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試行錯誤を
恐れてはならない。
私達の真本音は
「良い試行錯誤」
をしながら進む
ことを望んでいる。
むしろ
試行錯誤せずに
進むことは
まったくと言ってよいほど
望んでいない。
なぜなら
試行錯誤のそのプロセス
でこそ
そこでしか
見つけ出せないこと
があるから。
それこそが
人生の宝物。
その宝物を
得るために
人生を生きている
と言っても
よいくらい。
だから、
試行錯誤の後に
自分の望む成果を
手に入れる
という
過程と結果
の両方を
とても大事にしている。
試行錯誤
ということは、
その時その時においては
「上手くいかない」
とか
「わからない」
とか
「道を見失う」
とか
そういうことを
何度も体験することに
なる。
そこには必ず
悔しさ
や
不安
がつきものだ。
これが嫌なので
私達は
試行錯誤を避けようと
する。
でも
本当に試行錯誤と
向き合う人は、
その一歩一歩を
大事にする人は、
実は
悔しさや不安以上の
ものを
常に手に入れられる。
それが、
「進んでいる」
という実感だ。
まったく進んで
いないのに、
心は悔しさや不安で
いっぱいなのに、
その次元ではない
もっと奥の奥の
方で、
もっと根底の
部分で、
何かがとてつもなく
満たされている。
何かがとてつもなく
静かで安定している。
そんな感覚が
常にわかるように
なる。
それが
「進んでいる」という
実感、
つまりは
「進化の実感」
だ。
これを
感じ取れるようになると
強い。
あらゆる現実に
立ち向かえる
ようになる。
心がどれだけ
揺れようが、
心の揺れに
自分が揺らされなく
なる。
まるで
根を張った大樹の
ような
自分になれる。
そして
そうなると逆に
今ここにおける
この試行錯誤は
本当に必要な
試行錯誤か?
そうでないか?
が
ありありとわかる
ようになる。
で、
本当に必要な
試行錯誤のみを
選べるようになる。
それがさらに
「進化の実感」を
強くする。
早くそうなれると
いいね。
そうなるための
まず第一歩は、
自ら進んで
試行錯誤を始める
ことだ。
つまりは、
挑戦
することだ。
これまでの自分の
限界を超えそうな
挑戦を
してみること
なんだ。
つづく
試行錯誤は
大事だな。
と思う。
「成就」の前には
必ず試行錯誤が
ある。
試行錯誤のない
成就はない。
よく私は、
「調和」という言葉を
使うが、
調和とは、
物事がすぐに成就する
という意味ではない。
調和とは、
私は「進化」そのもの
だと思っている。
そして、進化には
試行錯誤が
必須だ。
だから私は
調和とは、
進化につながる試行錯誤
を続けている状態
だと思っている。
人生とは、
そのような試行錯誤を
楽しめるかどうか?
ではないか。
試行錯誤の
一歩一歩を
自分の本来の生き方と
生き様で
一つ一つの現実を
味わい、噛み締めながら
進んでいく。
もちろん試行錯誤なので、
三歩進んで二歩下がる
こともあるだろう。
いや、時には
一歩しか進んでないのに、
四歩も五歩も
下がらなければならない
こともある。
それでも一歩を
出し続けること。
それを自らの
真本音で
行ない続けることが
最も大事なことだと
私は思う。
私達の真本音は
「成就」をもたらして
くれるのではない。
意味の深い試行錯誤を
もたらしてくれる。
進化への一歩一歩を
もたらしてくれる。
だから結果として
真の成就となる。
私達にできることは
真本音の一歩だ。
次の一歩を
真本音で
進むんだ。
つづく
人生とは
試行錯誤の連続
だ。
試行錯誤が
あるからこそ、
大切な何かを
見つけられ、
その「何か」が
次のステージへの
ヒントとなる。
だから
思う存分に
試行錯誤をすればいい
と思うのだが、
しかし中には、
必要のない試行錯誤を
続けている人もいる。
ちょっとキツい言い方
をすれば、
自己満足の試行錯誤
ということに
なるだろうか。
本当はもう
先に進める自分に
なれているし、
どんどん道を
進み、
次のステージに入る
準備もできているのに、
試行錯誤を
するのだ。
試行錯誤を
繰り返すことで
先に進むことを
避けている。
つまりは
現実逃避のための
試行錯誤だ。
多くの場合は、
当の本人は
それを無意識に
やってしまっている。
自己満足を
している人や
現実逃避を
している人は、
残念ながら
本人には自覚が
ない。
場合が多い。
そんな人から、
必要のない試行錯誤に
ついての相談を
いただくと、
だいぶ困ってしまう。
答えようが
ないのだ。
何をどう答えても、
それは
自己満足の試行錯誤を
助長していることに
なるからだ。
だから本当は、
「あなたは今、
自己満足の試行錯誤を
していますよ」
と、ちゃんと
お伝えしたいのだが、
がしかし、
そういう人ほど
心がとても弱っている。
現実逃避って
キツいから。
当の本人が。
しかも、
心の奥底で
現実逃避をしている自分を
責め続けるものだから、
さらに心が
弱っていく。
そんな弱っている人に
到底、
上記のフィードバックは
できない。
もしそれをしたら
心が潰れてしまうだろう。
だから結局は、
見守るしかなくなる。
・・・・・・
一方で、
今、
最速で進む人が
増えている。
その人達は
ガンガンと
激しい試行錯誤を
始めている。
そこに躊躇は
ない。
未開の地に
平気で突き進む。
いや、本当は
平気ではないはずだが、
勇気を持つとか、
そんなレベルではない
覚悟で、
突き進む。
しかも当の本人は
とてつもなく
楽しそうだ。
自己満足の試行錯誤
は、
その人自身を
疲弊させ続け、
最後には
歩く力も立つ気力も
失われていく。
しかし、
本当に必要な試行錯誤は
その人自身に
次々に新たな力と
新たなエネルギーを
与え続ける。
そして
その人は
次元を飛び越えて
行く。
二つの
試行錯誤。
同じ試行錯誤であるが、
本質が真逆の
試行錯誤。
それが今、
あちらこちらで
渦巻いている。
試行錯誤の
時代だな。
つづく
どれだけ力を
尽くしても、
届かないものは
ある。
どれだけ自分を
生きようとしても
見えないものは
ある。
自分の中で
「こうありたい」と
抱く理想を
その通りに
実践、実現できる
ようには
この世はできていない。
何の試行錯誤や
努力もなしに、
「成功」し続けるようには
この世はできていない。
この世を
そのようにしたのは、
別に神様でも何でもない。
私達自身だ。
私達の真本音だ。
追えば追うほど
わからなくなる。
求めれば求めるほど
遠のいてしまう。
その葛藤や
迷いや苛立ちや
自暴自棄。
それらを
私達は
一つ一つ丁寧に
「超えていく」
ことを
実は最も望んでいる。
なぜなら
それは「進化」への
最短の道だから。
しかし、
だから人生は
辛い。
・・・と言うつもりは
ない。
実は、
思い通りに
ならないところに
道を創っていくことは
さほど
難しいことではない。
答えはちゃんと
私達の中に
あるのだし。
私の表現で言えば、
自らの真本音に
素直に生きればいい。
そうすれば、
必要な試行錯誤を
必要なだけして、
必要なプロセスを
経て、
ちゃんと
願いや祈りは
叶っていく。
真本音で生きれば、
真本音の願いと
祈りは
淡々と
叶っていく。
真本音で生きなければ、
真本音の願いは
いつまで経っても
わからないし、
当然、
真本音ではない
願いを目指しても
それは
叶わない。
自分が本当に
目指しているものは
何か?
それをするために
今、
何をすれば良いか?
その単純な
答えは、
真本音に素直に
生きることで
実は
本当に簡単に
淡々と
観えてくる
ようにできている。
しかし
その状態に行くまでが
大変で、
その過程で
私達は
大概、
自暴自棄になる。
何をやっても
上手く行かない。
全然
想い通りに
ならない。
・・・であれば、
自分自身が
真本音では
ないのだ。
自分の「生き方」に
何か
圧倒的な
「間違い」
があるのだ。
もちろんその
「間違い」とは、
世間一般から見た
「間違い」ということではなく、
自分の中で
「間違い」と決めている
間違いだ。
「その生き方は
違うよ」
「そっちでは
ないよ」
ということを
自らにメッセージしている
ということだ。
そして
その「間違い」の
多くは、
皆、ほぼ共通している。
次の問いを
自分に投げて
みよう。
「私は今、
目の前にある
すべての現実に
真摯に
向き合っているだろうか?」
「私は今、
目の前にある
すべての現実を
真摯に
見つめているだろうか?」
「私は今、
目の前にある
すべての現実に
真摯に
魂を込めて向かって
いるだろうか?」
上手くいくこと。
いかないこと。
好きなこと。
嫌いなこと。
やりたいこと。
やりたくないこと。
そのすべての
「現実」に
ちゃんと向かい合って
いるかどうか?
まずこれが
できないうちは、
真本音は
遠のいてしまう。
という単純な
理由がある。
それができていない自分を
私達は「間違っている」と
認識する。
真本音では。
だから、
まず、
それをしなさい。
できるかどうか
ではなく、
「しよう」と
しなさい。
自分の道で悩む
のは、
その次の段階だな。
つづく
よく、
「私の評価は本来
他者がするものなので、
自己評価は
しません。
他の人に訊いて
ください」
と
言われることが
ある。
一見、
そうだな
とも思うのだが、
私はいつも
違和感を覚える。
仕事に関して
自己評価をしない
人は
プロと言える
だろうか?
常に
客観的に自分と
自分の仕事を
みて、
他の人からの
評価も
しっかり聴いて、
自己評価と
他者評価の
差異を
見つめることが
プロとして
当たり前のこと
ではないだろうか。
もちろん
すべての評価は
その人その人の
主観による。
それが
正確な評価か
どうか?
は
わからない。
しかし、
すべてに真摯に
耳を傾けることで、
その奥に
「真実」
が観えてくる。
その真実と
向き合い続ける
ことこそが、
プロとしての
自身の成長(進化)に
つながるのでは
ないか。
誰もが
評価を受けるのは
怖い。
こんなに
がんばっているのに、
なぜ誰も
そこを評価して
くれないのだ?
と
苛立つことや
悲しくなることも
あるだろう。
が、
それが事実であり
現実であり、
人間関係でも
ある。
真本音で生きる
からと言って、
すぐに評価に
つながるわけでは
ない。
真本音の想い
は
きちんと
「カタチ」しなければ
ならない。
「カタチ」に
することができて
初めて
「想い」は
ここに存在した
ことになる。
どれだけ
心の中で想い
続けても
それだけでは
永遠に
自己満足の世界に
過ぎない。
くらいに
思うことが
普通だと思う。
想いは
カタチに
せよ。
そのためには
想いを
行動に
移せ。
その行動は
最初は
効果を出さない
かもしれない。
効果どころか、
失敗とか
後退とか、
するかも
しれない。
しかしその
試行錯誤を
経ずして、
想いをカタチに
現すことは
できない。
試行錯誤のない
前進は
ない。
もし
試行錯誤を
していないのなら、
それは
本当には
前進していない
のだ。
それこそ
自己満足。
何があっても
前進しようと
すること。
自分の
想いは
自分がまずは
信じ抜くこと。
恐れても
いいから
恐れず
足を前に
踏み出し続ける
こと。
それがまた
真本音で生きる
ということだ。
つづく
人生は
試行錯誤の連続
である。
悩み、迷い、
それでも決断し、
やってみて
結果が出て、
また、迷う。
その連続。
真本音度合いが
高まると、
それがなくなるのですか?
と、時々
訊かれるが、
それは
なくならない。
何も
変わらない。
えぇ〜?
じゃあ、意味ないじゃん。
と
思われるかもしれないが、
そうではない。
試行錯誤には
2種類あるからだ。
つまりは、
どれだけ試行錯誤しても
前には進めない
という
試行錯誤がある。
同じところを
グルグル回り続ける
試行錯誤だ。
これは本当は
試行錯誤とは
言わない。
停滞、
と言った方がよい。
もう一つは、
手応えのある
試行錯誤だ。
これは、
試行錯誤自体に
とてつもない充実感を
得る。
とはいえ、
あくまでも試行錯誤
なので、
本気で悩むし
本気で迷う。
しかし、そこを越えて
自分なりの決断ができると、
目の前の視界が
一気に開ける。
それはまるで、
すべてから
解き放たれ、
すべてから
自由になれたような
そんな感覚。
これを私は
「脱皮」
と呼んでいるが、
この、脱皮を伴う
試行錯誤が
本来の試行錯誤だ。
真本音度合いが
高まるということは、
「停滞の試行錯誤」が
なくなり、
「脱皮の試行錯誤」のみが
始まる
ということになるのだ。
・・・・・・
もちろん、
悩むのも
迷うのも
苦しいことだ。
できれば、
悩みも迷いも
まったくない
人生がいい、
と思うだろう。
しかし人間、
面白いもので
そういった意味での
安定を得ると、
途端に
生きがいを失くし、
「自分」を失くす。
生きがいとは、
生きる意味を
感じていること。
生きる意味を
感じない人生は
誰もが
放棄したくなる。
「私は安定を
求めます」
と
誰もが言う。
安定のために
がんばっている人は
多い。
しかし、
そういった意味での安定を
実際に手に入れてしまうと、
残念ながら
冒険したくなるのが
人間だ。
実はここで言う
安定
は、本来の安定では
ないからだ。
・・・・・・
本来の安定とは、
自転車のような
ものである。
つまりは、
進み続けることで
安定する。
止まってしまうと
倒れてしまう。
それが自転車であり、
人間も
同じようなものだ。
ということを、
何万人という人達と
向き合うことで
私は実感した。
私達は
「進むことによる安定」
を
最も望む生き物
なのだ。
恐らくこれが
宇宙の摂理
だ。
だから私は
人間の本能の中心は
「進化」
であると思っている。
・・・・・・
進化が始まると、
誰もが
イキイキする。
目は輝き、
その人らしさが溢れ、
「毎日が楽しくて
しょうがありません」
と言う。
進化が止まると、
途端に人は
元気を失くすし、
輝きを失くす。
それは
あまりにも
顕著だ。
顕著すぎて
笑ってしまう。
そして、
進化にどうしても
必要なのが
「試行錯誤」
である。
もちろん
「脱皮の試行錯誤」
だ。
真本音で生きる、
とは
そういった
私達人間の本能に
素直に生きる、
ということで、
それにより
多くの人達の人生は
冒険的になる。
冒険、
と言っても
決して、無茶は
しない。
真本音は
「できることしか
しない」
のだ。
しかし、
素直にそれを
やり続けると、
側から見れば、
「あの人
無茶だ」
と思われることは
しばしばあるが。
でも本人は
決して
無茶はしていない。
できることを
着実に
日々、行ない続けて
いるだけ。
しかもそれは
自分にとって
最も「適度」な
刺激を伴いながら。
だから、
楽しい。
真本音の人生に
入ると、
すべてが楽しくなる。
そういった人生は
誰もが、
つまりは全員が
手に入れることが
本当はできる。
・・・・・・
実は、
今の私は
試行錯誤の真っ只中
にいる。
迷いの
真っ只中だ。
手がかりが
つかめない。
まったく
つかめない。
だからこそ、
とてつもなく
面白い。
と、
素直に感じることが
できるのは、
ずっと真本音で
生きてきた成果かな、
とも思う。
つづく
真本音で生きる
ことは
幸せですか?
と問われる
ことがあります。
もちろん幸せ
ですよ。
と答えるのですが、
では、
何が幸せですか?
と問われると、
一瞬、返答に
窮することがあります。
なぜなら、
何が?
と言われても、
すべてが、
としか言いようが
ないからです。
しかし、
すべてが
という答えほど
曖昧な表現も
ありません。
もっと明確に
ならんかな?
と思うのですが。
・・・・・・
すると、
次にはこう
問われたりします。
ということは、
すべてが理想通りに
いくのですか?
と。
いや〜、
もちろんそうなると
良いのでしょうが、
残念ながら
理想通りに事が進むことは
ほぼ、
ないのです。
「理想」は
大事なのですが、
「理想」とは所詮、
今の自分が解釈する
最高の状態
にしか過ぎません。
例えば、
10年後の自分の理想と
今の自分の理想は
変化する可能性が
ありますね。
下手をすると
真逆になることさえ
あります。
自分にとっての「理想」
とはどのようなものか?
というのは、
実はかなり曖昧です。
ただ、
今の自分なりの「理想」
を描くこと自体は
大事なのですけどね。
・・・というようなことを
踏まえた上で
もう一度言うと、
理想通りに進むことなど
ほぼ、ありません。
この3次元の世界に
おいては、
理想がそのまま
現実化するという状態は
滅多には実現しません。
そのように
できています。
もっと言えば、
そのように
私達の真本音が
決めているのです。
つまりは、
私達の真本音は
理想通りにいかないことを
望んでいます。
かと言って
不幸になることを
望んでいるわけでも
ありません。
理想と現実の
ギャップを楽しむ、
ことを
真本音は望んでいますし、
私達の解釈でしかない
理想を
超えていくことをまた、
真本音は望んでいる
のです。
以前は
ああいうことが理想
だったのに、
今の私は変わったなぁ。
今は、
こういうことが理想だな。
・・・という変化を
私達の真本音は
楽しみます。
そして、
「理想通りに物事が
進むこと」
を望むのではなく、
「自分にとって
本当に必要な
試行錯誤を続けること」
を
望んでいるのです。
ですから、
真本音の人生には
次々に課題が
現れます。
しかしその課題に
真正面から向き合い、
最善だと思う一歩一歩を
進むことに、
私達の真本音は
無上の悦びを得るのです。
なぜなら
私達の本能の中心は
「進化」だからです。
物事の「達成」とは
「進化」のための
ステップに過ぎません。
「達成」はとても
大切です。
しかし、
「進化」につながらない
「達成」では、
私達の真本音は
悦びません。
「進化」につながる
試行錯誤と
一つ一つの達成を
私達は
真から望んでいるのです。
・・・・・・
そういった意味で、
真本音で生きると、
日常で起こる
あらゆる現実が
「幸せ」となります。
一歩一歩の
試行錯誤にこそ、
深い悦びを感じます。
もちろん、
何か達成した時も
強い喜びを得ますが、
真本音で生きている人は、
達成の喜びの
その瞬間に、
もう次の未来へと
視線を向けています。
反応本音レベルで
それをしようとすると
非常に疲れてしまう
のですが、
真本音でそれを
続けることは、
私達の中に眠っている
無尽蔵のパワーを
掘り起こすことに
直結します。
う〜ん。
しかしやはり
言葉にするのは
難しい。
説明しようとすると、
なんか堅く
なっちゃうね。
説明なしに
ただただ感覚的に
お答えすると、
真本音で生きるとは、
すべてにおいて
満たされた幸せを
感じることなんです。
まぁ、
体験するしか
ないかな。
人間であれば、
誰もが当たり前のように
体験できることなので。
つづく
人の人生の主導権を
奪ってしまうサポートを
サポートとは言いません。
傲慢と言います。
傲慢な人ほど、
自分の傲慢さに気づかない
という傾向があります。
「傲慢」
とはとても厄介で、
私も随分と
その中にドップリと
陥りました。
陥っているときは
気持ちよくてしょうがない。
というところが
「傲慢」の
厄介なところです。
魂の本当の悦びと、
傲慢さ故の喜びの
区別がなかなかつかないのが
私達人間の性(さが)の
一つです。
・・・・・・
当たり前のことですが、
すべての人には
各々の個性が
あります。
自分とまったく同じ個性を
持った人というのは
世の中には一人も
いません。
もちろん、
過去にもいませんし、
未来にもいません。
人類の全歴史の中で、
「自分」という人間は
たった一人です。
唯一無二の
存在。
それが私達です。
ではなぜ、
まったく同じ個性が
この世にはないのでしょうか?
なぜ私達は
唯一無二の存在
なのでしょうか?
その答えは
シンプルです。
私達には
「違い」
が必要だからです。
「違い」があることで初めて、
私達は進化を遂げる
ことができるからです。
「違い」は必ず
多かれ少なかれ
不協和音を生みます。
ズレの気持ち悪さを
生みます。
それこそが
大切です。
ズレの気持ち悪さによって
私達は試行錯誤を
始めます。
どうすればこの、
気持ち悪さが
なくなるのだろうか?
どうすれば、
私はもっと
楽になれるだろうか?
気持ち悪さを
感じれば感じるほど、
その問いは
強いものとなります。
その結果、
本気で
試行錯誤に取り組むように
なります。
本当は
何が大事なのだろうか?
どうすれば、
私達はお互いに
もっと楽になり、
もっと幸せになれるのだろうか?
そういった
試行錯誤を繰り返すように
なった意識が
「5次元」
の意識です。
4次元の意識とは
「我欲」でした。
5次元の意識は
その我欲から一歩踏み出し、
試行に入ります。
ですから私は5次元を称して
『試行の次元』
と呼んでいます。
今のこの世の中で
最も主流を占めているのが
この試行の次元、
つまり5次元の意識です。
ある意味、
4次元の意識でいる方が
楽です。
物事を断定的に
迷いなく捉えることも
できます。
(あくまでも、反応本音レベル
においてでは、ですが。)
しかし
試行の次元に意識が上がることで
様々なことに
本気で迷うようになります。
悩みが増えます。
もちろん
4次元の意識でも
悩みは尽きません。
しかし4次元の悩みとは、
あくまでも
自分だけが良くなるには
どうすればよいか?
自分を守るためには
どうすればよいか?
という、
自分本位の悩みです。
それに対して5次元の悩みとは
本当に大切なものを
求める悩みです。
進化のための
悩みです。
進化のための悩みに
正面から向かい合うことで
私達は、
魂レベルでは
パワーが高まります。
4次元で生きることは
心のレベルでは
ある意味、元気になるかも
しれませんが、
魂のレベルでは
延々とパワーの枯渇が
続きます。
ということで言えば、
魂のパワーやエネルギーを
取り戻し始めるのが
5次元の意識
と言ってもよいでしょう。
・・・・・・
多くの人達が
5次元の意識で
試行錯誤を続けているのですから、
その人にとって
最も必要な試行錯誤が
できる状態にする。
それが本当の
サポートです。
しかし、
その人の試行錯誤を奪い取り、
安易に
「この場合はこうすれば
よいのですよ」
と答えを与えてしまうような
サポートをしている人が
多いのも事実です。
さきほども書きました通り、
それはサポートとは
言えません。
人にとって大切な
試行錯誤を奪い取るのは、
その人の人生や命を
搾取しているのと
同じことなのです。
ですから私のコーチングは
いかにその人(その組織)を
成功させるか?
ではありません。
いかにその人(その組織)が
最高の試行錯誤ができるか?
こそを、
最も大切にしています。
こういった本質を
理解しているコーチが、
世の中にはもっともっと
必要かな。
つづく
私は、
「自由になる」
とは、
「直観に素直になる」
ということだと思っています。
もちろん、
「思考」を否定しているわけでは
ありません。
しかし「思考」とは
「直観力」を高めるための
一つの手段である、
と思っています。
何も「思考」しない人からは
「直観」は生まれません。
なぜなら私達の真本音は
「試行錯誤」を非常に
重要視しているからです。
結果のみならず、
結果に至るまでの過程(プロセス)の
一歩一歩を大切にしています。
ただ単に望む結果を出すのではなく、
その道のりの中で得られるものこそを
大切にしています。
そこで必要なのが、
「思考」すること。
言葉を換えれば、
「悩む」こと。
そして、
「迷う」ことです。
悩むべきことに
100%しっかりと悩み、
迷うべきことに、
100%しっかりと迷い、
考えるべきことを
100%しっかりと考えることで、
初めて、本当の「直観」は
働くようになります。
そしてそこで得られた
「経験」は、
次の似たような傾向の「経験」や
応用的な「経験」において
力を発揮するようになります。
つまりは、
「悩まなくても一瞬で決断ができる」
状態となるのです。
私が企業現場でいつも実感するのは、
本来悩むべきことから
逃げている人が実に多い、
という事実です。
悩みから逃げるからこそ、
直観が働かなくなります。
そしていつまで経っても
その悩みを解決できない、という
悪循環に陥ります。
人生が、仕事が、
ストップしてしまうのです。
それは、
進化のストップ、ということでもあります。
冒頭の言葉に戻りますと、
「自由になる」とは
「直観に素直になる」ということ。
そのためには、
悩みや迷いから逃げないことです。
きちんと「直観」の働く状態に
自分を持っていくということです。
さて。
木村さん、弓江さんの二人コーチングの
場面に戻ります。
二人が「直観的」に決めた
チーム員のペアの組み合わせは、
思考レベルで考えると、
とても納得のいくものではありませんでした。
(→前回記事)
「直観」ではOK。
「思考」ではNG。
こうした場合、
私はコーチとしてあえて
「断定」することにしています。
一般的に、コーチは
クライアントの意見を尊重して、
自分からは答えは言ってはならない
というのが原則だそうです。
しかし、私は時と場合で、
思いっきり結論を言いますし、
断定もします。
時には、「指示」に近いこともします。
クライアントが
「直観」か「思考」かで迷った場合、
多くの場合、私は断定します。
「ここは直観で行ってください」
と。
有無を言わせない空気感を
出します。わざと。
それでも抵抗するようなら、逆に
直観に従うことは
やめた方がよいでしょう。
しかし、木村さんと弓江さんは
私のその断定を聴いて、
とてもホッとした表情をされました。
「わかりました。
これでやってみます」と
木村さんは言いました。
そこに、理由や理屈はありません。
それを探してもしょうがない、
という場面です。
それをまた木村さんと弓江さんは
直観的に悟ったようです。
今から思えば、
この時の二人コーチングが
本当に運命の分かれ道でした。
つづく
「物事が順調に進む」
とは、私は
「順調に試行錯誤ができている状態」
であると考えています。
試行錯誤には、
・意味のある試行錯誤と
・無意味な試行錯誤
があります。
無意味な試行錯誤とは、ほとんどの場合
その人が自己満足で繰り返している
試行錯誤です。
それを繰り返したところで、
何の進化も発展もありません。
進化発展があったと、
本人が自己満足するだけです。
逆に言えば、
物事の進化と発展のためには、必ず
意味のある試行錯誤が
存在しています。
よく、
「真本音で進めば物事がスムーズに進む」
と、私は書かせていただいていますが、
その真の意味は、
「意味のある試行錯誤を続けることができる」
ということです。
つまり、結果だけでなく
そこに至るまでの過程(プロセス)も
私達の真本音は大事にしているということです。
そういった意味で、
木村さんと弓江さんの新規事業プロジェクトは
意味のある試行錯誤を続けた
と言えます。
それを私は確信したのです。
ですから、
「新規事業プロジェクトは
ここまで順調だったということです。
実は、何の問題もなかったのです。
そして、ここまで順調だったからこそ、
この場があるのです。」
・・・と申しました。
(→前回記事)
特に木村さんは、失敗もありましたが、
順調にここまで進んできたということです。
その失敗こそが、必要な試行錯誤だった
ということです。
まぁ、そういう「失敗」は
「失敗」とは言いませんが。
そして・・・。
新規事業プロジェクトは順調にきたからこそ、
壁にぶち当たったのです。
順調に来なければ決して遭遇しない
壁まで来たのです。
その壁を、一言で表現すれば、
『脱皮の壁』
となります。
人も組織も、
比例直線的には成長(進化)しません。
人や組織の成長(進化)とは、
階段状に進みます。
つまり、
緩やかな勾配で進み、
ある時に、階段をステップアップするための
段差にぶち当たります。
段差にぶち当たったら、
それを乗り越えなければなりません。
しかし、
それを乗り越えることができれば、
1ランク、ステージがアップします。
これまでの延長線上にはない、
新たな次元と視界と能力が
開けます。
この段差にたどり着くためには、
しっかりと意味のある試行錯誤を
繰り返さなければなりません。
これをちゃんとして来たので、
新規事業プロジェクトは今、
「段差」の下にいるのです。
そして、これから「段差」を乗り越えるのですが、
「段差」とは非常に怖いものです。
怖いが故に、人も組織も
この時点では、非常に不安定になるのです。
今、新規事業プロジェクトチームは
その不安定さが出始めている状態なのです。
以上のことを、
私は木村さんと弓江さんに
ご説明しました。
木村さんが言われました。
「では、その不安定さを
なくすための方策が必要なのですね?」
「いえ、逆なんです。
こういう時は、もっともっと不安定さを
自らに与えた方が良いのです。」
つづく