チームパフォーマンスコーチ

意志を問われている

 

風が

吹いている。

 

強い風だ。

 

一方向から

というよりも、

 

様々な方向から

突風も伴い

吹き荒れている。

 

最も

危険な風だ。

 

私達は

今その中に

立っている。

 

ここからさらに

進むかどうか?

 

吹き荒ぶ風の

中を

あえて進まねば

ならない

ことはない。

 

風の動きを

感じながら、

 

風が止む瞬間に

前に一気に

進む。

 

実は私はそれを

最もお勧めするが、

 

しかし

その方法でしか

進めない、

 

というのも

あまりに選択肢が

狭い。

 

風が吹いて

いようと

いまいと、

 

どの状態でも

進める私達で

ありたい。

 

現実や状況は

よく観察し、

 

現実や状況は

よく受け入れ、

 

できることと

できないことを

区別し、

 

自らの能力も

客観的に見つめ、

 

その時その瞬間の

選択をするのが

最善だ。

 

最善の道を

行けばいい。

 

だが。

 

それをいつでも

逸脱できる

私達でも

ありたくないか?

 

いつでも

逸脱できる私達

だからこそ、

 

最善の選択を

し続けられる。

 

そういうもの

ではないか?

 

「最善」を

「守り」の口実に

してはならない。

 

「最善」とは

あくまでも

進むための選択だ。

 

進まないのを

風のせいに

してはならない。

 

あらゆる

現実の中で

 

自分自身の

 

私達自身の

 

意志は

意思は

 

何か?

 

ということだ。

 

私達は今、

その意志(意思)を

問われているんだ。

 

つづく

 

落ちたって飛べ

 

自分に

翼が生えたようだ。

 

しかし

まだ一度も

使ったことはない。

 

飛べるかどうか

わからない。

 

いや、

というか

飛び方なんて

さっぱりわからない。

 

でも

翼は生えた

ようだ。

 

・・・たったそれだけの

あやふやな

存在感と

確信にもならない

確信を信じて、

 

崖の上から

大空に向かって

あなたはジャンプした。

 

そうしたら案の定、

 

落ち始めた。(笑)

 

わーーーっ!!

 

とあなたは

叫びながら

落ちていく。

 

飛び方が

わからないのだから

どうすれば良いか

当然、わからない。

 

ただ、

落ちていく。

 

こんなはずじゃ

なかった!

 

何もわからないのに

飛び降りてしまうなんて、

私はなんでそんな

馬鹿なことをしたんだ!

 

と、

後悔したところで

もう遅い。

 

あなたはもう

落ち始めている。

 

しかも、

ジャンプしたのは

あなた自身では

ないか。

 

確信にもならない

確信を

自ら信じたのは

あなた自身ではないか。

 

だったら

落ちたってしょうがない。

 

でも,

 

落ち始めたから

と言って、

そこでただパニックになり、

 

すべてを諦めてしまう

 

必要は

まったくない。

 

落ち始めたって

関係ない。

 

あなたは

あなたのそのあやふやな

確信を最後まで

信じろ。

 

それは

あなた自身の

確信だ。

 

それを信じられるのは

あなただけだ。

 

そして、

なぜあなたは

そこまでして

ジャンプをしたのか?

 

何を目指して

ジャンプをしたのか?

 

大空の先に

何を見ていたのか?

 

それを

思い出せ。

 

そして、

落ちようがどうしようが、

 

それを見よ。

 

それを

目指し続けよ。

 

そのあなたの

生き様が、

 

そのあなたの

翼を

動かすんだ。

 

あなた流の

動かし方でね。

 

つづく

 

わからないなぁ

 

「わからない」

ことは

とても良いことだ。

 

「わからない」

から

「わかろう」

とする。

 

それが

生きる原動力の

一つだ。

 

幼い子ども達も

そうだ。

 

好奇心の塊。

 

わからないことを

わかろうとし、

 

わかった瞬間に

 

とてつもない

笑顔となる。

 

これこそが

私達の生きる力。

 

よく思う。

 

ある人が

言われた。

 

「夢は

そう簡単にわからない

からこそ

楽しいじゃないか」

 

「夢は

そう簡単に叶わない

からこそ

楽しいじゃないか」

 

と。

 

私もそう思う。

 

そして私は

 

「未来は

わからないからこそ

楽しい」

 

とも思う。

 

1秒先の未来が

わからない。

 

というのが

この3次元の世界の

最大の魅力の

一つだ。

 

だから私達は

必死になって

未来を予測したり

見通そうとする。

 

未来を

自ら創り出そうと

する。

 

その一連のあらゆる

プロセスに

価値がある。

 

そして

その価値は、

 

「今この瞬間」

 

を最高のものに

することで

さらに高まる。

 

「最高」とは

「最善」

ということだ。

 

「最善」とは

自分の「理想」の想いと

今の「現実」とを

両方大事にして

初めて得られる

発想であり、判断であり

選択だ。

 

最善の選択を

今この瞬間に

し続ける生き方。

 

この生き方自体が

 

「わからない」

 

完全調和する。

 

今この瞬間を

本当に大切に

生きている人は

 

「わからない」

を本当に

楽しめるのだ。

 

それこそが

真本音で生きる

ということだ。

 

つづく

 

熟成を待て

 

ふと浮かんだ

発想。

 

イメージ。

 

キーワード。

 

そして、

言葉にならない

感覚。

 

それらが

浮かぶことは

実に素晴らしいことで、

 

それらは

すべて宝物だ。

 

ところが私達は

そういったもの達が

浮かぶと、

 

すぐに解釈に

入ってしまう。

 

ちょい待って!

 

言いたくなる。

 

「解釈」は

もっと後でいい。

 

浮かんだものは

「そのまま」で。

 

何も加えず

何も引かず

 

ただそのまま

放置しよう。

 

宝物があるな、と

自覚したままで

放置しよう。

 

まとめる必要も

ない。

 

分類分けも

しなくていい。

 

何もしない。

 

ただそのままで。

 

これが最も

効果の高い

熟成の仕方だと

私は思う。

 

「熟成」を

自然の摂理に

任せてしまう。

 

なるがままに

任せてしまう。

 

するとある瞬間に

それらは勝手に

動き出す。

 

もしくは

私達を

動かせてくれる。

 

それは多くの場合、

「気づき」

として顕在化する。

 

それまで

待てるかどうか。

 

ここが

ポイントだね。

 

つづく

 

説明で悩むな

 

ゴチャゴチャ

ゴチャゴチャ

 

「説明」を

しようとする自分が

いる。

 

「説明」のための

言葉が

溢れてくる。

 

うっせーなぁー!

それら言葉達を

私は

投げ捨てる。

 

「説明」など

要らない。

 

「説明」をしなきゃ

先に進めないなら

その道ではない

ということだ。

 

と、

ある時から私は

そう決めたようだ。

 

もちろん

一般的に「説明」は

大切だ。

 

「説明責任」という

ものもある。

 

でも

それらとは次元の

異なる部分で

 

私は一切の

「説明」なしに

進むことに決めた。

 

約2年前の

ことだ。

 

・・・という事実を

先程、自覚した。

 

あぁなるほど!

 

と思う。

 

「説明」を

諦めてから、

明らかに物事の

進展の仕方が

変わった。

 

明らかに

仲間が増えた。

 

明らかに

私は楽になった。

 

「説明」も

「説得」も

必要のない道が

あるのだ。

 

そこが

私達の行く道だ。

 

そここそを

真剣に探すのを

第一優先と

するといい。

 

わざわざ

壁に向かう必要は

ない。

 

最初から道は

あるんだよ。

 

つづく

 

静かに問おう

 

今日はシンプルに

一つの問いを

投げよう。

 

とは言え、

だいぶ難問かも。

 

いつものこと

だけど、

 

すぐに答えが

浮かんだからと言って

満足しないで。

 

それはまだ

表層の答えでしか

ないから。

 

答えは

無限にあなたの

奥から

掘り起こされるかも

しれないよ。

 

では、問いです。

自分自身に問うてね。

 

 

『私が

永遠にやり続けたい

たった一つのことは

何だろう?』

 

 

あなたの中には

思いもよらぬ答えが

多分、

新たにできているよ。

 

つづく

 

真に学ぶ

 

本当に深く

物事を学ぼうという

意志を持っている人は

 

実に謙虚だ。

 

なぜなら

学べば学ぶほど

 

わからなくなる

からだ。

 

真剣に

探究すればするほど、

「さらにその奥」

があることに

気づき、

 

その「わからなさ」に

茫然とする。

 

しかしそれを

探究しようと

決めている人は、

 

その「わからなさ」に

敢然と向かっていく。

 

そこで生まれるのが

謙虚さだ。

 

その「深さ」に

対する

畏敬だ。

 

自然の摂理への

真摯さだ。

 

だから

学べば学ぶほど、

 

「自分」というものの

小ささを

知ることになる。

 

「自分」の儚さも

浅さも、浅はかさも、

脆さも、弱さも

知ることになる。

 

学べば学ぶほど、

自分を

壊したくなる。

 

でも壊れるのは

怖い。

 

でもそれでも

勇気を奮って

壊していく。

 

次々に。

 

そして

「壊す」ということの

尊さを知る。

 

「壊す」ことは

進化そのものである

ことを知る。

 

そして

それをしている

自分自身の深さを

知る。

 

自分の「わからなさ」

を知る。

 

だから自分自身を

探究したくなる。

 

自分を探究しながら

自分の探究したい

ことを

探究し続けるように

なる。

 

それが

真に学ぶ

ということだ。

 

つづく

 

真の力の発揮を

 

人は、

本当に

力を抜いている時にこそ

 

莫大な

力が出る。

 

・・・という瞬間に

私は何度も遭遇した。

 

人もそう、

私自身もそう。

 

真に力の抜ける

人こそが

 

真の力を

発揮できる。

 

力を抜く

ことと

動かない

ことは

まったく別物だ。

 

動いている時にこそ

力を抜ける

し、

 

まったく止まっているのに

力を消費しきっている

という

こともある。

 

表面的な自分の

振る舞いと、

 

力を抜く、抜かない

 

別次元の話だ。

 

あなたの中に

芽生えている

その光は、

 

あなたの

力の集中を

待っている。

 

あなたが

真に力を抜き、

 

その上で

 

真に100%の力を

一瞬に込めることが

できた時、

 

その光は

初めて

発現する。

 

あなたの光は

そんなあなたに

なれるのを

 

じっと

待ち望んでいるんだよ。

 

つづく

 

世界を育てよう

 

自分の中に、

 

『新たな世界』

 

生まれた人が

多いのではないか。

 

探してみて

ください。

 

あなたの体の

どこかに、

「新たな世界」

 

小さく

 

とても

小さく

 

でも確かに

力強く

 

芽生えているのでは

ないかな。

 

それが

見つかったら、

 

それが

どうすれば

順調に成長できるか?

 

考えてみてください。

 

そして

毎日毎日

その「世界」に

栄養を与えてください。

 

「栄養」とは

あなた自身の

生き様。

 

そして

在り方。

 

あなた自身の

願いへと向かう

エネルギー。

 

それらが

そのまま「栄養」

となる。

 

大切に

育ててね。

 

みんなで

それぞれの「世界」を

それぞれ

育てよう。

 

そうしたら、

自然にこの世界も

変容していくね。

 

いよいよ

本格始動だな。

 

つづく

 

眠い

 

もし今、あなたが

ものすごく睡眠を

欲しているのなら、

 

よく眠った方が

いい。

 

眠ることでしか

為し得ないことが

私達にはある。

 

眠る、とは

一時的に

顕在意識のスイッチを

切ることでもある。

 

と同時に

実在のレベルでは

一度、

リセットをする。

 

いったんすべてを

ゼロにする。

 

しかし

目が覚める時には

元通り、

昨日までと同じ

自分ではある。

 

しかしそれは

本当は

同じではない。

 

いったんリセットし

もう一度

ゼロから

同じカタチに

創り直したものだ。

 

それを

毎日必ず行なう

わけではないが、

 

しかし、

 

それを念入りに

しっかりと

やらねばならない

時がある。

 

そんな時は

とてつもなく眠く

なる。

 

ちゃんとリセットと

再生ができるよう

 

ちゃんと

寝た方がいい。

 

ここは

無理をしては

いけないよ。

 

つづく

 

期限は大事だ

 

私達の真本音は、

自分自身の成すことに

「期限」

を決めている。

 

期限のない仕事が

ないのと同様に、

 

期限のない

人生のミッションは

ない。

 

期限にちゃんと

間に合うかどうか、

によって

その後の展開は

根底から変わってしまう。

 

ちょうど10年前、

当時、「実在」というものを

急激にキャッチしたり

感じ取ったり

体験できるようになった

私は、

 

自分の人生ミッションの

最初の「期限」を

知った。

 

それは

3年後(=2013年)の

8月1日午前0時ジャスト

という、

明確なものだった。

 

その「期限」までに

具体的なあることを

成さなければならなかった。

 

それは当時の私から

すれば

「とても無理だろう」と

最初から諦めるしか

ないような、

難易度の高いミッション

だった。

 

しかし

自分自身が真本音で

決めていたことだ。

 

そのために私は

ここにいるのだと知った

私は、

そこからガムシャラに

なった。

 

本当の真剣さ

というものを学んだのは

そこからだったろう、と

今、振り返ると思う。

 

そして3年後に私は

何とか

ミッションを達成した。

 

達成できたのは、

なんと

2013年7月31日の

23時57分だ。

 

つまりは、

期限の2〜3分前。

 

ギリギリの

達成。

 

あの時のヒヤヒヤと

安堵感は

今でも昨日のことのように

思い出す。

 

そして。

 

実は、

その達成の直後に

新たなミッションが生まれた。

 

その期限は

そこからちょうど7年後。

 

つまりは

2020年8月1日午前0時ジャスト

だった。

 

そこからの私は

とにかく、

この期限を守るために

必死になった。

 

そして、5日前に

そのミッションも

ついに達成できた。

 

なんと今回も、

達成は

2020年7月31日23時57分。

 

またしても

たった2〜3分前の

ギリギリの達成。

 

7年前と同じような

ヒヤヒヤと安堵感。

 

しかし今回は

本当に疲れた。

 

ギリギリ間に合った時、

思わず私は

「疲れた〜〜〜っ!!」

一人叫んでしまったよ。

 

と同時に

「もう勘弁してくれ〜〜っ!」

と。

 

でもやっぱり

私はすべて自らの

真本音で決めてここにいる。

 

だから当然の

ことであるが、

 

次のミッションが

始まった。

 

ギリギリだが、

しかし結局は

順調だ。

 

そして、

ミッションを達成すれば

するほど私は

自由になる。

 

流れは

さらに大きくなる。

 

7年前と今回の

大きな違いは、

 

7年前は

私は一人だった。

 

しかし今回は

仲間と共に

それができた。

 

さて、

次はどうなるか?

 

ちょっとくらい

休めばいいのに、

自分自身に対して

思うのだが、

 

もう私は

次のミッションに向けて

全力疾走に

入っている。

 

「期限」があるからこそ

私達の人生には

メリハリが

できるんだ。

 

つづく

 

ちゃんと感じた上で決めよう

 

美しいものと

醜いもの。

 

世の中には

どちらもある。

 

心の中も

同様だ。

 

両方あるのが

事実であり

真実だ。

 

それをそのまま

受け止めることが

現実と向き合う

第一歩だ。

 

とは言え、

 

醜いものを見ても

「醜い」とは

思ってはならない、

 

と言う人が

いる。

 

それも不自然だ。

 

良いではないか、

 

何を思ったって。

 

人間は

感じる生き物であり

解釈する生き物だ。

 

美しいものは

美しい。

大好きだ。

 

醜いものは

醜い。

大嫌いだ。

 

・・・それでいい。

 

素直でいい。

 

ただ、

その心の「反応」を

そのまま

行動の「反応」として

出してはならない。

 

すべてを

あるがままに受け止めて、

 

それによる

心の動きもあるがままに

受け止めて、

 

すべてを

素直に受け止めて、

 

その上で

 

次、

自分はどう動こうか、

真本音で決める。

 

それだけの

ことだ。

 

反応のままに

行動することを

「素直」とは言わない。

 

自分にとっての

真の素直さとは

「真本音で動く」

ことだ。

 

だから、

素直に受け止めて

素直に動く、とは

 

現実と向き合って

真本音で動く、

 

ということと

まったくもって

イコールなんだよ。

 

つづく

 

素直度合いチェック

 

一つの物を

じーっと見つめ、

 

100%の意識を

そこに

向け続けていると、

 

自分と

その物の

区別がつかなくなって

くる。

 

よかったら

やってみてほしい。

 

結構、

簡単にできる。

 

しかしこれをしようと

する時、

 

自分の心が

大きく荒れることが

ある。

 

まるで台風のような

心の渦が

溢れ出る。

 

それらは皆、

ストレスと捉えて

いい。

 

それだけのストレスを

自分は抱えている

ということだ。

 

そして当然、

そういった場合は

 

その物に

意識を100%向ける

こと自体が

難しい。

 

だから、

その物と自分が

区別がつかなくなる

という感覚は

わからない。

 

ということは

分離したままだ。

 

一つに

なれないのだ。

 

残念なことだが、

このように

ストレスが多く

分離したままでしか

いられない人は

 

人との関係も

同じこととなる。

 

自分自身との

関係も

同じこととなる。

 

人とも自分とも

分離したまま。

 

一つになる瞬間が

ない。

 

そうなると私達は

だんだんと

すさんでいく。

 

孤独に

陥っていく。

 

自分と何かの

区別がつかなくなる

状態、

つまりは

一つになる状態

は、実は

 

私達は毎日

自覚しないままに

無意識に

結構やり続けているものだ。

 

しかし

これができない

ということは、

 

普通ならできることが

できないのであるから、

とても

辛いことなんだ。

 

生き方を

変えた方がいい。

 

人との関わり方も

見直した方がいい。

 

そのままであれば

いつか病気に

なってしまうだろう。

 

もっと自分に

素直になることだ。

 

本当は自分は

どうしたいのか?

 

行動に移せなくても

良いから、

自分自身の気持ちに

光を当てることだ。

 

私の好きなある作家の

ある本の中に、

こんな一文があった。

 

「きっと人間は、

自分のなかに

淀んでいるものを

さらけだしてしまわないと、

他人の言葉を

受け容れることが

できないのであろう。」

 

その通りだな。

 

つづく

 

すでに変わったんだよ

 

もう少し

意図的に

自分の意思を

明確にした方がいい。

 

そうしないと、

これまでのあなたの

パターンに基づいた

判断や行動に

なってしまう。

 

あなたは

変わった。

 

大きく

変わった。

 

それを自覚

するためには、

 

一つ一つ

ちゃんと

自分が次にどうしたいか?

行動レベルで

認識するんだ。

 

その場合に、

 

「これまでの私だったら

次はこうするだろうな」

 

だけど、

 

「今の私は本当は

どうしたいのだろうか?」

 

という形で

丁寧に自分自身に

問うと良い。

 

これまでの自分と

今の自分を

完全に区別するんだ。

 

その断絶を

感じるんだよ。

 

でないと

せっかくここまで来た

意味がなくなってしまう。

 

あなたは

変わったんだよ。

 

大きくね。

 

つづく

 

地に足、ついてる?

 

物事の判断を

する時に、

 

ちゃんと

地に足がついている

感覚が

あるかどうか?

 

大切にするといい。

 

自分は

ちゃんと大地を

感じ取っているか?

 

自分の足で

立ち、

自分の足で

一歩一歩前に進む、

という

当たり前の実感が

今、

あるかどうか?

 

もしこれが

ない状態であれば、

私は

いかなる時も

そこで判断することは

やめる。

 

例えば、

やる気満々で

エネルギーが

とてつもなく湧いていて、

 

すべてを

引き受けてやる!

 

という

強い意気に

自分が満ちていたと

しても。

 

それでも

足元の感覚が

なければ、

判断しない。

 

自分は今、

お酒に酔っている状態

と同じである、

と認識する。

 

よく、

モチベーションの

高い時に判断をし、

 

モチベーションの

低い時には判断しない、

 

という人がいるが、

モチベーションの大小は

実は

物事の調和とは

関係がない。

 

「気分が乗っている時に進もう」

とする人は

必ず、

 

・・・そう必ず、

 

どこかで躓く

時がくる。

 

そうならない人は

これまで一人も

見たことがない。

 

心の調子が良い

とか、

物事の調子が良い

とか、

ではない。

 

意欲があるとか、

今は前向きとか、

でもない。

 

スッと

今ここに立ち、

 

クリアな眼差しで、

 

前向きな心も

後ろ向きな心も

 

順調そうな現実も

難しそうな現実も

 

ありとあらゆるものを

あるがままに

見つめられる

状態。

 

地に足がついている

時というのは

そんな時だ。

 

そんな時にしか、

私は

物事の判断をしない。

 

そして

そんな時が

一日のうちでずっと

続くような自分に

なるための

 

生き様を

大切にしている。

 

まぁそれが

真本音で生きる

ということだけどね。

 

つづく

 

未来との決別

 

とても変な表現

だが、

私達は誰もが、

 

「見張られている未来」

 

というのを

持っている。

 

その「未来」は

自分自身をじっと

見張っているのだ。

 

私達は無意識に

ずっと

その「未来」から

見張られ続け、

 

その「未来」から

怒られないように、

 

その「未来」を

裏切らないように、

 

その「未来」から

見捨てられないように、

 

頑張ってきた。

 

しかし実は、

その「未来」から

自由になることこそが、

 

私達にとっての

「本当の未来」

を築く歩みとなる。

 

そこで

ちょっとやってみよう。

 

あなたの

背後の、

上の方にずっと

意識を向けてみて

ほしい。

 

背中のちょっと

後ろ。

 

その後ろから

上に上にと

意識を上げていく。

 

何メートルくらい

上か?

ひょっとすると

雲くらいか?

宇宙にまで

出てしまうか?

 

などは

人によりけりだろう。

 

とにかく

背後の上の方に

意識を上げていくと、

 

その何処かに

 

「見張られている未来」

があるはずだ。

 

その「未来」は

一見、あなたの味方

であるような趣で、

 

しかし

厳しくあなたを

見張っている。

 

もちろん

「見張られる」こと

自体に

意味があった。

 

だからこそ

私達は精進できた。

 

しかしもう、

私達には「準備」が

整った。

 

もう、

見張ってもらう必要は

ない。

 

だから、

その「未来」には

去っていただこう。

 

やることは

簡単だ。

 

その

「見張られている未来」

に、

感謝の気持ちを

伝えると共に、

 

「もう私はここから

一人で行きますから」

 

毅然と決意を

伝えればいい。

 

そうしたら

意識を「ここ」に

戻し、

 

あとは

毅然と進めばいい。

 

たったそれだけ。

 

すぐにやってみて

ほしい。

 

つづく

 

何やってんの?

 

磁石の

N極とN極は

反発する。

 

S極とS極も

反発する。

 

であれば、

 

N極とS極を

くっつければ

いい。

 

なのに、

 

何がなんでも

N極とN極を

くっつけようと

する。

 

S極とS極を

くっつけようと

する。

 

場合によっては

強力な接着剤を

持ってきて

強引にくっつける。

 

なんで

そんなことを

するんかねぇ、

私達人間は。

 

もう少し

自然の摂理に

素直になっては

どうだろう。

 

重力は

上から下に

働いている。

 

持っている物を

離せば、

上から下に

落ちる。

 

無理に

下から上に落とす

必要はない。

 

なのに

それをしようと

する。

 

それができることが

凄いと言う。

 

それができる

自分が

凄いと言う。

 

もちろん

ある意味、凄い。

 

でも、

そこに本当に

意味はあるの?

 

それよりも、

自然の摂理に

素直になって、

 

もっと

本当に自分の

すべきこと、

 

自分が

しようと決めている

ことに

 

向かったら

どうだろうか。

 

 

「私は本当に

ここにエネルギーを

使うべきだろうか?」

 

 

今こそ

真剣に問いかけて

ほしい。

 

つづく

 

一つ自由になる

 

自由とは

何だろうか?

 

ずっとこの問いと

共に

私は生きてきた。

 

最初にこの問いが

浮かんだのは、

確か、19歳の時。

 

ということはもう

33年間も

この問いと共にいる。

 

もともと人類は

自由ではなかった。

 

だから

「自由になりたい」

という

渇望が湧いた。

 

自由でない状態

から

自由になることが、

 

我々人間にとっては

自由だった。

 

でもそれは

あくまでも

「現象」のレベルでの

話であり、

 

反応本音のレベルでの

話だ。

 

本来の自由とは

何だろうか?

 

・・・・・・

 

「脱皮」と

私が呼んでいる

大きな段差を超える

成長は、

 

それを超えることで

間違いなく

その人を

 

一つ

 

自由にしてきた。

 

私自身の経験も

そうであるし、

私のクライアントさん達も

みんなそうだ。

 

階段を一つ上がれば

一つ

自由になった。

 

ではその

 

「一つ」

 

とは何だろうか?

 

・・・・・・

 

「一つ」

とは

一つの枠を外す

ことだろうか?

 

いや、

なんかちょっと

違う気がする。

 

もっとそれは

別のことだ。

 

一つ

自由になる。

 

一つ

自由になる。

 

やはりこの表現が

妙にぴったりくるのだが、

 

やはりその意味は

わかるようで

よくわからない。

 

・・・・・・

 

では、

 

二つ

 

自由になることは

あるのだろうか?

 

この問いには

即答できる。

 

ない、

 

と。

 

私達は

どれだけ大きな脱皮を

しても、

 

たとえ段差を

二つ三ついっぺんに

飛び越えても、

 

それでも

 

一つ

しか

 

自由にはならない。

 

それが

人間だということが

何故だか

とてもよくわかる。

 

それが

人間の宿命だと。

 

・・・・・・

 

一つずつ

自由になっていく。

 

何がどうあっても

一つずつ

自由になっていく。

 

それが

人の道であり、

その道を進むことを

私達は

望んでいる。

 

しかし残念ながら

一生をかけても

一つも

自由になれなかった人も

多い。

 

しかしたとえ

そうだとしても、

それでも私達は

一つずつ自由になろう

とする。

 

人間の本能なんだろうな、

と思う。

 

今、

バタバタと

私の周りの人達が

一つ

自由になっている。

 

今日も昨日も

一昨日も

そうだった。

 

みんな

一つ

自由になっている。

 

自由とは

何だろうか?

 

その問いと共に

私はその様子を

ただただ

眺めている。

 

つづく

 

自力で超えるんだ

 

あなたの中心軸に

今、

どのような「大樹」が

あるだろうか?

 

よく観察して

ほしい。

 

昨日までの

「大樹」は

どうだっただろうか?

 

そして

今の「大樹」は

どうだろうか?

 

さらに

明日以降の「大樹」は

どうなっていくだろうか?

 

今、

「大樹」は

大きな変化の最中に

ある。

 

だからその変化が

わかるはずだ。

 

ありありと。

 

「大樹」が未来に向かって

どう育って行くか?も

 

よくわかる

はずだ。

 

その「変化」を

自覚してほしい。

 

そしてその「変化」が

本当にきちんと

成されるように

 

努力

してほしい。

 

具体的には

その「変化」とは

何がどう変わることなのか?

 

自分の考え方を

どう変化させ、

 

自分の行動を

どう変化させ、

 

自分の成果を

どう変化させることに

 

努力

すべきなのか?

 

それを

今は早急に

明確にしてほしい。

 

私達は今、

とてつもなく大事な

境目にいる。

 

一つの境界線に

たどり着こうと

している。

 

そこをちゃんと

超えられるように、

 

自分で自分の

「変化」を

 

マネジメント

してほしい。

 

ここは、

自力で

超えて行くところだ。

 

つづく

 

わかっていることがわかる

 

私達の心の奥の

奥には

 

泉がある。

 

それは

豊穣の泉

だ。

 

そこに

たどり着けると

いい。

 

泉の中に

意識を沈めると

 

その中に

浸り込むと

 

あらゆることが

「わかる」。

 

それは

言葉とか理屈とか

を超えた

ただの感覚に過ぎないが

 

「わかる」

ということが

わかるのだ。

 

そこにいると、

あぁもう

悩むことは何もない

のだな、

と思う。

 

私達が思い込んでいる

悩みというものは

ないのだ、と。

 

ただ、あるとすれば

必要な答えに

行き着くための

過程としての

試行錯誤だ。

 

その一歩一歩に

意味があるからこそ

すぐに答えには

行き着かずに、

 

右に行ったり

左に行ったり

立ち止まったり

行き過ぎたり

 

私達は繰り返す。

 

答えそのものにも

価値はあるが、

 

その答えまでの

道のりにこそ

 

その後へと続く

深い意味がある。

 

その意味とは

頭で理解できる

範疇を超えているが、

 

しかし

それはとても必要な

ものである

ということがわかる。

 

そういったことも

含めて、

私達はすべてを

わかっている、

 

ということが

わかるのだ。

泉に身を浸して

いると。

 

そして、

泉の中でじっと

していると、

 

様々な発想が

浮上する。

 

中には

意味のわからないものも

多いが、

 

それでも

その一つ一つが

宝物である

ということもわかる。

 

なんだ。

 

生きるとは

こういうことか、

 

わかる。

 

いや、頭では何も

わかっちゃいないし、

 

逆に

わかっちゃならない

ということも

わかるし、

 

わかるはずが

ないし。

 

人間も人生も

そんなに浅いものじゃ

ないし。

 

でも、

それでも、

 

あぁ自分はもう

すべてをわかっていて

やってるんだな、

 

ということが

わかるのだ。

 

そして私達は

また、

安心して

試行錯誤の毎日に

戻っていける。

 

豊穣の泉。

 

それは

毎日、毎日、

一日、一日、を

自らの真本音を大切に

生き続けることで

誰もが

たどり着ける場所だ。

 

つづく

 

今、漕ぎ出す?

 

一艘の舟が

ある。

 

自分一人しか

乗れない

手漕ぎの小さな

ものだ。

 

自分は

大海原に

出て行きたい。

 

目の前の

小さな舟では

とてもとても

大海原で無事でいられるとは

思えない。

 

しかし今の自分には

目の前の一艘しか

ない。

 

そんな時、

どうする?

 

無理なのを承知で、

それでも

舟を漕ぎ出す?

 

それとも、

もっとちゃんとした

船や仲間達が

手に入るまで

準備を進める?

 

・・・・・・

 

実はこれに

答えはない。

 

答えは自分で

決めるしかない。

 

どちらが正しいか?

ではない。

 

「その人にとって」

どちらが正しいか?

しかない。

 

その人にとって

正しいかどうか、は

 

真本音で判断するか

どうか?

 

とイコールであると

私は思っている。

 

その人の真本音が、

 

「今はこんな舟でも

それでも大海原目指して

漕ぎ出そう」

 

と判断すれば、

そうした方が良い。

 

たとえ

もしその結果として、

すぐに

転覆してしまったと

しても。

 

なんだやっぱり

ダメだったじゃないか。

 

と、

後悔する必要は

ない。

 

真本音で進むうちは

一時的な後悔は

あったとしても、

 

それは必ず

「次」につながる。

 

なぜなら

自分自身の真本音の

意志だからだ。

 

自分の魂の意志

だからだ。

 

何がどう起きようと、

どれだけ

しまったなぁ、と

後悔しようと、

 

結局は

それが真本音の意志

である限りは、

 

自分自身が

 

どこか納得している。

 

人間、

大事な部分が

納得していれば

先に進もうとし続ける

ものだ。

 

先に進むために

モチベーションを

上げよう!

 

ではないのだ。

 

自分自身の

根底の納得感が

 

自分を先に

進めてくれる。

 

ちなみに

私は、

 

まったく力もないのに

舟を漕ぎ出して

しまった口だ。

 

おかげで

随分とひどい目に

遭った。

 

いや、

自業自得だが

全部。

 

もちろん

何度も転覆した。

 

大海原どころか

最初は

岸辺を離れること

すらできなかったな。

 

でもおかげで

随分と

自力がついた。

 

そして

自力だけでは

どうにもならない

という事実を

 

ちゃんと

受け入れられるように

なった。

 

傲慢だったからな、

私は。

 

自分の力のなさを

ちゃんと知り、

受け入れるためには

やはりあれだけの

転覆が必要だった。

 

そして

おかげさまで

今は素晴らしい人達と

出会えた。

 

毎日笑いながら

大海原を進んでいる。

 

舟は相変わらず

小さなままだが、

 

小さなままでも

大海原を

旅し続けられるように

なったのは

大きいな。

 

しかし

以上は私の人生だ。

 

私の真本音の

判断だ。

 

あなたには

あなたの人生と

 

真本音の判断

ある。

 

さぁ、どうする?

 

つづく

 

今、大事な問い

 

今また

大事な問いが

ある。

 

それを

今のあなたに

投げよう。

 

 

『今のあなたが

見つめている未来は、

何年何月何日の未来?』

 

 

例えば

私であれば、

 

この問いを

自分に投げると、

 

2039年7月29日の未来

 

という

答えが浮かぶ。

 

そうしたら、

その未来に意識を

向ける。

 

向け続ける。

 

すると何か

浮かぶイメージが

あるかもしれない。

 

イメージはなくとも

何かの気づきや

発想や

メッセージのようなものが

あるかもしれない。

 

それらを得ることが

できたら

それらを大事にするが、

 

何も得られなかった

としても

問題はない。

 

大事なのは、

今のあなたは

その未来に

意識を向け続けると良い

ということだ。

 

そこに常に意識を

向けながら

一日を過ごしてみて

ほしい。

 

「今の自分」

からは得られない

何かを

得られるかもしれないよ。

 

つづく

 

逃げたくもなるさ

 

人間、

本当に逃げている

時は、

本人は

 

自分は逃げている

 

とは

認識しないものだ。

 

もし

認識できるので

あれば、

もうその時点でその人は

 

立ち向かっている。

 

逃げる自分を

自覚し

そのまま受け止める

ことは

かなりの覚悟が要る。

 

逃げる自分と

向き合うことが

できる人は

 

真摯だ。

 

自分に対しても

人生に対しても

 

そして

人に対しても。

 

逃げる自分は

見苦しい。

 

もちろんそんな自分は

認めたくないし、

見つめたくない。

 

だからついつい

そんな自分の存在を

感じ取ると、

 

私達はそこに

脚色をする。

 

それがあたかも

必然であり

 

必要であり

 

不可抗力であり

 

しょうがないことで

あり

 

しかも

自分の人生には

大切な経験であると

 

脚色する。

 

しかしそれらは

すべて

言い訳である。

 

自分で自分に対して

言い訳している

だけだ。

 

・・・という事実を

そのまま

存在承認できたら

 

私達はもっと

楽になれる。

 

そしてやはり

真摯になれる。

 

逃げる自分は

格好悪い。

 

その格好悪さも

全部含めて

存在承認できれば

いいね。

 

自分を無理に

正当化する

必要は、ない。

 

自分を

責め続ける

必要も、ない。

 

ただ、

 

あるがまま

 

で良いではないか。

 

そこに、

前に進もうと

する自分も

いるではないか。

 

進む自分と

逃げる自分と

 

もっともっと

いろんな自分と。

 

そこにあるものを

すべて

そのまま見つめて、

 

その上で

 

ちゃんと

自分で決めよう。

 

真摯な自分として

次の一歩を

決めよう。

 

つづく

 

それ、やめろよ

 

やっぱり

思うのだけど、

 

余分なことを

やり過ぎだよな、

みんな。

 

力を入れなくても

いいことに

力を入れている。

 

だから

不調和が起きる。

 

そして

さらに余分なことを

しなければ

ならなくなる。

 

もし

人生の展開を

変えたくば、

 

まずは

余分なことを

やめることだ。

 

本当に

必要だと思うこと

のみを

 

ただただ

シンプルに

 

行なうことだ。

 

何が余分で

何が必要か

わからないんです。

 

・・・と

よく言われるが、

 

本当は

わからない

わけがない。

 

自分の気持ちに

素直になる

だけだろう。

 

本当は

どうしたいのか?

 

何をしたくて

何をしたくないのか?

 

自分の人生には

本当は

何が必要か?

 

今、

何をすることが

最も必要か?

 

自分という人間は

自分だけだ。

 

だから

わからないはずが

ないんだよ。

 

つづく

 

大気圏か?

 

力を

入れ過ぎだ。

 

どうせ

物事は

なるようになっていく

のだから、

 

力を抜こう。

 

とは言え、

力の抜き方が

わからないか。

 

そういう場合は、

 

逆に

思いっきり

力を込めよう。

 

とことん

全力で

力を込めてみよう。

 

限界を

超えるまで。

 

大気圏を

超えてしまえ。

 

これ以上行くと

死んでしまう、と

 

思い込んでいる

境界を

超えてしまえ。

 

すると、

フッと力が

抜ける。

 

要するに

今が

中途半端なんだな。

 

中途半端が

一番良くない。

 

ずっと慢性的に

力を込めたままだ。

 

ゼロか100か。

 

どちらかに

してしまった方が

良い時は多いよ。

 

ゼロか100か。

 

いざとなれば

どちらかになれる

自分になると

いいよ。

 

そのためには

 

大気圏を

超えよ。

 

大気圏だと

思っているその境界は

 

実は本当の

大気圏ではない

ということが

わかるよ。

 

ただの思い込み。

 

ただ自分が設定した

枠に過ぎなかった

ことがわかるよ。

 

だから

超えてしまえ。

 

でも目的は

力を抜くためだ

ということを

忘れずにね。

 

つづく

 

そのモヤモヤは

 

真本音度合いが

高まると、

 

突然に

理由もなく

モヤモヤしてくることが

ある。

 

しかしそのモヤモヤは

反応本音レベルの

それとは根本的に

違う感覚だ。

 

「本当に」

モヤモヤするのだ。

 

それは

実在レベルのモヤモヤ

だからだ。

 

そして

そういったモヤモヤは

大切にするといい。

 

モヤモヤに

しっかり意識を向け

 

それが

どのような感情を持ち

何を訴えているのか

を知るといい。

 

多くの場合

そのモヤモヤは

 

怒り

 

であったりする。

 

しかも

かなり強く深い

怒りだ。

 

もしくは、

 

悲しみ

 

であったりする。

 

かなり強く深い

悲しみだ。

 

いずれにしても、

 

何がそんなに

腹立たしいのか?

 

何がそんなに

悲しいのか?

 

しっかりと

理解するといい。

 

それは

自分自身の人生の

方向性を

明確に示してくれる

こともある。

 

そこまでいかなくても、

少なくとも

 

明日

 

という一日の

意味と

自分のすべきことは

 

明確に示して

くれるよ。

 

つづく

 

頼らなくてよかった

 

心の中に

濁流がある。

 

激しい水の流れは

私を呑み込んだ。

 

私はこのまま

流されていくのか?

 

とも思うのだが、

 

私はただ

襲いかかる濁流を

見つめ続けた。

 

目の前に

長く張り出した

大樹の枝があった。

 

恐らく

これにつかまれば

濁流からは

逃げられるだろうな、

と思うのだが、

 

私は決して

それには

手を伸ばさなかった。

 

私は何の抵抗も

なく、

 

しかしただ

毅然として

 

濁流を見つめた。

 

濁流は

凄い勢いで

私を流そうとするのだが、

 

しかし

私は流れなかった。

 

なぜ私は

流れずにいられるのだろう?

疑問に思いながらも、

 

私は毅然と

そこに

立ち続けた。

 

そのうちに

先ほど枝を張っていた

大樹が

濁流によって

流された。

 

あの時あの枝に

頼っていたら

私も一緒に

流されたんだな、と

わかった。

 

うん。

 

流されるなら

流されるで

いい。

 

でも私は

ここに立ち続けると

決めている。

 

決めているのに

流されたら、

それはそれで

そこまでだった

ということさ。

 

そんな、ある種

呑気な気持ちで

私はまた

濁流を

見つめ続けた。

 

濁流は

まるで何匹もの

飢えた狼のような

激しい表情で

私に吠えた。

 

でもやはり私は

ただそれを

あるがままに

正面から見つめた。

 

そしてついに、

 

ある瞬間に

私はわかったのだ。

 

私はもう

ここからは

流されないな、と。

 

どのような流れが

私を襲っても、

私はきっと

このままだろう、と。

 

そう思えた瞬間から

濁流達が

可愛らしく観えた。

 

私自身は

とても楽になった。

 

「安易な道」

「楽な道」

似ているようで

まったく違う。

 

本当に「楽な道」を

見つけ出すには

 

覚悟と決意が

必要だ。

 

自分の足で

立ち続けようとする

意志が必要だ。

 

大樹の枝に

つかまるよりも、

 

自らの足で

立ち続ける方が

 

楽だった。

 

安易な道に

行かなくてよかった。

 

つづく

 

凡だな

 

聖徳太子さんが

十七条憲法の第十条

で書かれた言葉がある。

 

・・・

我必ず聖に非ず。

彼必ず愚に非ず。

共に是れ凡夫ならくのみ。

・・・

 

良い言葉だな

と思う。

 

この中に

 

『凡』

 

という文字がある。

 

平凡の「凡」であるが、

実は私は結構この文字

好きである。

 

以下は一般的に

言われていることではなく、

私なりの捉え方

だ。

 

・・・・・・

 

『凡』

の本質的な意味は、

 

「枠の前に立つ」

 

ということだ。

 

・・・とある時私は

人と向かい合っている

瞬間に思った。

 

漢字を見ると、

風かんむりの中に

点が書いてあるが、

 

この点は人。

 

風かんむりは枠。

 

枠の中に人が

いる。

 

私はこれは

人という存在の

本質的な意味を

現していると思う。

 

私達は皆、

枠の前に立つ存在

だ。

 

まずはそれを

自覚することが

最も大事だと思う。

 

そして、

今自分の前には

どのような枠が

あるのか?

 

今の私は

どのような枠を

超えることが

今後の私の人生において

大切なことなのか?

 

こういった問いと

真摯に向き合うことが

「凡」の本質であり、

 

人の本質だと

思うのだ。

 

「凡」は辞書で引けば、

「普通」とか

「ありふれた」とか

あるが、

 

常に何らかの枠の前に

立ち、

枠を超えて行こうとする

そのものが、

 

本来は、

 

私達にとっては

ありふれた普通の

行為であり

人生であるのだと

思う。

 

そして

そういった人生を

誠実に進めることが

人としての

本質的な幸せでは

ないか。

 

逆に

「凡」である自分を

認めないところから

私達には

あらゆる苦難や苦悩が

始まるのではないか。

 

私はそう

思うのだ。

 

しかも。

 

「凡」の風かんむりの中に

もう一つ点を

入れると、

 

それは

 

『風』

 

の略字となる。

 

そのもう一つの点とは、

私は

「魂」であり

「真本音」であると

勝手に解釈をし、

 

枠の前に立つ自分に

ちゃんと

魂や真本音を宿し、

それに素直に枠に

向かうことで、

 

私達は風になる

 

ことができると

思っている。

 

ちょいと

格好良過ぎかな?

 

つづく

 

落ち着けばわかる

 

一見、答えが

絶対にわからないような

ことでも、

 

落ち着けば

わかる。

 

落ち着いていないから

わからないだけだ。

 

落ち着けばいい。

 

ただしそれは

表面上の落ち着きでは

意味がない。

 

中心の

落ち着きだ。

 

まぁ、

自分の中心がわかる

だけでも

その時点でもう随分と

落ち着いている

ということになるけどね。

 

中心がわからない

場合は、

少し時間はかかるが、

 

落ち着かない心を

一つずつ

見つめていくしかない。

 

自分の中で

暴れたり、縮こまったり

している

落ち着かない心達は

皆、

 

「自分のことを

理解してほしい」

 

と思っている。

 

その気持ちを

満たすことだ。

 

一つずつ丁寧に

自分の心の声やつぶやきを

拾い上げて、

 

ただ、見つめる。

 

見つめるだけで

いい。

 

その気持ちを

何とかしてなだめよう

とか

肯定してあげよう

とか

 

まったくしなくていい。

 

ただ、

少しあたたかい眼差しで

見つめること。

 

本当は

こういったことが

日頃からできていると、

 

毎日簡単に

落ち着くことが

できるんだけどね。

 

でも定期的に

ちゃんとこのようにして

自分の心を

見つめることだ。

 

一つずつちゃんと

やっていれば、

 

ある瞬間に

スッと

落ち着ける。

 

心の座り心地が

変わるのだ。

 

お尻の下に

いろんな余分なものが

挟まっていたような

居心地の悪さが

フッと抜け、

 

普通に

シャンと座れるような

感覚だ。

 

あ、落ち着けたな。

 

とすぐに

わかるだろう。

 

そうしたら

自分の中心はどこだろう?

意識を向けてみよう。

 

中心軸

でもいい。

 

つまりは自分の中の

ブレない部分だ。

 

その存在を

感じ取れて、

かつ

心の座りが良くなったら、

 

その落ち着いた状態で

ようやく

 

今、迷っていること

今、悩んでいること

考えよう。

 

案外、

一瞬で答えが

出るかもよ。

 

つづく

 

もうすぐ完了だ

 

自分の中に

 

「花が咲いた」

 

ことを自覚しよう。

 

あなたはここしばらく

だいぶ

苦しんだはずだ。

 

ひょっとすると

これまでの人生で

最大ともいえるくらい

不安定に陥った

かもしれない。

 

絶望や虚無や

虚しさや、

 

エネルギーがゼロに

なったり

 

すべてに意味を

見出せなく

なったり。

 

その多くは

あなた自身が

自らにもたらしたもの

だ。

 

自分の

脱皮のために。

 

だいぶ

苦しかったろうな。

 

でも、

あなたの今回の

その大きな脱皮は

 

もうすぐ完了

しようとしている。

 

しっかり完了させる

ためには、

 

今回の脱皮によって

あなたの中に

何が芽生え、

 

そして

どんな花が咲こうと

しているのか?

 

もしくは、

どんな花がすでに

咲いたのか?

 

それをあるがままに

見つめることだ。

 

ひょっとすると

それは

まだほんの小さな

芽かもしれない。

 

しかしその芽は

今後のあなたの人生を

大きく変える。

 

それくらいの

インパクトを持った

芽だ。

 

あなたの宝物に

育つ芽だ。

 

しっかりと

見つめよう。

 

「この2週間で、

私は何が変わった?」

 

そう

問いかけ続けよう。

 

ほんのわずかな

変化が

 

あなたの芽の

ヒントだ。

 

つづく