悔恨の浮上は、解放である

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砂漠のような

ところに

私はいる。

 

夜だ。

 

星は

出ている気配は

ない。

 

漆黒の闇が

私を覆っている。

 

私は

四つん這いの

ような格好を

している。

 

私の両手は

砂を掴んでいる。

 

私の手は

震えている。

 

渾身の力で

砂を

掴んでいる。

 

私の目からは

止めどなく

涙が

溢れ続けている。

 

私の表情は、

自分では見えないが、

恐らくは、

鬼のごとき

怒りの表情か、

もしくは、

情けなさの極みの

ような、

深い悲しみの

表情か。

 

私の心の中には

チクショー

チクショー

チクショー

・・・

という私自身の

叫びが

こだまし続けている。

 

悔恨の

念。

 

あまりにも

深い

悔恨の念。

 

私は

その塊だ。

 

怒りはすべて

私自身に

向けられていた。

 

悲しみはすべて

自分の人生

そのものに

向けられていた。

 

人に対する恨みも

きっと

とてつもなく

大きなものだったろう。

 

しかし

それをかき消すくらいに

私は私を

責め続けていた。

 

・・・・・・

 

この情景は、

記憶なのだろうか。

 

よくわからない。

 

しかしそれは

紛れもなく

「体験」だ。

 

「体験」として

私のこの体に

そして

魂に刻まれている。

 

この情景を

思い出したのは、

そんなに遠い

昔ではない。

 

確か、

17〜8年前だ。

 

当時の私はすでに、

今のお仕事を

していたが、

「真本音」とは

まだ出会って

いなかった。

 

この「体験」を

思い出してから

だろうか。

 

私の人生は

大きく

向きを変えた。

 

・・・・・・

 

「体験」の浮上。

 

失われていた「記憶」

の浮上。

 

これは、

決して悪いことでは

ない。

 

「浮上」とは

「解放」を意味する。

 

逆に言えば、

「浮上」していない

ということは、

自分の知らぬところで

それらに自分は

「支配」されている

ことになる。

極端な表現であるが。

 

私のその「体験」の

「浮上」の前は、

恐らく私の人生は、

それに「支配」された

ものだったろう。

 

つまりは、

そのあまりにも深い

悔恨。

 

これに苛まれ、

これを打ち消すために

私は

生きていたのだろう。

 

悔恨を

打ち消すための

人生。

 

悔恨から

逃げるための

人生。

 

別の視点から言えば、

それまでの私の

人生は、

「償いのための人生」

だったのだと

思う。

 

自分を責め続け、

そんな自分は

「償いのために生きよう」

と決め、

それをすべての

モチベーションの源泉

とした。

 

恐らく、

こういう人は

多い。

 

もちろんほとんどの

人には

自覚はないだろう。

 

しかし、

はっきり言おう。

 

自分を

責め続けることを

自分の中心とし、

 

悔恨から

抜け出すことを

人生の目的とし、

 

償うために

生きる、

 

ということは

自分自身の

本来の力の

1割をも

発揮できない人生になる。

 

・・・と。

 

償いたいことが

ある。

 

だから、

償うために

人生を生きる。

 

・・・これでは

一生をかけても

償いは成就しない、

のだ。

 

真の償いとは、

 

『自分自身を

真に幸せにすること』

 

である。

 

自分が

真に幸せにならねば、

自分が

周りを幸せにすることは

不可能だ。

 

この当たり前の

事実は、

もちろん頭ではずっと

わかってはいたが、

 

本当に

紛れなく淀みなく

本当に

心と魂の底から

そう断定できるように

なるために、

私はこの10数年間を

費やしたように

思う。

 

人生は

修行である。

 

もちろん、

そうだ。

 

しかし、

人生は修行である

言い続けているうちは、

真の自分には

近づけない。

 

自分の本当の

人生の目的には

到達できない。

 

人生は

修行である、

というのは

自己満足の行為だ。

 

償いを目的に

するのも、

自己満足だ。

 

自分も周りも

誰もが

それで真の悦びを

得ることは、ない。

 

身も心も魂も

そのように

断定できるように

なったとき、

初めて私達は

本当の人生を

始めることができる。

 

初めて私達は

自分の使命を

知ることができる。

 

何のために

ここにいるのかを

ありありと

知ることができるのだ。

 

つづく

 

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