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- 意志
時々、
滝に打たれる
イメージをする。
自分自身を
浄化する
ためだ。
打たれながら
私に取り憑いている
あらゆる余分な
ものが
流れるのを
感じる。
今日もたくさん
いろいろ
もらったな。
みんな
余分なものを
すぐに創り出す。
すぐに
交換し始める。
それが
人間というもの
だけど。
自分の心では
ないのに、
外部から受け取った
余分なものに
心を捕らえられる。
例えば、
外部から憤りの
念を受け取れば、
自分が何かに
憤り始める。
その憤りは
自分のものでは
ないのに。
そして憤った
結果として、
目の前の人に
八つ当たりする。
そこでまた
一つの混乱が
起こる。
この繰り返し
だな。
それをやめよう
と思っても、
私達が人間で
ある以上、
すぐにやめることは
叶わない。
しかし、
人として
少しずつでも
改善しようという
意志がなければ
何も変わらない。
よりよい方向に
変えよう!
という意志に動くのも
また
人間ではないか。
「世の中のために
生きる」
・・・と、
非常に大層なことを
考え始めたのは
19歳の時だ。
誰かに言われたり
教わったわけでは
ない。
登山をしていたら
ふと
そう思ったのだ。
ふと、
自分の人生は
何のためにあるのだろう?
という疑問が
湧き起こり、
それを契機に考え
始めた。
大層なことだ。
世の中のために、
と言いながらも
自分の家族すら
幸せにできない
自分もいた。
そのギャップに
苦しみながらも、
それでも
その意志だけは
今も変わらない。
それで
良いじゃないか。
人には
意志があるんだ。
現在の自分に
見合った意志で
なくても、
そこにある
意志は
確かにそこに
あるのだから。
外部から
受け取る
あらゆる余分なものに
負けている
場合ではない。
自分の
意志に素直に
なろうぜ。
一つずつ
進めば良いでは
ないか。
つづく
地中でずっと
自分の準備が
整うのを
待ち続けていた。
そんな幼虫が
ようやく
準備完了!
と
納得し、
自ら地上に
出てきた。
ところが、
地上に出た
途端、
これまでの地中の
世界とは
あらゆることが
異なり、
自分の準備が
まったく意味を
成さない、
という事実に
直面した。
さて、
どうする?
地中に戻るか?
このまま
地上にいるか?
・・・と
迷うだろう。
しかしもはや、
その迷いは
意味がない。
一度、地上に
出てしまえば、
もう二度と地中に
戻ることは
できないからだ。
選択肢は
ない。
「準備」とは、
選択肢のない
しかも
想定外の状態に
入った時に、
それでも「自分」で
いられるか?
それでも
前に進もうと
するか?
・・・という
自分の意志の
深さを
自ら確認すること
だった。
実は、
それしか
ない。
私達には
最後には
意志
しかないのだ。
しかも、
自分の意志を
他人に与える
ことはできない。
自分には
自分の意志しか
働かない。
他者からの
サポートすら
意味を成さない。
サポートの
しようがない。
幼虫から
成虫へ。
形は変われど、
大事なのは
形ではなかった。
意志
だった。
後戻り
できない世界に
出た自分。
茫然自失の
只中で、
意志は
残るか?
意志は
自分を
引っ張るか?
それだけの
意志を
自分は出せる
自分になれたか?
そう
信じられるか?
・・・それだけ。
ただ、
それだけ。
ここで
すべてが
決まる。
つづく
それが誰か
は
わからないままに、
目の前に
その人の気配を
感じ、
必要を感じ
その人と一つに
なってみた。
その人はまだまだ
エネルギーの
開花度合いは
低いようだ。
今、現時点では。
何かあれば
フッと
消えてしまいそうな
パワー。
一つになるだけで
消えてしまいそう。
でもその人は
「私には
やることがある」
と
何かを
決めているようだ。
でも
それをするには
パワーが足りなさ
過ぎる。
どんな形でも
良いから、
このパワー不足を
補いたい。
どんな形でも
良いから、
その、すべきことを
成し遂げたい。
どんな形でも
良いから・・・。
という悲しみとさえ
受け取れるような
深い意志がある。
あなたは
誰ですか?
なぜ
私のところに
来たのですか?
そう問うている
うちに、
その人のエネルギーも
存在も
消えてしまった。
何も
わからないままだ。
私に何か
できることが
あるのだろうか?
そもそも
いったい誰だろう?
誰か
わからない
人の意志。
この世には
たくさんの意志が
漂っている。
それが
果たされないままに。
意志を果たせる
世の中になると
いいな、と、
こんな時は
いつも思う。
そのためにも
人は
もっともっと
強くならねば。
人が
世の中を変える
しか
ないのだから。
つづく
「意志」には
距離がある。
あなたのその意志は
自分自身と
どれくらいの距離が
あるだろうか?
その意志は
自分のすぐ目の前に
あるのだろうか?
すぐ後ろだろうか?
横だろうか?
斜めだろうか?
もしくは、
もっと遠くに
あるのだろうか?
何mくらい
遠くだろうか?
ひょっとして
何km?
もちろん遠くに
なればなるほど、
その意志は
自分とは別物となる。
だから
何かの拍子に
すぐに飛んでなくなる。
近くにあれば
あるほど、
その意志は
自分にとっては安定した
強いものとなるが、
それでも自分とは
別物だ。
だからいつも
意識して
思い出さねばならない。
あなたのその意志は
今、どこにあるだろう?
どれくらいの
距離があるだろう?
そんな観察の仕方を
してみるといい。
そして
大変に稀だが、
距離がゼロ
ということがある。
つまりその意志は
自分と一つ。
自分そのもの。
「自分=その意志」
という
そんな意志がある。
本当は
誰にもある。
しかし
そんな意志を
見つけられる人は
少なく、
もし見つけられたら
その人はとても
幸福だろうな。
自分からの
距離の遠い意志は
大したことはない、
ということではない。
どの距離の意志も、
もしそれが
自分の望む意志で
あるならば、
大切にすればいい。
様々な意志を
大切にできる人こそが、
この意志は
自分自身である
という
距離ゼロの意志を
自覚することが
できるようになる。
さぁ、
自分の意志を、
様々な距離の
意志を、
見つけよう。
自分の意志
なのだから。
つづく
自分の中にある
とてつもなく
強い意志を感じたら、
その存在の
確固たるを
知ったら、
その意志から
自由になると
いい。
意志から
脱け出そう。
意志を
忘れてしまおう。
その方が
結果的に
より早く
意志を成就
できる。
本当に確固たる
意志で、
それが
実在であるならば、
あなたは
その意志だ。
あなたという
存在そのものが
その意志なんだ。
であれば、
もう、それでいい。
あとは
自由だ。
あなた自身が
その意志である
ならば、
あなたが
自由に振る舞えば
振る舞うほど、
その意志は
最短の道で
成されていく。
それを
楽しめばいい。
意志を持ち、
意志そのもの
となり、
意図を手放す。
そんな進み方を
楽しめばいい。
つづく
あまりに
頼りない一歩だと
しても、
今の自分が
「この一歩だ」
と思うのなら、
その一歩を
進めばいい。
頼りないとか
力強いとか
関係ない。
すべては
自分の意志だ。
私達は
頼りなさを
能力の視点から
感じることが多い。
自分には
そんな能力はない。
だから
頼りない、と。
そして、
能力をしっかりと
つけてから
一歩を踏み出そう、
と
する傾向がある。
しかし
それでは遅い。
しかも
それでは
その一歩の意味すら
失われる。
今のその
頼りない能力だから
こそ、
その一歩には
大いなる意味が
込められるんだ。
今の自分
だからこそ
その一歩に
価値が出るんだ。
だから
能力のみで
決めてはならない。
自分の意志
で判断しよう。
「意志」と
「能力」を
区別しよう。
そのためには
次の問いを
自分に投げれば
いい。
「もし私に
能力が充分にあれば、
この一歩を出したいと
素直に思うか?」
もしYES
であれば、
何としてでも
その一歩は
出すといいよ。
つづく
何もない
広大な大地に、
たった一輪だけ、
花が咲いた
とする。
ちょっと
イメージしてみて
ほしい。
その花は
どんな花?
もしイメージ
できるなら、
その花を
じっと見つめて
みてほしい。
花と
しばらく無言で
対峙してみてほしい。
すると、
花の意志(意思)
が
何となく
伝わってくるはずだ。
その意志(意思)は
あるがままに
感じるだけでもいいが、
でも可能なら、
できるだけ
言語化してみよう。
言語化できたら、
今度は
あなたはその花を
どう育むか?
を
考えてみてほしい。
その花はまだ
小さいので、
目を離すと
すぐに枯れてしまう
かもしれない。
その花が
丈夫に育つために、
あなたは
その花に
どんな栄養を与える?
どう育てる?
そしてそれは、
現実の世界においては
具体的に
あなたが
どんな行動をとることで
成されるのだろう?
花。
それは
あなたの中に
芽生えた
新たな願いであり、
新たな使命であり、
新たなビジョンであり、
新たな
真本音だ。
真本音とは
本来、
揺るがないものだが、
でもそれは
日常における
あなたの行動と
結びつけないと、
すぐに
地中に戻ってしまう。
花が本当に
逞しく咲くためには、
あなたの
普段の行動が
必要だ。
だから
花を育てるように、
あなた自身の
真本音を
育ててほしい。
あなたの
新たな意志(意思)は
何て言ってる?
つづく
風が
吹いている。
強い風だ。
一方向から
というよりも、
様々な方向から
突風も伴い
吹き荒れている。
最も
危険な風だ。
私達は
今その中に
立っている。
ここからさらに
進むかどうか?
吹き荒ぶ風の
中を
あえて進まねば
ならない
ことはない。
風の動きを
感じながら、
風が止む瞬間に
前に一気に
進む。
実は私はそれを
最もお勧めするが、
しかし
その方法でしか
進めない、
というのも
あまりに選択肢が
狭い。
風が吹いて
いようと
いまいと、
どの状態でも
進める私達で
ありたい。
現実や状況は
よく観察し、
現実や状況は
よく受け入れ、
できることと
できないことを
区別し、
自らの能力も
客観的に見つめ、
その時その瞬間の
選択をするのが
最善だ。
最善の道を
行けばいい。
だが。
それをいつでも
逸脱できる
私達でも
ありたくないか?
いつでも
逸脱できる私達
だからこそ、
最善の選択を
し続けられる。
そういうもの
ではないか?
「最善」を
「守り」の口実に
してはならない。
「最善」とは
あくまでも
進むための選択だ。
進まないのを
風のせいに
してはならない。
あらゆる
現実の中で
自分自身の
私達自身の
意志は
意思は
何か?
ということだ。
私達は今、
その意志(意思)を
問われているんだ。
つづく
実在のレベル(心の中)
は整ってきたのに、
それを
行動に移せない、
つまりは、
現象化(現実化)できない、
という意味での
不一致による歪みが
様々な不調和を発生させた。
というのが、
ここ数年の世の中全体の
傾向だ。
しかしそれ以前は、
実在のレベル(心の中)
そのものが
まったく整っていなかった。
そんな時代が
長く続いた。
その頃に比べれば、
随分と
問題は浅くなってきた。
対策も
楽になってきた。
とはいえ、
この数年も
大変だった。
本当に。
・・・・・・
実在そのものが
整わないことによる、
実在と現象の不一致。
それが改善され、
実在は整ったが、
まだ現象化の力が弱い
ことによる不一致。
これがここ数年の
傾向。
そして今、
この傾向がまた崩れ、
私達は
さらに前に進もうと
している。
実在が整い、
それがそのまま
現象化されていく。
という実に健康的な
世の中に
ここから急ピッチで
近づいていくだろう。
ようやくここまで
来たんだなぁ、と
ちょっとだけ
感慨もひとしおだが、
しかし
感慨に浸っている
場合ではない。
これまでは
あえて言えば、
病気を治す時代。
ここからは、
健康体に近くなり
どんどん
進む時代だ。
そういった意味での
時代の「断絶」が
あった。
・・・そう、
過去形だ。
つまり既に
「断絶」を越えたように
私は思う。
・・・・・・
これからの時代を
私は
「自業自得の時代」
と呼ぼうかな。
そう。
ようやく「自業自得」が
機能する時代に
なれたのだ。
「自業自得」とは
とても良い意味で
私は捉えている。
良いことをしたら
良いことが返ってくるし、
悪いことをしたら
悪いことが返ってくる。
という実に
健康的な状態。
だからとても
わかりやすい。
自分に悪い「現実」が
来たら、
要するに
自分に問題があるのだ。
だから
しっかり「反省」すれば
いい。
反省して次に進めば
道は開いていく。
実に
健康的だ。
・・・・・・
ということは、
真本音の願いに
基づき
日々、行動する人は
そういった
道が開かれていく。
そうでなければ、
道は頓挫する。
迷って止まり続ける
人は、
そこから一歩も
動けなくなるし、
進もうとする人は
進むことができる。
要は
その人の意志(意思)に
よる。
意志(意思)が
そのまま
現実化し、
自分に返ってくる。
単純明快。
だから、
これからこそ、
自分の生き方を
大切にするといい。
迷ったら、
自分自身に問えばいい。
本当は
自分は
どうしたいのか?
と。
ここに真摯であれば、
真摯な現実が
返ってくるだろう。
つづく
私達は
生きていれば、
様々な混乱や困難が
目の前に現れるが、
それらに
揺らされる必要は
まったくない。
いや、もちろん
心は揺らされても
いい。
というか、
心は揺れる
ものだ。
自由に揺らせて
おけばいい。
かと言って
自分自身の軸
までをも
揺らす必要はない。
というか、
これも正確に言えば、
中心軸は
常に揺れることは
ない。
という事実を
自覚すればいい。
それが
真本音の中心軸
ならば。
(→【中心軸を持って進もう】)
・・・・・・
がんばって
それを維持しなければ
ならないのであれば、
残念ながらそれは
真本音ではない。
真本音とはもっと
大きく深く
圧倒的なものだ。
私達地球人から
見れば、
地球そのものと
同じくらいの
安定感。
それが
真本音だ。
ところが、
私達の意識は
常に、
反応本音の中に
埋没している。
喩えて言えば、
反応本音という
濃い雲の中に
入り込んでいる。
その中にいると、
周りは一面の
灰乳色だ。
何も見えない。
地球にいるのに、
それすら
わからなくなる。
だから
揺れる。
何も見えないから
私達は
揺れてしまう。
何度も言うが、
心そのものは
揺れてもいいが、
自分の存在そのもの
まで
揺らしてしまう。
自分の人生の
道さえ
揺らしてしまう。
見えない
からだ。
じゃあ、
この灰乳色の雲から
どう抜け出せば
よいか?
方法を教えてよ!
という声を
よくいただく。
もちろん
方法はある。
いくらでも。
でも、
肝心なことは、
その雲から
抜け出すことは
実は
いつでもどこでも
誰でも
すぐにできる
ということだ。
ちゃんと
意志さえ持てば。
しかし
雲の中にい続ける
ほとんどの人は
自ら望んで
その雲の中に
いる。
出ようと
しない。
コーチングなどの
サポートを通じて、
雲から抜け出す
直前まで行っても、
最後の一歩は
自らの意志で
進まねばならないのだが、
その一歩を
拒否する人さえ
たまにいる。
雲から抜け出し、
地球を見て、
自らの本当の中心軸に
沿った人生を
進めると言うのに、
そちらに
行こうとしない。
どうやら、
そういう人生は
面倒だと
思っているようだ。
雲の中でも何でも、
ある種の安定が
ありさえすれば、
一生このまま
行けばよいではないか。
というように
考えているようだ。
しかし残念ながら
一生そのまま
行くことは、ない。
なぜなら
その人自身の
真本音が、
それを許さないから。
私達には
人生の目的が
ある。
その目的を
果たすために
生まれて来た。
それは
自分自身との
約束とも言える。
真本音の中心軸とは、
その約束を
言語化したもの、
とも言える。
自分の中では
人生を進む上で
最も大切なものだ。
この中心軸に
沿った生き方を
するからこそ、
出会う人とも
出会い、
幸せな仕事も
幸せな家庭も
幸せな仲間も
できる。
何よりも
生まれて来た
満足感を
日々、
得続けることが
できる。
そしてそれは
やろうと思えば
誰もが必ずできる
はずなのに、
それをしない自分に
対して、
自分の真本音が
怒りまくるのだ。
つまりは、
自分で自分を
叱るようになる。
心の奥底で。
その怒りによる苦しみは
最初は麻痺を
しているかもしれないが、
ある瞬間から
その限度を超える。
あまりの
苦しさや、
あまりの
不安や、
あまりの
モヤモヤに
わけがわからなくなる。
そういった
自覚症状のある
人達が
今は急増している。
これからの時代は
まさしく
正解のない時代だ。
正解は
自らの意志で
自ら
創り出さねばならない。
つまりは、
自分の意志で
しっかりと雲から出て、
地球という大地に立って
歩み始めなければ
ならない時代だ。
だから
今こそちゃんと
自分を見つめよう。
自分の人生を
見つめよう。
つづく
私達は
非常に強い「意志」
を持って
この世に
生まれてくる。
生まれたばかりの
赤ちゃんや、
街中で
抱っこされている
幼い子ども達と
一瞬でも
向き合えば、
それが
よくわかる。
最初は
それらの「意志」は
言葉には
ならないものだ。
しかしそれは
非常に強い。
その「意志」により
私達は恐らく
「私」という
存在として
「ここに在り続ける」
ことが
できるのだと思う。
じゃないと
辛くてしょうがない。
生まれたての
赤ちゃんは、
「自分」と「自分以外」の
区別がついていない。
その状態から
徐々に
「自分」が
分離されていく。
それはつまり
「つながり」を
喪失していくこと。
「孤独」への道を
突き進むこと。
これを私は
「次元を下げる」
と表現しているが、
あえて
この世に生まれる
ことで
次元を下げるのは
誰もが
とてつもなく
辛いことだ。
その辛さに
打ち勝つには、
強い「意志」が
必要だ。
逆に言えば、
誰もがそれほどに
強い「意志」を
持っているからこそ、
誰もが
「分離」を実現する。
それが
この世における
人生の始まり。
だから
私達の人生は
その「意志」と
共にある。
・・・・・・
今、ここにいる
自分の
今のこの意志は
その
「意志」と
一致しているだろうか?
その
「意志」を
尊重しているだろうか?
生まれた時から
私達の中にある
「意志」。
ここに素直に
生きる人は
常に内側から
エネルギーが
湧き続ける。
それは
「私の人生」を
きちんと生きている
証だ。
「私の人生」
を
生きる者は、
個性と力が
溢れる。
どのような環境
においても
自らの道を
創り出すことが
できる。
その道は
周りとの調和を
起こし、
進化につながる。
私は
すべての人が
「意志」
を
思い出すとよい
と思っている。
本当は
その「意志」は
いつでも「ここ」に
ある。
その人の「意志」は
その人自身でも
あるからだ。
だから決して
難しいことじゃ
ない、
「意志」と共に
歩むのは。
「意志」を忘れて
しまっていた人は、
「意志」を
思い出すことで、
その瞬間から
人生が変わるだろう。
「環境」が変わる
わけではない。
「環境」を
変えなければならない
わけでもない。
ただ、
「人生」が
変わり始めるのだ。
調和の人生に。
道を築く
人生に。
私は、
すべての人が
そうなるといいな、
と
願いながら、
今の私にできる
最大のサポートを
今日も
し続ける。
つづく
少年が佇んで
川を見つめていた。
太陽が沈み、
日が翳り、
少年の表情も
もうすぐ
見えなくなるだろう。
だから私は
今のうちに
彼の横顔を
じっと見ることにした。
私は彼の
横顔が
好きだった。
少年は
私から見られているのを
まったく気にもせず、
ただ
川を見つめ続けた。
少年には
夕日の赤が
よく似合った。
これから
人生に繰り出して
行くはずなのに、
まだまだ
スタートラインから
それほど進んで
いないのに、
なぜか彼には
夕日の赤が
よく似合った。
悲しげな
表情が
似合っていた。
君はここまで
いったい
何を見てきたの?
そう
問いかけたく
なるのだが、
いつも私は
口をつぐんだ。
彼の悲しげな
顔の
その一枚奥には、
とてつもない
意志を
感じるからだ。
何をどう
話しかけても、
少年のその意志を
汚してしまう
気がした。
だから私は
じっと彼を
見つめるだけに
した。
少年は
佇んでいた。
夕日の赤が
とてもよく
似合っていた。
・・・・・・
彼はきっと
何も知らないのに、
すべてを
わかっていた。
これまでの
彼の歩みに
降りかかってきた
ことも。
これから彼の身に
起こるであろう
未来も。
自分だけでは
ない。
他人の痛みも
喜びも
すべてを
彼はわかっていた。
なぜ自分が
また
ここにいなければ
ならないのか。
それを見つめる時、
どうしても
その悲しげな顔に
なってしまう
という
その事実さえも
彼はよく
わかっていた。
少年の目に映る
その川と、
彼は自分の区別が
ついていないのだろう、
と
私は思った。
彼は
川であり、
そして
彼は彼で
あった。
その、
誰も感じることのない、
悲しさを
彼は確かに今、
感じているのだろう。
それがわかる分だけ、
私は彼に
何もできないでいた。
・・・・・・
少年の意志の
強さを、
私は恐らく
誰よりもよく
知っている。
だから私は
少年と共に
いる。
少年の隣に
立ち続けている。
私は彼を
支えるのだろうか?
いや、きっと
支えなくとも
彼は
歩んで行くのだろう。
私は
祈ればよいのか?
彼のために
祈り続けるだけで
よいのか?
恐らく彼は
それすらも
望んでいないだろう。
大人になった彼は
きっと
私の存在に
気がつき、
きっと笑顔で
私に言うのだろう。
ずっと
そこにいて
くれたんだね。
ありがとう、
と。
その日が来るまで
私は、
ただそっと
彼の隣に
立ち続けよう。
つづく
私達の人生には、
「今しかできないこと」
があります。
過去の自分では
できなかったこと。
と同時に、
未来の自分にも
できないこと。
つまりは、
今の未熟さがあってこそ
できること。
そういったものが
必ずあります。
今を大切にする、とは
今しかできないことを
やり切る
ということでもあります。
私達は
目指す自分の姿と
今の自分の姿と
見比べて、
「あぁ、まだまだだなぁ」
と落胆します。
そういった落胆が
成長意欲を掻き立てて
くれることも
確かにありますが、
今の自分は、
今のこの瞬間にしか
存在しないのです。
今の自分。
この自分。
ここにいる自分。
・・・だからこそできる
一つの行動。
それを一つ一つ
丁寧に
人生に刻みつけて
いきましょう。
・・・・・・
大変、ありがたい
ことですが、
私よりも若い方達が
「たけうちさんみたいな
力を持ちたい」
と言いながら、
私から学ぼうと
されています。
本当に
ありがたいことです。
彼らは、
自分と私(たけうち)の
能力を見比べて
「自分はまだまだ・・・」
と少し落ち込みます。
そしてとても真剣に
私に向かってきます。
そんな彼らの
真剣さと真摯さと、
彼らの放つエネルギーが
本当に心地よく、
あぁ、俺もう、
死んでもいいかな。
と思えるくらいに
幸せになります。
(死にはしませんが。)
でも、
彼らは、今の私(たけうち)と
自分自身を比べる
のですが、
そりゃ、能力劣っていて
当たり前ですよね。
だって、私は
22、3年もずっとこの仕事
続けてるんですから。
今の彼らの年齢の頃の
私は
はっきり言って
今の彼らの足元にも
及びません。
ですから私は
純粋に彼らを
尊敬しています。
尊敬できる人達に
教えることができる、
という
この悦び。
この悦びを
どう表現すれば
よいでしょうか。
・・・・・・
人一人の人生は
短いです。
ですから、
人の意志や願いや祈りは
人から人へと
伝承されていきます。
それをすることこそが
私達人間の
根本的欲求の一つ
だと思います。
一人の願いが
他の人の願いと共に
絡み合い、融合されながらも
永遠に続いて行く。
願いや意志は
目には見えませんが、
ずっと「ここ」に
残ります。
そういった自分の
願いに基づいて、
今ここを
大切にしましょう。
自分の願いに基づき、
今ここにいる、
今にしかいない
自分が、
今しかできないことを
するのです。
それが
人生です。
人生の
醍醐味です。
今を
かみしめましょう。
今は
今にしかありません。
今を
かみしめることが
できる人は、
永遠を
かみしめることが
できるのです。
つづく