恐怖

怖いからこそ見つめよう

 

今、

問題の核心は

何か?

 

本当は、

このダイレクトな

問いに素直に

向き合えば、

 

ほとんどの問題は

8割方は

解決してしまう。

 

しかし私達には

その、

素直さ

がない、

 

場合が多い。

 

核心を観る

のが

怖いのだ。

 

だから

まずはそこから

目を背けることに

全力になる。

 

もちろん、

そうなっている自分を

自覚することは

ない。

 

自覚できたら

大したものだ。

 

だから私は

いつもいつも

この問いを

大切にしている。

 

今、

問題の核心は

何か?

 

・・・・・・

 

問題の核心は

恐怖感の

その先に

ある。

 

そりゃそうだ。

 

問題の核心

だからこそ

恐怖感が湧く。

 

つまり、

最も怖い方向を

見つめれば、

そこに

実にシンプルな

核心が

潜んでいる。

 

いや、

本当は潜んでなんか

いないのだが、

あまりの恐怖によって

そいつの前では

私達は

目を瞑ってしまうのだ。

 

全力で

目を瞑る。

 

で、

わからない

わからない

と言い続ける。

 

時には、

目を瞑っているその

まぶたの上に、

くっきりとした

キラキラの目を描いて、

 

ほら、

私、ちゃんと

目を開いているでしょ!

 

とアピールする

人もいる。

 

もちろんやはり

本人にその自覚は

ない。

 

逃げることに

必死だという

自覚が。

 

そういう人と

向き合うと、

あまりの恐怖感と

あまりの拒絶感に

私は

言葉を失う。

 

怖いものを

怖いと言えれば、

もっと楽になるのに。

 

本人は最も

楽ではない道を

邁進する。

 

まぶたの上に

描いた偽物の目を

堂々とこちらに見せ、

 

ほら、

私はこんなに真剣に

自分の使命に

向かっています、

 

と訴え続ける。

 

自分の人生を

邁進しています、

 

と。

 

・・・・・・

 

そのように

全力で逃げようと

する人は、

 

どうやら

私からのお墨付きを

もらいたいようだ。

 

つまり、

「たけうちさんが

いいね、って

言ったから、

私はこれで

いいんだ」

という

お墨付きだ。

 

このお墨付きを

ほしいが故に、

あえて私に相談

してくる人もいる。

 

しかし私は

決して

そのような「お遊び」

にお付き合いする

ことはない。

 

そのような

「お遊び」は

ダメですよ。

もっと

真剣に生きましょうよ。

 

というニュアンスの

空気感を

ほんのちょっとだけ

私は

その人に向ける。

 

すると多くの場合は、

とても残念なことに

一目散に

私の前から

去っていく。

 

私は別に

「もっと強くありなさい」

とは

一言も言っていない。

 

私はただ

「もっと真剣になろうよ」

伝えているだけだ。

 

真剣になる、

とは

自分の弱さを

知ることだ。

 

自分の恐怖を

知ることだ。

 

知ればいい。

 

だって

人は

弱いから。

 

でも、

自分の弱さを

素直に認めることで、

人は

一歩ずつ

強くなっていけるから。

 

完璧な人間など

いない。

 

何度も言うが、

私だって

人間として相当の

ヘナチョコだ。

 

でも私は

そのヘナチョコぶりを

知っている。

 

そこから

目を逸らさないように

している。

 

それだけで

いいのだ。

 

それだけで、

ちゃんと

進めるのだ、

私達は。

 

「あるがまま」を

見つめよう。

 

それができれば、

問題の核心は

すぐにわかるし、

 

そしてその核心は

実は、

結構、可愛いものだった

ということも

わかるのだ。

 

つづく

 

不安や恐怖に苛まれたら・・・

心の中に、

未来に向かう不安や

恐怖や、

絶望感がどうしても

出てしまう時、

まずは次の二つの区別を

してみてください。

 

一つ目の区別。

 

それは、

「この心は、

私の心だろうか?

それとも

誰か他の人からもらった

心だろうか?」

 

の区別です。

 

だいぶ以前にこのブログで

「エンティティ」について

書かせていただきました。

 

エンティティとは、

ストレスの濃度がある一定の

水準を越え、

ストレスが物質化(に近い状態)

したもの。

 

日本語では

「生き霊」

と訳される怖そうなものですが、

しかしエンティティは

誰もが多かれ少なかれ

常に持っています。

 

エンティティがゼロの人は

私はこれまで

一人もお会いしたことは

ありません。

 

ですので、

それほど怖いものでは

ありませんが、

このエンティティ、

まるで風邪のウィルスのように

人から人へ

伝染します。

 

未来に対する不安や

恐怖や絶望感が

なぜ起こるのかがよく

わからない時は、

恐らく、複数人の人から

そういったエンティティを

受け取ってしまっています。

 

みんなの不安を

少しずつ合わせて

受け取ってしまい、

大きな恐怖や絶望感として

感じてしまっているのです。

 

自分の心ではないのに、

不安や恐怖があるのは

なんか、イヤですよね。

 

この場合は、

不安や恐怖が

体のどの辺りに憑いて

しまっているかを

特定してください。

 

時には、

体全体を

エンティティが覆って

しまっているかも

しれません。

 

場所を特定したら、

そこに意識を向けて

ください。

 

するとそこに

何かが観えたり、

存在を感じたりすると

思います。

 

そしてそこに、

あなたの

「愛のパワー」を

送ってください。

 

エンティティを

「よしよし」と

子供をあやすようにし、

「私の愛だよ」

とエンティティに向かって

エネルギーを照射するような

イメージをすればよいです。

 

するとそのエンティティは

浄化されます。

 

逆に言えば、

このやり方で浄化されるならば、

それはエンティティだった

ということになります。

 

・・・・・・

 

さて、

二つめの区別です。

 

もしその不安や恐怖が

エンティティではなく、

自分自身が発生させて

いるものならば、

(つまり、上記の方法で

浄化できないならば)

 

その不安や恐怖は、

①単なる反応本音か?

それとも、

②真本音と結びついた

反応本音か?

 

の区別をしましょう。

 

これのやり方は

簡単です。

 

まずは自分の真本音の場所

を特定します。

 

つまり、

お腹の奥の体の中心と

頭のてっぺんの中心を

結び、中心軸をイメージ

します。

 

そしてその中心軸の上の

どこかに

「ここが私の中心核だな」

と思える場所を

特定します。

それが、

真本音の場所です。

 

この特定がすぐにでき、

しかも真本音の存在を

強く感じるのであれば、

②である可能性が高い

です。

 

つまりは、

その不安や恐怖は

自分が真本音でわざと

自分にもたらしているもの

ということです。

 

その場合は、

この不安や恐怖そのものに

とても大切な意味が

ありますので、

そのままにします。

 

ちょっと辛いですが、

不安と恐怖を感じるままで

過ごしていきます。

すると必ずどこかで

大事な気づきやひらめきや

成長へのヒントを

得られるでしょう。

 

さて、そして、

真本音の存在を感じられない

場合は、

それは①です。

つまり、

単なる反応本音です。

 

あなた自身が

反応本音として

発生させている不安や恐怖

です。

 

この場合は普通に、

「自分は何に恐怖しているか?」

を自分に問いかけて

ください。

 

普通に頭で考えれば

よいですが、

もしどうしても答えが

わからない場合は、

エンティティの時と同じように

その反応本音の場所を

特定して、

その場所に

「何が不安なの?」

と問いかけてください。

 

そして答えが返ってくるまで

待ちます。

 

ただし、

①の場合はほとんど、

不安の原因は

あなた自身がよくわかって

いるはずです。

しっかりと考えれば。

 

原因がわかったら、

無理に反応本音を

無くそうとせず、

普通に、

「どうすればその不安を

取ることができるだろうか?」

を考えてください。

 

その発想ができない場合は、

自分の真本音に

問いかけてみてください。

 

不安や恐怖が

単なる反応本音の場合は、

自分の行動で持って

(つまりは現実への働きかけにより)

不安を取るのが一番です。

 

そこを逃げずに

立ち向かっていけば、

自然にあなたの

真本音が発動します。

 

反応本音から

逃げれば、

その反応本音は

エンティティ化し、

さらに不安や恐怖は

大きくなります。

 

反応本音と向き合い

理解できれば、

あとは行動です。

 

・・・・・・

 

以上をまとめますと、

不安や恐怖や絶望感は、

 

・エンティティ

・自分の反応本音

・自分の真本音がもたらしているもの

 

の3つに分かれます。

 

それらをきちんと区別することが

次の一歩の

大きな指針となります。

 

以上は

セルフコーチングの基本

です。

 

ご参考までに。

 

つづく

 

恐怖は消してはならない

怖い。

 

恐怖。

 

この気持ちは、

「分離」によって

もたらされます。

 

「自分」と「周り」との

分離です。

 

「周り」を

「世界」と表現しても

よいです。

 

「自分」と「世界」の

分離。

 

「自分」は

自分だけでしか

ない。

 

周りとも世界とも

別物である。

 

「自分」は

自分。

 

これを

分離感と言います。

 

もちろん、

ほとんどの人が

この分離感と共に

生きています。

 

それにより、

人とは、

怖さや恐怖を抱くことが

当たり前であり、

それが

人というものである、

と、

みんな思っています。

 

私達がいるこの

3次元の世界は、

分離感によって

成り立っています。

 

・・・・・・

 

分離感は

私達人間にとって

極めて辛いものです。

 

しかし、

この3次元世界に

生まれた瞬間から

私達は

その分離感の

真っ只中に入ります。

 

赤ん坊が

生まれた瞬間に

大泣きするのは、

その分離感に

びっくりしているのだと

私は思います。

 

今まで、

お母さんと

一つだったのに、

いきなりそこから

分離した。

 

その

驚くべき感覚が

私達の人生の

第一歩です。

 

そして

その分離感と

私達は常に

闘いながら

生きてきました。

 

分離感の中でも

しっかり歩ける自分に

なろうと、

努力してきました。

 

分離感に

惑わされない自分。

 

分離感に

負けない自分。

 

そんな自分になることが

人としての

成長であると

信じて、

ここまで来ました。

 

しかし残念ながら、

分離感とは

克服するものでは

ありません。

 

どれだけがんばっても、

分離感は

分離感です。

 

克服できたと

思っていても、

それは単に

麻痺しているだけ。

 

人は、

分離感には

勝てないのです。

 

辛いものは

辛い。

 

怖いものは

怖い。

 

そう

あるがままに感じる

自分を

そのままに

受け止めることができて、

初めて人は

分離感から

自由になれます。

 

それは決して

分離感がなくなるわけでも

弱まるわけでも

ありません。

 

分離感は

そのまま。

 

怖いのも

そのまま。

 

でも、

そこから

解放されるのです。

 

それが、

真本音で生きる

ということであり、

 

高い次元の自分を

思い出すという

ことです。

 

・・・・・・

 

皆さんは、

場と

時と

一つになれた、

というご経験は

ありませんか?

 

最近は

若い人達にこういった

表現を使うと、

「あぁ、わかります、わかります」

と返ってくることが

実に多くなりました。

 

最近の若い人達の感性は

本当に凄いなぁと

思います。

 

「一つになる」

という瞬間が、

私達の人生には

必ずあります。

 

しかもその瞬間は

ここ数年で

一気に増えているはずです。

 

場と、時と、

一つになれている時、

私達は

その瞬間は、

分離感や恐怖から

解放されます。

 

何度も言いますが、

分離感や恐怖が

なくなるわけでは

ありません。

 

それがここにあっても、

どうでもいいことだと

思えるのです。

 

それくらいに

「一つになる」

という体験は

インパクトがあります。

 

しかしそれは

何も特別なことではなく、

私達がもともといた場所は

「すべてが一つ」

という世界ですから、

それを「思い出す」

ということで、

インパクトがあるのです。

 

私達の魂に刻まれた

記憶を呼び起こすからこその

インパクトです。

 

・・・・・・

 

船に乗って

航海をしている時、

船と海は

分離しています。

 

ですからもし

嵐が来た場合は、

転覆するのではないか、

という恐れが来ます。

 

しかし、

海も船も自分自身だとしたら

どうでしょうか?

 

しかも海は、

表面上は

嵐によって荒れていますが、

深海に潜れば、

そこは常に安定しています。

 

しかも、

さらに潜れば、

大地があります。

その大地とは

地球そのもの。

 

その地球とも

一つであるとしたら。

 

すべてが私

であるとしたら。

 

もちろんそれでも

恐怖が消えることは

ありませんが、

それでもその恐怖よりも

もっと大きな安定感を

私達は得られるのでは

ないでしょうか。

 

地球とも海とも

一つである自分。

 

それを思い出しながらも、

船として生きる人生を

楽しむ。

 

・・・これが

真本音で生きる感覚です。

 

高い次元を

思い出している

感覚です。

 

私達人間の実に

面白いところは、

どれだけ高い次元を

思い出しても、

低い次元が

なくなることはない、

すべての次元が

共存している

というところです。

 

これこそが

人間の魅力。

 

人間の

面白さ。

 

人生の

面白さ、です。

 

地球も海も

すべては自分ではないか、

という安定感と、

荒海に揺れる船としての

心細さの

共存。

 

これが

私達人間です。

 

この両方を感じながら

生きるのが

人としての

楽しさの本質です。

 

この本質を

存分に感じ取るために

私達が身につける

最も重要なスキルが

セルフコーチング法であると

私は思っています。

 

セルフコーチングとは

・自分と

・現実と

あるがままに向き合う

手法です。

 

これができることで、

高次元も低次元も

すべての自分と

共に生きることが

できるのです。

 

つづく

 

不安定や絶望感があるからこそ、脱皮できる

人の成長も、組織の成長も、

比例直線的ではなく、

階段状に上がっていきまます。

(→前回記事)

 

階段の段差を登るということは、

これまでの自分(もしくは組織)とは

まったく異なるステージに上がる

ということです。

 

これまで見えていなかったものが

見えるようになり、

これまでできなかったことが

できるようになります。

これまで、考えもしなかったことを

考えるようになり、

これまで、実行に移さなかったことを

どんどん実行するようになります。

 

これを私は

 

『脱皮』

 

と呼んでいます。

 

人に『脱皮』があるように

組織にも『脱皮』があります。

 

段差を越える時、

つまり、脱皮の時は、

平常時とは真逆な原理原則が

必要となります。

 

その一つが、

「自分にどんどん不安定を与える」

ということです。

 

脱皮の時は、

平常時では考えられないくらいに

不安定になります。

 

個人の場合は、

心が非常に不安定になり、

不安や恐怖や絶望や、

・・・様々な濃い反応本音達が自分を

襲います。

 

これまで順調に成長してきた人も

そんな自分を体感することで、

自分は以前の自分に、・・・いや、

以前よりもさらに弱い自分に

なってしまったのではないか、と

自己不信に陥ります。

 

組織も同じです。

 

脱皮の段階にある組織には

ほぼ間違いなく、不調和が

連続して起こります。

 

これまで体験したことのないような

望まない現実が次々に

起こります。

 

もうこの組織はダメではないか、と

絶望感が湧いてきます。

 

そんな時に私はいつも

強調します。

 

「今は、思いっきり不安定でいてください。

絶望したままでいてください」

と。

 

「その不安定さに対策を打たないでください。

絶望のままでいてください」

と。

 

そのままでいると、

その不安定さと絶望感は

どんどん増殖します。

 

不安定と絶望感に

自分が飲み込まれそうになります。

 

でも、飲み込まれれば良いのです。

抗わずに、そのままでいるのです。

 

すると、

その不安定さと絶望感を完全に

「味わい尽くす」ことで、

これまでの自分からは想像もできないような

自分が(組織が)

何かをベリっと破いて、

現れるのです。

 

それは突然、

訪れます。

 

脱皮が成された瞬間です。

 

私は、

コーチの役割とは、

こういった脱皮を貫徹するために

見守り続けることだと思っています。

 

脱皮の最中、

コーチは何も手を出しません。

 

脱皮とは、

その人本人にしかできないことだからです。

ここで、

他人が干渉するとその瞬間に

脱皮は失敗に終わります。

 

脱皮が上手くいかないと、

その人(組織)は、

殻の中に閉じこもったままになります。

しかし、

体は大きくなっていますから、

その殻が窮屈でしょうがなく、

これまでの自分として生きることそのものに

苦痛を感じ続けます。

 

つまり、

これまで通りの自分(組織)でいること自体が

苦痛となるのです。

 

恐らく、

企業がきちんとそういった脱皮を

繰り返せば、

その企業は、永続的に発展し続けるでしょう。

 

その脱皮を放棄してしまうので、

企業は衰退していきます。

 

木村さんと弓江さんの

新規事業プロジェクトチームは、

最初の脱皮に取り掛かろうと

していたのです。

 

その脱皮をきちんと貫徹するために

この二人コーチングの場が

必然的に設定されたということです。

 

これが、今回の二人コーチングの

真の意味であると

明確にわかったのです。

 

つづく

 

いつまで不安解消のためだけの人生を続けるの?

私達人間の心は

二つに分けることができます。

 

一つは、揺るがない心。

もう一つは、揺らぐ心。

 

揺るがない心を、『真本音』。

揺らぐ心を、『反応本音』。

私はそう名づけました。

 

どちらが良い・悪い、ということではありません。

 

どちらにもそれぞれの存在意義があります。

 

揺らぐ心など、最初からなけりゃいい、と

思われるかもしれませんが、

揺らぐ心があるからこそ、私達は

人間としての幸せを感じることもできます。

 

揺らぐ心があるからこそ、私達は

状況に応じて生き方を対応させることができます。

 

ところが、揺らぐ心(反応本音)は

本質的には弱いです。

 

反応本音で生きる、とは

あえて短絡的に言えば、

「不安や恐怖に基づいて生きる」ということになります。

 

不安を解消するためにどうすればよいか?

恐怖から逃れるためにどうすればよいか?

 

その視点からの発想に基づき、

私達は動くことになります。

 

それを「自己保身」と表現していますが、

自己保身を第一に考えてしまうと

本来の自分をいつの間にか見失ってしまいます。

 

それに対して、真本音で生きる、とは、

「自分の揺るがぬ願いに基づいて生きる」

ことになります。

 

しかしそれは決して理想論ではありません。

 

「自分の願いと、今の現実を観察しながら

今この瞬間における最善の一歩一歩を進む」

 

ということを、私達の真本音は大切にしています。

 

「今を生きる」とは

「今できる最善を尽くす」ことです。

 

最善とは、妥協ではありません。

理想でもありません。

 

自分の理想を大切にしながらも、

「今はこの一歩が最も良いな」と自分自身が納得できる

そんな一歩が「最善」です。

 

「妥協」とは自分自身が納得できていない状態を

言います。

 

反応本音で生きる場合は、

そういった最善かどうか?は考えず、

とにかく、不安や恐怖を解消するために、

妥協だろうが何だろうが、最も楽だと思える道を

とります。

 

しかしそれは極めて刹那的な判断となりますので、

後悔することが多いのです。

 

木村さんは、後悔しました。

(→前回記事)

 

村瀬さんとのやりとり。

本当は、木村さんには心の底から発したい言葉が

ありました。

それが、

「お前、すげーな!」

という村瀬さんを賞賛する一言です。

 

しかしそれを発することで、

「自分は村瀬に追い抜かれるかもしれない」

という恐怖を彼は抱きました。

その恐怖を消すために、後輩である村瀬さんの考えを

自分の経験則を前面に出しながら潰しにかかりました。

 

上司である平井さんからも、

そしてその他の社員さんからも

木村さんは「評価」を得たいのです。

 

ところが自分への評価を守るために行なった言動が、

結果的に、皆からの評価を著しく下げることになりました。

 

これが、反応本音で生きる人の

典型的なパターンです。

 

真本音で生きる人は、

評価どうこう、という視点がありません。

いえ、

正確に言えば、そういった視点や心は誰にでもありますが、

それに捕らわれずに、

本来自分が望んでいる生き方や、

自分の目指したい人生への願いに基づいて

今この瞬間の言動を決めます。

 

そこから出される一つ一つの言葉や行動は、

人々の心に響きます。

その結果として、

「あの人はいいなぁ」という印象につながります。

評価が上がります。

 

評価に捕らわれないことで

評価が上がります。

 

皮肉な感じがしますが、それが世の常ですね。

 

評価云々はともかくとして、

何よりも、木村さん本人が

「後悔する」

というところが問題です。

 

自分が後悔する行動を自分がとり続ける。

それは私達人間の心のパワーを著しく

減退させます。

それにより、パワーを失った私達は、

さらに不安や恐怖を覚え、

その解消のための言動につながる、

という悪循環に入ります。

 

その悪循環から抜け出せない人は多いです。

 

抜け出すためには、

①本来自分が望む生き方を言語化して常に思い出すこと

②自己保身のための自分のクセが現れそうになれば、

その瞬間に止めること

そして

③本来自分が望む生き方に基づいて行動してみること

 

この3つを行ない続けることです。

日常の中で行ない続けることです。

 

自己保身に基づいた行動のクセを、

願いに基づいた行動のクセに

変換していくのです。

 

それができればできるほど、

誰もが、心の根底から「楽」になってきます。

 

心に「自由」を感じるようになります。

 

本質的な「楽・自由」を手に入れるための

「クセ直し」ですね。

 

私はこれを木村さんには徹底的に

行なっていただきました。

 

すると、何が起こるか?

 

木村さんのさらに深いところに存在していた

新たな「クセ」が浮上してくるのです。

 

つづく