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- 後悔
私達は人生において
様々な後悔を
するが、
自分が
自分自身の真本音を
無視した生き方をする
ことによる後悔ほど
大きい後悔はない。
特に
人生の終わりに
その後悔に
苛まれる人が
多い。
そういった人を
実は私は
たくさん拝見してきた。
その後悔は
すさまじく、
それを感じるにつけ、
私はとてつもなく
悲しくなった。
だからいつも
本当に思う。
人生は
いつ終わるか
わからない。
今この瞬間、
今ここで、
ちゃんと
自分の真本音を
自分が
大事にしよう。
自分は本当は
何を願っているか?
自分は本当は
何を望んでいるか?
本当はどんな人生に
したいのか?
本当はどんな生き方を
したいのか?
本当は
誰のために
どう生きたいのか?
私達は残念ながら
過去に戻ることは
できない。
決して。
だから深く
後悔する。
後悔のない
人生を。
当たり前のことだが
とても大切な
ことだ。
今ここで
今この瞬間から
真本音を
大切にしよう。
つづく
頭のてっぺんから
足の先まで、
身体の中を
川の流れのように
エネルギーが
流れていく
イメージをしよう。
気持ちよく
天から地に
エネルギーが
流れていく。
その流れに
全身を委ね、
そして
身体の内側を
そのエネルギーで
洗うようなイメージだ。
身体の内側に
シャワーを浴びる
イメージだ。
それをした時に、
身体のどこかに
滞りは
ないだろうか?
川で言えば
まるで岩があるかの
ような箇所。
そこだけ
流れがいったん
止まってしまったり、
淀んだり、
濁流が起きたり、
水が死んでしまって
いるかのような箇所。
別の表現で言えば、
そこだけ
まるで異物があるかの
ような箇所。
腫れ物が
できてしまっている
ような箇所。
それは
ないだろうか?
もしあれば、
その異物の部分に
意識を向けてほしい。
可能であれば、
その異物の色とか
形とか
重さとか
固さとか、
そういったものを
感じ取ってほしい。
あまり具体的に
できない場合は
その異物の
存在だけ感じ取れば
いい。
そして、
その異物に
じっと
意識を向け続けて、
その異物の
声を
受け取ってみるといい。
声でなくても
いい。
その異物の「訴え」
のようなものを
感覚で掴んでもいい。
「私に何を
伝えたい?」
と、
異物に訊いて
みてもいい。
恐らくそれは
その異物は
あなたの
「後悔」
だ。
「悔恨」
だ。
今、ここに来て
後悔や悔恨の気持ちが
浮上してきている人が
多い。
それは、
実は、
とても良いことだ。
「浮上」というのは
「解消」の前兆だからだ。
しっかりそれを
存在承認し、
その声や訴えを
聴いてあげてほしい。
自分自身を
カウンセリングする
ような感じだ。
そして
その異物を
癒してあげてほしい。
よしよし、と
手でさすってあげて
ほしい。
もしかすると
だいぶ、感情が
出てくるかもしれない。
それでいい。
すべて
存在承認。
以上をしっかりすれば、
異物は癒され、
心はニュートラルに
戻るはずだ。
そうなったら、
自分自身に問おう。
もう二度と
同じ後悔をしないために
今日から
明日から
何を大事にし、
何をしようか?
と。
ここからまた
スタートだ。
つづく
たとえ今日で
人生が終わって
しまっても、
私には
後悔は一つも
ないだろうな。
いやいや、
やり残したことは
たくさんあるし、
これからやりたいこと
実現したいことも
たくさんあるし、
何よりも
家族もいるし、
仲間もいる。
いろんなことを
残して
去って行くのは
とても悲しいことだが、
でもやはり
「後悔」には
ならないだろうな。
え? いや、
ご安心を。
私はあとまだ少なくとも
27年は
生きるから。
でも、今日
ある社長さんの
コーチングをしながら
ふと
そう思えたんだ。
本当に私は
今、
「後悔」というものが
ない、と。
「ああしとけば良かった」
が、
一つもないのだ。
・・・・・・
もちろん
上手くいかないことは
たくさんあるし、
試行錯誤
ばかりだ。
でも、
ちゃんと
試行錯誤すべきを
試行錯誤して来た。
経験すべきを
経験して来た。
と思うんだ。
たとえ今から
タイムマシンで
過去に戻ったとしても、
今日までの記憶が
あるままに
過去に戻ったと
しても、
私はきっと
過去と同じ選択を
し続けるのだと
思う。
それが
「最善」
だから。
・・・・・・
な〜んて
本当に思えるように
なったのは、
この7〜8年
くらいかな。
でもこの7〜8年は
そういう日々が
続いている。
これが
真本音で生きる
ということだ。
もちろん
今も私は
未熟だ。
真本音で生きる
とは
「完成された人生を生きる」
ということではない。
「完成」などないし、
人間はずっと
未熟だし、
だからこそ
「進化」を
し続ける。
真本音で生きる
とは、
その「進化」を
存分に楽しむ生き方
だ。
最大に味わう生き方
だ。
だからこそ
「後悔」がない。
とはいえ、
「後悔のない人生を
生きよう」
などと
意気込む必要もない。
真本音で生きれば、
自然に
そうなるのだからね。
つづく
後悔したことが
一度もない人は
一人も
いないだろう。
後悔は
疲れるし、
できればしたく
ないものだが、
後悔があるからこそ
人は
成長できる。
どうせ後悔するなら、
徹底的に
後悔した方が
よい。
とことん
落ちればいい。
心が
落ちていく。
それが無限に
続くことは
あり得ない。
もし無限に
続いていると
感じるならば、
それは
本当は
落ちて行っていない
のだ。
同じ場所で
ずっと
バタバタともがいている
ということだ。
同じ場所に
いるから、
しかもそれは
苦しみの場所だから、
その時間が
無限に続いて
しまう。
落ち方が
中途半端
だということだ。
落ちるならば
徹底的に
落ちること。
そうすれば
必ず
「底」
に着く。
「底」まで
たどり着けば、
あとは
浮上するだけだ。
「底」まで行き、
「底」を存分に
味わえば、
私達には
「完了感」
が出る。
そうすれば
自然に
浮上が始まる。
中途半端にもがく
のではなく、
徹底的に落ちる
ために
必要なことは、
最も見たくない
自分自身の心を
思い切って
見つめることだ。
それは
怖いことかも
しれない。
いや、
ほとんどの人が
本当に恐怖する。
しかしそれは
見ないから
そうなる。
見てしまえば、
その瞬間から
恐怖は消える。
そして、
なんだこんなもの
だったのか、
と
大抵は思う。
こんなんだったら、
もっと早く
見ておけば
よかった、と。
私達の心は
見ないうちは
とてつもなく
暗く怖いものだが、
光を当ててしまえば、
可愛いもんだ。
「いや、絶対に
私の心はそうじゃない」
と言い張る人も
よくいるが、
騙されたと思って
見てほしいのだ。
私達人間の
心は
可愛らしい。
もし
その可愛らしさが
なくなってしまった
のだとしたら、
その原因は
見ていないから
だ。
ちゃんと見れば、
可愛らしくなり、
見なければ、
もしくは
無視をし続ければ、
どんどん
暗黒になっていく。
それが
私達の心。
後悔するより
反省すること。
・・・なんて
難しいことを
言っていないで、
しっかり
とことん
後悔すればいい。
で、
浮上を始めれば、
楽になり、
そこからまた
自然に
反省が始まる。
人生なんて
失敗だらけじゃ
ないか。
人間なんて
未熟だらけだ。
それで
いいじゃないか。
ちゃんと
後悔する人は
自然に
そう思えるように
なる。
行っちゃえ!
徹底的に
落ちてしまえ!
で、
早く
楽になろうよ。
つづく
後悔しても
後悔しても
後悔しても
足りないことが
ひょっとすると
あなたの人生には
あるかもしれません。
その出来事以来、
あなたは
大切な何かを
失くしてしまった。
それを
常に探し続けては
いたけれど、
ただ、
探し続けていただけで、
実は
もう見つからないだろう、
と
その時からずっと
あきらめてしまっている。
あきらめては
いるのに、
しかし心のどこかで、
ずっとずっと
探し続けている。
まるで
地面を這いずり
まわるかのように。
ずっと
探し続けている。
・・・・・・
15歳の時。
クラスで一番元気な
級友がいた。
彼はいつも明るく
溌剌としており、
いつも皆を
笑わせた。
そんな彼が
たった一度の
ミスをした。
そのミスで
彼は泣いた。
しばらく
学校を休んだ。
再び学校に
現れた時、
彼は元通りの彼に
見えたが、
しかしその元気さは
空回りのように
私には見えた。
それから
16年後。
31歳の時に、
同窓会が行われた。
久しぶりに彼に
会って、
私は驚いた。
彼は別人のように
なっていた。
あの溌剌さは
微塵もなくなって
いた。
妙にペコペコし、
斜に構え、
ため息ばかり
ついていた。
皆で談笑している時、
何かの折に
彼が独り言のように
つぶやいているのを
私は聴いた。
「あの出来事で
俺の人生、
変わっちゃったから・・・」
16年前の
15歳の時の
出来事。
31年の人生の中で
半分にも満たない
地点での出来事が、
残りの半分以上の
人生を決めた、
そして、ここから先の
人生も
決めている。
と、彼は
そう思っているのだ。
それを知って
私は愕然としたが、
でも
人間とは
そういうものなのだろう。
・・・・・・
私のクライアントさんにも
そういった人は
いっぱいいた。
彼のように
15歳の出来事であれば
まだマシな方で、
もっと小さな
小学生の頃の
出来事とか、
幼少の頃の
出来事とか、
まだ人生の始めの頃の
ある出来事に
ずっと引きずられている
人が多かった。
というよりも、
本当のことを言えば、
誰もがみんな
そうなのかも
しれない。
私達はみんな、
人生における
何らかの出来事に
引きずられながら
生きている。
・・・・・・
私のお仕事の
重要な目的の
一つは、
そこからの
解放
なのだと思う。
あらゆる出来事
からの
解放。
しかしそれは、
これまでの出来事を
否定したり、
消去したり、
書き換えたり、
することでは
決して、ない。
出来事の中に
閉じ込められて
しまっている
自分自身を、
外に出し、
「出来事の中の自分」
ではなく、
「自分の中の出来事」
にするのだ。
過去は
変えられない。
しかし、
過去の捉え方は
変えられる、
とはよく言われるが、
私は
過去の捉え方自体も
別に
変えようとする必要は
ない、と思う。
その捉え方自体も
すべてを含めて、
自分がそれらを
抱くのだ。
大切に
抱く、のだ。
それにより
私達は皆、
自由になれる。
私達は
雲の中に
閉じ込められる。
雲の中にいると、
何も
見えなくなる。
その真っ白な
世界が
すべてだと
思い込んでしまう。
しかし
違う。
私達は
地球だ。
私達は
もっと大きく
もっと揺るがない
存在だ。
地球が
雲を抱いているに
過ぎない。
その雲に
意識の焦点を
当てているに
過ぎない。
あの出来事は
雲の一つだった。
その雲は
とてつもなく
大きな雲では
あるが、
しかし私は
地球なのだ。
あらゆる雲は
地球である私が
抱いている。
そんな事実と
真実に
自ら立ち返ることが
私達には
必要ですね。
つづく
明日の今頃は、
私は
どんな気持ちで
いるのだろうか?
と考えたことは
ありますか?
私はよく
あります。
特に、
「明日」にとても大きな
お仕事が入っている場合は、
ちょっとした緊張感と共に
そんなことを
考えたりします。
しかし、
そこに「不安」は
ありません。
いえ、
正確に言えば、
反応本音レベルの不安は
たくさんあります。
それは人間ですから
当たり前です。
しかし、
その不安をじっと
見つめると、
本当にそこには何もない
ことが瞬時にして
わかります。
私は昔は
かなりの不安症でしたので、
そのクセが
出ているだけなのですね。
不安感を出すという
反応本音のクセ。
そこがそこにあるだけで、
そこを見つめると、
あれ?
不安、どこ行った?
どこにある?
となり、
どこをどう探しても
見つからなくなります。
そしてふっと
力を抜くと、
そこには
「確信」
しかないのです。
・・・・・・
少なくとも私は
2012年からは
真本音100%の人生を
送っています。
もちろんそれは
何ら特別なことではなく
「普通」のことです。
やっと「普通」の自分に
戻れたな、
という感覚です。
真本音100%と言っても、
反応本音がなくなる
ことはありません。
なぜなら、
反応本音とは
真本音がこの世で
生きやすく(行きやすく)する
ために
発生させるものだからです。
つまりは、
真本音と反応本音は
コラボするために
存在しているのです、
本来は。
ですから、
真本音100%になるということは
その時その時に
最も必要な反応本音が
きちんと発生する
という状態になります。
それは極めて
「自分らしい」
状態です。
「自然体」
です。
何の力みも無理も
そこには
ありません。
そして当然のことですが、
真本音100%になった
からと言って、
未来が予測できるようには
なりません。
むしろ、
ますます予測できなく
なりますし、
ますます思惑通りには
進まなくなります。
なぜなら、
私達の真本音は
「未来がわからないこと
こそが大切なこと」
であると決めて
いるからです。
これがこの
3次元の世界の
ルールであり
摂理であり、
そして
面白味の真髄です。
そして、
未来がわからなく
なるからこそ
「確信」
が湧くようになります。
面白いことですが、
未来を予測すれば
するほど、
「確信」は
遠のきます。
未来は
まったくわからない。
わからないからこそ
面白い。
わからないことを
楽しもう。
となれた時に、
「確信」が
湧き始めるのです。
何が「確信」の根拠
なのかは
わかりません。
根拠のない確信。
しかしこれほど
強いものはありません。
根拠ありの確信は
根拠がもしなくなれば、
もうそれは確信では
なくなります。
しかしそれを本当の
確信とは言いません。
確信とは本来。
根拠のないものです。
・・・・・・
とはいえ、本当は
根拠はあります。
(どっちなんだよ。笑)
私達の高い次元では
「すべては一つ」
ですから。
そこでは、
過去も今も未来も
一つです。
確信とはそこから
来るものですから、
そういった意味では
根拠はあります。
でもそれは
この3次元の世界に
生きている私達の頭では
理解不能な領域です。
・・・・・・
真本音に素直に
生き(行き)、
真本音の度合いを
高めれば、
そういった意味での
確信は
毎日、当たり前のように
湧き続けます。
2012年から今日に
至るまで、
もちろん私にとっては
「成功」ばかりでは
ありません。
その時点だけで見れば、
望まない結果は
出ますし、
想定外の出来事や
辛いことも、
もちろんあります。
でも、
例えば、それらをすべて
経験した後の今の私が
タイムマシンに乗って
2012年に戻ったとして、
今のこの記憶のままに
戻ったとしても、
それでも私は
まったく同じ歩みを
するでしょう。
同じ選択を
するでしょう。
それくらいに
後悔はありません。
悔いはありませんし、
本当に最善の
一日一日だったな、と
思えますし、
あの日は
あれ以上の一日は
ないな、
とも思えるのです。
そんな人生、
素敵だと思いませんか?
で、
なんでこんな
自慢話のようなことを
しているかと言いますと、
こういった日々は、
そして
真本音100%の状態は、
すべての人が
可能だからです。
なぜなら、
先ほども書きました通り、
真本音度合い100%こそが
「普通の状態」であり、
「本来の自分に戻れたな」
と実感できる
状態だからです。
みんながそこに
戻れるといいな、と
本当に強く思うのです。
私のクライアントさん達は
次々に
真本音100%になって
います。
そんな方々は
本当に自然体ですし、
実に魅力的です。
こういった人を
一人、また一人と
増やしていきたいです。
とはいえ、
それをするのは
ご本人です。
私はそのための
やり方を
お伝えするだけ
なんですけどね。
つづく
<ご案内>
真本音度合い100%を
目指しませんか?
ご興味ありましたら、
以下の電子書籍と動画をご覧ください。
↓↓↓
『人生を真剣に変えたいあなたへ』
どんなに混沌とした
現実の中でも、
次の一歩
次の一歩
を一つずつ、
真本音で踏み出し続ければ、
必ず道は
開かれて行きます。
そしていつの間にか、
あれだけ混沌と混乱を
感じていた物事が
実は極めてシンプルな
原因の反映だったことが
わかるようになります。
シンプルな原因とは
これまた逆に
シンプルが故に
解決の難易度が
高く感じられますが、
しかし毅然とその原因に
向き合い続けることが
また大切です。
毅然と向き合い、
そして
次の一歩を
真本音で決める。
その連続で
道は開かれて
行きます。
そして気がつけば、
あれ?
何が問題だったっけ?
と、
知らぬ間にその問題を
くぐり抜け、
いつの間にか次の課題に
取り組んでいた
ということも少なくありません。
複雑な問題を
より複雑にさせてしまうのは、
目の前に現実に
揺らされてしまった
反応としての
次の一歩です。
要するに、
反応本音による
一歩です。
それは次の新たな
反応を呼び起こします。
反応に反応し、
また次の反応を起こし、
また反応する。
反応のループ。
それにどっぷりと
浸かってしまうと、
いつまで経っても
出てこれません。
下手をすると、
そのループの中に
いるままで、
人生を終えてしまうことも
あります。
反応のループから
抜け出ること。
抜け出るには
抜け道をしっかり
見つける必要はなく、
反応に踊らされない
毅然とした一歩を
踏み出すこと。
次の一歩が
わかればよいのです。
それが
真本音の一歩であり、
それを続ければ、
だんだんと
遠くを見通せるように
なります。
そのためには、
自らの真本音の意思を
自らが
理解できること。
自覚できること。
それが
セルフコーチングの
重要な目的の
一つです。
・・・・・・
では、
『セルフコーチングを使った
良い後悔の仕方』
の続きをいきましょう。
後悔の念としっかり
向き合った上で、
今度は
真本音との対話に
入りました。
真本音の場所を特定し、
その声を聴くという
ところです。
(→【あなたの中心核はどこだろう?】)
「ここまでの
私と、私の後悔の念との
対話を聴いていて、
どんなことを思った?」
そんな問いを
真本音に投げ、
その答えが返ってきたら、
次の問いを投げます。
それは、
「君が願っていることは
何だろう?」
です。
「君」というのはもちろん、
真本音のことです。
真本音とは
自分自身ですが、
やはりここでも
まるで他人のように
会話をするのがポイントです。
ここで言う
「願っていること」というのは、
後悔したその出来事について
願っていること、
という意味です。
例えば、
Aさんとのやりとりで
後悔するような一言を言い、
Aさんとの関係が
崩れてしまった、
とします。
その後悔の出来事について、
自分の真本音は
何を願っているか?
ということです。
例えば、
「Aさんとの関係を
何としてでも改善したい」
とか、
「Aさんとの関係が改善するか
どうかは別として、
あの一言については
きちんと謝罪したい」
とか。
そういった、
今後の自分の行動に関する
方向性や
具体的な行動が
答えとして返ってくることが
多いと思います。
それは、
本当に会話をしているかの
ように、
「声」として返ってくることも
ありますし、
答えが自然に心の中心核から
浮上してくることも
あります。
私の場合、
時と場合で両方あるのですが、
答えが浮上してくる時の感覚は
何とも言えない
いい感覚です。
その感覚を表現すれば、
一番近い言葉は
「思い出す」
でしょうか。
まるで忘れていたことを
思い出すかのような感覚で
答えが浮かび上がってきます。
あぁそうか、
確かにそうだった、と
合点がいくかのような
感覚で、
その答えに一切の
迷いはありません。
それを私は
「直観」
とも呼んでいます。
直観とは要するに
真本音からの答え
なのです。
しかし慣れないうちは、
すぐに真本音の答えを
キャッチできないかも
しれません。
その場合は、
何度も問いを自分に投げ、
答えを待つ、
ということが基本ですが、
もう一つお勧めの方法を
お伝えします。
それは、
あえてもっと根本的な問いを
真本音に投げてみる、
ということです。
先程の
「君が願っていることは
何だろう?」
という問いは、
後悔した出来事に関する
願いを訊いていました。
しかしもっと
根本的な問いに
変えてみるのです。
例えば、
「君が人生において
いつも願っていることは
何だろう?」
などのように。
根本的な問いにする方が
答えは難しそうな印象ですが、
根本的な問いは
答えが抽象的になりやすく、
真本音の場合は
そういった抽象的な答えを
掘り起こす方が
難易度が低くなるのです。
根本的な問いを投げ、
たった一つのキーワードで
よいですから
キャッチしようとします。
「君が人生において
いつも願っていることは
何だろう?」
すると例えば、
「楽しさ」
というような
キーワードが浮かんだり
します。
すると、それを使い、
「では今回も、
楽しさを大事にすると、
君は、今回の出来事について
何を願う?」
というように問います。
すると
「楽しさ」という言葉が
アンテナの役割を果たし、
真本音からの答えを
キャッチしやすくなるのです。
この特性を活かし、
私は初めて真本音と対話を
する人については、
「真本音の人生理念出し」
というセッションを
行ないます。
「自分はどんな時も
どんな生き方を大事に
したいか?」
を真本音に問い、
キーワード化します。
それを「人生理念」と
呼ぶのですが、
この人生理念をアンテナにして
常に真本音と
対話をしてもらうように
するのです。
真本音との対話で
気をつけていただきたいのは、
真本音と対話をしているつもりで、
実は単に頭の中で
解釈を繰り返しているだけ、
という人がいます。
頭の中の思考や解釈と
真本音との対話は
根本的に異なる行為です。
この区別がつくように
なることが、
セルフコーチング力を高める
最初の関門です。
つづく
後悔の念が生まれたら、
まずはその後悔の念と
しっかり向き合うこと。
それにより、
後悔の念をしっかりと
理解すること。
これが、
「後悔」を「未来」につなげて
いくための必須のことです。
後悔から逃げてしまうと
せっかくの「未来」が
開けなくなります。
後悔とは、
チャンスです。
(→前回記事)
後悔の念を
しっかり理解することで、
その「念」は
それだけで随分と
浄化されて軽くなります。
その状態になれたら
次に私達がすべきは、
自分自身の
「真本音との対話」
です。
言ってみれば、
ここまでは
自分の中に湧き上がった
「反応本音との対話」
をしてきたわけです。
反応本音をしっかりと
理解したら、
次に行なうのが
「真本音との対話」
なのです。
これも、
単に「思考する」とか
「発想する」というのとは
異なる行為をします。
自分自身の真本音と
まるで他人のように
向き合い、
真本音からの声を
キャッチするのです。
・・・・・・
まずは、
真本音の場所を
特定する必要があります。
私のセミナーや研修や
コーチングを
受けていただいた方は
その場所がすでに
ある程度わかると思います。
まだ受けていただいて
いない方の場合は、
次のことをするとよいでしょう。
まずは
自分の体の中心軸を
感じます。
「中心軸」というのは、
おへその奥の体の中心と
頭のてっぺんの中心を
結んだ線です。
その「中心軸」を
まずはしっかりと
感じ取ってください。
人によっては
それだけでもう
真本音発想の始まる
ケースもあります。
「中心軸」を意識する
だけで、
シャンとした
「本来の自分」に
戻れる感覚が
あるかもしれません。
もしここで、
「中心軸」を感じ取ること
自体が難しい場合は、
まだまだ「後悔の念」との
対話が不足している
ということです。
その場合は、
今一度、「後悔の念」を
理解しようとするための
対話を続けてください。
反応本音をある程度
浄化することができて
初めて、
私達は自らの真本音を
感じ取る感性を
取り戻せるのです。
さて。
「中心軸」を
感じ取ることができたら、
次に、
その中心軸上のどこかに
自分の
「中心核」
となる場所があります。
「中心核」とは、
「ここが自分の中心だ」
と思える場所のことです。
中心軸上のどこか
にあるはずです。
その場所を
特定してください。
なかなかわからない場合は
「ここに私の中心核が
あってほしいな」
と思うところで結構です。
・・・・・・
「中心核」の場所が
わかりましたか?
そこが、
あなたの真本音の
場所です。
ここが特定できましたら、
今度はその
真本音の場所に
意識を向けます。
すると、そこに
何かが観えてくると
思います。
もしくは、
人によっては何かを
感じるだけ、
というケースもあります。
できれば、
「何か」がしっかりと
観えるまで
意識を集中していただけると
よいですね。
例えば、
そこに意識を向けると、
「とてもまばゆい光
があります。
それは緑色に輝いて
います」
とか、
「大樹の根っこのような
ガッシリとしたものが
あります」
とか、
「すごく柔和な笑顔
が浮かんでいます」
とか。
人によって様々な
ものが観えます。
ここで大切なのは、
それは
無理にイメージした
ものではない
ということです。
自然に浮かぶものが
よいです。
自然に浮かぶものは
「実在」
です。
単なるイメージとは
「幻影」
です。
「実在」と「幻影」は
本質的に異なるものです。
「幻影」は単なる
イメージですので、
次々に変化します。
儚く消えたりします。
「実在」とは
そこに本当に実在する
ものであり、
この現実世界における
「現象」を生み出す
大本のようなものですから、
そこに意識を向ければ、
いつでもそれがそこに
在ります。
それは
絶対的な存在感
です。
その「実在」を
特定できたら、
いよいよ真本音との
対話です。
・・・・・・
まずは、
その「実在」である真本音に
次のように問いかけます。
「ここまでの
私と、私の後悔の念との
対話を聴いていて、
どんなことを思った?」
と。
そう問いかけたら、
「答え」を
待ってください。
その「答え」は
まるで本当に会話を
しているかのように、
言葉として
返ってくると思います。
もしくは、
そうでない場合は、
自然に意識の塊のような
ものが、
浮かんでくるかも
しれません。
いずれにしても、
「答え」を
待っていてください。
もし何も返ってこない
場合は、
返ってくるまで
待ちます。
今はまだ全然、
返ってくる気配がないなぁ、
と思ったら、
問いだけをそこに残して
セルフコーチングそのものを
中断します。
そして、思い出した瞬間に
何度かその問いを
自分の真本音に投げてください。
それを続けていると、
ある瞬間にふと、
「答え」が浮上してくる
ことがあります。
そうなるまで、
何日もかかるかも
しれません。
しかしそれは単に
慣れていない
というだけのことです。
慣れるまでは
時間がかかるかも
しれませんが、
原則は同じです。
つまり、
「問うて、待つ」
のです。
つづく
人はなぜ
後悔するのでしょうか?
後悔にも
様々なものがあります。
次元の低い後悔も
あれば、
次元の高い後悔も
あります。
次元が低いからダメ
という話では
ありません。
高くても低くても
後悔ときちんと
向き合いながら進むことは、
間違いなく私達に
進化をもたらします。
ただ・・・。
一つ、しっかりと
お伝えしなければ
ならないことがあります。
それは、
後悔には
「真本音の後悔」
もある、という
ことです。
・・・・・・
「真本音の後悔」
とは、
正確に表現すれば、
「真本音が
もたらしている後悔」
と言えば
よいでしょうか。
どういうことかと
言いますと、
一言で言えば、
「後悔のその奥に
願いあり」
ということです。
つまり、
真本音レベルの非常に
強い願いがあり、
その願いに気づくための
後悔の経験であった、
と。
その後悔が
あったからこそ、
自らの真本音の願いに
気づくことが
できた、
と。
願いに気づくための
重要な経験としての
後悔。
ということです。
しかも、
そういったもので
あればあるほど、
後悔の念は
深く、強く
なります。
ある意味、
立ち直れなくなるくらいの
魂が慟哭するかのような
後悔。
それが、
真本音のもたらす
後悔です。
ところが、
そういった強い後悔からは
どうしても私達は
逃げたくなります。
その後悔と
向き合うことは
非常に辛いことです。
そこでその後悔から
逃げ続ける一生を
続ける人も多いです。
でもそれは、
自らの真本音の願い
に気づくチャンスを
逸していることになります。
何のために
自分の人生が
あるのか?
自分は
何に向かって
生きていけばよいのか?
その大事な大事な
答え、
人としての
幸せをもたらしてくれる
答えに
気づくチャンスを
逸していることになります。
・・・・・・
では。
後悔との向き合い方。
後悔についての
セルフコーチング法の続き
をいきましょう。
(→【後悔する自分を責めてはならない】)
後悔の出来事の中でも
自分が特に
どのポイントにおいて
深く後悔しているか?
を特定するところまで
きました。
それが特定できたら、
次にまた
とても大事な質問を
「後悔の念」に対して
投げます。
それは、
「君は私に
何を伝えたいの?」
もしくは、
「君は私に
何をわかってもらいたいの?」
という問いです。
これも、
自分自身の「後悔の念」を
理解しようとする
質問です。
理解しようとすることで
自分自身との
信頼関係を深めていきます。
この問いに対しての
答えとは、
多くの場合
反応本音レベルのもの
です。
例えば、
「もう俺は嫌なんだよ。
逃げたいんだよ!」
とか、
「俺がこんなに苦しんで
いることを
知ってもらいたいんだよ!」
とか、
「俺はもう、
あいつとは一緒に
やっていけないんだよ!」
とか。
そしてここから先は、
まるでカウンセラーになった
気持ちで、
自分の後悔の念と
向かい合ってください。
「それは
どういうことなの?」
「もう少し
詳しく教えてくれる?」
「どんな理由から
そう思うの?」
「そう言いながらも、
本当は私に
何を伝えたいの?」
「本当に、一番
解消してもらいたい
苦しみは何?」
「私に直してもらいたい
ことはある?」
「私にしてもらいたい
ことはある?」
「君はどうすれば、
もっと楽になれる?」
「君は本当は
何を望んでいるのだろう?」
「君は何のために、
私の両肩に乗っかっている
と思う?」
「君の切実な
願いとは何だろう?」
・・・などなど。
すべてが
「理解しよう」
とするための質問
です。
大切なのは、
返ってくる答えに対して
いっさいの
評価・判断をしないこと。
つまりそれは
否定をしないことは
もちろんですが、
肯定もしないこと
です。
否定も
肯定も
なし。
「知ろう」と
するだけです。
「あなたのことを
もっとよく知りたいんだ」
という意志を
その後悔の念に
向けていきます。
「愛」
という言葉がありますが、
愛のファーストステップは
「理解しよう」
という意志です。
私は、「愛」というのは
「エネルギー」だと
思っていますが、
「理解しよう」という
意識を向けることで、
そのエネルギーは
発生し、相手に
伝わります。
これは、
他者との人間関係でも
まったく同じですね。
・・・・・・
「理解しよう」という
愛のエネルギーを
受けることで、
後悔の念はさらに
浄化されるでしょう。
ポイントは、
その「後悔の念」が
最も伝えようとしていること、
わかってもらいたいと
思っていることを
ピンポイントで
特定・理解することです。
そこが特定できれば、
後悔の念は
ほぼほぼ浄化されます。
両肩がかなり
軽くなるのを
感じるでしょう。
そうなったところで
初めて、
いよいよ
「真本音」の
登場です。
つづく
後悔の念とは、
私達の頭の中ではなく、
体のどこかに
溜まります。
それが
「念」
というものです。
(→【体が感じているものとは?】)
セルフコーチングとは、
体のどこかにある
その「念」と
ダイレクトに対話を
します。
まるでそれが
他人であるかのように
向き合いながら、
対話をします。
対話の基本は
「問うて、待つ」
こと。
そして
自然に浮かんだメッセージを
「素直に伝える」
ことです。
例えば、
後悔の念が
両肩に溜まっていたと
します。
両肩に意識を向けると、
まるで黒い大きな岩が
乗っかっているような
重みと苦しさを
感じたとします。
その「岩」の重みを
しっかりと
あるがままに
感じ取ることが
スタートです。
感じながら
実況中継をすると
良いでしょう。
「この重みは
かなりキツイですねぇ。」
「重いだけでなく、
首の根元辺りに
痛みも来ていますねぇ。
まるで鋭利な刃物で
えぐられるような
痛みが時々、
ググッと来ますねぇ。」
「それからこれは
何でしょうか?
時折、何とも言えぬ
気持ち悪さも
ありますねぇ。
これは何でしょうか?
まるでナメクジがまとわり
つくような、
ヌメヌメとした
何とも言えない気持ち悪さ、
これはなかなかですねぇ。」
「あぁ、この黒い岩は
悪意のような気もしますね。
人の悪意の塊の
ようでもあります。
これはどんな悪意
なのでしょうか?」
・・・などなど。
実況中継を始めると、
単なる「重み」を
さらに観察し、
さらに詳細に感じ取ることが
できるようになります。
ここが
ポイントなのです。
詳細に感じることが
できればできるほど、
それは
「客観性」
となります。
この「客観性」が
大事です。
まるで他人のように
自分と
向き合うためにも。
・・・・・・
さて、このような
「重み」を両肩に感じたと
します。
両肩に乗っかっている
黒く大きな「岩」。
それが、
あなたの「後悔の念」
です。
この「念」に対して、
あなたは
何を問いかけてみたい
ですか?
ここで大事なのは、
その「念」に対して
評価判断をし、
説得を試みようとか、
その「念」を
取り除こうとか、
消去しようとか、
しないことです。
これは
通常の人間関係と
同じです。
それをネガティブに捉え、
それを除去しようと
すればするほど、
「反発」が大きくなります。
つまり、
そういったことをすれば、
その「岩」はさらに
大きく重いものに
成長してしまいます。
では、
あなたはその「岩」に
対して、
どのようなコミュニケーションを
取りたいですか?
・・・・・・
まず大事なポイントは
「理解しよう」
とすることです。
「理解しよう」
とはつまり、
「知ろう」
とすることです。
通常の人間関係でも
「理解しよう」
という向き合い方は、
信頼の芽を
育みます。
ですから最初は
次のような「問い」に
なるはずです。
「あなたはなぜ、
そこにいるの?」
もちろんこれは
責めるような口調で
伝えてはいけません。
あくまで、
「理解しよう」
「知ろう」
とするつもりで
尋ねます。
すると、
人によって様々な
返答があると思います。
例えば、
「後悔しているからに
決まってるだろ!」
という責め口調で
返ってくることもあるでしょう。
もしくは、
「助けてほしいんだよ」
とか
「悲しいんだよ」
とか
「寂しいんだよ」
とか。
すがってくるような
返答の場合もあるでしょう。
そこをさらに
「理解しよう」とする
会話を続けます。
「何をそんなに
後悔しているの?」
とか、
「何がそんなに
悲しいの?」
など。
より具体的に
その「念」の中身を
知ろうとします。
ここを
評価判断せずに
行なうことがポイント
です。
ただ「あるがまま」を
知ろうとしてください。
その問いの結果、
例えば、
「Aさんからの信頼を
完全に失っちゃっただろ。
それを後悔してるんだよ」
と返って来たら、
「Aさんの信頼を失ってしまった
私自身の行動や振る舞いで
最も後悔していることは何?」
などのように、
さらに具体的に
後悔ポイントを特定
していきます。
「どの瞬間に、
一番悲しみを感じたの?」
とか
「その悲しみを誘発した
私自身の行動や振る舞いは
何だっただろう?」
とか。
問いかけ方は
様々です。
まるで他人と会話を
しているかのように
臨機応変でよいですから、
あまり固く考えずに、
「理解しよう」
「知ろう」
とするコミュニケーションを
続けます。
すると、
「あぁ、なるほど、
私はここで一番、
後悔をしていたのか!」
と合点のいく
ピンポイントを特定
できるはずです。
「ここが一番、
嫌だったんだ」
という
最大の後悔ポイントです。
これを
自分自身が理解
できたその瞬間に、
後悔の念は
大きく浄化されるはず
です。
その時点で、
両肩の重みが随分と
軽減されるのを
感じるでしょう。
さて、
会話はまだまだ
続きます。
つづく
苦しみのない人生は
あり得ませんが、
自らわざと
苦しみをつくる必要も
ありません。
しかし
そういった人が
とても多いのも
事実です。
特に多いのが、
本当の苦しみから
目をそらすために、
別の苦しみを
自ら創り出す、
というパターン。
「ここで私は
これだけ苦しんで
いるのだから、
勘弁してください」
と、
その人は
無意識に訴えて
います。
誰に訴えているかと
言いますと、
自分自身に対してです。
しかし、
本当の自分自身は
それを
許しません。
「お前の苦しみは
そんなところには
ないだろう。
本当はお前は
ここで苦しんでいるのに。
本当の苦しみは
ここにあるのに。
その苦しみと
向き合ってこそ、
お前の人生は
先に進むのに。」
と、
本当の自分が
自分自身に
語りかけ続けます。
「本当の自分」とは
つまり、
その人の
「真本音」
です。
真本音が自らに
語りかけ続けているのに、
本人がそれを
無視し続ける。
しかし、
自らの真本音を
無視すること自体が
人として
最も苦しいことの
一つです。
本当の苦しみから
目をそらすために、
別の苦しみを
創り出し、
しかし、その別の苦しみに
向かう自分を
自分の真本音が
戒め続け、
しかしその真本音の
語りかけを無視することで
さらに苦しみが
増す。
・・・つまり、
「本当の苦しみ」
プラス
「別の苦しみ」
プラス
「真本音を無視する苦しみ」
という
苦しみの三重苦に
見舞われる状態。
この状態に
陥っている人が
とても多いのです。
ですから私は
いつも
お伝えすることに
なります。
人生はもっと
楽に
進むことができますよ、
と。
・・・・・・
「本当の苦しみ」
から
逃げないこと。
それが、
人生を楽に進める
最も重要な原則の
一つです。
「苦しみ」の中でも
代表的なものが
「後悔」です。
ですから
言い換えると、
「本当の後悔から
逃げないこと」
こそが、
人生を楽に進める
原則です。
そのためには
まずは
「後悔と向き合う」
ことです。
「向き合う」
とはどういうことか?
を昨日の記事で
書かせていただきました。
(→前回記事)
そして、
自分の本当の
後悔の念は、
自分の頭(思考)の中に
あるのではなく、
自分の体の中に
溜まっているのだ
ということを
一昨日の記事に
書かせていただきました。
(→前々回記事)
自分の体に溜まっている
後悔の念と
しっかりと向き合うこと。
まずはそれをすることで、
後悔の念の
浄化が始まります。
つまり、
その時点から
楽になり始めます。
「向き合う」
とは、
楽になること。
「逃げる」
「目をそらす」
とは
苦しみを増すこと。
という、
原理をまずは
しっかりと
理解してください。
これは
人間関係でも
同じことですね。
・・・・・・
さて。
セルフコーチングの基本とは
しっかりと向き合った上で
「問うて、待つ」
ことであると
お伝えしました。
自分に対して、
まるで他人のように
問いかけをして、
その答えを待つ。
この行為と共に、
もう一つ重要な
行為があります。
それは、
「自分自身に
語りかける」
ということです。
やはり、
自分とまるで
他人のように向き合い、
自分自身に
自ら
メッセージを
語りかけるのです。
それがもし
真本音からのメッセージ
であれば、
それは
あなたの全身に
ジワリと
沁み渡るでしょう。
・後悔の念が、体のどこに
あるかを特定し、
・その念と向き合い、
・その出来事のどこに
本当に後悔しているか?を
理解したら、
今度は、その後悔の念に
対して、
・自らメッセージする
のです。
そのメッセージとは、
頭で考えて創り出すもの
ではなく、
後悔の念を理解したことで
自然に自分の中から
浮かび上がってくる
メッセージが
良いですね。
ですから、
もし何もメッセージが
浮かんでこない場合は、
無理に
これをする必要は
ありません。
自然に浮かぶメッセージ
を、
そのままダイレクトに
自分の後悔の念に
伝えるのです。
多くの場合、
これにより、
その後悔の念は
一気に浄化されていきます。
ただし、
「浄化しよう」という
意図は持たないことです。
意図を持てば、
淀みます。
淀んだセルフコーチングは
効果を半減させます。
淀んだ言葉が
相手に伝わらないのと
同じです。
自分自身に対して、
本当に純粋に
思うところを
伝えるとよいですね。
さて。
ここまでの流れについて
さらに具体的に
どのように進めればよいか?
を
解説することにします。
それは、
明日以降の
記事にて。
つづく
後悔した出来事があると、
私達はできれば後悔の念を
「なかったことにしたい」
と思います。
その結果、
その出来事に後から
様々な「解釈」を
つけたりします。
「あれは
しょうがなかったんだ」
「不可避な流れで
自分にはどうしようも
なかった」
「別の選択もあったとは
思うが、
あれはあれでいいのだ」
などなど。
時には、
「あの出来事には
これこれこのような意味が
あったのだ。
だからそれでいいでは
ないか」
「あの出来事によって
自分はこんな成長が
できた。
だから良いではないか」
などのように、
自分の「解釈」によって
その出来事を
肯定的に捉えようと
する場合もあります。
「解釈による肯定化」
・・・は、ダメです。
最も
やってはいけません。
これを
クセのようにいつもいつも
し続けている人がいますが、
そういった人ほど、
心の奥にストレスが
溜まり続け、
気がついた時には
体を壊す寸前、という人も
私はこれまで数多く
出会ってきました。
「解釈」とは
顕在意識レベルで
頭の中での無理な
変換をしているだけの
行為です。
物事の捉え方を
変えてみたり、
別の角度から
物事を見つめること
自体は
大事です。
しかし、
自分を説得するかのように
顕在意識のみで
強引な解釈をし、
それを「答え」とするのは
本当に
やめた方がよいです。
顕在意識のみを
解釈によって
捻じ曲げても、
それ以外の私達の
意識は
納得していません。
しかも
体は正直です。
頭の解釈を
どれだけ変えても
苦しいものは
苦しいのです。
むしろ、
頭の解釈を
強引に変えることで
その苦しみは
倍増します。
「前向きに生きる」
とは、
解釈を変えることでは
ありません。
・・・・・・
『セルフコーチングを使った
良い後悔の仕方』
の続きを行きます。
(→前回記事)
私達が
私達自身の最も素直な
気持ちを知るためには
体の反応を観るのが
最も簡単です。
後悔した出来事を
ありありと思い出した時、
体のどの部分に
どのような反応が出るか?
をまずは
特定しました。
そしてその反応の出た
場所に
じーっとただただ
意識を向け続けます。
例えば、
両肩が重い、
という反応があった場合、
その両肩にのみ
意識を向けます。
これを続けると、
その両肩に
さらに
何かを観たり、
何かを感じたり
するようになります。
例えば、
両肩に黒い大きな
岩のようなものが
乗っかっているイメージが
自然に観えたりします。
もしくは、
何もイメージは観えなくとも、
両肩に何かが
乗っかっている感覚のみが
ありありと
感じられるかもしれません。
そこまでできたら、
その「イメージ」
もしくは
「感覚」に、
問いかけてみてください。
「君は
何にそんなに
後悔しているの?」
と。
すると、
人によっては
その「答え」が
言葉となって自然に
浮上してくるかも
しれません。
例えば、ですが。
「あの時、私は
あんなことを言うんじゃ
なかった」
というように、
まるで会話をしているかのように
答えが返ってきます。
もし答えが返ってきたら、
さらにその答えを
理解しようとします。
例えば、
「あんなこと、というのは
具体的に
どんなことを
言うんじゃなかったと
思ってるの?」
というように。
その会話は
自分自身と会話をする
というよりも、
誰かそこに別の人がいて
その人の話を
聴いている
という感じで進めると
やりやすいでしょう。
誰かの相談を
聴いているイメージ
です。
これをすることで、
自分自身が
何に最も後悔しているのか?
を特定することが
できます。
この
「特定」が
ポイントです。
実は、
ここがずれている人が
かなり多いです。
「私はあの出来事を
すごく後悔しているんです」
と言いながら、
その後悔のポイントが
ずれているのです。
本当の後悔を
見つめることを
無意識に拒絶するために
このようにポイントを
ずらしてしまっているケースが
多いようです。
ずれたポイントに対して
どれだけ向き合っても
それでその後悔が
解消されたり浄化される
ことはありません。
一つの出来事の中でも、
本当はどのポイントで
私は何を後悔をしているのか?
を
絞り込むことが必須です。
それを頭の解釈で
しようと思っても
無理です。
このように、
体の感覚に
問うことで
初めて観えてくるのです。
しかし
セルフコーチングに
慣れない内は、
すぐにこのような会話には
ならないかもしれません。
その場合は、
問いかけだけを行ない、
あとはただじっと
待つことをします。
待っていると
言葉にはならないけれど、
でも何となく
答えが「わかった」
という感覚になることが
あります。
何となく「わかった」ら、
それを自分なりに
言語化します。
ここは
頭の解釈でも結構です。
大事なのは、
最初から頭で
解釈しないことです。
自分の体や
体の感覚そのものに
まずは
「問う」こと。
そして、答えを
「待つ」こと
です。
つまり、
「問うて、待つ」
というのが、
セルフコーチングの
基本的姿勢です。
たとえ
答えがまったく
わからなくても、
それでも
「問うて、待つ」
ことをしてください。
これを繰り返していると、
だんだんと
答えがわかるように
なります。
今日はここまで
とします。
つづく
「深刻にならずに
気楽に行けばいいさ」
という人生の進み方は
とても大切なことです。
しかし、
深刻にならずに
いるためには、
自分の中に存在している
深刻なものと
向き合うことが
必須です。
深刻なものから
逃げれば、
ますます心の中の
深刻さは増幅します。
(→前回記事)
向き合うことで
それを浄化し、
結果として
自然に軽やかに進む。
それが最も
自然な進み方であり、
セルフコーチングの
極意でもあります。
「後悔」というのは、
深刻なものの
代表的な一つです。
今回から
「後悔」を題材にして
セルフコーチングのやり方を
じっくりと
ご紹介していきます。
題して、
『セルフコーチングを使った
良い後悔の仕方』
です。
・・・・・・
まずは、
後悔した出来事を
一つ思い出してください。
それは最近のことでも
昔のことでも
構いません。
その出来事を
ありありと
思い出します。
可能であれば、
その出来事が
今ここで起きているかのように、
ありありと
イメージします。
それを思い出した時の
あなたの体の反応に
意識を向けてください。
例えば、
胸の中心が
ググッと苦しくなる、
とか。
後頭部が
ドーンと重くなる、
とか。
両肩にずっしりと
岩が乗っている
感覚がある、
とか。
お腹が痛くなる
感覚。
両足が
地面に沈んでいく
感覚。
吐き気。
頭の中心が
痛い。
両腕の
力が入らない。
みぞおちが
ギュギュッと
痛くなる。
などなど。
ちょっとした変化でも
よいです。
まず、
セルフコーチングの一歩目は
こういった
「体感覚」
に敏感になるところ
からです。
ところが、
これは特に男性に
多いですが、
体感覚がよくわからない
という人がいます。
実は、
昔の私が
そうでした。
しかしこれは
「慣れ」です。
誰もが
意識を向け続けることで
慣れていくことができます。
最初は、わずかでも
よいですから、
体の中で
気持ち悪さのある箇所や
違和感のある箇所を
探してみてください。
・・・・・・
体の中の
反応した部分。
ここに
あなたのモヤモヤが
あります。
つまり、
後悔の念が
そこに溜まっている
可能性が高いです。
今度はそこに
意識を向けて
みましょう。
深呼吸をして、
できるだけ心を
落ち着かせ、
目をつぶり、
体のその箇所に
意識の矢印を
向け続けます。
じーっとただただ
向け続けます。
例えば、
両肩が重い、
という場合は
両肩のみを
意識するようにします。
その時には
できるだけ
思考は止めてください。
解釈をしたり
評価をしたり
するのもやめます。
ただ単に
両肩を観察する
イメージです。
もしくは、
感覚のみを
「楽しもう」
とします。
後悔の出来事を思い出し
「感覚を楽しもう」というのは
さすがに無理だろう、
と思われるかも
しれません。
しかしあえて、
「そういった感覚を
楽しもう」
「そういった感覚を
味わおう」
としてみてください。
言ってみれば
「人間体験」
みたいなものです。
あなたが宇宙人だとして、
「へぇ、人間って
こんな感覚の中で
生きてるんだ」
というのを
体験しているイメージです。
それくらいに
客観的に
自分の体の反応を
体験します。
・・・・・・
まずは、
ここまで。
ここまではまだ
セルフコーチングの
準備段階ですが、
もしここで
あまりに辛くてしょうがない、
という場合は、
練習として、
もう少し軽めの出来事
で行なってみると
よいでしょう。
ここまでで
重要なのは、
「感覚を掴む力」
です。
もしもそれが足りないな、
と思われたら、
ぜひ練習してみてください。
体感覚は
普段の日常生活の中でも
いつでも
養うことができます。
一つ一つの自分の
行動や体験、
例えば
目に見えるものや
聞こえるものに対して、
体の感覚に
都度、意識を向ければ
よいのです。
例えば、
道端で綺麗なお花を
見つけた時、
「あぁ可愛らしいな」
と思うだけでなく、
その時自分の体の
どこがどのように
反応しているか?
を確認するのです。
そういったことを
続けるだけで、
たったの数日で
体感覚がよくわかるように
なる人も多いです。
私達は
この3次元の世界では
体を使って生きています。
体は日々、
いろんなことを
感じ取っています。
感じていることを
把握する。
それだけのことです。
まずはここから
始めましょう。
『セルフコーチングを使った
良い後悔の仕方』
は、
明日以降も続けます。
つづく
後悔のない人生が
いい。
誰だって
そう思いますよね。
私だって
そう思います。
顕在意識では。
でも、
人生に後悔は
付きものです。
なぜなら
人生の意味とは
「進化」だからです。
(→前回記事)
思惑通り行かずに
後悔をする。
そして後悔するからこそ、
次の展開が起こる。
その展開により
感動と共に
進化が起こる。
それにより
次のステージに
進む。
・・・というのが
人生の普通の進み方
です。
かと言ってもちろん
わざと後悔する必要は
ありません。
大切なのは、
今、自分の中にある
「後悔」に
きちんと
光と当てることです。
・・・・・・
後悔の仕方には、
・悪い後悔の仕方と
・良い後悔の仕方が
あります。
悪い後悔の仕方とは、
一言で言えば、
「後悔」を後悔のままに
しておくことです。
「あぁ、なんで私は
あんなことをしてしまった
のだろう・・・。」
と思うその気持ちを
その気持ちのままに
持ち続けることです。
何かに後悔し、
「あぁ、なんで私は
あんなことをしてしまった
のだろう・・・。」
と思う。
その次の日も
まったく同じように
「あぁ、なんで私は
あんなことをしてしまった
のだろう・・・。」
と思う。
さらにその次の日も
まったく同じように
「あぁ、なんで私は
あんなことをしてしまった
のだろう・・・。」
と思う。
さらにさらに
その次の日も・・・。
というように、
延々と同じ後悔の気持ちを
そのまま抱えている場合が
あります。
これでは逆に
「後悔」の意味が
ありません。
この場合は、
後悔し続けることで、
人生が止まって
しまいます。
「後悔」とは
「進化」のきっかけとなる
宝物です。
ですからそれは
宝の持ち腐れ
となります。
・・・・・・
もしくは、
もっと悪い後悔の仕方
があります。
それは、
後悔を誤魔化す
ことです。
つまりは、
「私は後悔など
していない」
と思い込んだり、
もしくは
「私は後悔など
してはいけない」
と、無理な前向きさを
創り出すことです。
これは
最も良くないです。
よく
言われますね。
「過去など
振り返らないで
未来のみに進もう」
と。
これは実は
最も良くないです。
これは
「現実逃避」の
典型的なパターン。
もちろん、
未来に向かうことは
大事です。
未来に意識を
向けることも
大事。
しかし、
過去の自分の後悔に
フタをしたまま
未来に向かえば、
それは
「現実逃避としての
未来」
にしかなり得ません。
これは
私達の真本音が
最もイヤがることです。
・・・・・・
良い後悔の仕方とは、
まずは
自分の心の中に湧く
その後悔の念に
「光を当てる」
ことです。
つまりは、
その気持ちを
しっかりと見つめる
こと。
観察すること。
そして、
100%、
感じ取ること
です。
それは辛そうだなぁ、
と思われる人も
多いかもしれません。
しかし、
これが最も
楽な方法です。
なぜ、後悔が
辛くなるか?
それはその後悔から
逃げようとする
からです。
逃げれば逃げるほど、
後悔は
追いかけてきます。
逃げれば逃げるほど、
後悔は
それに反発するかのように
巨大化します。
「後悔」とは
反応本音です。
反応本音とは、
逃げたり打ち消そうとすることで
反発的に
増大します。
逆に、
そこにしっかりと
光を当てて、
しっかりと向き合うことで
それは
開放され、浄化されて
いきます。
心を開放するの
です。
もしそれにより、
泣きたくなれば
そのまま
泣けばよいのです。
涙は
健康の証です。
子供はよく
泣きます。
心が健康
だからです。
しかし大人は
泣くことを
忘れます。
心が不健康な
証拠です。
私は
真本音度合いが高まることで
すぐに涙を流せるように
なりました。
心が健康になったな
と思います。
さて。
良い後悔の仕方については
さらに
詳しくご説明していきます。
つづく
例えば、あなたが
とてつもない挫折を
したとします。
挫折、まではいかなくても、
心の状態が悪く、
後で振り返って、
とても無為な毎日を
過ごし、
後悔したとします。
そこからようやく
立ち直れた時、
あなたは
何をしますか?
挫折をした自分、
無為な時間を
過ごした自分。
つまりは
ちょっと前の過去の
自分に対して、
あなたは
何をしますか?
無視をしますか?
それは
なかったものとして
前に進みますか?
もしくは、
否定をしますか?
あんな自分は
ダメだったと、
否定をして
そうではない自分として
次の一歩を
進もうとしますか?
私があなたに
お勧めするのは、
その
どちらでもありません。
私が
あなたにお勧めするのは
『チャンククロス』
です。
・・・・・・
「チャンク」とは、
一つの塊を意味します。
例えば、
一つの発想。
一つの経験。
一つの理論。
一つの概念。
一つの願い。
一つの意思。
つまり、
一つ一つの存在。
あなたの中にある
存在。
それを
「チャンク」と言います。
「クロス」とは
織り交ぜること。
紡ぐこと。
すべてを
合わせ融合させる
ことを言います。
要するに、
「チャンククロス」
とは、
二つ以上の塊を
織り交ぜたり
融合させること
です。
もっとわかりやすく
言えば、
「そこにあるものを
すべて大切にする」
ということです。
例えば、
あることに関して
AさんとBさんの
意見が食い違っていた場合、
Aさんの意見が正しいか?
Bさんの意見が正しいか?
どちらを選ぶか?
というような展開に
なりやすいです。
しかし「チャンククロス」とは、
「そのどちらもを
大切にしたら、
どのような発想が
生まれるか?」
を自由発想することを
言います。
それは、
AさんとBさん
でなくてもよいです。
例えば、自分の心の中の
様々な発想、
別々の発想、
時には、相反する発想
について
チャンククロスすることも
面白いです。
例えば、
仕事において、
・質を優先させるか?
・効率を優先させるか?
という葛藤が
あったとします。
質を優先させようと
した場合、
時間をたくさん食って
しまいます。
効率を優先させようと
した場合、
質の低下が
起こり得ます。
どちらを優先するか?
を考えた場合、
よく言われるのが
「そのバランスが
大事です」
と。
しかし私は
知っています。
バランスを取ること自体は
とても大事なことですが、
「バランスを取ろう」
と意識すればするほど、
それは
「妥協」
につながると。
そして
「妥協によるバランス」とは
本当のバランスとは
程遠いことを。
ですから私はよく
コーチとして、
「バランスなど
取らなくていい」
という言い方をします。
もちろん
本意ではありません。
バランスは大事です。
でも、
思惑ではバランスは
取れないのです。
そこで私が
いつもお伝えするのが
「チャンククロス」
です。
・質を取るか?
・効率を取るか?
ではなく、
そして、
その二つのバランスを
取るのでもなく、
その二つを
両方とも、
徹底的に大事にしよう!
とすると、
どのような発想が
浮かびますか?
ということです。
この問いを
追求することが
チャンククロスの
本質です。
つまり、
こっちが60%で、
こっちが40%で、
というバランスを取る
のではなく、
「両方を100%にしよう」
とすることです。
この発想をすることで
初めて、
私達は
「次元の壁」
を突破できます。
つまり、
一つ上の次元に上がり、
これまで観えていなかった
高みからの答えを
得ることができるのです。
その答えは、
現実の展開の仕方を
根こそぎ
変化させる力を
持っています。
・・・・・・
AかBか?
でははなく、
両方ともを
徹底的に
大事にすることで
どのような発想が
生まれるか?
これが、
「チャンククロス発想」
です。
そう捉えた上で、
最初のお話に
戻りましょう。
あなたは
挫折をしたり、
無為な時間を過ごして
後悔した自分に対して、
ちゃんと、
チャンククロス
していますか?
挫折した自分を
無視するのでもなく、
否定するのでもなく、
そんな自分と
そんな経験と
これからの未来を
「チャンククロス」
させてみるのです。
すると、
「その経験が
あったからこそ」
得られた、
「果実」に
気づくでしょう。
あなたのその「経験」は
あなたにたくさんの
「果実」を
すでに
もたらしているのです。
せっかく
挫折したのです。
せっかく
無為な時間を
過ごしたのです。
それを経たからこその
「果実」に
ぜひ気づいてください。
その果実を
ぜひ、ちゃんと
摘み取って、
未来の次の一歩に
活かしてください。
その「果実」は
間違いなくあなたの
栄養素に
なりますから。
・・・・・・
「チャンククロス」
これも
セルフコーチングの
基本です。
つづく
後悔とは
痛みです。
本当に深い後悔は、
私達の心に
深い痛みを刻むだけでなく、
ある意味、
本当に傷を残します。
心だけでなく、
魂にも傷を残すことが
あります。
その傷は
何かの拍子に
すぐに疼きます。
その疼きに耐えられず、
痛みから逃れるように
私達は次の自分の行動を
決定してしまいます。
痛みから逃げるための
行動。
それは反応本音レベルの
行動となります。
反応本音レベルの行動は
周りの人の反応本音を
喚起します。
反応と反応の
関わり。
反応と反応の
コミュニケーション。
反応と反応の
絡み合い。
それらの多くは、
ぶつかり合いや
混乱や
さらなる強い反応を
呼び起こします。
そしてそれらの多くは
「エンティティ」と
なります。
「エンティティ」
つまりは、念の塊。
日本語に訳すと
「生き霊」。
それが職場であれば、
エンティティの
溜まり場が職場
という最悪の状態になります。
それがどのような現実を
引き起こすかは
想像に難くありません。
たとえ、
最初はほんの小さな
後悔の念だったとしても、
それらが積もりに積もって
そのような状態にまで
至ることも
決して少なくはありません。
・・・・・・
後悔をしない生き方を
するためには、
何か「大きく後悔するような出来事」
を引き起こさないように
すればよい、
というものではありません。
そういった大きな出来事は
小さな一歩一歩の
積み重ねの結果として
「必然的に」
起こるからです。
小さな一歩一歩の
出し方を変える、
つまりは
「生き方」を
変えるしかありません。
例えば、
小さな嘘やごまかしを
すぐにしてしまう人。
その一つ一つは
小さな後悔しか
生みません。
しかしその後悔の念が
溜まることで
念は大きくなり、
心や魂に傷がつきます。
そしてある時に
必然的に
大きな出来事が起こり、
その傷が決定的に
なります。
たまたま起きる
出来事は
一つもありません。
すべては
「生き方」の結果です。
一歩一歩の
「生き方」が
すべてを決めるのです。
・・・・・・
真本音優柔不断タイプ
について、
そしてそこからの
抜け出し方について
前回まで書かせて
いただきました。
(→前回記事)
思った以上の反響を
いただき、
個別でのご相談等も
いくつもありまして、
少し驚いています。
みんなが言うのです。
「これ、
私のことでは
ありませんか?」
と。
実は、
私自身も文章を書きながら、
これはひょっとして
私自身のことでも
あるかも、
と思ったりもしました。
もしかすると、
今の私達は、
すべての人類は、
真本音優柔不断タイプだったか?
・・・などとも
思い当たりました。
本当は
誰も、
本当の決断をせずに
ここまで
歩いてきてしまったのでは
ないか、と。
だから、
今のような世の中に
なってしまったのでは
ないか、と。
その真偽はともかくとして、
「私は、
真本音優柔不断タイプでは
ないでしょうか?」
と言われた人の多くが、
誰がどう見ても、
すごい決断力を持っている
人達だったのが
笑えました。
そう考えますと、
これまでの自分は
真本音優柔不断タイプだったかも
しれない、
といいう捉え方をし、
だからこそ、
これからはもっともっと
素晴らしい決断をし、
もっともっと人生を
加速させよう、
という意志を持つことは
有意義なことではないかな
とも思います。
とにもかくにも、
すべては
今この瞬間に
自らが決断する
次の一歩、
次の一歩、
で決まります。
それが
真実であり真理
です。
ですから私達は
本当に
「今」
を大事に生きて
まいりましょう。
今、
真本音で
生きる。
やはり最後は
ここに行き着きますね。
つづく
後悔の念とは
向き合えばそれで
OKです。
後悔することで
そのまま自分を責め続ける
方向に行く人がいますが、
その必要はありません。
自分を責め続けたり、
罪悪感の中に
ドップリと浸かっても
自分も周りも誰も
喜びません。
ただ、
後悔の念だけを
しっかりと
味わいます。
それにより
強い刺激が入ります。
特にそれが
真本音レベルの後悔であれば、
その刺激は
自分自身の人生の願いへと
直結します。
しっかりと後悔するからこそ、
そうか、だから自分はこれから
人生において
これを果たしていこう!
という強い想いと共に、
まるで祈りにも似た願いが
湧き起こります。
その願いは、
願うという行為そのものによって
自分の魂も心も
癒してくれます。
自分の魂も心も
開放される感覚を得ます。
それこそが
「真本音の願い」です。
真本音の願いに
行き着いた人は
本当に幸せです。
なぜなら、
自分が何のために
生まれてきたのか?
自分の人生の意味は
何か?
自分という人間の
存在意義は何か?
自分はこれから何を
すれば良いのか?
自分はどこに向かえば
良いのか?
自分は誰と共に
進めば良いのか?
・・・などなど、
あらゆる答えが
「観える」
ようになるからです。
これほど、
私達を根底から安定させてくれる
ものはありません。
そして自分の内側から
パワーを漲らせてくれる
ものはありません。
しかしそこに行き着くためには、
多くの場合、
自分の中にある最大の後悔と
向き合う必要があります。
自分の中の
最も辛いものと
向き合える人は、
すべてと
向き合えるのです。
すべてと向き合えて
初めて、
真本音の願いは
浮上するのです。
・・・・・・
さて、
真本音レベルの後悔と
あなたが
向き合えたとします。
(→前回記事)
その先のステップを
ご紹介します。
真本音レベルの後悔と
向き合うことにより、
あなたの中の真本音は
これまでとは
比べものにならないくらいに
燦然と輝き出すでしょう。
それはまるで
新たな命が
宿ったかのようです。
新しい人生が
今ここから
始まったかのようです。
これまで見えていた景色が
まったく違ったものとして
目に映るでしょう。
結果として、これまで
価値を置いてきたことに
急に興味を失うかも
しれません。
逆に、
これまでまったく
興味も関心もなかったことに
急に価値を見出すかも
しれません。
それらの「変化」には
素直に自分を
委ねてしまいましょう。
「自分は
生まれ変わったのだ」
「ここから新しい人生が
始まるのだ」
と受け止めれば
よいです。
そして、
これまで真本音がまだ
「大地」だった頃に、
すべての行動を「大地」に
確認しながら決めていたように、
ここからも
すべての行動を
「真本音」に確認しながら
決めていきましょう。
遊び心を持ちながら、
で結構です。
一つ一つの自分の
行動、振る舞いのすべてを
頭で考えるのではなく、
惰性で行なうのでもなく、
丁寧に真本音に
問いかけるのです。
「次、何をしよう?」
「今から、これをしようと
思うけど、どう?」
「これをするか、あれをするか、
どちらがいいだろう?」
これを続けることで、
自分のこれまでの
行動パターンが
短期間で壊れていきます。
それはもう
壊してしまってください。
これまでの行動パターンは
すべて、
「優柔不断に生きるため」
のものであったと
あえて
断定してください。
自分を変える、とは
このように
自分の「今、ここ」における
一挙手一投足を
変えていく、
ということなのです。
自分を変える、とは
何かを一気に大きく変える
わけではないのです。
「次の一歩」
「次の一歩」
を一つずつ丁寧に
変えていくだけなのです。
一つ一つを
すべて真本音の通りに
変えることで、
これまでのパターンが
自然に崩れ、
真本音の願いに向かう
自分自身に
だんだんと近づいていきます。
それは
自分にとっては
とても幸せなことです。
真本音の望む通りの
行動を取っている自分。
・・・これが
自然体になっている
ということです。
こういったことを続ければ、
いつしか、
真本音にわざわざ
確認せずとも、
普通に行動すれば
自然に真本音通りに動ける自分に
なっているでしょう。
「本来の自分」に
戻っているでしょう。
そうなって初めて、
私達の中からは
『真の本気』
が湧き出ます。
それこそが
あなたの本当の
姿です。
つづく
昨日の続きです。
真本音優柔不断タイプの人が
自らを解放し、
本来の自分に戻るためのステップを
ここまで、ご紹介してきました。
「最も強い自分の心」を
自分の体の中に
入れ、
そしてそのことにより、
それはその人の
『真本音』
となりました。
つまり、
「真本音を取り戻す」
ことができたのです。
これが昨日までの
ステップです。
(→前回記事)
真本音を取り戻すことが
できましたので、
ここからは
「真本音との対話」
が始まります。
しかしちょっと
待ってください。
その前にどうしても
行なっていただきたいことが
あるのです。
・・・・・・
それは、
「後悔と向き合う」
ことです。
真本音を取り戻した
今だからこそ
できることです。
人は、人生において
本当にたくさんの
後悔を
繰り返します。
その多くは
反応本音レベルのもの
です。
反応本音レベルの後悔
とは、
それを乗り越えることで
自分の成長に
つながります。
つまりは、
乗り越えられるもの。
それが
反応本音レベルの後悔
です。
しかし
いかがでしょうか?
あなたには、
乗り越えられない後悔が
ありませんか?
その後悔からは
逃げたいばかり。
ですからずっと
心の片隅に
それを隠してきました。
記憶の彼方に
それを
取り残してきました。
そんな後悔は
ありませんか?
一言で言えば、
「耐えられない後悔」
です。
「思い出せない後悔」
です。
思い出せないような後悔について
「ありませんか?」と
問われても、
思い出せませんよね、きっと。
しかし、今、
それを思い出して
ほしいのです。
そしてその後悔と
向き合ってほしいのです。
それは
「真本音レベルの後悔」
です。
真本音レベルの後悔は
本当に、
キツイです。
なぜなら、
それは、
自分の心が耐えられる範疇を
逸脱しているからです。
しかし私達の真本音は
わざと自分に
そういった後悔の経験を
させることがあります。
なぜなら
それだけの経験をするからこそ
初めて見つかるものが
あるからです。
それは
「真本音の願い」
への道です。
真本音レベルの後悔を
するからこそ、
真本音の願いへの
道のヒントを
私達は得ることができるのです。
真本音とは
魂の意志である、
とも言えます。
魂そのもの
とも言えます。
真本音を取り戻す
ということは、
あなたの中に魂が
戻ってきたということ。
ですから、
心の視線ではなく、
魂の視線で
耐えられなかった後悔達と
向かい合ってください。
それができた時に
初めて、
あなたの真本音(魂)は
あなた自身に
「OK」
を出すはずです。
そうか、自分はもう
本気で進める自分に
なれたのだな。
自分はもう
真剣に生きる覚悟を
持てたのだな。
そのように
真本音が自ら
判断するのです。
その「判断」が、
自分を解放する
必須条件となります。
・・・・・・
あなたの中に
戻ってきた真本音の場所を
今一度、
特定してください。
ここに確かに
私の真本音は
存在するな、
という実感を
しっかりと得てください。
その上で、
その、自分自身の真本音に
問うてください。
「私の、真の後悔とは
何だろう?」
「君が私に与えた
後悔とは何だろう?」
そして、
あとは静かに
待ってください。
自然に思い出せること
があると思います。
ひょっとすると
心に強烈な抵抗が
走るかもしれません。
しかしその場合は、
自分の真本音(魂)にのみ
意識を向けてください。
泣きたくなれば
泣けばよいです。
わめきたくなれば、
毛布でもかぶって
ご家族などに迷惑をかけないように
わめいてください。
これをしっかりと
行なうことです。
ゆっくりと時間の取れる時に
じっくり行なってみて
ください。
今すぐにやらなければ
ならない、
とか
今日中に完了させねば
ならない、
とか
慌てる必要はありませんので、
「今やろう」
と思えた時に
ぜひ行なってください。
これが完了すれば、
真本音との対話は
随分とやりやすく
なるはずです。
つづく
後悔と反省
という言葉があります。
時々、
「後悔せずに反省しなさい」
と言われたりしますが、
後悔のない反省は
あり得ません。
悔恨の念。
これは、
とても大切です。
真剣に生きれば生きるほど、
自分が何か
間違っていたな、と
思ったら、後悔は
生まれます。
生まれなきゃ
不自然ですよね。
後悔や、悔恨の念には
私達は呑まれてしまいます。
それで良いのです。
思いっきり
とことんまで
呑まれることこそが
大事です。
ただそれを
まるでゲームのように
行ない続けている人も
います。
毎日後悔することで、
それを言い訳に
前に進まない状態を
つくっています。
それは、
後悔とは
言いません。
ただの
怠慢です。
本当の後悔や悔恨は
呑まれます。
落ちるところまで
落ちます。
そこに意味があります。
中途半端ではなく、
落ちるところまで
しっかりと落ちること。
それをすれば、
必ず、
「底」
にたどり着きます。
底にたどり着くことで
私達はもう
どうあがいてもこれ以上
落ちることができないことを
知ります。
頭での理解ではなく、
実感として
知ります。
それにより
私達は
「再浮上」
を始めます。
本当に後悔し、
本当に落ちるところまで落ち、
再浮上する。
この一連の流れを
私達は真本音で望むことが
あります。
その真本音の望み通りに、
しっかりと後悔をすれば、
再浮上の直前から
「反省」
が始まります。
「反省」とは
「解放」であり「開放」
です。
「反省」とは
本来は
すがすがしいもの
です。
なぜならそれは
次のステージに上がるための
気づきだからです。
私達はどうしても、
自分が落ちようとすると
まるで無限に落ちていくような
恐怖に苛まれます。
それにより、
バタバタとあがきます。
しっかりと
後悔すればよいのに、
中途半端に
後悔や悔恨の念から
逃れようとします。
そして、
中途半端な反省を
します。
中途半端な反省は
中途半端な浮上しか
もたらしません。
ゲームではなく、
本当の意味で後悔する
ということは、
真剣に生きている
証拠です。
真剣に生きていることを
一番よくわかっているのは
自分自身です。
そんな自分を
私達は見捨てることは
しません、決して。
ですから、
後悔に呑まれたら、
とことん後悔し尽くしましょう。
素直に
落ちていきましょう。
底に着いたら
底で大の字になって
休みましょう。
そして、
自然に浮上するのを
待ちましょう。
今、
人生の転換点を
迎えている人が
増えています。
大事な転換点。
後悔すべきをしっかり後悔し、
反省すべきをしっかり
反省しましょう。
つづく
私達の心の中には
自分の観たくない反応本音が
たくさんあります。
自分が知りたくない
反応本音のパターン(クセ)も
たくさんあるでしょう。
それを観て、
知ってしまったら、
自分のことを
嫌いになってしまうかも。
いや、
嫌いになるだけならまだましで、
自分のことを否定したり、
自分の過去の振る舞いを
後悔したり、
自分を責め続けることに
なるかもしれない。
過去の変えることのできない
後悔の事実達を
フラッシュバックしながら
生きていかねばならないかも。
・・・そんな恐れが
ほとんどの人にあるでしょう。
だから、
観たくないものには
フタをして、
前向きに生きていこう。
・・・これも多くの人が
無意識に行なっている
ことです。
しかし残念ながら、
こういった生き方は
自分の心をさらに
深刻にするだけです。
なぜなら、
フタをしているだけで、
本当は自分のことを
自分はよくわかって
いるからです。
自分を責めたくないから
フタをする。
しかし、
フタをしたその中で、
その人は自分をもう
責め続けているのです。
しかも、
自分を責めていることに
自分が気づいていない、
という状態ですから
「そこに気づけよ!」
と自分に苛立ちながら、
さらにその「責め」を
増幅させてしまうのです。
自分のことを
観ない。
その事実だけで、
人は自分を
責めるのです。
ですから、
一番楽な生き方とは、
一つ一つを
ちゃんと観察すること。
後悔するなら
後悔するでもいい。
一つ一つを
ちゃんと後悔しながら
進むこと。
一つ一つを
ちゃんと反省しながら
進むこと。
一見、その方が
深刻な人生になりそうですが、
それが本当にできている人は
だんだんと自分に対して
「おおらか」に
なっていきます。
自分ときちんと
向き合っていることを
自分が一番よく
わかっているからです。
そういう人は
自分のことを
自然に許せるように
なります。
確かにその行為は
酷かった。
するんじゃなかった。
でも、しょうがない。
私も人間だ。
間違いはある。
次はそうならないように
注意しよう。
・・・そんな感じに
なっていきます。
そしてそれをさらに
続ければ、
そんな間違う自分を
「可愛らしいな」
と思えるようになります。
もちろんそれは
自己満足とは違った
状態です。
自己満足の「可愛らしいな」は、
自分の観たくないものに
フタをした状態で
無理にそう思い込もうと
している状態です。
しかし、
自分と向き合い続けることで
自然に生まれる
「可愛らしいな」は
愛の一つのカタチです。
これができる人は
他人に対しても
同じ目線を向けることが
できるようになります。
人のことを
許せる自分になれます。
そこにあるものを
そのまま観る。
観るだけでよいのです。
それをどうこう
しようとしない。
それが
『存在承認』です。
存在承認を
し続けることで、
私達は初めて
ある一つのことに
気づくでしょう。
その気づきとは、
頭で理解する気づきではなく、
感覚として覚える
気づきです。
実感する気づき
です。
それをあえて
言葉にすれば、
次のようになります。・・・
すべての自分の心を
観続ける自分。
すべてを
存在承認し続ける
自分。
あれ?
この観続けている
この自分は
誰だ?
すべてを客観的に
観ているこの、
ここにいるこの
自分は
何者だ?
私は、
誰だ?
・・・ということです。
何度も書きますが、
理屈ではなく、
実感として
体感として
それを感じ取ります。
すべてを観つめている
その主体である
自分自身の存在を
ある瞬間に
ありありと自覚するのです。
そうです。
その主体こそが
『真本音』
です。
本当の
自分です。
つづく