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- 2018年 7月
こんなに
縛られた世の中
なのに、
自分は実は
完全に自由であると
それが
真実であると
皆、
そうであると
理屈ではなく
「感覚」として
気づけたその瞬間に
真本音の願いは
初めて
自分自身の中心から
浮上し始めます。
それにより、
これまで
「自分の夢だ」
と思っていたことが、
根底から
覆ることも
ありますし、
さらにその夢の
先が
見晴らせるように
なることも
ありますし、
その夢が
全体の中の
単なる一部分で
あったことが
わかることも
あります。
私は今日、
本当に嬉しい
ことですが、
自分のビジョンが
一気に
目の前に迫り、
それがもう
必ず実現するもので
あると、
リアルに
感じ取れる瞬間が
ありました。
いや、
リアルに
感じ取れる
というよりも、
リアルでした。
あぁやはり、
真本音の願いは
一見
それがどれだけ
無謀だと思えても
実現するんだなぁ、
と、
腑に落ちました。
やはり私は
このまま
私の人生に
委ね続けようと
思います。
つづく
私の人生は
私の手には
負えない。
一度、
そう
あきらめてしまって
ください。
手に負えない
のだから、
もう、
どんな意図を持ち
どんな努力をしても
無駄である、
と。
そのように
すべてを
あきらめ、
すべてを
手放してしまって
ください。
もし、
どうしても
そう思うことが
できない、
と言うのであれば、
あなたはまだ
全力を
出し切っては
いません。
その場合は、
どうすれば
自分は全力を
出し切れるのか?
という
発想をした方が
よいですね。
全力を出し切れない
理由と、
それを乗り越える
方法を
じっくりと
真剣に
考えてみてください。
自分の人生は
私の手には
負えない。
そう思える人は
100%そう思い、
そうなんだからしょうがない
とあきらめてください。
そして
次のように
決めてください。
「私はもう
ただ純粋に
自分の人生に
委ねてしまおう」
と。
・・・・・・
実は、
真本音で人生を
進み続けると、
ある時ある瞬間から
自分の
100%の力、
つまりは「全力」では
まったく手に負えない
人生展開となります。
つまり、
自分の人生なのに
自分では
どうしようもなくなるのです。
自分の意図や
思惑では
まったく事が運ばなく
なります。
自分の経験値では
事が運ばないどころか、
望んでいるものと
真逆の展開と
なったりします。
で、
ある時ある瞬間に
思い知るのです。
自分では
どうにもならない。
と。
でも、本当は
そうなることこそが
「本来の人生」
のスタートなのです。
そこからが
本当のスタート
なのです。
そして、
そこからが
人生の本当の
醍醐味を
味わえるのです。
しかし、
人生に身を委ねる
のは、
最初は怖いでしょう。
皆、
怖がります。
私も相当に
怖がり続けました。
でも、
どうにかして
その恐怖を
乗り越えて
ほしいのです。
・・・・・・
もう、
自分がどんな人間か?
なんてことは
どうでもいいじゃ
ないですか。
私は
これを目指して
行きたい!
なんて、
どうでもいいじゃ
ないですか。
もちろん、
自分は大事。
目指したいものも
大事です。
でも、
それを大事にすることと
それに執着することは
真逆の行為です。
自分を
超えてゆく。
その直前に
いる人が
今はとても
多いです。
本当に
自分を
超えられるかどうか?
それは、
これまで自分が
大切にしてきたもの、
これからも
大切にしようとしていたもの、
それらすべてを
手放せるかどうか?
・・・に掛かっています。
そこに執着すれば、
物事は
驚くような展開をもって
人生の道を
阻むでしょう。
執着を手放すまで
阻み続けるでしょう。
なぜならそれは
自らの真本音が
そのように仕向けているから。
そして、
その執着を手放せば、
物事は
驚くような展開をもって
進展するでしょう。
それにより、
それまでの自分が
いかに小っぽけな中に
いたか、
ということが
ありありとわかる
でしょう。
・・・・・・
人生を
本気で進もうと
する人へ。
ちょいと
怖いかもしれませんが、
ここは
がんばりましょう。
そのがんばりに対して、
私は
とことん
サポートさせていただきます。
つづく
昔の私は
ずっと孤独でした。
いえ、
楽しい友人もいましたし、
楽しめる趣味も
ありましたし、
仕事も充実して
いました。
でも、
自分のことは
結局は
誰一人として理解して
くれていない、
理解できる
はずがない。
それが真実であり、
それが人生であり、
それがこの世の中である、
と、ある意味
まったく疑いなく
信じていました。
恐らくここが、
私の苦しみの人生の
原点だったような
気がします。
しかしそんな私が
本当に今から考えると
なぜ?
と思えますが、
人と向き合うお仕事に
就くことになりました。
もちろん
そこに至るまでのストーリーは
あるのですが、
そのストーリーがどうこう
よりも、
やはりこれは、
私がもともと真本音で
決めていた道だったのだなと
思います。
孤独感という根底を
持った私が
毎日、必死に
私以外の人々、つまり他人と
向き合い続けました。
その結果、私は
向き合い続けた
すべての人達から
どんどんパワーをいただけ、
自らの真本音度合いを高め、
そして次元を
高めることができました。
そしてある時に、
本当は自分は孤独では
なかったと、
あまりに強烈に
知ることになりました。
しかしそこに至るまでには
本当のことを言えば、
13、4年かかったのです。
つまり、
私が自分が孤独ではない、
と本当の意味で
実感できたのは
ほんの8年前です。
・・・・・・
それは忘れもしない
2010年のある企業様での
研修の最中。
私は自分が講義をしている
その中で、
突如として
『実在』
を感じ取れるように
なりました。
恐らくその時、その研修では
20数名の方が
いらっしゃったと思いますが、
その瞬間、
私はまるでそこに
何千人もの人がいるような
感覚を得たのです。
しかもそれは
「気のせいかも」
というレベルのものではなく、
あまりにも
鮮烈で、
目の前にあるこの「現実」
の方が、
淡く儚く、まるで幻影のように
観えるくらいでした。
私が今、
「実在」と「現象」という
言葉を使い、
「現実」のことを「現象」と
表現するのは、
この時の体験からです。
・・・・・・
今、私は
仕事部屋で一人で仕事を
していますが、
私は一人では
ありません。
それはそういった
イメージをしているのでは
ありません。
本当に一人では
ないのです。
それは
「実在」です。
例えば、
明日コーチングをする予定の
人達。
その人達は、
今、ここにいます。
私は、
その人達を感じ取り、
その人たちと対話をしながら、
明日のコーチングの準備を
進めます。
何度も言いますが、
それはイメージでも
仮説でも、解釈でも
ありません。
「実在」です。
このように書くと
危ない世界だな、と
思われるかもしれませんし、
それはたけうちさんの
特殊能力でしょ、
と思われるかもしれません。
いえいえ、
決してそうでは
ありません。
ちょっと
心のチャンネルの変えれば、
誰もが「実在」は
そのまま感じ取れます。
これは
特殊能力ではなく、
私達人間がもともと
持っている力であり、
「得意分野」です。
でも忘れて
しまっています、
この現代時社会においては。
忘れざるを得ない
毎日を
皆さんは送ってしまって
いるのですね。
・・・・・・
私達が
当たり前のように
発揮してもよい能力。
その一つが、
「実在」を感知する力
であると
私は思っています。
そしてその力を
思い出すことは、
そんなに難しいことではない、
ということも
わかるようになりました。
例えばもし、
「実在」を感知しながら
ビジネスができたら、
そのビジネスは
どれだけ世の中を
幸せにできるでしょうか。
私の周りでは
それがどんどん
実現していますが、
私はそれを
もっともっと
私の周り以外にも
広げていきたいですね。
つづく
先日、
ある経営幹部さんと
お話ししていた時に、
その方がおっしゃいました。
「たけうちさん、
大きくジャンプするためには、
大きく屈伸しないと
いけないですよね。」
そして、
「屈伸する時って
つらいですよね。
体を思いっきり曲げないと
いけないし、
下の下まで沈まないと
いけないし。
その瞬間は
とても不安定になりますね。」
そして、
「でも、
その屈伸状態を経ないと
大きくジャンプできない
ですよね。」
まさしくそうだな、
思いました。
私はよく
「脱皮」という言葉を
使いますが、
人が大きく脱皮する
その直前には、
思いっきり屈伸する
状態が来ます。
その時その人は
非常に不安定に
なります。
そして、
その人の最も
弱い部分が
クローズアップされます。
当然その時期は
とても苦しみます。
でもその苦しみを
経ることで初めて
大ジャンプが可能に
なります。
・・・・・・
大ジャンプ(脱皮)の
前の不安定。
大ジャンプ(脱皮)の
前に露呈する弱さ。
それはとても
苦しいものですが、
しかし、
それは
放っておかなければ
なりません。
どれだけ不安定でも
どれだけ弱くなっていても、
そこをサポートしては
絶対に
ならないのです。
そのサポートは
大ジャンプ(脱皮)のチャンスを
消し去ってしまうから
です。
しかしまぁ・・・、
私も人間です。
それを放っておくのは
とてつもなく
つらいです。
見てられなく
なります。
ついつい、
手を差し伸べて
しまいそうになります。
そこを
グッとこらえるのが
コーチであると
わかってるんですが。
・・・・・・
今、
脱皮直前の人が
本当に多くて。
その人達の苦しみを
私はダイレクトに
感じてしまうので、
それはもう
毎日、つらいです。
だから私は
祈ります。
私にできるのは
祈ることのみ。
その人が
無事に脱皮できますように。
その人が
真の自由を
手に入れられますように。
その人の
隠れていた本来の魅力が
開放されますように。
私のクライアントさんは
みんな素敵な人達
ばかりで。
本当に私は
大好きで。
大好きな人達が
次のステージの扉を
開けることを、
今晩も祈り続けています。
つづく
人が人を救う、
とか
人が人を守る、
とか
そういったことを
考えるのは
基本的には
傲慢なことだな
と私は思います。
その人の人生は
その人のもの。
押し付けがましく
その人の人生に
割り込んでいくのは
独りよがりの
自己満足になりかねない、
ということについては
私はとても
注意をしています。
でも、
そういったことを
すべて大事にした上で、
それでも
この人を守りたい。
この人を救いたい。
と心の底から
思うことがあります。
それはもちろん
私だけでなく、
すべての人に
あることですね。
この人を守りたい。
この人を救いたい。
本当に真剣に
そう思うことで、
そう思っているその人自身が
急成長することが
あります。
守りたいものがある。
救いたい人がいる。
というのは、
人として
とても幸せなこと
でもありますね。
何かを
守ろうとしている人、
何かを
救おうとしている人、
それを本当に
純粋に
真剣に
想い続けている人を、
私は
守りたいなぁ、
救いたいなぁ、
と、
とても純粋に
思えた
今日でした。
つづく
私達人間にとって
最も悲しいことの
一つは、
自分で自分を
傷つける
ことです。
その中でも特に
きついのは、
自分の魂を
傷つけること
です。
魂を傷つけるとは、
命を傷つけることと
イコールです。
それは
人生を終えてしまう
とか、
そのレベルの話ではなく、
命そのものを
ダイレクトに
傷つけるもの。
すると、
その人本人の
命だけでなく、
他の人々の命も
同様に
傷つけられることに
なります。
なぜなら
私達は
高い次元においては
「一つ」
だからです。
・・・・・・
魂を傷つける
最たるものは、
自分の人生を
放棄する
ことです。
人生の放棄とは、
怠けるとか
そういった表面的なことでは
ありません。
真本音のレベルで
言えば、
私達は生まれる
その瞬間に
自分自身と一つの
「約束」をします。
その「約束」を
果たすことが
自分の人生を
生きることであり、
自分の人生の意味
そのものとなります。
その「約束」を
放棄すること、
それが
人生を放棄することの
本質です。
それをした瞬間から、
その人はもう
その人では
なくなります。
自分ではない
自分。
ということは、
大袈裟に言えば
自分が存在していない
のと同じ状態になります。
もちろん、
魂レベルの話です。
しかし、
そうなった場合、
その人は
「空虚」そのものと
なります。
「空虚」
つまりは、
「何も無い」
そして
「虚無」。
その人の中心にある
魂は姿を隠し、
その人は
虚無を中心に据えて
心を動かすように
なります。
ですから
何をしても、
何を目指しても、
何を達成しても、
何に喜んでも、
すべてが
空虚です。
私は
そういった人と
出会ったり
向かい合ったりすると、
涙が止まらなく
なります。
もちろんその場で
涙を流すことは
しませんが、
帰宅してから一人で
泣き続けます。
朝まで
泣き続けることも
ざらにあります。
実は
今もその涙が
止まりません。
とても
悲しいです。
・・・・・・
人は
自分を救うことは
できないのでしょうか。
いえ、
もちろんできますし、
そういった現場を
私は数え切れないくらいに
観てきましたし、
体験もしました。
でも、
そうではない人も
確かにいます。
悲しいことですね。
悲しいですが、
私はやはり
私にできる最大のことを
し続けるのみです。
今日できる
最善を尽くす。
その連続
だけですね。
つづく
初めてお会いした
その瞬間に、
「あっ、この人
無茶をする人だな」
と直観する人が
います。
そういう人は
ほぼ間違いなく
本当に
無茶をします。笑
ただし当然のことですが、
本人にはその認識は
まったくもって
ありません。
本人は、
自分は怖がりだ、
と言うのですが・・・。
・・・・・・
無茶するのが
良いことであると、
私は決して
思いません。
それどころか、
人はやはり
しっかりとした
その人なりの基盤を持ち、
その安定の上で
進んだ方がよいと
思います。
一見、
無茶をしているように
見える人も、
実はその基盤が
しっかりとあるのですね。
まるで大地のような
安定したところに
立っているからこそ、
本人は
ゆとりを持って
進んでいる。
でも結果として、
周りからはそれが
無茶である、
と見えるだけのこと。
・・・だと思います。
・・・・・・
あぁこの人、
無茶をする人だな、
と思えるということは、
この人は、
安定した大地に
立っているんだな、
ということと同義です。
つまり人は、
安定すればするほど、
無茶をします。
安定していないから
安定を求め、
安定をしたら
無茶をする。
それが人の本質
であり、
人の面白さでも
ありますね。
・・・・・・
無茶する人と
一緒にいると、
無茶させられます。笑
でも私は
それが楽しくて
しょうがありませんので、
我ながら
困ったものです。
そろそろ私は、
この辺りで一つ、
自分自身のタガを
外そうかな、
と思っています。
タガを外すと、
どんな自分が
出てくるのか?
ちょっとばかり
怖いのですが、
まぁでも、
そろそろ、いいかな。
あなたは
いかがですか?
そろそろ
タガを外す準備は
できているのでは
ありませんか?
つづく
真剣な人生を
生きることと、
適当な人生を
生きることは、
イコールです。
・・・と言うと、
ちょっと極端すぎますか?
よく私は、
研修やチームコーチングの
最中に
「もっと適当に
やってくださいよ」
という言葉を
かけます。
なぜならみんな
真面目過ぎるからです。
いえ、
真面目なのは
とても良いことだと
思っています。
真本音度合いも
結局は
真面目な人ほど
早く高まる傾向が
ありますし。
しかし、
真面目過ぎると
「深刻」になって
しまうのですよね。
深刻さは
実は、
何も生みません。
深刻な思考による
物事の決断は
道を開きません。
と断言しても
よいと思っています。
そして私は、
「適当」の対義語は
「深刻」ではないかと
思っています。
そして
「適当」の同義語が
「真剣」であるとも。
真剣な人は
いつも
肩の力を抜き、
朗らかで
軽やかです。
真剣な人ほど、
私は
表面的には
「この人、ホント、
適当だな」
と笑ってしまうのです。
・・・・・・
真剣さとは、
全力を尽くす
ということでは
ありません。
真剣さとは、
「どこで自分が
全力になるかを
見極める」
ことです。
本当に全力になるべき
ところで
自分の全力を
きちんと発揮できる
こと。
その状態を
常に持ち続けて
いること。
そういった人を
観ると、
私は
「真剣な人だなぁ」
と思います。
常に
何かに必死で、
「私は頑張ってます」感
を出している人は、
残念ながら私は、
「真剣じゃないなぁ」
もしくは
「この人は、
真剣さというものをまだ
わかってないんだな」
という見方をします。
・・・・・・
私は、
すべての人が
真剣に生きるといいな
と思います。
真剣に生きれば
必ず道は
開きます。
しかも
自分の望む現実が
拓かれていきます。
そのためには
深刻にならないこと。
そのためには、
自分の中の
深刻なものと
しっかりと
向き合えること。
深刻さから
逃げることで私達は
本当に深刻に
なります。
深刻さと
対峙することで、
私達は
深刻さから
自由になれます。
ただし、
その対峙の仕方が
大切です。
こここそを
私はすべての人に
お伝えしたい。
これが
私の言うところの
セルフコーチングの
真髄です。
対峙すべきものと
対峙する。
そして、
それをすればするほど
どんどん軽くなる。
深刻さから
解放されて
自由になる。
そして、
適当に、さらに
真剣に
人生の一歩一歩を
楽しめる。
一日一日の
満足感が
格段に上がっていく。
私の人生は
最高であると
思えるようになる。
すべての人が
そうなれると
本当にいいなぁ、と
私は願います。
つづく
本日(7月22日)ですが、
私が主催しております
『TPC養成塾』
の第2期が修了しました。
8ヶ月に渡る長期コースで
少人数制の
非常に濃い講座です。
Facebookグループでの
やりとりを含めると、
ほぼ、毎日受講生さん達とは
やりとりを続けました。
毎朝、私は彼らに
「問い」を投げ続け、
彼らは毎日その問いと
向き合いながら、
各々の人生を進めました。
何度も何度も
「脱皮」を繰り返し、
すべての皆さんが
人生の展開を
大きく変えました。
TPCとは、
「チームパフォーマンスコーチ」
の略です。
これは、企業のような
法人に対しても
「組織(チーム)そのものを
真本音コーチングできる」
力を持ったコーチ
という意味です。
おかげさまで、
第2期を終わり現時点で
私が
「この人はもうTPCと言って
差し支えないな」
と思える力を持った人は
私以外に7名となりました。
内、4名はすでに
自ら屋号を持ち、
生計を立てています。
ほんの3年前までは
真本音に関する研修や
コーチングは、
私以外にできる人は
一人もいなかったのですが、
今はそれが数名に
増えるという
とても喜ばしい状態に
なっています。
もちろん、
現在、私と一緒に企業現場に
入っている人達は
他にもいらっしゃいますし、
修行中の人もいます。
(まぁ、みんな修行中ですが。)
3年前に
「後継者を育成しよう」
と思い立ってから
こんなに早くこの状態に
なれるとは正直
思っていませんでした。
いつも私をサポートしてくださる
プロデューサーの方や
私といつも向き合い続けて
くださる方々に
本当に心より
感謝いたします。
ただ、
まだまだ道は
始まったばかりです。
まずは私の第一の
目標としては、
2021年8月までに、
現時点での私以上の
力を持ったTPCを
6名養成する
というものがあります。
それが成されれば、
私は次の展開に
大きく飛躍することが
できます。
TPC養成塾の第3期は
2019年の初頭に
開講予定ですが、
その前に
どうしてもやりたいことが
あります。
それは、
セルフコーチング系の
新しい講座です。
もうそろそろ
名前を出しても
いいかな。
『ザ・セルフ』
という名の講座を
スタートします。
約半年のコースです。
この講座で
セルフコーチング力を
一気に高めていただき、
その中で
「私はTPCになりたい」
という志を持った人が
もしいらっしゃれば、
その方に
TPC養成塾に進んでいただく、
という流れを創ろうと
思っています。
ただし、
『ザ・セルフ』は
まずは無料動画を
配信しようと思っています。
この動画では、
過去の私の真本音研修の
映像を
そのままお見せしたりも
します。
それをご覧いただくだけで
セルフコーチングや
真本音の最も基本的な
部分は
ご理解いただけると
思います。
まずはそれを観て、
ご自分なりに
セルフコーチングを
楽しんでいただき、
その上で、
もっとしっかり学びたい、
たけうちのサポートを
直接受けたい、
という人のみが
講座にご参加いただく
という仕組みにしようかと
思っています。
今月中には
動画配信できるかな。
真本音。
そして
セルフコーチング。
本当にまずは
これだけは
できるだけ多くの方々に
知っていただきたいかな。
つづく
まるで
ダムが決壊し、
溜まっていた大量の水が
放流されるかのように、
人生の展開が
急激に変わる
ことがあります。
それまでの人生は、
「水を貯蔵するため」
のもの。
そして、
これからの人生は、
これまで溜めたものを
「一気に放流(開放)するため」
のもの。
「貯蔵期」から
「放流期」への
移行は、
ある日突然来ます。
多くの場合、
まったく
その予告も気配も
ありません。
昨日までとは
明らかに異なる
人生展開が
急に始まるのです。
・・・・・・
その人生展開の
変化の激しさに、
多くの人は
戸惑うでしょう。
最も注意すべきは、
「放流期」に
入っているにも関わらず、
「貯蔵期」と同じ
生き方(行き方)をすること。
放たれた水の流れに
自分の身を
委ねてしまえば
よいのですが、
それをせずに
ずっと同じ場所に
留まろうとしてしまう
人が結構いるのです。
しかし当然ですが、
ダムは決壊したので、
同じ場所に
留まることは不可能です。
しかしそれでも
足を踏ん張るので
バランスも態勢も
すべてが
おかしくなります。
下手をすれば、
自ら放った水の流れに
溺れてしまうでしょう。
大切なのは、
「私は
昨日までとは
違う自分なんだ」
と自覚すること。
「私の人生は、
昨日までとは
違う人生となったのだ」
と受け入れることです。
・・・・・・
なぜこのようなことを
書くかと言いますと、
今、
非常に多くの人が
この「放流期」に
入ったからです。
もしくは、
入ろうとしている
からです。
これは
世の中全体の潮流と
言ってもよいでしょう。
そして、
真本音度合いの
高い人であればあるほど、
放流の度合いが
激しくなりますし、
「放流」したと思ったら、
それも実は
「貯蔵」の段階で、
さらにその後、
激しい「放流」が起こり、
しかし実は、
それすらもまだ
「貯蔵」の段階で、
さらにさらにその後に
激しい「放流」が起こり、
でも実はまだ
それすらも「貯槽」段階で
さらにさらにさらに
その後に激しい「放流」が・・・
・・・というように、
止めどのない
放流の放流の
そのまた放流の・・・
が起こり続けます。
そして
悟ることになるでしょう。
あぁそうか、
自分のこれまでの人生は
今のこの
「放流」をきちんと
迎えるためにあったのだな、
と。
つまり、
ここからが
本番なのです。
・・・・・・
「放流」を
怖い、などと
思っている暇は
ありません。
「放流」は私達が
何を思おうとも、
勝手に為されます。
ある意味、
私達はそれを
諦めて、
それに抗わず、
身を委ねましょう。
それさえできれば、
あとは
これまで体験したことの
ないような
悦びと充実感と
楽しさが
満ち溢れてくるでしょう。
人生の
醍醐味は
ここからです。
つづく
実は個人的には
「奇跡」
という言葉は
あまり使いたくありません。
安易に使っている
人を見ると、
奇跡なんて本当は
ないのになぁ、
と思ってしまいます。
だって、
すべて「必然」
ですからね。
一見、奇跡に見えても、
そこに至るまでには
着実な
一歩一歩が
必ずあるのです。
しかもそれは
現実(現象)レベル
だけではなく、
実在レベルでこそ。
・・・・・・
このブログでは
ずっと
・実在
・現象(現実)
と言う書き方を
しています。
もともとこの言葉は
大昔の哲学者の方々が
使われていたようですが、
私は彼らがこれを
どう捉えていたか?よりも、
この言葉の持つ
本質的な響きがとても好きで
使っています。
現象の奥には
必ず実在が
あります。
「人間」という
視点で言えば、
・人の起こす現実
・人の行動や振る舞い
・人の顕在意識
・顕在意識のちょっと下の
潜在意識(ほぼほぼ顕在意識)
この4つを私は
「現象」
と呼んでいます。
そしてその奥にある
潜在意識のレベルを
「実在」
と呼んでいます。
一見すると、
本当に実在しているのは
私達の創り出す現実とか
私達の行動や振る舞い
のように思いますが、
いえいえ、
それらは単なる
反映に過ぎません。
心理学の世界で
よく言われるのですが、
それらは
映画のフィルムが映し出した
映像に過ぎないのです。
とは言え、
映像だから意味がない、
実体がない、
とも
私は思っていません。
この世は
映像によって
成り立っていますから、
映像(つまりは、カタチ)
こそが大事だとも
思っています。
つまり、
映画でいうフィルムが
実在ですが、
フィルムも大事、
映像も大事
なのです。
実際に映画を
楽しむためには
映像がなければ
なりませんしね。
どんな
フィルム(実在)があり、
それが
どのように
映像化(現象化)
されているのか?
こここそが
最も大切なところですね。
・・・・・・
そして、
映像(現象・現実)は
私達の脳みそがキャッチ
します。
つまりは、
五感がキャッチします。
しかし、
フィルム(実在)は
五感では
キャッチできません。
脳を使っては
キャッチできない
のです。
ところが、
実在を
そのままキャッチする
力を、本当は
誰もが持っています。
大変、ありがたいことに
私は
ずっとコーチを続けてきたことで
ある時から
実在をキャッチできるように
なりました。
自分の脳を使わずに
映像化(現象化・現実化)
する以前のものを
キャッチできるように
なりました。
もちろん
先ほど述べた通り、
これは私独自の力では
決してありません。
人間であるならば、
すべての人が
もともと持ち合わせている
能力の一つであり、
それは私達人間が
言葉を覚えるのと同様に
努力によって
すべての人が
身に付けることができます。
その方法さえ
知っていれば。
実在をキャッチ
できるようになることで、
あぁ、奇跡なんて
本当はないんだな、と
よくわかります。
すべては
必然です。
起こるべきことが
起きているだけ。
私は、
実在をキャッチし、
実在と現象のつながりを
あるがままに
観察でき、
適切なサポートのできる人
のことを
「コーチ」
と呼んでいます。
そして、
そのような「コーチ」を
私は
増やしていきたいのです。
嬉しいことに、
すでに何人かの人が
「コーチ」として
活躍し始めています。
・・・・・・
「コーチ」になるためには
まずは、
セルフコーチングできることが
必須です。
自分自身の
実在を
脳を使わずに
感知できること。
そして、
自分の実在の意思を知り、
それを的確に
現象化(現実化)
できること。
これができると、
人は
とてつもなく幸せ
です。
まずは
そのような状態になることが
ファーストステップ
です。
そのためにも
セルフコーチング系の
学びの場を
これから増やして
いきます。
楽しみにしていて
ください。
つづく
私達の人生において
安息の地は
どこにあるのでしょうか?
実は、
安息の地は
たった一箇所にしか
ありません。
それは、
「最速スピードの世界」
です。
・・・・・・
「最速スピード」とは、
今の自分の出せる
最速スピード
ということです。
そしてそれは
何に関するスピードか?
と言いますと、
「進化のスピード」
です。
つまり私達は
進化スピードが
「最速」となっている時に
「安息」を得るのです。
・・・・・・
最速スピードに
入ったとき、
私達はまるで
止まっているかのような
感覚となります。
そして
すべての物事が
ありありと観え、
地にガッシリと
足がついている
とてつもない安定感を
得ます。
こうなるともう、
これまで「安定」だと
思っていたものの
すべてが
不安定だったことに
気づけるでしょう。
淡いもの、
儚いもので
あったことが
理解できるでしょう。
と同時に、
私達人間の本質が、
つまりは、
私達は進化の生き物である
ことが
論理を超えた確信として
腑に落ちるでしょう。
・・・・・・
そしてそうなれた時、
私達は
ゆっくりと頭を
もたげます。
本当は
今この瞬間も
最速で前に進み続けて
いるのですが、
やはりそれは
まったくもって
止まっているようです。
すべてが
静止し、
静かにただそこに
存在しています。
その世界の中で
私達は
頭をもたげ、
未来を観ます。
そこには
紛うことのない
一本道が観える
でしょう。
あぁなんだ。
ここをこのまま
まっすぐに
進めばいいだけか。
・・・と、
何だか笑えてきます。
さて。
ではゆっくりと
進むことにしようかな。
と、私達は
呼吸を整え、
前に踏み出します。
それはつまり、
最速からまたさらに
加速し、
最速を超える最速を
手に入れるということ
です。
こうして私達は
自分を超え、
進化を進めていきます。
・・・・・・
さて、
ではゆっくりと
進むことにしようかな。
と、
最速の中で
頭をもたげたその瞬間の
私達の境地を
私は、
『覚悟』
と呼んでいます。
覚悟を持った
状態。
それはまた
とてつもなく
静かで幸せな
瞬間です。
何の力も
入っていません。
自然体の
極みです。
人生において
覚悟を持つことは
すべての人が
できること。
覚悟を持つからこそ、
私達は
本当の意味で
楽になれるのです。
つづく
自分が揺れることを
止めようとする人は
揺れ続けます。
自分は人間なのだから、
揺れるのは
当たり前じゃん。
そんな大らかな目で
自分自身を許せる人は
揺れることは
ありません。
揺れるのは
反応本音。
その反応本音を
あるがままに
受け入れれば、
自然に
真本音が発動
するからです。
真本音の大地に
立った自分は
すべての現実を
楽しめます。
一生懸命
楽しもうとする
のではありません。
普通に
自然に
楽しめます。
大揺れに
揺れている
あらゆる心もそのまま
楽しめます。
そして、
それらのあらゆる
反応本音達を
真本音は
活用します。
それはまるで、
皆から大尊敬されている
経営者が
社員さん達を一つに
まとめ上げ、
共に素晴らしい会社と
素晴らしい現実を
創り上げていくことと
同じです。
「私」という心は
チームです。
チームには
素晴らしいリーダーが
必要です。
真本音とは
「私」というチームの
リーダーたるべき
存在なのです。
・・・・・・
そのリーダーは
誰の心の中にも
存在します。
しかし
そのリーダーに
フタをしたままに
生き続けている人が
多いです。
なんという
もったいないこと。
「私」というチームが
一つの方向に
統合、融合していける
偉大なるリーダーが
ちゃんと
存在しているのに。
そして
そのリーダーに
(ある意味)委ねて
進むことで、
「私」が本当に望む
人生の幸せに
たどり着くことが
できるのに。
・・・・・・
真本音という
リーダーを
自らの中から
発掘しましょう。
それは、
誰もが簡単に
できることです。
地道なやり方ですが、
簡単です。
それを
できるだけ多くの人達に
発信していきたいと
思っています。
そのための
活動を
今月から広げます。
つづく
人生を、
一本の糸に
喩えてみましょう。
自分の人生を
赤い糸だと
思ってください。
そして、例えば
Aさんの人生を
青い糸だと
思ってください。
赤い糸と
青い糸が
交差する瞬間が
あります。
要するに、
ご縁のある状態、
出会いの瞬間
ですが、
交差した瞬間から
その人との展開は
以下の二つのいずれかに
分かれます。
一つは、
交差するだけの展開。
もう一つは、
交差した瞬間に
共に
「結び目を創る」
展開です。
前者は、
交差したその時は
共に人生の時間を
共有しますが、
その後に
またそれぞれの
糸(人生)をたどって
行きます。
後者は、
「結び目を創る」
ことで、
その後、それぞれの糸を
たどったとしても、
必ずまた次の
交差の瞬間が来ます。
もしそこでまた
「結び目を創る」
のであれば、
さらに二つの糸は
その後も
交差を続けるでしょう。
「結び目」は
創れば創るほど、
一心同体に近づいて
いきます。
赤い糸と青い糸が
統合され、
融合され、
紫色の糸として
進化していくかも
しれません。
・・・・・・
大切なのは、
結び目を創る
人とは
きちんと創ること。
そして逆に、
結び目を創らない
人とは
決して創らないことです。
ここを間違えると、
二つの糸の
調和が乱れます。
つまり、
人生がお互いに
乱れていきます。
時々拝見するのですが、
どんな人とも
必死に「結び目」を
創り続けようとしている人が
います。
「結び目を創る」
ことが
人を大切にすること
であると、
ご縁を大切にしていること
であると
勘違いしてるのです。
・・・・・・
自らの真本音を
大切に生きていれば、
今出会ったこの人が
結び目を創るべき人かどうか、
すぐにわかります。
結び目の
本質的な創り方は
簡単です。
この人とは
結び目を創るんだと
自分自身にOKを
出せばよいのです。
そしてその
OKの意識で、
相手の目を見つめます。
すると
その瞬間に
はっきりとした絆を
感じます。
それは
一瞬のこと。
こうやって
結び目を創るべき人達と
一つ一つ丁寧に
出会いを楽しんでいく。
これも
人生の醍醐味の
一つですね。
つづく
目を瞑り、
全身の力を抜き、
心の力も抜き、
しばらく
静かにします。
そして、
すべての
「電源」
を切ってみてください。
その電源を
落とせば、
「私」のすべてが
「オフ」になります。
パソコンが
電源を落とすと
動かなくなるように、
「私」も
電源をすべて
落としてしまうのです。
「電源」を切れば、
すべての光が
失われる感覚が
あるでしょう。
そうしたら、
しばらくそのままで
いましょう。
・・・・・・
もし、
「電源」を落とそうと
思っても、
落ちない場合は、
現時点での
あなたの真本音度合いは
残念ながら
まだまだ低い
ということになります。
もしくは、
最近のあなたが
自分の真本音を
無視した日々を
送っているか。
真本音と乖離した
生き方は、
自分の「電源」を
落とすことすら
できなくさせます。
そして私達は、
「電源」を落とさなければ、
本当の「休息」を
得ることはできません。
短い時間でも
本当に「電源」を落とす
ことができれば、
私達はかなり
リフレッシュできます。
・・・・・・
面白いことに、
電源を落とすと、
その瞬間までにずっと
自分に取り憑いていた
あらゆるストレスの類が、
まるで自分が
死んでしまったと
勘違いするのでしょうか、
ザーッとすべて
流れ出てしまうことも
あります。
そういえばパソコンも、
一度、電源を落とすことで
調子が戻ることが
ありますね。
電源を落としたり
リセットすることは
私達人間にも
必要なのですね。
自分自身の電源を
入れるか落とすか、
それくらいの自由は
自分で持ちたいものです。
自分自身
ですからね。
・・・・・・
電源を落とすことが
できた人は、
オススメなのは、
一度、そのまま
睡眠をとることです。
電源を入れたまま
睡眠をとるのが
通常の私達が
行なっていることですが、
一度、
すべての電源を
オフにして
ゆっくりと
眠ってください。
大丈夫。
これで死ぬことは
ありません。笑
むしろ、
生き返ります。
自分自身の
ことです。
自分で自分を
大切にしましょう。
つづく
心の中に
一本のローソクを
イメージしてください。
そのローソクに
火を灯して
ください。
そしてその火を
じっと
見つめてください。
しばらく見つめて
いると、
火はどうなりますか?
火は
静かに微動だにせず
灯り続けますか?
それとも、
揺らぎますか?
火はだんだんと
大きくなりますか?
小さくなりますか?
それとも
変わりませんか?
色はどうですか?
変化しますか?
それとも
変わりませんか?
・・・・・・
今の私が
これをやると、
火は一瞬にして
巨大化します。
ローソクなのに、
火は炎となり、
私の全身を
焼き払います。
焼き払うと言っても、
私の全身は
灰にはなりません。
むしろ、
焼かれることで、
より輝きを
増します。
ピカピカに
なっていきます。
あなたの場合は
いかがですか?
・・・・・・
では次に、
火に問うて
ください。
「あなたは
何の象徴ですか?」
と。
私が問うと、
火が答えました。
「私は今のあなたの
生命力を
表しています」
と。
おぉ、なかなか
凄いなぁ。
俺ってそんなに
生命力あるんだ、
と喜んでいたら、
「ちょっと生命力
使い過ぎです」
と叱られました。笑
「無理し過ぎです」
と。
でも、
生命力である火に
焼かれて、
私の体はピカピカに
なりましたよ、
と私が反論すると、
「私(火)ではなく、
周りにピカピカに
してもらえばいいのに」
と、また反論
されました。
それは、
周りの人達を
もっと頼りなさい、
ということ?
と問うと、
「その通りです。
周りの人達の進化の
スピードの凄さは
あなたが一番よく
わかっているでしょ?」
・・・と。
なるほど。
確かにそうだ。
この1〜2ヶ月。
確かに、
みんなの進化度合いは
普通ではない。
じゃあ、
そうしよっかな。
「自分でやる」度合いを
下げてみようかな。
と思いました。
こんな感じで
あなたも、
自分の中にある
ローソクの火と
対話をしてみると
面白いですよ。
つづく
あなたの
胸の中心に
大事に抱き続けている
願いとは
何でしょうか?
あなたは
その願いに
いつも意識を
向けていますか?
毎日、
ほんの少しずつでも
その願いに
近づいていますか?
自分を
自由にする。
とは、
願いに素直になる
ということです。
今の自分を
自分で評価し続け、
今の自分を
基準に
未来を決めるよりも、
単純に
自分の願いに素直な
今日を生きてみる。
ということを
一日一日
続けることで、
私達は
本来の自分自身を
開くことができます。
・・・・・・
あなたは
自分が好きですか?
自分が嫌いですか?
自分のどこが
嫌いで、
自分のどこが
好きですか?
・・・なんてことを
一度、
考えるのを
やめませんか?
多くの人が
「自己評価」を
し過ぎです。
もちろん
自己評価は大事
ですが、
それを
「今の自分の解釈」
によってしても
実はほとんど
意味がありません。
よく、
自分の短所を直す
よりも
長所を伸ばした方が
いい、
と言われますが、
ちょっと極端な
ことを言えば、
そんなことは
どうでもいいじゃない、
と
私は時々
言いたくなります。
そんなことよりも、
自分の
真本音の願いに
素直に
今日を生きることだけ
してみれば
いいじゃない、
と。
ちょっと乱暴な
言い方ですけどね。
でも、
願いに生きれば、
自分という人間は
ある時ある瞬間に
とてつもなく大きく
変貌することが
あるのです。
明らかに
それまでの自分の
延長線上にはない
まったく新たな自分が
一気に花開くのです。
自己評価を
解釈によってし続け、
それを指針にしていては、
その開花は
一生起きません。
人間とは
もっともっと
奥の深いものです。
私達自身の
解釈の尺度を
超えた存在なのです。
自分と向き合う
とは、
自己評価することでは
ありません。
自分を
解釈することでは
ありません。
あるがままの自分を
ただ見つめること。
観察することが
基本です。
あるがままに
見つめれば、
必ず、
あまりに強烈な
あなた自身の願いに
気づくはずです。
あなたは
「願いが服を着て
歩いている」
存在なのです。
すべての人が
そうなのです。
解釈の人生から
願いの人生へ。
そろそろ
人生のシフトチェンジを
してみませんか?
つづく
真本音度合いが
高まり始めた人は
すぐにわかります。
まず、それは
目に出ます。
目の輝きに
出ます。
どのように出るかと
言いますと、
一番近い表現は、
「無邪気になる」
・・・かな。
目の輝きが
無邪気に
なるのです。
ある意味、
まるで子供のような
純粋な目。
最初は
常にそういった目を
するわけではありません。
最初に現れるのは
笑ったその瞬間です。
大笑いの必要も
ありません。
ほんのわずか、
クスッと笑ったり、
かすかに
微笑んだり。
その瞬間に、
無邪気な輝きが
放たれます。
そこを私は
見逃さないように
しています。
その輝きが
生まれた瞬間から
私のサポートは
次のステップに
入ります。
・・・・・・
目の輝きの次は、
その人の
「空気感」
となって現れます。
空気感とは、
その人の全身から
放たれ続ける
雰囲気のようなもの。
それがやはり、
「無邪気」に
なるのです。
すると途端に、
その人のそばに
ずっといたくなります。
人として
その人を
好きになって
しまうのです。
真本音度合いが
高まると、
多くの場合は
ご本人は自分の変化には
気づきません。
それよりも、
「なんか、周りの私への
関わり方が変わった
気がします」
と言い始めます。
時には面白いことに、
「最近、周りの人達が
良くなったんですよ。
みんな、
成長してるんですね」
なんて、言い出します。
いやいやいや、
あなたが変わったんですよ、
と私は笑って
お答えします。
その瞬間はいつも
とても幸せですね。
つづく
苦しい体験をすることで
成長ができる
わけではありません。
苦しみを抱き続ける
からこそ、
私達は成長できるのです。
心が激しく
揺さぶられる過去と
対峙しながらも
「今」を進む人。
そんな人は、
揺れ動く心が
そこにあるにも関わらず、
とてつもなく
静謐です。
心は嗚咽しても
魂が
静かなのです。
そんな人と
向かい合うと、
こちらも
静かになっていきますね。
私は
そんな人を
どこまでも
応援したいなぁ。
・・・・・・
心と魂の
区別のつく
コーチが
増えるといいなと
思います。
心は
揺れて
いいんだよ。
揺れるままで
いいんだよ。
でも、
魂が揺れ、
魂が傷つくことは
やめようよ。
・・・そんな
ちょっとした助言の
できるコーチが
今の世には
必要です。
心は
そのままでいい。
たったその一言を
聴くだけで、
どれだけ私達は
救われることか。
・・・・・・
魂を大切にできる
コーチとは、
命を大切にできる
コーチです。
心の痛みから
逃れることで、
命を傷つけてしまう人が
います。
それを
止めるのは
残念ながら
本人には難しいのです。
そこは
ちょっとお節介でも、
傍にいる人が
止めなければいけません。
しかしそれができる人は
多くはありません。
私達はもっと
「人間」を学ぶべきでは
ないでしょうか。
「人間」を真剣に
学ぼうとする人に
私は
コーチになって
もらいたいな。
つづく
自分自身が、
「白い炎」の中に
いるイメージを
してみてください。
白く燃えさかる炎
です。
普通の炎は
その中に入ると
焼かれてしまいますが、
白い炎は
その中に入ることで
すべてが
洗い流されます。
あなたの心や
体の中に
残っているストレスや
苦しみや淀みや
歪みや、
余分なもの達。
それらが
白い炎で
どんどん蒸発、
浄化されて
いきます。
しばらくその炎の
中で、
浄化されていく
気持ち良さを
味わっていてください。
白い炎に
包まれる内に、
あなたの体は
どんどん
ピカピカになって
いきます。
より若く
ピチピチに
なっていきます。
生命力に
溢れてきます。
あなたの体
だけでなく、
心も魂も
ピカピカになって
いきます。
ここまでの疲れが
ウソのように、
新鮮な空気感が
あなた自身から
発せられるように
なります。
まるで
シャワーを浴びた
後のような
気持ち良さ。
それを
充分に感じるところまで
続けてみてください。
・・・・・・
白い炎によって
清々しくなったところで、
その炎からは
出ます。
今度は
目の前に
たった一本の
「花」
を思い浮かべます。
その「花」は
たった一本ですが、
とても
凛としています。
茎はシュッと
まっすぐに伸び、
花びらなどは
あなたが最も好きな
色や形を
イメージしてください。
派手すぎず、
地味すぎず、
あなたらしく、
居心地よい花。
しかもそれは、
凛としており、
毅然としており、
堂々としています。
しなやかで
強い。
揺るがないけど
柔らか。
そのような「花」を
イメージします。
その「花」と
向かい合って
ください。
その「花」は
あなたの「中心軸」
そのものです。
じーっとしばらく
向かい合って
ください。
あぁこの「花」は
私自身だな、
私の「毅然」そのもの
だな、
と思えたら、
「花」に問うてください。
「今の私に
メッセージはありますか?」
と。
そして
「花」のメッセージを
聴いてください。
そしてさらに、
「今の私は、
何かから
目を逸らしていませんか?」
「今の私が、
もっとしっかりと
向き合うべきものは
ありますか?」
「今の私が
最も意識すべき
課題は何でしょうか?」
「今の私が
もっと真剣に
目指すべきものは
ありますか?」
「今のままの私で
私はあなたのように
なれるでしょうか?」
・・・そのような
問いを投げ、
あとはじっくりと
向かい合ってみて
ください。
問いの答えが
自然に浮かんできたら
それをぜひ
メモに取り、
今度はそれらの
「答え」達と
向かい合ってみてください。
あなたの「毅然」が
あなたにメッセージ
することは、
あなたの真本音からの
メッセージに
他ありません。
本来の
自分自身からの
メッセージ。
ぜひ
大切にしましょう。
つづく
生命の源としての
海を
イメージしてみて
ください。
その海は
無限に広がり
続けています。
その海は
とても
静かです。
そして
とても
深いです。
しかしその
深さには
怖さは
微塵もありません。
そこには
やすらぎと
あたたかさと
まるで
母親の胎内に
いるかような
安堵があります。
『始まりの海』
とでも
名づけましょうか。
その
「始まりの海」の中に
入りましょう。
静かに
入りましょう。
そして
深く深く
沈んでいきます。
深く沈んでも
もちろん
溺れることはなく、
沈めば沈むほどに
やすらぎが
増して来ます。
不思議なことに
深く深く沈んでも
光が失われることは
ありません。
かといって
眩しい光でも
ありません。
適度な光。
やはり、
やすらぎの光。
その中を
静かに
深く深く
沈んでいきます。
もうこの辺りで
いいかな。
と思えたら
そこで留まります。
そこで
身も心も
芯から
リラックスしましょう。
徐々に
その海の持つ
本質的なエネルギーが
自分自身に
浸透して来るのを
感じましょう。
自分の中に
エネルギーが
満ちて来るのを
感じましょう。
あぁ満たされたな、
と思えたら、
そこで
自分自身に
問うてみてください。
私は
なぜ
生まれたのだろうか?
と。
私は
なぜ
人間なのだろうか?
と。
そして、
私の人生は
何のために
何を目指すことで
成就されるのだろうか?
と。
「始まりの海」
だからこそ
浮かび上がる発想が
あるでしょう。
それは
新たに生み出した
発想というよりも、
「思い出す」
感覚のはず。
私達はそろそろ
思い出すときに
来ているのです。
つづく
目を閉じて、
意識を自分の内側
ではなく、
外側に向けると、
変な表現ですが・・・
「世界」が自分を
祝福してくれている、
といった感覚を
得たことは
ありませんか?
私がこの感覚を
初めて得たのは、
そうですね、
もう何年前でしょうか。
恐らく、
8〜9年前。
ある企業様で
講演をさせていただいた
時です。
それは結構
大手の企業様で、
全国からマネージャーの
皆さんが一同に会する
という、
年に一度か二度の
全体会議の中で、
確か70分だけ
お時間をいただいたのです。
しかし、
時間は70分でしたが、
お客様のご要望される
内容は非常に深く、
これまでの私がもし
その内容をお伝えするならば、
最低でも丸一日は
時間が必要でした。
それを
70分でやれ、
と。
しかし私はそのご依頼を
お受けし、
短時間でいかに
深いご理解を
皆様にいただくか?
という
挑戦をしたのでした。
まぁ、
緊張しましたよ。
今でも
思い出します。
講演の直前は、珍しくも
心臓バクバクで、
その企業様自体が
初めての体験でしたので、
どのような傾向の皆さんが
いらっしゃるかもわからず、
本当に大袈裟でなく、
口から心臓が
飛び出している
感覚でした。
で、
必死にやりましたよ。
我ながら
凄い集中力でした。
講演中は
ほぼ、記憶が
ありません。
で、終わった直後に
ご依頼いただいた
担当の方から
喜びのお声をいただき、
やれやれと、
その企業様を後にした
その時に、
それは起こったのでした。
まるで「世界中」から
万雷の拍手を
いただいているような
激しい祝福の感覚に
見舞われたのです。
それは、
10分、20分と
かなりの時間、
続きました。
なんだ?
なんでこんなに
祝福を受けている
感覚なんだ?
と、
当時の私は
わけがわからないまま
でした。
が、今の私は
わかります。
それは
実在の世界における
拍手であり、
祝福です。
一つのことに挑戦し、
自分が思っている以上に
脱皮を果たした後の
祝福です。
それは私だけでなく、
本当は
誰もが受けたことのある
「世界」の人々の真本音からの
感謝と祝福の
嵐なのです。
・・・・・・
実は、
今日も私は一日、
その万雷の拍手が
鳴り響き続け、
いつまで経っても
止まないのです。
ここのところ、
確かに私は
挑戦ばかりをしている
ような気がしますが、
いったいなんで
こんなにも祝福されるのか?
がまだ自覚できて
いません。
ただ言えるのは、
とてつもなく
幸せであるということです。
多分、
何かを成し遂げたのかな。
これからゆっくり
セルフコーチングして、
自分がいったい
何を成し遂げたのか?を
明確にしたいと
思っています。
「世界」からの
万雷の拍手。
それは
皆さんの人生においても
何度も
体験しているはずです。
もしそれに
気づいていないので
あれば、
もったいないことですね。
そういったことを
感じ取れる
感性を
身につけられると
よいですね。
そのための
最大最善の方法が
自分と向き合う
ということです。
自分と
しっかり向き合うからこそ、
自分の幸せ感に
自ら気づけますからね。
つづく
今日という日は
いったい
何のために
あるでしょうか?
このような問いを
自身に
投げたことは
ありますか?
今日という一日が
存在している
意味。
自分の人生に
とって。
そして
世界にとって。
当たり前のことですが、
今日がなければ
明日も
ありません。
今日という一日が
明日という
新たな一日を
決めます。
そんなことは
当たり前だと
誰もが思いますが、
しかし本当は、
今日という一日と
明日という一日は、
完全に
分離しています。
この
3次元世界に
おいては。
・・・・・・
完全に分離
しているのに、
なぜ
続いていくのか?
それは、
この3次元世界に
存在している
慣性の法則
の影響に過ぎません。
「慣性」を
別の表現で言い換えれば、
「惰性」
とも言えます。
要するに、
今日の惰性のまま
明日を迎えている
のが
私達のほとんどです。
ちなみに
「惰性」を辞書で引きますと、
今まで続いてきた習慣や癖
とあります。
そうです。
癖なんです。
今日と明日が
続いているのは、
そういった私達の
癖でしかありません。
なんで
こんな極端なことを
書くのかと言いますと、
「私達はもっと
自由になれる」
と言いたいのです。
「癖に負けるな」
と言いたいのです。
癖って
強いんです。
なぜなら
私達人間にとっては
癖とは
とても大切な
「能力」だから。
癖という能力が
なければ、
私達は
何もできなくなるでしょう。
例えば、
自転車に乗れるように
なるのも、
要するにそれは
自転車に乗れる癖を
自分自身につけている
ということになります。
癖という能力が
なければ、
私達は、何度練習しても
自転車には乗れません。
そういった意味で、
私達の心と体とは
癖の塊です。
癖の宝庫です。
でも、
それが「癖」であるとは
認識していません。
で、
自分で認識していない
「癖」に捕らわれたまま
「明日」を
迎えます。
昨日と同じ延長線上に
ある
新たな日を
迎えます。
・・・・・・
癖は
大事ですが、
癖を超える
日々を
今の私達は
創り出さねば
なりません。
本当の
「創造力」
とは、
そういうことを言います。
癖の延長線上にある
創造力は
本来の創造力ではないと
私は思っています。
癖によって
新たな一日を
迎えるのではなく、
常に
原点に戻り、
毎日を
原点から
始めること。
それができるように
なると、
一日一日が
劇的に変化し
進化し始めます。
実は、
真本音で生きるとは
そういうこと
なんですけどね。
私が推奨している
セルフコーチングとは、
癖を大事にしつつも、
そういった癖を
超えていく力を
発揮するものです。
すべての人が
癖に捕らわれた人生から
自分自身を
解放できるといいなぁと
私は思います。
癖が
自分の人生を決める
のではなく、
自分が
自分の癖を活かす人生。
そんな人生に
シフトチェンジ
しませんか?
つづく
あなたの
「人生の始まりの地点」
は、どこだと
思いますか?
それは、
あなたにとっての
「本当の人生」の始まり
の地点です。
今振り返って、
「ここから私の
本当の人生が
始まったんだな」
と思える瞬間です。
そこでは
どのような出来事、
どのような体験が
ありましたか?
その瞬間のことを
ありありと
思い出してみて
ください。
そして
もう一度、
イメージの中で
その瞬間を
体験し直してみて
ください。
あなたはその時、
何かを手放した
はずです。
そして、
その時に
何か大切なものを
見つけたはずです。
その時その瞬間の
あなたには
その自覚はなかった
でしょう。
でも、
今、改めてありありと
その瞬間を思い出す
ことで、
それが何か?を
自覚することが
できるはずです。
あなたはその時、
何かを手放し、
何かを見つけた。
その、
見つけたものは
多くの場合、
とてつもなく強い
「願い」
だったはずです。
それが、
「真本音の願い」
です。
・・・・・・・
私は18歳の時、
初めて縦走登山を
始めました。
大学の部活動です。
一人50kg以上の
ザックを背負い、
3週間近くも山に入り、
山を縦走します。
「夏合宿」と
呼んでいました。
私の初の夏合宿は
北アルプスという
場所でした。
1日目は、
14時間登りづくめで
体力のすべてを
使い果たしました。
2日目は、
3000m近い稜線の上で
台風のような
暴風雨に遭いました。
テントが50mくらい
吹き飛ばされ、
みんなで必死にテントに
しがみつき、
雨にびしょ濡れになりながらも
自分達の生活の場を
守り続けました。
そして3日目。
常念岳という、
日本百名山の一つを
越えました。
その山はとても
急峻でした。
実はこの時まで
入山以来、一度も
晴れていなく、
ずっと真っ白なガスの中の
苦しみの登山
だったのですが、
常念岳の山頂まで
あと少しというところで
突然、ガス(雲)が晴れ、
青空が見え、
そして、
北アルプスの山々が
目に飛び込んで
きたのです。
突然、目の前に
現れた
槍・穂高岳連邦。
そのあまりの迫力と
素晴らしさに
私は50kgを背負ったまま
茫然自失と
立ち尽くしました。
その瞬間です。
私の場合はその時、
はっきりと
自覚しました。
今、この瞬間に
私の本当の人生が
始まったのだな、
と。
その時、私が
手放したものは、
「私は、誰よりも
劣っていなければ
ならない」
という、
とてつもなく強い
自分への
「リミッター」
でした。
そして、私が
得たものは、
「私にはこの人生で
果たすべき何かがある」
という確信と、
「その何かを
35歳までに見つけなければ
ならない」
という使命感にも似た
願いでした。
ですから私は
それ以降、
「人生を上手く進める」
ことをやめました。
多少ダメージを受けても
よいから、
いろんなものに
ぶつかりながら、
濃密な人生を生きると
決めたんです。
35歳までに
人生の目的を
見つけるために。
そしておかげさまで
その通りに
なりました。
35歳なりたての時、
私は、
「真本音」
と出会うことになります。
と同時に、
自分がすべきことを
はっきりと
自覚できました。
・・・・・・
さて。
以上は私の話
です。
あなたは
いかがですか?
つづく
あなたにとって
大切な人は
誰ですか?
その人のお顔を
目の前に
イメージしてみてください。
まるで本当に
その人が
目の前にいるかのように
イメージしてみてください。
それが
「イメージ」であると
思えないくらいに。
するとそれは
「実在」
となります。
正確に言えば、
あなたのイメージに
「実在」が一致する
ということですけど。
まぁここでは、
あまり理屈はいいです。
とにかく
その人の存在を
今ここに感じ取れるくらいに
イメージしてください。
すると今、
その人は
どのような表情で
あなたを
見つめていますか?
その人と向き合って
あなたは
その人から
何を感じ取り、
何を受け取りますか?
あなたはその人に
どんな一言を
投げかけたいですか?
・・・・・・
その人は、
あなたに何か
言いたげでしょうか?
もしそうであるなら、
その人からの
メッセージを
聴いてみましょう。
「何を私に
伝えたいの?」
と訊いてみて
ください。
そして
何も思考せずに、
その人に意識を向け、
ただ
待ちます。
この時、実際に
言葉が聴こえる
かもしれません。
もしくは、
自然に何らかのメッセージが
心の奥から
浮かび上がってくるかも
しれません。
いずれにしても
そのメッセージを
あるがままに
受け取りましょう。
・・・・・・
今度はその人に
あなたから
問いを投げてみて
ください。
「私達の関係は、
今のままで
良いだろうか?」
・・・と。
そう問いかけた瞬間の
その人の
表情に意識を向けて
ください。
そして次に、
自分自身の心に
意識を向けてください。
「変えた方がいいかな」
と
自然に思えた場合は、
何かを変えた方が
よいでしょう。
「何をどう変えれば、
我々の関係は
さらに良いものと
なるだろう?」
と、さらに問いを
投げてみてください。
そして同じく、
その人と
自分自身の心の
両方に意識を向けます。
このようにして
浮かび上がってきた
答えに関しては、
できるだけ
何も解釈を入れずに
その通りに
実行に移すとよいですね。
・・・・・・
大切にしたい人を
大切にする。
この当たり前のことを
本当の意味で
できている人は
実は少ないです。
大切にしたくても
時間がない。
とか、
様々な制限や制約が
現実の世界においては
ありますしね。
でも、
そういった制限を超えて
私達は人を
大切にできる力を
持っています。
実際に会わなくとも、
人を大切にすることは
できますし、
それが相手に伝わる
こともできます。
私達には
まだまだ使っていない
人間として
素敵な能力が
あり過ぎるのです。
それを誰もが
開発できるといいなと
思っています。
私達は、
そろそろ本当に
次のステージ、
次の次元に
進まなければいけません。
これまでの自分の
生き方、
これまでの自分の
人との関わり方、
を超えて、
新たなる自分を
育んでいきましょう。
つづく
今は
加速すべき
時です。
もし
迷っている人が
いるとすれば、
私は必ず
そうアドバイス
するでしょう。
今はもう、
止まっている
時では
ありません。
準備は
整っています。
あとは
必要なのは
前に踏み出す
勇気のみ。
勇気を出せた
人は
一気に進み、
勇気を出せなかった
人は
ずっと止まり続ける。
その
わかりやすい
二者択一の
どちらを選ぶかによって
恐らく、
今後の何十年かの
人生展開が
根本的に
変わるでしょう。
それくらいに
今の
世の中全体の
「潮流」は
重要な時を
迎えています。
・・・・・・
私は
進むべき価値のある
人間でしょうか?
そのような
問いを受けることが
あります。
いやいやいや、
それを決めるのは
あなたでは
ありません。
それに、
それを決めるのは
今では
ありません。
むしろ、
もし自分の愚かさを
知っているので
あれば、
それはチャンス
です。
本当に愚かなのは、
自分の愚かさを
自覚していないこと。
愚かさを知る者は
ちゃんと
「観えている」
のです。
そして、
観えている人
こそが
加速できるのです。
自分の価値は
人生の最期の
瞬間くらいに、
きっと自然に
わかるでしょう。
・・・・・・
あなたの中に
夢や希望が
ありますね。
それは
「幻影」
ですか?
それとも
「実在」
ですか?
もしも
「実在だな」
と思えるのならば、
すぐにでも
加速を
始めてください。
今は
本当に
チャンスです。
今、始めなければ
いつ始めるの?
というくらいの
チャンスです。
それは
あなた自身が
本当は
最もよくわかっている
はず。
あなたの中に
確信は
あるはず。
そこに素直に
進んでください。
勇気とは
今のこの時の
ために
あるのです。
つづく
心の中で
「今、やろう」
と思っていることを、
実際の行動としては
「今、やらない」
という選択をしたとします。
心の「やろう」
と
行動の「やらない」。
行動というのは
私達の体を使って
行われますから、
言い換えれば、
心の「やろう」
と
体の「やらない」。
この不一致が起こることで
私達の
「一貫性」
は大きく損なわれます。
一貫性が
損なわれるということは、
歪みが起こる
ということ。
それにより、
私達の中には
大量のストレスが
発生します。
一貫性のなさによる
ストレスは、
実は
私達が発生させるストレスの
中でも
重度のものです。
ということはそれは
エンティティ化
しやすいということです。
「エンティティ」とは
ストレスが
反物質化したもの。
日本語では
生き霊
と訳されます。
しかしそれは
ほぼすべての人が
多かれ少なかれ
持っています。
エンティティが
多くなり過ぎると、
自分の生き霊が
自分に取り憑く
ことになり、
常に理由のない苦しみを
感じ続けます。
自分が自分に
取り憑く
・・・って、なんかもの凄く
意味のないことであり、
生産性の低いことだと
思いませんか?
しかし、
一貫性がなくなることで
誰もがそうなります。
しかも、
そのように自分自身の
エンティティに取り憑かれ
続けていると、
「それが普通の状態」
だと思い込むようになります。
エンティティは
苦しみだけを
自分に与えるのでは
ありません。
言いようのない
・不安
・憤りやイライラ
・倦怠感
・無気力
・悲しみ
・孤独感
・空虚感
などが常に発生し、
未来に向かうのが
億劫になり、
ほんのちょっとのことで
恐怖に苛まれるように
なります。
すると、
勇気が出なくなり、
挑戦することをやめ、
心で「やろう」と思っても
体では「やらない」という
選択をし、
ますます一貫性が
取れなくなるという
悪循環に入ります。
その循環から
抜け出せなくなっている人
は非常に多く、
その循環にいるのも関わらず、
毎日のお仕事に
がんばって向かって行く
という
とてつもなく辛い日々を
送っています。
よく喩えられる表現ですが、
まさしく
「ブレーキをかけながら
自転車を漕いでいる」
状態です。
・・・・・・
エンティティを
自ら浄化したり、
流したりする。
それも
セルフコーチング法の
一つです。
私はそのための方法を
できるだけたくさんの方々に
お伝えしたいのですが、
しかしその方法を
実践するためには
自分自身のエンティティと
向かい合わねばなりません。
そしてそのためには
エンティティと向かい合える
だけの自分に
ならねばなりません。
そのために最も
必要なことが、
自分自身の「真本音」を知る
ということです。
自分は
真本音で
何を願っているか?
自分は
真本音で
何を大切にしているか?
それらを
まずは言語化して
常にそれを「原点」とします。
その「原点」に
いつも立ち返ることで、
「これが本来の私だ」
という「感覚」を得ます。
この「感覚」が
大事です。
「感覚」を得られたら、
「本来ではない自分」の
感覚もわかるように
なります。
そうなって初めて
エンティティと向かい合える
ようになります。
本来の自分が
本来でない自分と
向かい合う
という感覚がわかれば、
エンティティはちっとも
恐ろしいものでは
なくなるからです。
そこまでの状態に
なるためのステップを
私はこれから
できるだけ多くの方々に
発信していきます。
このブログも
そうですが、
これまで行なったことのない
様々な発信法を
試してみるつもりです。
つづく
寂しくてしょうがない。
不安でしょうがない。
虚しくてしょうがない。
悲しくてしょうがない。
腹が立ってしょうがない。
悔しくてしょうがない。
・・・これらの心を
埋めるために、
私達は次の行動を決定
してしまうことがあります。
ところがそれをした場合、
もっと寂しくなります。
もっと不安になります。
もっと虚しくなります。
もっと悲しくなります。
もっと腹が立ちます。
もっと悔しくなります。
何かを満たすために
何かをする。
それをしているうちは
決して
そこから抜け出ることは
できません。
・・・・・・
満たされないものを
満たしたい。
この心は
「反応本音」
です。
つまり、
外からの影響
その時の状況によって
その反応として
生み出される心。
反応本音の願いとは、
満たされないものを
満たしたい
というもの。
それは人として
大事なことではありますが、
しかし残念ながら、
満たされないものを
満たそうとすればするほど、
その「枯渇感」は
ますます増長します。
「私はもっと
幸せになりたい!」
という気持ち自体は
尊いです。
しかし、
それは今、
幸せではないから
幸せというものを
満たしたい
というところから
発せられています。
それがいけない
というわけではありません。
しかし、
満たしたいものを
満たすためだけに
動いたとしたら、
さらにその「枯渇感」は
増してしまうのです。
それが
自然の摂理として
この世の中で
機能している法則です。
人間は
反応本音があるかこそ
人間です。
でも、
反応本音に対して
反応的に動いても
何も生まないのです。
・・・・・・
反応本音を否定する
必要はありません。
それが
あるがままに
そのままに
受け入れましょう。
その上で、
すべてを受け入れ
すべてを感じ取った上で
「真本音」に
戻るのです。
真本音とは
自らの原点。
どのような状態、
どのような状況に
なっても
変わることのない
原点です。
こんな状況だから
こうした、
ではなく、
どんな状況でも
原点に
帰るのです。
そして、
原点から
すべての判断をします。
自分の
行動を決定します。
すると、
真本音と反応本音が
結びつきます。
真本音と反応本音は
敵対するものでは
ありません。
共に
コラボ(協業)するために
存在しています。
真本音という原点を
常に大切にすることで
そのコラボは
実現します。
満たされないものを
満たしたい、
という心をそのまま
受け取り、
原点に戻るのです。
すると、
それらの反応本音も
すべて大切にしながら、
私達は
自身の真本音の次の一歩を
見出すことができます。
真本音と
結びついた反応本音は
強いです。
それは
道を拓きます。
真本音と反応本音の
コラボレーション。
これを
創り出すのが
セルフコーチングの
本質です。
つづく
人の声に
耳を傾ける。
本当にこれが
できる人は
素敵です。
ところが、
傾けているつもりで
まったく人の話を
聴いていない、
という場合があります。
というか、
ほとんどがそれです。
なぜなら
私達には自分自身の
「解釈」
というフィルターが
あるからです。
人が何をどう
伝えようとも、
どうしても自分の
フィルターを通してしまう。
これが
私達人間です。
能力が高まり、
経験と実績が高まり、
人望が高まり、
・・・そういった状態に
なればなるほど、
いつの間にか、
自分の解釈の権化に
なってしまいます。
私自身も本当に
ここだけは
気をつけています。
気をつけていても
知らないうちに
裸の王様になっていた
ということが
何度もあります。
そういった時、
周りの人達は
決して自分には
反対意見を言いません。
ほぼみんなが
イエスマンになります。
私は私自身に
反対意見を言ってくれる人が
いなくなった時に
とても注意をします。
そして、
常日頃から
私と接してくれている
人達が、
どのような空気感と
眼差しで
私を見てくるか?を
注意します。
本当に私といて
みんなは
幸せなのだろうか?
という視点で
できるだけあるがままを
感じ取ろうとします。
・・・・・・
セルフコーチングの
素晴らしいところは、
自分自身の心の声に
耳を傾ける
というところです。
自分の心の声を
あるがままに聴く
というのは、
実は結構難しいのです。
なぜなら
他の人との関係と
同じく、
私達は自分自身の心の声
に対しても
解釈のフィルターを
つけてしまうからです。
自分の心なのに、
自分でフィルターを
通すのですよ。
ですから、
多くの人達が
自己理解ができて
いません。
自分自身のことを
誤解していますし、
現実とは違う
自己イメージを
持っています。
自分のことなのに
自分が一番わかっていない、
というのも
私達人間の特徴の
一つです。
ですから、
セルフコーチング力が
高まることで、
自己理解が進みます。
と同時に、
そこで培った
「あるがままを受け取る力」
は、
対人関係においても
活きてきます。
つまり、
セルフコーチング力の
高い人は、
人とのコミュニケーション力も
高くなるのです。
・・・・・・
少し言葉を変えれば、
自分と向き合うことの
できる人は、
人とも向き合うことが
できる
ということになります。
「向き合う」とは
あるがままを受け取れている
状態です。
そして人生は、
あるがままを受け取れて
こそ、
本当の面白味も
醍醐味も
味わえます。
自分の解釈のフィルターを
バリバリに
張り巡られている
ということは、
要するに
自分の世界の中に
閉じこもっている
ということです。
自分という狭い世界に
閉じこもったままで
人生を進むのと、
すべてをオープンにし、
広い世界をそのまま
感じ取りながら
人生を進むのとでは、
当然、
人生展開も幸せ度合いも
満足度合いも
根本的に変わります。
オープンな生き方を
しましょう。
それが自分を
生かすということです。
そのためにも
まずは自分と向き合う
ことが大切ですね。
つづく
人は着実に
成長します。
本当の成長とは
次元を高める
ことです。
次元の高まらない
成長を
「膨張」
と言います。
そして
次元の高まる成長を
「進化」
と言います。
膨張と進化の区別こそが
人や組織のサポートの
真髄であると
私は思っています。
膨張には
必ず終わりがきます。
破裂
の瞬間が来ます。
しかし
進化には終わりが
ありません。
よく、
「次元」というのは
何次元まであるのですか?
というご質問を
いただきます。
次元は
無限にあります。
本当に無限です。
3次元の世界における
「規模」を表す手段として
「数字」というものが
ありますが、
最高次元を
「数字」で表すことは
できないのです。
それくらいに
無限です。
・・・・・・
数字で表せられない
くらいの最高次元から
今の私達を観れば、
それは
赤子のような未熟さ
でしょう。
いえ、
赤子までもいかない
でしょう。
しかしそれでも
私達人間の本当の価値は
次元の高低に
あるのではありません。
私達の価値は
「成長」(進化)
にこそあります。
昨日よりも今日、
今日よりも明日、
・・・と、
わずかずつでも
進化を続けていること。
そこにこそ
価値があります。
私は
コーチを目指している人に
必ずいつも
お伝えしています。
「コーチは
クライアントさん以上の
成長(進化)をしなさい」
と。
なぜなら
進化し続ける人にしか
進化のサポートは
できないからです。
自分の経験に
満足したり、
自分の能力に
満足したり、
自分の功績に
満足し、
「俺のようになりなさい」
となった瞬間に
その人のサポートは
まったく
意味を成さなくなります。
進化を放棄しているにも
関わらず、
他者に影響を与えようと
する行為を私は
「傲慢」
と呼んでいます。
私は
傲慢な人を見ると
とても腹が立ちます。
きっと
以前の私が
傲慢の塊だったから
でしょうね。
・・・・・・
人は
着実に
成長(進化)
します。
その進化は
無限に続きます。
よく
人の可能性は無限大
と言われますが、
本当にそうです。
私は
人と向き合う時、
いつもその人の目の奥に
無限の深さを
感じ取ります。
誰とお会いしても、
この人は
無限の可能性を
持っているんだな、と
実感します。
人間とは
無限の可能性
なんです、
やっぱり。
ですから、
私達はもっともっと
胸を張って
進化していきましょう。
今の自分のレベルがどうか?
ではありません。
昨日よりも
ほんのわずかでも
前に進んでいれば、
そこに価値があるのです。
進み続けることで
私達は
安心し、安定し、
幸せ感や満足感を
高めます。
人間とは
そういうものです。
それが
人間の本質です。
進化の楽しさを
知る者が
コーチになるといいなぁと
思います。
つづく