チームパフォーマンスコーチ

手の届かない想いでも

今の自分では
まったく
手が届かないな、

と、
思ってしまったと
しても、

それでもその想いが
自分の中に
確かに在るならば、

私はその想いを
ずっと
抱き続ける。

自分の想いは
まずは
自分自身が
最大に愛し続ける。

すると、
その想いに向かう
今ここにおける
一歩
が、一瞬、
観えることがある。

そうしたら
その一歩を
踏み出してみる。

もちろん
たったの一歩なので、
その想いの実現に
近づいている実感は
まったくない。

しかしそれでも
一歩がわかれば
その一歩を
進む。

その連続で、
いつの間にか、
徐々に
近づいている感が
芽生えてくる。

かと言って、
焦らない。

やることは
変わらない。

「できそうだ」と
思えたから一気に
進む、というのではなく、

今ここにおける
「わかる一歩」を
ただ淡々と
踏み出し続けるのみ。

想いは
深く抱きながら。

私には
人生の目的(ビジョン)
がある。

そこには現時点では
まったくもって
近づいている感は
ない。

55年頑張って
来たが、
道はあまりに遠く、
果てしない。

しかしそれでも
私は
今ここ、の一歩を

真摯に
踏み出し続けようと
思う。

あと23年。

あと23年で
あそこまで
たどり着くために。

つづく

想いは大切だけど

ポツンと
光っていたものが
消えた。

私にとっての
大切な
想いが。

あぁ
消えてしまったな、

寂しくは思う。
一旦はね。

これまでは
その想いこそが

私自身である

くらいには
思っていたよ。

その想いの
ために
頑張ってきた。
生きることをね。

しかし今、
こうして
消えてしまうと、

それは
どうでもよかったんだな、
最初から、


わかるよ。

わかって
しまうよ。

じゃあ、これまでの
その想いで生きた
自分自身は
無駄だったのか?

と言えば、
もちろんそうでは
ない。

その想いを
大切にし尽くした
からこそ、

ここまで
来れたのは
よくわかる。

この境界まで
来れたのは、
その想いの
おかげだ。

でも、
境界を越えた
瞬間に、
想いは消えた。

ステージが
変わったんだ、
と言えば
その通りだ。

でも私という人間の
人格が変わって
しまったのか?
と言うと、
それはまったく逆かな。

これまでは
その想いが
私らしさだった。

しかしここからは、
その想いにこだわる
ことによって、
私は私から
遠のいてしまう。

より
私らしく生きるには、
その想いはもう
いらない、

というよりも
あってはならない
ものなのだろう。

実際、
それが消えてから
私は妙に
開放された
スッキリした気分だ。

また一歩
自由になれた。

これが人間
なんだな、
と。

人は
想いによって
生きている。

しかし
自分の想いに
固執するのは

自分を閉ざす
ことにもなるんだな。

今の想い

大切にしよう。

過去の想い
ではなくね。

つづく

格好いい人とは

時々、
異様な傾き方を
私はする。

異様な
心の傾き方。

前のめりに
なったり、

後ろに
反り返ったり、

右にも左にも
変な風に傾く。

昔はそういった場合、
必死に
バランスを取ろうと
していた。

元のまっすぐな
状態に
焦りながら戻す努力を
し続けていた。

今はそういった
ことは
まったくしない。

なるに任せよ、
という感じに
している。

傾くなら
傾いたままで
いい。

心の状態管理
とは、
まっすぐに戻す
ことが重要ではなく、

今のそのまま
あるがままで
いい、

その状態そのものを
許すこと。

楽しむこと。

・・・ではないか、と
ある時から気づき、
そこから急激に
生きるのが楽に
なった。

自分とは、
修正しなければ
ならない存在だ、

というのを
完全に
手放すところから
本当の人生が始まる、
という
気にすらなる。

そして
そういう人をみると、

格好いいなぁ、

と思う。

格好いい人
とは
傾いたまま
ニッコリと笑える
人だ。

・・・あくまでも
私の考えだけどね。

つづく

世界と歩調を合わす

答えが
わからなければ、

あれこれ無闇に
考え続けるよりも、

全身の力を
抜いて、

世界を
感じて、

ゆったりと、
この世の空気に
身を委ねれば
いい。

自分と
自分以外の
境界を意識せず、

全意識を
ただただ外へ
外へ。

何か
居心地の良い
物体があれば、
それと
一つになる感覚で。

こういう時、
私はよく
外を散歩しながら、
気の合いそうな
樹々と
一つになる。

春の空気の
中で、
少しぼんやりとした
なだらかで
なめらかな

うつろな感じの

樹々の気配が
伝わってくる。

答えが出ない
ことで
ヤキモキしている
のは
どうやら
私だけのようだ。

空気と時間は
ゆっくりと
流れている。

すると私は
「時間」と
歩調を合わせるように

「時間」のみに
意識を向ける。

一つ一つの
時間と
一つ一つの
自分の鼓動が
共鳴し、

落ち着いて
くる。

今、出す必要の
ない答えだな、


わかる。

出す必要のない
答えを
考え続けるのは
疲れるだけの
ことだ。

もっと自分の
エネルギーを
大切にしよう。

自分の内側に
篭りきりになって
しまえば、
大事なものを
見失う。

私達は
この世界に
生きている。

つづく

真っ二つに斬られた

自分自身が
真っ二つに斬られる

というイメージが
鮮明に浮かんだ。

まるで
白昼夢のように。

普通であれば
なんて怖いことだと
恐れ慄きそうだが、

まったく逆で、
とてつもなく
すがすがしさを
感じてしまった。

真っ二つに
ぶった斬られる、
というのを
私はどこか
いつも望んでいる
気がする。

そんなことを
書けば、
頭がおかしいと
言われそうだが、

皆さんの中にも
そういった願望は
ないか?
(ないよ。)

二つに斬られた
私は
明確な区別を
される。

その「区別」が
私の道を
より明確にして
くれそうだ。

だからむしろ
私は
その、
斬られた感覚を
何度も反芻しながら

しっかりと
思い出し続けて
いる。
(変態か?)

「区別する」という行為は、
これまで混乱していた
あらゆるものを
明確に分別して
くれる。

思えば、
真本音・反応本音
という区別も
そうだった。

区別のつかない
ことが
混乱を起こす。

そういった意味で
私のコーチングとは

区別のための時間

とも言える。

真っ二つに
斬られた私は、

右の私は、
混乱を見据え、
それへの最善の
対応をしようと
目を凝らしている。

左の私は、
私の人生のゴールを
まるで光り輝く
出口に観えるそれを、
ずっと
仰ぎ見続けている。

右からくる
発想と、

左からくる
発想。

その区別がつけば、
きっと
私のサポートも
さらにすっきりした
ものとなるだろうな。

つづく

空気を入れ替えよう

窓を開ければ、
すがすがしい
風が入ってくる。

風を受ければ、
生き返った
心地がする。

ほんのわずかな
時間でも、

空気が入れ替わる
だけで、
世界が変わる。

内面も
外面も。

リフレッシュは
大事だよ。

日々、
リフレッシュの
ための時間を

第一優先なくらいの
意識で
ちゃんと確保しよう。

人生の空気を
入れ替えるんだ。

毎日ね。

私達は
体で呼吸している
だけではない。

心も
呼吸するし、

魂も
呼吸する。

そのためには
新鮮な空気が
必要だ。

あなたにとって
それは何?

毎日、
何をすることで
空気を入れ替える
ことができる?

つづく

命の使い方

黒い渦が
みえる。

吸い込まれ
そうだ。

ブラックホールの
ようだ。

黒いのに
エネルギーが
高そうだ。

そういった
場合は、

吸い込まれて
しまおう。

吸い込まれたら
きっと

どこかまったく
別の場所に

飛ばされる
だろう。

それでいい。

それを
楽しもう。

ここにいなきゃ
ならない、

ということは
ない。

私達はもっと
自由でいい。

その代わり
何が起きても
全部、自分で
引き受けるべきだ。

全部、自分の
人生だ。

自分の
生だ。

自分の
命だ。

自分の命の
使い方は、

自分で
決めよう。

つづく

まっすぐとは何か?

まっすぐに
進まねばならない、

決めることは
大事だが、

何がまっすぐ
なのか?

そもそも
「まっすぐ」とは
どういうことか?

まで
きちんと探究しよう。

表面だけ
カタチだけ
まっすぐにしようと
してしまえば、

間違いなく
何かとぶつかる。

必ず
障壁が現れる。

そしてそこを
強引に貫けば、

それは
「まっすぐ」ではなく、
ただの「わがまま」
となる。

本来、「まっすぐ」
とは、
周りと調和する
ものだ。

本質的に
「まっすぐ」行けば
行くほど、
周りとの調和性は
高まり、

実に
フレキシブルに
進むことができる。

ぶつかるものも
最小限で済む。

それは
「自分が本当に
まっすぐで
在り続けるものは
何か?」

よくわかっているから。

するとそれ以外は
良い意味で
「どうでもよくなる」。

だから
まっすぐな人ほど、
良い意味で
いい加減であり
軽い。

まっすぐさに
よって
深刻度が高まって
しまう場合は、

それは
カタチだけの
まっすぐだからさ。

私達には
ちゃんと
道がある。

まっすぐに伸び、
まっすぐに進める
道がね。

つづく

自分を失い自分に帰る

心の深海深くに
潜ると、

いったんは
すべての感覚が
失われる。

自分と自分以外の
境界が曖昧に
なり、

自分の存在自体が
わからなくなる。

それでいい。

そのままで
しばらくいると
いい。

自分という“個”に
こだわり過ぎることで
私達は
疲れてしまう。

むしろその方が
本当に
自分を失ってしまう。

自分を守る
という本能は
大事だけど、

私達の意志とは
それだけでは
ない。

いったんすべてを
リセットすることで
大切なものを
思い出すことも
できるだろう。

深海には
光は届かない。

真っ暗闇
だ。

その中で
自分の境界が
わからなくなるの
だから、

それは一抹の
恐怖を
伴うだろう。

しかしそれでも
それは
「無」ではない。

むしろ逆。

自分自身が
“全体”に
広がっているわけだ。

そこに委ねれば、
一時的ではあるが、
すべてが満ちる
感覚を得られるだろう。

本当は私達は
満たされている。

エネルギーだって
溢れている。
循環し続けている。

エネルギーに
満ちた世界に
私達はいるのだから。

“個”へのこだわりを
いったん、
一瞬だけ、
手放して

その上で
再び
帰っておいでよ。

つづく

今の現実が嫌なら

“世界全体”に
常に意識を向け続ける
ということをしている。

この世の“世界全体”
に向けて。

できるだけ
24時間それを
やり続けている。

それを始めて
もう13年。

するともう
その状態が
「普通」となった。

その状態のまま
一つのことに
没頭したり、

自分の内面を
探索したり、

できるように
なった。

すると、
内面と外面が
見事に
繋がるんだ。

内面に
深く入れば入るほど、
外面と
深く繋がる。

内と外は
一体なんだな、

それを通じて
知ることができた。

自分の内面に
あることが
そのまま
現実化する。

それが
健康な世の
ならわし。

内面に
淀みがあれば、

現実にも
淀みが発生する。

という
単純な構造。

現実を
変えたいなら、
自分を
変えること。

それ以上でも
それ以下でも
ない。

現実に対して
文句がたくさん
出てくるなら、

その人は
自分自身に対して
文句を言い続けて
いるのだろう。
無意識に、かも
しれないが。

ちゃんと
自分自身を
コントロールしよう。

それが
「自律」だ。

自律した人が
増えることで、
社会は
活性化する。

もちろん
組織も
活性化する。

自分を変える
ことで
現実を変えよう、
という
意志を持つだけで

まずは
いいんだよ。

つづく

精魂尽き果てたら

彼方、上の方から
光の雨が
振ってくる。

それを浴びる
ことで
あらゆるものが
洗い流される感覚。

気持ちがいい。

ようやく私は
立ち上がることが
できた。

恵みの雨だ。

ギリギリまで
追い詰められると、
このように
自然は
私を助けてくれる。

人事を
尽くしているから
こそ。

人事を尽くさずに
助けてくれ、

ないな。

自分の最大力を
使うからこそ
初めて
得られるものは
多い。

すべてに全力を
出す
ということではない。

全力を出すべき
ところを
見極め、

その時その瞬間に
しっかりと
全身全霊を
込める。

それが
真剣に生きる
ということだと
私は信じてきた。

逆に言えば、
全力を出すべき
ではない時が
ある。

その時は
ちゃんと丁寧に
誠実に
手を抜いてきた。

それにより
必要なその時の
ために
エネルギーを溜める
ことができた。

そう考えると
人生とは
エネルギーコントロール
で決まる。

全力を出すべき
とことで
ちゃんと全力を
出せるか?

それが
どこまで丁寧に
できるか?

で決まる。

そして
きちんと全力を
出し切ることができれば、

私の場合
本当に
精魂尽き果てるので、
立てなくなる。

一歩も
動けなくなる。

すると、
恵みの雨が
光の雨が
降り注いでくれる。

真剣に生きる
とは
自然と調和しながら
生きる
ということなんだろうな。

つづく

本当に変わったんだな

本当に
時代は変わったのだな、

少々びっくりしている。

この
3月1日からの
ことだ。

あまりの空気感の
変化に
毎日、私は
ドギマギしているよ。

まるで
別の世界に
転生したかのような、
新鮮だけどちょっと
不慣れな感覚。

もちろん
実在のレベルでは
こういった変化は
何度もあった。

しかしこんなにも
現象化するものか。

現象のレベルまでも
含めた
この変化の大きさは、

私がこの世に
生まれて以来、
この55年間では
初めてだと思う。

本当に時代は
変わったんだな。

つづく

小さいけれど影響力は大きい

ほんの僅かな
変化を
見逃すな。

自分自身の
内面の
変化だ。

常に小さく
震えながら、
パッと動くものが
ある。

その最初の
顫動のようなものが
連続的に
小さな波を起こし、

それがやがて
巨大な波となる。

その波は
消えることなく
広がり続ける。

それが連続して
くる。

そして小さな
小さな
気をつけていないと
見逃してしまうような

しかしそれでも
莫大なエネルギーの
ビッグバンが
起こる。
そこかしこで。

そのビッグバンの
一つ一つに
メッセージがある。

可能であれば
そのメッセージを
自覚したい。

今、あなたは
「変化の時」
だ。

それは
潜在意識レベル
というよりも
顕在意識レベル
に影響を与えやすい
もの。

一気に自分を
より望む方向に
変えるチャンスだ。

自分の中の
僅かな変化を
見逃すな。

つづく

ちゃんと痛がれよ

晴れた空を
見るのは
すがすがしいが、

毎日、晴れが
続けば、
それが当たり前となる。

雨の日や
曇りの日があるからこそ、
晴れた日の
ありがたさがわかる。

これが
人間というもの
だよな。

悩み・葛藤・試行錯誤・
苦しみ・絶望・空虚感・
・・・
それらがあるからこそ
人間とも言えるし、

それらがあるからこそ
幸せな瞬間を
噛み締めることが
できる。

人間であることを
やめる
必要はない。

むしろもっともっと
人間らしく
進みたい。

今、私の目の前に
雲々がある。

暗くて重い
雲たち。

クライアントさん
達から
もらったものだ。

彼らの
モヤモヤだ。

雲の中に入れば、
炭酸水の泡のような
刺激の強い痛みを
感じる。

彼らはこんなにも
痛みを感じながら
毎日を過ごして
いるんだ、
とわかる。

今、最大の問題は、
彼ら自身が
この痛みに蓋をして
いることだ。

痛みを痛みとして
感じない。

だから
何とかしよう
とはならない。

鈍感であることの
最大の問題だ。

鈍感でなきゃ
進めないことは
あるだろう。

しかし
鈍感であることが
成長だとは
思わないでほしい。

それは
見ないように
顔を背けているだけ、

顔の背け方が
上手くなった、
だけ。

これを人間の成長
とは
思わないでほしい。

痛いことと
ちゃんと
向き合ってほしい。

人生を開く
初めの一歩が
それなんだ。

つづく

これが新たな時代か

中心が
移動している。

ゆらゆらと。

本来、
中心なだけに
それは
中心に在り続ける
はずなのに。

中心が移動したら
もう
中心じゃないじゃん!


言いたいのだが、
おかしなことに
それはまだ
中心
で在り続けているのだ。

動く中心。

それが
動くたびに、
そこが
中心となる。

つまり
世界も
変わり続けて
いる。
中心の移動と
共に。

これまでは、

移動しない
存在があったからこそ、
世界は
安定してきたのに。

まるで
北極星が
自由に動き回る
ようだ。

それと共に、
各星座の星々も
移動する。
変化する。

そんな
時代なのだ。

じゃあ、
そんな時代だから
あらゆることが
揺れ揺れになるのか、

思いきや、

むしろ
安定度は
高まっている。

逆に言えば、
安定度が高まった
が故に、
中心が移動できるように
なったのか。

ということは、
この次元の
定点は
必要なくなったということ。

ということは、
さらに奥の次元が、
定点というよりも
まるで土台のように、

浮上してきた
ということか。

これが
新たな時代か。

この自由度が。

つづく

限界を超えたい人への

その瞬間、
余分なものは
すべて
きれいに洗い流した
状態でありたい。

なぜなら
100%どころか、
1000%の力を
発揮したいから。

その瞬間、
だけでいい。

人事を超えた
集中力、
というくらいの
集中力を
出したい。

とはいえ、
やはりそれも
人の力
だろう。

私達が
私達自身に
設定している限界。

それを瞬間的に
超えることは
できる。

超集中力
とも言えるもの。

いつの間にか
私は、
それを発揮しなければ
できないことばかりを
やっている。

だから必死になって
それを
自分のコントールに
よって
発揮できるように
ならないか?

探究し続けた。

今はかなり
コントロールできるが、
しかしそれでも
やり過ぎると
体が壊れそうに
なる。

体が壊れない
程度に、
しかし、できるだけ
頻繁に、
本当に必要な
瞬間に、
その力を出す。

結局これを
やるために
私はセルフコーチング力を
高め続けたのだな、

今になって思う。

真本音で生きる
とは、
自己の設定していた
限界を超える
ということでもある。

それをしなければ
果たせない
人生の目的を
持った人がいる。

そんな人は
増えている。

そんな人のための
サポートを
私はしたいのだ。

限界を超える
ことが良いことだとは
限らない。

それはその人の
望む生き方しだい
だろう。

だから、
限界を超えてまでも
自分の目的に
向かいたい人。

そういった明確な
願いをもつ人のみへの
サポートに
ここからはさらに
集中していくつもりだ。

つづく

エネルギー循環を起こす生き方

降り注ぐ雨に
身を晒すように、

降り注ぐ
エネルギーを
全身に浴びる。

このエネルギーの
高まりは、
間違いなくここから
半永続的に
続くだろう。

ただそれを
受け取れる
自分であるかどうか?

それはその人の
生き方で決まる。

自分だけが
エネルギーを
もらおう、という
生き方は
もちろんダメだし、

逆に、
自己犠牲をして
自らのエネルギーを
ひたすらに
分け与えよう、という
生き方も
ダメだ。

どちらもすぐに
エネルギーが
枯渇する。

大切なのは、
エネルギーの循環を
起こす生き方だ。

その生き方を
あえて文字で
表せば、
こうなる。

『峻悦』

これは
私の造語だ。

似た意味の言葉が
ないか調べたが、
残念ながら
見つからなかった。

「峻」とは
険しいとか、厳しい
という意味がある。

「悦」とは
本質的な喜び
のことだ。

つまり『峻悦』とは、
険しく厳しい方向に
こそ、
真の喜びがある、
という意味。

ただしこれは
現実的な意味では
ない。

内面的な
ことだ。

心の中の
今、最も険しくて
厳しい方向に
私達は無意識に
蓋をする。

見なくする。

しかしその
連続によって、
私達は本来の
自分を
失っていく。

心の中の
今、最も険しくて
厳しい方向に
自分の意志で
向き合っていく。

すると当然、
それは苦しみを
伴うのだが、

それでも
向き合い続けると、
それがある瞬間に
一気に晴れる
ときがくる。

するとそこから
自己開放が
起こり、
その向こう側に
悦びが待っている。

それは通常の
喜びとは
次元の異なる
喜びだ。

その悦びに
基づいて
現実レベルでの
行動を起こす。

するとそれは
エネルギーの循環を
生み出す。

自分発の
エネルギー循環だ。

その循環によって
エネルギーは
増幅し続ける。

良い意味で
人を巻き込み、
皆の進化にも
つながる。

『峻悦』。

結局、私はこれを
探求し続けて
きた。
この55年の人生を。

・・・と
気づいたんだ。

つづく

流れに乗るのではなく

ゆっくり時間が
進んでいくな。

一つ一つを
噛み締めるように。

一見、
穏やかに見えるな。

でも、
その根底には
激しさがある。

だからこの
進み方の様相は、

何かをきっかけに
豹変するだろう。

緩流から
突然
急流に。

急流から
激流に。

ほんの1秒で
変わるかも
しれない。

そんなある種の
エネルギーの高さ
がある。

今のこの
日々には。

表面の空気に
揺らされては
ダメだ。

その本質の
流れ方

感じよう。

急流や激流で
生き延びるため
には、

自ら進んで
そこに
飛び込んでいく
ことだ。

自らの勇気と
覚悟に、

急流・激流は
敏感で、

その波長に
同調してくれる。

覚悟のある人は
「仲間」
と見なす。

だから
調和が始まる。

世の中の流れと
「仲間」となる。

そのためには
自らの意志で
進むしかないのだ。

もはや、
上手く流れに乗る、
という時代は
終わった。

ここからは、
流れを仲間にする
時代だ。

流れと共に
進む時代だ。

つづく

魂を鬼にする

あと一歩を
踏み出せず
元の場所に戻って
しまう人と、

あと一歩を
踏み出すことで
次の世界へと
人生を進める人。

その差は
あまりに大きい。

もちろん、
どちらが良いとか悪いとか
そういった評価を
他者が下すことは
できない。

しかしこれはもう
本人の問題だ。

踏み出せなかった
ことによる
深い深い後悔を、

本人にしか
わからない後悔を、

私は側から
数多く拝見してきた。

本人にしか
わからないのだが、
その悲しみは
他者である私にも
十分過ぎるほどに
伝わってくる。

そうなると私も
とても悲しくなり、
一晩、泣き明かすことも
多くあった。

自分で決めていた
人生に
進まなかった後悔。

これは本当に
深くて痛いのだ。

私にももちろん
その体験は
ある。

ギリギリで
先に進めた体験も。

後で振り返れば、
あの時よく
進めたな、と
思う。

しかし私の場合、

私は特に
頑固なので、
他者からの
ありがたいご支援を
いただいてきた。

あの時
私を罵倒してくれた
人。
あれがなかったら、
私はそこで
止まっていた。

あの罵倒が
私を後押し
してくれた。

その経験が
あるからこそ、

私は、
罵倒までは
いかなくても、

毅然泰然と、
大地に踏ん張りながらも、
ある時は
その人の歩みを
全否定する、
ということも
している。

誰かがどうしても
それをしなければ
ならない、
という時があるからだ。

そういう場合は、
コーチという役割、
立ち位置というのは
プラスに働く。

コーチだからこそ
言えること
というのは
たくさんある。

だから私は
どうしても!
という時は、

心だけでなく
魂までもを鬼にして、
その人に
対峙する。

一歩を
進めるように。

そういう
私の役割を、
引き継いでくれる人は
いないかな?

いてくれると
嬉しいな。

つづく

甦る未来

昔の思い出だと
思い込んでいたことが、

実は
未来の出来事だった、

ということは
ある?

過去と未来は
分離しているようで、

それでいて
一つだ。

過去が未来を
決める
ということも
よくあることだけど、

未来が過去を
決める
こともあるんだ。

未来を描く、

言うけれど、

実は
未来を思い出す
ということの方が
多いんだ。

未来を思い出す
という
感性。

それは
誰にでも
備わっている。

実は、
過去を思い出すのと
同じくらい簡単な
ことだ。

未来は一つか?

問われれば、

未来は無数に
ある、
というのが
答えだ。

未来は決まっているか?

問われれば、

未来は
決まっていない、
これから創り出すものだ、
というのが
答えだ。

だからこそ、
だ。

私達は未来を
思い出す必要が
ある。

その必要性は
ますます
高まっている。

真本音で生き、
「今」を
大切にできるように
なった人は、

しだいに
未来を思い出せる
ようになる。

未来を自分で
選びながら、

未来に
選ばれながら。

つづく

無駄な抵抗はやめよう

自分の原点だな、

これまでずっと
信じてきたものが、

急に
揺らぎ出す。

それどころか、
今にも
消えそうになる。

もしくは、
消えてしまった・・・。

ひょっとすると、
そんな状態に今、
あなたは
あるのだろうか?

もしそうなら、
その「事実」を
「事実」として
しっかり受け止めよう。

これまで
信じてきたものが
間違っていた、

ということでは
もちろん、ない。

これまでの
その原点は、

今、もう、
その役割を
終えたのだ。

ここからは
新たな「原点」が
あなたのさらに奥から

浮上してくる
だろう。

しかもその「原点」は、
あまりに
唐突なものかも
しれない。

これまでとは
真逆をいく可能性も
ある。

それでも
受け止められるか?

・・・ではなく、
受け止めるしか
ないんだ。

・・・というより、
どれだけ嫌がっても、
受け止めてしまう
ことになる。
だって、
自分自身の「原点」
なのだから。

もし抵抗が
あったとしても、
それは
顕在意識のみの
抵抗だ。

つまりは
これまでの経験則に
基づいた
過去からの延長線上の
あなた自身による
抵抗だ。

はっきり言って
そんなものは
弱い。

本来の「原点」から
してみれば、
吹けばすぐに
飛んでいく。

しかしそれでは
あまりに可哀想
なので、
「原点」は少しずつ
あなたを
納得させてくれるだろう。

だからあえて
言うのだが、

無駄な抵抗は
やめよう。

早く受け入れて、
早く 
先に進もう。

その方が
何十倍も楽しいよ。

つづく

しっかり準備したよ

一見、
がんじがらめに
見えるかも
しれない。

しかしそれは
思い込みだ。

手足に絡みつく
その一つ一つの
障害を

よく目を凝らして
見つめてみると
いい。

大したことは
ない。

一つ一つを
じっくり丁寧に
手放せば、

あっという間に
自由
になれる。

私達は
すでに
私達が想像している
以上に
力を開放できている。

それを
体験によって知る
というのが
ここからのテーマだ。

体験すれば、
知る
ことができる。

体験する
だけだ。

一歩を
踏み込むかどうか。

それだけ。

もし仮に、
自分を縛るものたちを
手放せないとしても、

じゃあさ、
そのまま
縛られたまま、さ、

進んでみると
いい。

そんな無茶な、

思うよりもまず、

思い切って
進んでみよう。

あれ?
というくらいに
抵抗なく
行ける可能性は
高いよ。

そんなもんだよ。

それだけ
ここまで頑張ってきた
準備の一つ一つの
意味は
大きいんだよ。

つづく

激しい進み方に見えるけど

グッと
一気に進む。

そして
急ブレーキ。

様子を見ながら
そろりそろりと
進む。

そしてまた
瞬間をとらえ、

グッと
一気に進む。

急加速。

急ブレーキ。

最も楽に
進めるその瞬間のみ
確実にとらえ、

そうでない時は
無理をしない。

どれだけ
急加速しても
急ブレーキをかけても、

自分には
負荷はかからない。

むしろ自身には
静けさと落ち着きが
あるのみ。

側から見れば、
激しい進み方かも
しれないが。

自分のスピードを
調整しながら、
最も抵抗の少ない
進み方をしている。

もちろん
理想を言えば、
ずっと最大速で
進みたい。

でもまだまだ
それができる
世の中ではない。

ちゃんと様子を
見極めながら、
着実だけど
行く時は行く!
という進み方。

これが
現時点での
現実世界における
真本音の進み方。

もちろん、
意図してやっている
わけでなく、

今この瞬間に
集中しながら、

一つを決めて
一つ動く、


丁寧に繰り返している
だけだ。

真本音に素直に
生きれば、
そのような進み方に
なる。

今はね。

混乱の中だからこそ
の進み方。

しかしそれは
次々に調和を
生み出していく。

皆の手本にも
なるんだよ。

つづく

風がキツいか

心の中の
風通しが良くなった
と思ったら、

強烈な
向かい風がきた。

しかも
下から上へ
突き上げるような。

飛ばされそうだ。

目も
開けられない。

踏ん張るだけで
精一杯。

なんてことだ。

風を感じられる
ようになったら、

その風が
私を妨害する
とは。

こんなことなら、
心の中は
モヤモヤのまま
の方が楽だった。

風を感じる
とは
こんなに辛い
ことなのか。

・・・と。

最初は
そうなるかも
しれない。

しかしその風は
モヤモヤが
なくなったから
吹き始めたのではない。

最初からずっと
吹いていたものだ。

そんな中で
あなたは
生きていたんだよ。
しかも
その風の存在を
知らぬままに。

慣れないうちは
風は
キツいものかも
しれない。

しかし
負けるな。

踏ん張ることしか
できないなら、
踏ん張ればいい。

じっと
我慢して。

そして決して
風から
逃げるな。

風に
向かい続けよう。

すると
その生き様に
風が
共鳴するようになる。

しだいに
向かい風は
鎮まり、

それだけでなく、
徐々に
追い風に変わる。

風は、
進もうとする意志に
共鳴する。

それが弱いと
怒る。

かといって
風に媚びるな。

堂々と
向き合えば
いい。

そういった覚悟が
風の喜びと
なる。

風は仲間だ。

風は同志だ。

風と共に
進もう。

つづく

たとえ混乱があっても

現実の中で
起こっている
様々な混乱に
目を奪われていると、

自分自身も
その混乱の渦に
巻き込まれている
感覚になるが、

混乱と自分

とは
ちゃんと区別を
つけた方がいい。

真本音で生きる
ということを
日々、続けていれば、

あなた自身は
静かなもんだ。

むしろ、
静かであるが故に
混乱を
あるがままに
感じ取ることができている。

感じている
だけ
だ。

混乱と自分

別物だ。

・・・という区別が
きちんとできれば、
すぐに

混乱の本質

観えてくるはずだ。

そうすれば、
その混乱は

きちんと対応すべき
ものか、

それとも
ただやり過ごせば
いいか、

無視して離れれば
よいか、

などの指針が
わかる。

そして落ち着いて
自分の振る舞いを
すればいい。

真本音で生きる
ということを
続けているならば、

私とは
調和の源だ、

くらいに思っておけば
いい。

自分の振る舞いが
一つ一つを
ゆっくり調和させていく。

実際、本当に
そうなるだろう。

あなた自身は
静かだよ。

つづく

仲間はほしいが

仲間はいるか?


問われれば、

真本音で生きる
限り、
必ず仲間はいる。

真の仲間とは、
自分と同じ
成長スピード
進化スピード
開花スピード

進む人達だ。

他の人を
待つ
必要はない。

他の人から
置いていかれる
こともない。

同じ成長スピード
だからだ。

影響力の高まり

同じように
継続的開花を続ける。

一人ひとりの
やれることが
広がり深まるのだが、

その広がり方
深まり方が
お互いのシナジーを生み、

結果として
一人で進むよりも
何十倍ものエネルギーと
成果に繋がる。

仲間は
中途半端に集めない
方がいい。

意図を持ち過ぎると
コアメンバーが
中途半端な繋がりに
なり、

後々に苦労する。

コアメンバーには
徹底的に
こだわること。

違和感のない
人とのみ
組むこと。

人数は少なくても
いい。

ここをしっかり
すれば、
後が楽だ。

真本音の道を
進みながら、
一人ひとりと
真摯に関わり続ければ、

仲間は自然に
集まってくる。

あなたの
真の波長に
ピッタリの
仲間達だ。

つづく

また二極化が進む

光の中に
ポッカリと
黒い点がある。

そこに意識を
集中させると、

あぁこれは
虚無だな、

と思った。

恐ろしい。

あの中に
入れば
死ぬだろうな、
と。

心底
怯えた。

人間にとって
最も恐ろしいのは
虚無
ではないか。

何か障害が
あるとか、

乗り越えなければ
ならない壁が
あるとか、

そういったもので
あれば
我々はなんとか
立ち向かえる。

しかし
虚無とは
そのような類では
なく、
人間の力が
及ばない、

むしろ逆に
すべての力を
吸い取られるような、

根本的な
恐ろしさがある。

しかしそういった
虚無は
世の中に
増えてしまった。

しかも
虚無達は
わかりやすく
虚無の形をとらなく
なった。

むしろ、
甘い顔をして
私達を誘う。

こっちへ
おいでよ、と。

こっちの水は
甘いよ、と。

そして自ら
意図せぬままに、
いつの間にか
虚無に足を踏み入れ、

出られなく
なっている人が
この10年で
急増した。

真本音度が
高まる人達が
増える一方で、

その反作用の
ように。

人々が
年々、
二極化していく。

そういった
世の中全体の流れを
感じながら、

私の中に
悲しみが
日々、重なっていく。

なんとかしたい

何もできない。

私にできることは
私のすべきことに
日々、真摯に
向かい続けること。

それが
世の中に増えた
虚無の浄化に
繋がることを
祈りながら。

つづく

ただ待つのはやめた

いやに長い
夜だ。

ちっとも
夜が明けない。

気配すら
ない。

この
ネットリとした
重々しい空気。

暗さ。

闇に飲み込まれて
自分を
失いそうだ。

こんな場所に
ずっといるなんて
不可能だろう。

すぐに
限界が
来てしまうさ。

そうすれば
どうなる?

すべてが
終わるか?

私にできるのは、
夜明けを待つ
ことだけだったが、

そうでもない
ことが
わかってきた。

東に向かって
進むのだ。

そうすれば、
1秒でも早く
夜明けを迎えられる

かも

しれない。

その
「かも」に
かけてみようか。

ただ待つ
よりも

進みながら
待つ。

それくらいは
しても
自然の摂理には
外れないだろうよ。

つづく

大らかさはどこから

やめろ!

言われても、

やめられるなら
最初から
やってないさ。

もう
やめられない
自分だと
百も承知の上で、

だからこそ
ここに
来たんだから。

人には、

引き返せる
ことと
引き返せない
ことが
ある。

誰にどう
言われても、

もう
引かないよ。

でもさ、

そう決めた
からこそ逆に、

いろんな人の
意見に
耳を傾けることが
できるように
なったのさ。

人はね、

決める
ことで
大らかに
なれるんだ。

大らかな
自分でない
ならば、

まだ、
決めていない
ということ
なんだよ。

つづく

慌てず一つ一つ

ゆっくりと、
目を覚まして
いく。

焦る必要は
ない。

徐々に
慣らしていけば
いい。

一気に変わる
必要は
ないのだ。

一歩ずつ
着実に

丁寧に
意識を向けながら。

日常における
自分の振る舞いの
一つ、一つ、を
見つめ、

変えられるところから
変えていけばいい。

どれだけ
根本が変わっても、

表面は
徐々に変えた方が
いい。

この世は
焦ることで
遅くなる。

速く進みたい
ならば、
より一層、

一つ、一つ。

一つを決め、
一つ、動く。

丁寧に。

そのうちに
慣れるさ。

本当に
地に足ついたら、

そこからダッシュ
すればいい。

つづく