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- 2022年 1月
あなたの
身体の外側に、
暗くて
重いものは
ないか?
例えば、
身体の前方で
身体よりも
もっと下の方に。
例えば、
身体の後方で
身体よりも
もっと上の方に。
他にも
人によって
場所は様々。
しかし
身体の外側に
それはあるから
とても
気づきにくい。
身体の外側、
と言っても
それはあなたの
心の中のものだ。
あなた自身が
無意識に
自分の身体の外側に
それを
追いやっている。
拒絶しながら。
その
暗くて重いもの
と、
面倒でも
ちゃんと
向かい合った方が
いい。
それが何か?
を
ちゃんと見つめた
方がいい。
見つめ、
観察するだけで
いい。
あるがままに
受け止め、
肯定も
否定もせず
そのままに。
そんな意識を
向け続ければ、
それは
だんだんと
消えていく。
成仏していく
ようなイメージ。
「消そう」
などとは
思ってはならない。
ただ、
見つめるだけ。
可能であれば
ちょっとやさしい
眼差しで。
あなた自身の
心だからね。
あなたがちゃんと
見つめれば、
成仏するんだ。
見つめないから
暗く重くなり、
ずっと
あなたにストレスを
与え続けてきた。
あなたの
エネルギーを
奪い続けてきた。
やさしく
見つめるだけだ。
あなたの
身体の外側にあるけど、
あなた自身の
心だ。
つづく
私の中に
待ち受ける
私がいる。
内部から
じっと
外を窺っている。
何かのタイミングを
待っているようだ。
身じろぎも
せず。
待つ
と決めた以上は
決して
動かない。
その瞬間が
訪れるまで。
もし
訪れることが
なかったならば、
それはそれで
しょうがない。
サッパリと
諦める。
その覚悟が
あるからこそ
待っている。
気配が
近づけば
目を開き、
遠ざかれば
目を閉じる。
じっと
落ち着いて
静かに
している。
が、
いつでも
一気に飛び出せる。
そんな
自分でいる。
疲れそう?
もう
慣れたよ。
つづく
「核」
を逃すと
すべてが観えなく
なる。
「核」のない
ことは
私はやらない。
一切。
逆に、
「核」が漠然で
あったとしても、
その存在が
確かに
感じられる場合、
そして
その「核」を
探究し続けたい
場合、
他の誰もが
やらなくても、
私は
それをやる。
思えばずっと
そういった
人生だった。
仕事にしても、
随分と
難しい道を
たどって来たものだ
と
今になって
つくづく思う。
でも私は
この道に
「核」
を感じ続けてきた。
それを
見極めたい
と
ずっと思い続けて
きたし、
今もそうだ。
探究型の
人生。
それが
私の望む人生
だ。
人生の
望む姿というのは
人、それぞれだ。
でも、
私のように
何かを探究し続けたい
特に、その物事の「核」を
探究し続けたい人は
増えているのでは
ないか。
答えの「存在」は
わかるけど、
その答えそのものの
「中身」が
わからない。
そういった場合の
何とも言えない
ワクワクさ。
私はずっとそれを
求め続けてきたように
思う。
実は
ここ数日、
私が探究し続けて
きた
いくつかのことが、
バタバタバタ、っと
続け様に
「答え」が
わかったのだ。
もちろんその
「答え」が
真実かどうかは
わからない。
しかしそれは
私自身が
「納得」できる答え
だ。
そこに
たどり着いた時、
私は
開放感、と共に、
ちょっとした
寂しさ
と共に、
さらに
「今を楽しむ」
感覚が
高まった。
これまでずっと
「???」
だったことが
今はもうその
「???」
はないのだ。
すると
とても面白い。
「今」
がよりクリアに
体験できるように
なった。
そして恐らく
私は
また次の探究の対象を
見つけるのだろう。
この世は
わからないこと
だらけ。
特に
「人間」に関しては
そう。
まだまだ
無限のワクワクが
あるな。
つづく
「自分を
混乱させたい」
という
強い念を
無意識に持ち、
自分の知らない
ところで
自分を
無意識的に
混乱状態のままに置く。
・・・ということを
する人がいる。
しかも
真本音レベルで。
つまりそれは
「今の自分」
にとって
必要な状態。
あえて
混乱し続ける
という
不安定状態を
維持する、
という
真本音の選択だ。
特に
大きな脱皮や
自己開放、
もしくは
次のステージに
進む自分となる
ために
それをする。
ところが
中途半端な
セルフコーチングを
することで、
その必要な混乱
を、
自分で無理に
抑え込んでしまう
人が多い。
せっかくの
「真本音の混乱」
から
逃げてしまうのだ。
私はコーチ
として、
それを阻止する。
あえて
強い言い方だけど。
でもやはりそれは
阻止だ。
つまり
コーチとして
あえて
混乱を助長する。
もっともっと
混乱を招き、
その混乱から
自力で脱出できない
ように
するのだ。
当然、
恨まれる。
でも
やる。
こういう時
なんだ。
やっぱり
人には
サポート役が
必要なんだな、
と。
当然、
私自身も含めて
ね。
ちゃんと
混乱する時は
混乱
し尽くそう。
その向こうに
しか
真の出口は
ないのだから。
つづく
何か
念の塊のような
ものがあると、
私はその中に
閉じ籠る。
念と
一つになる。
その念を
全身で感じる。
解釈する
前に。
言語化する
前に。
自己理解
というのは、
本当は
自分の中にある
言葉を探す
ことではない。
言葉になる
前のものを
そのまま
あるがまま
に感じ取る
こと。
それが真の
自己理解に
つながる。
しかしそれは
そうそう
簡単なことでは
ない。
だからまずは
言葉
から始める。
でも、
セルフコーチングを
ずっとやり続けている
人達は
改めて思い出して
ほしいのだ。
そのことを。
言葉
が
自分
ではない。
言葉
になる
前のものを
それこそが
実在だが、
それを
ちゃんと
理解しようと
してほしい。
もし
言葉にすると
しても
その前に
ちゃんと
感じ取ってから。
感じ取った
後に
言語化すれば、
その「ズレ」も合わせて
理解できる。
もちろん
言葉はとても
大切だ。
実在に一番
ピッタリくる言葉を
ちゃんと
探し出すことも
大切だ。
でも
言葉の前にこそ
本当の本質は
あるのだ、
ということは
忘れてはならない。
つづく
昔から
一人の時間が
好きで、
20代初頭は、
一人で山に
入り、
ずっと孤独の時間を
過ごしたりしていた。
誰もいない。
今ここで
もし自分が死んだら、
誰も気づいて
くれないのだな、
という
あの異様な雰囲気。
今から考えると
ちょっと
懐かしい。
一人になると
もう
孤独だった。
一人=孤独
だった。
今は
違う。
今でも
たった一人に
なったり、
周りをすべて
シャットダウンして
自分の心の中に
閉じ籠ることも
ある。
あえて
そうするのだが、
しかしそれでも
孤独
にはならない。
なれない。
一人になれば
なるほど、
すべて
とのつながりを
感じてしまうから。
しまうから、
という表現も
変なものだが。
つながりを
感じるのは
もちろん幸せな
ことだ。
ずっと
心の深奥では
満ち足りている。
不安になる
ことがない。
もちろん
心の表面に
様々な不安は
ある。
しかし
それらの心達を
やさしく見守るだけの
ゆとりが
常にある。
すべてと
つながっていると
わかるから。
で、
時々
その「つながり」
そのものを
シャットダウンする
ことも
できるようになった。
そうすると
孤独を
感じられる。
ゆとりが
できたからこそ
思えることなのだが、
孤独もやはり
一つの
人間らしさだ。
時々
孤独を感じることで
逆に
自分を取り戻す
こともできるだろう。
当然、
昔の孤独と
今感じる孤独は
違う。
昔は本当の
孤独なので
深刻だったが、
今は
孤独そのものを
味わえる。
でも
本当の孤独
であることに
違いはない。
人間遊び、
か?
いや、
遊びではない。
やはり
本物の孤独
だ。
でも、
やさしく感じられる。
山には行けないが、
山と同じ
空間
は、
いつでも創り出せる。
自分のために。
すべて、
セルフコーチングを
探究し続けた
成果だ。
つづく
波が迫り来る
海の
深みへ深みへと
向かって行く。
どんどん
深くなるのに、
底はずっと
見えたまま。
波の圧は
凄いのだが、
それに怯まずに
進む自分がいる。
行手は
大海原だ。
どこに向かうのか
何をしようと
しているのか
何もわかって
いない。
ただ、
まるで波に
逆らうかのように
進む。
海水を
何度も飲み込み
ながら、
溺れそうになる。
それでも
進みを止めようと
しない。
なぜに?
と
考える余裕も
ない。
ただ、進む。
ふと
見ると、
私の目の前に
私の背中が
見える。
必死に進む
私自身の
背中。
横波が来た。
溺れそうに
なる。
私は
背中の私を
咄嗟に支えた。
瞬間、
私は
支えられた私
になる。
後ろから
私を支える
何者かがいる。
それが誰か?
を
考える余裕も
ない。
それでも
前に進む。
私は
支えられる私
になったり、
支える私
になったり。
海は
ますます
深い。
波は
ますます
荒い。
でも
底は見える。
真透明な
海。
ふと、
何かが
わかった
気がした。
あぁこういうことか、
と。
私はその時、
人間であることを
あきらめた。
あきらめたら
海に
沈んで行った。
そして私は
人間に
なれたんだ。
つづく
心の奥の
ざわめきを
感じているかい。
怖いかい。
でも
今は、しっかりと
耳を澄まして
みよう。
なんと言って
騒いでいる?
それは
あなたの
心か?
本当に。
ひょっとして
誰か別の人達の
心ではないか?
皆の思惑。
皆の意図。
真実の想い
ではなく。
余分な
ざわめき達。
それらを
真面目に
受け取りすぎて
いないかい。
向き合うことは
大事。
でも
向き合うだけで
いいよ。
ちゃんと
向き合えば
余分なざわめきは
浄化されていく。
向き合う
以上のことは
しなくていい。
そして、
余分なもの達が
浄化され
それでも
残るもの達。
それが
真に受け取るべき
もの達だ。
それは
自分の意志も
あるだろう。
みんなの意志も
あるだろう。
そこはもう
区別しなくて
いい。
すべてを
愛そう。
自分の想い
みんなの想い
場の想い
・・・それらすべては
意図せずとも
ちゃんと
統合・融合されて
いく。
今のあなたの
生き方ならば。
背負い過ぎる
必要はない。
ただ
向き合えば
いい。
今のあなたの
真摯さならば。
つづく
あなたは
今、
何かを壊そうと
している、
・・・とする。
自分の中の
何か、
だ。
それは
あなたの中に
ずっと
在り続けた
大切なもの。
それをあえて
壊そうと
している。
新たな人生の
展開を
喚起するために。
・・・とした
場合、
何を壊そうと
しているのだろう?
これを
明確にした方が
良い人は
今、多い。
多くの人が
変わろうと
している。
人生の
「展開の仕方」
を
変えようと
している。
つづく
無理な炎を
立てる
必要はない。
静かに
進めばいい。
モチベーション?
ゼロでも
いいじゃないか。
ただ、
今することは
わかる。
それを
する。
炎を立てる
必要はない。
ただ、
する。
エネルギーの
浮き沈みに、
私達はもっと
素直であれば
いい。
エネルギーは
高ければ良い
という
ものではない。
すべては
調和のために、
私達の本能は
働いている。
だから、
そのまま
で良いではないか。
それができる
人こそ、
本当に必要な
その瞬間に、
炎を超えた
光を
自ら取り出すことが
できるんだ。
つづく
私は、
人と会う時、
たった一言の
メッセージを
残すために会う
と
言っていい。
その
「たった一言」
とは何だろう?
というのを、
毎度、
人によっては
何時間もかけて
明確にする。
明確には
するが、
本当にその一言を
お伝えするかどうか、
は
その時の
その場に任せる
ので、
せっかく明確に
できたメッセージを
言えずに終わる
場合も多い。
しかしそれでも、
私はこれを
やり続ける。
お仕事だけじゃ
ない。
プライベート
でも、
家族に対しても、
毎度
同じだ。
人間関係を
大切にする、
とは
こういうことでは
ないか、
と
思っている。
だって、
「その時のその人」
とは、
一期一会
だからね。
つづく
本当に
一貫性のある人には
柔軟性が
あるもんだ。
自分の一貫性を
守ろうとは
しない。
むしろ
もっともっと
自己成長を望むし、
もっともっと
未知の領域に
進もうとする。
もっと言えば、
本人には
一貫性を取ろう
という意識すら
ない。
意識しなくとも
一貫している。
筋が通っている。
それが
真の一貫性だ。
逆に、
真、ではない
一貫性の人は
多い。
それは
自分を守るための
一貫性であったり、
自分のこれまでの
成功体験や
過去や
こだわりや、
そういったことに
執着することで
発生する
一貫性もどき。
それは単なる
悪い意味での
頑固、
に過ぎない。
残念ながら
そういう人の道は
みるみる
狭まっていく。
人も
離れていく。
真の一貫性
には
根元がある。
根元に
人生の願いが
ある。
そこが
揺るがないから
こそ、
スーッと
自然な筋が通る。
その筋には
弾力があり
柔軟にしなり、
どんな強風にも
折れることが
ない。
やっぱり
カチコチは
弱いね。
力を抜き、
自然体で立ち、
風と共に
進む。
そんな人が
増えるといいな。
もう、
これまでの
自分は
いいじゃないか。
これまでの
こだわりは
いいじゃないか。
もう、
新しい時代
新しいステージ
だよ。
変わったんだ。
真の一貫性
で
進む時代だ。
つづく
あなたの
「水源」
とは、何だろう?
あなたの
エネルギーが
最も豊かに湧き出るのは、
その源は
何だろう?
私達は
外発的なエネルギー
のみで
生きているわけでは
ない。
内発的な、
つまりは
自分の内側から
生まれるエネルギーも
豊富だ。
ただ、
その「水源」を
掘り当てていない
人は多い。
自らの「水源」を
見つけ出せると
強い。
外発的なエネルギー
を
もらわなくとも、
自らの意志で
動ける。
そしてその
自らの行動が
また源となり、
回りに回って
外発的なエネルギー
となって
返ってくる。
源として
生きる。
そのためには、
自らの「水源」を
見つけることだ。
「水源」とは
透明だ。
つまりは、
あなたの最も
透明な
純粋な
想いだ。
それは何?
あらゆる
不純物を
流し切った後に
残る、
それは何?
つづく
スポットライトを
背後から
浴びている
感覚だ。
ステージから
客席へ
飛び降りる直前の。
ステージを
放棄するのでは
ない。
客席から
ステージを
眺めてみたいのだ。
客席の視点
が
もっとほしい。
私は今、
何をしているのか?
何をしているように
観えるのか?
客席から見て、
本当に調和した
場所に
私は立てているだろうか?
ステージから
客席に降りることは
簡単だ。
だがしかし、
待てよ・・・。
もし今、
それをしたら、
ステージの自分は
客席の自分の
コントロール下に
置かれる。
それでは
結局のところ、
これまでの私の
パターンを
逸脱できないのでは
ないか。
客席に合わせる
のではなく、
客席を引っ張る
くらいの
強引さこそが、
今ここで
望まれている
のではないか。
ステージのキワで、
私はステージを
振り返る。
眩い光達。
この光の中で
私は自分を
失いそうだった。
でも、
それで
良いのでは
ないか。
もっと
自分を失って
しまっては・・・。
それこそ
次の幕への
引き金になるのでは。
私は
光の中へ
戻った。
自分がわからなく
なる。
だが、
これでいい。
つづく
心の中を
ゾゾゾッと
蠢くものがある。
ヒヤッと
する。
コイツが
蠢くときは
危うい。
私は私のことを
まったく
考えなくなっている。
私のこの
行ないは、
本当に正しいか?
ただの
自己犠牲では
ないか?
と問う。
ゾゾゾッと
蠢く。
やめよ、
と
私は私に言う。
これ以上は
ダメだ。
私が私を
止める。
自惚れては
いけないのだよ。
一人の
人として。
もう
ここまでだ。
涙が
どれだけ出ても
もう
ここまでだ。
つづく
世の中の混乱を
見ていると、
こちらの心も
混乱してくるが、
これは
区別した方が
いい。
世の中は
世の中。
私とは
違う。
と。
環境の動揺に
対して
揺れる心は
当然、ある。
それは
心が、反射、
もしくは、反応
しているだけだ。
その反射・反応が
私達の心の
すべてではない。
反射・反応を
じっと見つめる
自分がいる。
世の中の動揺を
じっと見つめる
自分がいる。
世の中は
動揺し、
私の心も
それを反射・反応
しているな。
と。
そう、
じっと見つめる
自分の場所に
いつも居ればいい。
私達は
反射・反応
ではない。
反射・反応
は、
ただの
反射・反応
だ。
区別を
しよう。
そして、
揺れ動くもの
達を、
そのまま観察し、
そのまま
存在承認し、
放っておき、
意図を持たず、
思惑を持たず、
ただ、
自分の意志を
待てばいい。
私達は
意志を持っている。
意思を
持っている。
その事実を
忘れずに、
じっと待てば、
自らの意志・意思
は
浮上する。
心の「真」の
部分から。
そして
意志・意思で
動こう。
私達は、
意志・意思だ。
つづく
迷い、
が
私達を成長させて
くれる。
だから
しっかりと
迷わねば
ならない。
自分は
迷ってはいない。
・・・などと
ごまかしては
ならない。
自分の迷いと
対峙できる人。
それが
人生を
切り拓ける人。
私達は
大事な局面で、
肝心な
ところで、
迷うように
できており、
とことん迷い、
答えを出す
という
過程を経ることで、
自己の真本音
を理解していく。
真本音度合い
が高まる人
とは、
迷うべき時に
しっかりと
迷う人だ。
自分自身で
本当に納得の
答えを
見つけるまで。
妥協の答えは
ダメだ。
理想の答えに
執着するのも
ダメだ。
最善の答え。
最善の一歩を
スッキリ
見出すまで。
とことん
迷いと
対峙しよう。
つづく
最大スピードで
走りたい、
という欲求が
あるならば、
やってみると
いい。
これまでの
限界を超えた
スピードを出したい
と思うならば、
やってみると
いい。
今は、
「やってみる」
と良い
時期だ。
「流れ」が
できている
からだ。
私達が
2021年末までに
しっかりと
準備をし終えた
成果が、
今だ。
ここでやらねば
いつやるの?
と言っても
良いくらい。
だから
自分の想いと
欲求に素直に、
全力疾走
しよう。
一つの節目の
前に
ちゃんと
やるべきことを
やり遂げる、
ということが
いかに大切なことか
を
私達はしっかり
実感できるだろう。
昨年までの
努力が
今年の「自由度」
となって
現れる。
全力を
出せば出すほど
報われる。
全力を
出せば出すほど
さらに次へ。
手応え
足応え
歯応え
のある日々を
始められるよ。
つづく
自分の中から
湧き上がるものの
エネルギーが
高過ぎると、
自分自身が
ビビってしまう。
エネルギーを
持て余す。
そして
自分のエネルギー
なのに、
そこから逃げようと
する。
結果、
エネルギーに
巻き込まれ、
制御不能になる。
エネルギーが
高いが故に
自分を失う状態。
そんな人は
今、多い。
エネルギーが
枯渇することで
自分を失うのも
辛いが、
エネルギーが
高過ぎるのも
辛いものだ。
私がそういう時、
いつもするのは、
「エネルギーを主」
にする
ということだ。
つまり、
自分を保とうと
しないこと。
エネルギー制御を
最初から
諦めること。
自分自身の
エネルギーに
完全に
委ねることだ。
これをすると
大概、
わけがわからなく
なる。
まるで
気を失ったような
状態で
一日を過ごすことに
なる。
しかし
それでいい。
それをして初めて
新たな自分の
「核」
が見つかる。
一気にエネルギーが
高まった場合は、
これまでの自分で
いることを
諦めること。
これまでの自分の
核を
放棄すること。
それこそ
怖いことかも
しれないが、
でもそれを
しなければ、
新たな自分は
生まれない。
新たなエネルギーを
コントロールすることは
できない。
変わるのだ。
大きく。
変わる覚悟を
持つことだ。
つづく
辛いことが
あった時、
その辛さを
背負い切った時、
生まれるものが
あるだろう。
ただでは
倒れない。
倒れる度に
光を得る。
しかしそれは
自己満足ではなく、
意図では
なく、
真にそこに
存在するもの。
その体験を
経なければ
決して
見つからない
もの。
でも、最初から
ずっと
そこに在り続けた
もの。
その光を
得れば、
ザザザッと
あらゆるものが
砂城の如く
崩れ去る。
なぜこんなにも
脆く淡いものに
執着していたのか、
と
笑えることも
ある。
そんな自分を
愚かだ、と
貶す必要はない。
それが
人間じゃないか。
光は
そこにある。
ずっとある。
辛くて挫けたら、
しっかり
挫けよ。
しっかり
倒れよ。
もう二度と
立ち上がれない
くらいに。
そこでようやく
見つかるんだ。
永遠の光
が。
つづく
自分の足元に
意識を
向けよう。
今の自分は
ちゃんと
地に足がついて
いるだろうか?
「大地」の
感覚は
あるだろうか?
「大地」を
踏みしめている
感覚は?
もし
「ない」場合は、
どうすれば
地に足をつける
ことができるか?
を
しっかり考えよう。
私達には
「守るべきもの」
がある。
その人その人
でそれは
異なるかもしれない。
「これを守らねば
私は不安で
しょうがない」
というものが
ある。
私達が
人生を楽しむ
ことができるのは、
その
守るべきものを
ちゃんと守っている
という
実感がある時
だけだ。
守るべきものを
守れていない
のであれば、
私達は
「楽しさ」を
本当に感じることは
できない。
では、
何を守ることが
できれば、
私は安心だろう?
そのためには
何が必要だろう?
何をしなければ
ならないだろう?
・・・そんな問いと
しっかり向き合い、
実行すること。
地に足を
つけなければ、
私達は
最速では進めない
生き物なんだ。
つづく
自分という
人間を
自分の人生
という
ステージに
立たせる。
そこに立っている
自分は
どんな姿で
ありたいだろうか?
「生きる姿勢」。
あるクライアントさんが
おっしゃった
言葉だ。
とても
良い言葉。
これに尽きるな、
と
私は思う。
私達は
生きる姿勢を
問われている。
誰から?
自分自身
からだ。
自分は、
人生のステージに
立つ
自分自身の
生きる姿勢を
ずっと
いついかなる
時も
観客席からじっと
見つめている。
自分の
生きる姿勢は、
自分自身が
一番よく見つめている。
そんな自分に
恥ずかしくない
姿勢で
いつもいたいものだ。
今の自分は
ステージの上で
ちゃんと
スポットライトを
当てられるだけの
それだけの
価値のある
生き方を
しているだろうか?
格好良い自分
であるだろうか?
表面上の
格好良さだけでは
ない。
本質も形も
私の姿勢は今、
どうだろうか?
こう
自分自身に
常に問いかけることは
プロとして、
人生のプロ
として、
最も大事なこと
ではないか。
自分自身を
ガッカリさせない
生き方を、
その姿勢を、
私は大切に
し続けたい。
ある、
とても魅力的な
人の
生きる姿勢を
観て、
今日は改めて
そう思ったよ。
つづく
二つの異なる
意見が
自分の中に
ある時、
しかも
その二つ共が
真本音だ、
と
思える時、
私はその
二つ共を
信じる。
そして、
その二つ共を
観続ける。
判断は
せず。
ただ、信じ
ただ、見つめる。
意図は
一切、持たない。
すると
その二つは
突然、
統合される。
・・・こともある。
もしくは、
まったく異なる
別の視点
別の視野
が
開かれる。
・・・こともある。
もしくは、
何も展開しない
こともある。
何も展開しない
場合は、
何も判断せず、
そのままである。
結局、
何も動かない
ということになる。
でも後から見れば、
それこそが
最善だった、
となる、
・・・こともある。
いずれにしても
頭を超えた、
思惑や意図を
超えた
展開となる。
私達は
そういうところに
生きている。
生きる、
とは
思惑を超える
ことだ。
つづく
東京は
雪、積もったのに、
なぜか
気分は3月
なんだよね。
不思議だね。
もう
春だ。
もうすぐ
桜が咲くムードに
私の心は
なっている。
妙にポカポカ
あったかい。
きっと本質的に
心が
あったまっている人が
私の周りに
多いのだろう。
「始まり」
の感覚。
良い感じ
だ。
さて。
一つ思う
ことがある。
誰かと誰かを
きちんと
結びつけたい
という
想いだ。
結構これ
難しいんだよね。
たとえ赤い糸で
繋がっている人が
いたとしても、
タイミングが
ズレれば、
良いご縁とは
ならない。
そういう場面を
これまでたくさん
見てきた。
人生は
タイミング。
出会いも
タイミング。
これで
決まる。
でもきっと
このあったかさは、
タイミングの良い
人同士が
今、増えている
ということかもしれない。
だから
しっかり丁寧に、
そのための
サポートをしたい。
早過ぎず、
遅過ぎず。
今ここだ!
というのを
逃さずに。
つづく
未来への
「兆し」
は、
最初はほんの僅かな
ものだ。
余程、気をつけて
いないと
見つからない。
ほんの気配
しか
しないものだ。
でももし
その気配を
感じたら、
じっとその方向に
意識を向け続ける。
他は一切
意識しない。
そこに
集中し続ける。
すると
かすかな光が
観えるかもしれない。
それは徐々に
大きくなるか。
それとも
すぐに消えて
しまうか。
たとえ消えて
しまっても
そこに意識を
向け続ける。
すると
いつの間にか
引力が
働く。
そこに
引き付けられ
始める
自分となる。
それが
道となる。
私達は皆、
「兆し」
を探している。
それが
人生だとも
言える。
気配のような
小さなそれを
信じることが
できるかどうか?
自分の妄想だ
と、
笑い飛ばすも
人生。
しかし私は
信じる。
じっとそちらに
「信」
の意識を
向け続ける。
中学3年の時の
担任の先生が、
卒業式に
私に
「信」の一文字を
プレゼントしてくださった。
「君のこれからの
人生に必要なものだ」
と。
先生は
正しかったよ。
今、つくづく
わかる。
自分を
信じることが
できるかどうか。
私の人生は
すべてそこに
懸かっている。
「信」を
養うための
道のりだった。
これからも
そうだ。
今、
ここに観えるあの
「兆し」
を、
私は誰よりも
信じることが
できる。
感謝である。
つづく
もし自分の中に
強い塊
を感じたら、
私はそれが
光り輝いているか?
それとも
ただの固形物のような
塊か?
を
すぐさま観察する。
心の中にある
塊は
多くの場合は、
「価値観」
であったり
「信念」
であったり
「こだわり」
であったりする。
どんな価値観か?
とか
どんな信念か?
というように
中身そのものを
見つめるより
先に、
それが
光り輝いているか
どうか?
を
私は観察する。
もし
ただの固形物で
光のないものだと
したら、
それは
要らぬもの。
むしろ
それがあることで
私はそれに
縛られてしまい、
自分の視野を
狭めたり、
本来の自分らしさを
弱めたり、
本来進みたい一歩を
進めなかったり、
・・・そんな影響の
あるものだ。
しかしそれは
私自身が創り出した
価値観や信念で
あるので、
そうそう
なくすことは
できない。
なくそうとしても
逆に
反発をくらい、
ますます強固になる
可能性がある。
だから
そういった
光り輝かない価値観
や信念は、
そのまま
にしておく。
ただ、
いつもしっかり
そいつを観察する。
どんな時に
そういった価値観や
信念が
発動するか?
を。
いつもただ
観察だけするように
する。
すると
それだけでもう、
そいつに
影響されなくなる。
そいつからは
自由になる。
さて、
逆に、
光り輝く価値観や
信念が見つかったら、
それは
自分の真本音だ。
私はすぐさま
その輝きと
一体化する。
その輝きそのもの
の自分となる。
そしてさらに
その輝きを
深く理解しようとするし、
その輝きを
言語化し、
その言語化した
ものを
いつも思い出し、
かつ、
探究し続ける。
同じ信念・価値観
でも、
真本音かどうか?
を
見極める目が
必要だ。
真本音でない
信念・価値観は
自分を縛り、
真本音の
信念・価値観は
自分を
開放してくれるんだ。
つづく
結局、
毎年がそうで
あるように、
今年も
正月とか関係なく
仕事をし続けてしまって
いるのだが、
この
1月5日の午前0時00分
をもって
私の仕事始め
とする。
・・・と
今年はハッキリ
クッキリと
節目がある。
これだけ
クッキリ境界線が
あるのは、
何年ぶりだろうか。
この境界線を
越えることで、
私は私の開放度合い
を
一気に変える。
ずっとそう
決めていた。
・・・ということに
0時00分になって
気がついた。
私自身に
必要なのは、
これまで以上に
力を抜くこと。
すべてに
委ねること。
特に
自分自身に
委ねること。
私は
私を
阻害しない。
私のやりたい
ように
私を動かして
やりたい。
私の中には
新たに生まれた
私が、
静かに正座をして
呼吸を整えている。
彼を
私は阻害しない。
そして
彼と私は
これから少しずつ
一つになってゆく
だろう。
彼の意志の強さ
を
とてつもなく
感じる。
実は、ちょっと
怖い。
もともと私は
自分自身を畏れる
ところがあるが、
今回は特に。
きっとまた
未知の領域に
行くのだろうな。
こえーなぁ。
彼はじっと
私を見ている。
私も彼を
見返す。
こえーなぁ。
だが私は
決めている。
私が彼自身
となり、
彼は私自身
となる。
最初から
完全一致で
行こうじゃないか。
2021年までに
準備し続けてきた
ことが
花開くように。
人生の目的に
ダイレクトに
進めるように。
つづく
今回は
問いを一つ。
直観的に
浮上する答えを
いくつも
出してみるといい。
頭で考える
のではなく、
手を動かして
紙に
答えを書き続けると
いい。
・・・
今年は
何を知るための
一年にしたい?
・・・
表面的な答え
だけではなく、
自分の深い深い
ところからの
答えを
見つけ出して
ほしいな。
つづく
私は
心の中に一つ
椅子
を置いている。
私の実際の書斎の
椅子に近い形だが、
その形は時と場合
によって
自由に変わる。
ただ、
その椅子は座ると
とても気持ちが良い。
落ち着く。
私は毎日、
何度もその椅子に
座る。
特に
現実がめざましく
動いたり、
混乱が起きている
時ほど、
慌てふためかず、
その椅子に
座る。
座ることで
ドッシリと
構えることができる。
そして
目の前に展開する
現実を
じっくりと観察する。
すると、
その物事の
あるがまま
が、
その本質が
観えてくる。
そして
自分が次にすべき
一歩が
確信を伴って
浮上する。
その瞬間に
私は
確信のままそれを
実行に移す。
確信のある行動
と
確信のないままの
行動では、
行動の形が
まったく同じで
あったとしても、
その力強さも
エネルギーも
影響力も
根底から変わる。
今から思えば、
以前の私は
随分と
無駄な行動を
とっていた。
余分な行動に
よって
不調和が起こる。
不調和の原因の
多くは、
行動しなかった
ことよりも、
余分な行動を
してしまう、
ことにある。
確信のない行動
を
10とるよりも、
確信のある行動
を
一つだけする。
これが今の
私の
進み方だ。
今日も私は
椅子に座って
現実を見つめる。
世界を
見つめる。
自分のすべきこと
を
明確にするために。
つづく
自分の意識が
どこに
向いているか?
2022年は、
それが大事な
年になるだろう。
暗闇の中で
一点だけに
スポットライトを
当てるように。
その
明るい部分のみ
に
常に意識を
向ける。
その状態の
ままで、
自分の一挙手一投足
を決める。
そんな進み方
をしたい。
すべては
その一点に
収斂されていく。
収斂進化
という言葉が
あるようだが、
まさしく
そんな感じに
進んでいく。
つまり、
同じ一点を見つめる
人同士が
関わり合いながら、
その同じものを
共に
抱きながら、
一人では到底
できないことを
成し遂げていく。
そんな進み方
をしたい。
人はそれぞれ
その人にしかない
個性がある。
しかし
どれだけこれまでの
人生が異なっても
同じもの
を抱いている人は
いるものだ。
その、
同じものを
その人と共に
育てたい。
一人で育てる
のとは
異なる仕方で。
私は今後、
より静かに
進むだろう。
そして
よりスピードアップ
する。
淡々と
力を抜いて。
しかし
その一点のために
一気に進む。
そんな一年に
したいものだ。
つづく