チームパフォーマンスコーチ

思考の意味

私達の思考は
限られている。

とても視野の
狭い世界だ。

だから
直観を基本
とする生き方を
するといい。

直観とは
自分と世界(もしくは他者)
との繋がりから
くる。

独りよがり

一人の視界

超えている。

だから
思考で生きる
よりも
直観で生きる
方が
圧倒的に物事が
調和する。

ただし、
思考が不必要
ということではない。

思考とは
直観の補佐として
存在している。

つまりは、
直観とは最初は

意味のわからないもの
根拠の掴めないもの

であることが
多い。

その直観を
分析するために
思考がある。

この直観は
どこから来たのだろう?

この直観は
どんな意味があるだろう?

この直観を
人に説明するために
どうすれば良いだろう?

・・・これらを
思考する。
じっくりと。

するとまた
その過程において
直観が生まれる、

そしてまた
それを思考する。

このように
直観と思考は

コラボする

ところに
本来の意味がある。

逆に言えば、
思考をしっかり
することで、

直観力とは
さらに増すものだ。

つづく

笑い飛ばそう

踏みしめていた
大地が

急になくなる
感覚がしても、

踏み締めていた
確かなものが
なくなって
不安になっても、

それでも
今は
進もう。

不安定だからと言って
スピードを
緩めれば、

より
不安定になる。

足元が
なくても、

堂々と

毅然と

できればすべてを
笑い飛ばしながら

今は
進もう。

つづく

人を選ぼう

どんな人と
共に
進みたい?

・・・この問いに
素直に
なろう。

この人と
共に
進みたい。

そう思える
人との
時間を

最も大切に
しよう。

人生の時間は
少ない。

思っている
以上に
短い。

自分の時間の
使い方。

しっかり
自分で
選ぼう。

使いたいことの
ために
時間を使う。

使いたい人の
ために
時間を使う。

本来、時間は
宝物なんだ。

つづく

自由過ぎて戸惑う

見渡せる
空間は、

ほぼ無限。

その中に
ポツンと
自分だけが
いる。

雲海は
遥か下に
見える。

すべて
青空。

太陽は
輝いている。

いわゆる
自由
という状態だ。

この状態で
あれば
何だって
できる。

さて・・・。

問題は、

ちょっと右に
1mほど
動こうとするだけで、

一気に
1kmくらい
移動してしまう
ということ。

あまりに
自由過ぎて、

あまりに
エネルギーが
高過ぎて、

まだ
制御ができない。

自由の中の
不自由状態。

ただ、
これもすぐに
慣れるだろう。

大体ね、
これまでは
自分を
制御し過ぎたんだよ。

もっと
伸び伸びと
動けばいい。

どちらにせよ、
すべては
調和しているの
だから。

こういう時は
やはり

意志を
確かめておこう。

原点に
戻るのだ。

自分はなぜ
ここに来たのか?

何のために
自分
という存在に
なったのか?

初心、
だな。

すべては
そこから
始まった。

これだけ
自由に
なったんだ。

もう一度、
そこから。

せっかく
なので。

つづく

フワフワ変な感覚だろ

ふと
気がつくと、

これまでの
自分の
限界点よりも

さらに
さらに
まったく上の、

喩えて
言えば、

大気圏が
これまでの限界だと
思っていたのに、

大気圏を
出てしまうどころか、

気がつけば
太陽系すらも
出てしまっていた、

という
ような、

そんな限界の
超え方を
してしまっている
自分に、

もうそろそろ
気づき始めて
いるのでは
ないかな。

これまでと
同じように
生きているつもり
でも、

何かが
違う。

とても自分が
フワフワ
している。

同じ場所に
いるのに、

同じ世界に
いる気が
しない。

そんな感覚
なのでは
ないかな。

それはそうだ。

もう地球
どころか、

太陽系にすら
いないのだから。

それだけ
自由になった
自分として、

ここ

にいるの
だから。

すべてが
根底から
異なって見えたり
感じたりするのは

当たり前だよ。

さて、
これから
どうする?

どう生きる?

あえて
これまで通り
行ってもいいし、

突然、

逸脱しても
いいんだよ。

つづく

そのまま全部を

養分や栄養を
与え過ぎると、

枯れてしまうよ、

自分自身が。

エネルギーを
与え過ぎると、

エネルギー負け
して、

萎んで
いくんだよ、

自分自身がさ。

無理に
前向きにさせようと
するな。

普通
でいい。

辛いことは
辛い。

悲しいことは
悲しい。

寂しいのは
寂しい。

時には
絶望だって
あるさ、
生きていればさ。

そのままで
良いではないか。

そのままの
自分で。

ただ、

どんな状態でも
自分の
真本音だけは

自分が
大事にし続けて
あげよう。

抱くだけで
いいんだ、
大切にね。

それができるのは
自分自身
だけさ。

自分を大切に
する、
とは

真本音も
反応本音も

すべてを
大切にするという
ことだよ。

つづく

あなたのままで

激しさと
優しさと

あなたには

両方が
あるじゃないか。

どちらが
本当の自分か?

ではなく
両方あるのが
あなた、だ。

両方の
バランスを
とらないのが、

あなた、だ。

自分を
調整
するなよ。

それは
無駄な
努力だ。

あなたは、
あなたとして
生きていくしか
ないだろ。

もっと
激しく。

もっと
優しく。

もっと
そのまま、
で。

そう、

お願いだから
あなたの
ままで

生きてほしい。

つづく

消えるのは・・・

突然、
頭をもたげた
そいつは、

私をじっと
睨んだ。

私は
竦んだよ。

動けなくなった
私に
そいつは
ガブリと
喰らいついた。

私は
食べられ、

飲み込まれ、

消化されて、

消えた。

消えてみて
初めて
わかったんだ。

消えるのは
怖くない。

消えるのは
永遠を
手に入れるに
等しい、
と。

ならば、
何度でも
冒険してやろう。

そう思って、

また
ここに
きたんだ。

つづく

ここから出ていくんだ

目の前に
糸が
垂れてきている。

これに
つかまって、
登ってみようか?

すると
別の次元へ
行けるかな?

もう
ここには
いたくないんだ。

別の世界に
行きたいんだ。

みんなとは
別れてもいい。

一人に
なってもいい。

別の世界で
友達は
つくるから。

これを
逃げ
と言うなら、

そう言っても
いい。

逃げるんだ。

ここから。

この糸、
切れないかな?

私の重みに
耐えられるかな?

お前は
我欲いっぱいだ、

罰を与えられる
ように、

途中で切れて
真っ逆さまに
ならないかな。

でも
いいんだ。

それなら
それは
自業自得だ。

それを
受け入れよう。

私は
私の意志で

ここから
出ていくんだ。

つづく

もっと自由に

行先を
見つめても、

何も
見えないならば、

まったく
異なる方向を

見ても
良いのでは
ないか。

あなたの
場合は特に。

あなたは
真面目
過ぎるのだ。

真面目は
大切だが、

真面目は
時として
視野を極度に
狭くする。

これまでの
延長線上で
進もうと
し過ぎるな。

もっと
自由に。

もっと
果てしなく。

もっと
子どもの
ように。

つづく

バラバラの一つ

私のやること

あなたのやること

違う。

だから
ちゃんと
別々のことを
しよう。

くっついちゃ
ダメだ。

離れて
いよう。

一人ひとり、
それぞれ。

まったく別の
道を進むから

調和する。

そしてそれは
一つと
なる。

一つになろう
としては
ダメだ。

別々が
大事なんだ。

我々は。

つづく

約束を果たし

ゆっくり
ゆっくり
扉が開く。

これまで
ずっと
閉ざされていた。

扉の向こう

見慣れた景色が

思い出される
が、
きっと

きっと
それはもう
大きく変化
しているだろうな。

だって
そのために
ここまで
がんばってきた
のだから。

私の希望。

皆の希望。

人の希望。

あらゆる
混乱の中でも
それは結局
残り続けた。

それをちゃんと
確認せずには
おれなかった。

確認するなら
とことん
詳細に
確認したかった。

そしてそれは
完了した。

もう
大丈夫。

そう思えたら、
扉が
開き出したんだ。

つづく

もうおさらばだな

あいつが
覆いかぶさって
くる。

巨大な
あいつが。

背中から
首、頭にかけて、

私を
抑えつけながら。

身動きが
とれなかった。

あいつが
くると、
いつも。

でも、
今は平気だ。

どれだけ
抑えつけられても、

私は
関知せずに
普通に動く。

しかし
できればもう
あいつは
来ない方がいい。

重いから、
疲れるから。

長い付き合い
なので、
いつからか、

あっもうすぐ
くるな、


わかるように
なった。

わずかな
予兆を
逃さずに。

そして
それ相応の
対処をしていた
が、

今はもう
対処すらしない。

好きに
させている。

まぁ言ってみれば、
1歳とか2歳の子が
戯れてくるような
ものだ。

それはそれで
良いのだが、

しかしもうそろそろ
やめようか、
この遊びを、

根本的に。

あいつと
おさらばしようか、

もう
かまっている時間も
惜しいのだ。

つづく

混乱を極めている

剣と剣が
ぶち当たり、

火花が
散る。

それくらい
激しい、

まるで
果たし合いの
ような

発想と発想の
ぶつかり合いが

私の中で
起こり続けている。

私の中は
混乱と混沌を
極めている。

これまでの
人生では
一度もなかった
ことだが、

でも私は
この状態を
よく知っている
ようにも
思えるのだ。

私は
何かを
壊している。


同時に、

本当に
同時に、

何かを
創造している。

破壊と創造

同時に
行なっている。

戦争と平和が
同時に
広がっている
感覚だ。

真本音とは
このような状態をも
巻き起こす
ものなのか。

正直、

とてつもない
ワクワクが
心の奥の奥の方から
湧き上がってくる。

が、
それをもすべて
混乱のための
エネルギーに
変換する。

私自身は
ただ
静かに待つ。

“その時”
が来るのを。

つづく

半年以上先は・・・

消えてしまう
ものと、

残り続ける
もの。

その区別が
つくといい。

まずは、
内面的に。

そして
現実的に。

もちろん
永遠、という
スパンでみれば、

現実的に
残り続けるものなど
何もないかもしれない。

しかしまず、
今の私達に
必要なのは、

半年

というスパンだ。

半年
と言っても
実在レベルでは
ほんの数年前の
2.5年分に
相当する。

つまり、
今の時代
半年以上先のことは

わからない


顕在意識レベルでは
認識しておくと
いい。

だからまずは
この半年間を
徹底的に考える。

意識を
集中させる。

すると
必要な直観が
浮かび上がるだろう。

時間の密度は
5倍に高まっている。

私達の集中力も
5倍に
高めよう。

つづく

ほとんどいらない

余分なものを
取り払う
ことだ。

まず
考えるべき
は。

余分なものを
ジャラジャラと
ぶら下げたままで

さらに何かを
付け加える。

その繰り返しで
人生の重みは
増していく。

しかしその
重みの
ほとんどは、

余分なもの
だ。

余分な荷物を
積み上げながら
登山をするような
ものだ。

まったくもって
意味がない。

いや、
重いものを
運ぶことで
鍛えられるよ、
という
意見もあるが、

実は
昔の私は
完全にそう考えて
生きていたが、

残念ながら
そこから得られる
ものは、
ない。

その経験すら
必要ない。

むしろその
経験は、
これから先の
自分の選択を
歪める。

百害あって
一利なし。

それくらい
はっきりと

完全に

意味がない

決めてしまう方が
いい。

重い荷物を
持って
ヨタヨタと進む
よりも、

私達にはもっと
することが
あるだろう。

できるだけ
身軽に

一刻も
早く、

突っ走っても
よいから、

まずは
“あそこ”に
たどり着こう。

”あそこ”に
至って初めて、

その後の
未開の地が
開かれる。

私達の目指す
本当の
人生の道のり
だ。

今ここは、
冒険でも
何でもない。

よく知っている
道だ、
本当は。

だから
こんなところで
重い荷物を抱えて

自己満足を
しているのは
やめよう。

成長のために
進むのでは
ない。

今は、

一刻も早く、
本来の場所に
戻るために

“あそこ”に
至るために

進むんだ。

つづく

解放してあげよう

あなたが
これまでずっと、

人生で
ずっと、

縛り続けてきた
あなたの心。

それを一つ、
解放しよう。

どんな心を
解放する?

そして、

決してこれまで
しなかった
行動。

それも一つ、
解放しよう。

どんな行動を
解放する?

これまでとは
異なる進み方を
あなたは
望んでいるの
だろう。

望むなら
やろう。

やるなら、
解放しよう。

一つずつ
でいい。

しかし
決めたら
本当に真剣に、

解放
してあげよう。

つづく

人には奨めないのに

パッと
閃光が走るように
ひらめく。

という瞬間が
やたらと増えた。

これまでは
直観と言っても、
過去を思い出すような
感覚の
極めて普通の感じ
だったのに。

脳が雷に
打たれるよう。

意図を完全に
手放している
時に、
それはよく
起こる。

何かを完全に
諦めた瞬間も
同様。

もともと私はもう、
自分の経験則とか
自分の解釈とか
自分の理屈では
到底、太刀打ちできない
ことばかりを
している。

過去の経験が
本当に邪魔だ。

もちろん
経験は大事だし、
経験がなければ
何も始まらないことは
重々承知している。

しかしもう
できれば、
過去を完全に
記憶喪失したいくらいだ。

そうなれば、
今の閃光的直観は
もっともっと
スムーズに生まれるだろう。

冒険的な
進み方。

一か八かの
進み方。

そういったものは
私はあまり人には
奨めない。

もっと普通に
進めばいい、
淡々と。

その方が
地に足がついて
かつ、
結果的に
最速で進める。

そんなアドバイスを
毎日のように
しながらも、

自分自身に対しては
一体、何だって言うんだ。

矛盾とは
わかっているが、
今はもう、
どうしても
閃光的直観のみに
委ねてみたい。

未来がまったく
わからなくなる。

そんなヒリヒリを
求めている
私がいる。

つづく

光、漏れているのに

自分の中の
光を
見つけるのは、

簡単そうで
難しい。

余分なもの達が
あまりに
たくさんあるから。

余分なもの達が
邪魔をする。

視界が
見えなくなる。

肝心な部分が
虚ろになる。

しかしその
邪魔するもの達を
いつしか
「これが私である」

私達は勘違いする。

自分の個性を
勘違いする。

それは本当は
余分なんだ。

要らないもの
なんだ。

と、
その人自身が
その人に
訴え続ける。

訴え続けるが、
本人は
まったく気づかない。

自分の声が
自分に
届かない。

自分の声こそ
自分に
届かないものだ。

自分の
本当の声を
自分で理解できるように
なれたら、
もうそれだけで
人生は数百倍も
楽になるだろう。

自分のことが
一番、
わからない。

自分のことを
一番、
誤解しやすい。

光は
ある。

確かに
ここに。

しかも
出ようと
している、
その
暗い洞窟から。

それを
見つけるのが
早ければ早いほど、

私達は
「自由な人生」
を長く謳歌できる。

この
不自由な世の中で
自由に生きる
ことのできる人生を。

誰もが皆、
今は光が
強まっている。

光の漏れを
私は誰もに
感じる。

見つけてほしい。
自力で。

これは他者には
できないこと
だから。

祈るしかない。

つづく

ツラいものはツラいが

脱皮直前の
不安定さは
まだ
続いているかな?

その不安定を
何とかしようとは
思わないことだ。

不安定な
ままで。

とは言え
キツいよね。

こういう時は
1秒1秒の
時間に意識を
向けよう。

1秒1秒を
噛み締める
ように。

自分の鼓動も
感じながら。

一刻一刻を
刻みながら
私達の命は
流れる。

鼓動とは
命のリズム。

時間とは
万物の鼓動。

自分の鼓動と
万物の鼓動が
一致するかどうか
ではなく、

たとえ
ズレているように
思えても、
そのズレそのものが
実は
調和しているのだ
ということを
感じ取ろう。

時間は
進む。

私達の人生も
進む。

一瞬として
同じ場所には
いない。

私達は
生きている。

だから
ここにいる。

その「実感」を
改めて
身に沁みて
受け取ろう。

ツラいものは
ツラい。

でも
生きている実感も
確かに
ここにあるんだ。

つづく

未来はわかるわけがない

ゆっくり
開かれていく
未来。

最初は
ボンヤリと。

徐々に
輪郭が露わに
なり、

そして
ある時についに
全貌が現れる。

眼前に
聳える自分自身の
未来。

人生の目的。

それを
目の当たりに
すれば、
きっとわかるだろう。

なるほど、
これは
以前の私が
明確にしてはならない
ものだ。

以前の私では
受け切れない
ものだ。

以前の私が
無理に受け取れば、
誤解を生じさせ、

未来が見える
ことで
未来が遠のく
という結果を
生んでいただろう。

・・・と。

未来は
怖いものだ。

それがどれだけ
幸せなもので
あったとしても。

未来からの
影響は
強い。

強過ぎる。

だから私達は
皆、

慎重に慎重に
自分自身に
未来を見せる。

受け取れる
範囲で。

崩れない
ギリギリの
ところを。

だから、
未来がわからない
というのは
当たり前のことだ。

自分自身の
真本音が
自分自身に
隠しているからだ。

もちろんそれは
「実現したい」
という意志がある
からこそ。

必要なタイミングで
必要なだけ
未来を見せながら、

私達は
最善最速の
ルートを
模索し続ける。

真本音で生きる
とは
そういうことだ。

最初からすべてが
わかるわけでは
ない。

わかってしまっては
つまらないしね。

つづく

苦しみの時代の果てに

自分の
真本音の道を
進むことを
阻害する
苦しみ、がある。

それは
人生でずっと
苦しみ続けている
こと。

変わらずに。

絶えずに。

その苦しみこそ
自分自身では
ないか、と
思い込むくらいに。

時々、
正面から対峙する。

何度、対峙しても
苦しいものは
苦しい。

対峙するほどに
ますます
苦しい。

何度も
完全浄化できた
と思う瞬間はあった。

しかしこの
苦しみはきっと、

魂に
刻み込まれて
いる。

ということで
あれば、
これは本当にもう
私の一部
なのだろう。

苦しみと共に
生きるのが
人間だ。

・・・と
言い切ってしまえば
それまでだが、

そこをまた
我々は
乗り越えようと
しているのだ。

新たな時代が
来ている。

というよりも
すでにそれは
来た。

新たな時代に
我々はもう
立っている。

これまでの
苦しみと共に進む
自分自身から

さすがにもう
変わらねば
ならない。

ここからの
苦しみは、
単なる
自己満足に
なる。

苦しみを
乗り越えるのが
人生であり、
成長である。

という時代は
終わった。

その事実を
ちゃんと
自覚せねば。

新たな生き方で
進もう。

私だけの話
ではない。

あなたも
同様だ。

つづく

変化に気づくだけでは意味はない

自分の変化を
感じた時、

それが
本当の変化
なのか?

本当の成長
なのか?

考え過ぎない
方がいい。

それよりも
その変化を
大切にしながら

日常生活に
向かうこと。

人との関わり、
現実との関わり、

その中で
結果として
目の前に展開する
現象を
あるがままに
感じよう。

本当の変化、
本当の成長
であれば、

現象(結果)は、
自分にとって
より幸せなものに
なる。

今はもう、
変化が現象化する
のが早い。

以前は存在した
タイムラグが
ほとんど
なくなってきた。

だから
判別がつきやすい。

自分の変化や成長に
気づいた段階で
満足するのではなく、

しっかりそれが
現象化するまで
観察する、
感じ取る。

これこそ
誠実な生き方
というものだろう。

現象が変わらずして
変化、とは
言わない。

内面的変化だけでは
意味がない、
くらいに
今はもう
思った方がいいよ。

つづく

場が人を揺るがす

みんな、
もっと

“場”

を意識するといい。

“人”と“場”は
別個の存在として
捉えるといい。

それぞれ独立した
存在として。

それぞれ分離した
存在として。

そして
別個の存在である
“人”と“場”が
お互いにどのような
影響を
与え合っているか?
という視点で
観察するといい。

これまで
見えなかった
様々な物事・現象の

本質的原因が

忽然と
姿を現したりする。

“人”は“場”を
左右するが、

“場”も“人”を
大きく揺るがす。

そして
“場”そのものに
対しても、
まるで“人”に
対するように
コミュニケーションをとる
こともできる。

“場”との対話。

“場”が
訴えかけてくることは
多い。

“人”を見ている
だけでは
盲点となっていることは
多い。

だから当然の
ことながら、

“場”にも
真本音度というものが
そのまま適用できる。

“場”の真本音度を
高めることは
組織の活性化に
直結することだ。

組織とは
単なる”人”の集まり
ではない。

“人”と“場”の
コラボで
出来上がるものだ。

つづく

みんな、脱皮かな

どうもみんな、
また
一気に脱皮する
みたいだな。

心が
不安定になったり、

体調不良が
続いたり、

そんな人が
多いのではないかな。

進んでいるからこそ
の脱皮。

進んでいるからこそ
の不安定。

ここはその
不安定さに抗う
のではなく、

そのまま

でいよう。

ちゃんと脱皮が
完了するまでは、

いつも通り、

真本音も
反応本音も
両方大切にしながら、

自分の意志・意思で
一つ決め、
一つ実行する。

その基本的
生き方を
粛々と、丁寧に
続けよう。

そうすれば
短期間で
一気に、脱皮だ。

つづく

過去はここにある

懐かしい風が
フッと
吹く。

懐かしい自分が
フッと
出る。

過去が
目の前に
蘇る。

過去は私と
共にいる。

いつもいつも。

経験は私と
共にいる。

いつもいつも。

それがわかって
いるからこそ、

手放せるんだ。

経験するから
わかること
ばかりだ。

でも、
役目を終えた
経験は
手放すべきだ。

懐かしい風。

懐かしい自分。

フッと、
私はそれらを
手放した。

つづく

ふいにするかもしれないよ

近くの星と
遠くの星。

同じ星だが、
遠くの星は
やはり

あまりに
遠い。
手が届かない
感じだ。

近くの星は
憧れでは
あるが、
頑張れば
行ける気はする。

そういった場合、
我々人間は
まずは近くの星から
目指すといい。

そこを目指し
そこを達成した
その上で初めて、
見える景色がある。

すると、
最初は遠過ぎて
あまりに実感のない
星だったものが、

手が届くかも・・・

という
印象になるかも
しれない。

今の自分と
未来の自分は
異なるのだ。

今の自分の
感覚が
ずっと未来永劫続く
ということはない。

今日、決断
できなければ、

明日、決断
できる自分に
なればいい。

それが
基本だ。

それを重々
わかった上で、

しかしそれでも
最初から
遠くの星を目指して
しまう。

これが私の
生き方・行き方だ。

やはり
他の人には
オススメできない。

場合によっては
人生全体を
ふいにするかも
しれないから。

しかしそれでも
最初から
遠くの星を目指して
しまう。

そんな気配の
人達が
今、
私以外に増えて
いるのは、
驚くべきことだ。

つづく

本当に強くなるには

変な表現だが、

心の左半身が
麻痺している
ようだ。

酷使しすぎた
ようだ。

しかし
今の歩みを
止めるわけには
いかない。

幸い、
心の右半身は
健全だ。

これでは
バランスが悪いだろう

思われがちだが、

そうでもない。

心は
体と異なり、
独特の、絶妙な
バランスをとることは
できる。

本当に心が
健全な人など、
今のこの社会には
ほとんどいない。

皆、各々の
傷を負っている。

心の傷、
というよりも
魂の傷
という表現の方が
より適切かもしれない。

誰もが
健全さを忘れている。

その中で
やるべきことに
邁進すれば、
それは
麻痺の一つも
起こすだろう。

私は私の心を
最低、
あと23年は
もたせなければ
ならない。

そのためには
逆に、

麻痺しようが
どうなろうが、
それでも進み続ける
という術を
身に付けなければ
ならない。

何かあれば
すぐに止まってしまう、
・・・という「弱さ」では
それこそ23年も
もたないだろう。

無謀は
行けないが、

ちゃんと術を
講じながら、

決して
止まらない
という選択を続ける。

人は
進むための
存在だ。

人が歩みを
止めたら、
それこそそれだけで
死んでしまう。

何があろうとも
進みながら
強くなるしかない。

止まって
強さを取り戻して
また動いて、
弱ったらまた止まって、
強さを取り戻して
また動いて、

・・・では、
いつまで経っても
強くならないのだ。

私達は
もっともっと
自分を鍛えねば
ならない。

あなたも
そうではないか?

つづく

なぜそんな無茶な進み方を

もし
煙が立ち込めて
いて、
周りがまったく
見えない状態に
入ってしまったら、

誰だって

煙の薄そうな
方向に逃げるだろう。

まずはそちらに
逃げてから、
客観的に
煙の外から
状況を観察する。

これが最も
妥当な
対処法だろう。

しかし私は
私の人生において
それを
して来なかったのだな、

最近、ようやく
自覚した。

煙が立ち込めて
きたら、
私はその
最も濃い方向に
自らを進めた。

自殺行為に
等しい。

でも
それをせずには
いられない
何ものかが、

何らかの
理由が

私には
明確にあったのだ。

煙の
最も濃い方向に
行けば、
死ぬかも
しれない。

しかしその代わり、
その煙の
根源を
ダイレクトに
知ることができる。

ダイレクトに
理解して
根本的対応をする方が
早いか?
それとも
私の命が尽きる方が
早いか?

そういった
スレスレのところを
私は躊躇なく
進んだ。

とてもとても
人にオススメできる
生き方ではない。

その怖さを
知っているが故に
私はこれまで
誰にもそういった
進み方を
奨めてこなかった。

実際、
これからも
奨めないだろう。

しかしなぜ
私は
そのような生き方を
続けたのだろう?

答えは
一つである。

それは
「特異点」を
見つけるためだ。

「人生の特異点」
だ。

もちろん
そんなに簡単に
見つかるものでは
ない。

それも充分に
承知の上で、
私はその生き方を
選び続けた。

煙の根源を
ダイレクトに
知るため、

煙の根源と
ダイレクトに
対峙するため。

これをしなければ
「特異点」を
見つけることは
永遠にできないだろう。

しかしどうも、
そういった
私の生き方と
似た生き方をしている人が
いるようだ。

いるようだ、
というよりも
最近はそういった
人との出会いが
増えている気がする。

あえて
こういう話は
しない。

後押しも
しない。

普通に進んで
くれればいい、と
私は
願っている。

でも
その人には
その人の進み方が
ある。

私がそうで
あったように、
これは誰にも
邪魔されたくない。

だから
そっと見守るだけに
しておく。

きっと将来、
その人とは

同じような
歩みの果てに、

共に力を
合わせている
気がする。

が、
今は何も
意図はしない。

私は私の
進み方を
ただ粛々と
これからも進める。

つづく

活気を決めるもの

海の音が
聴こえる。

風の音も
聴こえる。

人々の賑やかな
話し声も。

活気があるな、
と喜ぶ。

人の内面には
様々な世界が
ある。

それは
その人自身が
自ら創り出すもの。

しかし
その内面は
ほぼそのまま
外面に反映される。

その人自身が
まるで
映画のフィルムの
ような役割を
果たし、

その人の内面が
現実世界に
映し出される。

すべての人々の
一つ一つの
フィルムに
内包されているものが、

もちろん
すべてではないが、
その一部が、

現実に
映し出され
重ね合わされ、

そして現実の
世界が
創り出されていく。

その
重なり具合が
調和しているか
どうか。

私はいつも
それを
あるがままに
感じようとしている。

現実に
起きていることを、

ただ
外面的に
捉えるだけでは
足りない。

外面的に
原因を捉え、
外面的に
対処するだけでは

浅過ぎる。

それでは物事の
根本的な改善には
ならない。

内面と外面の
繋がりを観る。

そして
外面の重なり方を
観る。

外面の重なり方を
調和させるには、

一人ひとりの
内面から
変えなばならない。

しかしそれには
本人の意思が
必要だ。

だからその意思を
真本音に基づく
ものにする、
ための
サポートをする。

真本音であれば
それは
間違いなく
その人の本当の
意志・意思であるから。

そして
真本音に基づく
フィルムとなれば、

外面に現れる
ものすべてが
調和した重なり合いを
自然に醸し出す。

私が毎日毎日、
毎日毎日、
やり続けていることは
そういうことだ。

賑やかで
活気があり、
かつ
調和している。

今は、
そういう場が
増えてきた。

今年に入ってから
急激に。

世界はまだまだ
表面的には
混乱しているし、

それは今後も
さらに激しく
なるだろう。

しかし一方で、
調和の場は
増えている。

混乱か
調和か。

それを決めるのは
我々一人ひとりだ。

つづく