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自分の中に
ある
大樹のように
揺るがぬもの。
その存在を
常に
感じ続けるだけで、
生き方は、
その一歩一歩は、
180度変わる
ことがある。
次の一歩を
どうするか?
今ここにある
選択肢のうち
どれを
選ぼうか?
それらを
大樹を感じながら
するのと、
そうでない状態で
するのとでは、
選択の質が
変わる、
というよりも
もっと根本的な
自分という
存在そのものの
土台のような
何かが
変わる。
その体験を
多くの人達が
できるといいな、
という
願いを込めて、
私はそれを
「真本音」
というキーワードを
使い、
皆様にご紹介して
きた。
それからもう
20年経つ。
思えばちょうど
2002年から
なのだ。
これを本質的に
始めたのは。
しかし今でこそ
私は
そういった生き方が
できるが、
20年前は当然の
ことながら、
一日のほとんどを
私自身が
大樹を忘れていた。
今も未熟だが、
当時の未熟ぶりは
それこそ
大したものだった。
でも
思うのだ。
未熟な私
だったからこそ、
真本音を
必死に
語り続けることが
できたのだと。
「未熟だから
できません」
「もっと成長してから
始めます」
・・・というのは
だから私は
違うと思う。
志があるならば、
想いがあるならば、
今、
始めよう。
人間は
どこまで行っても
未熟だ。
未熟なのが
人間。
そこに価値が
ある。
未熟の極みが
真本音を語り続けた
ところに
価値があると、
20年やり続けて
本当にわかった。
始めようと
思うことは、
今、
始めよう。
今、
始めよ。
つづく
私達は
新たな自分に
変わる時、
これまでの
心の立ち位置を
変える。
そのため、
これまで
当たり前のように
立っていた
心の中の大地を
捨てる。
イメージで言えば、
その大地から
飛び上がり、
空中を
フワフワ漂いながら、
次の大地を
探す。
当然、
その間は
地に足がついて
いない。
心は
落ち着かず、
不安定になる。
その不安定さが
嫌で、
とにかくどこでも
良いから、と、
たまたま感じる
新たな大地に
スッと降りてしまう
人は多い。
しかしここで
安易に
決めてしまっては
ならない。
せっかく
自分を大きく
変化させるんだ。
本当に自分が
納得のいく
大地を
自分自身が見つける
まで、
待っていて
あげてほしい。
フワフワの
ままで。
落ち着かない
ままで。
むしろ
その不安定さを
楽しもう。
今は。
つづく
目の前が
鏡のように
なる。
すぐ目の前に
私がいる。
目と目が
合っている。
何かを
訴えかける目。
その
言葉にならない
メッセージを
確かに
受け取る。
瞬間、
ハッと
目が覚める。
胸の真ん中
あたりに
電流のような
何かが
走った感触と
ともに、
わずかな
空虚感。
そして、
わずかな
高揚感。
新たな芽が
生まれた、
恐らく。
これから
私は
その芽を
育てるのだろう。
それは
今後の私に
とって
新たな武器と
なる。
道を切り拓く
ための。
これまでの
自分とは
別物になるという
覚悟が
もうすでに
私の核を
揺さぶり続けて
いる。
その最初の
兆しだ。
ここからは
本当に
未踏だ。
つづく
自分の心の中心に
意識を
向けてみよう。
思いっきり。
自分の心の中心に
入っていこう。
中心に入ったら、
さらにその中に
中心があるはずだ。
その中心にまた
入ったら、
さらにその中にも
中心が
あるはずだ。
さらにさらに
その中心に入れば、
さらにその中に
中心が・・・。
このように
心の中心の中心の
中心の・・・
と、
行けるところまで
進んでみよう。
すると、
最後に行き着く
本当の本当の
中心には、
何がある?
・・・・・・
私の場合、
これをすると
最後の中心には
「探究心」
があった。
何をするにしても、
その物事の
本質を
掴みたい。
人として
人生を生きる
ならば、
人生の本質を
掴みたい。
「人」の本質を
掴みたい。
知りたい。
わかりたい。
理解したい。
・・・といった
飽くなき探究心
だ。
私の場合、
それがすべての
原動力に
なっていたようだ。
恐らくこれは
一生続くだろう。
これがあるからこそ
私は今の
お仕事を選んだ
のであり、
これがあるからこそ
私は
今後の私のビジョンを
目指し続けている。
逆に言えば、
この探究心を
疎かにしてしまう
ような
人生の選択を
私はしないだろう。
これまでも
してこなかったし、
これからも。
自分の本当の
中心にあるものを
大切にすることで、
私達は
自らの人生を
大切にできる。
もし
自分の人生に
何となく
言葉に言い表せ
ないような
不満足感や
虚無感などが
あるならば、
それは
自らの中心を
大事にできていない
からだろう。
皆さんの中心の
中心の中心の・・・
最後の中心には、
何がある?
つづく
自分自身の
変化。
皆さん自身の
変化。
特に
能力面の変化。
そこに意識を
向けることを
お勧めします。
自分は
どこが
パワーアップしたか?
もしくは、
自分は
どこが
パワーアップしようと
しているか?
最初は
わずかな変化の芽
かもしれない。
でも、
自らそれを
見出し、
大切に育てて
ください。
私自身も
どうやら
メッチャ変化し始めて
いるみたい。
私の周りの
人達にも
それを感じます。
皆さんも
そうではないかな。
今は
変化の時。
加速のための
変化の時。
私達は
ここからさらに
加速をしようと
しているんだね。
つづく
なんか最近、
とても重要かつ
基本的かつ
今、本当に必要な
問いが
浮かんでくる。
ぜひ、
しっかりと
自由に
発想してみよう。
・・・
今、私が
最も向き合うべき人は
誰?
・・・
今、私達は
重要な転換点にいる。
ずっと
そう言い続けている
みたいだが、
恐らくここ数ヶ月が
長い目で見た
場合の
本当に重要な転換点
なのだ。
その転換点の
中でも
特に重要なポイントが
あり、
この
2月10日前後は
そのポイントに当たる
と
私は直観している。
そこで今日は
上記の問いだ。
今、ここだからこそ
向き合うべき人は
誰だろう?
その人から
逃げては
ならない。
その人を
逃しては
ならない。
安易な答えは
いけない。
本当の答えを
今、
見つけ出そう。
つづく
人間とは
面白いもので、
・・・恐ろしいもので、
とも言えるが、
自分の「立ち位置」
を変えるだけで、
人生の選択の
仕方が、
答えの出し方が、
真逆にさえ
なってしまう。
私自身で言えば、
私はもうすでに
「コーチ」
ではない。
「コーチ」という
立ち位置に
ない。
もっと別の
立ち位置にあり、
そうしたのは
どれくらい前だったか?
一年くらい
前かな?
もっと前かな?
忘れてしまったが
とにかく
「立ち位置」を
変えた。
で、改めて
振り返ってみると、
それにより
私の人生やビジネスの
進み方は
とてつもなく
大きく変わったように
思う。
「コーチ」のままだったら、
間違いなく
今のここには
いない。
今のこの現実とは
まったく異なる
現実を
生きているはずだ。
もちろん、
私は自分の意志で
「立ち位置」を
変えた。
だから今の現実は
私の望んでいるもの
であり、
ここからの道も
望んでいるものだ。
しかしもし、
自分の「立ち位置」を
自分で決めて
いなければ、
そんな人生は
恐ろしいよな、
と
改めて思った。
「立ち位置」
・・・別の言葉で
表現すれば、
「私は何者で
ありたいか?」
「何者として
進みたいか?」
である。
今の私には
この問いに対して
「コーチ」とは
まったく別の答えが
ある。
ここには
書かないけど。
あなたは
どうだ?
あなたは
何者として
進む?
ちゃんと明確に
決めよう。
今は決める
ときだ。
つづく
今回は、
問いを一つ。
・・・
私は、何をカタチにするために
生きているのだろう?
・・・
自分自身の
深いところへ
投げてみよう。
この問いは
かなり
難しい問いだ。
答えがすぐに
わかったとしたら、
それを「答え」と
せずに
さらにもっと
深いところにある
答えを
見つけ出して
ほしい。
「カタチ」
の定義は
人それぞれだが、
私達は
何かを「カタチ」に
するために
生まれてきた。
その
自分自身との
約束を
思い出すときが、
今だ。
つづく
人生において
飛び立つチャンスは
何度もある。
しかし、
本当に飛び立つ
べき時に
それをしないと、
その生き方が
癖になる。
そして、
その癖のまま
チャンスを何度も
逃すことになる。
そのうちに
自分自身のその
生き方に対して
自分自身が
(無意識的に)
腹を立て、
自分のことなのに
自分にそっぽを向く
という状態になる。
私はそれを
「真本音が
くさった状態」
と呼んでいる。
くさる、とは
本当に腐ってしまった
という意味ではなく、
気が滅入って
もうどうでもいいや、
となってしまう
あの状態である。
自分の真本音
すら
自分のことに
呆れてしまうのだから、
その人の周りにいる
人達は
言わずもがな。
あの人はもう
変わらんよ、
何をやっても。
と
諦めた状態だ。
そうなるともう
みんな、
その人に対しては
本音を言わなくなる。
建前の話、
適当な関わり、
表面上だけの
仲良しこよし、
となるか、
もしくは
無関心
となる。
正直、これは
自業自得だ。
私も
サポートのしようの
ないことが
多い。
でも、
そういう人達も
最初から
真本音がくさって
しまっていた
わけではない。
一つ一つの
大小合わせた
たくさんの
人生のチャンスを
自ら
向き合わないように
し続けた
結果なんだ。
一つ一つの
積み重ねだ。
自分自身との
信頼を高める。
自分の真本音
との
信頼を高める。
そういう生き方
こそ
大切であり、
そのためには、
チャンスの時は
飛び出そう!!
だ。
つづく
黒い泡のような
ネッチョリしたものが
心の中にあるのを
感じると、
あぁまた
もらっちゃったな
と
思う。
エンティティ。
ストレスの
濃度の濃いやつ。
実体化したやつ。
最近は
ますます増えている。
進もうとする人を
進みたくない人達が
妨害する。
それによって
進もうとする人の
心にエンティティが発生
するのではない。
進みたくない人達、
妨害をする人達の方に
エンティティは
発生するのだ。
人のことを
妨害する。
それに対して
最も憤りを感じるのは
妨害している
その人自身だ。
自分のそういった
生き方に対して、
非常に強い罪悪感を
発生させ、
それが
エンティティとなる。
ところが
それがあまりに濃く
辛いものだから、
本人は
蓋をする。
だから本人は
気づかない。
でも
エンティティは確かに
そこに存在し、
私はそれを
受け取ってしまうのだ。
受け取ることで、
誰がどのように
罪悪感を感じているか
が、
ある程度は把握できる。
私の場合は
それを仕事に活かせる
ので、
まだ良いけどね。
エンティティは
人から人へ伝染
するので、
妨害する人の
エンティティが
進もうとする人に
伝染することもある。
実に厄介だ。
人をあーだこーだ
妨害するより、
もっと自分自身を
大事にし、
自分の道を進めば
良いのに。
といつも思うのだが、
なかなかそうはいかない
のも人間だ。
だから
ここはあえて
こう申し上げたい。
進む人達よ、
まずはまっしぐらに
自分の想いに
素直に行こう。
周りに気兼ねを
し過ぎるよりも、
時には周りを
振り切っても
良いから、
一直線に
進んでみよう!
つづく
ストンと
大地に立つ。
しっかり
自分の足で
立つ。
向きたい方向を
向く。
そして
そちらに向かって
歩いてみる。
どうせなら
徹底的に
歩きたい。
納得いくまで
歩き続けたい。
自分が選んだ
大地と
自分が定めた
方向ならば、
たとえそれが
本当に自分が望んだ
ものと違ったとしても、
その過程そのものに
価値が生まれる
だろう。
人生は、
間違っているか
正しいか
ではない。
自分の意志で
場を選び、
自分の意志で
歩き続けるかどうか、
だ。
そうである限り、
どんな道を
進んでも、
必ず一つ一つに
「完了感」
が生まれる。
この道では
なかったと
わかっても、
ここでは
やるべきことを
やり尽くしたな。
得るべきものを
丁寧に
得ることができたな。
・・・と。
100%やり切った
その納得感。
それが
「完了感」だ。
これを
得たら、
すかさず
次に行こう。
「完了感」の
ある者には、
必ず
次のステージへの
扉が開いている。
「次に行こう」
と
明確に
決めればそれは
すぐにわかるよ。
つづく
人間の
美しい部分
醜い部分、
すべてを知りたい
と
ずっと願ってきた。
もともとは
「超」のつく
人間嫌い。
しかし
私の知らない
私の無意識は、
ずっと
人間の本質も
表面もみんな
知りたいと
願ってきた。
・・・と
今になってわかる。
じゃなければ
この仕事には
就かなかっただろう。
2月が来た。
もうこの仕事に
実際に関わって
26年だ。
確か、
私が中心に行なう
研修にデビューしたのも
2月だった。
若手社員向け
研修だった。
今でも内容は
覚えている。
当時の私なりに
ずっとブラッシュアップを
続けた
思い入れの深い
研修だから。
思えば
最近の私は、
そのデビューの頃の
私の年齢と
同じくらいの人達と
一緒に
ビジネスをしている。
今の彼らを
見ていると、
当時の私とあまりに
出来が違うので
びっくりする。
まぁ、私の出来が
ひどすぎた
というのもあるが。
今の私が
当時の私と出会ったと
したら、
あぁこの講師の研修には
出たくないな、
と
思うだろうな。笑
まぁ、我欲が
強すぎたよ、
当時は。
こう考えると、
やっぱり人は
成長する。
本人に意志さえ
あれば。
人の美しさも
人の醜さも
私の想像を絶する
ものだった。
つまりは、
自分の美しさも
自分の醜さも
ということだ。
26年やっているが、
今でさえ
日々、びっくり
している。
人の奥の深さ。
これだけは
尽きることは
ないな。
つづく
まったく予期せぬ
方向から
風が来る。
生きるとは
そういうことだと
思う。
予期できるように
なることが
人としての成長である、
と
思い込んだ
こともあるが、
それはまったく
違った。
その事実を受け入れる
ことで
私の人生は
変わった。
楽しくなった。
真本音の度合いが
どれだけ
高まっても、
意識の次元が
どれだけ
高まっても、
風は思わぬ方向から
私を驚かす。
むしろ、
経験を積めば
積むほど、
風の難易度が
高まっている。
それがまた
楽しい。
予測がつくから
進める、
だから予測のできる
自分になる、
というのは、
同じ場所に
居続ける生き方
だ。
それでは
人生の意味は
ない。
どれだけ
想定外の風に
見舞われても、
その風
そのものを
味わいながら、
楽しく進む。
楽しく進む、
というよりも
その方が断然
楽しい。
だから
真本音の度合いが
高まれば高まるほど、
私は
未来を予測しなく
なった。
今のみに
集中する。
その結果、
「今」とは
「永遠」なんだ、と
わかった。
そして
結果として、
未来が見通せる瞬間が
増えた。
「見通せる」
とは
「予測」
ではない。
具体的に何かが
わかるのとも
違う。
ただ、
「何か」が
わかるのだ。
とてつもなく
重要な「何か」が。
それは
言葉にならない。
私の場合は特に。
しかし
その「何か」が
見通せるために、
「今」ここにおける
判断が
とても明確に
わかる。
この一歩を
どう進めば良いのか?
が
わかる。
理屈でなく。
そしてそれをすると
さらに
予測不可能と
なる。
私の範疇を
「すべて」が
超えていく。
それがまた
実に楽しい。
風を
楽しもう。
風とは
予測できない
もの。
それが摂理。
風を
楽しもう。
それが人生だ。
つづく
あなたの
身体の外側に、
暗くて
重いものは
ないか?
例えば、
身体の前方で
身体よりも
もっと下の方に。
例えば、
身体の後方で
身体よりも
もっと上の方に。
他にも
人によって
場所は様々。
しかし
身体の外側に
それはあるから
とても
気づきにくい。
身体の外側、
と言っても
それはあなたの
心の中のものだ。
あなた自身が
無意識に
自分の身体の外側に
それを
追いやっている。
拒絶しながら。
その
暗くて重いもの
と、
面倒でも
ちゃんと
向かい合った方が
いい。
それが何か?
を
ちゃんと見つめた
方がいい。
見つめ、
観察するだけで
いい。
あるがままに
受け止め、
肯定も
否定もせず
そのままに。
そんな意識を
向け続ければ、
それは
だんだんと
消えていく。
成仏していく
ようなイメージ。
「消そう」
などとは
思ってはならない。
ただ、
見つめるだけ。
可能であれば
ちょっとやさしい
眼差しで。
あなた自身の
心だからね。
あなたがちゃんと
見つめれば、
成仏するんだ。
見つめないから
暗く重くなり、
ずっと
あなたにストレスを
与え続けてきた。
あなたの
エネルギーを
奪い続けてきた。
やさしく
見つめるだけだ。
あなたの
身体の外側にあるけど、
あなた自身の
心だ。
つづく
私の中に
待ち受ける
私がいる。
内部から
じっと
外を窺っている。
何かのタイミングを
待っているようだ。
身じろぎも
せず。
待つ
と決めた以上は
決して
動かない。
その瞬間が
訪れるまで。
もし
訪れることが
なかったならば、
それはそれで
しょうがない。
サッパリと
諦める。
その覚悟が
あるからこそ
待っている。
気配が
近づけば
目を開き、
遠ざかれば
目を閉じる。
じっと
落ち着いて
静かに
している。
が、
いつでも
一気に飛び出せる。
そんな
自分でいる。
疲れそう?
もう
慣れたよ。
つづく
「核」
を逃すと
すべてが観えなく
なる。
「核」のない
ことは
私はやらない。
一切。
逆に、
「核」が漠然で
あったとしても、
その存在が
確かに
感じられる場合、
そして
その「核」を
探究し続けたい
場合、
他の誰もが
やらなくても、
私は
それをやる。
思えばずっと
そういった
人生だった。
仕事にしても、
随分と
難しい道を
たどって来たものだ
と
今になって
つくづく思う。
でも私は
この道に
「核」
を感じ続けてきた。
それを
見極めたい
と
ずっと思い続けて
きたし、
今もそうだ。
探究型の
人生。
それが
私の望む人生
だ。
人生の
望む姿というのは
人、それぞれだ。
でも、
私のように
何かを探究し続けたい
特に、その物事の「核」を
探究し続けたい人は
増えているのでは
ないか。
答えの「存在」は
わかるけど、
その答えそのものの
「中身」が
わからない。
そういった場合の
何とも言えない
ワクワクさ。
私はずっとそれを
求め続けてきたように
思う。
実は
ここ数日、
私が探究し続けて
きた
いくつかのことが、
バタバタバタ、っと
続け様に
「答え」が
わかったのだ。
もちろんその
「答え」が
真実かどうかは
わからない。
しかしそれは
私自身が
「納得」できる答え
だ。
そこに
たどり着いた時、
私は
開放感、と共に、
ちょっとした
寂しさ
と共に、
さらに
「今を楽しむ」
感覚が
高まった。
これまでずっと
「???」
だったことが
今はもうその
「???」
はないのだ。
すると
とても面白い。
「今」
がよりクリアに
体験できるように
なった。
そして恐らく
私は
また次の探究の対象を
見つけるのだろう。
この世は
わからないこと
だらけ。
特に
「人間」に関しては
そう。
まだまだ
無限のワクワクが
あるな。
つづく
「自分を
混乱させたい」
という
強い念を
無意識に持ち、
自分の知らない
ところで
自分を
無意識的に
混乱状態のままに置く。
・・・ということを
する人がいる。
しかも
真本音レベルで。
つまりそれは
「今の自分」
にとって
必要な状態。
あえて
混乱し続ける
という
不安定状態を
維持する、
という
真本音の選択だ。
特に
大きな脱皮や
自己開放、
もしくは
次のステージに
進む自分となる
ために
それをする。
ところが
中途半端な
セルフコーチングを
することで、
その必要な混乱
を、
自分で無理に
抑え込んでしまう
人が多い。
せっかくの
「真本音の混乱」
から
逃げてしまうのだ。
私はコーチ
として、
それを阻止する。
あえて
強い言い方だけど。
でもやはりそれは
阻止だ。
つまり
コーチとして
あえて
混乱を助長する。
もっともっと
混乱を招き、
その混乱から
自力で脱出できない
ように
するのだ。
当然、
恨まれる。
でも
やる。
こういう時
なんだ。
やっぱり
人には
サポート役が
必要なんだな、
と。
当然、
私自身も含めて
ね。
ちゃんと
混乱する時は
混乱
し尽くそう。
その向こうに
しか
真の出口は
ないのだから。
つづく
何か
念の塊のような
ものがあると、
私はその中に
閉じ籠る。
念と
一つになる。
その念を
全身で感じる。
解釈する
前に。
言語化する
前に。
自己理解
というのは、
本当は
自分の中にある
言葉を探す
ことではない。
言葉になる
前のものを
そのまま
あるがまま
に感じ取る
こと。
それが真の
自己理解に
つながる。
しかしそれは
そうそう
簡単なことでは
ない。
だからまずは
言葉
から始める。
でも、
セルフコーチングを
ずっとやり続けている
人達は
改めて思い出して
ほしいのだ。
そのことを。
言葉
が
自分
ではない。
言葉
になる
前のものを
それこそが
実在だが、
それを
ちゃんと
理解しようと
してほしい。
もし
言葉にすると
しても
その前に
ちゃんと
感じ取ってから。
感じ取った
後に
言語化すれば、
その「ズレ」も合わせて
理解できる。
もちろん
言葉はとても
大切だ。
実在に一番
ピッタリくる言葉を
ちゃんと
探し出すことも
大切だ。
でも
言葉の前にこそ
本当の本質は
あるのだ、
ということは
忘れてはならない。
つづく
昔から
一人の時間が
好きで、
20代初頭は、
一人で山に
入り、
ずっと孤独の時間を
過ごしたりしていた。
誰もいない。
今ここで
もし自分が死んだら、
誰も気づいて
くれないのだな、
という
あの異様な雰囲気。
今から考えると
ちょっと
懐かしい。
一人になると
もう
孤独だった。
一人=孤独
だった。
今は
違う。
今でも
たった一人に
なったり、
周りをすべて
シャットダウンして
自分の心の中に
閉じ籠ることも
ある。
あえて
そうするのだが、
しかしそれでも
孤独
にはならない。
なれない。
一人になれば
なるほど、
すべて
とのつながりを
感じてしまうから。
しまうから、
という表現も
変なものだが。
つながりを
感じるのは
もちろん幸せな
ことだ。
ずっと
心の深奥では
満ち足りている。
不安になる
ことがない。
もちろん
心の表面に
様々な不安は
ある。
しかし
それらの心達を
やさしく見守るだけの
ゆとりが
常にある。
すべてと
つながっていると
わかるから。
で、
時々
その「つながり」
そのものを
シャットダウンする
ことも
できるようになった。
そうすると
孤独を
感じられる。
ゆとりが
できたからこそ
思えることなのだが、
孤独もやはり
一つの
人間らしさだ。
時々
孤独を感じることで
逆に
自分を取り戻す
こともできるだろう。
当然、
昔の孤独と
今感じる孤独は
違う。
昔は本当の
孤独なので
深刻だったが、
今は
孤独そのものを
味わえる。
でも
本当の孤独
であることに
違いはない。
人間遊び、
か?
いや、
遊びではない。
やはり
本物の孤独
だ。
でも、
やさしく感じられる。
山には行けないが、
山と同じ
空間
は、
いつでも創り出せる。
自分のために。
すべて、
セルフコーチングを
探究し続けた
成果だ。
つづく
波が迫り来る
海の
深みへ深みへと
向かって行く。
どんどん
深くなるのに、
底はずっと
見えたまま。
波の圧は
凄いのだが、
それに怯まずに
進む自分がいる。
行手は
大海原だ。
どこに向かうのか
何をしようと
しているのか
何もわかって
いない。
ただ、
まるで波に
逆らうかのように
進む。
海水を
何度も飲み込み
ながら、
溺れそうになる。
それでも
進みを止めようと
しない。
なぜに?
と
考える余裕も
ない。
ただ、進む。
ふと
見ると、
私の目の前に
私の背中が
見える。
必死に進む
私自身の
背中。
横波が来た。
溺れそうに
なる。
私は
背中の私を
咄嗟に支えた。
瞬間、
私は
支えられた私
になる。
後ろから
私を支える
何者かがいる。
それが誰か?
を
考える余裕も
ない。
それでも
前に進む。
私は
支えられる私
になったり、
支える私
になったり。
海は
ますます
深い。
波は
ますます
荒い。
でも
底は見える。
真透明な
海。
ふと、
何かが
わかった
気がした。
あぁこういうことか、
と。
私はその時、
人間であることを
あきらめた。
あきらめたら
海に
沈んで行った。
そして私は
人間に
なれたんだ。
つづく
心の奥の
ざわめきを
感じているかい。
怖いかい。
でも
今は、しっかりと
耳を澄まして
みよう。
なんと言って
騒いでいる?
それは
あなたの
心か?
本当に。
ひょっとして
誰か別の人達の
心ではないか?
皆の思惑。
皆の意図。
真実の想い
ではなく。
余分な
ざわめき達。
それらを
真面目に
受け取りすぎて
いないかい。
向き合うことは
大事。
でも
向き合うだけで
いいよ。
ちゃんと
向き合えば
余分なざわめきは
浄化されていく。
向き合う
以上のことは
しなくていい。
そして、
余分なもの達が
浄化され
それでも
残るもの達。
それが
真に受け取るべき
もの達だ。
それは
自分の意志も
あるだろう。
みんなの意志も
あるだろう。
そこはもう
区別しなくて
いい。
すべてを
愛そう。
自分の想い
みんなの想い
場の想い
・・・それらすべては
意図せずとも
ちゃんと
統合・融合されて
いく。
今のあなたの
生き方ならば。
背負い過ぎる
必要はない。
ただ
向き合えば
いい。
今のあなたの
真摯さならば。
つづく
あなたは
今、
何かを壊そうと
している、
・・・とする。
自分の中の
何か、
だ。
それは
あなたの中に
ずっと
在り続けた
大切なもの。
それをあえて
壊そうと
している。
新たな人生の
展開を
喚起するために。
・・・とした
場合、
何を壊そうと
しているのだろう?
これを
明確にした方が
良い人は
今、多い。
多くの人が
変わろうと
している。
人生の
「展開の仕方」
を
変えようと
している。
つづく
無理な炎を
立てる
必要はない。
静かに
進めばいい。
モチベーション?
ゼロでも
いいじゃないか。
ただ、
今することは
わかる。
それを
する。
炎を立てる
必要はない。
ただ、
する。
エネルギーの
浮き沈みに、
私達はもっと
素直であれば
いい。
エネルギーは
高ければ良い
という
ものではない。
すべては
調和のために、
私達の本能は
働いている。
だから、
そのまま
で良いではないか。
それができる
人こそ、
本当に必要な
その瞬間に、
炎を超えた
光を
自ら取り出すことが
できるんだ。
つづく
私は、
人と会う時、
たった一言の
メッセージを
残すために会う
と
言っていい。
その
「たった一言」
とは何だろう?
というのを、
毎度、
人によっては
何時間もかけて
明確にする。
明確には
するが、
本当にその一言を
お伝えするかどうか、
は
その時の
その場に任せる
ので、
せっかく明確に
できたメッセージを
言えずに終わる
場合も多い。
しかしそれでも、
私はこれを
やり続ける。
お仕事だけじゃ
ない。
プライベート
でも、
家族に対しても、
毎度
同じだ。
人間関係を
大切にする、
とは
こういうことでは
ないか、
と
思っている。
だって、
「その時のその人」
とは、
一期一会
だからね。
つづく
本当に
一貫性のある人には
柔軟性が
あるもんだ。
自分の一貫性を
守ろうとは
しない。
むしろ
もっともっと
自己成長を望むし、
もっともっと
未知の領域に
進もうとする。
もっと言えば、
本人には
一貫性を取ろう
という意識すら
ない。
意識しなくとも
一貫している。
筋が通っている。
それが
真の一貫性だ。
逆に、
真、ではない
一貫性の人は
多い。
それは
自分を守るための
一貫性であったり、
自分のこれまでの
成功体験や
過去や
こだわりや、
そういったことに
執着することで
発生する
一貫性もどき。
それは単なる
悪い意味での
頑固、
に過ぎない。
残念ながら
そういう人の道は
みるみる
狭まっていく。
人も
離れていく。
真の一貫性
には
根元がある。
根元に
人生の願いが
ある。
そこが
揺るがないから
こそ、
スーッと
自然な筋が通る。
その筋には
弾力があり
柔軟にしなり、
どんな強風にも
折れることが
ない。
やっぱり
カチコチは
弱いね。
力を抜き、
自然体で立ち、
風と共に
進む。
そんな人が
増えるといいな。
もう、
これまでの
自分は
いいじゃないか。
これまでの
こだわりは
いいじゃないか。
もう、
新しい時代
新しいステージ
だよ。
変わったんだ。
真の一貫性
で
進む時代だ。
つづく
あなたの
「水源」
とは、何だろう?
あなたの
エネルギーが
最も豊かに湧き出るのは、
その源は
何だろう?
私達は
外発的なエネルギー
のみで
生きているわけでは
ない。
内発的な、
つまりは
自分の内側から
生まれるエネルギーも
豊富だ。
ただ、
その「水源」を
掘り当てていない
人は多い。
自らの「水源」を
見つけ出せると
強い。
外発的なエネルギー
を
もらわなくとも、
自らの意志で
動ける。
そしてその
自らの行動が
また源となり、
回りに回って
外発的なエネルギー
となって
返ってくる。
源として
生きる。
そのためには、
自らの「水源」を
見つけることだ。
「水源」とは
透明だ。
つまりは、
あなたの最も
透明な
純粋な
想いだ。
それは何?
あらゆる
不純物を
流し切った後に
残る、
それは何?
つづく
心の中を
ゾゾゾッと
蠢くものがある。
ヒヤッと
する。
コイツが
蠢くときは
危うい。
私は私のことを
まったく
考えなくなっている。
私のこの
行ないは、
本当に正しいか?
ただの
自己犠牲では
ないか?
と問う。
ゾゾゾッと
蠢く。
やめよ、
と
私は私に言う。
これ以上は
ダメだ。
私が私を
止める。
自惚れては
いけないのだよ。
一人の
人として。
もう
ここまでだ。
涙が
どれだけ出ても
もう
ここまでだ。
つづく
世の中の混乱を
見ていると、
こちらの心も
混乱してくるが、
これは
区別した方が
いい。
世の中は
世の中。
私とは
違う。
と。
環境の動揺に
対して
揺れる心は
当然、ある。
それは
心が、反射、
もしくは、反応
しているだけだ。
その反射・反応が
私達の心の
すべてではない。
反射・反応を
じっと見つめる
自分がいる。
世の中の動揺を
じっと見つめる
自分がいる。
世の中は
動揺し、
私の心も
それを反射・反応
しているな。
と。
そう、
じっと見つめる
自分の場所に
いつも居ればいい。
私達は
反射・反応
ではない。
反射・反応
は、
ただの
反射・反応
だ。
区別を
しよう。
そして、
揺れ動くもの
達を、
そのまま観察し、
そのまま
存在承認し、
放っておき、
意図を持たず、
思惑を持たず、
ただ、
自分の意志を
待てばいい。
私達は
意志を持っている。
意思を
持っている。
その事実を
忘れずに、
じっと待てば、
自らの意志・意思
は
浮上する。
心の「真」の
部分から。
そして
意志・意思で
動こう。
私達は、
意志・意思だ。
つづく
迷い、
が
私達を成長させて
くれる。
だから
しっかりと
迷わねば
ならない。
自分は
迷ってはいない。
・・・などと
ごまかしては
ならない。
自分の迷いと
対峙できる人。
それが
人生を
切り拓ける人。
私達は
大事な局面で、
肝心な
ところで、
迷うように
できており、
とことん迷い、
答えを出す
という
過程を経ることで、
自己の真本音
を理解していく。
真本音度合い
が高まる人
とは、
迷うべき時に
しっかりと
迷う人だ。
自分自身で
本当に納得の
答えを
見つけるまで。
妥協の答えは
ダメだ。
理想の答えに
執着するのも
ダメだ。
最善の答え。
最善の一歩を
スッキリ
見出すまで。
とことん
迷いと
対峙しよう。
つづく
最大スピードで
走りたい、
という欲求が
あるならば、
やってみると
いい。
これまでの
限界を超えた
スピードを出したい
と思うならば、
やってみると
いい。
今は、
「やってみる」
と良い
時期だ。
「流れ」が
できている
からだ。
私達が
2021年末までに
しっかりと
準備をし終えた
成果が、
今だ。
ここでやらねば
いつやるの?
と言っても
良いくらい。
だから
自分の想いと
欲求に素直に、
全力疾走
しよう。
一つの節目の
前に
ちゃんと
やるべきことを
やり遂げる、
ということが
いかに大切なことか
を
私達はしっかり
実感できるだろう。
昨年までの
努力が
今年の「自由度」
となって
現れる。
全力を
出せば出すほど
報われる。
全力を
出せば出すほど
さらに次へ。
手応え
足応え
歯応え
のある日々を
始められるよ。
つづく