴いたり

感じることを

言います。

 

それをするのが

セルフコーチング

です。

 

・・・・・・

 

ですから、

セルフコーチング力を

高めるためには、

「完全に意識を向ける」

練習をすることを

お勧めします。

 

つまりは、

あらゆるものを

観察する練習を

するのです。

 

例えば、

電車に乗ったら、

一緒の車両にいる人達を

観察します。

 

人を観るのが

ちょっと恥ずかしい場合は、

物でもよいです。

 

天井を観たり、

広告を観たり、

吊り革を観たり、

いろんなものを

あるがままに

観察します。

 

私はよく

研修やコーチングの合間に

散歩をします。

 

その時、必ずしているのが

歩きながら

様々なもの、

もっと言えば

「世界」そのものを

観察しています。

 

意識を完全に

「世界」に向けながら

歩くのです。

 

それが非常に良い

ウォーミングアップになり、

研修中も

人に完全に意識を向ける

ことがしやすくなります。

 

あるがままに

向き合うことが

できれば、

そこから得られる情報は

「凄まじい」ものがあります。

 

よく私は

クライアントさんから

言っていただきます。

「たけうちさん、

どうしてそんなことまで

わかるのですか?」

 

その答えは

実に単純です。

 

「あるがままに観ている」

からです。

 

「あるがままに聴き」

「あるがままに感じている」

からです。

 

この

「あるがまま」を

自分自身に対して

できるようになれば、

「自己理解」は

一気に深まります。

 

・・・・・・

 

セルフコーチングの基本は

「問うて、待つ」

です。

 

これをもっと

正確に表現すれば、

「問うて、向き合って、待つ」

ということになります。

 

ここでどれだけ

向き合えるか?

つまり、

あるがままを

観たり、聴いたり、

感じ取れるか?

が、

セルフコーチングの質を

決めます。

 

ただ、

このように書くと

非常に難しく

感じられるかもしれません。

 

でもやはりこれも

「慣れ」

です。

 

コツさえわかれば、

一気に

セルフコーチング力は

増していきます。

 

自転車に乗るのと

同じ。

 

自転車も最初は

上手に乗れませんが、

慣れればすぐに

片手運転も

できるようになります。

 

慣れるかどうか?

やるかどうか?

だけのことです。

 

つづく

 

頭で解釈せず、体に問う

後悔した出来事があると、

私達はできれば後悔の念を

「なかったことにしたい」

と思います。

 

その結果、

その出来事に後から

様々な「解釈」を

つけたりします。

 

「あれは

しょうがなかったんだ」

 

「不可避な流れで

自分にはどうしようも

なかった」

 

「別の選択もあったとは

思うが、

あれはあれでいいのだ」

 

などなど。

 

時には、

 

「あの出来事には

これこれこのような意味が

あったのだ。

だからそれでいいでは

ないか」

 

「あの出来事によって

自分はこんな成長が

できた。

だから良いではないか」

 

などのように、

自分の「解釈」によって

その出来事を

肯定的に捉えようと

する場合もあります。

 

「解釈による肯定化」

 

・・・は、ダメです。

 

最も

やってはいけません。

 

これを

クセのようにいつもいつも

し続けている人がいますが、

そういった人ほど、

心の奥にストレスが

溜まり続け、

気がついた時には

体を壊す寸前、という人も

私はこれまで数多く

出会ってきました。

 

「解釈」とは

顕在意識レベルで

頭の中での無理な

変換をしているだけの

行為です。

 

物事の捉え方を

変えてみたり、

別の角度から

物事を見つめること

自体は

大事です。

 

しかし、

自分を説得するかのように

顕在意識のみで

強引な解釈をし、

それを「答え」とするのは

本当に

やめた方がよいです。

 

顕在意識のみを

解釈によって

捻じ曲げても、

それ以外の私達の

意識は

納得していません。

 

しかも

体は正直です。

 

頭の解釈を

どれだけ変えても

苦しいものは

苦しいのです。

 

むしろ、

頭の解釈を

強引に変えることで

その苦しみは

倍増します。

 

「前向きに生きる」

とは、

解釈を変えることでは

ありません。

 

・・・・・・

 

『セルフコーチングを使った

良い後悔の仕方』

 

の続きを行きます。

(→前回記事)

 

私達が

私達自身の最も素直な

気持ちを知るためには

体の反応を観るのが

最も簡単です。

 

後悔した出来事を

ありありと思い出した時、

体のどの部分に

どのような反応が出るか?

をまずは

特定しました。

 

そしてその反応の出た

場所に

じーっとただただ

意識を向け続けます。

 

例えば、

両肩が重い、

という反応があった場合、

その両肩にのみ

意識を向けます。

 

これを続けると、

その両肩に

さらに

何かを観たり、

何かを感じたり

するようになります。

 

例えば、

両肩に黒い大きな

岩のようなものが

乗っかっているイメージが

自然に観えたりします。

 

もしくは、

何もイメージは観えなくとも、

両肩に何かが

乗っかっている感覚のみが

ありありと

感じられるかもしれません。

 

そこまでできたら、

その「イメージ」

もしくは

「感覚」に、

問いかけてみてください。

 

「君は

何にそんなに

後悔しているの?」

と。

 

すると、

人によっては

その「答え」が

言葉となって自然に

浮上してくるかも

しれません。

 

例えば、ですが。

「あの時、私は

あんなことを言うんじゃ

なかった」

というように、

まるで会話をしているかのように

答えが返ってきます。

 

もし答えが返ってきたら、

さらにその答えを

理解しようとします。

 

例えば、

「あんなこと、というのは

具体的に

どんなことを

言うんじゃなかったと

思ってるの?」

というように。

 

その会話は

自分自身と会話をする

というよりも、

誰かそこに別の人がいて

その人の話を

聴いている

という感じで進めると

やりやすいでしょう。

 

誰かの相談を

聴いているイメージ

です。

 

これをすることで、

自分自身が

何に最も後悔しているのか?

を特定することが

できます。

 

この

「特定」が

ポイントです。

 

実は、

ここがずれている人が

かなり多いです。

 

「私はあの出来事を

すごく後悔しているんです」

と言いながら、

その後悔のポイントが

ずれているのです。

 

本当の後悔を

見つめることを

無意識に拒絶するために

このようにポイントを

ずらしてしまっているケースが

多いようです。

 

ずれたポイントに対して

どれだけ向き合っても

それでその後悔が

解消されたり浄化される

ことはありません。

 

一つの出来事の中でも、

本当はどのポイントで

私は何を後悔をしているのか?

絞り込むことが必須です。

 

それを頭の解釈で

しようと思っても

無理です。

 

このように、

体の感覚に

問うことで

初めて観えてくるのです。

 

しかし

セルフコーチングに

慣れない内は、

すぐにこのような会話には

ならないかもしれません。

 

その場合は、

問いかけだけを行ない、

あとはただじっと

待つことをします。

 

待っていると

言葉にはならないけれど、

でも何となく

答えが「わかった」

という感覚になることが

あります。

 

何となく「わかった」ら、

それを自分なりに

言語化します。

ここは

頭の解釈でも結構です。

 

大事なのは、

最初から頭で

解釈しないことです。

 

自分の体や

体の感覚そのものに

まずは

「問う」こと。

 

そして、答えを

「待つ」こと

です。

 

つまり、

「問うて、待つ」

というのが、

セルフコーチングの

基本的姿勢です。

 

たとえ

答えがまったく

わからなくても、

それでも

「問うて、待つ」

ことをしてください。

 

これを繰り返していると、

だんだんと

答えがわかるように

なります。

 

今日はここまで

とします。

 

つづく

 

体が感じているものとは?

「深刻にならずに

気楽に行けばいいさ」

 

という人生の進み方は

とても大切なことです。

 

しかし、

深刻にならずに

いるためには、

自分の中に存在している

深刻なものと

向き合うことが

必須です。

 

深刻なものから

逃げれば、

ますます心の中の

深刻さは増幅します。

(→前回記事)

 

向き合うことで

それを浄化し、

結果として

自然に軽やかに進む。

 

それが最も

自然な進み方であり、

セルフコーチングの

極意でもあります。

 

「後悔」というのは、

深刻なものの

代表的な一つです。

 

今回から

「後悔」を題材にして

セルフコーチングのやり方を

じっくりと

ご紹介していきます。

 

題して、

 

『セルフコーチングを使った

良い後悔の仕方』

 

です。

 

・・・・・・

 

まずは、

後悔した出来事を

一つ思い出してください。

 

それは最近のことでも

昔のことでも

構いません。

 

その出来事を

ありありと

思い出します。

 

可能であれば、

その出来事が

今ここで起きているかのように、

ありありと

イメージします。

 

それを思い出した時の

あなたの体の反応に

意識を向けてください。

 

例えば、

胸の中心が

ググッと苦しくなる、

とか。

 

後頭部が

ドーンと重くなる、

とか。

 

両肩にずっしりと

岩が乗っている

感覚がある、

とか。

 

お腹が痛くなる

感覚。

 

両足が

地面に沈んでいく

感覚。

 

吐き気。

 

頭の中心が

痛い。

 

両腕の

力が入らない。

 

みぞおちが

ギュギュッと

痛くなる。

 

などなど。

 

ちょっとした変化でも

よいです。

 

まず、

セルフコーチングの一歩目は

こういった

「体感覚」

に敏感になるところ

からです。

 

ところが、

これは特に男性に

多いですが、

体感覚がよくわからない

という人がいます。

 

実は、

昔の私が

そうでした。

 

しかしこれは

「慣れ」です。

 

誰もが

意識を向け続けることで

慣れていくことができます。

 

最初は、わずかでも

よいですから、

体の中で

気持ち悪さのある箇所や

違和感のある箇所を

探してみてください。

 

・・・・・・

 

体の中の

反応した部分。

 

ここに

あなたのモヤモヤが

あります。

 

つまり、

後悔の念が

そこに溜まっている

可能性が高いです。

 

今度はそこに

意識を向けて

みましょう。

 

深呼吸をして、

できるだけ心を

落ち着かせ、

目をつぶり、

体のその箇所に

意識の矢印を

向け続けます。

 

じーっとただただ

向け続けます。

 

例えば、

両肩が重い、

という場合は

両肩のみを

意識するようにします。

 

その時には

できるだけ

思考は止めてください。

 

解釈をしたり

評価をしたり

するのもやめます。

 

ただ単に

両肩を観察する

イメージです。

 

もしくは、

感覚のみを

「楽しもう」

とします。

 

後悔の出来事を思い出し

「感覚を楽しもう」というのは

さすがに無理だろう、

と思われるかも

しれません。

 

しかしあえて、

「そういった感覚を

楽しもう」

「そういった感覚を

味わおう」

としてみてください。

 

言ってみれば

「人間体験」

みたいなものです。

 

あなたが宇宙人だとして、

「へぇ、人間って

こんな感覚の中で

生きてるんだ」

というのを

体験しているイメージです。

 

それくらいに

客観的に

自分の体の反応を

体験します。

 

・・・・・・

 

まずは、

ここまで。

 

ここまではまだ

セルフコーチングの

準備段階ですが、

もしここで

あまりに辛くてしょうがない、

という場合は、

練習として、

もう少し軽めの出来事

で行なってみると

よいでしょう。

 

ここまでで

重要なのは、

「感覚を掴む力」

です。

 

もしもそれが足りないな、

と思われたら、

ぜひ練習してみてください。

体感覚は

普段の日常生活の中でも

いつでも

養うことができます。

 

一つ一つの自分の

行動や体験、

例えば

目に見えるものや

聞こえるものに対して、

体の感覚に

都度、意識を向ければ

よいのです。

 

例えば、

道端で綺麗なお花を

見つけた時、

「あぁ可愛らしいな」

と思うだけでなく、

その時自分の体の

どこがどのように

反応しているか?

を確認するのです。

 

そういったことを

続けるだけで、

たったの数日で

体感覚がよくわかるように

なる人も多いです。

 

私達は

この3次元の世界では

体を使って生きています。

 

体は日々、

いろんなことを

感じ取っています。

 

感じていることを

把握する。

 

それだけのことです。

 

まずはここから

始めましょう。

 

『セルフコーチングを使った

良い後悔の仕方』

は、

明日以降も続けます。

 

つづく

 

きちんと後悔と向き合ってますか?

後悔のない人生が

いい。

 

誰だって

そう思いますよね。

 

私だって

そう思います。

顕在意識では。

 

でも、

人生に後悔は

付きものです。

 

なぜなら

人生の意味とは

「進化」だからです。

(→前回記事)

 

思惑通り行かずに

後悔をする。

 

そして後悔するからこそ、

次の展開が起こる。

 

その展開により

感動と共に

進化が起こる。

 

それにより

次のステージに

進む。

 

・・・というのが

人生の普通の進み方

です。

 

かと言ってもちろん

わざと後悔する必要は

ありません。

 

大切なのは、

今、自分の中にある

「後悔」に

きちんと

光と当てることです。

 

・・・・・・

 

後悔の仕方には、

・悪い後悔の仕方と

・良い後悔の仕方が

あります。

 

悪い後悔の仕方とは、

一言で言えば、

「後悔」を後悔のままに

しておくことです。

 

「あぁ、なんで私は

あんなことをしてしまった

のだろう・・・。」

 

と思うその気持ちを

その気持ちのままに

持ち続けることです。

 

何かに後悔し、

「あぁ、なんで私は

あんなことをしてしまった

のだろう・・・。」

と思う。

 

その次の日も

まったく同じように

「あぁ、なんで私は

あんなことをしてしまった

のだろう・・・。」

と思う。

 

さらにその次の日も

まったく同じように

「あぁ、なんで私は

あんなことをしてしまった

のだろう・・・。」

と思う。

 

さらにさらに

その次の日も・・・。

 

というように、

延々と同じ後悔の気持ちを

そのまま抱えている場合が

あります。

 

これでは逆に

「後悔」の意味が

ありません。

 

この場合は、

後悔し続けることで、

人生が止まって

しまいます。

 

「後悔」とは

「進化」のきっかけとなる

宝物です。

 

ですからそれは

宝の持ち腐れ

となります。

 

・・・・・・

 

もしくは、

もっと悪い後悔の仕方

があります。

 

それは、

後悔を誤魔化す

ことです。

 

つまりは、

「私は後悔など

していない」

と思い込んだり、

もしくは

「私は後悔など

してはいけない」

と、無理な前向きさを

創り出すことです。

 

これは

最も良くないです。

 

よく

言われますね。

 

「過去など

振り返らないで

未来のみに進もう」

と。

 

これは実は

最も良くないです。

 

これは

「現実逃避」の

典型的なパターン。

 

もちろん、

未来に向かうことは

大事です。

 

未来に意識を

向けることも

大事。

 

しかし、

過去の自分の後悔に

フタをしたまま

未来に向かえば、

それは

「現実逃避としての

未来」

にしかなり得ません。

 

これは

私達の真本音が

最もイヤがることです。

 

・・・・・・

 

良い後悔の仕方とは、

まずは

自分の心の中に湧く

その後悔の念に

「光を当てる」

ことです。

 

つまりは、

その気持ちを

しっかりと見つめる

こと。

観察すること。

 

そして、

100%、

感じ取ること

です。

 

それは辛そうだなぁ、

と思われる人も

多いかもしれません。

 

しかし、

これが最も

楽な方法です。

 

なぜ、後悔が

辛くなるか?

 

それはその後悔から

逃げようとする

からです。

 

逃げれば逃げるほど、

後悔は

追いかけてきます。

 

逃げれば逃げるほど、

後悔は

それに反発するかのように

巨大化します。

 

「後悔」とは

反応本音です。

 

反応本音とは、

逃げたり打ち消そうとすることで

反発的に

増大します。

 

逆に、

そこにしっかりと

光を当てて、

しっかりと向き合うことで

それは

開放され、浄化されて

いきます。

 

心を開放するの

です。

 

もしそれにより、

泣きたくなれば

そのまま

泣けばよいのです。

 

涙は

健康の証です。

 

子供はよく

泣きます。

 

心が健康

だからです。

 

しかし大人は

泣くことを

忘れます。

 

心が不健康な

証拠です。

 

私は

真本音度合いが高まることで

すぐに涙を流せるように

なりました。

 

心が健康になったな

と思います。

 

さて。

 

良い後悔の仕方については

さらに

詳しくご説明していきます。

 

つづく

 

思惑通りに進む人生は、人生ではない

人生とは、

思惑通り・意図通りに

いかないように

できています。

 

なぜなら、

思惑通り・意図通りに

すべての物事が

進んでしまうと、

人生の意味そのものが

なくなるからです。

 

人生の意味とは?

 

様々な視点からの

答えがありますが、

最も根本的な視点から

言えば、

それは

 

「進化」

 

です。

 

私達自身の「進化」のために

人生はあります。

 

そのことを

最もよくわかっているのが

私達自身の「真本音」

です。

 

人生というステージにおいて

私達の真本音は

「進化のための一歩」

を踏み出し続けようと

します。

 

真本音度合いが高まる

ということは、

進化へのスピードが

高まるということです。

 

真本音度合いが低い

ということは、

進化へのスピードが

遅い、

もしくは

進化をまったくしていない

ということです。

 

そして人は、

進化を続けている時は

楽で

安定して

安心できます。

 

進化が止まっている時は

苦しく

不安で

不安定になります。

 

ですので、

人生が思惑通りに

進むようになると、

実は

私達は苦しくなるのです。

 

不安になり

不安定になるのです。

 

面白いでしょ?

 

・・・・・・

 

真本音度合いが上がると

自分の思惑は

ほぼ、すべて

外れるようになります。

 

思惑とはもちろん、

顕在意識レベルの思惑を

指しています。

 

私も、

真本音度合いが

高まれば高まるほど

自分の思惑が

外れるようになりました。

 

思わぬ展開、

というのが多く

なりました。

 

しかしその代わり、

自分の「願い」や「祈り」は

必ず実現するように

なりました。

 

思惑通りにいかないのに、

「願い」「祈り」は

必ず実現する。

 

これが

真本音度合いの高まった人の

人生展開の

特色です。

 

だから、

面白くって

しょうがない。

 

本当に

面白い。

 

へぇ、

こう来たか!

 

まさかこんな展開に

なるとは!

 

へっ?

こんな道があったの?

 

・・・みたいな

あまりに楽しく

劇的な展開が

多くなります。

 

ひょっとすると

以前の自分が

「これは奇跡だ!」

と思っていたことが

今は日常茶飯事で

起きているのかも

しれません。

 

思惑通りに

いかないということは、

自分の顕在意識の

範疇の発想では

到底収まりきれないような

展開がある

ということです。

 

それは多くの場合、

「想像以上に

面白い展開だ!」

ということです。

 

「想定以上に

楽しかった!」

ということです。

 

それこそ

「冒険」

です。

 

冒険とは

その途上においては

上手くいかないこと

ばかりです。

つまりは、

思惑通りにいかないこと

ばかりです。

 

しかしだからこそ、

その後の展開と

結果が

感動的になります。

 

そう。

 

人生に

感動が多くなる

のです。

 

それが

真本音で生きる

ということであり、

真本音度合いが高まる

ということです。

 

・・・・・・

 

セルフコーチング法とは

真本音度合いを高める

ためのものです。

 

真本音度合いの高まらない

セルフコーチング法が

もしあるとすれば、

それはもう

セルフコーチング法では

ありません。

 

そして

セルフコーチングを

すればするほど、

思惑通りに

進まなくなる

ということになります。

 

自分と向き合えば

向き合うほど、

思惑通りに進まなくなる

のです。

 

面白いでしょ?

 

でもそれこそが

「人生」の

本当の意味なのです。

 

セルフコーチング法とは

人生の本当の意味を

実感するためのもの、

人生の醍醐味を

より強く深く

感じ取るためのもの

とも言えますね。

 

・・・・・・

 

思惑通りにいかない、

ということは

それだけ

後悔が多くなる

ということになります。

 

人は、

後悔することを

嫌がります。

 

でも、

私達の真本音は

わざと後悔を

呼び起こすような展開を

自分にもたらすことが

あります。

 

それはやはり

「冒険」の

ためです。

 

それを通じた

「進化」のためです。

 

私にも

「後悔」は

いくらでもあります。

 

日々、

「後悔」を

量産し続けています。

 

しかし

「後悔」が来た時が

私にとっては

喜びの瞬間でもあります。

 

なぜならそれが

「冒険」の始まり

であり

「感動」の始まり

だからです。

 

ただし、

「後悔」にも、

良い後悔の仕方と

悪い後悔の仕方が

あります。

 

セルフコーチングとは

良い後悔をするためのもの

とも言えます。

 

後悔が起きた時の

セルフコーチングのやり方。

 

それを

次回から

ご紹介しますね。

 

つづく

 

圧倒的な答えを見つけよう

心の中にモヤモヤが

現れると私はいつも

チャンスだ!

と思います。

 

そしてそのモヤモヤが

最大化したその瞬間に

モヤモヤと

向かい合います。

 

それは時には

かなりの「苦しみ」を

伴っていることも

あります。

 

しかし

「苦しみ」が大きければ

大きいほど、

より強く

チャンスだ!

と思えます。

 

心の中の

苦しみ。

 

それは

逃げれば逃げるほど

辛いものとなります。

 

向き合えば

向き合うほど

それは開放され

楽になります。

 

楽になりながらも

その「苦しみ」や

「モヤモヤ」の中身が

観えて来ます。

もしくは、

聴こえて来ます。

 

私の場合、

それらは実は

私自身のものでは

なかった

というケースが

ほとんどです。

 

つまりは、

今日向かい合った

クライアントさんや

お客様から

受け取った「苦しみ」や

「モヤモヤ」である

場合が多いのです。

 

もちろんその「苦しみ」の

具体的な中身までは

わかりません。

 

しかし、

その人がどのような傾向の

「苦しみ」や「モヤモヤ」を

今、現在

抱えているのかを

理解することはできます。

 

そして

私はそれらと

100%向かい合い、

全身で感じ続けます。

 

100%それができると、

それらの「苦しみ」や

「モヤモヤ」は

きれいに浄化されます。

 

浄化の後に

残るのは

「答え」

です。

 

その「答え」とは

多くの場合、

その次の一歩として

その人が

何をすれば良いか?

もしくは、

私自身がその人に

どのようなサポートの

一手を行なえばよいか?

の答えです。

 

「苦しみ」と「モヤモヤ」が

大きければ大きいほど、

その「答え」も

圧倒的なものと

なります。

 

それを私は

『直観』

と呼んでいます。

 

心の中に

「モヤモヤ」を見つけた時、

そこには必ず、

「直観」が

潜んでいます。

 

ですから私は

チャンスだ!

と思うのです。

 

・・・・・・

 

「直観」とは

圧倒的な発想

であり、

圧倒的な答え

です。

 

それを私達が

得たとき、

私達は

突き動かされます。

 

理由づけや

理屈や理論は

そこには

ありません。

 

必要

ありません。

 

ただただ、

その答えの通りに

動きたくなります。

 

いえ、

考える間もなく

勝手に体が

動いてしまいます。

 

そこには

一切の迷いが

ないからです。

 

100%の答え

だからです。

 

私は、

「直観」と「直感」を

いつも区別して

表現しています。

 

一般的に書かれる

「直感」

とは、幅広いひらめきや

気づきを

表しています。

 

もちろんそれらは

宝物のように

大事なものです。

 

が、

100%でない答えも

含まれています。

 

ですから、

「直感」がどれだけ

働いても、

その通りに動くかどうか?

は、

時と場合ですし、

特にビジネスの世界では

「直感」に対して

その理由づけをしっかりと

した上で、

実行に移していく

というケースがほとんどです。

 

しかし

「直観」は

それとはちょっと

次元が異なります。

 

もう、

理由づけも根拠も

必要ないのです。

 

「答え」を得た瞬間に

動いてしまう。

 

その動きに

迷いは一切

ありません。

 

つまり一言で言えば、

「確信」。

 

根拠のない確信。

 

いえ。

 

本来、確信とは

根拠の必要ないもの

なのだと思います。

 

そういった

圧倒的かつ確信の

答え。

 

これを私は

『直観』

と呼んでいます。

 

・・・・・・

 

大きなモヤモヤの

その向こうには

「直観」

が待っています。

 

ということは

その「モヤモヤ」や

「苦しみ」に

向かい合わないことが

いかに

もったいないことか。

 

ところが実際には

そこに真正面から

向かい合おうとする人は

ごくわずかです。

 

どうしても人は

「モヤモヤ」から

逃げようとしてしまいます。

 

もしくは、

「モヤモヤ」を

上手く解消しようと

します。

 

その場合、

解消と言ってもそれは

本当の解消ではなく、

モヤモヤに

フタをしたり

麻痺をさせたりする

類のものです。

 

本当の意味で

向かい合い、

本当の意味で

浄化・解消し、

本当の意味での

直観の答えを

導き出す。

 

それができれば、

人はもっと

自由になれます。

 

自分らしく

なれます。

 

そして

望む人生を

自ら拓くことが

できます。

 

私はそれを

セルフコーチング力と

呼んでおり、

今、まさにこれが

世の中に必要な力であると、

それこそ確信に

至りました。

 

直観の答えを

見つけ出す

セルフコーチング法。

 

それをこれから

徐々にご紹介して

行きますし、

 

セルフコーチング法を

指導できるコーチを

育成したい、

とも思っています。

 

そのためのアクションを

今月から

始めます。

 

つづく

 

恐怖は消してはならない

怖い。

 

恐怖。

 

この気持ちは、

「分離」によって

もたらされます。

 

「自分」と「周り」との

分離です。

 

「周り」を

「世界」と表現しても

よいです。

 

「自分」と「世界」の

分離。

 

「自分」は

自分だけでしか

ない。

 

周りとも世界とも

別物である。

 

「自分」は

自分。

 

これを

分離感と言います。

 

もちろん、

ほとんどの人が

この分離感と共に

生きています。

 

それにより、

人とは、

怖さや恐怖を抱くことが

当たり前であり、

それが

人というものである、

と、

みんな思っています。

 

私達がいるこの

3次元の世界は、

分離感によって

成り立っています。

 

・・・・・・

 

分離感は

私達人間にとって

極めて辛いものです。

 

しかし、

この3次元世界に

生まれた瞬間から

私達は

その分離感の

真っ只中に入ります。

 

赤ん坊が

生まれた瞬間に

大泣きするのは、

その分離感に

びっくりしているのだと

私は思います。

 

今まで、

お母さんと

一つだったのに、

いきなりそこから

分離した。

 

その

驚くべき感覚が

私達の人生の

第一歩です。

 

そして

その分離感と

私達は常に

闘いながら

生きてきました。

 

分離感の中でも

しっかり歩ける自分に

なろうと、

努力してきました。

 

分離感に

惑わされない自分。

 

分離感に

負けない自分。

 

そんな自分になることが

人としての

成長であると

信じて、

ここまで来ました。

 

しかし残念ながら、

分離感とは

克服するものでは

ありません。

 

どれだけがんばっても、

分離感は

分離感です。

 

克服できたと

思っていても、

それは単に

麻痺しているだけ。

 

人は、

分離感には

勝てないのです。

 

辛いものは

辛い。

 

怖いものは

怖い。

 

そう

あるがままに感じる

自分を

そのままに

受け止めることができて、

初めて人は

分離感から

自由になれます。

 

それは決して

分離感がなくなるわけでも

弱まるわけでも

ありません。

 

分離感は

そのまま。

 

怖いのも

そのまま。

 

でも、

そこから

解放されるのです。

 

それが、

真本音で生きる

ということであり、

 

高い次元の自分を

思い出すという

ことです。

 

・・・・・・

 

皆さんは、

場と

時と

一つになれた、

というご経験は

ありませんか?

 

最近は

若い人達にこういった

表現を使うと、

「あぁ、わかります、わかります」

と返ってくることが

実に多くなりました。

 

最近の若い人達の感性は

本当に凄いなぁと

思います。

 

「一つになる」

という瞬間が、

私達の人生には

必ずあります。

 

しかもその瞬間は

ここ数年で

一気に増えているはずです。

 

場と、時と、

一つになれている時、

私達は

その瞬間は、

分離感や恐怖から

解放されます。

 

何度も言いますが、

分離感や恐怖が

なくなるわけでは

ありません。

 

それがここにあっても、

どうでもいいことだと

思えるのです。

 

それくらいに

「一つになる」

という体験は

インパクトがあります。

 

しかしそれは

何も特別なことではなく、

私達がもともといた場所は

「すべてが一つ」

という世界ですから、

それを「思い出す」

ということで、

インパクトがあるのです。

 

私達の魂に刻まれた

記憶を呼び起こすからこその

インパクトです。

 

・・・・・・

 

船に乗って

航海をしている時、

船と海は

分離しています。

 

ですからもし

嵐が来た場合は、

転覆するのではないか、

という恐れが来ます。

 

しかし、

海も船も自分自身だとしたら

どうでしょうか?

 

しかも海は、

表面上は

嵐によって荒れていますが、

深海に潜れば、

そこは常に安定しています。

 

しかも、

さらに潜れば、

大地があります。

その大地とは

地球そのもの。

 

その地球とも

一つであるとしたら。

 

すべてが私

であるとしたら。

 

もちろんそれでも

恐怖が消えることは

ありませんが、

それでもその恐怖よりも

もっと大きな安定感を

私達は得られるのでは

ないでしょうか。

 

地球とも海とも

一つである自分。

 

それを思い出しながらも、

船として生きる人生を

楽しむ。

 

・・・これが

真本音で生きる感覚です。

 

高い次元を

思い出している

感覚です。

 

私達人間の実に

面白いところは、

どれだけ高い次元を

思い出しても、

低い次元が

なくなることはない、

すべての次元が

共存している

というところです。

 

これこそが

人間の魅力。

 

人間の

面白さ。

 

人生の

面白さ、です。

 

地球も海も

すべては自分ではないか、

という安定感と、

荒海に揺れる船としての

心細さの

共存。

 

これが

私達人間です。

 

この両方を感じながら

生きるのが

人としての

楽しさの本質です。

 

この本質を

存分に感じ取るために

私達が身につける

最も重要なスキルが

セルフコーチング法であると

私は思っています。

 

セルフコーチングとは

・自分と

・現実と

あるがままに向き合う

手法です。

 

これができることで、

高次元も低次元も

すべての自分と

共に生きることが

できるのです。

 

つづく

 

生まれたばかりの自分を取り戻そう

以前、私の母親から

聴いたのですが、

私は生まれたばかりの

赤ん坊の頃、

ほとんど

泣かなかったそうです。

 

ただ大仏のように

ジーッとしていたそうです。

 

あんまり泣かないものだから、

心配になって

産婦人科の先生に

相談に行ったそうです。

 

産婦人科の先生は

「どれどれ・・・」

と言いながら、

私のお尻を思いっきり

つねったそうです。

 

すると

私は大泣き。

 

「あっ大丈夫ですね。

これだけ泣けば

健康です」

 

・・・だって。

 

「大丈夫ですね」

じゃねーだろうよ。

こっちは落ち着いて

この世に生まれたことを

しみじみと

味わっていたのによぉ。

 

・・・と私は

思っています。笑

 

実は、

当時の私は

この世に生まれた悦びを

一人静かに

噛み締めていたのでした。

 

その記憶が

あります。

 

というよりも、

いつでもその時点の自分に

戻れるのです。

 

人生の最初の頃の

自分。

 

私はたまたま

「実在」をあるがままに

感じ取れるので

それが顕在意識レベルで

できますが、

本当はすべての人が

(当たり前のことですが)

生まれたばかりの頃の

自分をちゃんと

覚えています。

 

その時の

自分の想い、願い、

そして

強い意志。

 

この世には、

強い意志がなければ

生まれてくることは

できません。

 

この世に

生まれてきたということは

もうそれだけで

大変なことですし、

私達は

自分の人生を引き受ける

覚悟が

できているのです。

 

最初から。

 

それが、

今ここにいる

すべての

私達です。

 

・・・・・・

 

3歳の頃。

 

私はふと、

青空を見上げ、

自分の体が健康であることを

とてつもなく深く

感謝しました。

 

健康とは

なんて素敵な

ことなんだ!

 

と、

とてつもなく深い

悦びを感じました。

 

6歳の頃。

 

あれは確か、

小学校の入学式の

直後です。

 

田んぼに咲く

満開の蓮花の花々を

見ながら、

「あぁここから、

私の人生は本当に

始まるのだな」

と、

感慨にふけっていました。

 

これから何度も、

春のこの始まりの気持ちを

感じるだろうが、

今この目の前にある

満開の蓮花の花々を

私は一生忘れずにいよう

と思いました。

 

そして、10歳の頃。

 

私は、

私の人生の終わりに

想いを馳せました。

 

死を迎えるというのは

なんと、

恐怖を伴うものだろうか、

ある意味びっくり

しながら。

 

しかし、

私はどのように人生を

終えるのだろうか。

 

私はその時、

どのような自分に

なれているのだろうか、

と、

何十年も先の自分に

想いを馳せました。

 

そして

その想いを

「ラストページ」

という名の

詩にしました。

 

どこでどうなったのかは

まったく覚えていませんが、

その詩が

朝日新聞に掲載される

ことになりました。

 

それは、

人生の最期が

迫っている人が

人生の最期に

書くような内容の

詩でした。

 

ませたガキだと

お思いでしょう。

 

確かに

そうですね。

 

でも、恐らくそういった

ませた自分が出る

その瞬間の私は

「実在」を

感じ取っていたのだと

思います。

 

ませているのは

本当にその瞬間だけで

あとは普通の

子供でした。

・・・だったと思います。

 

「実在」を感じ取る

とは、

過去も未来もすべてを

「今ここ」に

感じ取れるという

ことです。

 

過去の自分にも

なれますし、

未来の自分にも

なれます。

 

それは

イメージでも想像でもなく、

本当の

「実在」です。

 

私はたまたま

それを顕在化できますが、

顕在化できるかどうかは

別として、

すべての人が

本当はそういったことが

できます。

 

つまり、

過去も未来もすべて

自分の人生を

引き受けて、

「今ここ」における

判断や決断を

下すことができる

ということです。

 

・・・・・・

 

私達は、

自分の人生を

自分で

引き受けています。

 

最初から。

 

生まれた

その瞬間から。

 

だから

ここに存在

できています。

 

にも関わらず、

自分の人生から

逃げる方向の

発想や決断や行動を

し続けてしまう人が

います。

 

それもまた人間

なのですが、

でも、

なんか、

もったいないですね。

 

せっかく

人生を引き受けたのですから、

そんな自分を

思い出せるといいなぁ、と

よく思います。

 

そんな自分を

思い出した方が

よっぽど人生は

楽なんですけどね。

 

逃げれば逃げるほど

辛くなる。

・・・それが人生。

 

楽になるために

逃げようとしますが、

それをすればするほど、

苦しみは

増してしまいます。

 

開き直って、

私の人生は

私のものだ。

私の人生は

私が決める。

となった方が

よほど、

身が軽くなります。

 

あなたは

あなたです。

 

他のどこにも

あなたは

いません。

 

あなたが

あなたなのです。

 

そして

あなたの人生は

あなたのものです。

 

その人生を

良くするも

悪くするも

それは

あなたしだいです。

 

もちろん、

何が良くて

何か悪いのかも

あなたが

決めるのです。

 

・・・こう言われて

辛さを感じる人は、

もう少し

自分の想いや願いや

意志を

大切にした方が

よいですね。

 

つづく

 

本当のコーチを育成したい

私は、コーチとは

クライアントさんの鏡である

と思っています。

 

クライアントさんの

真本音を映し出す鏡

です。

 

真本音は時に、

自分自身に対して

非常に厳しくなることが

あります。

 

特にクライアントさんが

ご自分の人生から

逃げようとしている時は

かなり厳しいです。

 

そういったクライアントさんと

向き合っていますと、

私の中に自然と

とてつもなく厳しい言葉が

浮かんで来ます。

 

それはもちろん

私の気持ちでは

ありませんし、

ましてや

私の解釈でも

ありません。

 

クライアントさんの

真本音からの

ダイレクトメッセージ

です。

 

特に厳しいメッセージを

受け取った場合、

私は心の中で

そのクライアントさんの

真本音に問います。

 

「この言葉、

今、あなたに伝えた方が

良いですか?」

と。

 

「はい、今すぐに

ここで私に伝えてください」

との

返答があった場合、

私は躊躇なくそれを

お伝えします。

 

それにより

多くの場合、

そのクライアントさんは

崩れます。

 

場合によっては

立ち直れなくなるくらいに

崩れ落ちます。

 

それはそうです。

 

その人自身の

真本音メッセージ

なのですから。

 

自分にとって

最も痛いところを

真本音はよく

わかっています。

 

その、痛いところを

私は躊躇なく

突いてしまいます。

 

いえ、

本当は、私の心は

躊躇でいっぱいです。

苦しみも

あります。

 

でも、

そのクライアントさんの

真本音が望むならば

私はやはり、

その「鏡」となります。

 

私は

こういったことを

100%できる人のことを

「コーチ」と

呼んでいます。

 

100%できない場合は、

その人はまだ

「コーチ」ではない、と

私は思っています。

 

・・・・・・

 

こういったことを

書くと、

厳しいなぁ、

とか

怖いなぁ、

とか

思いますよね、きっと。

 

人間であれば

それは当然です。

 

時には私も

私自身に対して

厳しすぎるのではないか?

と思うことがあります。

 

でもやはり

私は、その人の

真本音の鏡であり続けよう

とします。

 

当たり前のことですが、

人生とは

机上の空論では

ありません。

 

生身の人間が

生身のままで

体験を続けるのが

人生です。

 

思う通りにいかないことなど

無限にあります。

 

躓くことも、

ひっくり返ることも、

立てなくなることも

あるのが

当たり前。

 

それが

人生です。

 

人間は

それほど強いものでは

ありません。

 

すぐに

逃げたくなるし、

すぐに

誤魔化したく

なります。

 

それが

人間です。

 

そういったことを

全部、

受け止めて

引き受けて、

全部わかった上で

それでも燦然と

心の中心で

輝き続けるのが

その人自身の

真本音

です。

 

何があろうが、

ボロボロになろうが、

クタクタになろうが、

真本音は

ただただ

そこにあります。

 

すべての現実を

受け止め、

すべての自分を

受け止め、

その上で、

自分にとっての最善の一歩を

踏み出そうとするのが

すべての人の真本音の

意志であり

願いです。

 

人生には

意味があります。

 

意義があります。

 

すべての人は

使命を持って

います。

 

すべきこと、

やり遂げること、

行き着きたい場所を

すべての人は

心の中心に

抱いています。

 

その「願い」も

「祈り」もすべて

真本音はよく

わかっています。

 

「理想」をよくわかり、

しかし

「現実」もよくわかり、

その上で、

「理想」と「現実」の

狭間における

「最善」の選択を

しようとする。

 

それが私達の

真本音です。

 

真本音メッセージとは

そんな真本音から

自分自身への

メッセージです。

 

「コーチ」とは、

そのメッセージを

100%届けることが

役割です。

 

残念ながら

現時点は、

それを本当にきちんと

やり遂げられる人が

実に

少ない。

 

本当に

少ない。

 

もっと増えれば

いいな、と

切に願います。

 

だから私は

「コーチ」を

育成し続けています。

 

そして、

私自身が

「コーチ」であろうと

し続けています。

 

・・・・・・

 

そういった意味で、

「コーチ」とは

誰よりも自分自身の

真本音と

しっかり語り合える人

でなければなりません。

 

自分の真本音が

わからない人が

人の真本音の鏡に

なれるわけがありません。

 

ですから、

「コーチ」とは

誰よりも

セルフコーチング力が

なければならないのです。

 

「コーチ」という

立ち位置に立つ、と

真本音で決めている人は

世の中に

たくさんいます。

 

しかし、

その自分の意志に

気づいていない人が

ほとんどです。

 

ですから私は

「コーチ」の素養を持った人を

発掘します。

 

そして

その人達に

「セルフコーチング法」を

まずはお伝えしたいと

思っています。

 

つづく

 

私は私のできることを始めます

十数年前、

私が自分自身の真本音と

出会ってから、

私は私の中にある

「ある一点」

をずっと観続けている

気がします。

 

その「一点」とは、

言葉にはなかなか

表現できないものですが、

今もって

そこから目を離すことが

できません。

 

見つめても見つめても

その「一点」は

あまりにも魅力的で、

見つめれば見つめるほどに

私は自分自身を

取り戻していく感覚が

あります。

 

例えば、

誰かと雑談している時も、

お風呂に入っている時も、

お客様にセッションを

させていただいている時も、

研修で前に立って

お話ししている時も、

私はどんな時もずっと

その「一点」を

観続けている気がします。

 

そして

それをし続けているうちは、

私は本来の自分、

真実の自分に

戻り続けている。

 

その戻り続けている自分

だからこそ、

私は人と

向き合い続けることが

できる。

 

そんな

気がしています。

 

その「一点」とは

まるで、

漆黒の宇宙の中に

たった一つ浮かぶ

星のようです。

 

それはとても

小さなものですが、

とてつもなく

明るく、

深い深いエネルギーに

満ちています。

 

恐らくこれが

観えているうちは、

私は自分を見失うことは

ないでしょう。

 

・・・・・・

 

私の中にそういった

「一点」があるということは、

すべの人の中にも

同様にして

それがある、ということです。

 

思えば、

私の「願い」とは、

すべての人が

その「一点」を

自らの力で、

つまりは、「自力」で

見つけられますように。

・・・ということかも

知れません。

 

それは「願い」というより

「祈り」ですね。

 

私はその「祈り」に基づき

自分のあらゆる行動や

振る舞いを

決めているのだと

思います。

 

そしてその「祈り」は

その「一点」から

来てますね、きっと。

 

今、こうやって改めて

「一点」を見つめながら

この文章を

書いていまして、

一つわかったことが

あります。

 

それは、

その「一点」とは、

私がとてもよく知っている

「世界」

である、ということです。

 

恐らく私は

その「一点」の中に

自由に出入りが

できる。

 

そして、

そこにある

あらゆるものと

常に

対話をしている。

 

そんなことが

よくわかります。

 

・・・・・・

 

人は、

この「一点」と

対話ができている

のでしょうか?

 

こう問いかけると

その瞬間に

とてつもない

「空虚感」が

来ます。

 

ということは、

対話ができている人は

極めて少ないのだな、

と実感します。

 

と同時に

当たり前のことですが、

もったいないなぁ、と

思います。

 

「一点」と

対話しながら進めば

もっと楽なのに。

 

「一点」と

対話しながら進めば、

もっと自分らしく

あれるのに。

 

「一点」と

対話しながら進めば、

人生の意味も意義も

すぐに

実感できるのに。

 

人としての

最も根源的な幸せ感を

常に

感じ続けられるのに。

 

今のこの世の中は

残念ながら

「分離感」に

溢れています。

つまり、

多くの人達が

「孤独」です。

 

心の奥底に

必ず皆、

「孤独」を抱え、

「孤独」への恐怖と

抵抗を抱きながら

生きています。

 

もしそこから私達が

解放されるならば、

一人ひとりの

一歩一歩の行動と

振る舞いは、

根底から変化を

始めるでしょう。

 

それは世の中全体が、

「人間」が本当に

望んでいる方向に

進み始める、という

ことに他なりません。

 

「孤独」から逃れる

ために、

私達は「味方」を

創り、

「味方」を得るために

「敵」を

創ります。

 

「正しいもの」と

「正しくないもの」を

創り上げるのも

まったく同じことです。

 

もうそろそろ

この、辛い循環から

抜け出したいですね。

 

・・・・・・

 

「セルフコーチング」

という言葉が

最近、本当に

よく浮かびます。

 

というよりも、

この言葉を

実際の会話の中で

出すたびに、

会話の次元が一つ

上がる感覚が

最近はずっと

しています。

 

私はずっとこれまで

恐らく

十数年、

ずっとずっと

セルフコーチング法というものを

お伝えし続けようと

して来ました。

 

ところが、

それをしようとすればするほど、

「逃げられている」感覚

がありました。

 

ですので、

本当はお伝えしたいのに

それができない、

というジレンマに

あり、

私自身にも

それをお伝えすることへの

躊躇が

ありました。

 

しかし、

なんか最近は

その躊躇が

取れつつあります。

 

世の中がどうやら

本気で

セルフコーチング法を

求めて来ている

ようです。

 

であれば、

私はずっと自分が

やりたかったことを

するのみです。

 

つまりは、

セルフコーチングの

各種手法を

ご提供するのです。

 

ただ、

私がセルフコーチング法と

呼んでいるものは、

一般的なものと

同じであるのか違うのか、が

私にはわかりません。

 

私はいつも

「現場」の中におり、

その「現場」で見つけ、

「現場」で有効に働くものしか、

・・・つまりは、

自分がそれを使い

自分が納得し、

人にそれをお勧めして、

人が納得したもの

しか信じないように

しています。

 

「現場」とは

人生の現場です。

 

私の言う

セルフコーチング法とは、

そういった人生の現場の

真っ只中で

発見したもの、

のみです。

 

それはあくまで

私が

私の関わる人達と共に

発見したものですので、

一般的に広まっている

セルフコーチング法と

同じなのか、違うのか、は

わかりません。

 

でも、

私は

私のできることを

する。

 

それは、

私が、現場で発見できた

ことを

できるだけわかりやすく

ご紹介する

ということです。

 

この6月からは、

そこに、これまで以上に

注力していくことに

しましょう。

 

つづく

 

冒険の旅に出ませんか?

私は

「たけうちなおと」

という一人の人間ですが、

私自身が

「たけうちなおと」

と思っているものと

真実の

「たけうちなおと」

異なるものです。

 

私は

私自身のことを

恐らくまだ

これっぽっちも

理解できていないでしょう。

 

ちなみに私は

特にこの16年間は

自分と

向き合って

向き合って

向き合い続けて

まいりました。

 

自分のことを

理解しよう

理解しよう

理解しようと

し続けてまいりました。

 

その中で

「真本音」という

確固たる存在と

出会うこともできましたし、

私自身の中の

無限とも言える

多くの「反応本音」とも

出会って来ました。

 

毎日休みなく

24時間

私は自分自身と

向き合い続けようと

して来ました。

 

それが私の使命であるし、

世の中における

役割であると

ずっと思って来ましたし、

今ももちろん

思っています。

 

そして、

その現場と現実の中で

得ることのできた

自分自身との向き合い方を

「セルフコーチング法」

として

体系化もしています。

 

その体系化されたものは

日々、

進化を続けています。

 

それは

机上の空論的な

ものではなく、

あくまでも

現場と現実の中で

発見された

「生」のものです。

 

それを

16年、ずっと続けて来た

私が断言します。

 

私は

今もって

私自身のことを

これっぽっちも

理解できていない、

と。

 

そして、

私が認識している

「たけうちなおと」

と、

真実の

「たけうちなおと」

異なるものである、

と。

 

それほど

私達人間とは

奥の深いものです。

 

というよりも、

自分で自分のことを

理解し切れないように

できているのが

私達人間であると

言ってもよいでしょう。

 

自分のことが

わからないのが

「人間」

なのです。

 

・・・・・・

 

しかしだからと言って、

自分のことを

理解しよう

とすることを

あきらめましょう

という話では

ありません。

 

むしろ、

逆です。

 

わからないからこそ、

永遠に

理解しようと

し続けるところに

私達が存在する意味が

あるのではないでしょうか。

 

理解できるかどうか?

ではなく、

理解しようと

し続けるかどうか?

 

それができている人は

それをしているという

そのプロセスそのものが

魂や心を

満たしてくれるのです。

 

逆に言えば、

私達人間は

永遠に

「わからない自分を

わかろうとする」

「理解できない自分を

理解しようとする」

ように

できているとも

言えます。

 

つまり、

「わからない」こと

「理解できない」こと

そのものに

価値があるという

ことです。

 

これが、

私は

人間の本質の一つ

であると

思います。

 

だから今日も私は、

自分のことを

理解しようと

し続けましたし、

明日も

そうするでしょう。

 

そして

その生き方が

私の魂と心を

満たし続けて

くれるでしょう。

 

さらに、

魂や心が満たされた私が

向き合うことで

私と向き合った方々の

魂や心も

満たされ始めるでしょう。

 

もちろんこれは

私だけに限られた

ことではなく、

自分を理解しようと

真剣に生きる人は

すべて、

周りの人達の

魂や心を満たすきっかけを

与えることができるでしょう。

 

・・・・・・

 

わからないものを

わかろうとするのは

人の本能の一つです。

 

その、

わからないものの

筆頭が

自分自身です。

 

ですから、

「私のことを一番

わかっているのは

私だから」

と思うこと自体が

もったいない。

 

あなたは

そんなもんじゃないよ!

と私は

お伝えしたい。

 

いや、

そうお伝えし続けているのが

私のサポートの

本質かも知れませんね。

 

そう。

 

あなたは

そんなもんじゃない。

 

あなたが

あなた自身だと

思っているその「あなた」は

単なる

幻想です。

 

思い込みです。

 

ちょっと言い方が

きつければ、

それはあくまでも

「あなたのほんの一部」

に過ぎない、

ということです。

 

その

「ほんの一部の自分」

に執着し、

その

「ほんの一部の自分」

を守るためだけに

人生の貴重な時間を

使ってしまうのは

もう

やめてしまいましょう。

 

それよりも、

未開発の

未発見の

あなた自身を

見つける旅を

しませんか?

 

それはそれは

楽しい

冒険の旅ですよ。

 

「冒険」は

今この瞬間から

もう、すぐに

始めることが

できますよ。

 

つづく

 

場に支配されてませんか?

『場』・・・。

 

私達の生きる

様々なシチュエーションで

「場」

はあります。

 

例えば、

家族との場。

 

友達との場。

 

職場。

 

私達はそれらの

「場」に入ると、

その「場」からの

影響を受けます。

 

「場」とは、

人が集まる場所。

 

人が集まれば、

「場」

そのものに

力が宿ります。

 

そこに

どのような人達が

集まっているかによって

「場」のエネルギーは

変わります。

 

そして、

「場」のエネルギーは

そこに在り続け、

「場」のエネルギーと

そこに集う

「人」のエネルギーとの

相乗効果によって

また

その「場」が

形成されます。

 

「人」が「場」を

創りますが、

「場」そのものが

まるで生き物の

ようです。

 

・・・・・・

 

様々な企業様を

初めて訪問させて

いただくとき、

私はまずは

必ず、「場」を

観ます。

 

そして

感じます。

 

ここにいらっしゃる

社員の皆さんは

どのような「場」を

形成しているか?

 

そして、

社員の皆さんは

「場」から

どのような影響を

受けているか?

 

そこは、

「人」が「場」を

左右する場なのか?

 

それとも、

「場」が「人」を

支配する場なのか?

 

つまりは、

「人」と「場」の

力関係を観て、

感じます。

 

その力関係によって、

私のサポートの仕方は

根本的に

変わります。

 

私は

「人」と向き合うのと

同時に、

「場」とも

向き合うのです。

 

・・・・・・

 

これは

職場だけでななく、

あらゆる場所においても

共通することです。

 

例えば、

電車の駅。

 

例えば、

レストランや

カフェ。

 

例えば、

公園やレジャー施設。

 

例えば、

神社やお寺。

 

街全体。

 

ちょっとした

道端。

 

あらゆるところに

「場」があり、

それぞれの

エネルギーが

あります。

 

そしてやはり

あらゆる「場」で

「人」と「場」の

力関係は

変わります。

 

・・・・・・

 

「場」が

プラスのエネルギーを

持っていれば

問題はありません。

 

しかし

マイナスのエネルギーを

持っている場合は、

気をつける

必要があります。

 

真本音度合いの

高い人は

どこの「場」に行っても

支配されることは

ありません。

 

その人自身が

「場」に影響を

与えます。

 

よく、

パワースポット

という言い方がありますが、

真本音度合いの

高い人は、

その人自身が

パワースポットと

なります。

 

歩くパワースポット

と言ってもよいです。

 

そういった人は

どこに言っても

「場」のエネルギーを

プラスに変換します。

 

時々、

真本音度合いの高い

人が、

「パワースポット巡りを

して、自分を元気に

しています」

と言われるのですが、

いつも私は

笑ってしまいます。

 

「いやいやいや、

あなた自身が

パワースポット

なんですよ」

とお伝えすることも

あります。

 

真本音度合いが高い人は

どこの「場」よりも

エネルギーが

高いのです。

 

そして逆に、

真本音度合いの

低い人は、

どこに行っても

「場」の影響を

受けやすくなります。

 

「場」に

パワー負けして

しまうのです。

 

プラスのエネルギーの

「場」に行けば、

元気になりますし、

マイナスエネルギーの

「場」に行けば、

元気を失います。

 

真本音度合いが

低いということは、

外部環境によって

右往左往しながら

生きることになり、

とても疲れます。

 

・・・・・・

 

私が企業様に

入らせていただき、

「人」と「場」の

関係を拝見し、

もし

「場」の方が

影響力の強い場合は、

まず、

「場」を変えます。

 

「場」そのものの

エネルギーを

プラスに変えて

しまいます。

 

そんなことが

できるの?

と言われそうですが、

簡単にできます。

 

しかもそれは、

私特有の力ではなく、

人は誰もが

できることです。

ただし、

真本音度合いが高いことが

必須です。

 

そのやり方も

そのうちにこのブログで

ご紹介してもよいかな

とも思っています。

 

例えば、

初めて研修を

させていただく場合などは、

まずは研修を行なう

「場」に行き、

そこのエネルギーを

プラスに変えてしまいます。

 

そして

そこに「人」が入って

来ますと、

入ったその瞬間に

もう

皆さんにプラスの作用が

始まります。

 

すると研修そのものも

非常にやりやすく

なります。

 

そのように

「場」を整えた上で、

今度は皆さん、

つまりは「人」を

整えることをします。

 

ただしそれは

私が皆さんを整える

のではなく、

皆さんが皆さん自身を

整える術を

私がお伝えする

ということです。

 

その術のことを

「セルフコーチング法」

と、私は

呼んでいます。

 

セルフコーチング法を

知っている人は、

自分自身の

真本音度合いを高め、

さらには

「場」に影響を与える

こともできるように

なります。

 

「自分と場を整える」

のが

セルフコーチング法の

基本です。

 

そしてその上で、

「望む現実を創り出す」

ための

セルフコーチング法も

あります。

 

端的に言えば、

・整えるためのセルフコーチング法

・創り出すためのセルフコーチング法

がある

ということですね。

 

今後は、この

二つのタイプの

セルフコーチング法を

様々な方法で

ご紹介していくことに

します。

 

多くの方々に

「場に影響を与えられる自分」

になっていただけると

よいなぁと

思います。

 

つづく

 

今は休養してください

人生には

休養が必要です。

 

・・・なんて、

私が言えた義理では

ないのですが、

それでもやはり

人生には休養が

必要です。

 

私達の真本音は

「今は休養するとき」

完全に決めることが

あります。

 

そんな時は

何をしようとしても

力が入りません。

 

どれだけ自分を

叱咤激励しても、

力が入らないのです。

 

エネルギーが

枯渇します。

 

それはそうです。

 

真本音が意図的に

そのように

しているのですから。

 

そんな時は

止まることこそが

結果的には

最速で進むことに

つながります。

 

いえ、

もっと正確に言えば、

止まることで

進むことができます。

 

現実レベルで

止まることで、

実在レベルで

一気に進む

ということが

できるのです。

 

つまり、

実在レベルで

一気に進むために、

そこに

エネルギーを

集中させるために、

現実レベルの自分の

エネルギーを

枯渇させる、

ということをしている

のです。

 

ということで言えば、

止まることは

決して悪いことでは

ありません。

 

しっかりと

完全に

止まることこそが

最も重要なのです。

 

・・・・・・

 

では、

止まっているときは

具体的に何をすれば

よいでしょうか?

 

私達には

現実レベルで

どうしてもやらなければ

ならないことが

ありますね。

 

まずはそれは

こなしてください。

 

「こなす」

のです。

 

必要以上に

真剣になっては

いけません。

 

適当に「こなす」

ことだけを

考えて、

極力エネルギーを

使わないようにします。

 

それだけをしたら

あとは

理想は、

「何もしない」

ことです。

 

ダラダラと

していてください。

 

「何もしない」

というのは、

本当に何もしないのです。

 

できれば

テレビなども

見ないでください。

 

テレビは、

番組にもよりますが、

見ているだけで

エネルギーを奪われるものが

結構あります。

 

見ているだけで、

自分の次元が下がって

しまうものもあります。

 

そういった疲労は

特に今は

与えない方がよいです。

 

音楽を聴いたり、

読書をしたりするのも、

できれば

極力やめた方が

よいです。

 

音楽も読書も、

エネルギーを奪われる

ものが結構あるから

です。

 

本当に居心地よく

心と魂が

やすらぐようなもので

あれば

よいですけどね。

 

・・・・・・

 

やはり理想は、

ボーッとしている

ことです。

 

ボーッとしていると

心の中に

様々なものが去来

すると思います。

 

その場合も、

ある一つのことを

考え過ぎないで

ください。

 

できるだけ、

心の中に

現れるものと

消えていくものを

ただそのままに

観察し続けてください。

 

観察を続ければ、

ある瞬間、ある瞬間に

ふと

何も考えなくなる

「空白」の時が

訪れると思います。

 

それがほんの一瞬でも

その「空白」が

とても私達を

癒してくれます。

 

私は自分を癒すとき、

よく

深海の底に

横たわっている自分を

イメージします。

 

まるでここが

深海の底で、

周りは真っ暗で

何も見えない状態。

もちろん、

あらゆる音も聴こえない。

 

そんな状態で

寝そべっていると

自分の心も

空っぽになります。

 

そうすると私の場合は

様々な「実在」を

感じ取れるようになります。

 

おぉ、

実在の自分、

今がんばってるなぁ、

とか。

 

誰々さんは今

こんな状態なのだな、

とか。

 

今の世の中って

こんな風に

流れてるんだな、

とか。

 

それは理論とか理屈

ではありません。

イメージでも想像でも

ありません。

 

ただ単に

それがそこに「在る」

ものとして、

そのまま感じ取れるのです。

 

もちろん

そういったことを

意図して行なう必要は

ありません。

 

大切なのは、

自分の心と魂を

休ませてあげることです。

 

もし

ほんの少しでも

「実在」を感じ取れたなら、

それはかなり大きな

やすらぎを

もたらしてくれますけどね。

 

・・・・・・

 

今、

休養を必要としている

人が増えています。

 

そういった人達の多くは

人生の分岐点に

います。

 

これから新たなステージに

入っていくその

転換点にいます。

 

そこでは

「実在」のレベルでは

急速に自分を

前に進めなければ

なりません。

そして、その分

「現実」のレベルでは

自分をしっかりと

休めなければ

なりません。

 

ですが、

エネルギーの湧かない

自分に対して

焦りを感じている人も

多いです。

 

焦る必要は

ありませんよ。

今、

あなたは

とても大事なことを

していますから。

 

ということを

私は

お伝えしたいですね。

 

つづく

 

とても大事な問いがあるのです

私とは

何者なのだろうか?

 

という問いが

浮かぶことは

ありませんか?

 

私が何者か?

 

ということは

つまり、

 

私は

私以外のものと

どのように関わるか?

 

ということでも

あります。

 

私は

私以外のものと

何者として

関わればよいのか?

 

です。

 

「私以外のもの」を

あえて

「世界」

と表現することにします。

 

するとこの世は

 

「私」と「世界」

 

によって成り立っている

ことになります。

 

「私」は「世界」と

どう関わるか?

 

「世界」にとっての

「私」とは

何か?

 

「私」は「世界」を

どうしたいのか?

 

「世界」は「私」に

何を求めているのか?

 

「私」は「世界」に対して

何をどう

応えればよいのか?

 

このような

根源的な問いと

向き合えば、

あなたはどうなりますか?

 

答えは

見つかりそうですか?

 

それとも、

わけがわからなく

なりそうですか?

 

答えはわからなくとも

何らかの

気づきはありそうですか?

 

それとも

頭が真っ白に

なりそうですか?

 

このような

根源的な問いは

怖いですか?

 

それとも

楽しいですか?

 

・・・・・・

 

私とは

何者なのだろうか?

 

一見、とても難しい

問いのように思えますが、

すべての人は

この答えを明確に

持っています。

 

自分にとっての

「正しい答え」

つまりは、「正解」が

あるのです。

 

そしてそれは、

「世界」にとっても

「正しい答え」であり

「正解」です。

 

なぜなら、

「私」も「世界」も

つながっていますからね。

 

その「正解」を

見つけるためには、

この問いと

真摯に向き合い続け

なければなりません。

 

「正解」が

いつ見つかるか?は

恐らく

人それぞれでしょう。

 

人それぞれですが、

それを見つけるには

この問いと共に

毎日を生き続けなければ

なりません。

 

・・・・・・

 

私の場合は

時間がかかりました。

 

私が初めてこの問いと

出会ったのは、

恐らく22歳です。

 

社会に出る直前になって

初めて真剣に

考え始めました。

 

この問いの答えを

見つけるためには、

そうだ!

エベレストを見なきゃ!

と思い立ち、

実際にネパールヒマラヤに

行きました。

 

まったく意味がわからない

行動でしたが、

実際に標高5400mくらいまで

登り、

エベレストと対面した時、

私はきっと

この問いの答えは

見つかるに違いないと

確信しました。

 

確信したのですが、

私の場合、

反応本音があまりにも多く、

紆余曲折の人生が

続き、

ようやくにして

答えに行き着いたのが、

なんと2015年。

ほんの3年前です。

 

何とも長い

紆余曲折でした。

 

もちろんそれまでも

いろんな「答え」には

出会ってきました。

 

でも、

本当の答え、

自分にとっての真本音の答え

に行き着いたのは

3年前の正月です。

 

正確には、

3年前の1月2日です。

 

そこから私の人生は

一気に変わりました。

 

本当に

次の日から

変わりました。

 

自分は何者か?

 

自分は自分の人生において

何を成せばよいのか?

 

その「答え」が

眼前に屹立しました。

そして、

30年後までに必ず

実現しようと決めている

ビジョンが観えました。

 

今の私の

あらゆる活動は、

そのビジョンの向かうための

ものです。

 

・・・・・・

 

面白いことに、

そこから

出会う人、つながる人達が

一気に変わりました。

 

それこそ

「世界」が

変わりました。

 

しかし、

ここまでのこの3年間は

あくまでも

準備期間だったのだと

思います。

 

今、ようやく

準備が完了した

感覚があります。

 

ここからが

本番であり、

全力疾走の

スタートです。

 

そのための

一つの象徴として

『株式会社真本音』

を立ち上げました。

 

「答え」が見つかる

ということは、

「迷い」がなくなる

ということです。

 

「迷い」がなくなる

ということは

単純に

「気持ちいい」

ということです。

 

その「気持ちよさ」は

着実に

私の周りの人達に

伝播しています。

 

ですから

周りの人達も

次々に

「気持ちいい」状態に

入っています。

 

つまり、

自分が何者か?を

その人なりに

見つけ始めている

のです。

 

ここにこうして

「存在」している以上、

私達には

存在意義があります。

 

何者として

ここに存在すれば

よいのか?

の答えが必ず

あります。

 

それは、

「世界」との関わりの

答えです。

 

この「世界」で

この「人生」で

何をすればよいのか?

の答えです。

 

もともと持っている

それらの答えを

すべての人が見つかると

いいなぁと

私は願っています。

 

そしてその

願いに基づいて

今の私は

生きています。

 

つづく

 

祈りにも似た夢がありませんか?

昔の私はですね、

実は、

大変におこがましい

「夢」

を持っていました。

 

それは

何かと言いますと、

 

「すべての人々を

幸せにする」

 

というのが

夢だったんです。

 

おこがましいでしょ。

 

でも、

この夢を持ったのは

確か

中学2年くらいの時です。

 

当時の私は、

自分は世の中で

最も劣った人間だ、

と思い込んでいました。

つまりは、

劣等感の塊でした。

 

でも

その一方で、

親父とお袋が小さな

会社をやってまして、

毎日毎日

真剣に神棚に

お祈りをしているのを

見ており、

真似事みたいな感じで

自然にお祈りを

するようになったのですね。

 

普通の

神棚です。

 

でもそこに毎朝、

私も手を

合わせました。

 

その時の私の

心の中のお祈りが、

 

「世の中のすべての人が

幸せになりますように」

 

だったんです。

 

そして

中学3年くらいの時かな。

 

それにもう一文句が

付け加わりました。

 

「世の中のすべての人が

幸せになりますように。

そのための第一歩を

私が踏み出せますように」

 

となったんです。

 

ものすごくおこがましい

ですが、

でも、本当に真剣に

祈っていました。

 

これを毎日毎日

ずっと続けました。

 

続けたからと言って

私は

人のために生きた

わけではありません。

 

自分のことしか

考えない人間でしたし、

お世辞にも

立派な人だったとは

思えません。

 

でも、

自分の実際の行動は

どうであれ、

とにかくその祈りを

毎日毎日真剣に

繰り返しました。

 

恐らくその祈りとは、

自分自身の本来を

呼び覚ますためのもの

であったと、

今の私は思います。

 

毎日の祈りを

繰り返さなければ、

私は私の真本音と

出会えなかったかも

しれないと

今の私は思います。

 

「夢」にも

いろいろあります。

 

でも私にとっての

「夢」とは

祈りでした。

 

・・・・・・

 

夢とは

単なる空想である、

という人もいます。

 

もちろん

そういった夢も

あるでしょう。

 

でも、

祈りにも似た

気持ちを喚起する

夢を

すべての人は

持っています。

 

実現できるかどうか?

ではなく、

今の自分がどうか?

とも関係なく、

ただただ

自然に湧き上がってしまう

祈りのようなもの。

 

そういった

夢もありますね。

 

株式会社真本音を

立ち上げた時、

ある社長さんから

神棚を

プレゼントしていただきました。

 

久しぶりに

神棚と向かい合いながら、

あぁあれは、

私にとっての

セルフコーチングの

始まりだったのだな、と

実感しています。

 

で、

今、神棚と向かい合うと、

当時の私の祈りと

今の祈りは

まったく変わらない。

 

私は今でも

心から真剣に、

すべての人々が

幸せになりますように、

と祈っているのです。

 

なんだ、これは

私の真本音だったのだな

と、

今、改めて思います。

 

・・・・・・

 

すべての人々が

幸せな世界。

 

それは本当に

夢物語のようです。

 

でも

もし本当にそのような

世界を実現できたら・・・、

と思うと、

ワクワクします。

 

幸せは

人それぞれです。

 

それぞれの

幸せを感じればいい。

 

でも、

高い次元では

すべての人の幸せは

「一つ」です。

 

「一つ」の幸せ。

 

「それぞれ」の幸せ。

 

その両方を

大事にしたいなぁと

ホントに思います。

 

そう

思えるから

しょうがない。

 

そう

思う自分に

素直でいようと

思います。

 

自分に素直になるのが

一番ですしね。

 

・・・・・・

 

つい先日。

 

ある一人の人が、

心と魂の中にある

余分なものをすべて

取り払い。

 

そして別のある人が

心と魂の中にある

余分なものをすべて

取り払い。

 

その二人が

向かい合って、

長年のわだかまりを

すべて解消して、

心と魂の絆を

結び直す、

という場面に出会いました。

 

その日は

一晩中、

私は嬉しくて嬉しくて

泣き続けました。

 

やっぱり、

人が本当の幸せを

手に入れた瞬間と

出会うと、

私は自分が「人間」であることに

心の底から

誇りを持ち、

最高に嬉しくなるようです。

 

今のこのお仕事は

そういった機会を

毎日のように

与えてくれます。

 

このお仕事に

出会えたことに

感謝感謝ですし、

でも、

このお仕事に出会えたのは

中学2年からの

私自身の祈りのおかげかな、

とも思います。

 

「夢」

大事にしましょう。

 

祈りにも似た「夢」が

誰にもあります。

 

それが実現できるかどうか?

とか、

今の自分がどうか?

とか、

そんなことは関係ない。

 

祈りにも似た「夢」が

あるならば、

それを毎日、

祈りましょうよ。

 

私はこれからも

毎日

祈り続けます。

 

つづく

 

人の成長意欲を見くびってはならない

「前に向かって

進みましょう!」

 

とよく言われますし、

私もよくそんな

言い方をします。

 

しかし実はそれは

何の特別なことでも

ありません。

 

私達人間は

もともと

「前に向かって進む」

存在です。

 

そのように

出来上がっている

生き物です。

 

よくマグロが

「泳ぎ続けないと死ぬ」

と言われますが、

人間も同じです、

本質的には。

 

止まると

死んでしまうのです。

 

まずは

魂が死にます。

 

「死ぬ」というと

ちょっと語弊が

あるかな。

 

「死に体になる」

と言った方が

良いと思います。

 

魂が死に体になると、

次に心も

死に体になります。

 

すると

その次は体に

影響が及びます。

 

とても残念で

悲しいことですが、

このように

魂が死に体になっている人が

多いのが

この世の中の特徴です。

 

止まってしまって

いるのです。

 

進んでいないから

です。

 

それを

「進む状態にする」

のが

私のサポートの本質

です。

 

・・・・・・

 

進まなければ

ならないの?

 

なんて、

疲れる存在なんだ、

人間は。

 

・・・と思われるかも

しれません。

 

しかし

誤解しないで

ください。

 

休憩してはならない

ということでは

ありません。

 

マグロだって

睡眠をとります。

 

睡眠をとりながら

進むそうです。

 

休憩と、

止まること、

は全く別のことです。

 

休憩を取りながらも

進むのです。

というよりも、

休憩をきちんと

とるからこそ、

より望むスピードで

私達は進めます。

 

そして

さらに言うならば、

進んでいる

その状態こそが、

私達にとっては

とても静かで

平穏で

安定して

安心できるのです。

 

リラックス

できるのです。

 

進むとは、

リラックスすることを

やめなさい

と言うことでは

ありません。

 

進むからこそ

落ち着いて

リラックスして

満たされて

自分らしく

自然体で

いられるのです。

 

それが

私達人間の

本質です。

 

なぜなら人間は

「進化の象徴」

そして

「進化という実在の反映」

だからです。

 

・・・・・・

 

「成長意欲を

持ちなさい」

とも

よく言われます。

 

いやいやいや、

人はもともと

成長意欲の権化

です。

 

もし

成長意欲が

減退しているならば、

それは

成長意欲を止めてしまう

何らかの阻害要因が

あるのです。

 

まぁもっとも

今のこの世の中は

その阻害要因に

溢れているわけですが。

 

私達は誰もが、

自然な状態に戻れば、

つまりは

自分を取り戻せば、

自然に成長意欲は

湧きますし、

前に進もうとします。

 

「前向きに生きろ!」

なんて

わざわざ言わなくても

よいのです。

 

前向きに生きようと

するのが

もともとの私達

だから。

 

それは

大人も子供も

変わりません。

 

人類全員に

言えることです。

 

その本質を

見誤ると、

人のサポートは

おかしなことになります。

 

・・・・・・

 

人には誰も

「真本音」があるんだ、

という真実を

知ることができ、

自分自身の真本音を

大切にし、

真本音度合いを

高めるようになってから、

私は

一つ大変に

驚いたことがあります。

 

それは

自分自身の

成長意欲の

あまりの高さに

です。

 

えっ?

俺はこんなにも

成長したいと

思ってるの?

 

と愕然とするくらいに

成長意欲が

高いのです。

 

今ですら、

よく愕然と

します。

 

もちろんこれは

私一人に限ったことでは

ありません。

 

私が自身に感じる

この意欲の高さは、

すべての人が

同じです。

 

すべての人が

自然体になれば

その意欲は

必然的に姿を

現します。

 

私のサポートとは

それをするだけの

こと、

という言い方もできます。

 

人が自然体に戻り、

自ら内包する

その成長意欲が

顕在化すれば、

あとは勝手に

その本人が

進んでいきます。

 

そこに

「意図」は

必要ありません。

 

むしろ

「意図」を

手放すことで、

その人は

次々に「想定外」の

凄いことを

成し遂げ続けます。

 

もしそういった

一人一人の集まる

組織であるならば、

その組織は

凄いことになります。

 

そして私は

そのように

組織が凄いことに

なっていくのを

傍から眺めるのが

人生の喜びです。

 

人って

やっぱり

本当に凄いんだなぁ。

 

組織って

本当に

凄まじいなぁ。

 

22年今の仕事を

続けていますが、

その感嘆と感激は

今もって

まったく衰えません。

 

というか、

今も日々、

高まり続けています。

 

・・・・・・

 

世の中全体の

潮流。

 

いろんな人々と

向き合っていますと、

そういったものを

ある瞬間に

実感します。

 

今の世の中の

潮流を

一言で表現すれば、

その

「成長意欲」

ということになると

私は感じています。

 

ひょっとすると

私達人類は、

人類史上例がないくらいに

今は

成長意欲が

高まっているのでは

ないでしょうか。

 

とさえ

思う瞬間が、

この5月に

頻発しました。

 

この感覚。

 

はっきり言って、

初めての体験ですし、

ワクワク、

というか

ゾワゾワします。

 

今、

私達人類は

何かを

始めようとしているのでは

ないでしょうか。

 

もしくは

新たなステージに

入ろうとしている、

いや、

入ったのでは

ないでしょうか。

 

ますます

毎日のお仕事が

楽しくなりそうです。

 

つづく

 

翻弄されるからこそ面白い

私達の心は

「現実」によって

翻弄されます。

 

翻弄されないように

生きていこうと

どれだけ思っても、

翻弄されてしまいます。

 

なぜなら

私達の心は

「現実」によって

反応するように

もともと

できているからです。

 

それが、

私達の心の仕組み

だからです。

 

この、

反応・翻弄されるように

できている心を

『反応本音』

と言います。

 

反応本音は

常に揺れ動いています。

しかし

だからこそ、

喜びを感じたり

幸せを感じたり

することもできます。

 

心の揺れ動きを

きちんと感じ取れるのは

健康である証です。

 

「たけうちさん、

私はこんな辛い目に

遭いました。

もう会社を辞めようと

思ってしまいました。

私は大丈夫でしょうか?」

 

「会社を辞めたいと

思ったのでしょ?

ちゃんと心が

揺れ動いているじゃ

ないですか。

健康的ですね。」

 

いつも私は

このようなやり取りを

しています。

 

「現実」に対して

きちんと翻弄されている内は

大丈夫です。

 

それが

麻痺するようになることこそ

私が最も深刻だと

思う事態です。

 

・・・・・・

 

「私には

怖いものはありません」

と言われる人と、

これまで私は

数多く出会ってきました。

 

実は、

昔の私も

そう思っていた時期が

あります。

 

ですから

よくわかるのです。

 

これは不健康だな、

と。

 

怖いものが

ないはずがありません。

 

もし本当に

「怖いものがない」

と思うのであれば、

それは、

心にフタをしている

ということです。

 

そして、

心の麻痺が

始まっているという

ことです。

 

もしくは、

単なる自己顕示かな。

 

私はこんなに

凄い人間だ、という

自己顕示欲が

怖さを麻痺させることが

あります。

 

いずれにしても、

普通の状態では

ありません。

 

・・・・・・

 

翻弄されるように

できている心が

「反応本音」であるならば、

どのような「現実」に

対しても

揺らぐことのないもの、

・・・それは、心というよりも

魂と言った方が良いですが、

それを私は

『真本音』

と呼んでいます。

 

真本音度合いが高まる

ということは、

真本音の意思に基づいて

動く度合いが高まる

ということですが、

それが高まることで

私達は

揺るがない自分

安定した自分

になれます。

 

しかしそれは決して

怖さがなくなる

ということではありません。

 

むしろ、

真本音度合いが高まるほどに

怖さに敏感になります。

 

怖いものは

怖い、

と素直に感知できるように

なります。

 

もう少し言葉を変えれば、

あらゆる反応本音を

素直に感じ取ることが

できるようになります。

 

しかし、

どれだけ怖さを感じても、

どれだけ反応本音を

感じても、

それは感じているだけ。

 

それにより

次の一歩が揺らぐことは

ありません。

 

一方、

幸せについても

かなり敏感に感じることが

できるようになります。

 

これまで感じなかった

ちょっとしたことに

深い喜びを得たり、

人としての

嬉しさを覚えたり。

 

嬉しさも

悲しさも

怒りも

怖さも

あらゆることを

あるがままに

そのままに

感じ取る感性が

豊かになります。

 

でも、

それによって

不安定になることは

ありません。

 

あらゆることを

感じながらも、

自分が決めた一歩を

ずっと

出し続けることが

できるのです。

 

それが、

真本音で生きる

ということです。

 

それが、

人としての喜びを

最大化する

原則です。

 

・・・・・・

 

セルフコーチングとは

本来、

真本音度合いを高める

ものでなければ

意味はありません。

 

つまり、

人としての喜びを

増やす方向に

行くためのものです。

 

「人生」とは

翻弄されるもの。

「現実」とは

翻弄されるもの。

でも、

だからこそ

面白い。

 

そのように

無理なく自然に

感じ取れるようになる。

それが

セルフコーチングの

本質です。

 

その本質に基づいた

セルフコーチングの手法を

これから私は

意図的に様々な形で

世の中にご紹介させて

いただこうと思っています。

 

もちろんこのブログも

そうですし、

メルマガも

始めようかな、と

思っています。

 

セルフコーチングの

講座やセミナーも

やってみようかな、とも。

 

まだ企画段階ですが、

これまでにないものを

生み出せる予感が

あります。

 

楽しみにしていて

くださいね。

 

つづく

 

過信する程度の力じゃ・・・

海に

いくつかの島が

浮かんでいます。

 

その島々は

海の上のみを見れば

別個の存在ですが、

水中に潜れば、

すべての島は

つながっていることが

わかります。

 

当たり前の

ことですね。

 

すべての島は

「地球」の大地の

突起です。

 

ある一つの島に

多大なるエネルギーが

溢れたとします。

 

しかしそのエネルギーは

その島のみが

発しているものでは

ありません。

 

それはもともとは

「地球」から

湧き出ているものです。

 

「地球」から

湧き出るものということは

そのエネルギーは

無尽蔵に近いです。

 

ところがその島は

「このエネルギーは

俺が出しているものだ。

俺はすごいぞ」

と思い込むことが

あります。

 

これを

「傲慢」

と言いますし、

「過信」

とも言います。

 

私達人間も

まったく同様です。

 

人の心は

深奥ではすべて

つながっています。

 

実在レベルでは

高い次元の私達は

「一つ」

であり、

「すべては私」

です。

 

つまりそれは

「地球」のようなものです。

 

そして私達は

その「地球」から

エネルギーを

いただいています。

 

人にはそれぞれ

得意分野があり、

それを開発できれば

その人ならではの

力が発揮されます。

 

その力を

目の当たりにした時、

私達は

愕然とすることが

あります。

 

なんて凄い

力なんだ、と。

 

もしその人が

自らの真本音に

素直に生きている人で

あるならば、

その力の発現の仕方は

本当に自分自身を

愕然とさせるでしょう。

 

そして

自然に思う

はずです。

 

「これはもう

私の力ではない。

私の範疇を

超えている。

これは天から

与えられたものだ」

と。

 

そして

その力に対しての

畏敬の念と

感謝の念が

心を満たすでしょう。

 

それくらいに

私達一人一人が

本来持っている力というのは

凄いものです。

 

ところが、

そうはならない人が

います。

つまり、

「なんて凄い力だ。

これが俺なんだ。

俺は凄い。

俺はやれる。

俺にしかできない。

俺がナンバー1だ」

となる人がいます。

 

つまりこれが

「過信」ということですが

人が自分のことを

過信するというのは、

その力の発現が

まだ「中途半端」である

証です。

 

過信しているうちは、

その人はまだ

自分自身の

本来の力とは

出会っていないのです。

 

もし

本当の本当の力、

本来の力を

まざまざと実感できたら

「過信」などという

悠長な気持ちには

なりません。

 

この力を

一体、私は何のために

活用すれば

よいのだろうか?

という

真摯な問いが

湧いてくるはずです。

 

そして、

私の人生は

本当にこのままで

よいのか?

私が本来為すべきことは

何だろうか?

という、

人生そのものへの

根本的問いと

真正面から向き合うことに

なるでしょう。

 

・・・・・・

 

本来の力を

自分に与えるかどうか?

を決めるのは

その人自身の

真本音です。

 

単純に言えば、

真本音に素直に真摯に

生きれば生きるほど、

本来の力は

発動されやすくなります。

 

そしてそれは

多くの場合、

一気に開花します。

 

もちろんそこには

努力は必要です。

 

努力とは

「始めること」

「続けること」

です。

 

しかし、

本来の力は

続けることで徐々に

現れるのではなく、

ある瞬間を境に

一気に花開きます。

 

それは

自分の真本音が

自分に対して

「ここまで努力したのだから

もう準備はできたよ。

私が本来発揮できる

この力を

解放させてあげよう」

と自らにOKを

出すのです。

 

その瞬間から、

その力は

まるでダムが決壊

したかのように

放流されます。

 

そしてその力を

まざまざと実感すると

その人は

畏敬の念と

感謝の念に

満たされるでしょう。

 

と同時に、

その人の

本当の人生

本来の人生

が始まるのです。

 

つづく

 

あなたは人を助けますか?

本当に人を助ける

とは

どういうことでしょうか?

 

企業現場で

たくさんの方々と

向かい合っていれば、

否が応でも

この問いとも

向き合うことになります。

 

「助ける」

とは

何だろうか?

 

助けているつもりでも

それは実は、

自分が助けられている

のではないだろうか?

 

今、私は

この人を助けている

つもりになっているが、

それをしながらも

ただ単に

この人に依存している

だけではないか?

 

本当に私のこの

「助け」は、

この人が望んでいる

ことなのだろうか?

単なる「有難迷惑」では

ないだろうか?

 

私は

私の自己満足で

人を助けているだけでは

ないだろうか?

 

・・・そのような問い達。

 

いつもそんな

自分自身への疑念と

否が応でも

向かい合うことに

なります。

 

そもそも、

本当に人は人を

助けられるもの

なのだろうか?

 

助ける、という

考え方自体が

間違っているのでは

ないだろうか?

 

「たけうちさん、

助けてください!」

 

この仕事をしていれば、

そのようなお声は

結構あります。

 

本当に苦しんでいる

人からの

藁をもすがるような

思い。

 

そんな

「助けてください!」

を目の前にして、

私はいつも

上記のような問いに

苛まれてきました。

 

答えがわからないままに

手を差し伸べて

ものすごく後悔したことも

一度や二度では

ありません。

 

助ける、とは

何でしょうか?

 

本当に人には

「助け」が

必要なのでしょうか?

 

・・・・・・

 

でも一方で、

私は随分といろんな人に

これまでの人生で

助けられてきました。

 

あの「助け」がなかったら

今の私はないな、

と思えるものも

たくさんあります。

 

それを思い起こすたびに

手を合わせたく

なります。

 

人は

一人では生きられない。

 

人の助けなしでは

進めない時もある。

 

それは一つの

事実ですね。

 

・・・・・・

 

私が大学1年生、

登山をやっていた時の

ことですが、

初めて日本アルプスの

長期山行に入った

初日、

キツかったですね。

 

一人50kg以上のザックを

背負い、

14時間、山道を

登りづくめでした。

 

とうとう1年生の一人が

動けなくなり、

その時に

そのパーティーの

サブリーダーさんが

その1年生のザックから

重いものを自分のザックに

移し、

代わりに持ってあげたんです。

 

それによって

その1年生は何とか

ヨタヨタと歩くことができ、

無事に予定の場所まで

たどり着くことが

できました。

 

今思うと、

私はこれこそが

「助ける」ということだと

思います。

 

助けるとは、

一時的に

その人の荷物を

肩代わりすること。

 

しかし、

どれだけ肩代わりしても

その人が

自らの足で

歩くことは変わりません。

 

その道は

その人が

歩くべき道。

 

歩くべき道を

その人が歩く、

というのを

侵害してしまっては

いけません。

 

なぜならその道は

その人の人生

だから。

 

その人の人生は

その人の

ものだから。

 

その人の人生を

「歩かなくていいよ」

というのは

「助け」ではなく、

「侵害」です。

 

「侵略」です。

 

そして、

「妨害」です。

 

と私は思うのです。

 

しかも

ザックの荷物を

代わりに担ぐのは

短い時間であれば

あるほどいい。

 

その見極めこそが

すごく大事であり、

そこに自己満足は

入ってはならない、

のだと

私はつくづく

思います。

 

・・・・・・

 

人には

「助け」が必要な時が

あります。

 

それは

事実です。

 

しかし

「助け」が不必要な時も

あります、

どれだけ苦しくても。

 

必要か不必要か?を

判断できる人こそが、

私は「コーチ」であると

思っています。

 

そして、

必要か不必要か?は

コーチが解釈して

決めるものでは

ありません。

 

それを決めるのは

その人本人の

真本音です。

 

つまり、

その人の真本音が今、

「助け」を

必要としているか?

していないか?

を、しっかりキャッチすることが

必須です。

 

そういった意味での

「コーチ」力を

私はすべての人が

持てればいいなと

思っています。

 

・・・・・・

 

人の真本音を

キャッチする力を

養う最も近道は、

自分自身の真本音を

キャッチする力を

養うことです。

 

そのためには

セルフコーチング力を

高めることです。

 

・・・と、

やっぱり最後は

ここに落ち着きます。

 

キーワードは

セルフコーチング。

 

その力を高めるための

記事を

これからもここでは

書かせていただきますね。

 

つづく

 

本当に怒りを感じました

「私はいったいこれから、

本当は、

何をすればよいのだろう?」

 

このような問いが

もし

現れたら、

それは人として

本当に健全なことです。

 

実は、

私達の心の奥底には

常に

この問いが

存在します。

 

この問いは

「ゼロリセットの問い」

です。

 

常に自分を

ゼロに戻す、

原点に戻す、

問いです。

 

私は思います。

 

この問いは

毎日毎日

自分に投げかける価値のある

問いであると。

 

「私がやりたいことは

もう私自身が

よくわかっている」

とか

「私の人生の目的は

もう決まっている」

というように、

この問いについての迷いが

なくなった状態を

私は

「傲慢」

と呼んでいます。

 

それは単なる

思い込み。

 

本当の人生の目的とは

上記の問いを

何度も何度も

毎日のように自分に

投げ続けることによって

初めて見出されるものです。

 

・・・・・・

 

自分の人生の目的を

わかったつもりで

設定し思い込み、

本当はそれは

まったく違う方向なのに

「これが私の人生だ」

と決めつけてしまっている人が

あまりにも多いことに

最近はとても

悲しみを感じます。

 

目的を持つことは

大事。

 

でもそれは

真本音の目的で

あることが

必須です。

 

そして

真本音の目的とは

そうそう簡単には

見つかりません。

 

安易に

目的を設定している人を

見ると、

私はとても

危うさを感じます。

 

まだ

「私は自分のことが

全然わかりません」

と言っている人の方に

地に足がついている

感覚がします。

 

何かを勉強して

それに感銘を受けて、

いいなぁ、と思って、

私もそうしようと

決める。

 

勉強することは

大事ですし、

感銘を受けることも

大事。

 

でもそれによって

自分の人生を

安易に決めないで

ほしいのです。

 

一言で言えば、

机上の空論で

人生の目的を決める人が

多くて、

最近は特にその傾向が

高くて、

困っています。

 

そういった人は

本当に真剣に

人生を生きている人の

足を引っ張るからです。

 

今日、

ある社長さんと

お会いしました。

 

その人は

本当にご自分の人生に

真剣に

向かい合っている人

です。

 

そして、

真剣に人生を模索しながら

真本音で一歩一歩を

実践し続けています。

 

しかし、

多大なるストレスを

抱えています。

 

そのストレスが、

自分の一歩を進む上で

必然的に発生する

ストレスであるならば

全然、問題はありません。

 

しかしその社長の周りには

真剣であるフリをしている人、

もしくは、

自分が真剣であると

思い込んでいる人、

で、実は

自分の本来の人生の課題から

逃げまくっている人が

集まってきてしまって

います。

 

もちろんそれは

その社長ご自身にも

問題はあると思います。

 

が、

それでも私は

憤慨してしまいます。

 

もう少し、

自分の人生に

真剣になったらどうだ?

と。

 

その社長から

私が受け取ったのは

依存のストレス。

 

多くの人達が

「協力するフリをしながら

その社長に依存する」

ことによって発生する

ストレスです。

 

そのストレスで、

その社長は苦しんで

いました。

 

こういうケースに関して

私はとても

怒りを感じます。

 

何に対する怒りかと

言いますと、

「自己満足」に対する

怒りです。

 

わかったつもりになり

自己満足している

その行為に対する

怒りです。

 

それは、

かつての私がずっと

行ない続けていたこと。

 

だからこれだけ

憤るのだろうな、と

思います。

 

でも、

かつての自分を

戒める意味でも

思うのです。

 

自己満足は

本当にタチが悪いと。

 

・・・・・・

 

なんか今回は

怒りの表明みたいに

なっていますが。

 

でもしょうがない。

 

本当に今の私は

怒っています。

 

真剣な人を

真剣じゃない人が

妨害する。

 

それは、

どこの組織でも

必ずあることですし、

それが

世の常、とも言えます。

 

でもそれでもやはり

私は怒り

憤ります。

 

私はこういった面では

本当に

心が狭いなぁ、と思います。

 

でも一方で

こういうことに

真剣に怒ってしまうのが

私であるとも認めています。

 

これは私の

真本音の怒りです。

 

私は

真剣な人をサポート

したい。

 

自分の人生に対して

真摯な人を

サポートしたい。

 

人生に対して

真摯な人とは、

 

「私はいったいこれから、

本当は、

何をすればよいのだろう?」

 

こういった、

ゼロリセットの問いを

常に自分に投げ続ける

人を言います。

 

思い込みで進まない。

 

自己満足で進まない。

 

私自身もこれから

大切にし続けたい

ことです。

 

つづく

 

感性を養う、一日の始め方

準備が万全に整ってから

物事を始めよう

とする人がいますが、

それは決して

良い始まり方とは

限りません。

 

むしろ、

準備を整えている内に

機を逸してしまった

ということの方が

多いのではないでしょうか。

 

物事には

タイミングが

あります。

 

良いタイミングで

始めることで

調和は起こりますが、

タイミングを間違えると

同じことをしても

まったく展開が変わります。

 

物事は

タイミングで

決まります。

 

そしてそのタイミングは

私達自身の真本音が

最もよくわかっています。

 

人と人の真本音は

実在のレベルでは

すべてつながっています。

 

真本音の望む

タイミングに合わせる

ということは、

すべてとつながった上で

すべての流れを

見極めて上で

「今、ここだ!」

という最善のタイミングを

掴んでいるという

ことになります。

 

そのタイミングが

来ているのに、

「準備が整って

いないから」

という理由で、

始まりを自分自身が

阻止してしまうのは、

自分の人生を

自分で阻止しているのと

イコールです。

 

・・・・・・

 

「何を始めるか?」

 

これは人生において

とても大事なこと

ですが、

 

「いつ始めるか?」

 

これも超がつくくらい

大事です。

 

この

「いつ始めるか?」

の感性を養う

最も簡単な方法があります。

 

それは、

「一日を始めるタイミングを

はかる」

ということです。

 

以下は、私が毎日

必ず行なっていることですので、

とても簡単ですので、

よろしければ皆さんも

遊び感覚で

お試しください。

 

まず、

私は一日の終わりを

大事にします。

つまり、

いつ寝るか?

のタイミングを大事に

します。

 

「いつ寝る?」

「いつ布団に入る?」

 

という問いを

私は自分自身に

投げます。

 

自分の真本音に

投げる感覚です。

 

すると、

「もう今すぐ寝よう」

とか

「もう少し後にしよう」

とか

時には

「何時何分にしよう」

などの返事が

返って来ます。

 

何度か自分に

問いかけながら、

「今、布団に入る

タイミングだ」

とわかったらすぐに

布団に入ります。

 

ただ、

その直前に必ず

もう一つすることが

あります。

 

「明日、

何時何分に起きる?」

 

と自分に問うのです。

 

すると面白いことに

「6時くらいに起きよう」

というような返事が

返ってくることは

稀です。

 

いつも

「5時57分にしよう」

とか、

「6時3分にしよう」

など、

かなり細かい答えが

返って来ます。

 

で、その通りに

目覚まし時計を

かけます。

 

で、布団に入るのですが、

言われたタイミングで

入れば、

やはり良い睡眠が

待っています。

 

以前、

わざとこういったタイミングを

ずらして

布団に入ったことが

ありますが、

やはり睡眠の質が

根本的に変わってしまったのが

よくわかりました。

 

目覚めの気持ちよさが全然

違うのです。

 

さて、

自分の望むタイミングで

布団に入り、

そのまま眠ると、

大概の場合、私は

目覚ましをかけた時間の

直前に

自然に目が覚めます。

 

結果としてほとんど

目覚まし時計を鳴らすことは

ありません。

 

ただし、

目が覚めたからといって

すぐに布団から

出ることはしません。

 

ここでまた自分自身に

問うのです。

 

「どうする?

すぐに起きる?」

と。

 

これも私の場合ですが、

大概は

「もう少しこのままで

いる」

と返って来ます。

 

ですので、

そのまま横に

なっています。

 

これをやっていると

時には

二度寝をしてしまうことも

ありますが、

それでも良いのです。

 

例えば、

ちょっとウツラウツラと

二度寝をしたと

します。

 

そしてまた

目が覚めたとします。

 

そこでまた

問います。

 

「どうする?

すぐに起きる?」

と。

 

「もう少し」

と返って来たら、

まだそのままでいます。

 

これを繰り返し、

「今、起きよう」

と自分から返事が

来た瞬間に、

布団から出ます。

 

すると、

とてつもなく

一日の始まりが

快適になります。

 

この「快適さ」が

一日を決めてしまう

と言ってもよいのではないか、

とさえ思うくらいです。

 

・・・・・・

 

人生において

「始まり」

はいくつもいくつも

あります。

 

その「始まり」の中で

最も身近なものの一つが

この

「一日の始まり」

だと思います。

 

ここで

このように最善の

タイミングをはかる

という習慣をつければ、

それが、すべての

「始まりの感性」

を養ってくれます。

 

「始まりの感性」とは

いつ始めるか?

を決める感性です。

 

これにより、

人生は劇的に

変化する可能性が

あります。

 

少なくとも私の場合は

劇的に人生が

変わりましたね。

 

つづく

 

大自然の中の私だからこそ

日本一高い山は

富士山であることは

誰もが知っていると

思いますが、

日本で2番目に

高い山は

ご存知ですか?

 

それは

南アルプスにある

「北岳」

と呼ばれている山です。

 

白峰三山の一つ

で、

南アルプスの中では

最もメジャーですが、

南アルプスそのものが

どちらかと言えば

玄人向きの山々なので、

山登りに興味のない人に

とっては

北岳? 何それ?

名前、地味じゃね?

くらいでしょうね。

 

実はわたくし、

学生の頃からこの

北岳が大好きで、

就職活動の面接などで

「尊敬する人は?」

と問われたら、

「北岳です」

と答えたくらい。笑

 

この山は

見る角度によって

まったく別人のような

雰囲気の違いを

醸し出すのです。

 

ある角度から見れば

鋭く険しく、

ある角度から見れば

哲人的で深く、

またある角度から見れば

王者のような貫禄と

大きさで。

 

どの角度から見ても

とても気品があり、

かと言ってツンと

澄ましているわけでなく、

気さくさと明るさと

あたたかさがあり、

しかし反面、

父親のような厳しさも

あり、

かつ、母性も感じる

という。

 

その魅力を言い出すと

キリがない、

相変わらず。笑

 

富士山はもう

別次元の存在のように

感じますが、

北岳は

私からすると

「この世の世界での

最高の形の一つ」

に見えます。

 

とてもとても

単なる「山」とは思えず、

私は彼をずっと

「人」として感じ、

「人」として

対峙してきました。

 

白峰三山のすぐ東に

鳳凰三山という山が

あるのですが、

冬山でそこを登った時に

そこから見えた

北岳が

あまりに神秘的で、

それが私と彼との

出会いで、

以後、雪のない時期には

一人で鳳凰三山に登り、

誰もいないある山頂で、

一人ずーっと北岳と

対峙し続けたりしました。

 

それはまさしく

「山と語り合う」

時間でした。

もちろん言葉は

ありません。

 

でも確かに

私は北岳と

語り合っていました。

 

今から思えば、

これが私の

セルフコーチングの

始まりでした。

 

・・・・・・

 

大自然。

 

山登りと出会い、

私は自然というものが

どれくらい圧倒的か

ということを

体感しました。

 

あれは

北岳ではなかったのですが、

南アルプスの南部の

山々を

一人でテントを担いで

ずっと縦走したことが

ありました。

 

南アルプスの南部は

夏山の最盛期を外せば、

当時はあまり人もおらず、

ある日私は

だだっ広い広場のような

場所に

たった一人でテントを

張っていました。

 

その夕方。

 

猛烈な雷雨に

遭いました。

 

いや、

雷雨という生易しい

ものではありませんでした。

 

標高は

3000m近く。

 

まるで台風のような

猛烈な雨。

 

雷雲の中に恐らく

そのまま入って

しまったのでしょう。

 

空で雷が鳴る

のではなく、

雷そのものの中に

いる、

という状態に

なりました。

 

周りは

誰もいません。

私だけ。

 

テントはあっという間に

池の中に浮かんだ

ような状態に。

 

宇宙全体が

猛り狂っているかのような

雷鳴と雷光の中で

私は

「神様、助けてください!」

テントの中で水に

浸かりながら土下座をし、

頭の上で拝むように

両手を合わせながら、

叫び続けていました。

 

その状態が

約1時間続きました。

 

今でもよく

生きていたなと

思います。

 

あんな体験に

見舞われると、

人間という存在が

大自然の中では

いかに小っぽけなものか

を、

いやがうえでも

感じざるを得ません。

 

と同時に、

私を死なせずに

生かしておいてくれた

大自然に感謝と同時に

私には何かこの世の中で

すべきことがあるのでは

ないか?

という「自然な」問いが

湧いてきました。

 

大自然の中の

小っぽけな自分。

 

でもそんな

小っぽけな自分だからこそ

自然の一部の

自分だからこそ、

できることが

あるのではないか?

 

自分の人生を

真剣に考えるきっかけは

山々が

私にくれました。

 

・・・・・・

 

そう言えば今、

思い出しました。

 

初めて冬山で

南アルプスに入った

19歳なりたての山行。

 

北岳と対峙する

鳳凰三山の稜線で

私は滑落したのでした。

 

そこは

アイスバーンの

斜面でした。

 

ピキピキの

アイスバーン。

 

ツルッツルでした。

 

確か、

山仲間の一人が、

休憩時に

お茶のティーパックを

地面に落としたんです。

 

すると、

拾おうとした1秒後には

そのティーパックは

遥か彼方まで

滑り落ちているという、

そんなところで、

私は転んだのです。

 

荷物(ザック)は約30kg

ありました。

転んだ瞬間、

ピッケル(冬山用の杖)が

私の手から離れました。

 

私はピキピキの

アイスバーンの上に

見事な仰向けになり、

アイスバーンの上を

滑り出したのです。

 

冬山やったことのある

人であれば、

それがいかに絶望的な

状態かは

おわかりになると

思います。

 

実際にその場にいた

私の山仲間の目にも

その瞬間

「絶望」の文字が

浮かんだそうです。

 

私の滑るその先には

崖がありました。

 

恐らくその崖は

数十メートル以上の

規模があったと思います。

そこから落ちたら

一巻の終わりです。

 

私はアイスバーンの

上で、

自分の体を止める

あらゆる手段を

失っていました。

 

ところが。

 

なぜか、

崖まであと2〜3mという

ところで、

私の体はピタリと止まった

のです。

 

なぜ止まったのかは

いまだによく

わかりません。

 

その日、たまたま

私がテントを持ち運ぶ

担当でした。

 

そのため私の

アタックザックには

荷物が入り切らず、

ナップザックを上に

くくりつけていました。

 

そのナップザックが

引っかかってくれた

という見方もあります。

 

でも、

あのアイスバーンです。

 

それくらいのことで

止まるのだろうか?

と。

 

私はその時、

素直に

大自然に感謝

することにしました。

 

すぐそばで

見守ってくれていた

北岳に

感謝することに

しました。

 

本当はあそこで

終わっていた

私の人生。

 

大自然は

私の人生に

何らかの意味づけを

してくれた。

 

と、私は捉えることに

しました。

 

思えばあの時から

私は北岳が

好きになったのかも

しれません。

 

・・・・・・

 

今の私には

よくわかります。

 

この世に存在する

あらゆるものは

「人」

の意識の反映です。

 

「実在」が

「現象」となって

現れたもの。

 

北岳のあの

佇まいは、

私の心の中に

実在としてあった

「こうありたい」

「こんな自分になりたい」

という真本音の願いを

「カタチ」として

表現してくれた

最初に出会った「友」

だったのだな、と。

 

つづく

 

自分の力を認識しよう

力のある人ほど、

「傲慢になってはならない」

という気持ちを大切にし、

「いやいや私は

まだまだです」

と言われる人が

多いです。

 

それはとても

謙虚な姿勢で、

私などは感心

するのですが、

しかし中には、

謙虚なあまり、

「私には力は

ありませんから」

とか

「私の力は

大したことは

ありませんから」

と本気で言われる

人がいます。

 

そういう場合、

私はいつも

「ちょっと待って

ください」

と、

止めます。

 

「あなたは

あなたの力を

もっと

認識された方が

よいですよ」

と、

ついつい生意気にも

申し上げてしまいます。

 

でも私は

思うのです。

 

そこに

力があるのに

「ない」

と言うのは、

逆に傲慢では

ないか?

と。

 

私は、

真の謙虚さとは、

「そこにあるものを

そこにあるままに

そのままに

受け止めること」

だと思っています。

 

どれだけ力があっても

自分一人では

何一つできないのが

私達人間です。

 

その事実。

 

それをそのまま

受け止める。

 

それが謙虚。

 

と同時に、

その中でも

自分特有の

素晴らしい力が

ここにある。

 

という事実。

 

それをそのまま

受け止める。

 

それも謙虚。

 

と私は

思います。

 

「私には

こんな力があります」

 

「でもこの

素晴らしい力を

どのように活用すればよいか

いまだに

わからないのです」

 

こういった人と

出会うと、

私は心の底から

応援したくなります。

 

なんて謙虚で

素直な人だろう、

と感動します。

 

・・・・・・

 

私は、

私が今、発揮できている

力が、

私特有のものであるとは

到底思えません。

 

私が発揮している

力は、

誰もが努力さえすれば

必ず到達できるもの

です。

 

これは私の

確信であり、

恐らく

真実です。

 

ですから私は

今の私のこの力を

誰もが発揮できるように

サポートしたいと

願っています。

 

私の力を

一言で言えば、

 

「人の真本音を

キャッチする力」

 

だと思います。

 

そしてその力を

養うためには、

 

「自分の真本音を

キャッチする力」

 

が必要です。

 

私はこれを

「セルフコーチング力」

と呼んでいます。

 

おかげさまで。

 

私は、

誰よりも

反応本音の分厚い人間

として

この世に生を

受けました。

 

私が私の真本音を

キャッチするというのは

かなりの

難易度の高さが

ありました。

 

しかし、

様々な人生の展開の中で

私は自分の真本音を

ダイレクトに感じ取る

ことができるように

なりました。

 

今でもこれはちょっと

奇跡に近いかな、

と思います。

 

よくあの状態から

自らの真本音に

たどり着けたなと

思います。

 

もちろんそれは

私一人の努力では

到底、成し得ませんでした。

 

出会った様々な人からの

ご支援やサポートや、

いやいやいや・・・

ご支援とかサポートじゃ

ないですね、

そんな生易しいものではなく、

命そのものをぶつけて

いただくような

関わりの中で、

ようやくにして

たどり着けたものでした。

 

そこで得たものは

あまりにも大きく、

今、目の前にいる

このAさんが、

どのようにすれば

自らの真本音に

たどり着けるのか?

が、

手に取るように

わかるようになりました。

 

これが私の

コーチング力でも

ありますが、

でもこのコーチング力も

含めて、

それはすべての人が

そう、

人類すべてが

この力をもともと持っている

ことが

よくわかります。

 

私が人を

変えてやる、

とか、

私が人類の可能性を

引き出してやる、

とか、

さすがにそんなことは

思えません。

 

が、

 

私には強く

感じられます。

 

多くの人達が

「変わりたい」

と願っていることが。

 

それは

願いというよりも

祈りに近いです。

 

それはあまりにも

強く、

その強さを感じ取れる

自分が今ここに

いるのであれば、

私は、

そこに向かいたい。

 

これが今の私の

意志です。

 

・・・・・・

 

人は何のために

生きるのか?

 

その答えは

それぞれの人が

それぞれ持っています。

 

人は何のために

生きるのか?

ではなく、

 

「私は何のために

生きるのか?」

 

こそが重要です。

 

ここに徹底的に

向かうことこそが

人の喜びであると

断言しても

よいかな。

 

この問いに

向き合わなくなった時、

人は

疲弊を始めます。

 

答えがわからなくとも

真摯にこの問いに

向き合い続ければ、

人は

なんとかなります。

 

何だかんだと

エネルギーは

湧き続けますし、

いつか必ず、

真本音と

つながるでしょう。

 

でも、

この問いと

向き合わない人、

この問いを

忘れてしまっている人

が、

なんと多い世の中か。

 

セルフコーチングの

最も根幹にある問いは、

これだと

思うのですけどね。

 

つづく

 

きちんと迷う人生にしよう

「迷う」ことが

いけないことであると

思わないでください。

 

私達の人生に

必須なものが

「迷い」です。

 

迷うべきときに

迷うべきものに

きちんと迷う

ことが

健全な生き方です。

 

真本音度合いが

高まったり、

意識の次元が

上がるということは、

迷いがなくなる

ということではなく、

迷いの質が向上する

ということです。

 

質の高い迷いとは、

迷うことそのものによって

エネルギーが高まり、

幸せ感が高まり、

自由を得られるものです。

 

質の高い迷いは、

答えが見えなくとも、

きちんと迷うだけで

私達は充足感を

得ます。

 

そして、

最も必要なタイミングで

「答え」が自然に

浮上し、

それにより

一つの殻を破り、

さらなる自由へと

自分を開放できます。

 

「迷いが出た」

 

「やった!私はまた

自分を開放できる」

 

というように、

「迷い」=「開放の瞬間」

とも言えるように

なります。

 

「良い迷いには

開放がセットでついてくる」

 

これが、

「迷い」の本質です。

 

・・・・・・

 

ただし。

 

すべての「迷い」が

良いわけではありません。

 

「良くない迷い」も

あります。

 

「良い」とか

「良くない」という表現は

あまりに短絡的ですが、

ここはあえて

わかりやすくこの表現で

進めます。

 

「良くない迷い」とは

一言で言えば、

 

「迷っているフリを

している迷い」

 

です。

 

本当は、

こんなことで迷う必要は

ないし、

本当は、

こんなことに本気で

迷っているわけでは

ないのに、

「私は迷っている〜!

私は苦しんでいる〜!

私はもがいている〜!」

とやり続けています。

 

なんでそんなことを

するのか。

 

その理由は

単純です。

 

現実と向き合いたく

ないからです。

 

今、本当に

自分が向き合わなければ

ならない「現実」から

逃げているのです。

 

逃げるための口実として

「迷っている自分を

演じている」

のです。

 

ただし、

本人の顕在意識は

本当にそこで迷っている

つもりになっています。

そして、

「迷うから進めない〜!」

という心の声が出ます。

 

実はこれが

「良くない迷い」の

特徴です。

もし、

「迷うから進めない〜!」

という心の声が出たら、

それは恐らく

「良くない迷い」

です。

 

その心の声は

進まない口実のために

生まれたものです。

 

本当に人生を

真剣に生きている人は

迷っていても

進もうとします。

 

迷いを

停滞の

理由には

しません、

決して。

 

「この迷いが取れてから

先に進もう」

というのは、

現実逃避の典型的な

パターン。

 

先ほども書きましたとおり、

本来の「迷い」とは

人生を加速させてくれる

ものです。

 

「迷い」があるからこそ、

先に進めるのです。

 

・・・・・・

 

反対に。

 

「迷い」そのものに

フタをしている人も

います。

 

「私はまったく

迷っていません」

と、

その人は言います。

 

言うだけでなく、

本人も本当に

そう思っています。

顕在意識では。

 

しかし、本当は

とても重要な「迷い」が

その人の中には

あります。

 

その「迷い」に向き合うことで

次のステージに

進めるのに、

それをしようと

していません。

 

これも、

典型的な

「現実逃避」です。

 

「迷い」にフタをし、

「私は迷っていない」

と自分を思い込ませ、

 

「だから

このままの私でいい」

 

と、

自分に言い聞かせ

続けています。

自分自身が。

 

そういった人ほど、

「私の人生は

充実しています」

とか

「私は毎日が

楽しいです」

など、

多くの前向きな言葉や

笑顔を見せるのですが、

残念ながら、

その人達には

足元がありません。

 

とても

フワフワした

空気感ばかりが

漂います。

 

地に足が

ついていないのです。

 

・・・・・・

 

なんか、

また今回もちょっと

キツイ言い回しに

なっていますが、

なんでこういったことが

わかるかと言うと、

以上に書かせていただいた

ことは、すべて

私の体験談でもあります。

 

昔の私のことを

私はついつい悪く

言ってしまうのですが、

昔を否定しているのではなく、

ただ、事実を

そのままお伝えしています。

 

私は、

「現実逃避のプロ」

でした。

今から

振り返りますとね。

 

ありとあらゆる

現実逃避の方法を

駆使して

生きていました。

 

ですから、

よくわかります。

 

「現実逃避」が

いかに

自分を閉ざしていくか。

いかに

自分を苦しめ続けるか。

 

・・・ということを。

 

そして、

昔の私ほど

ひどくはありませんが、

やはり多くの人達が

多かれ少なかれ

現実逃避のパターンを

繰り返しています。

 

開き直り、

そこから抜け出れば

本当に

楽になるのですが、

どうしても

「執着」

してしまうのですね。

 

何に「執着」するか

と言うと、

 

「自分以外の何か、誰か」

 

にです。

 

執着とは、言葉を換えれば

「依存」

とも言えます。

 

現実と向き合い、

迷いと向き合い、

次のステージに

進むということは、

そういった

「執着している対象」

「依存している対象」

を手放すことに

なります。

結果として。

 

そのことを私達は本当は

よ〜く理解していますので、

その執着・依存を

取り去りたくないのです。

 

もしくは、

執着・依存を手放すことに

恐怖を感じるのです。

 

・・・・・・

 

自分は今、

何に執着しているか?

 

の答えを

執着している今の自分が

見つけ出すことは

至難の業です。

 

それよりも

私達にとって大事なのは、

 

自分は今、

何に迷っているか?

 

を特定することです。

 

本当の「迷い」を

自ら見つけ出すことです。

 

この力がつけば、

人生は

本当に本当に

楽になります。

 

迷いを見つけ出す。

 

本当の迷いを。

 

これも

セルフコーチングの

基本です。

 

つづく

 

妄想の中で苦しむ人達

水深1mくらいのプールの水に

うつ伏せになって浸かり、

息ができなくなって

全身をばたつかせながら

 

「溺れる〜っ!」

 

とパニックになっている

人がいたとします。

 

その人の身長は

160cm以上はあったとします。

 

それを見ているあなたは

その人に対して

何を思いますか?

 

溺れるも何も、

ただ、そこに

立てばいいのに。

 

なんでその人は

立たないのだろう?

 

ちょっと冷静になって

足を下に向ければ

すぐに水底に足がつき、

スックと立ち上がることが

できるのに。

 

なんでそんなに

パニックに

なっているのだろう?

 

・・・恐らく

そう思いますよね。

 

で、もしそう思ったとして、

その人に対して

どうしますか?

 

その人を

どう助けますか?

 

「おーい!

そこは浅いよ!

立てばいいんだよ!」

 

と声をかけても、

その人の頭と顔は

水の中ですから、

声は届きません。

 

じゃあ私が

引き起こしてあげよう

として、

その人の所まで行き、

その人の身体を

抱きかかえて

立たせようとしても、

その人が本当に

パニクっていて、

あなたは

振りほどかれてしまった

とします。

 

どうしよう・・・?

 

このままではこの人、

呼吸困難のまま

死んでしまう。

 

ただ、そこで

立てはいいだけなのに、

こんな浅いところで

この人は死んでしまう。

 

どうしよう?

 

・・・と困っちゃいますよね。

 

側から見れば、

どうでもいいようなこと、

すぐに解決できるような

ことでも、

本人にとっては

命を失ってしまうかも

しれないくらいの

一大事。

 

その中で

パニックになり、

本当であれば

そんなところで死ぬはずのない

場所で、

命を落とそうとしてしまう。

 

実は。

 

こういう人が

世の中には

いっぱいいっぱい

いるのです。

 

実は。

 

私の現場の実感としては

9割以上の人が

この状態です。

 

つまり、

本来は悩む必要のない

場所で、

悩んでいる。

 

そして、

そこで悩み続けることで

自分の人生を

死なせてしまっている、

もしくは、

人生をふいにしている

のです。

 

水深1mくらいのところで

パニックになるのは

まだマシな方で、

喩えれば、

洗面器に水を張り、

そこに顔をつけて

「溺れる〜っ!」

とやっている人さえ

いるのです。

 

ほとんどの人の

その悩みは、

本当は

悩みではありません。

 

水から顔を

上げれば済むだけの

ことです。

 

しかしそれが

できない。

 

なぜでしょう?

 

答えは簡単。

 

自分と

向き合って

いないからです。

 

・・・・・・

 

皆さんもご想像の通り、

私もかつては

その「溺れる人」

でした。

 

私なんかは

ひどかったですね。

 

だって、

自ら地面に穴を掘り、

そこに

自ら水を入れ、

その中に

自ら入り、

「溺れる〜っ!」

ってやってましたから。

 

で、

人生はなんて

辛いのだ。

 

人間はなんて

辛いのだ。

 

・・・って

本気で思って

いましたから。

 

辛いのが人生。

辛いのが人間。

 

心の底から

そう信じていました

から。

 

今は

そういう自分のことを

単なる自己満足だったな

と笑えるのですが、

当時は

本人としては

真剣そのもの。

 

「それがすべて」

でした。

「それが現実」

でした。

 

本当は、

すぐに足がつくくらいに

浅いところにいるのが

「現実」なのに。

 

洗面器に顔をつけている

だけの状態であることが

「現実」なのに。

 

まったく

「現実」が見えなく

なってしまう。

 

それは

なぜでしょう?

 

答えは簡単です。

 

自分と

向き合って

いないからです。

 

・・・・・・

 

自分と向き合うことの

できない人は、

現実と向き合うことも

できなくなります。

 

現実と向き合えない

ということは、

人と向き合えない

ということです。

 

そうなると人は

どうなるかと言うと、

 

「妄想の世界」

 

に入り、

浸ります。

 

自分の妄想。

 

自分が勝手に

創り上げた

狭い世界。

 

そこに入り込んで

出て来れなく

なります。

 

いえ、本当は

目を開ければ、

その瞬間に妄想だと

わかるのですが、

その人は

目をずっと

閉じています。

そして、

自分は目を開けていると

思い込んでいます。

いえ、

思い込むというよりも、

そのように自分で

自分に

信じ込ませています。

 

そういった人を

救い出すことができるのは

本人だけです。

 

周りがどれだけ

何とかしようと思っても、

その人の耳には

何も聴こえません。

 

周りの人達の想いも、

届きません。

 

よろしいですか?

 

だいぶひどいことを

書いていますが、

多かれ少なかれ、

そういった状態にある人が

私は

9割以上いると

申し上げているのです。

 

9割以上です。

 

世の中、

おかしくなるはずですね。

 

誰も現実を

しっかりと見ずに、

自分の妄想に基づいて

次の現実を

創り上げているのです。

 

その結果が

今の世の中です。

 

・・・・・・

 

一人でも

この妄想から

抜け出さねば

なりません。

 

でも残念ながら、

自分が妄想していることに

気づくのは

自分自身です。

 

他者が

気づかせることは

まず、

できません。

 

私もそうでしたし、

そしてコーチとして

本当にたくさんの人に

「それは妄想です!」

と伝え続けましたが、

その声は、

ほぼ、

届きませんでした。

 

自分が

自分を

解放する。

 

それしか

ありません。

 

解放された状態が

「自由」

という状態ですが、

多くの人は今、

自由ではないのです。

 

なのに

自分が自由であると

妄想しています。

 

では、

私にできる最大のことは

何だろう?

 

その

私なりの答えが、

「自分と向き合う方法を

伝えること」

でした。

 

それにより

「自分と向き合う

楽しさを知る」

きっかけをご提供する

ことでした。

 

自分と向き合えば

向き合うほど、

人はどんどん

楽になります。

 

自由になります。

 

その幸せを

感じていただくために、

「向き合い方」

「スキル」

としてご紹介し、

「やってみると楽しいよ」

とお伝えし続ける

ことでした。

 

これが私のこの

十数年です。

 

そして、

自分と向き合う方法。

 

これを

「セルフコーチング法」

と呼んでいます。

 

つまり、

セルフコーチングとは

妄想を取り払う方法。

 

妄想の世界から

自分を

解放させる方法です。

 

それは、

その人本人にしか

できないことなのです。

 

つづく