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- 2021年 6月
自分の中に
何かが誕生した
気配がする。
それが何か、
は
現時点ではわからない。
ただ、雰囲気としては
まるで赤ん坊のよう。
無垢で純粋な
存在だ。
一つわかるのは、
それは今まで
私の中には
なかったもの。
私が決して
持とうとしなかった
ものだ。
何だろうね?
しかしその
新たに誕生した
ものは、
今、
私の中心に
収まった。
私の中心核の
重要な要素と
なったようだ。
もう少し
具体的に
わからんかな?
そこに
意識を向けて
「何者だ?君は?」
と問うと、
私だ。
と返ってくる。
まぁそうだな、
私だな、
と思う。
私自身なんだけど、
これまでの私には
なかった存在。
何だろう?
これまであまり
体験したことのない
不思議な感覚。
こんな感覚、
今、他の皆さんにも
あるのだろうか?
7月から私は
一気呵成に
スタートをする。
その直前の
面白い展開。
ここまで
わからないのも
珍しい。
だから
わからないこと自体を
楽しみながら
一日一日を
過ごしてみようと
思う。
つづく
目の前に
一つの現実が
ある。
それを見つめる
心は
右往左往する。
激しく動き、
泣き叫ぶことも
ある。
その瞬間、
未来は消え
視界も
ゼロになる。
自分を失う
という
この状態を
しかし
側からじっと
見つめる
目がある。
それは
静かに
涼やかに。
ただ
見つめるべきを
見つめている。
その目
こそが
私、である。
では、
この揺れ動いている
この心は
誰だろう?
何だろう?
これもきっと
私、なのだろう。
二つの私が
いる
というよりも、
私は一つ、
でも
すべてに在る。
ただ、
その基点を
どこに置くか。
それを
決めるだけ
なのだろう。
人生を進む
というのは、
すべての私を
感じながら
進む、
ということでは
なかろうか。
揺れても
いい。
怖がっても
いい。
荒れても
いい。
ただ、
そんな自分を
静かに見つめる
自分自身も
充分に
味わおう。
つづく
今日、
私のビジネスパートナーの
若い二人が、
7月からの
自らの動きに関して、
宣言をした。
それは淡々と
涼やかな
宣言だったが、
彼らの言葉の
一つ一つに
私は
「永遠」
を感じた。
人生の選択、
・・・レベルではない
何かを感じた。
きっと
永遠の時の中で、
今回のこの
始まりの意志
は、
一つの重要な
分岐点と
なるのだろう。
そこにはきっと
彼らの
永遠の想い
が
込められていた。
その想い、
私は全身で
受け取った。
悦びと共に
身が引き締まる。
これで本当に
準備が
整ったな。
つづく
自分自身の
エネルギーコントロール
が
ちゃんと安定的に
できる状態で
前に進むことは
とても重要だ。
しかし、
自分の成長を
急ぐことは、
エネルギーコントロールを
上手にやろう、
ということを
一時的にとは言え
手放すことだ、
とも言えるのだ。
私のクライアントさんや
受講生さん達は、
多少、自分が
不安定になっても
自己成長を
真っ先に優先したい!
と
異常なまでに
望む人達が多い。
異常だ。笑
まぁ、私自身が
そうだから、
類は友を呼ぶのかも
しれないが。
それにしても
無茶をする人は
多い。
で、あえて
言うのだが、
今は
無茶をしろ。
・・・なんか
支離滅裂なようだが、
今は
しょうがない。
特に
もうすぐ始まる
7月からは。
喩えて言えば、
今、私達の目の間には
川の急流が
あるのだ。
ここまでジャングルを
探検していたら、
川と出会った。
この川の流れに
乗れば、
どうやら一気に
行きたいところへ
辿り着けそうだ。
しかし流れは
激しく、
すぐにその激しさに
自分は
呑み込まれてしまう
かもしれない。
でも、
それでも自分は
行きたい。
早くその地に
辿り着き、
しかしそこは
真のゴールではなく、
むしろ
そここそが
真のスタート地点で、
そこから
新たな探検の
ステージが始まる。
そしてその
新たなステージこそ、
そこを探検する
ことこそ、
私がこの世に
生まれてきた
目的だ。
・・・という感じ。
そう思うと、
たとえ流れが
激しかろうが、
今、目の前に
展開するこの川に
飛び込んで
しまいたい、
と思うのは
やむを得んだろう。
かく云う私だって
もう
飛び込むと
決めている。
まぁだから、
多少の無茶は
しょうがない。
その覚悟を持って
進もうではないか。
つづく
口から出る
そのたった一言に
魂が乗る時、
私はその一言
そのものとなる。
言葉というのは
ある意味
恐ろしい。
目には見えない
のに、
時には
とてつもない威力を
出す。
言霊という
言い方もあるが、
確かに
言葉に魂は
乗る。
たった一つの
何気ない言葉が、
自分の知らないところで
他者の人生に
甚大な影響を及ぼす
こともある。
私は時々、
魂の乗った私の言葉の
あまりの威力に
びっくりすることがある。
気をつけねば
と思う。
私達のコミュニケーションは
言葉を介している。
私達は言葉と共に
生きており、
言葉をどう扱うか
は
人生をどう扱うか
と
ほぼイコールだとすら
言える。
良い言葉を
私は人に
伝えたい。
「良い言葉」とは
その人が本当に
欲している言葉だ。
もしその人が
真本音で、
自分を叱ってくれる
言葉を欲しているなら、
私は喜んで
それを伝える。
その人が
最も欲しいタイミングで。
私はそれが
「良い言葉」だと
思っている。
その人に向ける
言葉は
その人のものだ。
その人のもの
となる言葉を
私は吐く。
乱雑に扱っては
ならない。
言葉は
丁寧に。
誠実に。
良い言葉を
吐くためにも、
私は私自身の
生き方を
大事にする。
言葉に魂を
乗せ、
最善のタイミングで
その人に伝える
ためには、
私自身が
私の納得できる
生き方を
実践し続けていなければ
ならない。
魂が乗る
とは
生き方が乗る
ということだ。
言葉は
私達自身だ。
言葉は
言葉ではない。
私達の存在
そのものだ。
本当に
大切にしよう。
つづく
自分を
見失いそうに
なったら、
意識を
外へ外へ
大きく広げて
みるといい。
自分という
「個体」に
執着せず、
「個体」を
離れて、
ただ、
感覚として
意識を
大きく大きく
広げていく。
これをすると
「自分」が
完全になくなって
しまうような
気がする。
それでいい。
自分が
わからなくなったら
自分を
完全になくして
しまえばいい。
無限に
意識を広げ
続けると、
「自分」ではなく
単なる
「場」
になる。
「自分」ではなく
「世界」
そのものになる。
「宇宙」
そのものになる。
その感覚が
大事だ。
下手をすると
そのまま
眠っちゃうかもね。
世界や宇宙
そのものに
なったままで
いると、
個体である
自分の中に
あった
モヤモヤ達が
いつの間にか
抜けていく。
個体という
檻の中に
閉じ込まれていた
それらのモヤモヤは、
まるで
籠から飛び出した
鳥のように
自由になって
どこかに
飛んでいって
しまう。
モヤモヤは
消え、
自分も
消える。
ということは、
モヤモヤを
自分である、と
思い込んで
いたのだろうか。
そんなことも
ちょっと
頭をよぎるが、
その思考自体も
消えていく。
自分が完全に
消えていく。
と、
・・・ふと、
・・・スッと、
いつの間にか
自分は
「ここ」にいる。
「ここ」に
戻ってきている。
・・・ことに気づく。
「世界」の中に
消えてしまった
ように思ったのだが、
その「世界」
そのものが
「ここ」にいて、
それが
「自分」であった、
ということに
気づく。
でもそれは
特別なことでは
なく、
あぁそうか、
そうだったな、
と。
私はただ、
ここにいる。
ただ
あるがまま
として
ここにいる。
こうして
自分は自分を
取り戻すんだ。
つづく
人生をかけて
一つの楽器を探究し続けている
ある演奏家が
その楽器を弾いていると、
自分がその楽器を
弾いているのか、
自分がその楽器から
弾かれているのか、
わからなくなる、
という話を
聴いたことがある。
つまり、
自分と楽器の
区別が
つかなくなるらしい。
そうなると
完全に
自分という範疇を超えた
メロディーが
流れ出すらしい。
そしてそのメロディーを
聴きながら、
さらに
そのメロディーに
委ね、
自分と楽器と
メロディーと、
それらの区別が
つかなくなる
らしい。
実はこれ、
すごくよくわかる。
私もコーチングで
クライアントさんと
向き合っていると、
よくその状態に
なる。
自分と目の前の
クライアントさんとの
区別がつかなくなる。
今、語っている
その言葉が、
自分の言葉なのか
クライアントさんの
言葉なのか、
よくわからなく
なる。
しかしそういう時に
こそ、
びっくりするような
感動的な発想が
生まれる。
だけど、それは
後でそう思うことで、
その時その瞬間は
その発想そのものが
自分である、
という感覚なので、
そこにその発想が
存在すること自体が
とても自然で、
そこにその発想が
あるのが当たり前
という感覚だ。
恐らく私は
その状態こそが、
私達人間が
最も創造性に富んでいる
状態なのだろうと
思っている。
楽器と向き合う。
人と向き合う。
それは本質的には
同じことだ。
向き合う
ということには
それ自体に
力があり、
それこそが
私達人間本来の
力だ。
私達は
向き合うための
存在
とすら思えてくる。
向き合わずして
何が人間か、
とすら思うのだ。
向き合うことで
私達は
「一つ」
になる。
一つになることで
創造が始まる。
ただし、
無理に一つに
なる必要はないし、
上記で書いたような
相手と自分の
区別がつかなくなる
というところまで
行く必要もない。
むしろ、
むやみにそこまで
入り込むことは
しない方が良い。
ただ、
感覚として、
あぁこの人と私は
今、
一つになれている感覚が
ちょっと芽生えてるな、
くらいが
ちょうど良い。
相手と自分を
ちゃんと分離して
区別している自分と、
相手と自分が
それでもどこか
一つになれている
感覚と、
その両方を感じ取れる
状態。
これが
ベストだ。
そしてこの状態には
誰もがなれる。
向き合えば
良いだけだ。
向き合うことに
慣れればいい。
向き合うとは、
意識を相手に
向け続けること。
それを真摯に
やり続けるだけだ。
つづく
せっかく
未知の世界と
出会ったんだ。
そこに向かわずに
どこに向かう?
未知の世界は
怖いって?
そうだな。
確かに私の足も
ブルってるよ。
ガクガクガク・・・。
このままで
いいじゃない。
ブルったままでさ。
覚悟ってのは、
怖さをなくしてから
進むことじゃない。
覚悟ってのは、
怖くても
進むことさ。
無謀はダメだって?
そりゃ
無謀はダメさ。
でも、
ここは未知の世界
だよ。
無謀かどうか
すら
わからないじゃないか。
なら、
進むしかない。
せっかくここまで
来たんだ。
ここに、
この未知の世界の
入口に
たどり着くために
がんばって来たんだ。
だから
私は行くよ。
一人になっても
行くよ。
もし、
あまりに怖すぎて
どうしても進めない
場合は、
自分のペースを
大事にすればいい。
自分の覚悟が
決まったら
進めばいい。
でも、
私は行くよ。
今、
行くことにするよ。
全力でね。
ここは、
全力さ。
全力とは
この時のために
あるんだから。
つづく
そういえば、
昔よく自分自身に
投げ続けていた
問いを思い出した。
突然、
ご紹介したくなった。
『もし今、私が
記憶喪失になり、
これまでの人生の記憶を
すべて失くしたら、
私はこれから
何を望み、
何をするための人生に
するだろう?』
二十歳くらいの頃から
しょっちゅう投げ続けて
いたな。
今の仕事と
巡り会えたのは、
ひょっとすると
この問いのおかげかも
しれない。
記憶を失くす
ということは、
これまでの自分の
願いや想いを忘れてしまう
ことでもあるが、
自分の能力も
忘れてしまうことだよね。
これまで培った
経験なども。
つまり、ゼロ
になっちゃうんだけど、
そんな状態の私は
純粋に何を目指すの
だろう?
という意味の問いだ。
今、ゼロになったら
何を目指す?
ということだね。
これ結構、
真剣に考えると
いいよ。
つづく
生きる、
ということは
それ自体が
激しいことだ。
私達は
自分自身でさえ
気づかない
数知れないくらいの
痛みに
晒されながら
生きている。
痛いことを
「痛い」と
素直に感じられることが
いかに
健康的か。
誰にも
その人にしかない
独特の痛みがあり、
私はいつも
その人と共に
その痛みを感じている。
痛みつけている
のは誰か?
自分を痛みつけて
いるのは?
それは、
そのほとんどは
自分自身だ。
私達は
自分で自分に
痛みを与え、
それに耐えながら
生きている。
いったい
なぜ?
なぜ
そんなことを?
この仕事を通じて、
何度、
その問いを
投げたことか?
あなたはなぜ
そんなにも
自分を
痛め続けるのですか?
そう問いながら
何度、泣いたことか。
痛い。
痛い。
痛い。
と、
みんなが呻いている。
呻いていない人は
いない。
呻いていることを
自覚していない人は
いるけれど。
人と向き合う
とは
その人の痛みと
向き合う
ことでもある。
しかし、
向き合うことでしか、
その痛みは
超えて行けない。
向き合って
初めて
痛みは浄化される。
人には、
向き合う存在が
必要なのだ。
なぜなら人は
向き合うために
存在しているから。
向き合う
とは
手段ではない。
我々の
目的なんだ。
つづく
人は、
自分の決意を
宣言しなければならない
時がある。
それも多くの場合、
その相手が
決まっている。
「決まっている」
というのはつまりは、
自分で完全に決めている
ということだ。
しかも、
タイミングも
決めている。
これからやろうと
していること。
成功するかどうか
ではなく、
何が何でもやり切ろう
としていること。
それを
「お互いに」
確認し合う。
そのための
宣言だ。
それが
最適なタイミングで
為されると、
その瞬間に
スイッチが
入る。
スタートボタンが
押されるんだ。
そして
宣言し合った者同士、
それを「約束」として
邁進を始める。
宣言しなければ
スタートボタンは
押されない。
宣言することで
すべてが
動き始める。
・・・そういったことは
実は思っている以上に
多い。
この大事な
ステップを
省略することで、
本当に成したいことを
成せないままの
人生となってしまう。
すべて有言実行せよ、
ということでは
ない。
しかし
ここだけは
有言実行すべきこと、
というのがある。
しかも
有言の相手が
決まっている。
タイミングも
決まっている。
そんな視点で
自分自身の決断を、
これから為そうと
していることを
チェックしてみて
ほしい。
つづく
最近、よく
過去の自分が
フラッシュバックする。
20年くらい前、
ある社長さんが
私の顔を見ながら
しみじみ言われた言葉。
「竹内さんって、
本当に懲りない人ですね。
反省、とかしないでしょ」
またこれも
20年以上前だが、
別の社長さんが
私の両肩を掴みながら
激しく怒鳴った。
「お前は自分が
大事な人を辱めているのが
わかっているのか!」
・・・こんな感じで
その時の場面が
ありありと浮かぶ。
いやぁ本当に、
私はたくさんの人達から
叩いていただいた。
きっと
叩いても叩いても
その甲斐のない人間
だったろう。
20年前の自分が
もし今、目の前に来たら、
そして私に
コーチングの依頼を
したとしたら、
今の私はきっと
断るだろう。
この人は
自分を変えようと
していない、と
簡単に直観して。
変わる気のない人間を
叩き続けるのって
本当に大変だと思う。
私を叩いてくださった
当時の皆様には
本当に感謝だ。
そして、
人から叩いていただく
だけではまだ足りず、
私は本当に
愚かな選択をし続け、
何度も転んだ。
まっすぐ歩いている
つもりが
グニャグニャで、
そこかしこに
ぶつかりながら
転んだ。
だからこそ、
・・・今だから思えるの
だが、
だからこそ、
私は「真本音」と
出会えたのだと思う。
「真本音」と
出会えてからも
私はずっと
ぶつかりながら進んできた
ように思う。
転ぶこと自体は
変わっていないように
思う。
ただ、
転び方の本質は
変わったかもしれないが。
「上手く進もう」
とは決して思わなかった。
今、
進もうとしている人たちに
最も伝えたいことは、
「小さくまとまるな」
かな。
ぶつからないように
上手く進んで、
いったいその先に
何がある?
本当に本当の自分として
生きるなら、
ゴツゴツ行かにゃ。
ぶつかりながら
進めばいい。
どんだけ転んでも、
真本音に戻れば
清々しいもんだ。
つづく
「私は今、
どこにいるのだろうか?」
と
自分に問うと、
どんな答えが
返ってくるかな。
本来の自分で
いられる時は
どんな答えで、
本来ではない自分に
なってしまっている時には
どんな答えか?
その違いを
把握しておくといい。
ちなみに私の場合、
本来の私でいられる
時は、
「ここにいるよ」
と返ってくる。
本来でない場合は、
「ここにいないぞ、
ここはどこだ?」
というような感じで
返ってくる。
後者の場合は、
どこにいるのだろうか?
と
私は私を捜す。
大抵の場合、
どこか宇宙の彼方のような
遠くを彷徨っていたりする。
あまりに疲れ果てた
時などはそうなる。
おーい、早く帰って
来いよ!
と呼び戻すと、
ようやく帰ってくる。
そして
本来の私に戻る。
その途端に、
自分自身の存在感を
自分で感じられるように
なって、
根っから安心する。
安定する。
この
本来ではない状態のまま
ずっと毎日を過ごしている
人は多い。
よくもまぁ、
こんな不安定状態で
いられるものだと、
感心する。
でもやっぱり
そんな状態では
何も良いことはない。
ちゃんと
本来の自分として
生きていこう。
上記の答えは
あくまでも私の場合。
あなたの場合は
どんな答えだろうか?
ちゃんと把握して
常に自分チェックを
するといい。
つづく
私達は
昨日とは同じ場所
にはいない。
私達は
流れ続けている。
私達は
進み続けている。
その事実を
自覚しないままに
生きることは
本当は
不自然なんだ。
人は皆、
変化を恐れる
ものだが、
変化は
誰が何と言おうが
自然に起きてしまう。
変化するのが
人間だし、
変化するのが
現実なのだから、
良い変化をしよう!
と思うのは
自然なことだ。
良い変化を
しよう、本当に!
さて。
変化にも
いろいろある。
単純に言えば、
緩やかな変化と
激しい変化がある。
あなたは
どっちがいい?
実は、
顕在意識では
どう考えるかは
別として、
本質部分では
激しい変化を
望んでいる人が
今、急増している。
激しい、
と言っても
環境を変えるとか
転職するとか
そういったことでは
なく、
自分自身を
一気に変化させようと
しているようだ。
だからあえて
次の問いを
自分に投げてみよう。
「私が今、
最もこだわりたいことは
何だろう?」
そして、
その答えを
手放してしまおう。
つまりは、
今、最もこだわって
いることを
手放してしまおう。
勇気を持って。
勢いつけて。
一気に。
今は、
やる価値あるよ。
私は
やるよ。
あなたもぜひ。
つづく
心身ともに
静かなとき、
私は自分自身に
エネルギーが満ちる
のを感じる。
静かな悦び
と共に、
自分の中を
ゆっくりと
強大なエネルギーが
循環している。
それは血液が
ゆっくりと循環する
のと同じだ。
循環が滞りなく
行われることこそ、
私達にとっては
正常で健全な在り方
の礎となる。
良い仲間と
共に、
良い出会いがある。
それが今の私を
実に健全に
してくれているのだろう。
静かに
感謝の想いが
積もってくる。
・・・・・・
一つ、
問いが浮かんだ。
こういう時の問いは
特に重要だ。
「ここから私は
どんな風を吹かそうか?」
どうやら
私自身が発信源となって
何かを始める
ようだ。
何だろうな?
今はまだわからないが、
答えはもう
ここにある、
ということはわかる。
しかもその答えは
私自身をまた
相当に楽しませて
くれそうだ。
一つ、出会いが
あれば、
一つ、風が吹く。
今回はその風を
私自身が
あえて
吹かせてみる。
これは
楽しみだ。
・・・・・・
最近、
なぜかよく
「未来」が私に迫ってくる。
その「未来」は
あまりに明るく
輝いているので、
中身は見えないのだが、
その輝きを
感じるたびに、
無性に
ウキウキしてくる。
このウキウキは
ひょっとすると
私にとって初めての
体験かもしれない。
だから慌てず
静かに行こうと
思う。
私は慣れないウキウキ
がくると、
すぐに地に足が
つかなくなるので、
ちゃんと足元を
踏み締めながら、
着実に進もうと
思う。
つづく
私には
意志があり、
私はその
意志通りに
生きてきたつもりだ。
この道を行けば
きっと
満足のいく人生と
なるだろう。
この道に挑戦すれば
きっと
素晴らしいビジネスを
構築できるだろう。
それを
信じて疑わず
進んできた。
確かに
充実し、
満足の大きな
道のりだった。
でも、
なぜか、
ここに来て、
今、
根本的問いが
浮かんでいる。
「本当にこの道で
良いのか?」
と。
「本当にこのまま
進んで良いのか?」
と。
「私はまだ何か
とても大事なものを
見つけていないのでは?」
と。
心の中の
ほんのわずかな
虚脱感。
それはずっと
私には気づかない
ものだったが、
確かに今は
わかってしまうのだ。
その虚脱感は
違和感となって
実はずっと自分の
奥の奥の奥に
在り続けていた
と。
今、
それが確かに
浮上してきている。
それと
どう関わり
向き合えばよいのか、
わからない。
私は本当に
この道で良いのか?
もっと他に
すべきことが
あるのではないか?
もはやこの
焦りにも近い気持ちは
誤魔化すことは
できなくなった。
ここまで
創り上げてきたもの
はある。
それらは
素晴らしいものだ。
でも、
このまま
進むことは・・・・。
・・・こんな人が
増えている。
私はこんな人こそを
サポートしたいのだ。
つづく
真っ暗な
世界の中にいる。
私は地面に
胡座をかいている。
地面には
まるで雪のような
そして
鏡のように輝く
銀の草草が広がっている。
音は
何一つない。
まるで異次元空間に
迷い込んだようだ。
どうやらここは
丘のような場所らしい。
ふと、
遠くで稲妻が
輝いた。
音はないが
何度も輝き、
その激しさが伝わってくる。
ふと、
ここはブラックホールの
中ではないかと
いう気がした。
私はブラックホールに
吸い込まれてしまった
のだと。
それにしては私は
悠然としたもので、
ここがブラックホールの
中なら、
もう出られないかもなぁ、
などと
暢気に考えていた。
ここで
私は
自分自身が非常に
疲れていることに
気づいた。
実は動きたくても
動けないのだと。
まぁそうだようなぁ。
随分と大勢の人たちを
助けたもんなぁ。
ちょっと限界を
超えちまったかなぁ。
と
考えていると、
また稲妻が。
今度は近い。
しかも、
音のない世界だと
思っていたのに、
一瞬後に、
雷鳴が響いた。
全身に
ズンと来る。
これはいかんな。
行かなきゃな。
助けなきゃ。
私はよろよろと
立ち上がった。
まだ多少は
動けそうだった。
行かなきゃな。
私はトボトボと
歩き出した。
歩くたびに
また
体の奥から
力が漲ってくるのが
わかった。
おぉまだ
こんなに力が
残っているのか。
これなら
なんとかなりそうだ。
私はちょっと
走ることにした。
急がなきゃな。
私は駆けた。
雷鳴の方向に
向かって。
妙にリアルな
夢だったな。
つづく
私達には皆、
「自己表現」
をしたい!という
欲求がある。
人生とは
自己表現の場である、
と
あえて言うことも
できるだろう。
自己をちゃんと
表現できている時、
その人は間違いなく
活き活きしている。
さて、
今日もまた一つ
問おうか。
「自己表現」
という視点で
発想してほしい。
『自己表現のために
あなたはこれから
自分の何を開放する?』
どうだろう。
一見、難しい問い
だが、
案外、
いろんな面白い
発想が広がるかも。
自由発想
してみてください。
つづく
今回は一つ、
ちょっと面白い
問いを投げよう。
あまり理屈で
意味を考えず、
ただ直観のみで
どのような発想が
浮かぶか、を
楽しんでみてください。
・・・
『あなたの心の中の
山頂(最高地点)が
あるとしたら、
それはどんなカタチを
していますか?
そして
そこには何がありますか?』
・・・
紙に発想を
書き出すとよいかな。
もし面白い発想が
生まれたら、
ぜひそれを
日常生活の中で
大事にしてみてください。
ちなみに
私の場合、
ものすごく鋭く尖った
山のピークが
観えた。
それは山というより
岩かな。
でも、大気圏を
超えるくらいに
高い。
そしてその山頂には、
鍵が一つ
落ちていた。
その鍵を私は
持ち帰った。
きっと鍵穴が
どこかにあるのだろう。
それを私は
日常の中で
探してみようと
思う。
宝探しのようで
面白そうだ。
つづく
山の向こうから
月が昇った。
途端に
世界が調和
した。
そこにある
あらゆる存在が
意味を持ち始めた。
一つとして
不足はなく、
一つとして
余分もない。
世界は
完成された。
と、
次の瞬間、
世界に
ほんのわずかな
綻びが生まれた。
それが
次々に歪みや
淀みを生み出した。
そして
世界全体が
ざわめき始めた。
それを月は
ただ微笑んで
眺めている。
月は
調和をもたらし、
調和は
進化をもたらす。
そして進化は
次の調和を
もたらすだろう。
同じ調和でも
そうやって一つ一つ
次元を高めていく。
私は
月のような存在で
ありたいな、と
思っている。
一見、調和をもたらし
世界を完成させるかの
ように見えて
本当は、
進化のための
綻びをもたらすのだ。
決して
完成はされない世界。
そこにこそ
真の美しさがある。
一人の人間も
同様だ。
綻びがあるのを
嫌がる人もいるが、
綻びがあるのが
人間なんだ。
つづく
人は誰しも
冒険心
を持っている。
今、あなたの
中にある
最大の冒険心を
探し出して
ほしい。
その気持ちは
何を「やりたい!」と
強く願っているだろうか?
冒険心だから
それは、
なかなかの挑戦心でも
ある。
できるかどうか
で言えば、
到底できないよ、と
思ってしまうことだろう。
しかし今、
あえて、
その冒険心の言うことを
大事にしよう。
あなたの冒険心の
望んでいることを
落ち着いて
受け取り、
しっかり
対峙して、
なんとかその方向に
進んでみよう。
勇気を持った
冒険をすることで、
人生は
一気に進むことが
ある。
今は
その時だ。
つづく
私は、
考えに考えに
考えても、
決して
答えを出そうとは
しない。
でも、
真剣に
考えに考えに
考える。
でも、
決して
答えを出そうとは
しない。
今は、
考える時だ。
答えを出す
時ではない。
・・・というのを
とても大切にする。
そして、
考えに考えに
考え尽くしたな、
と
満足したら、
それで終わる。
あとは
待つ。
あとは
何かのきっかけで
答えは
必ず出る。
それは
まるで思い出すかの
ように、
浮上する。
それを最近
私は、
未来を思い出す
と
表現している。
これ、
あながち間違っては
いない表現だ。
私達は
過去と同様、
未来も思い出すことが
できる。
だって
実在のレベルでは
すべてが
「ここ」
に存在しているからね。
人間に与えられた
「考える」
という素晴らしい
行為は、
未来を思い出す
きっかけとして
必須のものだ。
考え尽くすから
こそ
思い出せる未来が
ある。
考えて
答えを出すのでは
ない。
考えて
答えを思い出すのを
待つんだよ。
つづく
具体的なことは
書けないのだが、
今日、私は
自分自身との
約束
を、
一つ果たすことが
できた。
こういうの、
魂が泣く
と
言うのだろうか。
涙が
止めどなく出た。
きっと
理屈を超えた
嬉しさなのだろう。
久しぶりに
自分を褒めて
あげた。
まぁちょっと、
私は私という人間に
厳し過ぎるのかも
しれない。
そんな生き方を
ずっと続けてきた
気がするが、
それも
今日のこの時の
ためだったのだな、
と
今日初めて
知った。
人は、
自分自身との
約束がある。
何のために
今、
ここにいるのか?
その
大いなるきっかけ
としての
約束がある。
その約束には
深い悲しみや
悔恨や
希望や願いや、
いろんなものが
混ざり合っているのだが、
私達は
間違いなく、
その約束を果たすために
ここにいる。
真本音で生きる
とは
その約束を思い出す
ための
なくてはならない
ステップだ。
約束を一つ
果たすことのできた
私は
もちろんこれからも
一歩一歩
真本音で生き続ける。
ここからは
次のステージだ。
次の約束を
果たすための
ステージだ。
つづく
覚悟ができた
顔には、
独特の表情
がある。
それは
大人も子どもも
同じだ。
子どもだって
覚悟を決める
のだよ。
実は
ほとんどの人が
気がついていない
だけで、
人生の重要な
選択肢は、
人生のそこかしこ
にある。
それは現象としては
ほんの些細な
ことかもしれない。
例えば、
今日は電車で行こうか、
歩いて行こうか、
・・・みたいな。
そこでちゃんと
電車で行こう
と選択することで、
たまたま
同じ車両に乗った人との
出会いがあるかも
しれない。
それが人生を
大きく転換する
きっかけとなるかも
しれない。
そういった、
日常の中に
密かに隠された
重要な選択肢たち。
そこをちゃんと
真本音の方向に
行くこと。
それができるのは、
ちゃんと
普段から自分の
本当に望む生き方を
実践できていること、
もしくは、
実践しようと
決めている人だ。
そしてそういう人が
ちゃんと
自分の望む選択を
(それがほんの
些細な選択でも)
できた時、
覚悟の表情に
なる。
人生を一歩
進めた人の
表情だ。
それは実に
本当に
清々しいものなんだ。
つづく
きっとそれは
何もなかった
のだろう。
ある、と
思い込んで
いたのだろう。
ないものを
ある、と
思い込む始まりは
その後、
物事がどう
展開しようが
辛いものとなる。
自分が
実はそれに関して
何の意志(意思)も
持っていなかった
という事実を
どこかで
受け止めなければ
ならなくなる。
いや、そこで
もし受け止めることが
できたなら、
それだけで
やり直しは効く。
しかし多くの場合、
せっかく
始めたのだから、
と
惰性で続ける。
もしくは、
自分に意志(意思)が
まったくなかった
という事実そのものを
受け止められない
ままでいる。
やはりそれは
ちと、辛い。
意志(意思)が
ないことは
いけないこと
ではない。
大事なのは、
この件について
自分には
意志(意思)がないのだ
と
ちゃんと自覚すること。
そして
そういうことは
一刻も早く
手放す
ことだ。
手放す、とは
捨てることでは
なく、
自分から
距離を置く
ことだ。
あらゆる物事に
距離感
はとても大切で、
自分の意志(意思)の
ないことは、
自分から遠くに
置けばいい。
そしてもし
意志(意思)が
生まれれば、
その時点で
近づけばいい。
遠くに置くべきもの
を
遠くに置いていないと、
本来
近くにあるべきもの
が、
寄って来れなくなる。
人生は
調和、だ。
調和とは
距離、だ。
何とどう距離を
置くか?
何を近づけ
何を遠ざけるか?
その視点で
すべての物事に対して
距離の調整を
しよう。
すると、
止まっていたものが
流れ出すよ。
つづく
今、私が
最も集中すべきことは
何だろうか?
・・・この
非常にシンプルな
問いが、
今こそ
重要だ。
人生や仕事の
ステージが
変わるとき、
これまでの
ステージから
次のステージに
向かう
扉(出口)がある。
それは多くの場合、
たった「一点」
だ。
一点集中を
することで、
道は開かれる。
ステージを
変えようとしている
人が急増している
今、
特にこの6月、
一点を自ら
自覚し、定めることが
とても重要だ。
今は、
自分のエネルギーを
分散させている
場合ではない。
今は、
自分の出せる
最大のパワーを
一点
に込める
時だ。
つづく
すごく充実している
日々の中で、
ちょっとした瞬間に
フッと訪れる
空虚感
はないかい?
この充実感の中で
そんなことは
感じてはならない
と、
一瞬にして
その空虚感を
踏み潰していないかい?
これで
いいじゃないか。
こんなに
充実してるのだから。
これで
満足じゃないか。
・・・と、
どこかでずっと
自分を説得し続けて
ないかい?
本当に大事に
すべきは、
その
ほんのわずかな
空虚感。
その幻の
ような。
ちょっとした
淀み。
そこにこそ、
自分自身の
本当の本当の願いや
使命へのヒントが
潜んでいる可能性は
大いに
あるのだよ。
そこに目を
瞑るからこそ、
だんだんと
疲弊をしていく。
そこを
誤魔化すからこそ、
だんだんと
自分を失っていく。
99.9%の満足が
たとえあったと
しても、
あと、0.1%。
この、0.1%を
大事にしよう。
99.9%に意味がない
ということじゃない。
それがあるからこそ
あと、0.1%まで
来れた。
だからこそ
最後の、0.1%を
妥協せずに、
100%を
目指そう。
つづく
一つ、
仕事が終わると
私は目を閉じる。
そして
何も考えず
じっとしている。
すると自然に
次の仕事に取り掛かろうか
という意識が
湧いてくる。
その状態になって
私は
「今から何をする?」
と
自身に問う。
問うた瞬間に
答えが浮かぶ。
その浮かんだ仕事に
すぐさま
取り掛かる。
・・・このやり方を
繰り返すと、
非常に気持ちが良い。
仕事が
タンタンタンと
進む。
今、何をやるか?
その明確な答えを
私達は持っている。
今、やることを
今、やる。
そこに忠実になる
だけで、
実に一日が
気持ち良くなる。
今、やることを
今、やることで、
なかなか凄い
集中力が出る。
そりゃそうだろう。
今、やると
決めていることを
今、やるのだから、
その時間は
他のことには
意識がまったくいかない。
そして
そんな状態になれば
自然に
直観力が増す。
恐らく
同じ仕事を
今、ではない別のタイミングで
行なったとしたら、
このような直観とは
出会わなかっただろうな、
と思えるような
発想と巡り合える。
だから
仕事の生産性も
質も増すことになる。
いや、
これは仕事に関する
ことだけではない。
一日の自分の
あらゆる行動について
言えることだ。
今、やることを
今、やる。
これができずに
今、やることを
やらず、
今、やることではないことを
やってしまうことで、
私達は、
集中力も直観力も
生産性も減退する。
もちろん
不調和が起こる。
とても
単純なことでは
ないか。
時間を大切に
する。
人生を大切に
する。
自分を大切に
する。
・・・その基本は、
ここにあるのでは
ないかと
私は毎日、思っている。
つづく
これまでの自分
と
ここからの自分。
その断絶を
楽しむのも
人生の醍醐味の
一つだ。
断絶して
しまえばいい。
ガラッと、
何もかもを
変えてみてもいい。
無茶はする必要は
ないが、
できるところからで
よいので、
思いっきり
断絶させる。
自分自身を。
生まれ変わった
つもりで。
きっと、
人生というのは
こんなにも
自分の在り方一つで
展開が変わるものか、
と
びっくりするかもよ。
そう。
自分の在り方で
すべては変わる。
自分を変えずして
何も変わらない。
そして、
どうせ変えるなら、
望む方向に
一気に舵を切る。
変えるというよりも
やはり
断絶だな。
これまでの自分を
断ち切っちゃえ。
つづく
滝の水が
落ちるように、
意識が
落ちていく。
奈落に落ちる
ような感覚で
凄まじい激しさで。
一見、これは
恐怖を伴うはずの
ものだが、
実は
そうではない。
安楽、とまでは
言わないが、
心地よい
スリルがある。
それをそのままに
私は
楽しんでいる。
高く飛べば、
激しく落ちる。
両方ともが
あるのが人生だ。
いつも飛ぶだけ、
落ちるのはイヤ。
・・・とはいかない。
大事なのは
どちらも
味わい尽くす
ことだ。
いやいやいや、
そんなの無理だ
と
ほとんどの人が
言うだろう。
でもそれは
逃げるからだ。
逃げれば逃げるほど
恐怖は増し、
痛みも増す。
あるがままを
感じ
体験するのが
私の人生だと
あきらめよう。
どうせ
意図通りには
いかないものだ。
力がつけば
つくほど、
さらに強烈な
体験がくる。
それを私達は
本能的に
求めている。
だったら
しょうがない。
全部、味わおう。
そう開き直れば、
落ちている時も
実は
飛んでいるのだ、
とわかる。
落ちる、
という飛び方を
しているんだ。
人間の力を
卑下しては
ならない。
逃げるから
私達は弱くなる。
逃げるのを
あきらめよう。
そこから
本来の力は
目を覚ます。
つづく