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- 2022年 2月
「気づき」
という言葉が
あるが、
これを
反応本音のレベルで
出してしまうと、
厄介なことに
なる。
普段から
自分の真本音を
素直に大切に
できていれば、
今のこの気づきは、
真本音からのものか?
反応本音からのものか?
の区別は
感覚的にすぐに
わかるはずだ。
これが
「感覚的」
というのがきっと
難しいのだろうなぁ。
それは本当は、
今日は暑いなぁ
今日は寒いなぁ
というくらいに
簡単なものなんだけどね。
感覚を掴む
ためには、
やはり
基本が大事。
私はいついかなる
時にも
どんな生き方を
大切にしたい?
私が人生において
ずっと願い続ける
ことは何?
私は何のために
生きていこう?
こういった
自分自身の核に当たる
問いかけを、
答えがわからなくても
良いから
普段から問い続け、
正しいかどうかは
別にして
「これが今の私にとっての
最高の答えだな」
と思えるものを
一つでも見つけ
丁寧に言語化し、
それを
毎日、毎時、毎分、毎秒、
大切にする。
その通りに実践
できなくても良いから、
「大切にしよう」
と思い続ける。
今、実践できること
だけで良いから
一つずつ、少しずつ
実践を増やそうとする。
・・・そういったことを
ずっと真面目に
やり続けることだね。
それをすれば、
まずは普通に
「直観」「ひらめき」
が多くなる。
そしてそれらの
「気づき」
に対して、
真本音からのものか?
反応本音からのものか?
が
徐々にわかるように
なる。
反応本音の気づきは
外部からの
何らかの影響の
単なる「反射」として
発生しているだけなので、
それは
ただの思いつき
でしかない。
その気づきを
大事にすると
逆に、
自分の本当の答えから
遠のいてしまうかも
知れない。
だから
「気づき」に対して
丁寧な目線を
持ってほしい。
そのためにも、
上記、
基本的な毎日の生き方を
大事にしよう。
地道なことだが、
これ以上の
近道は
ないんだよ。
つづく
そろそろ
「思考」
を止める練習を
してみようか。
心の中を
宇宙だと
思ってもらいたい。
心の宇宙を
我々、顕在意識が
漂っている
イメージだ。
私達に必要な
「答え」
が出来上がったとき、
それは
宇宙のどこか
特定の場所に
浮遊している。
実際の宇宙には
「浮遊惑星」
という星がある
らしい。
要するに「遊星」
というやつで
自由気ままに
その星は宇宙を
駆け巡っている。
心の宇宙に
おいては、
出来上がった「答え」
がまさに
その「浮遊惑星」の
ようだ。
自由に心の中を
飛び回っている
わけだ。
そいつを
捕まえなければ
ならない。
そこで邪魔に
なるのが
「思考」
というわけさ。
思考している間、
我々は
一つの場所に
止まってしまう。
そうすると
「答え」には
永遠に巡り会えない。
「答え」に
巡り合うためには、
こちらから
「答え」を追いかけたり、
待ち伏せしたり、
一緒に流れたり
しなければならない。
それを「思考」で
することは
不可能だ。
どうするか?
と言えば、
簡単なことだ。
「思考」を止めた
状態で、
心の宇宙に
ただ、漂うだけだ。
これをしていると、
私達は勝手に
心の宇宙の中を
移動し始める。
ある時は
光をも超えるような
勢いで
駆け巡ったりする。
「思考」さえ
止めれば、
勝手にそうなる。
あとは
じっと待つだけ。
順当に行けば、
数分後には、
「浮遊惑星」である
「答え」と
巡り合う。
巡り合ってからも
「思考」は
働かさない。
やはり
待つだけ。
自分(顕在意識」と
「答え」は
スーッと「一つ」に
なる。
一つになっても
思考はするな。
一つになった
感覚を
ただ、楽しむだけ。
すると、
フッと
まるで過去を
思い出す感覚で、
「答え」が
顕在意識に
浮上する。
思い出す感覚なので、
すぐにわかる。
そこには
「確信」しかない。
この「答え」で
間違いないと。
だからもう
迷うことはない。
決断しよう、
という意志も
必要ないくらいに、
私達は
その「答え」と共に
現実世界を
歩み始めるんだ。
まとめると、・・・
自分の必要と
している「答え」が
生まれたな、
と、まずはわかる。
わかったら
心の宇宙に入り、
じっとしている。
思考をゼロに
すれば、
勝手に宇宙の旅が
始まり、
答えと巡り合う。
そして
答えと一つになれば
思い出す。
本当の答えを。
・・・たったそれだけの
こと。
慣れれば、
一日に何度でも
できる。
「直観」を
意図的に
起こすことができるんだ。
本当に必要な
答えと
共に生きる。
それができる
自分になろう。
そろそろ
思考を止める
練習をしよう。
つづく
迷い、
があるのが
人間だ。
だから私は
迷いを
愛する。
あらゆる迷いを
どんな小さな
迷いも
それが
発生したら
自分の両掌の
中に包み、
雛鳥を
守るかのように
大切に
保護する。
迷いは
宝物だと
思っている。
それが自然に
消滅してしまう
まで、
大切に保護し
観察し
慈しみ続ける。
迷いの多くは
苦しみを
伴ったり、
エネルギーを
奪ったり
する。
そういった
苦しみの感覚
エネルギー枯渇の
状態、
そのものを
私は愛する。
あるがままを
見つめ
あるがままを
感じ続ける。
本当の意味で
この生き方が
できるようになった
のは
12年前だ。
その12年前から
明らかに
私の人生展開は
変わった。
それ以前は
迷いをなくすことが
成長だと
思い込んでいた。
それ以後は
迷うのが人間。
迷いを愛するのは
人間を愛することだ
とわかった。
そして面白い
ことに、
そうなることで、
迷いと共に
歩み、
かつ
迷いによって
惑わされなく
なった。
決断すべき
瞬間が
観えるようになった。
そして、
いつもは
迷っているのに、
いざという時に
必ず
決断できる自分に
なれた。
そして、
その決断は
道を拓いた。
私達は
迷うように
できている。
であれば
迷いと共に
進もう。
徹底的に。
つづく
自分の想いの
底の底を
覗いたら、
さらにその奥が
あるのを
知った、その時、
私は少し
恐ろしくなった。
自分が
わからない。
という
怖さ。
でもこれは
ずっと昔から、
そう、
生まれたその
瞬間から
私にはずっと
あった。
私は自分を
恐ろしく感じながら
生まれ、
そして生きた。
そんな恐ろしさに
目を背けるために、
私は
弱い私を
私自身に演出して
見せた。
それが、
その癖がきっと
今でも続いている。
今は私は
自分を恐れないか?
と言えば、
いや、結局
今までで一番
自分を恐れているかも。
という答え
が浮かぶ。
しかし
昔と違うのは、
その恐れを私は
誤魔化さない。
恐れを恐れのままに
感じ、
そしてできるだけ
自分の怖い部分を
見つめようとする。
見つめれば
見つめるほど、
恐ろしさは
消えた。
なんだ、
こんなもんか。
可愛いもんだ、
と
思えた。
が、その直後に
さらにその奥の
自分を感じ、
その存在を
初めて知り、
また
恐ろしくなる。
その繰り返し。
人は
奥深い。
まるで
宇宙のよう。
宇宙は
恐ろしい。
知らないことばかり
だからだ。
無限の
無知。
それが
私達人間だ。
その一方で、
もうすでに
最初から
すべてを知っている
自分もいる。
その存在も
生まれた時から
ずっと
感じ続けている。
で、そんな自分
をもまた
私は怖くなる。
既知と無知の
波乱、混乱。
混沌。
でもそれらを
すべて
そのまま愛せば、
あっという間に
すべてが
単純明快になる。
恐ろしく
面白き
人間よ。
つづく
「言葉」を
単なる意味として、
解釈として
頭で捉えるのでは
なく、
体験として
捉えてみる。
過去の自分の
体験として。
しかしそれは
過去を
思い出している
というだけに
留めない。
例えば、
『楽しむ』
という言葉がある。
意味は誰もが
知っているだろう。
しかしそれは
解釈に過ぎない。
解釈は
解釈だ。
そこで終わっていると
私達はその本質には
到達し得ない。
過去の自分の
「楽しむ」体験を
思い出そう。
最も「楽しむ」ことの
できた体験を。
しかもそれは
思い出すだけでは
いけない。
もう一度、
今ここで
その体験を
し直そう。
今ここで
まさにその出来事が
起きているかの
ように。
そして、
まだ、これでも
足りない。
その「体験」を
「楽しむ」
そのものとして
味わうのだ。
頭の解釈
ではない。
その体験を
通じて、
自分自身が
「楽しむ」そのもの
となるのだ。
私は
「楽しむ」
だ。
・・・と。
自分の
全身全霊すべてが
「楽しむ」そのもの
となる。
その時になって
初めて私達は、
「楽しむ」の本質
を理解する。
もちろんそれは
その人それぞれの
理解で良い。
自分なりの
「楽しむ」の本質
で良い。
私がこれを
やったら、
私が
「楽しむ」そのもの
となったら、
私は私の「中心」に
何かの存在を
感じた。
それは「卵」の
ような
何か。
私はそれを
「守っていた」。
とてつもない
深い愛で、
それを
守っていた。
それを守りながら
私は
高いエネルギーを
もって
活性化をしていた。
そこで
理解したのだ。
私にとっての
「楽しむ」
とは、
「守るべきを守り
活性化すること」
であると。
以上が、
「言葉」を
真に「自分のものとする」
ということだ。
この世の言葉は
すべて
記号に過ぎない。
しかしその記号は
すべて
本質と繋がっている。
特に
自分にとって
大切にしたい言葉、
好きな言葉、
は
自分自身の本質と
相まって
ここに存在している。
こういったことを
一つ一つしっかり
理解することこそ、
自己理解
ではないか。
自分の人生を
理解する
ということでは
ないか。
つづく
私は
変わった。
少なくとも
もう
「コーチ」ではない。
コーチではない
人間が
コーチをしている
のだから、
だんだんと
私の活動は
コーチから外れて
行くだろう。
こうなることは
今から思えば、
数年前から
わかっていた。
私は
変わる。
と。
そのための
私のあらゆる
行動だった。
その意味が
今はよく
わかる。
そして
私はすでに
変わった。
本質が。
私の本質が
今は何か?
ということについては
まだ書くのは
やめておこう。
突飛なもの
ではない。
「コーチ」という
方がむしろ
突飛だろうな。
私は私の変化を
今はもう
必然的なものだと
すべてを
受け入れている。
自分が自分との
約束を
果たすための
一つの過程で
あるし、
それを経なければ
私は
私の人生の目的を
果たすことは
決して
できないことを
知っている。
しかも
その、新たな私に
違和感は
まったくない。
というか、
私は生まれてから
ずっと
これ、だったに
違いない。
「コーチ」とは
仮の姿だったのだ。
仮の姿を
人生の本来の姿
であると
100%信じ込み
進んできたからこそ、
これ、である
私になれた。
ここ、に
たどり着いた。
仮の姿を
経なければ
決して
たどり着かなかった。
仮の姿・・・。
皆さんの中にも
私と同じような
過程で進んでいる
人は
多いのでは
ないか。
だから
このヘンテコな
ブログを
長く読み続けて
いただいている・・・。
そろそろ、
仮の姿を
捨てる時では
ないか?
つづく
インプットは
すれば良い
というものでは
ない。
余分な勉強は
すればするほど
本質が
わからなくなる。
自分の中に
既に明確な答えが
あるにも関わらず、
下手なインプットを
することで、
それが遠のいてしまう。
何のための
インプットか?
ということを
もっとしっかり考えないと
わけがわからなくなる
のが
今の時代だ。
私はこれまでの
人生で
本をまったく読まなくなった
という時期が
何度もある。
読まなくて
よかった、
と
今、振り返ると
よくわかる。
特に、真本音という
概念を確立した
数年間は、
本当に一冊も本を
読まなかった。
ただ、
目の前の人と
ひたすらに
向かい合った。
セミナーとか
勉強会とか
そういったことにも
一切、参加せず。
おかげで
本当に「現場」の中から
私の人生を決定する
「真本音」という視点を
見つけることができた。
下手なインプットは
自分の目を
惑わせる。
人生を
遠回りさせる。
・・・というくらいの
認識は必要だろう。
真本音度合いが
高まると、
この情報は
必要ないな。
この本は
読んじゃダメだな。
ネットで
このサイトは
見ちゃダメだな。
この番組は
見ちゃダメだな。
・・・ということが
瞬時にわかるように
なった。
無駄な情報は
取り入れない、
と
決めると逆に、
この本は
今、読むべきだな。
この番組は
見た方がいいな。
このサイトは
今の私には
価値があるな。
・・・ということも
明確にわかるように
なり、
勉強の効率も随分と
上がった。
今の時代、
多くの人達は
インプット過多だ。
だから
まずは
アウトプットを
オススメする。
どこかに答えを
探すよりも、
自分で考えて
答えを書いてみる。
自分の意志を
書いてみる。
まずは自分だけで
答えにたどり着こうと
してみる。
そこから始めると
良いと思う。
私は昔から
とにかくよく書く。
書きながら
発想するのは
セルフコーチングの
基礎でも
あるんだよ。
つづく
真本音度合いを
高め、
自らの意志・意思で
自らの一歩を
選び、
地に足をつけた
進み方ができている
人を、
私は
自律した人
と
呼んでいるが、
もし
私はもう自律
できているな、
と
自分自身に対して
納得できるならば、
次の段階に
進むといい。
次の段階とは
『場をプレゼントする』
という段階だ。
自分自身に
プレゼントするのだ。
「場」を。
つまり、
自分が活躍する
ステージを
自らのために
選ぶ、ということ。
環境を選ぶ
ということ。
本当に今、
私がいる「場」の
ままで
良いのだろうか?
と
しっかりと
問い、
今の「場」に違和感を
覚えるなら、
本当は
どんな「場」が
良いか?
ということと
真正面から
向き合うといい。
これは多くの場合、
人生の大きな
転換点となるが、
その覚悟を
もって
向き合うべきだ。
自律できたら
場を選べ。
今はもう
その時だろう。
つづく
セルフコーチングの
いつもの私のやり方を
教えます。
私の場合、
まずは自分の中に
何らかの
「発想」
が浮かんだことが
わかる。
多くの場合、
それは
「光」として
認識される。
つまりは、
私の心の中に
「光」が発生する
わけだ。
あっ、
「光」が来たな。
と
わかったら、
その「光」に
意識を向ける。
ただ、
意識を向ける
だけ。
何も考えない。
すると、
私はその「光」と
一体化を
自然に始める。
「光」の中に
全身が
入っていく感じだ。
「光」の中に
入ったら、
じっと
そのまま「光」を
感じる。
何も考えない。
思考しない。
すると
フッと
まるで思い出すような
感覚で、
「問い」が
浮かぶ。
そうしたら、
「光」の中のままで
自分にその「問い」を
投げる。
すると
多くの場合、
その直後に
「答え」
を思い出す。
まさに
「思い出す」感覚
だ。
これを
一日に何度も
行なっている。
これで
自分が今日すべき
ことや、
今日すべき仕事に
必要な発想は
すべて揃って
しまう。
未来のビジョンも
課題も
必要な時に
必要な形で
明確になる。
なぜこの私の
やり方を
ここに書いたかと
言えば、
皆さんの中には
もう
やろうと思えば
このやり方のできる人が
いるのではないか。
生産性、
メッチャ上がります。
試してみて
ください。
つづく
空から地上を
見降ろせば、
いつも地上に
いるのとは
まった別の景色が
見れるだろう。
正しいと
思っていたことが
間違っていて、
間違っていると
思っていたことが
実は
正しかったのだと、
根本的に
考えを改めることも
あるかもしれない。
どこに立って
ものを見るか?
によって
人生は変わる。
私達は
一つの点だ。
だからと言って
たった一箇所に
留まらねばならない
という
法はない。
私達は
一点でありながら、
無限の点
でも
あり得る。
それを拒むのは、
自分はただの一点である
という
自己イメージにすぎない。
私は今の仕事を
通じて、
人の心は
人の内側は
宇宙と同様に
広くて深いことを
知った。
内側の宇宙と
外側の宇宙。
その接点が
「人」であり
「私」であると。
接点は
一点かもしれないが、
その一点には
「無限」と「無限」
が
重なり合っている。
むしろ
「無限」と「無限」を
重ねるために、
私達は
ここにいる、
と。
人は
ここにいる、
と。
さらに、・・・
実は、
これまで内側だと
思っていたものが
外側で、
外側だと
思っていたものが
内側なのでは
ないか、
と
ある人と向き合って
いる瞬間に
感じ取った。
その瞬間、
一瞬
すべてがひっくり返った
感覚がきて、
次の瞬間、
あらゆるものの
景色が変わった
感覚がした。
何がどう
変わったのかは
よくわからない。
ただ、
私には
やらねばならない
ことがある、
と
直観した。
私達は
ただの一点
ではない。
宇宙と宇宙を
結ぶ
一点だ。
その実感は、
人生の見方を
一変させる。
その同じ感覚は
皆さんにも
すでに
あるのではないか。
つづく
傷ついて
倒れて
エネルギーまで
枯渇する。
そんな状態に
なると
人はどうなるか?
すべてに絶望
してしまうのか?
案外
そうでもない。
自分の進み方
さえ
できていれば。
あらゆる物事の
結果の前には
原因がある。
原因の中でも
最も核になるのが、
その結果を
出すまでの
自分の進み方だ。
自分の
生き方だ。
結果は
状況により
変わるだろう。
運・不運
というのも
あるだろう。
しかし私達は、
「状況によって
左右されるもの」
は
原因としてあまり
重く捉えていない。
状況によって
変わるのは
当然だと
捉えている。
しかし一方で、
状況によって
ではなく、
自分の意志・意思
として
変わるものがある。
その
自分自身が示した
意志・意思が
どのようなものだったか?
を
私達は
私達の真本音は、
と言った方が
良いかもしれないが、
重く見つめて
いる。
つまりは
それが
生き方であり
進み方だ。
自分は自分の
意志・意思として
どんな生き方を
その時、
選択していたか?
だ。
私達が
絶望したり、
虚無感に陥ったり、
あらゆることに
無気力になる時、
それはほぼ
間違いなく
自分の望む生き方・
進み方とは
異なる選択をし続けた
結果だ。
その場合、
たとえ結果がたまたま
上手くいったとしても、
虚しさが
発生する。
心のどこかに
ポッカリと
穴が空く。
私達(の真本音)は
私達自身を
じっと
観察しているのだ。
自分自身の
意志・意思を。
生き方を。
もちろん
結果は大事。
私達は結果を
出さねばならない。
しかし、
その結果に至る
原因としての
生き方・進み方。
それによって
さらに次の結果が
大きく左右される。
その後の
人生展開が
大きく左右される。
いかに
結果を出すか?
だけでなく、
いかに
自分の生き方と
結果を
結びつけるか?
これが
すべての人に共通の
テーマだろう。
自分の生き方を
大切に「しよう」と
し続ける人は、
どのような状況に
なったとしても、
どのような結果が
出たとしても、
決して
虚無や絶望に陥ることは
ない。
つづく
人間の心は
宇宙のように
広いと、
私は日々
実感する。
なのに、
心の浅いところ
表面的な部分
のみの
自分の心を感じて、
これが私だ
と
理解できた気に
なる。
それはまるで
ちょっとだけ
大気圏を
出ただけで、
宇宙すべてを
理解できたと思い込む
に等しい。
もっと
自分という存在を
探究すれば
良いのに。
もっと
未知の自分を
見つけ出そう
すれば良いのに。
いつもそう思う
のは、
この仕事を始めてから
ずっと変わらない。
もちろん
私自身だって
私のことはまだ
何にもわかっちゃ
いないだろう。
知れば知るほど
わからなくなる。
理解すれば
理解するほど
わかっちゃいない
ことが
さらにわかる。
それが
私達人間の
奥深さだ。
そして、
私達の心の
中では、
いつも
次々に
超新星が
生まれている。
それは
自分自身の心の
全体に
非常に大きな
インパクトを
与え続ける。
しかし
そのことに
気づいていないのが
自分自身だ。
私達は常に
インパクトのある
変化を
続けているのに。
なぜ、
昨日までの自分に
執着する?
ちょっとだけ
覗き見た
表面上の皮膜みたいな
部分を
掬って、
これが私だから、
と
決めつける?
もったいない、
というよりも
もっと私達は
自分自身に対して
誠実であるべきでは
ないだろうか。
誠実さの第一歩は
「知ろう」
とすること。
「知ろう」と
するためには、
「挑戦しよう」
だ。
挑戦なくして
新たな自分を
知ることはない。
つづく
前転が
上手くできるから
と言って、
バク転が
上手くできるわけでは
ない。
ただ、
床の感触を掴む力とか、
自分の体の
バランス感覚とか、
前転を通じて
得たものを
バク転に活かす
ことはできる。
本質を掴めば
応用が効くように
なる。
最近、
ある企業様で
「教え方研修」
というのをさせて
いただいた。
研修講師としての
教え方を学ぶ
という研修だったが、
この研修を企画担当
された方が、
私の講義をお聴き
いただいた後に、
「今回は教え方を
教えていただきましたが、
この内容は
教え方以外の
あらゆる仕事にも
使えますね」
と
言ってくださった。
これもまた、
本質を掴んで
いただいたからこそ
出てくる言葉。
物事を
表面的な形として
のみ捉えるのでなく、
常にその本質を
掴もうとする。
そういった姿勢は
とても大事だ。
あらゆるものに
本質はある。
本質のない
ものはない。
・・・という
見方をすると
良いだろう。
もちろんそれは
自分自身にも
言える。
「自分」の
本質は何だろう?
「自分の人生」の
本質は何だろう?
難しい問い
だろうか。
いや、
答えがすぐには
わからなくとも、
常にそのような問いを
投げ続けることこそ
大切だと思う。
頭の聡明さ
とは、
こういった地道な
問いによって
養われるのだと
思う。
つづく
今の自分の
全エネルギーを
一点に集中させる
としたら、どこか?
この答えを
常に
明確にできていると
強い。
たとえ、
実際には一点に
集中できないとしても、
本来は
どこに集中したいか?
を
自分の中で明確に
しておくだけでも
強い。
一点突破
の
一点。
この絞り込みが
できるように
なろう。
エネルギーの
分散癖のついている
人は多い。
前に進もう!
と
すればするほど、
いろんなことに手を
出してしまう。
闇雲に。
結果として
エネルギーが分散し、
すべてが
中途半端になる。
そして
一つも道が
開かない。
その人に
エネルギーが足りない
わけではない。
エネルギーの使い方
が下手なのだ。
自分には
無尽蔵にエネルギーが
ある、
と思い込むのも
良くない。
傲慢だ。
もちろん
無尽蔵にエネルギーが
溢れることも
ある。
しかし
そんな自分になれるのは
充分な
エネルギーコントロール力が
ついてからだ。
静かに
呼吸を整えた上で、
静かに
自分自身と向き合おう。
今の自分の
最大の課題は
何か?
今、自分は何に向けて
最大のエネルギーを
かけるべきか?
何に集中
すべきか?
静かに問い、
静かに答えを
出そう。
つづく
自分の中に
ある
大樹のように
揺るがぬもの。
その存在を
常に
感じ続けるだけで、
生き方は、
その一歩一歩は、
180度変わる
ことがある。
次の一歩を
どうするか?
今ここにある
選択肢のうち
どれを
選ぼうか?
それらを
大樹を感じながら
するのと、
そうでない状態で
するのとでは、
選択の質が
変わる、
というよりも
もっと根本的な
自分という
存在そのものの
土台のような
何かが
変わる。
その体験を
多くの人達が
できるといいな、
という
願いを込めて、
私はそれを
「真本音」
というキーワードを
使い、
皆様にご紹介して
きた。
それからもう
20年経つ。
思えばちょうど
2002年から
なのだ。
これを本質的に
始めたのは。
しかし今でこそ
私は
そういった生き方が
できるが、
20年前は当然の
ことながら、
一日のほとんどを
私自身が
大樹を忘れていた。
今も未熟だが、
当時の未熟ぶりは
それこそ
大したものだった。
でも
思うのだ。
未熟な私
だったからこそ、
真本音を
必死に
語り続けることが
できたのだと。
「未熟だから
できません」
「もっと成長してから
始めます」
・・・というのは
だから私は
違うと思う。
志があるならば、
想いがあるならば、
今、
始めよう。
人間は
どこまで行っても
未熟だ。
未熟なのが
人間。
そこに価値が
ある。
未熟の極みが
真本音を語り続けた
ところに
価値があると、
20年やり続けて
本当にわかった。
始めようと
思うことは、
今、
始めよう。
今、
始めよ。
つづく
私達は
新たな自分に
変わる時、
これまでの
心の立ち位置を
変える。
そのため、
これまで
当たり前のように
立っていた
心の中の大地を
捨てる。
イメージで言えば、
その大地から
飛び上がり、
空中を
フワフワ漂いながら、
次の大地を
探す。
当然、
その間は
地に足がついて
いない。
心は
落ち着かず、
不安定になる。
その不安定さが
嫌で、
とにかくどこでも
良いから、と、
たまたま感じる
新たな大地に
スッと降りてしまう
人は多い。
しかしここで
安易に
決めてしまっては
ならない。
せっかく
自分を大きく
変化させるんだ。
本当に自分が
納得のいく
大地を
自分自身が見つける
まで、
待っていて
あげてほしい。
フワフワの
ままで。
落ち着かない
ままで。
むしろ
その不安定さを
楽しもう。
今は。
つづく
目の前が
鏡のように
なる。
すぐ目の前に
私がいる。
目と目が
合っている。
何かを
訴えかける目。
その
言葉にならない
メッセージを
確かに
受け取る。
瞬間、
ハッと
目が覚める。
胸の真ん中
あたりに
電流のような
何かが
走った感触と
ともに、
わずかな
空虚感。
そして、
わずかな
高揚感。
新たな芽が
生まれた、
恐らく。
これから
私は
その芽を
育てるのだろう。
それは
今後の私に
とって
新たな武器と
なる。
道を切り拓く
ための。
これまでの
自分とは
別物になるという
覚悟が
もうすでに
私の核を
揺さぶり続けて
いる。
その最初の
兆しだ。
ここからは
本当に
未踏だ。
つづく
自分の心の中心に
意識を
向けてみよう。
思いっきり。
自分の心の中心に
入っていこう。
中心に入ったら、
さらにその中に
中心があるはずだ。
その中心にまた
入ったら、
さらにその中にも
中心が
あるはずだ。
さらにさらに
その中心に入れば、
さらにその中に
中心が・・・。
このように
心の中心の中心の
中心の・・・
と、
行けるところまで
進んでみよう。
すると、
最後に行き着く
本当の本当の
中心には、
何がある?
・・・・・・
私の場合、
これをすると
最後の中心には
「探究心」
があった。
何をするにしても、
その物事の
本質を
掴みたい。
人として
人生を生きる
ならば、
人生の本質を
掴みたい。
「人」の本質を
掴みたい。
知りたい。
わかりたい。
理解したい。
・・・といった
飽くなき探究心
だ。
私の場合、
それがすべての
原動力に
なっていたようだ。
恐らくこれは
一生続くだろう。
これがあるからこそ
私は今の
お仕事を選んだ
のであり、
これがあるからこそ
私は
今後の私のビジョンを
目指し続けている。
逆に言えば、
この探究心を
疎かにしてしまう
ような
人生の選択を
私はしないだろう。
これまでも
してこなかったし、
これからも。
自分の本当の
中心にあるものを
大切にすることで、
私達は
自らの人生を
大切にできる。
もし
自分の人生に
何となく
言葉に言い表せ
ないような
不満足感や
虚無感などが
あるならば、
それは
自らの中心を
大事にできていない
からだろう。
皆さんの中心の
中心の中心の・・・
最後の中心には、
何がある?
つづく
自分自身の
変化。
皆さん自身の
変化。
特に
能力面の変化。
そこに意識を
向けることを
お勧めします。
自分は
どこが
パワーアップしたか?
もしくは、
自分は
どこが
パワーアップしようと
しているか?
最初は
わずかな変化の芽
かもしれない。
でも、
自らそれを
見出し、
大切に育てて
ください。
私自身も
どうやら
メッチャ変化し始めて
いるみたい。
私の周りの
人達にも
それを感じます。
皆さんも
そうではないかな。
今は
変化の時。
加速のための
変化の時。
私達は
ここからさらに
加速をしようと
しているんだね。
つづく
傷口は
癒えたか?
そんな簡単には
癒えないか。
凄い加速
だからな。
未体験ゾーン
だからな。
痛いか?
でも、
自分で選んだ
進み方だ。
そのうち
慣れるさ、
と
信じるしか
ない。
私?
私も痛いよ。
満身創痍、
という言葉は
この時のために
あるのでは
ないか。
でも、
止まることは
ない。
さらに
加速する。
そう決めたんだ。
私は
他者を動かす
力はない。
みんなも
そうだろう。
みんな
自分の意志で
動くからだ。
だから
自分だけは
ちゃんと動かそう。
決めたのなら、
決めたことを
ちゃんとやろう。
自分の決めた
スピードで。
全身痛いが、
まぁ
そのうち
慣れるだろうよ。
つづく
なんか最近、
とても重要かつ
基本的かつ
今、本当に必要な
問いが
浮かんでくる。
ぜひ、
しっかりと
自由に
発想してみよう。
・・・
今、私が
最も向き合うべき人は
誰?
・・・
今、私達は
重要な転換点にいる。
ずっと
そう言い続けている
みたいだが、
恐らくここ数ヶ月が
長い目で見た
場合の
本当に重要な転換点
なのだ。
その転換点の
中でも
特に重要なポイントが
あり、
この
2月10日前後は
そのポイントに当たる
と
私は直観している。
そこで今日は
上記の問いだ。
今、ここだからこそ
向き合うべき人は
誰だろう?
その人から
逃げては
ならない。
その人を
逃しては
ならない。
安易な答えは
いけない。
本当の答えを
今、
見つけ出そう。
つづく
人間とは
面白いもので、
・・・恐ろしいもので、
とも言えるが、
自分の「立ち位置」
を変えるだけで、
人生の選択の
仕方が、
答えの出し方が、
真逆にさえ
なってしまう。
私自身で言えば、
私はもうすでに
「コーチ」
ではない。
「コーチ」という
立ち位置に
ない。
もっと別の
立ち位置にあり、
そうしたのは
どれくらい前だったか?
一年くらい
前かな?
もっと前かな?
忘れてしまったが
とにかく
「立ち位置」を
変えた。
で、改めて
振り返ってみると、
それにより
私の人生やビジネスの
進み方は
とてつもなく
大きく変わったように
思う。
「コーチ」のままだったら、
間違いなく
今のここには
いない。
今のこの現実とは
まったく異なる
現実を
生きているはずだ。
もちろん、
私は自分の意志で
「立ち位置」を
変えた。
だから今の現実は
私の望んでいるもの
であり、
ここからの道も
望んでいるものだ。
しかしもし、
自分の「立ち位置」を
自分で決めて
いなければ、
そんな人生は
恐ろしいよな、
と
改めて思った。
「立ち位置」
・・・別の言葉で
表現すれば、
「私は何者で
ありたいか?」
「何者として
進みたいか?」
である。
今の私には
この問いに対して
「コーチ」とは
まったく別の答えが
ある。
ここには
書かないけど。
あなたは
どうだ?
あなたは
何者として
進む?
ちゃんと明確に
決めよう。
今は決める
ときだ。
つづく
今回は、
問いを一つ。
・・・
私は、何をカタチにするために
生きているのだろう?
・・・
自分自身の
深いところへ
投げてみよう。
この問いは
かなり
難しい問いだ。
答えがすぐに
わかったとしたら、
それを「答え」と
せずに
さらにもっと
深いところにある
答えを
見つけ出して
ほしい。
「カタチ」
の定義は
人それぞれだが、
私達は
何かを「カタチ」に
するために
生まれてきた。
その
自分自身との
約束を
思い出すときが、
今だ。
つづく
人生において
飛び立つチャンスは
何度もある。
しかし、
本当に飛び立つ
べき時に
それをしないと、
その生き方が
癖になる。
そして、
その癖のまま
チャンスを何度も
逃すことになる。
そのうちに
自分自身のその
生き方に対して
自分自身が
(無意識的に)
腹を立て、
自分のことなのに
自分にそっぽを向く
という状態になる。
私はそれを
「真本音が
くさった状態」
と呼んでいる。
くさる、とは
本当に腐ってしまった
という意味ではなく、
気が滅入って
もうどうでもいいや、
となってしまう
あの状態である。
自分の真本音
すら
自分のことに
呆れてしまうのだから、
その人の周りにいる
人達は
言わずもがな。
あの人はもう
変わらんよ、
何をやっても。
と
諦めた状態だ。
そうなるともう
みんな、
その人に対しては
本音を言わなくなる。
建前の話、
適当な関わり、
表面上だけの
仲良しこよし、
となるか、
もしくは
無関心
となる。
正直、これは
自業自得だ。
私も
サポートのしようの
ないことが
多い。
でも、
そういう人達も
最初から
真本音がくさって
しまっていた
わけではない。
一つ一つの
大小合わせた
たくさんの
人生のチャンスを
自ら
向き合わないように
し続けた
結果なんだ。
一つ一つの
積み重ねだ。
自分自身との
信頼を高める。
自分の真本音
との
信頼を高める。
そういう生き方
こそ
大切であり、
そのためには、
チャンスの時は
飛び出そう!!
だ。
つづく
黒い泡のような
ネッチョリしたものが
心の中にあるのを
感じると、
あぁまた
もらっちゃったな
と
思う。
エンティティ。
ストレスの
濃度の濃いやつ。
実体化したやつ。
最近は
ますます増えている。
進もうとする人を
進みたくない人達が
妨害する。
それによって
進もうとする人の
心にエンティティが発生
するのではない。
進みたくない人達、
妨害をする人達の方に
エンティティは
発生するのだ。
人のことを
妨害する。
それに対して
最も憤りを感じるのは
妨害している
その人自身だ。
自分のそういった
生き方に対して、
非常に強い罪悪感を
発生させ、
それが
エンティティとなる。
ところが
それがあまりに濃く
辛いものだから、
本人は
蓋をする。
だから本人は
気づかない。
でも
エンティティは確かに
そこに存在し、
私はそれを
受け取ってしまうのだ。
受け取ることで、
誰がどのように
罪悪感を感じているか
が、
ある程度は把握できる。
私の場合は
それを仕事に活かせる
ので、
まだ良いけどね。
エンティティは
人から人へ伝染
するので、
妨害する人の
エンティティが
進もうとする人に
伝染することもある。
実に厄介だ。
人をあーだこーだ
妨害するより、
もっと自分自身を
大事にし、
自分の道を進めば
良いのに。
といつも思うのだが、
なかなかそうはいかない
のも人間だ。
だから
ここはあえて
こう申し上げたい。
進む人達よ、
まずはまっしぐらに
自分の想いに
素直に行こう。
周りに気兼ねを
し過ぎるよりも、
時には周りを
振り切っても
良いから、
一直線に
進んでみよう!
つづく
ストンと
大地に立つ。
しっかり
自分の足で
立つ。
向きたい方向を
向く。
そして
そちらに向かって
歩いてみる。
どうせなら
徹底的に
歩きたい。
納得いくまで
歩き続けたい。
自分が選んだ
大地と
自分が定めた
方向ならば、
たとえそれが
本当に自分が望んだ
ものと違ったとしても、
その過程そのものに
価値が生まれる
だろう。
人生は、
間違っているか
正しいか
ではない。
自分の意志で
場を選び、
自分の意志で
歩き続けるかどうか、
だ。
そうである限り、
どんな道を
進んでも、
必ず一つ一つに
「完了感」
が生まれる。
この道では
なかったと
わかっても、
ここでは
やるべきことを
やり尽くしたな。
得るべきものを
丁寧に
得ることができたな。
・・・と。
100%やり切った
その納得感。
それが
「完了感」だ。
これを
得たら、
すかさず
次に行こう。
「完了感」の
ある者には、
必ず
次のステージへの
扉が開いている。
「次に行こう」
と
明確に
決めればそれは
すぐにわかるよ。
つづく
人間の
美しい部分
醜い部分、
すべてを知りたい
と
ずっと願ってきた。
もともとは
「超」のつく
人間嫌い。
しかし
私の知らない
私の無意識は、
ずっと
人間の本質も
表面もみんな
知りたいと
願ってきた。
・・・と
今になってわかる。
じゃなければ
この仕事には
就かなかっただろう。
2月が来た。
もうこの仕事に
実際に関わって
26年だ。
確か、
私が中心に行なう
研修にデビューしたのも
2月だった。
若手社員向け
研修だった。
今でも内容は
覚えている。
当時の私なりに
ずっとブラッシュアップを
続けた
思い入れの深い
研修だから。
思えば
最近の私は、
そのデビューの頃の
私の年齢と
同じくらいの人達と
一緒に
ビジネスをしている。
今の彼らを
見ていると、
当時の私とあまりに
出来が違うので
びっくりする。
まぁ、私の出来が
ひどすぎた
というのもあるが。
今の私が
当時の私と出会ったと
したら、
あぁこの講師の研修には
出たくないな、
と
思うだろうな。笑
まぁ、我欲が
強すぎたよ、
当時は。
こう考えると、
やっぱり人は
成長する。
本人に意志さえ
あれば。
人の美しさも
人の醜さも
私の想像を絶する
ものだった。
つまりは、
自分の美しさも
自分の醜さも
ということだ。
26年やっているが、
今でさえ
日々、びっくり
している。
人の奥の深さ。
これだけは
尽きることは
ないな。
つづく
まったく予期せぬ
方向から
風が来る。
生きるとは
そういうことだと
思う。
予期できるように
なることが
人としての成長である、
と
思い込んだ
こともあるが、
それはまったく
違った。
その事実を受け入れる
ことで
私の人生は
変わった。
楽しくなった。
真本音の度合いが
どれだけ
高まっても、
意識の次元が
どれだけ
高まっても、
風は思わぬ方向から
私を驚かす。
むしろ、
経験を積めば
積むほど、
風の難易度が
高まっている。
それがまた
楽しい。
予測がつくから
進める、
だから予測のできる
自分になる、
というのは、
同じ場所に
居続ける生き方
だ。
それでは
人生の意味は
ない。
どれだけ
想定外の風に
見舞われても、
その風
そのものを
味わいながら、
楽しく進む。
楽しく進む、
というよりも
その方が断然
楽しい。
だから
真本音の度合いが
高まれば高まるほど、
私は
未来を予測しなく
なった。
今のみに
集中する。
その結果、
「今」とは
「永遠」なんだ、と
わかった。
そして
結果として、
未来が見通せる瞬間が
増えた。
「見通せる」
とは
「予測」
ではない。
具体的に何かが
わかるのとも
違う。
ただ、
「何か」が
わかるのだ。
とてつもなく
重要な「何か」が。
それは
言葉にならない。
私の場合は特に。
しかし
その「何か」が
見通せるために、
「今」ここにおける
判断が
とても明確に
わかる。
この一歩を
どう進めば良いのか?
が
わかる。
理屈でなく。
そしてそれをすると
さらに
予測不可能と
なる。
私の範疇を
「すべて」が
超えていく。
それがまた
実に楽しい。
風を
楽しもう。
風とは
予測できない
もの。
それが摂理。
風を
楽しもう。
それが人生だ。
つづく