チームパフォーマンスコーチ

新たなマイペース

一日一日に、
もし
密度というものが
あるならば、

今はその密度が
非常に濃く
なってきているのでは
ないか。

一日一日の
進み度合い、

本質的進み度合い
という尺度が
もしあるならば、

それは今、
飛躍的に高まって
いるのではないか。

特にこの数日、

その実感が
とてもある。

これは
私だけに限る
ことではない、
もちろん。

世の中全体に
対する
「感覚」だ。

私の表現を
使えば、

これまで日々、
自らの真本音を
大切に
生き続けてきた人は、

そのような状態に
数日前から
入っているのでは
ないか。

誰もが。

嬉しいことだな。

人にはそれぞれ
その人なりの
ペースがある。

マイペース
という言葉が
あるが、

皆、マイペースを
持っている。

それを今は、
皆が
逸脱し始めて
いる。

逸脱して
新たなマイペースを
創り出そうと
しているようだ。

新たなマイペースが
持続的に続けば、

人生展開も
ビジネス展開も

劇的に変わり
続けるだろう。

良い節目に
今の私達は
あるようだ。

つづく

一滴から始まる

最初はとても
小さな流れだ。

それでいい。

最初から
規模を求めては
ならない。

小さくとも
たとえ一滴でも、

その一滴に
ちゃんと
魂が込められて
いるか?

自分にとって
本当に納得の
一滴か?

別に
完璧であれ

言っているわけでは
ない。

最初は当然
不完全だ。

不完全でも
そこに
ちゃんと魂が
宿っているか?
だ。

ここを妥協すると
後々に
大変なことになる。

規模だけが
膨張し
破裂する。

それなら
やらない方が
ましだ。

一滴の魂。

これを
育て、深め、
広げる。

そうではないか、
ビジネスの
面白さは。

つづく

問いすら要らない

心が澄んで
いるときは、

「問い」が
要らない時が
ある。

「問い」の前に
もう
「答え」が来る。

その気配を
感じたら、

澄んだその状態
のまま、

「定位置」で
じっと待とう。

心が澄んでいれば
「定位置」が
わかるはずだ。

心の中の
「定位置」。

そこに座って
静かに待てば、

「答え」は
静々と
目の前に
やってくる。

何も
問わない。

何も
訊かない。

何も
聴かない。

ただ
静かに
しているだけ。

すると、
言葉になる前の
「答え」が
わかる。

「答え」の
存在がわかる
という感じだ。

あとはその
存在と
一つになるだけ。

すると
「思い出す」感覚で
それは
言語化される。

もしくは時には
言語化すら
されずに
ダイレクトに
自分が勝手に
何かの行動に
移るかもしれない。

いずれにしても
「思い出した」
その答えは

私達を
突き動かす。

突き動かすと
言っても
勢いでは
動かない。

静かに
でも
エネルギッシュに、

まるでそれが
当然のこと
であるかのように

周りから見れば
凄まじいくらいの
確信に満ちた
行動を
とるようになるんだ。

つづく

がんばる、とは

がんばるぞ!


言いながら、

その場で
凄い勢いで
回転し始める
人がいる。

凄い勢い
なのだが、

その場での
回転なので、

何も進まない。

何も動かない。

そして、
結構
短時間で疲れる。

疲れて
倒れて
やっぱダメだ、
と。

がんばる、
とは
闇雲に動く
ことではない。

もちろん
行動することは
大事だが、

一つ決めて
一つ動く

ことが
大切だ。

一つをちゃんと
丁寧に
自分の意志・意思で
決める。

そのためには、
情熱のエネルギーに
呑み込まれるのでは
なく、

エネルギーは
大切にとっておき、

静かに
落ち着いて
自分がまずは
何からどう始めるか?

しっかりと考え、
決めるわけだ。

一つ決めたら、
その一つに
しっかり
集中する。

自分の全エネルギーを
そこに注ぐ。

その集中力が
大事。

そしてちゃんと
休む。

しっかり休んで
ペース配分を
気をつけて、

力を抜くべきところでは
力を抜いて、

本当に集中すべき
瞬間に
全力を出せるように
する。

それによって、
自分のがんばりが
持続する。

がんばるとは、
そういうことだ。

闇雲に動くだけの
自己満足的な
がんばりは
もうやめよう。

もう
そんな時代では
ない。

つづく

教え過ぎだ

研ぎ澄まされた
感性を
持っているのに、

それを使わない
人は
多い。

特に
若い人達。

もったいない。

まだ
自信がないのだ。

経験が
少ないから。

本当に良くないな
と思うのは、

経験のある者が
経験のない者を
諭し過ぎだ
ということ。

教え過ぎ
だ。

教え諭すことで
その人の
せっかくの感性が
鈍る。

感性を
使わないように
使わないように
促している。

黙りなさい。


ついつい
言いたくなるし、

実際
よく言ってしまう。

人の感性を
甘く見ては
ならない。

とはいえ、

感性を過信
するのも危ない。

もっと
あるがままに
その人を
見つめることは
できないだろうか。

そういう人が
増えてきて
ほしい。

基本を教える
ことは
大事。

基本がなければ
応用も効かない。

それは重々
わかっている。

それをわかった
上で、

でも本当に
最低限だけの
アドバイス、一言に
止め、

あとは
多少、ゴツゴツと
ぶつかってもいいから、

その人の歩みに
任せる、

その人の感性に
任せる、

そんな大らかさを
もっと
持たないか。

特に
ここからの
時代は。

つづく

限界を知る

限界がある
のが
人間だ。

いつどんな時でも
無意識に
自分の限界を
設定している。

それは
自己防衛の
ためでもある。

だから
悪いことではない。

一方で、

人は無限に
可能性を伸ばして
いく。

だから
「限界なんて勝手に
決めちゃダメだ」

ついつい
考えがちだ。

しかし
それは違う。

「限界」を
しっかり認識する
からこそ、
可能性を「無限」に
伸ばすことが
できるのだ。

「無限だ無限だ」

どれだけ唱えても、

人間である以上、
私達は
勝手に「限界」を
都度都度
一つ一つ
設定する。

だから、

自分が今、
どのような「限界」を
自ら設定しているか?

あるがままに
認識し、

それを
尊重する。

それが
「限界寸前」まで
自分を伸ばすことに
繋がる。

そして、

「限界寸前」まで
行ったら、
次に
目の前の「限界」を
(「枠」を、と言ってもいい)

一つ突破する
段階に入る。

何が限界か?
を知っていれば、

それを突破する
ために、
何をすれば良いか?

わかる。

そしてそれを
突破する。

すると、

これまであった
「限界」(=枠)
からは自由になるが、

しかし
その先にはさらに
次の「限界」(=枠)が
設定される。

この連続だ。

この一つ一つを
誠実に進む
歩みによって、

私達は
無限に可能性を
伸ばしていける。

つづく

最初からあったのか

「正解」

わからなくなったら、

「正解かどうか?」
という
問い自体を

少し離れたところに
置いてしまうといい。

「どっちでも
いいじゃないか」
と。

もし
「答えを早く
出さねば」
という
恐怖にも似た
感情があれば、

それも
少し離れたところに
置いてしまうといい。

心は、
そこにあるものを
失くすことは
難しいが、

横に置く
ことは
少し訓練すれば
誰でもできるようになる。

これは
セルフコーチングの
基本の一つでもある。

横に置いて

その存在は
感じつつも

もう
その中には
入らない。

すると
だいぶ静かに
なれるだろう。

それでいい。

正解かどうかは
どっちでもいい。

答えをすぐに
出すかどうかも
どっちでもいい。

そうなれた
時初めて、

もう
「ここ」にある
自分の答えに
気がつく。

なんだよ。

最初からここに
あったのかよ。

・・・と。

「ここ」にある
もの。

ずっと
在り続けた
もの。

在るものを
在るんだと
気づく。

あとはそれを
観ればいい。

あるがままの
それを。

それが
「自分の答え」
だ。

真本音の。

難しいことじゃ
ないんだ
本当は。

私達はもっと
楽に生きれるんだ。

つづく

一致するなら

勇気を持って
踏み出す
その一歩は、

人生の宝物に
なるだろう。

未知の領域に
進むという
私達の本能。

本能に素直に
生きることが
今の時代は
こんなにも怖い。

“もうここまで
来たら、
勇気しかないだろう”

開き直れるか
どうか。

良い開き直りを
するために、
私はいつも
次の問いを
自身に投げている。

勇気の必要な
時に、・・・

『私の意志が
空にあるなら、
空の意志を私の中に。

空と私が今、
一致する答えは何?
次の一歩を
どうしたい?』

一致するなら
もう、
やるしかないだろ。

つづく

存在するだけ

いったい
この先に
何があると
言うんだ?

魂の
叫びであり、
問いだ。

何のために
こんなに
がんばっていると
思ってるんだ?

なぜこんなにも
現実は
変わらないのだ?

失望と絶望と
空虚感。

わかるわかる。

真剣だからこそ
そうなってしまう。

下を俯く
彼。

足元だけを
見つめている。

励ましの
言葉でも
かけてあげたいが、

今は
ダメだ。

彼が
望んでいない。

跪く。

倒れそうに
なる。

しかし寸前で
グッと堪える。

また
ゆっくりと
膝を立て、

立ち上がる。

それでも
やるしか
ないんですね。


薄く笑う。

疲れ果てた
顔。

ほんの僅かでも
私がエネルギーを
与えられたらな、
と思う。

が、
今は無理なんだ。

ダメなんだ。

やるしか
ない。

できることから。

膝がガクガク
しながらも
彼は
また進み始める。

私は
彼の横に
つく。

同じペースで
進む。

言葉はない。

ただ
存在があるだけ。

どうせ
存在することしか
できないなら、

より自然な
私として
ここに
いることにしよう。

つづく

見守るだけ

痙攣している。

苦しくて
痙攣している。

頑張っている
人だ。

前向きに
進もうと
し続けている。

だからこそ
痙攣する。

痙攣してまでも
進もうとする。

本当は
もっと
楽に進んだ方がいい。

本当は
もっと
楽に進めるはずだ。

そのための
アドバイスを
ぜひしたいと思う。

でも
ダメなんだ。

本人がそれを
望んでいない。

たとえ
必要のない苦しみ
だとしても、
今は
今の自分のまま
精一杯に
生きたい、行きたい、
進みたい。

そんな意志が
グッと
伝わってくる。

だから私は
口をつぐむ。

ただ、
目線だけで
応援をする。

見守るだけ。

こんなに
苦しさが
伝わってくるのに、

見守るだけ。

それが今の私に
できる
最大のこと。

つづく

愚かなまでに

水中に
ブクブクと
沈んでいく私が
いる。

どこまでも
どこまでも、
深く
深く。

だんだん
光も届かなく
なる。

暗い
静寂の
世界。

底にたどり着き、
一息入れた後、

一気に
ジャンプする。

すごい勢いで
水面まで
戻り、

その勢いの
まま、
水から飛び出た。

水圧からの
解放。

と共に、
想像以上の
眩しさ。

今度はどこまでも
上昇する。

垂直に
上昇し続ける。

大気圏を
超え、
宇宙に出る。

そして一気に
急降下。

水面がまた
見えてきた。

重力に素直に
そのまま再び
水中に
飛び込んだ。

そしてまた
ブクブクと
沈んでいく。

・・・思えば、
私のこれまでの
人生は、
こんな風だった。

前よりも深く
潜り、
前よりも高く
舞い上がろうと
した。

その繰り返しを
することで、
上下の範囲を
広げていった。

それは今も
続けている。

これまでの範疇で
上下していても
意味がない。

上がるなら
とことん上がり、
下がるなら
とことん下がる。

愚かでも
いい。

浅はかでも
いい。

ただ、
自分が設定していた
自分の限界を
常に超えたいと
願ってきた。

こういった生き方を
人に奨める
気はない。

でも私自身は
これからもずっと、

きっと
これを続けるのかな。

つづく

なら待とうか

細かい光の粒子が
私の周りを
ピョンピョン飛んでいる。

何だろう?


意識を向けると、

それぞれの
光に、
一つずつの
笑顔。

いろんな人達の
笑顔。

笑顔達が
ピョンピョンと
跳ねている。

彼らは
跳ねながら、
私に何か
メッセージを送って
きているようなのだ。

みんな
それぞれの
言い方だが、

結局は
どうも
たった一つを
伝えたいらしい。

「そこで
待っててください。
もうあまり
動かずに。」

そうなのか。

ちょっと
あたふた
し過ぎてるのかな。

つづく

今、どこだ

大空を
高く飛んで、

上空から
世界全体を
俯瞰する。

そんな視点は
いつも
大事にした方が
いい。

じゃないと
自分の現在地を
見失ってしまう。

「私は今、
どこにいるか?」


とても重要だ。

はっきりわからなくても、
感覚的でも
良いので、

現在地を
把握しよう!と
しよう。

「私は
どこに行くために、
今、
どの地点
どのレベルに
いるのか?」

明確にわかれば
わかるほど
良いが、

不明確でも
感覚的でも
いい。

何も知らずに
闇雲に進むよりは。

現在地が
わかれば、

「今ここ」
だからこその
課題がわかる。

テーマが
わかる。

私達は
ゴールに辿り着く
まではずっと
「未熟」だ。

未熟であるのが
当たり前なのが
私達人間。

未熟であることから
目を逸らすのでは
なく、

未熟の中の
どのポイントに
今は焦点を当てるべきか?

見極めよう。

それは
その地点その地点で
変わってくる。

「今ここ」
という現在地点
だからこその
テーマがある。

そのテーマに
向き合わずして、
先に進むことは
できない。

現在地を知る
ということは、
時には
まったく進めていなかった
自分を知る
ということにもなるだろう。

それはショックと
失望を生むが、

しょうがない。

進んでいるつもりで
自己満足の日々を
過ごすよりも、

ちゃんと
今を観よう。

今を知ろう。

つづく

やばいやばい

何となく
警告アラームが
鳴っているような
気がする。

こういう感覚が
ある場合は、
しっかりと自分自身を
見つめてみよう。

意識を外に出し、
外から自分を
眺める風にする。

外から
全身くまなく
チェックする。

体だけでなく、
自分自身の
空気感や、
エネルギーも。

すると
なるほど、
滞りがある。

上半身と下半身が
断絶しそうなくらいに
エネルギーの
滞留がある。

これはやばい
ところだった。

エネルギー循環は
大切だ。

私達が
「生きる」とは、
エネルギーを循環
させ続けることを
言う。

その人には
その人ならではの
健康的な循環の仕方
というのがある。

どうやら私は
それができていなかった
ようだ。

最近はちょっと
ハード過ぎた。
エネルギー枯渇が
当たり前の日々が
続き過ぎた。

何とかなるだろう
とやってきたが、
私は私の年齢を
もっとちゃんと考えた方が
良いようだ。

少しゆっくり
しよう。

自分自身のみに
意識を向け、
エネルギー循環を
復活させよう。

健康維持は
社会人として
プロとして
当たり前。

自分自身の
ケアこそ
大切に。

皆さんもね。

つづく

わからんなぁ

自分のことは
自分が一番
よくわかっている。

・・・などと
思わない方が
いい。

それは
傲慢というもの。

自分のことなど
わかるはずが
ない。

そのように
私達人間は
できている。

私達は、
人との関わり合い
の中で
初めて、
自分を知るように
できている。

つまりは
社会的生き物
だ。

とはいえ、
それを言ったら
すべての生き物は
社会的生き物
と言えるし、

生き物=社会的
とも
言えるだろうけど。

自分一人だけで
生きていく
ことはできないのが
私達だ。

そのような
仕組みに創られている
のが人間、
くらいに
捉えた方が良いだろう。

自分のことは
わからない。

だからもっと
自分のことを
知ろう。

だからもっと
多くの人達と
関わろう。

だからもっと
より深い関わりを
目指そう。

・・・そういった
方向性は
私達にとっては
非常に健康的だ。

得意な人、
苦手な人、
いろいろいる。

だからこその
社会だろう。

もっと人に
揉まれればいい。

揉まれること
自体を
楽しめるように
なるといい。

そのためにも、
自分自身の
真本音を
大切にしよう。

真本音を
自らが
大切にしながら、

いろんな人に
揉まれよう。

そうすれば、
自己理解は
どんどん進む。

進むけど、
理解が深まれば
深まるほど、

さらに
自分がわからなく
なる。

でもその
「わからなさ」の
次元が高まる。

それが
面白い。

「わからない」
ことによる
面白さ、

楽しさ。

それが
人間の楽しさ
ではないか。

つづく

勇気を持って訊こう

突出している
部分、
というのが
誰にでもある。

ここに関しては
抜きん出て
長けている、
というのが。

しかし
そういったものほど、
本人が自力で
見つけることは

ほぼ
叶わない。

人からの反応や
人からのフィードっバックを
受けて初めて
気づくことは多い。

例えば私は、
どうやら
集中力がすごい
らしい。

自分では
わからない。

でも、ある時
人から言われて
気づいた。

じゃあその
集中力を活かす
には
どうすればいいか?

という
問いを大事に
した。

すると、
仕事の方法とか
物事の進め方とか
私なりのやり方が
観えてきた。

突出した部分を
自ら尊重する
ことによって
得られる指針は
多い。

本当は近くに
良いコーチがいると
いいが、

たとえいなくても
皆に訊こう。

私はどこが
突出しているだろうか?
と。

ダイレクトに
訊いてみよう。

もちろん
「わからない」
という答えは
多いだろう。

しかし貪欲に
たくさんの人に
訊いてみよう。

今日お会いした
ある会社の
若手社員さんは、

自分に本当に
自信がない人で、
一つとして
自分の良いところが
わからないそう。

しかしその人の
偉いところは、

じゃあ自分は
他の人にどう映っている
だろうか?

ということを
貪欲に
訊きまくっているのだ
そうだ。

そういったところの
貪欲さは
きっと
自分を伸ばす。

自分のことを
他者に訊くのは
怖いところもあるが、

勇気を持って
やったもん勝ちだね。

つづく

苦手を突く

自分の得意な
ところは?


訊かれても
よくわからない
という人は
多い。

そこで、
このブログを
ご覧いただいている
皆様には、
あえて
次のことをお勧めします。

「自分が今、
一番苦手だと思っている
ことに挑戦してみよう」

・・・と。

これ、
一般的には
あまりお勧めしない
こと。

でも
このブログをずっと
お読みいただいている
皆様ならきっと、
上記の方向性は

面白い!

はず。

実は、
真本音のレベルで
自分の本当に得意なところを、
ずっと
自分自身にひた隠しに
するために

「ここは苦手だ!」

という
思い込みをさせ続けている
人は、多い。

あえて得意な部分を
使わずに生きてみよう
という、
自分自身への課題のためだ。

そこを
突いてみる、
というやり方だ。

これまで
苦手だと思って
避け続けていたことを、

今このタイミングで
やってみることで、
まったく違った印象に
なるかも。

そして思わぬ
自分自身の力を
発見するかも。

今だからこそ、

やってみよう。

つづく

出会えますように

私のモチベーションの
源泉は
いろいろあるが、

一つ大きいのは
やはり、

「出会うべき人達と
ちゃんと出会えるように
今をしっかり生きよう」

というものかな。

出会いというのは
相手のいることなので、
私一人の問題では
ないが、

それでももし、
私が今ここにおいて
本来とは違う自分の
生き方をしてしまえば、

私は自ら
大切な人との出会いを
放棄していることに
なる。

そういえば
ふと思い出したが、
あれは
小学校4年生くらいの
ことだろうか。

当時の私が
「こんなに幸せな夢は
もう人生で一度も
観れないのではないか」
と思うくらいの
本当に幸せな夢を観た。

それは
出会うべき人達と
出会えている夢だった。

おー、出会えたなぁ、

多くの仲間達と
握手をしている夢。

「あなたと出会う
ために、
頑張ってきたんだよ」

皆が言ってくれた。

ものすごく
リアリティのある
夢だった。

ひょっとすると
今でもあの夢が
人生で観た
最大に幸せな夢だった
かも。

もしこの幸せを
逃したとしたら、
私の人生は一体
何だったのか?

思えるくらい、

出会いを逃す
というのは
私にとっては
避けたいものだ。

でもやはり
相手がいること。

相手もちゃんと
本来の自分を
生きる必要がある。

だから私は
祈る。

皆が、本来の自分の
生き方を
今ここで
実践し続けられますように。

そして
今日も一日、
私は私の真本音を
大事にしよう、
と。

つづく

掴みたい

川の下流に
光が見える。

泳いでそれを
掴もうとする。

しかし
光は逃げる。
さらに下流に。

それをまた
必死に追いかける。

泳ぎに泳ぐ。

その内に
泳ぎ方が
板についてきた。

最小限の労力で
最大のスピードを
出す泳ぎ方が
わかってきた。

にも関わらず
光には
追いつけないのだ。

泳いでも
泳いでも
追いつかない。

それでも
光に
真一文字に
ついていく。

で、
ふと気がつくと

海に出ていた。

大海原。

上流も下流も
ない。

どこに行くのも
自由。

あまりに
広々とした
世界なので、

逆に
恐怖に襲われる。

でも、
泳ぐ力は
それなりについた。

もちろん
川での泳ぎ方と
海での泳ぎ方は
異なるだろう。

でも
泳ぐ、という行為
そのものについては

その本質は
もう
身についている
実感がある。

これまでの泳ぎが
通用しなくなる
かもしれないが、

でもやはり
私はさらに
先に行こう。

光はまだ
見えるのだ。

どこに行くのも
自由だが、

やはり私は
あの光を
掴みたい。

この気持ちが
続くうちは。

光は
どこに行くのか?

わからないが、
ただわかるのは

私はあの
光を掴みたい。

光は先に
進む。

私を導く
ように。

このまま私は
導かれようでは
ないか。

つづく

正面にいる

目の前に
何か
強烈な存在が
在るのではないかな?

その存在は
あなたをじっと
真正面から見つめ
続けているのでは?

私は
ここにいるよ、
と。

ちゃんと
はっきり私を
正面から見つめてほしい、
と。

それこそが
本来のあなた
なのでは?

もう
気づくべき時が
来ているのに、

必死になって
気づかないフリを
している。

怖いから
そういうことを
してしまうのが
我々人間なのだけど、

でも結局は
そうしていることが
一番苦しいのだ。

・・・ということを
しっかり
目を開けた後で
気づくものまた我々。

目を開ければ
楽し。

目を閉じたままなら
苦し。

単純なこと。

それが
我々。

だからもう
あきらめて
目を開けたら
どうかな?

つづく

探究のススメ

探究心。


もっとみんな
持った方がいい。

探究とは

『?』

だ。

私達の心の中には
日常的に
様々な「?」が
発生する。

そこに
敏感になり、

一つ一つの「?」を
丁寧に
拾い上げることだ。

最初は
興味のあることから
で良いと思う。

たくさんの「?」を
どんどん
増やすこと。

オススメは
探究用の
専用のノートを
一つ作ること。

私はいつも
探究用の手帳を
必ず携帯している。

ふと発生する
「?」を
次々にメモする。

そして
タイミングをみて、
探究のための
時間にする。

手帳に書き溜めた
「?」について
じっくり考える。

自分なりの答えが
出れば、
また次の「?」が
発生する。

自分なりの答えが
出ない場合は、
情報収集をする。

こういったことの
積み重ねは、
セルフコーチング力
そのものを育てる。

内面的なこと。

外面的なこと。

何でもいい。

何でも良いから
自分流探究を
みんなもっと
やった方がいい。

つづく

問題だろ

「ここが問題だよね」

伝えると、

「そんなにひどいことを
言わなくても・・・」

返ってくることが
ある。

これは日本人の
悪い癖の一つじゃないかと
私は思っている
のだが、

みんな、問題を
曖昧にしていないか?

何が悪いのか?
どこに問題があったのか?


ちゃんとクッキリ
明確にしないと、

対策の打ちようが
ないではないか。

曖昧なまま
馴れ合いのまま
進むから、

後で問題が
大問題に変質し、

どうにも
手をつけられなく
なる。

まだ小さなうちに
ちゃんと手を打って
おけばいいのに。

大概は、
多くの問題は
最初からでかいわけでは
ない。

火種から始まり、
徐々に
育っていくものだ。

膨張、だ。

膨張すれば
それはいずれは
必ず
破裂する。

大膨張の上に
大破裂を起こしてしまう
人生を
送る人が
あまりに多くないか?

ちゃんと
問題を見ていない
からだ。

「ここが問題だよね」

はっきり受け止めない
からだ。

つづく

意図持ちすぎ

皆、
意図を持ちすぎ
だと思うのだ。

意志・意思は
大事だ。

でも、
ちゃんと自らの
意志・意思を
確認できたら、

あとは
臨機応変で
良いと思うのだ。

私達は
「現実」と「自分」
とのコラボで
生きている。

意図を持ちすぎると、
このコラボが
澱む。

本当は
「委ねればいい」

言いたいところだけど、

この言葉、
人によっては
誤解されやすいことが
わかってきたので、
今は慎重に使うことに
している。

委ねる、
ということを考えるあまり、
自分の意志・意思を知らず知らず
失ってしまう場合が
あるようなのだ。

もちろんそういうことでは
ない。

私達は
ちゃんと意志・意思
を持つからこそ、

肝心なところで
委ねることが
できる。

この意味が体験的に
わかる人は
「委ねよう」と思えばいい。

イマイチまだわからないなぁ、
という人は
まずは自分の意志・意思を
しっかり持ち、

その上で「現実」をよく見て、
聴いて、
感じて、

そして
「こんな展開がいいな」という
プロセス面における
意図や思惑に
執着しないよう、

臨機応変に
自分の行動を
変えていこう。

プロセスは
どうでもいいや、
というくらいに。

ここに執着すると
結局は
何も見えなくなる。

何も
わからなくなる。

気がついたら
自己満足、
自己欺瞞、
そして
傲慢になって
しまうこともあるんだな。

知らぬ間にね。

つづく

覚悟をもつ?

「覚悟」
というと、
仰々しいものに
なってしまう。

もっと
良い言葉は
ないだろうか?

スッと
一本の筋の
通った
想い。

それは
小さくも
揺るがない。

揺るがないように
しようと
努力している
わけではない。

最初からもう
揺るがない。

いや、
揺らぐとか
揺るがないとか
そういった次元には
ない。

ただ、
そこにある。

あるがままの
想い。

変わることの
ない。

その時その瞬間の
たまたまの
現象ではない。

ずっと
確かに存在
しているもの。

実在
しているもの。

そう。

始めからずっと
そこに
あったもの。

これからも
ずっと
在り続けるもの。

永続的に。

永遠に。

願い
という言葉。

祈り
という言葉。

それらはとても
近いが
でもやっぱり
ちょっと違う。

もっと
自然なもの。

もっと
果てしない
もの。

もっと
身近なもの。

そういった
想いというか
気持ちというか、

そういった
存在が
自分の中に
あるのだと気づいた
その瞬間から、

明らかに
人生は変わる。

自分は
変わる。

本来の人生、
本来の自分
へと。

なんだ
この道だったな。


わかる。

思い出す。

我に
返る。

それを側から
見れば、
う〜んやはり

「覚悟」と
なっちゃうかなぁ。

覚悟の権化。

今日もある
クライアントさんを
観ながら。

つづく

まだ伝えない

10の言葉を
説明を加えながら
懸命に伝えようと
するよりも、

たった一つ、

その一つだけを
伝えれば
その瞬間に
その人の奥深くに

響き渡る言葉。

私はいつも
それを探す。

探し出すまでは
無闇に
伝えない。

ということを
大切にしている。

結局その言葉が
見つからず、
何も伝えられなかった
としても

それはそれで
いい。

まだ伝えるべき
タイミングでは
なかったのだ、

思うことにしている。

言葉。

それは
魂が乗るもの。

ただしその
魂とは、

私の魂であり、
私の目の前の
その人の魂
である。

二つの魂が
響き合う

そんな一言が
ある。

それを探す
喜びと
冒険心にも似た
スリル。

いつも間にか
これが私なりの
コミュニケーションの
楽しみ方に
なった。

言葉とは
単なる記号かも
しれない。

しかしその
記号を

「架け橋」

にするのは、
その言葉をかけ合う
その人達同士だ。

共に
架け橋を探し合う
コミュニケーション。

それが
企業でも家庭でも
友達同士でも
恋人同士でも、

もっともっと
広まればいいな
と思う。

つづく

現実がゆがむ

現実が
ゆがんで見える
感覚って
わかるかな?

そういう経験は
あるかな?

実は私は
昔からたまに
あって、

多分、病気では
ないと思うが、

その度に、
ハッと我に返る
心地がしたものだ。

いかんいかん、
この
目の前の現実に
捕らわれ過ぎだ
と。

この現実は
現象だ、
と。

実在は、
本質は、
別にある、
と。

実在の反映が
この現実だ、
と。

その真理を
忘れるな、
と。

言葉で表すと
きっとそんな風な
自分自身に対する
警告に近い
刺激を与えてくれた。

そんな風に
もちろん
明確に認識したわけ
ではないが、

実はこういった
ことが
小学生の頃から
私にはあった。

なので
そういうもんなんだ、

捉えていたのだが。

今振り返れば
ありがたい「警告」
だった。

何か意識のチャンネルが
カチッと
その度に、
変わったから。

その後の自分の
行動が
明らかに変わった
から。

我に返った行動が
でき、
結果的に
思わぬ道が開く
ことが多かった。

もちろん、

現実は
現実である。

現実は
夢幻だ、
という考え方も
あるが、

実は私は
その捉え方は
あまり好きではない。

現実は
現実だろ。

ちゃんとここに
それが
あるではないか、
と。

たとえ幻だったと
しても、
少なくとも
私は
それがここにあると
確実に思っている。

であれば
それこそが現実。

そう思えている
自分を否定しては、
人生を否定するのと
同じではないか、
と。

それは今でも
変わらないが、

でもやはり
一方で、

私達は「現実」に
縛られ過ぎだ。

きっとそれが
「3次元に縛られる」
ということ
なのだろう。

この世は次元は
いくつもある。

すべての次元に
それぞれの
「現実」がある。

現実を大切に
する、
というのは、

3次元だけでなく、
あらゆる次元の
現実を
大切にせよ、

ということ
なのだろう。

そんな視点に
立てた時、

明らかに
私は何かから
少し解放される。

きっとそれが
「自我からの解放」
なのかも。

いずれにしても
重要なことを
ハッと思い出す感覚
なので、

これはこれからも
ずっと
大切にしていきたいな。

つづく

行くか

光が見えるので、
そちらに向かう。

まっしぐらに。

遮るものは
何もない。

ダイレクトに
行ける。

なら、
まっすぐに
行くだけだ。

止めるとしたら
それは
自分自身の
躊躇の心
だけだ。

遮るものは
何もない、
というのは

私の独りよがりな
見方だろうか。

現実が
見えていない
だけだろうか。

傲慢になって
いるのだろうか。

節穴になって
いないだろうか。

そんな疑念が
起こるし、
自分を信じきれている
わけでもない。

だがしかし、

それがどうした
と言うのだ。

何をどう見ても、
そこには
何もない。

何もない
空間の向こうに
光だけが
燦然と輝いている。

しかもそこまで
ひとっ飛びで
行ける。

何かの罠か?

笑わせるな、
私よ。

心配性な
私よ。

そろそろ
そういうのとも
おさらば、だ。

罠でもいい。

節穴でもいい。

傲慢でも
いい。

今、見えている
ものと、
この、爽快な
感覚を

私は信じることに
する。

だから
ダイレクトに
行く。

そう決めた。

つづく

貝だな

まるで貝のように
じっとして
動かない。

完全に
閉じてしまって
いる。

外界との区切りを
明確につけ、

自分一人の世界に
閉じこもっている。

外から
コンコン
と、
叩いてみるが、

まるで
反応がない。

おい、生きてるか?

と問うが、
当然のように
無反応。

これじゃ
生きていても
死んでいるのと
同じじゃないか。


呆れる。

そっとしておく
他ない。

しょうがないので
私は
そこを後にした。

海深く、
閉じたままの
自分。

あれも
紛れもなく
私だ。

私の一つの
姿。

永遠に
あのままか?

いつかは
扉は開くのか?

あの中には
どんな私が
眠っているのか?

固く閉ざされた
殻。

あなたは
いくつ持ってる?

つづく

過去は変わる

もし
「過去」から
今の自分に、

風が吹いて
きたら、

そういう感覚が
したら、

その風の出どころ
である
「過去」の出来事に

意識を
集中させてみよう。

可能であれば、
その出来事を
イメージの中で
良いので、

もう一度
体験してみよう。

その時とは
まったく異なる
印象の出来事に

書き変わる

可能性がある。

事実とは
事実ではない。

私達が
事実だと思っている
過去の出来事の
全ては

私達の解釈
だ。

事実とは、
今この瞬間の
目の前にある現実
以外にはない。

私達は
解釈の生き物。

だから
過去の解釈は
何かのきっかけで
容易に変わる
ことがある。

過去の解釈が
変わることで、

ここからの
自分自身の歩み方が
大きく変化する
かもしれない。

過去を振り返る
ことは
しないのだ、

ということを
信条としている人も
多いが、

もし
過去から風が
吹いてきたら、

それは合図だ。

もう一度、
その過去を
体験し直そう。

つづく

コーチだけじゃ

決意が
固まる人。

決意が
崩れる人。

この二極化が
一気に
高まっている。

あまりに
人生展開の
差が激しい。

これまでの
その人の
生き方・生き様が

ここにきて
一つの結果として

まざまざと
現実に
反映されている。

恐ろしいな、
この世は、

思う。

反面、
ようやく
正常な世の中に
なってきたか、

ホッとする自分も。

誤魔化せば
何とかなる。

誤魔化せば
切り抜けられる。

という
小賢しさが
とうとう
本当に通用しなく
なってきた。

嬉しいが、
厳しい
この世だ。

私はずっと
それを
待ち望んできたが、

いざこうやって
まざまざと
目の当たりに
すると、

少し愕然と
するね。

今後ますます
私は、
私が大事にしてきた
ことを

できるだけ
多くの人達に
丁寧に
伝えていこう。

「コーチ」の範疇に
いることはできない
と、
ここ2〜3年
決めてやってきたが、

本当に
そうなってきた。

もう
「コーチ」だけじゃ
間に合わん。

つづく