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- 幸せ
毎日、笑顔で
いたいですか?
と、
問われれば、
多くの人が
Yes
と答えるだろう。
しかし、
どうすれば
本当に毎日、
笑顔でい続けられるか?
を
真剣に考えている
人は
あまり多くないのでは。
この仕事を
始めた20年以上前から
この印象は
さして変わっていない。
もっとみんな
自分の幸せについて
真剣になればいいのに、
と思う。
・・・・・・
真剣さの第一歩は
考えることだ。
しかしそれを
している人は
少ない。
例えば、
「あなたは本当は
何が好きですか?」
という質問をして、
すぐにその人自身の
真本音だと思われる
スッキリした答えを
返してくる人は
極めて
稀なのだ。
なぜもっと
考えないのだろう?
なぜもっと
自分自身に
意識を向けないのだろう?
なぜもっと
自分の人生の幸せを
探求しないのだろう?
と、
単純にいつも
思う。
みんな
惰性で
生きているのか。
そうなってしまっているのが
今の社会なのか。
でも、
そんなのは嫌だ、
そんな社会であって
ほしくないし、
そんな人生で
終わりたくない、
と、みんな
思っているだろう。
もっとその気持ちに
素直になれば
いいのに。
その気持ちに
向き合う気力すら
もう
湧かないのか?
諦めて
しまっているのか?
・・・・・・
死ぬときに
「あぁ、いい人生だった」
と
思いたい。
・・・という気持ちを、
私はいろんな人達から
聴いた。
じゃあそのためには、
今日という一日を
いい一日だった、と
思える一日にすることが
基本であると、
私は思う。
幸せな一日一日が
幸せな人生を
創り上げていく。
それが当たり前だと
思うのだけど、
どうだろう?
今日という一日が
幸せになるために、
何ができるか?
一日の満足度を
上げるために、
自分は
何をし、
何をしないように
すればいいのか?
自分は
何かを変える必要が
あるのだろうか?
などなど、
もっともっと
自問自答するといい。
あなたの人生は
あなたの人生
なのだから。
つづく
砂漠のような
ところに
私はいる。
夜だ。
星は
出ている気配は
ない。
漆黒の闇が
私を覆っている。
私は
四つん這いの
ような格好を
している。
私の両手は
砂を掴んでいる。
私の手は
震えている。
渾身の力で
砂を
掴んでいる。
私の目からは
止めどなく
涙が
溢れ続けている。
私の表情は、
自分では見えないが、
恐らくは、
鬼のごとき
怒りの表情か、
もしくは、
情けなさの極みの
ような、
深い悲しみの
表情か。
私の心の中には
チクショー
チクショー
チクショー
・・・
という私自身の
叫びが
こだまし続けている。
悔恨の
念。
あまりにも
深い
悔恨の念。
私は
その塊だ。
怒りはすべて
私自身に
向けられていた。
悲しみはすべて
自分の人生
そのものに
向けられていた。
人に対する恨みも
きっと
とてつもなく
大きなものだったろう。
しかし
それをかき消すくらいに
私は私を
責め続けていた。
・・・・・・
この情景は、
記憶なのだろうか。
よくわからない。
しかしそれは
紛れもなく
「体験」だ。
「体験」として
私のこの体に
そして
魂に刻まれている。
この情景を
思い出したのは、
そんなに遠い
昔ではない。
確か、
17〜8年前だ。
当時の私はすでに、
今のお仕事を
していたが、
「真本音」とは
まだ出会って
いなかった。
この「体験」を
思い出してから
だろうか。
私の人生は
大きく
向きを変えた。
・・・・・・
「体験」の浮上。
失われていた「記憶」
の浮上。
これは、
決して悪いことでは
ない。
「浮上」とは
「解放」を意味する。
逆に言えば、
「浮上」していない
ということは、
自分の知らぬところで
それらに自分は
「支配」されている
ことになる。
極端な表現であるが。
私のその「体験」の
「浮上」の前は、
恐らく私の人生は、
それに「支配」された
ものだったろう。
つまりは、
そのあまりにも深い
悔恨。
これに苛まれ、
これを打ち消すために
私は
生きていたのだろう。
悔恨を
打ち消すための
人生。
悔恨から
逃げるための
人生。
別の視点から言えば、
それまでの私の
人生は、
「償いのための人生」
だったのだと
思う。
自分を責め続け、
そんな自分は
「償いのために生きよう」
と決め、
それをすべての
モチベーションの源泉
とした。
恐らく、
こういう人は
多い。
もちろんほとんどの
人には
自覚はないだろう。
しかし、
はっきり言おう。
自分を
責め続けることを
自分の中心とし、
悔恨から
抜け出すことを
人生の目的とし、
償うために
生きる、
ということは
自分自身の
本来の力の
1割をも
発揮できない人生になる。
・・・と。
償いたいことが
ある。
だから、
償うために
人生を生きる。
・・・これでは
一生をかけても
償いは成就しない、
のだ。
真の償いとは、
『自分自身を
真に幸せにすること』
である。
自分が
真に幸せにならねば、
自分が
周りを幸せにすることは
不可能だ。
この当たり前の
事実は、
もちろん頭ではずっと
わかってはいたが、
本当に
紛れなく淀みなく
本当に
心と魂の底から
そう断定できるように
なるために、
私はこの10数年間を
費やしたように
思う。
人生は
修行である。
もちろん、
そうだ。
しかし、
人生は修行である
と
言い続けているうちは、
真の自分には
近づけない。
自分の本当の
人生の目的には
到達できない。
人生は
修行である、
というのは
自己満足の行為だ。
償いを目的に
するのも、
自己満足だ。
自分も周りも
誰もが
それで真の悦びを
得ることは、ない。
身も心も魂も
そのように
断定できるように
なったとき、
初めて私達は
本当の人生を
始めることができる。
初めて私達は
自分の使命を
知ることができる。
何のために
ここにいるのかを
ありありと
知ることができるのだ。
つづく
真本音で生きる
ことは
幸せですか?
と問われる
ことがあります。
もちろん幸せ
ですよ。
と答えるのですが、
では、
何が幸せですか?
と問われると、
一瞬、返答に
窮することがあります。
なぜなら、
何が?
と言われても、
すべてが、
としか言いようが
ないからです。
しかし、
すべてが
という答えほど
曖昧な表現も
ありません。
もっと明確に
ならんかな?
と思うのですが。
・・・・・・
すると、
次にはこう
問われたりします。
ということは、
すべてが理想通りに
いくのですか?
と。
いや〜、
もちろんそうなると
良いのでしょうが、
残念ながら
理想通りに事が進むことは
ほぼ、
ないのです。
「理想」は
大事なのですが、
「理想」とは所詮、
今の自分が解釈する
最高の状態
にしか過ぎません。
例えば、
10年後の自分の理想と
今の自分の理想は
変化する可能性が
ありますね。
下手をすると
真逆になることさえ
あります。
自分にとっての「理想」
とはどのようなものか?
というのは、
実はかなり曖昧です。
ただ、
今の自分なりの「理想」
を描くこと自体は
大事なのですけどね。
・・・というようなことを
踏まえた上で
もう一度言うと、
理想通りに進むことなど
ほぼ、ありません。
この3次元の世界に
おいては、
理想がそのまま
現実化するという状態は
滅多には実現しません。
そのように
できています。
もっと言えば、
そのように
私達の真本音が
決めているのです。
つまりは、
私達の真本音は
理想通りにいかないことを
望んでいます。
かと言って
不幸になることを
望んでいるわけでも
ありません。
理想と現実の
ギャップを楽しむ、
ことを
真本音は望んでいますし、
私達の解釈でしかない
理想を
超えていくことをまた、
真本音は望んでいる
のです。
以前は
ああいうことが理想
だったのに、
今の私は変わったなぁ。
今は、
こういうことが理想だな。
・・・という変化を
私達の真本音は
楽しみます。
そして、
「理想通りに物事が
進むこと」
を望むのではなく、
「自分にとって
本当に必要な
試行錯誤を続けること」
を
望んでいるのです。
ですから、
真本音の人生には
次々に課題が
現れます。
しかしその課題に
真正面から向き合い、
最善だと思う一歩一歩を
進むことに、
私達の真本音は
無上の悦びを得るのです。
なぜなら
私達の本能の中心は
「進化」だからです。
物事の「達成」とは
「進化」のための
ステップに過ぎません。
「達成」はとても
大切です。
しかし、
「進化」につながらない
「達成」では、
私達の真本音は
悦びません。
「進化」につながる
試行錯誤と
一つ一つの達成を
私達は
真から望んでいるのです。
・・・・・・
そういった意味で、
真本音で生きると、
日常で起こる
あらゆる現実が
「幸せ」となります。
一歩一歩の
試行錯誤にこそ、
深い悦びを感じます。
もちろん、
何か達成した時も
強い喜びを得ますが、
真本音で生きている人は、
達成の喜びの
その瞬間に、
もう次の未来へと
視線を向けています。
反応本音レベルで
それをしようとすると
非常に疲れてしまう
のですが、
真本音でそれを
続けることは、
私達の中に眠っている
無尽蔵のパワーを
掘り起こすことに
直結します。
う〜ん。
しかしやはり
言葉にするのは
難しい。
説明しようとすると、
なんか堅く
なっちゃうね。
説明なしに
ただただ感覚的に
お答えすると、
真本音で生きるとは、
すべてにおいて
満たされた幸せを
感じることなんです。
まぁ、
体験するしか
ないかな。
人間であれば、
誰もが当たり前のように
体験できることなので。
つづく
結局、
誰も私のことなど、
わかってはくれない。
私のことを
唯一わかっているのは
私だけだ。
私の理解者など
一人もいない。
どうせ私は
孤独だ。
・・・本当に
そうでしょうか?
本当に人は
孤独でしょうか?
本当に自分を
理解してくれる人は
いないのでしょうか?
自分のことを
実は
一番わかっていないのは
自分自身である、
ということは
ないでしょうか?
自慢にも何も
なりませんが、
以前の私は
本当に孤独でした。
家族といても
孤独でした。
誰もわかってくれないなら、
もういいや。
わかってもらう
必要はない。
そのようにいつも
絶望し、
その絶望を
隠しながら
生きていた気がします。
ところが。
今はどうでしょうか。
今日ふと
思ったのです。
今、私の周りにいる
人達は、
私以上に
私のことをわかって
くれている人ばかりでは
ないか、と。
私の中から
孤独感は、
きれいさっぱりに
消えてしまっています。
いったい、
いつからこんな状態に
なったんだろう?
なんでこんなに
満たされいるのだろう?
と不思議に
思います。
毎日お会いする
人達の顔を
思い出すだけで、
胸がキュキューッと
幸せになります。
まるで
恋愛をしているかのような
感覚。
なんで
こんなに私は
幸せなのだろうか?
そう思ったのです。
でも
そう言いながらも、
理由は
私自身が一番よく
わかっています。
私自身が
真本音で生きている
からです。
真本音で生きる
とは、
このような現実を
創り出すものなのだ、
という驚嘆を
実は一番感じているのは
私自身なのかも
しれません。
・・・・・・
こんな風に書くと、
いいなぁ、たけうちさんは、
と
思うかもしれません。
でも
真本音で生きる、
なんてことは
誰でもできるんです。
人間であるならば。
というか、
人としての最も
自然な生き方であり、
最も楽な生き方が
真本音で生きる
ということなのです。
いまだに本当に
思うのです。
私ほど、
反応本音のひどかった人間は
いないなぁ、と。
お仕事上、
本当にありとあらゆる人達と
出会います。
面倒な人も
いっぱいいます。
でも、
どんな人と向き合っても
いつも思うのです。
あぁこの人は
以前の私よりは
よっぽどましだ、と。
だからこの人も、
必ず真本音で生きることが
できるはずだ、と。
その私の確信が、
クライアントさんに伝わる
からかもしれませんが、
私のクライアントさんは皆、
真本音度合いを
高めていきます。
ただし、
それは私が
高めているのは
ありません。
私が行なっているのは、
つまるところ、
その人に合った
セルフコーチングの手法を
お伝えしているだけのこと
のように
思えるのです。
極端に言うと。
・・・・・・
セルフコーチング。
結局、
自分を変えることが
できるのは、
自分だけです。
孤独でしかなかった私が
なぜ今、
こんなに満たされているのか?
と言えば、
私は私を本気で変えよう
としたからだと思います。
そのために
真本音で生きることに
躊躇はありませんでした。
まるで他人のように
自分と向き合い、
自分に問い、
答えを待ち、
答えが浮かび上がった時に、
時にはその答えに
衝撃を受けたりも
しました。
これが私の
答えか・・・、と。
その答えの通りに
動くことに
かなりの勇気を
要することも
ありました。
でも私は恐らく、
ほぼ100%、
自分の答えを
実践してきたと思います。
その結果が
今です。
そして今は、
どんな答えが出ても
へっちゃらで
その答えに素直に
行きます。
それがどれだけ
刺激的で面白いことかを
身をもって
実感しているからです。
今の私の生き方に
難しいことは
一つもありません。
自分の真本音に
素直に次の一歩を
決める。
・・・それだけのことです。
セルフコーチングとは
要するに、
それだけのことをする
ためだけのもの。
あまりに
シンプルなゴール。
でも
シンプルであるが故に
難しいのかも
しれませんね。
昨日までの記事の
続きを書こうと思って
いたのですが、
ちょっと脱線してしまいました。
明日は昨日の
続きを書こうかな、と
今は思っています。笑
つづく
私達の心は
「現実」によって
翻弄されます。
翻弄されないように
生きていこうと
どれだけ思っても、
翻弄されてしまいます。
なぜなら
私達の心は
「現実」によって
反応するように
もともと
できているからです。
それが、
私達の心の仕組み
だからです。
この、
反応・翻弄されるように
できている心を
『反応本音』
と言います。
反応本音は
常に揺れ動いています。
しかし
だからこそ、
喜びを感じたり
幸せを感じたり
することもできます。
心の揺れ動きを
きちんと感じ取れるのは
健康である証です。
「たけうちさん、
私はこんな辛い目に
遭いました。
もう会社を辞めようと
思ってしまいました。
私は大丈夫でしょうか?」
「会社を辞めたいと
思ったのでしょ?
ちゃんと心が
揺れ動いているじゃ
ないですか。
健康的ですね。」
いつも私は
このようなやり取りを
しています。
「現実」に対して
きちんと翻弄されている内は
大丈夫です。
それが
麻痺するようになることこそ
私が最も深刻だと
思う事態です。
・・・・・・
「私には
怖いものはありません」
と言われる人と、
これまで私は
数多く出会ってきました。
実は、
昔の私も
そう思っていた時期が
あります。
ですから
よくわかるのです。
これは不健康だな、
と。
怖いものが
ないはずがありません。
もし本当に
「怖いものがない」
と思うのであれば、
それは、
心にフタをしている
ということです。
そして、
心の麻痺が
始まっているという
ことです。
もしくは、
単なる自己顕示かな。
私はこんなに
凄い人間だ、という
自己顕示欲が
怖さを麻痺させることが
あります。
いずれにしても、
普通の状態では
ありません。
・・・・・・
翻弄されるように
できている心が
「反応本音」であるならば、
どのような「現実」に
対しても
揺らぐことのないもの、
・・・それは、心というよりも
魂と言った方が良いですが、
それを私は
『真本音』
と呼んでいます。
真本音度合いが高まる
ということは、
真本音の意思に基づいて
動く度合いが高まる
ということですが、
それが高まることで
私達は
揺るがない自分
安定した自分
になれます。
しかしそれは決して
怖さがなくなる
ということではありません。
むしろ、
真本音度合いが高まるほどに
怖さに敏感になります。
怖いものは
怖い、
と素直に感知できるように
なります。
もう少し言葉を変えれば、
あらゆる反応本音を
素直に感じ取ることが
できるようになります。
しかし、
どれだけ怖さを感じても、
どれだけ反応本音を
感じても、
それは感じているだけ。
それにより
次の一歩が揺らぐことは
ありません。
一方、
幸せについても
かなり敏感に感じることが
できるようになります。
これまで感じなかった
ちょっとしたことに
深い喜びを得たり、
人としての
嬉しさを覚えたり。
嬉しさも
悲しさも
怒りも
怖さも
あらゆることを
あるがままに
そのままに
感じ取る感性が
豊かになります。
でも、
それによって
不安定になることは
ありません。
あらゆることを
感じながらも、
自分が決めた一歩を
ずっと
出し続けることが
できるのです。
それが、
真本音で生きる
ということです。
それが、
人としての喜びを
最大化する
原則です。
・・・・・・
セルフコーチングとは
本来、
真本音度合いを高める
ものでなければ
意味はありません。
つまり、
人としての喜びを
増やす方向に
行くためのものです。
「人生」とは
翻弄されるもの。
「現実」とは
翻弄されるもの。
でも、
だからこそ
面白い。
そのように
無理なく自然に
感じ取れるようになる。
それが
セルフコーチングの
本質です。
その本質に基づいた
セルフコーチングの手法を
これから私は
意図的に様々な形で
世の中にご紹介させて
いただこうと思っています。
もちろんこのブログも
そうですし、
メルマガも
始めようかな、と
思っています。
セルフコーチングの
講座やセミナーも
やってみようかな、とも。
まだ企画段階ですが、
これまでにないものを
生み出せる予感が
あります。
楽しみにしていて
くださいね。
つづく
「命の捧げる」
というと、ちょっと重いイメージが
ありますか?
自己犠牲的な
ニュアンスを感じますか?
私達は自らの命を
捧げています。
誰に捧げているかと言いますと、
自分自身に捧げています。
この3次元世界においては
時間は過去から未来へと
一方向に一定のスピードで
流れ続け、
その流れに乗る私達の命は
時間という視点から見れば、
限られています。
その限られた命を
私達は自分自身に捧げ、
自分自身に委ねています。
この命をどう使うか?
をすべて
自分に委ねています。
命の使い方。
これを
『使命』
と言います。
この言葉もちょっと
重い感じがしますか?
でも私達の真本音は
自分自身の命の使い方、
つまり使命を
決めています。
どうせ限られた時間であれば、
その中で
何のためにどのように
この命を使うか?
を明確に決めています。
自らが真本音で決めた
その使命に
素直に生きている人は
内側からエネルギーが
湧き続けます。
常に魂と心が満ちている
非常に安定した状態
となります。
その結果、
どのような現実が
目の前に現れても、
どことなく常に
「ゆとり」
があります。
そして、どのような現実に
対しても
しっかりと向き合い、
納得の一歩を出し続ける
ことができます。
結果として、
現実は開かれていきます。
しかし残念ながら、
自らが決めた命の使い方を
していない場合は、
私達の心は非常に
脆弱になります。
ちょっとしたことで
すぐに揺れ動き、
外的な要因に左右され続け、
人生のハンドルを
外部環境の何物か、
つまり、自分以外の何物かに
握られ続けます。
自分の人生なのに、
自分でハンドルを
握っていない。
その不安定さ。
その不安。
それがあるために、
常に何かを恐れ続けて
生きることになります。
同じ人なのに、
使命に素直か
そうでないのか
によって、
真逆の自分になります。
真逆の人生に
なります。
何が幸せか?
何をもって
成功と言えるのか?
それは
その人その人それぞれ
です。
現実・現象レベルで
どうなっているか?ではなく、
その人の生き方そのもの
つまりは
使命に向かっているかどうか
によって、
その人の抱く
幸せ感や成功感は
は左右されます。
そういった意味で、
自分の命を
自分とは分離して
捉えることを
私はお勧めします。
自分=命
ではなく、
自分は、
この与えられた命を
どう使おうか?
というように、
命を与えられたプレゼントのように
見つめるのです。
そう捉えた時、
あなたの命は今、
どこにありますか?
あなたの体の
内側にありますか?
それとも
外側にありますか?
あなたが命を
包んでいますか?
それとも
あなたが命に
包まれていますか?
その命は今、
どのくらいの輝きを
放っていますか?
その光は
何色ですか?
その光は
輝きを日々、
増していますか?
それとも
輝きが
減退していますか?
その命の光を見つめると、
命からあなたへの
メッセージを感じますか?
もし感じるとすれば、
あなたのその命は
あなたに何を
伝えようとしていますか?
・・・このように
自分自身の命と
対話をしてみると良いですね。
これはつまり、
真本音との対話と
本質的には同じものです。
命を大切にするとは、
自分を大切にする
とは少し異なるものです。
命を大切にするとは、
命との対話を大切にし、
命からのメッセージを
大切にし、
命の使い方を
大切にするという
ことなのです。
つづく
さて・・・。
今回は、
「15タイプ」
ということについて
書かせていただきます。
実は、これについて
こういった不特定多数の方々が
ご覧になるブログのような場で
書かせていただくのは
初めてではないかな、
と思います。
なぜならこの内容については、
人によってはかなりの
誤解や偏見を
生んでしまう可能性が
あるからです。
ですから、
これについては
これまでは口頭で
かなり慎重にお伝えする、
ということを大切にして
まいりました。
しかし、状況的に
そうも言っておられなく
なりました。
今年に入ってから、
私は様々な
「15タイプによる影響」
と遭遇してきました。
その頻度は、
昨年までの比では
ありません。
初めてお会いする企業様で
組織活性化において
かなり深刻なご苦労を
されている場合、
今はその根本原因のほとんどが
15タイプによる影響だった、
と言って差し支えないでしょう。
ですから一つの情報として
これについて書かせていただくことは
かなり有用ではないか、と
考えた次第です。
では、
「15タイプ」について
書かせていただきます。
前回の記事で、
「エンティティ」について
書きました。
(→前回記事)
「15タイプ」とは
そのエンティティを
普通の人の6倍以上
抱え込んでしまっている人の
ことを言います。
15タイプの「15」とは
「真本音度合い1.5%の人」
という意味です。
私は個人や企業様での
サポートにおいて、
「真本音度合い」を
かなり詳細な数値(%)として
把握します。
数値化することで、
きめ細やかなサポートが
できるからです。
ここではその詳細は
書きませんが、
「真本音度合い1.5%」
というのは、
人間としてこの世に存在できる
最低の数値であると
言ってよいでしょう。
つまり、
真本音度合いが1.5%未満では
私達の心と、そして魂は
存在できなくなるのです。
私達が「存在」するための
「生物」としての臨界点が
真本音度合い1.5%なのです。
その最低値まで
真本音度合いが落ちてしまっている
人のことを
「15タイプ」
と呼んでいます。
最低値ですので、
それはもう大変なことです。
割合としては、
滅多なことでは遭遇しない
タイプです。
私達人間は、通常、
真本音度合いが
高まれば高まるほど
人としての「幸せ」な感覚に
包まれます。
魂も心も満たされた
感覚となります。
その結果常に
ゆとりを持ち、
安定感や安心感を伴いながら
生きることができます。
15タイプとは
その真本音度合いが
最低ということですから、
人間としては
最も苦しい状態となります。
ところが・・・。
真本音度合いが1.6%までは
確かに苦しいのです。
苦しいことを
苦しいと感じるのです。
しかし最低値の1.5%にまで
落ちてしまうと、
苦しさの限界を超えて
しまうのです。
その結果として、
「麻痺」
が起こります。
いや、
麻痺だけならまだ
ましです。
かなり表現は悪いのですが、
あえて言えば、
覚醒剤を打ったような
状態となるのです。
昔、中学の理科の授業で
カエルの解剖を
したことがありました。
その時、解剖するカエルは
麻酔液の中に
全身を浸けられます。
そうなるとカエルは
恍惚とした表情となります。
その表情のまま、
解剖をされていくのです。
解剖をされながらも
恍惚としている
そのカエルの表情が
当時の私としては
かなりショックだった
覚えがあります。
それに近いです。
15タイプの人は、
その不自然な恍惚の中
で生きています。
ですので
表面上の雰囲気だけを見れば
非常に自信に溢れて
いる人が多いです。
ところが、
本質的には、そのような
苦しみの極致にありますので、
その人には
通常では考えられない
大量のエンティティが
発生するのです。
そのエンティティ量は、
私の体感で表現すれば、
普通の人の6倍以上
ということなのです。
私がこの15タイプについての
お話をなぜ公ではしないかと
言いますと、
これを聴いた人が
「あの人は15タイプではないか?」
と勝手に
疑心暗鬼になりながら、
人と関わるようになることを
危惧するからです。
ですので、あえて
書きますが、
かなりひどい表現でここまで
書きましたが、
それでも、15タイプの人も
ただの人間です。
悪魔でも妖怪でも
ありません。
人間である以上、
もちろん、15タイプに落ちて
しまったとしても、
再び、誰もが浮上します。
人は、
進化を望む生き物
だからです。
ただ、15タイプの人の
エンティティは
なかなかに凄いものがあり、
その影響によって
人や組織が
「我を失ってしまう」
状態になることがあります。
そんなケースが
最近、多発しているのです。
ということで、
次回以降、
15タイプの特色と
最近、企業や組織において
どのような影響が広がっているか
について、
書かせていただきます。
つづく