怒り

怒火

 

怒りを

消してしまおうと

する人は多いが、

 

怒りは

消してしまっては

ならない。

 

特に

真本音度合いが

高まった上での

怒りは、

 

私は

「真本音の怒り」

呼んでいるが、

 

それ自体が

非常に価値ある

ものだ。

 

自分自身の

真本音が

「怒り」という現象でもって

自分自身に

メッセージを送っている

わけだ。

 

怒りに素直に

なり、

怒りを開放する

ことで、

 

自分の

人生の道を

見出すことさえある。

 

私は

今、

何に怒っているか?

 

本当は

どの部分に最も

大きな怒りを

感じているか?

 

しっかりと特定

するといい。

 

その怒りの

根源にこそ、

自分自身の

「すべきこと」

見え隠れする。

 

真本音の怒り

は、

そうして

自分自身が

自分自身のすべきこと

を見出し、

きちんと実行に

移すまで

ずっと続く。

 

単なる

反応本音の怒り

とは

本質的に異なるものだ。

 

やはりそれは

メッセージであり

合図である。

 

思えば、

私が今の仕事に

出会い、

今の仕事に

人生をかけようと

決めたのも、

 

その大元には

激しい怒りが

あったようにも

思う。

 

その怒りは、

この仕事に就いて

四半世紀以上も

経つのに、

 

まだ

なくなっていない。

 

私が

本当に自分の

すべきことを

果たし終えるまで、

 

きっとそれは

なくならない

のだろう。

 

もちろん

今の仕事には

大いなる悦びも

多い。

 

しかし一方で

感じ続ける

怒り。

 

悦びと怒り、

の中で

道が観える。

 

これが

人間か。

 

怒りは

ちゃんと見つめれば、

真本音の怒りか

反応本音の怒りか

判別がつく。

 

もし

真本音の怒りで

あれば、

 

それを

自分自身の

指針とせよ。

 

つづく

 

怒りは自分だ

 

人には怒り

というものがある。

 

それは

マグマのように

熱く、

 

心と体を

焼き続ける。

 

その怒りを

抑えねば、

多くの人は努力する。

 

怒りとは

一つの

エネルギーだ。

 

それを

抑えつけようとしても

それは土台

無理な話だ。

 

変な抑えつけを

すれば

せっかくのエネルギーが

腐る。

 

腐ったエネルギーは

自分の心を

腐らせる。

 

もちろん

怒りに任せて

人を傷つけては

ならない。

 

しかし

怒りによって

自分を傷つけても

ダメだ。

 

怒りを

愛せ。

 

そんなことは

無理だと

決めつけるな。

 

怒りは

自分の心だ。

 

自分の心で

あるならば、

それは必ず

愛しきることは

できる。

 

抑えつけるから

怒りは腐り

さらに反発する。

 

抑えつけるから

手に負えなく

なる。

 

怒りは

自分の心だ。

 

自分の心は

何があっても

愛せ。

 

愛するとは

肯定すること

ではない。

 

愛するとは

ただあるがままに

向き合うこと。

 

可能であれば

抱きしめながら

向き合うことだ。

 

怒りの中身は

何であっても。

 

どのような怒りで

あっても

それは自分だ。

 

自分だ。

 

自分なら

自分で

愛せ。

 

つづく

 

真の怒り

 

怒り

という感情が

出る時、

 

その怒りに

呑まれてしまうことから

逃げよう逃げよう

するよりも、

 

その怒りと

じっと

向き合うといい。

 

怒り、だけに

それは

とても騒がしいかも

しれない。

 

暴れている

かもしれない。

 

それは

そのままでいい。

 

ただ、

 

じっと

見つめる。

 

すると、

いつか

わかるはずだ。

 

それが本当に

ただ騒がしいだけの

怒りか、

 

それとも本当は

とても静かに燃える

怒りなのか。

 

実は

本当に強いのは

後者だ。

 

静かに燃え続ける

怒りは

基本的には

消えることがない

からだ。

 

静かに燃え続ける

怒りには

芯がある。

 

真がある。

 

つまり、

ちゃんとした理由が

あり、

 

その「理由」は

自分自身の「願い」に

関わっているものだ。

 

だからその怒りに

向き合うことで

私達は

 

自分が何に

怒っているか?

 

を知るのと

同時に、

 

自分は何を

願っているか?

 

知ることができる。

 

しかもその「願い」は

変わらずに

燃え続けているもの。

 

真本音の

願いだ。

 

真本音の願い

という芯のもとで

静かに燃え続ける

怒り。

 

それを私は

「真本音の怒り」

と呼んでいる。

 

それは

とてつもなく

エネルギーが高く、

 

とてつもなく

強い怒り。

 

しかしそれは

自分自身への

「合図」であり、

 

自分自身を

「導く」ために

ある。

 

だから、

真本音の怒りが

生まれたら、

 

私はその怒りに

身を任すことに

している。

 

あえて

意図的に

呑まれてみる

のだ。

 

それにより

「現実」

に突破口を見出す

 

一点を

 

創り出すことが

できるかも

しれない。

 

つづく

 

目が眩む怒りだな

 

目も眩むような

怒りがある。

 

それは

私のものでは

ない。

 

それは

「人々」のものだ。

 

人々は今

怒っている。

 

真本音の怒り

だ。

 

その中心に

あるものは、

 

自己が消滅してしまう

のではないか、

というくらいに強い

 

進化への欲求

 

だ。

 

私のことなど

どうでもいい。

 

・・・乱暴に書くと

そんな意志を

感じる。

 

しかしそれは決して

自己犠牲では

ない。

 

それは

「すべてを生かす」

ための想いであり、

 

自分の生命を

本当の意味で

燃やし活かす

ための想いだ。

 

私のことなど

どうでもいい。

 

となって初めて

覚醒する自分が

いる。

 

本来の自分が

そこにいる。

 

その

本来の自分が

怒っている。

 

自分自身に対して

怒っている。

 

なぜ、

そんなことに

こだわるのだ?

 

なぜ、

ここであえて

止まるのだ?

 

なぜ、

止まっていることを

誤魔化すのだ?

 

なぜ

そこまでして

いい格好をし続けるのだ?

 

と。

 

「本来の自分」を

そこまで怒らせて

しまった自分を

反省するといい。

 

「反省」とは、

自己評価ではない。

 

自己を評価している

場合ではない。

 

「反省」とは

悔恨の心と

向き合うことだ。

 

自分自身の

最も深いところにある

悔恨を

 

あるがままに

見つめ

対峙することだ。

 

これをせずして

あなたはあなたの

本当の気持ちを

知ることはない。

 

本当の祈りに

気づくことはない。

 

もう

誤魔化すな。

 

自分自身を。

 

つづく

 

抑えてはならない怒りがある

 

祈りとしての

怒り。

 

そんなものが

ある。

 

私が

「真本音の怒り」

表現しているものだ。

 

真本音自体には

感情はない。

 

真本音とは

自分自身と

自分の周りの現実の

すべてを

あるがままにただ

観察し、向き合い

続けている存在だ。

 

しかし、

真本音は

反応本音と

結びつく。

 

本来、反応本音とは

現実世界において

調和しながら生きるために

真本音が生み出したものだ。

 

真本音と反応本音は

仲間。

 

会社で言えば、

真本音が「創業者」と

するならば、

反応本音は

「創業者に共感して

集まってきた仲間達」

だ。

 

そんな真本音は

反応本音を

活用する。

 

反応本音と共に

歩む。

 

その中で、

今は「怒り」という反応本音と

共に進もう、

真本音が決めた時に

 

「真本音の怒り」

 

は発生する。

 

それは

真本音と反応本音の

コラボの一つの

カタチだ。

 

もし、

自分の中に

言いようのない

激しい怒りがあれば、

 

その中心を

見つめてみてほしい。

 

その中心に

光はあるだろうか。

 

その中心に

輝きはあるだろうか。

 

もしそれを

感じることができるなら、

 

その光(輝き)は

自分自身の祈りだ。

 

祈りに基づいた

怒り。

 

それが

真本音の怒りだ。

 

これが生まれた時は

決して

その怒りを

抑えてはならない。

 

怒りを

開放する方向に

進めば、

 

そこから

真の調和が

始まるんだ。

 

つづく

 

原因は自分だろう

 

あの人に向けた

その怒りは、

 

実は

自分自身に向けた

怒り

そのものだ。

 

人を許せない人は、

自分を

許すことが

できていない。

 

しかも、

自分を許すことが

できていないという

事実を

認めようとしない

人ほど、

 

その怒りは

増大し、

 

さらに人を

許せなくなる。

 

自分を許せ、

とは

言わない。

 

だが、

自分に向けた

その怒りを

自覚せよ。

 

その怒りは

刃となり、

自分自身を

グサグサと

刺し続けている。

 

その傷は

心だけでなく、

魂にまでも

及ぶことがある。

 

魂の傷は

あまりに痛く、

深い。

 

そうなるともう

自力では

立ち直れなく

なる。

 

しかし

そのような人は

多い。

 

急増

している。

 

・・・・・・

 

人はどうして

こんなにも

 

自分と

向き合わない

のだろう。

 

自分の心に

数え切れない

ほどの

蓋をするのだろう。

 

いや、

その理由は

わかるし、

感覚も

わかる。

 

かつての私も

そうだったから。

 

無数の蓋をして、

都合の良い部分

のみを見て、

 

それが

自分の心だと

思い込んでいた、

 

いや、

思い込ませて

いた。

 

しかし今なら

とてもよく

わかる。

 

それが

いかに苦しく

辛く

不自然なことか、

を。

 

・・・・・・

 

自分の中の

蓋を取り払うのは

コーチの役目

ではない。

 

それは

自分自身にしか

できないことだ。

 

頑なにそれを

拒否する人に

私は

何もすることは

ない。

 

何も

できないのだ。

 

他者によって

自分を

変えられたいかい?

 

絶対に

いやだろう。

 

誰だって

そうだ。

 

本当はね、

 

自分を変える

必要すらない。

 

本来の自分に

戻るだけだ。

 

自分自身の

手によって

自分を

本来の自分に

戻していく。

 

それだけの

ことだ。

 

それだけで

自分の心は

調和し、

 

人と人は

調和し、

 

組織は

調和し、

 

社会は

調和していく。

 

調和していないのは、

単純に、

自分と

向き合っていない

からだ。

 

それが

すべての悪循環の

始まり、なんだ。

 

つづく

 

だいぶ悲しいね

 

私達にとって

「悲しみ」

とは何だろうか?

 

深い悲しみは

多くの場合、

怒りに

転嫁される。

 

ちょっとしたことに

対して

すぐに怒りを

現す人は

 

その心の奥に

深い悲しみを

抱えているケースが

多い。

 

その悲しみを

感じると、

私もとても

悲しくなる。

 

悲しみ

とは

何だろうか?

 

悲しみの多くは

執着を

伴っている。

 

執着というと

キツいかな?

 

柔らかく言えば

望み

と言ってもいい。

 

自分の望みが

思う通りに

叶えられない時、

 

悲しみが

発生する。

 

その望みへの

執着が

激しければ激しいほど

悲しみは

大きくなる。

 

ただし。

 

執着のない

「悲しみ」

もある。

 

そして。

 

執着のない

「悲しみ」は

執着のある

悲しみよりも

圧倒的に

深くて辛い。

 

私達人間は

このレベルの

「悲しみ」を

乗り越えることが

できるのだろうか。

 

よく考える。

 

この仕事を

していると、

随分と多くの

悲しみと

出会った。

 

悲しい!

本人が泣いている

うちは

まだマシだ。

 

しかし、

悲しみの度が

過ぎると、

本人の自覚が

なくなる。

 

麻痺する。

 

自分が悲しんで

いることを

自分が一番

わからなくなる。

 

すると、

悲しみとは別の

出方をするように

なる。

 

残念ながら、

現代社会においては

麻痺してしまっている

人が多い。

 

人は

「悲しみ」を

超えることが

できるのだろうか?

 

あなたは

どう思う?

 

私は

あまりにもひどい

「悲しみ」に

埋没してしまった

ことがあるが、

 

あの時はもう

復活は無理だと

思ってしまった。

 

今でも

どうして復活できたか、

わかるようで

わからない。

 

もう一度、

あの「悲しみ」を

体験したとして、

また復活できる

自信は

ない。

 

それくらいに

深い「悲しみ」は

ある。

 

でもそれでも

私の選ぶ

選択肢は

一つだ。

 

人は

「悲しみ」を

超えられる。

 

それを

まずは私が信じて

進もうと

思っている。

 

つづく

 

怒りについて語る

 

怒りは

抑えない方が

いい。

 

怒りが湧く

というのは、

人として

当たり前のこと。

 

人生やってれば

必ず発生

するもの。

 

怒りが発生

すれば、

それを開放

すればいい。

 

ただしそれを

単なる反応として

人に向けては

ならない。

 

反応は

次の反応を生み、

反応の相乗効果は

怒りを何十倍にも

増幅させる。

 

そしてその循環から

出られなくなる。

 

それを

怒りの開放

とは言わない。

 

むしろそれは

怒りを閉じ込めている

行為だ。

 

怒りの開放

とは

怒りと向き合う

ことだ。

 

人は

怒りが発生すると

多くの場合

向き合わない。

 

向き合えば

コントロールできる

はずのものが、

向き合わないから

コントロール不可

となる。

 

怒りに任せて

思わず

怒りそのものの行動

や振る舞いに

走ってしまうというのは、

怒りに向き合っていない

ことによる

最も典型的な

現象だ。

 

その人は

怒りに呑まれた

振る舞いをしながら、

怒りから

逃げ続けている。

 

それでは

怒りが開放される

ことはない。

 

怒りはさらに

塊となり、

その人の中に

残り続け、

育ち続ける。

 

怒りの開放とは

真逆の行為だ。

 

・・・・・・

 

怒りとしっかり

向き合い、

自分は今、何に

怒っているのか?

ハッキリくっきりと

知ること。

 

それが

向き合うという

こと。

 

いや、

自分が何に怒っているか?

などは

百も承知だ、

と言う人がいる。

 

でも残念ながら、

それは違う。

 

ずれている。

 

その人が

怒りの原因だと

思っているものとは

ずれているのだ。

 

本当はその人は

そこで怒っている

のではなく、

もっと別のところに

怒りの源泉が

ある。

 

それが見つかって

おらず、

それを放置するからこそ、

怒りは

開放されない。

 

そしてその人は

怒りの塊と

化していく。

 

・・・・・・

 

もちろんこの世の中、

「向き合う」なんて

そんな生易しくない

怒りもたくさんあるだろう。

 

それは充分

承知している。

 

人間の持つ

本当に深い怒りに

私も何度も触れてきたし、

私自身も

そこから抜け出せなく

なったこともある。

 

怒りとは

まるで宇宙のように

無限に深まっていく。

 

でもだからこそ、

私達は

怒りと向き合わねば

ならないのだ。

 

怒りに対して

逃げ腰になることで

私達は

怒りに呑まれる。

 

怒りを愛せ、

とは言わない。

 

ただ、

怒りと

向き合ってほしい。

 

怒りを

まっすぐに

見つめてほしいのだ。

 

・・・・・・

 

すべての怒りが

開放されたとしても、

それでも残る

怒りがある。

 

それこそが

本物の

怒りだ。

 

これを私は

 

『真本音の怒り』

 

と呼んでいる。

 

つまりは、

真本音と結びついた

怒りだ。

 

そして、

真本音が望む

怒りだ。

 

そういうものが

あるのが

私達人間であり、

 

真本音の怒りには

私は

思いっきり呑まれる

ことをお勧めする。

 

真本音の怒りに

呑まれ、

その怒りに委ね、

 

その怒りに任せた

行動をとれば、

 

すべてが

調和していく。

 

それは大変

勇気が必要なこと

かもしれないが、

 

それでも私は

それをお勧めする。

 

実際に

私はその通りに

している。

 

すると面白いように

すべてが

調和していくのだ。

 

私達の真本音は

「最善の道」

を進もうとする。

 

今、怒ることが

最善の道だと

判断すれば、

その通りにするのが

私達の真本音だ。

 

だから私は

真本音の通りに

淀みなく

まっすぐに

怒る。

 

それが

人を愛することの

一つの形であると

私は

確信している。

 

つづく

 

本当に怒りを感じました

「私はいったいこれから、

本当は、

何をすればよいのだろう?」

 

このような問いが

もし

現れたら、

それは人として

本当に健全なことです。

 

実は、

私達の心の奥底には

常に

この問いが

存在します。

 

この問いは

「ゼロリセットの問い」

です。

 

常に自分を

ゼロに戻す、

原点に戻す、

問いです。

 

私は思います。

 

この問いは

毎日毎日

自分に投げかける価値のある

問いであると。

 

「私がやりたいことは

もう私自身が

よくわかっている」

とか

「私の人生の目的は

もう決まっている」

というように、

この問いについての迷いが

なくなった状態を

私は

「傲慢」

と呼んでいます。

 

それは単なる

思い込み。

 

本当の人生の目的とは

上記の問いを

何度も何度も

毎日のように自分に

投げ続けることによって

初めて見出されるものです。

 

・・・・・・

 

自分の人生の目的を

わかったつもりで

設定し思い込み、

本当はそれは

まったく違う方向なのに

「これが私の人生だ」

と決めつけてしまっている人が

あまりにも多いことに

最近はとても

悲しみを感じます。

 

目的を持つことは

大事。

 

でもそれは

真本音の目的で

あることが

必須です。

 

そして

真本音の目的とは

そうそう簡単には

見つかりません。

 

安易に

目的を設定している人を

見ると、

私はとても

危うさを感じます。

 

まだ

「私は自分のことが

全然わかりません」

と言っている人の方に

地に足がついている

感覚がします。

 

何かを勉強して

それに感銘を受けて、

いいなぁ、と思って、

私もそうしようと

決める。

 

勉強することは

大事ですし、

感銘を受けることも

大事。

 

でもそれによって

自分の人生を

安易に決めないで

ほしいのです。

 

一言で言えば、

机上の空論で

人生の目的を決める人が

多くて、

最近は特にその傾向が

高くて、

困っています。

 

そういった人は

本当に真剣に

人生を生きている人の

足を引っ張るからです。

 

今日、

ある社長さんと

お会いしました。

 

その人は

本当にご自分の人生に

真剣に

向かい合っている人

です。

 

そして、

真剣に人生を模索しながら

真本音で一歩一歩を

実践し続けています。

 

しかし、

多大なるストレスを

抱えています。

 

そのストレスが、

自分の一歩を進む上で

必然的に発生する

ストレスであるならば

全然、問題はありません。

 

しかしその社長の周りには

真剣であるフリをしている人、

もしくは、

自分が真剣であると

思い込んでいる人、

で、実は

自分の本来の人生の課題から

逃げまくっている人が

集まってきてしまって

います。

 

もちろんそれは

その社長ご自身にも

問題はあると思います。

 

が、

それでも私は

憤慨してしまいます。

 

もう少し、

自分の人生に

真剣になったらどうだ?

と。

 

その社長から

私が受け取ったのは

依存のストレス。

 

多くの人達が

「協力するフリをしながら

その社長に依存する」

ことによって発生する

ストレスです。

 

そのストレスで、

その社長は苦しんで

いました。

 

こういうケースに関して

私はとても

怒りを感じます。

 

何に対する怒りかと

言いますと、

「自己満足」に対する

怒りです。

 

わかったつもりになり

自己満足している

その行為に対する

怒りです。

 

それは、

かつての私がずっと

行ない続けていたこと。

 

だからこれだけ

憤るのだろうな、と

思います。

 

でも、

かつての自分を

戒める意味でも

思うのです。

 

自己満足は

本当にタチが悪いと。

 

・・・・・・

 

なんか今回は

怒りの表明みたいに

なっていますが。

 

でもしょうがない。

 

本当に今の私は

怒っています。

 

真剣な人を

真剣じゃない人が

妨害する。

 

それは、

どこの組織でも

必ずあることですし、

それが

世の常、とも言えます。

 

でもそれでもやはり

私は怒り

憤ります。

 

私はこういった面では

本当に

心が狭いなぁ、と思います。

 

でも一方で

こういうことに

真剣に怒ってしまうのが

私であるとも認めています。

 

これは私の

真本音の怒りです。

 

私は

真剣な人をサポート

したい。

 

自分の人生に対して

真摯な人を

サポートしたい。

 

人生に対して

真摯な人とは、

 

「私はいったいこれから、

本当は、

何をすればよいのだろう?」

 

こういった、

ゼロリセットの問いを

常に自分に投げ続ける

人を言います。

 

思い込みで進まない。

 

自己満足で進まない。

 

私自身もこれから

大切にし続けたい

ことです。

 

つづく

 

あなたは怒るべき人だ

真本音度合いが上がってから、

めっきり怒ることが少なくなった平井さん。

(→前回記事)

 

私は平井さんに訊いてみました。

 

「平井さん、今の平井さんは以前に比べて

かなり気が長くなったように見えますが、

ご自分では変化は感じていますか?」

 

「あっ、やはりそうですか。

自分では特に意識していないのですが、

腹が立たなくなってきたのは事実です。

こんなに腹を立てない自分でよいのだろうか、と

少し不安になるくらいです。

本当はもっと社員に厳しくしないといけないのではないかと。

でも、腹が立たないからしょうがないですね。」

 

「それによる社員さんの変化は?」

 

「そりゃもう、以前に比べれば随分と私に

意見を言うようになりましたよ。

まぁこれは、たけうちさんにコーチングスキルを

教えていただいたのが一番大きいと思いますが、

私が簡単には怒らなくなったのも大きいかな。」

 

「それは良いことだと思いますか?

社員さん達の仕事の質はいかがですか?」

 

「いや、もちろん良いことだと思っていますよ。

昔に比べると、社員の本音はとてもよくわかるように

なりました。

それに、信頼関係も昔とは大違いじゃないかな。

今から振り返ると、昔は信頼関係もどきでしたね。

社員の主体性とか仕事の質は間違いなく

上がってますよ。」

 

「では、怒らない方がいいと?」

 

「いやでもね、たけうちさん。

そうは言っても、私はね、もの凄く腹の立つ瞬間は

今でもあるのですよ。

その時はもう逆に、私は私を抑えられなくなります。

ついつい、思ったことをそのまま相手に

伝えてしまうんですよ。

これはいいのかなぁ?」

 

「伝えた結果、どうなりますか?」

 

「多分ね、その伝え方は以前よりもダイレクトだと

思うんですよ。

だから、以前よりもきついんじゃないかなって。

でも、そんなきつい言い方をしているのに、

社員はちゃんと受け止めてくれます。

それどころか、どれだけ私が怒っていても

意見を言い返してくる社員もいるんです。

これはどういうことでしょうね?

社員が強くなったのかな?」

 

「平井さん、

それを“真本音の怒り”と言うんですよ。」

 

“真本音の怒り”。

 

それは、まったく淀みのない怒り。

 

相手のためだけを純粋に想い、

自然発生する怒り。

 

真本音度合いが高まった人には共通して見られる

一つの現象です。

 

真本音の怒りには、

根底に「あたたかさ」があります。

それは意図をした「あたたかさ」ではありません。

 

「あたたかさ」の土台の上で、

きつい言葉達が相手にダイレクトに向かっていきます。

 

それを受けると、相手の人は

大きく混乱します。ショックを受けます。

頭は真っ白になるケースが多いです。

しかし、決してその言葉達を拒絶することはありません。

 

いえ、一時的には思わず拒絶するかもしれませんが、

その言葉の一つ一つは、その人の胸に

しっかりと宿ります。

 

そして、ジワーッとその人の胸に

沁み込んでいきます。

 

要するにそれは、

愛のある怒り、なのです。

 

ですから私は常に、

真本音度合いの高まった人に対しては、

「自分の怒りを抑えないでください」

とお願いしています。

 

真本音の怒りは、必然的に必要に応じて

発生します。

その怒りを抑えることは、

マイナスにしかなりません。

真本音の怒りは開放してこそ、

すべての物事が進展します。

 

逆に。

真本音度合いがまだあまり高くない状態での怒り

があります。

それは、反応本音の怒りです。

 

反応本音の怒りは、単なる反応です。

そして、自分の思惑とか、自分のストレス解消とか

様々な淀みが含まれています。

一般的に言われる怒りとは、この反応本音の怒り

のことを言います。

 

この怒りを相手にぶつければ、

当然のごとく、相手も反応します。

怒りと怒りのぶつかり合いになります。

もしくは、相手の立場の方が弱い場合は、

相手が我慢し、こちらに迎合します。

 

真本音の怒りと、反応本音の怒りは、

表面上では同じように見えても、

本質はまったく異なるのです。

 

真本音度合いが高まれば、

反応本音の怒りは激減します。

その代わり、真本音の怒りのみが

自然発生するようになります。

 

そしてその真本音の怒りこそが、

人の成長を促したり、組織の活性化につながります。

 

私達は人間。

 

豊かな感情があります。

 

それらの感情を単なる反応として使うのか、

それとも

自分の揺るがぬ願いの一つの表現として

発揮するのか。

 

それにより、

人生は大きく変わってきますね。

 

つづく