チームパフォーマンスコーチ

エネルギー高過ぎ

 

自分の中から

湧き上がるものの

エネルギーが

高過ぎると、

 

自分自身が

ビビってしまう。

 

エネルギーを

持て余す。

 

そして

自分のエネルギー

なのに、

そこから逃げようと

する。

 

結果、

エネルギーに

巻き込まれ、

制御不能になる。

 

エネルギーが

高いが故に

自分を失う状態。

 

そんな人は

今、多い。

 

エネルギーが

枯渇することで

自分を失うのも

辛いが、

 

エネルギーが

高過ぎるのも

辛いものだ。

 

私がそういう時、

いつもするのは、

 

「エネルギーを主」

 

にする

ということだ。

 

つまり、

自分を保とうと

しないこと。

 

エネルギー制御を

最初から

諦めること。

 

自分自身の

エネルギーに

 

完全に

 

委ねることだ。

 

これをすると

大概、

わけがわからなく

なる。

 

まるで

気を失ったような

状態で

一日を過ごすことに

なる。

 

しかし

それでいい。

 

それをして初めて

新たな自分の

「核」

が見つかる。

 

一気にエネルギーが

高まった場合は、

これまでの自分で

いることを

諦めること。

 

これまでの自分の

核を

放棄すること。

 

それこそ

怖いことかも

しれないが、

 

でもそれを

しなければ、

 

新たな自分は

生まれない。

 

新たなエネルギーを

コントロールすることは

できない。

 

変わるのだ。

 

大きく。

 

変わる覚悟を

持つことだ。

 

つづく

 

砂城だったな

 

辛いことが

あった時、

 

その辛さを

背負い切った時、

 

生まれるものが

あるだろう。

 

ただでは

倒れない。

 

倒れる度に

光を得る。

 

しかしそれは

自己満足ではなく、

 

意図では

なく、

 

真にそこに

存在するもの。

 

その体験を

経なければ

決して

見つからない

もの。

 

でも、最初から

ずっと

そこに在り続けた

もの。

 

その光を

得れば、

 

ザザザッと

あらゆるものが

砂城の如く

崩れ去る。

 

なぜこんなにも

脆く淡いものに

執着していたのか、

笑えることも

ある。

 

そんな自分を

愚かだ、と

貶す必要はない。

 

それが

人間じゃないか。

 

光は

そこにある。

 

ずっとある。

 

辛くて挫けたら、

しっかり

挫けよ。

 

しっかり

倒れよ。

 

もう二度と

立ち上がれない

くらいに。

 

そこでようやく

見つかるんだ。

 

永遠の光

が。

 

つづく

 

楽しさの土台

 

自分の足元に

意識を

向けよう。

 

今の自分は

ちゃんと

地に足がついて

いるだろうか?

 

「大地」の

感覚は

あるだろうか?

 

「大地」を

踏みしめている

感覚は?

 

もし

「ない」場合は、

 

どうすれば

地に足をつける

ことができるか?

 

しっかり考えよう。

 

私達には

「守るべきもの」

がある。

 

その人その人

でそれは

異なるかもしれない。

 

「これを守らねば

私は不安で

しょうがない」

 

というものが

ある。

 

私達が

人生を楽しむ

ことができるのは、

 

その

守るべきものを

ちゃんと守っている

という

実感がある時

だけだ。

 

守るべきものを

守れていない

のであれば、

 

私達は

「楽しさ」を

本当に感じることは

できない。

 

では、

 

何を守ることが

できれば、

私は安心だろう?

 

そのためには

何が必要だろう?

 

何をしなければ

ならないだろう?

 

・・・そんな問いと

しっかり向き合い、

実行すること。

 

地に足を

つけなければ、

 

私達は

最速では進めない

生き物なんだ。

 

つづく

 

見ているぜ

 

自分という

人間を

 

自分の人生

という

ステージに

立たせる。

 

そこに立っている

自分は

どんな姿で

ありたいだろうか?

 

「生きる姿勢」。

 

あるクライアントさんが

おっしゃった

言葉だ。

 

とても

良い言葉。

 

これに尽きるな、

私は思う。

 

私達は

生きる姿勢を

問われている。

 

誰から?

 

自分自身

からだ。

 

自分は、

人生のステージに

立つ

自分自身の

生きる姿勢を

 

ずっと

 

いついかなる

時も

 

観客席からじっと

見つめている。

 

自分の

生きる姿勢は、

自分自身が

一番よく見つめている。

 

そんな自分に

恥ずかしくない

姿勢で

いつもいたいものだ。

 

今の自分は

ステージの上で

 

ちゃんと

スポットライトを

当てられるだけの

 

それだけの

価値のある

 

生き方を

しているだろうか?

 

格好良い自分

であるだろうか?

 

表面上の

格好良さだけでは

ない。

 

本質も形も

私の姿勢は今、

 

どうだろうか?

 

こう

自分自身に

常に問いかけることは

 

プロとして、

 

人生のプロ

として、

 

最も大事なこと

ではないか。

 

自分自身を

ガッカリさせない

生き方を、

 

その姿勢を、

 

私は大切に

し続けたい。

 

ある、

とても魅力的な

人の

生きる姿勢を

観て、

 

今日は改めて

そう思ったよ。

 

つづく

 

どっちだ???

 

二つの異なる

意見が

 

自分の中に

ある時、

 

しかも

その二つ共が

真本音だ、

思える時、

 

私はその

二つ共を

信じる。

 

そして、

その二つ共を

観続ける。

 

判断は

せず。

 

ただ、信じ

ただ、見つめる。

 

意図は

一切、持たない。

 

すると

その二つは

突然、

 

統合される。

 

・・・こともある。

 

もしくは、

まったく異なる

別の視点

別の視野

開かれる。

 

・・・こともある。

 

もしくは、

何も展開しない

こともある。

 

何も展開しない

場合は、

何も判断せず、

そのままである。

 

結局、

何も動かない

ということになる。

 

でも後から見れば、

それこそが

最善だった、

となる、

・・・こともある。

 

いずれにしても

頭を超えた、

 

思惑や意図を

超えた

展開となる。

 

私達は

そういうところに

生きている。

 

生きる、

とは

 

思惑を超える

ことだ。

 

つづく

 

このタイミングだ

 

東京は

雪、積もったのに、

なぜか

気分は3月

なんだよね。

 

不思議だね。

 

もう

春だ。

 

もうすぐ

桜が咲くムードに

私の心は

なっている。

 

妙にポカポカ

あったかい。

 

きっと本質的に

心が

あったまっている人が

私の周りに

多いのだろう。

 

「始まり」

の感覚。

 

良い感じ

だ。

 

さて。

 

一つ思う

ことがある。

 

誰かと誰かを

きちんと

結びつけたい

という

想いだ。

 

結構これ

難しいんだよね。

 

たとえ赤い糸で

繋がっている人が

いたとしても、

 

タイミングが

ズレれば、

良いご縁とは

ならない。

 

そういう場面を

これまでたくさん

見てきた。

 

人生は

タイミング。

 

出会いも

タイミング。

 

これで

決まる。

 

でもきっと

このあったかさは、

タイミングの良い

人同士が

今、増えている

ということかもしれない。

 

だから

しっかり丁寧に、

そのための

サポートをしたい。

 

早過ぎず、

遅過ぎず。

 

今ここだ!

 

というのを

逃さずに。

 

つづく

 

信じるよ

 

未来への

「兆し」

は、

最初はほんの僅かな

ものだ。

 

余程、気をつけて

いないと

見つからない。

 

ほんの気配

しか

しないものだ。

 

でももし

その気配を

感じたら、

 

じっとその方向に

意識を向け続ける。

 

他は一切

意識しない。

 

そこに

集中し続ける。

 

すると

かすかな光が

観えるかもしれない。

 

それは徐々に

大きくなるか。

 

それとも

すぐに消えて

しまうか。

 

たとえ消えて

しまっても

そこに意識を

向け続ける。

 

すると

いつの間にか

引力が

働く。

 

そこに

引き付けられ

始める

自分となる。

 

それが

道となる。

 

私達は皆、

「兆し」

を探している。

 

それが

人生だとも

言える。

 

気配のような

小さなそれを

 

信じることが

できるかどうか?

 

自分の妄想だ

と、

笑い飛ばすも

人生。

 

しかし私は

信じる。

 

じっとそちらに

「信」

の意識を

向け続ける。

 

中学3年の時の

担任の先生が、

卒業式に

私に

「信」の一文字を

プレゼントしてくださった。

 

「君のこれからの

人生に必要なものだ」

と。

 

先生は

正しかったよ。

 

今、つくづく

わかる。

 

自分を

信じることが

できるかどうか。

 

私の人生は

すべてそこに

懸かっている。

 

「信」を

養うための

道のりだった。

 

これからも

そうだ。

 

今、

ここに観えるあの

「兆し」

を、

 

私は誰よりも

信じることが

できる。

 

感謝である。

 

つづく

 

区別が極めて大事

 

もし自分の中に

強い塊

を感じたら、

 

私はそれが

光り輝いているか?

それとも

ただの固形物のような

塊か?

すぐさま観察する。

 

心の中にある

塊は

多くの場合は、

「価値観」

であったり

「信念」

であったり

「こだわり」

であったりする。

 

どんな価値観か?

とか

どんな信念か?

というように

中身そのものを

見つめるより

先に、

 

それが

光り輝いているか

どうか?

私は観察する。

 

もし

ただの固形物で

光のないものだと

したら、

 

それは

要らぬもの。

 

むしろ

それがあることで

私はそれに

縛られてしまい、

 

自分の視野を

狭めたり、

 

本来の自分らしさを

弱めたり、

 

本来進みたい一歩を

進めなかったり、

 

・・・そんな影響の

あるものだ。

 

しかしそれは

私自身が創り出した

価値観や信念で

あるので、

 

そうそう

なくすことは

できない。

 

なくそうとしても

逆に

反発をくらい、

ますます強固になる

可能性がある。

 

だから

そういった

光り輝かない価値観

や信念は、

 

そのまま

 

にしておく。

 

ただ、

いつもしっかり

そいつを観察する。

 

どんな時に

そういった価値観や

信念が

発動するか?

を。

 

いつもただ

観察だけするように

する。

 

すると

それだけでもう、

そいつに

影響されなくなる。

 

そいつからは

自由になる。

 

さて、

逆に、

 

光り輝く価値観や

信念が見つかったら、

それは

自分の真本音だ。

 

私はすぐさま

その輝きと

一体化する。

 

その輝きそのもの

の自分となる。

 

そしてさらに

その輝きを

深く理解しようとするし、

 

その輝きを

言語化し、

 

その言語化した

ものを

いつも思い出し、

 

かつ、

探究し続ける。

 

同じ信念・価値観

でも、

 

真本音かどうか?

 

見極める目が

必要だ。

 

真本音でない

信念・価値観は

自分を縛り、

 

真本音の

信念・価値観は

自分を

開放してくれるんだ。

 

つづく

 

仕事始め

 

結局、

毎年がそうで

あるように、

今年も

正月とか関係なく

仕事をし続けてしまって

いるのだが、

 

この

1月5日の午前0時00分

をもって

私の仕事始め

とする。

 

・・・と

今年はハッキリ

クッキリと

節目がある。

 

これだけ

クッキリ境界線が

あるのは、

何年ぶりだろうか。

 

この境界線を

越えることで、

私は私の開放度合い

一気に変える。

 

ずっとそう

決めていた。

 

・・・ということに

0時00分になって

気がついた。

 

私自身に

必要なのは、

 

これまで以上に

力を抜くこと。

 

すべてに

委ねること。

 

特に

自分自身に

委ねること。

 

私は

私を

阻害しない。

 

私のやりたい

ように

私を動かして

やりたい。

 

私の中には

新たに生まれた

私が、

静かに正座をして

呼吸を整えている。

 

彼を

私は阻害しない。

 

そして

彼と私は

これから少しずつ

一つになってゆく

だろう。

 

彼の意志の強さ

とてつもなく

感じる。

 

実は、ちょっと

怖い。

 

もともと私は

自分自身を畏れる

ところがあるが、

今回は特に。

 

きっとまた

未知の領域に

行くのだろうな。

 

こえーなぁ。

 

彼はじっと

私を見ている。

 

私も彼を

見返す。

 

こえーなぁ。

 

だが私は

決めている。

 

私が彼自身

となり、

彼は私自身

となる。

 

最初から

完全一致で

行こうじゃないか。

 

2021年までに

準備し続けてきた

ことが

花開くように。

 

人生の目的に

ダイレクトに

進めるように。

 

つづく

 

深い答えを

 

今回は

問いを一つ。

 

直観的に

浮上する答えを

いくつも

出してみるといい。

 

頭で考える

のではなく、

 

手を動かして

紙に

答えを書き続けると

いい。

 

・・・

 

今年は

何を知るための

一年にしたい?

 

・・・

 

表面的な答え

だけではなく、

自分の深い深い

ところからの

答えを

見つけ出して

ほしいな。

 

つづく

 

心の椅子

 

私は

心の中に一つ

椅子

を置いている。

 

私の実際の書斎の

椅子に近い形だが、

 

その形は時と場合

によって

自由に変わる。

 

ただ、

その椅子は座ると

とても気持ちが良い。

 

落ち着く。

 

私は毎日、

何度もその椅子に

座る。

 

特に

現実がめざましく

動いたり、

混乱が起きている

時ほど、

 

慌てふためかず、

その椅子に

座る。

 

座ることで

ドッシリと

構えることができる。

 

そして

目の前に展開する

現実を

じっくりと観察する。

 

すると、

その物事の

あるがまま

が、

 

その本質が

観えてくる。

 

そして

自分が次にすべき

一歩が

確信を伴って

浮上する。

 

その瞬間に

私は

確信のままそれを

実行に移す。

 

確信のある行動

確信のないままの

行動では、

 

行動の形が

まったく同じで

あったとしても、

 

その力強さも

エネルギーも

影響力も

 

根底から変わる。

 

今から思えば、

以前の私は

随分と

無駄な行動を

とっていた。

 

余分な行動に

よって

不調和が起こる。

 

不調和の原因の

多くは、

 

行動しなかった

ことよりも、

余分な行動を

してしまう、

ことにある。

 

確信のない行動

10とるよりも、

 

確信のある行動

一つだけする。

 

これが今の

私の

進み方だ。

 

今日も私は

椅子に座って

現実を見つめる。

 

世界を

見つめる。

 

自分のすべきこと

明確にするために。

 

つづく

 

一点に収斂

 

自分の意識が

どこに

向いているか?

 

2022年は、

それが大事な

年になるだろう。

 

暗闇の中で

一点だけに

スポットライトを

当てるように。

 

その

明るい部分のみ

常に意識を

向ける。

 

その状態の

ままで、

自分の一挙手一投足

を決める。

 

そんな進み方

をしたい。

 

すべては

その一点に

収斂されていく。

 

収斂進化

という言葉が

あるようだが、

 

まさしく

そんな感じに

進んでいく。

 

つまり、

同じ一点を見つめる

人同士が

関わり合いながら、

 

その同じものを

共に

抱きながら、

 

一人では到底

できないことを

成し遂げていく。

 

そんな進み方

をしたい。

 

人はそれぞれ

その人にしかない

個性がある。

 

しかし

どれだけこれまでの

人生が異なっても

 

同じもの

 

を抱いている人は

いるものだ。

 

その、

同じものを

その人と共に

育てたい。

 

一人で育てる

のとは

異なる仕方で。

 

私は今後、

より静かに

進むだろう。

 

そして

よりスピードアップ

する。

 

淡々と

力を抜いて。

 

しかし

その一点のために

一気に進む。

 

そんな一年に

したいものだ。

 

つづく

 

その一つ一つに

 

明けまして

おめでとうございます。

 

特に

私の周りの人達に

言えることですが、

 

自己開放

 

つまりは、

大きな脱皮をし、

新たな自分

として

新年を迎える

という人が多い。

 

それが2022年元旦の

特徴です。

 

これは本当に

おめでとう!

お伝えしたいことです。

 

自己開放

ということは、

これまでの自分に

比べて、

 

より軽やかに

なり、

よりパワフルに

なり、

 

より明確に

なり、

 

ということですが、

 

だからこそ

この新たな年は

 

「地に足をつける」

 

ことを

大切にしましょう。

 

一つ一つを

丁寧に。

 

一つ一つに

心だけでなく

魂を込めて。

 

自分のあらゆる

行動、

 

一挙手一投足

魂を込めて。

 

急ぎ足で

雑に進むよりも

 

その方が

結果的に

何十倍も速く

進めるでしょう。

 

未知の領域

だからこそ、

 

一歩一歩に

集中する。

 

そんな一年に

いたしましょう。

 

本年もどうぞ

よろしくお願い

申し上げます。

 

つづく

 

穏やかではあるが

 

今日は

海を見に行った。

 

穏やかな

海だった。

 

私の中に

いつも存在する

実在の海

と、

 

目の前の

実際の海を

ゆっくり

比べた。

 

ほとんど

変わらない感じ

がしたが、

 

しかし

やはりまだ

違う。

 

存在感は

実在の方が

圧倒的だ。

 

現象の海は

まだまだ

淡い。

 

それはもう

しょうがない

として。

 

色だな。

 

思った。

 

色がまだ

違う。

 

本来の色

ではない。

 

本来の明るさ、

光の強さ

ではない。

 

ただ、

それももう

当たり前のように

わかっている

ことだ。

 

いや、

もっと違う

異なり

を、

私は感じている

はずだ。

 

目を

凝らす。

 

そして

やっとわかった。

 

海と陸

の境目だ。

 

実在の海は

海と陸が

別々の存在のように

見えて、

でもしっかりと

つながっている。

 

役割としての

区別を持ちながらも

実質的には

一つであり、

 

その

一つであることを

楽しむために

区別を

創り出している。

 

しかし

現象の海と陸は

完全に

分離をしている。

 

当たり前と

言えば

当たり前の

ことだが、

 

今日の私は

その

分離感をこそ、

確かめに

来たのだ。

 

わかった。

 

自然は

美しい。

 

でも

まだまだ

本来

ではない。

 

私達人間と

同じように。

 

自然の在り様

は、

私達の在り様

反映だ。

 

随分、

今年一年で

進みはしたが、

 

でも

まだまだ

遅れている。

 

それを

しっかり確認

できた。

 

穏やかで

あったが、

来年すべきことも

これでまた

明確になったな。

 

もう

次の年が

私の中では

始まっている。

 

つづく

 

もうすぐ

 

湖に

雨が降っている。

 

ポツリポツリ

と。

 

風も少し

ある。

 

小さな舟。

 

それに乗り、

私は

揺れている。

 

霧が

かかっている。

 

周りのすべては

ボンヤリと

墨絵のように。

 

風に委ねつつ

舟は

少しずつ進む。

 

私が意識

しているのは、

 

雨の感覚

のみ。

 

凍えるくらいに

寒いはずだが、

 

今はそれを

感じない。

 

目を閉じた

まま、

 

委ねている。

 

進め。

 

世界よ。

 

進め。

 

祈りの

ように、

 

瞬きの

ように。

 

私にできる

唯一の

こと。

 

こうして

ここに

浮かんでいる。

 

祈って

いる。

 

進め。

 

私を閉ざす

ものに、

私は

抗わない。

 

どこに

流れようと、

 

構わない。

 

守るべきもの

さえ、

今は

守らない。

 

ただ、

待つ。

 

祈る。

 

もうすぐだ、

わかる。

 

つづく

 

わかりやすいな

 

進む人

進まない人

二極化は

 

ここに来て

ますます

激しくなったな。

 

進まない人は

頑として

進まない。

 

どんな「きっかけ」

が来たとしても

頑として。

 

二極化する

ということは

不安定化する

ということでもある。

 

が、

私はこれは

良いことだな、

と思うのだ。

 

わかりやすい

から。

 

思えば、

これまでは

ごまかしの効く

時代だった

わけだ。

 

進むフリを

しているだけで、

進む人の中に

紛れ込むことが

容易にできた。

 

今はもう

無理だな。

 

実に

わかりやすい。

 

だから私も

どこにエネルギーを

集中すれば良いか、

明確にわかるように

なった。

 

その明確さ

素直になればいい。

 

私は

進む。

 

さらに

グングンと。

 

そして

進む人との

つながりを

さらに広げ、

深めていくよ。

 

つづく

 

光の想い

 

小さな光が

ポツンと

灯る。

 

とても小さいが

とても力が

ある。

 

今にも消えそう

だが、

きっと永続的に

この光は

在り続けるのだろう。

 

わずかな光

でも、

 

それが在る

のと

無い

のでは

本質的に異なる

日々となる。

 

光とはそもそも

強い

弱い

は関係ない。

 

在る

無い

かだ。

 

一時的

永続的

かだ。

 

たとえわずかな

光でも

そこに意識を

向け続ければ、

 

その深さに

気づくだろう。

 

同じ色に

見えて、

でもその色は

時間と共に

ほんの少しずつ

変化を続けている。

 

時々、

点滅することも

ある。

 

しかし決して

消えることは

ない。

 

私の光。

 

あなたの光。

 

私達の光。

 

あなたと共に

いることで、

私はこの光に

気づくことが

できたのだ。

 

そして、

光を本気で

育てようと

思えた。

 

人生を

本気で生きよう

思えたんだ。

 

自分

という存在が

虚構では

ないことを、

 

初めて

知ることが

できたんだ。

 

実在する

私。

 

実在する

光。

 

私は

この光の想い

応えてみたい。

 

つづく

 

これが強さか

 

阿鼻叫喚

という言葉が

一番、ピンとくる。

 

まるで

断末魔のような

叫び。

 

悪いことでは

ない。

 

それだけ

必死なのだ。

 

精神的な余裕

などという

悠長な次元には

もういない。

 

生きることだけ

で必死。

 

それでも

進む。

 

これが

人の本能という

ものなのか。

 

ほんのわずかな

ミスも

もはや許されない。

 

一歩も

間違えられない。

 

なのに

視界はほぼほぼ

なく、

 

こうなったらもう

自分自身に

委ねるしかない。

 

こんなに

恐ろしい目に

遭いながらも

 

それでも

まだ

進むのか。

 

あなたは。

 

人は

弱い。

 

確かに

その通り。

 

でも

この姿を

見よ。

 

逞しいとは

言わない。

 

言えない。

 

でも

これこそが

強さでは

ないか。

 

こんなに

弱々しくても

それでも

進もうとする

意志。

 

ひょっとして

弱いからこそ

生まれるのか。

 

その意志は。

 

なんという

尊さ。

 

人の

本来の姿

か。

 

この弱さの

中の

強さこそ。

 

つづく

 

落ち着いて考えよう

 

温泉にでも

浸かっているような

穏やかな感覚で、

 

次の問いを

自分自身に投げてみよう。

 

・・・

 

私は

本当は

何をしたいのだろう?

 

そのために来年は

何をしようか?

 

そのために

今年中に

何を完了させておこうか?

 

・・・

 

落ち着いて

静かな心で、

 

でも

 

本気で

発想してみよう。

 

つづく

 

何か?

 

破竹の勢いで

何か

が伸びていく。

 

何だろう?

 

何か、だ。

 

もし今、

その何か、が

わかってしまうと、

 

ひょっとすると

私は

泣き崩れるかも

しれない。

 

それくらいに

嬉しいもの

のような気がする。

 

もうちょい

取っておこうか。

 

クリスマス

だけど。

 

もうちょい。

 

お正月くらい

までの

楽しみに。

 

つづく

 

大雨に晒されながら

 

自分の中から

余分なものを

落とすために、

 

時には

ザーザー振りの

雨の中に

 

身を晒さねば

ならない。

 

傘をさしても

意味をなさない

くらいの。

 

開き直り。

 

傘を捨て

体を広げ、

 

痛いほどの

雨に

身を任す。

 

好きなように

しろ。

 

なるように

なれ。

 

自分を超えた

何かに

自分のすべてを

晒す。

 

そうなった時に

初めて

 

削ぎ落とせる

何か

がある。

 

これまで

ずっと

大事にしてきた

何か。

 

こだわり

続けた

何か。

 

それが落とされて

ようやく

そこで

わかるのだ。

 

その

何か

によって、

 

自分は

縛られていた

と。

 

狭い自分で

あったと。

 

その途端に、

大雨だと

思っていたものが、

 

高原の微風

変わる。

 

燦々と照る

太陽の

もとでの。

 

大雨は

自分で創り出す

もの。

 

それこそが

現象。

 

現象は

映し出された

自分自身

でしかない。

 

反映。

 

自分の。

 

すべては

自分だ。

 

自分が

反映されている

だけだ。

 

ただ、

それを頭で

わかっても

意味がない。

 

私達に必要

なのは、

 

大雨に自分を

晒す

覚悟だ。

 

つづく

 

愚かだろう

 

自分のことを

愚かだと

知ることは

とても大事だ。

 

自分の愚かさが

見えていない人は

知らないうちに

愚かな振る舞いを

してしまう。

 

見えていない

のは

本人だけ。

 

周りはみんな

「愚かだな」

その人を内心、

馬鹿にする。

 

そういった

状況は

どの会社にも

どこにでも

ある。

 

何をもって

愚かか、

ということは

とりあえず

置くとして、

 

人間は皆、

愚かだ。

 

愚かな振る舞いの

多い人か

少ない人か

の違いは、

 

自分の愚かさを

どれだけ

認めているか

の違いだ。

 

極論か?

 

そうでもない

私は思うよ。

 

「あなたは

ここが愚かだ」

 

という

フィードバックを

私はこれまで

数え切れないくらいの

クライアントさん達に

してきた。

 

その度に

心が痛んだ。

 

辛いことを

伝えるからということも

あるが、

 

伝えながらも

自分自身の愚かさが、

その傷が、

疼くんだ。

 

本当は

自分で気づいて

ほしい。

 

でも

気づけないのも

また

人間なんだな。

 

だからどうしても

伝えなければ

ならない時が

ある。

 

自分のことは

さておいて。

 

愚かさを

認められぬ

弱さ。

 

これもまた

人間。

 

認められなくても

受け止められ

なくても、

 

それでも

あえて

伝えなければ

ならないから

 

心を痛めながら

伝える。

 

もしこの痛みが

なくなったら、

私自身が

本当に愚かだと

いうことだろう。

 

つづく

 

自由かどうかは

 

本当に自由な

自分になろう

すればするほど、

 

それを阻害し、

縛りくる存在が

 

自分自身である

 

ということが

よくわかる。

 

自由とは

何か?

自分で定義し、

 

その定義によって

自分を

縛る。

 

望む自由を

自分で設定し、

 

その設定によって

自分を

縛る。

 

やっと自由に

なれた!

思った瞬間から

 

その自由に

縛られている。

 

自由とは

どこにもない

ではないか。

 

思うのだが、

しかし

 

そういった

諸々の外にこそ

 

自由はある。

 

つまり、

自由とは

我々には自覚

できないもの

なのかもしれない。

 

私の経験のみ

にはなるが、

 

側から見ていて

本当に自由だな

と感じる人は、

自分のことを

「自由だ」

とは語らない。

 

自由かどうか、

という

もうその次元に

いないのだ。

 

「私は自由です」

と語る人には逆に、

私はよく

不自由を覚えた。

 

ひるがえって、

今の私は

自由なのだろうか?

問えば、

 

正直、

よくわからん。

 

どっちでも

いい。

 

・・・と

思うようになった

ので、

ひょっとすると

自由に

近づいているの

かもね。

 

ただし、

 

やはり私の

探究テーマは

「自由」

だ。

 

自由とは何か?

人生の

実践現場を通じて

探究し続けたい。

 

その意志は

変わらない。

 

この意志は

自由にさせておいて

あげたい。

 

つづく

 

この一歩だ

 

自己開放の

最後の一歩は、

 

誰も

助けてくれない。

 

自己開放

とは、

一種の「死」であり、

同時に

「誕生」でもある。

 

その境界は

誰も助けて

くれない。

 

助けたくとも

助けられない。

 

これは

人間の宿命

だ。

 

だから

境界を超える

その一歩は、

 

自ら

勇気を振り絞る

しかない。

 

足が震えて

進めない

そんな現実が

目の前に

あるだろう。

 

その現実に

立ち向かう

そのこと自体が

 

その

一歩だ。

 

開放のためには

立ち向かえ。

 

つづく

 

年内開放

 

私の場合、

発想はまず

光となって

現れる。

 

光をキャッチ

すると、

そこに意識を

向ける。

 

何の思考も

働かせず、

 

何の解釈も

せず。

 

ただ光と

向かい合ううちに、

自然に

光と一つに

なっている。

 

すると

思い出すような

感覚で

 

発想が生まれる。

 

今、

私の中に

黒い光がある。

 

黒いので

光ってはいないのだが、

それはどうしても

黒い光

としか表現し得ない。

 

少し苦しめな

感覚のある

光だが、

そこに意識を

向けてみる。

 

そこには

黒い炎があり、

それがまるで

私を包むような

印象だ。

 

炎の根元に

何かがあり、

近づいてみると、

 

そこには

さらに黒い塊が。

 

意識を向けた

瞬間、

私はその塊と

一体化した。

 

カチコチの

その塊は、

 

崩壊

 

したがっている。

 

バラバラになり

自ら消失

したがっている。

 

どうやらその中には、

単なる「発想」

ではなく、

 

「新たな私」が

いるようだ。

 

なるほど。

 

私はまた

私自身を開放しようと

しているわけだ。

 

最近ずっと

エネルギー不足

だったが、

やっとその理由が

わかったよ。

 

年内だな。

 

今年のうちに

私は私を

開放させる。

 

なんとか

いけそうだ。

 

しかし

今回も

ギリギリだな。

 

つづく

 

苦しい進み方だ

 

私の中から

極度の苦しみが

抜けていく。

 

この苦しみは、

 

あぁ

あの人の

ものだ。

 

あの人から

受け取った

もの。

 

すごい

力み。

 

もっと力を

抜けば

いいのに。

 

余分な

力を抜くだけで

この苦しみからは

解放される

のに。

 

でも

力を抜く

ということこそ、

 

力を抜けない

人にしてみれば

最大の

難関。

 

私も昔は

そうだったな。

 

9割以上は

余分な

力を込めていた。

 

余分な力み

によって

エネルギーを

大量消費

していたな。

 

道を開くには、

エネルギーが

足りなさすぎた。

 

でもそれは

自分が余分な

消費をしていた

からだ。

 

本当は

充分なパワーは

自分に備わって

いたのにな。

 

本当に必要な

力だけ

入れれば

よかった。

 

そうすれば

もっと楽な

人生だった。

 

力みは

混乱を呼ぶ。

 

混乱によって

またさらに

力む。

 

そこから

出られると

いいな、

あの人も。

 

つづく

 

そりゃぼやくよ

 

見上げる目標が

あまりにも

高い時、

 

進む意欲すら

失われる

ときがある。

 

それも

人間だ。

 

私の目標も

あまりに

高く、

 

到達までは

永遠の時間が

必要な気がする。

 

いつもそう思う。

 

でもそれを

あと25年で

やり遂げねば

ならない。

 

「ならない」

と言っても、

 

自分で自分に

約束をしている

だけなんだが。

 

あと25年も

ある、

とは

どうしても

思えない。

 

一日一日

焦ってばかり

いる。

 

その一方で、

そうやって

焦りまくる自分を

観察して

楽しんでもいる。

 

人間やってる

じゃないか、

と。

 

まったく

腹が立つ。笑

 

この世で

必死になっている

私の身にも

なってみろ、

 

じっと私を

見つめる

私自身に言う。

 

どれだけ

不満を言っても、

私をじっと

見つめる私は、

 

いつも

ニコニコ

(ニヤニヤ?)

しているばかりだ。

 

まったく

人の気も

知らないで・・・、

 

また

私自身にぼやく。

 

人間。

 

この面白き

心と

存在よ。

 

つづく

 

重ね着しすぎ

 

真の成長

とは、

 

自分を開放

 

していくことだ。

 

余分な服を

脱ぎ捨てて

いくようなもの。

 

しかし、逆に

服を重ね着

している人は

多い。

 

たくさんの

理論武装を

して、

 

服どころか

鎧までかぶり、

 

これで

強くなった

 

自己満足する。

 

重ね着を

すればするほど

身動きは

取りづらくなり、

 

環境の暑さや

寒さにも

対応できなくなり、

 

弱くなる。

 

それが

私達人間。

 

裸になれば

なるほど、

強くなる。

 

身軽になり、

どこへでも

行けるように

なる。

 

もしかすると

空まで

飛べるかも。

 

服を脱ぎ捨てる

ことで

進化は進む。

 

それが

真実。

 

つまりそれは

自分自身を

 

信じる

 

という成長でも

ある。

 

さぁ、今のこの

自分の選択は、

 

服を着込む

ことになるのか、

 

服を脱ぎ捨てる

ことになるのか、

 

・・・という視点を

持つことを

強くお勧めするよ。

 

つづく

 

竜巻後の覚悟

 

凄い竜巻が

心の中にある。

 

それが

幾重にも

分離した。

 

分離したら

離れていった。

 

全ての竜巻が

遠ざかる。

 

遠く遠くへ。

 

そして

見えなくなった。

 

後に残るのは

静寂。

 

そして

ポツンと佇む

自分。

 

一見、

孤独。

 

確かに

孤独。

 

でも

全ては

きれいに

払い落とされた。

 

青空が

見える。

 

微かな

風はある。

 

竜巻が

帰ってくる恐れ

もあるが、

 

でも

どうでもいいや。

 

帰ってくるなら

来ればいい。

 

私はもう

あらゆる竜巻を

受容することに

する。

 

巻き込まれて

自分が死んで

しまっても、

その時はその時さ。

 

竜巻への

恐れから

この場所を

逃げるのはもう

よそう。

 

ここは

私の選んだ

大地だ。

 

私が決めた

大地だ。

 

この世界を

私そのものと

していくのだ。

 

竜巻も

私だ。

 

全てが

私自身だ。

 

つづく

 

答えを自覚しよう

 

一つの問い

がある。

 

その問いは

とても答えづらい

かもしれない。

 

しかしそれを

わかって上で、

 

強引にでも

 

答えを出さねば

ならない時がある。

 

そんな問いを

一つ

ここに。

 

・・・

 

私は今、

誰から離れよう?

 

・・・

 

今、ちゃんと答えを

見つけ、

しっかりと行動する

ことで、

 

新たな道が

開くんだ。

 

つづく