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今、自分は
なぜ
ここにいるのだろうか?
ということを、
もっと
真剣に考えてほしい。
・・・と
伝えたい人が
実に多い。
要するに、
考えていない。
自分と
向き合っていない。
本当は、
とてつもなく深い
意味と
願いが
心の中にある。
今ここで
本当にすべきこと、
したいことが
自分の中に
確固たるものとして
存在している。
にも関わらず、
自分自身がそれに
気づかずに、
ただ惰性で
日々を過ごしてしまう。
すべきことが
あるのに、
自分で
「決めて」いるのに、
それを
しない。
それにより、
心の奥の方で
自分を責め、
罪悪感が湧き、
ストレスが
生じる。
ストレスが
ある濃度を超えると、
それは
「エンティティ」と呼ばれる
物質化をする。
ストレスの念
だ。
それがまた自分を
苛む。
そして毎日が
自分の発生させている
エンティティとの闘い、
となっていく。
だから余計に
すべきこと、
したいことが
わからなくなる。
その状態に
入ってしまっている
人が、
本当に多い。
以前から
「二極化」の話は
させていただいているが、
全力以上のスピードで
進む人が
増える一方で、
そのように
エンティティによって
止まってしまう人も
増えている。
その二極化が
ますます激しい。
自分自身に対して
怒り、
罪悪感を持つ。
そして、
大きくエネルギーダウン
する。
正直言って、
これほど馬鹿げた
ことはない。
一歩、また一歩、
一つ一つ、
本当にやりたいことを
自ら考え、
地道にちょっとずつ
やり続けるだけの
ことなのだが、
それを
しないんだなぁ。
私達は
急がねばならない。
もう時間が
ないのにね。
つづく
走れ。
転んでもいいから、
走れ。
全力以上を
出して
走れ。
それを今、
あなたの真本音は
望んでいる。
素直に
走れ。
・・・・・・
上手く走ろうと
するな。
上手くやれば
やるだけ、
後が大変になる。
あるがまま
でいい。
今のあなたが
いい。
そのまま
全力で。
・・・・・・
私達には
できることと
できないことが
ある。
できる最大を
すればいい。
できなければ
しょうがないでは
ないか。
できないことを
できない、と
悩むよりも、
全力以上を
出そうと
走れ。
もちろん
転べば痛いが、
その痛さは
すべて
糧になる。
風に
なれ。
風になるくらいの
つもりで
走れ。
勢いだけでも
いいから、
他は何も
いらないから、
ただただ
走れ。
未来のあなたが
今のあなたを
ちゃんと
見守っているから。
つづく
語る。
何かを誰かに
語る時、
皆、
余分なことを
言い過ぎでは
ないか。
真本音度合いが
本当に高まって
くると、
面白い傾向が
出る。
喋らなくなる
のだ。
表面的に言えば、
無口
に近くなる。
もちろん
個人差はある。
立場上の
違いもある。
が、
やはり口数は
減っていく。
余分な一言を
言う気が
起こらなくなる
からだ。
逆に言えば、
余分な一言を
言うが故に、
そこで
人間関係がおかしく
なったり、
物事の展開の
不調和が起きたり
する。
例えば私のことで
言えば、
昔の私は
研修で講師をする場合など、
結構、
笑いを取ろうとしていた。
冗談を言ったり、
受講生さんを
軽くからかったり。
場をあたためたり、
雰囲気を明るくする
ために
わざと意図的に
やっていたが、
それがほぼ
完全になくなった。
面白いことに、
そういった意図が
なくなってからの
方が、
場があたたかくなり、
明るくなり、
しかも
笑いがたくさん
起こるようになった。
新たな企業様に
初めてサポートに
入らせていただくと、
だいたい皆、
余分な一言の
言い合い、的な
コミュニケーションが
行われている。
それが
どれだけの生産性を
落としているのか、
に
皆、気づいていない。
真本音度合いが
高まれば、
その「余分」が
かなり気持ち悪くなり、
コミュニケーションが
非常にシンプルに
なっていく。
しかしそれは
冷たくなるとか
事務的になるとか
ではない。
むしろ真逆で、
ある意味
とても人間的で、
強い想いが
静かに込められ、
そして
自然に笑い合えるような
ユーモアに富んだ
コミュニケーション、
しかも
かなりシンプルな
コミュニケーション
となっていく。
そうなると
次に自然に起こる
のが、
創造性の
明らかなアップ
だ。
新たな
素晴らしい発想が
次々と
コミュニケーションを
通じて
生まれるように
なる。
『真本音コミュニケーション』
と私が呼んでいる
状態に入れる。
シンプルで
かつ
創造性豊かな
関係。
あらゆる組織で
そのような状態が
成されることが、
私のサポートの
重要な目標の
一つである。
つづく
何かが
暴れている。
ここから
出してくれ!!
と
叫びながら
暴れている。
その、
影が観えるのだ。
これは苦しいな、
と思う。
暴れたくなる
気持ちが
よくわかる。
あんな
窮屈な場所に
閉じ込められていては。
・・・・・・
何とか、
あそこから出して
あげたいな、と
思う。
でも、
何をやればいいのか、
さっぱり
わからない。
その影が、
暴れる度合いが
高ければ高いほど、
その影の
持ち主である
当の本人が、
見事なくらいに
気づかない
のだ。
その影の存在に。
気づかないものに
気づかせる、
って、
人間業では
到底できないよ。
でも、
このままじゃ、
下手をすれば
あの影は
死んでしまうぞ。
と、
強い危機感に
襲われる。
どうすればいい?
どうすれば、
いい?
・・・・・・
私にできることは
影のメッセージを
ダイレクトに
キャッチすることだ。
ダイレクト
キャッチ。
それはつまり、
脳を使わない
キャッチだ。
実はこれは
人間業で
できること。
訓練すれば
できること。
何とか
キャッチできたら、
そこで
考えるのだ。
どうすれば
いいか?を。
考えても
答えは出ないかも
しれないが、
それでも
知恵を
振り絞るのだ。
影が
出たがっている。
影が
暴れている。
早く、
助けたい。
ちょっと待って!
何とかするから!
やり方
わからんけど
きっと何とか
するから!!
・・・・・・
最近の私の
コーチングサポートは
ほぼすべて
こんな感じだ。
難易度、
高まってるよなぁ。
つづく
心の中の
余分なものが
一つ一つ
消えてゆく。
一つ消えるごとに
何かから
自由になり、
解放感が増していく。
一つずつ
自分自身を
取り戻していく。
私達は
日常生活の中で
いつの間にか、
「自分」
ではなくなっている。
余分なものが
心の中に積み重なり、
「自分」を
覆い尽くす。
「自分」が
見えなくなる。
そしていつの間にか
覆い尽くしている
その、余分なもの達の
塊を
「自分である」
と勘違いするように
なる。
しかしそれは
本当の「自分」
ではない。
・・・・・・
真本音度合いが
高まる
ということは、
「自分である」と
勘違いしていたものを
一つ一つ
取り除いていく
ことでもある。
当たり前のことだが、
「自分」を
取り戻せば取り戻すほど、
私達は
居心地が良くなる。
安定する。
安心する。
そして、
元気が戻る。
余裕ができる。
ゆとりを持って
周りを見つめる
ことができるように
なる。
・・・・・・
あなたの本当の
「自分」は、
いったい、
どのような余分なものに
覆われて
しまっているのだろうか?
今の自分を
「覆われてしまっている自分」
であると、
あえて決めつけをして
自分自身を
見つめ直してみてほしい。
今、知っている
この自分は、
本当の自分では
ないのだ。
・・・と、
あえて、わざと
そう思ってみてほしい。
自分の中に余分なものは
必ずあるのだ、と
その前提の上で
自分自身と
向き合ってみてほしい。
もはや、
それくらいの見方を
することが
必要なのではないか、と
最近、よく思うように
なった。
・・・・・・
本当の自分だろうが、
余分な自分だろうが、
自分は自分だろうが。
という
考え方もある。
それはそれで
一つの捉え方であり
生き方であると
私も思う。
しかし今、
「それは単なる
自分自身への
誤魔化しであり、
その誤魔化しの生き方に
もう、耐えられない」
と
空気感でもって
SOSを発信し続けている人が
あまりに
多いのだ。
それもまた事実。
誤魔化しの
利かない時代に
なった。
本当に、
一人一人の
生き方が問われる
時代になった。
それ自体は
とても良いことだし、
ぐんぐん進む人も
急増中だが、
その一方で、
あまりの苦しみに
阿鼻叫喚となっている人も
急増しているのだ。
私も人間。
残念ながら
他の人を救う、などと
いうことはできない。
今の私にできることは
ただ一つ。
自分の中の余分な
もの達を、
一つ、一つ
手放しながら、
本当の「自分」を思い出す
ための方法、
つまり、
セルフコーチング法を
丁寧にお伝えすること
だけだ。
できるだけ多くの
方々に、
お伝えすることだけだ。
つづく
コーチングを
していると、
ふと、
あぁ、ここまでだな。
と思う
瞬間が来る。
私がよく言う
『完了感』
というヤツだ。
その時その場に
おける「目的」を
ちゃんと果たした
という
独特の感覚。
逆に言えば、
「これ以上はもう
何もするな」
という合図。
99%でもなく
101%でもない、
ちょうど100%の
達成感。
・・・その「完了感」が
来たら、
私はコーチングセッションの
途中でも、
その瞬間にすぐに
セッションを終える。
クライアントさんには
あらかじめ
「完了感」については
お伝えしてある。
で、
「今、完了感出ました」
ということで
「ここまでにしましょう」
と、
突然にセッションを
終えるのだ。
これをすると、
クライアントさんも
「そうですね!
そうしましょう!」
となるケースが
ほとんどなのだが、
時折、
そうでない場合もある。
「え?
私、まだとても
モヤモヤしてるんですが」
と言われることも。
しかしそれでも私は
セッションを終える。
クライアントさん、
ブーブー言われるのだが、
それでも
終える。
するとそのモヤモヤが
「種」
になるのだ。
そのモヤモヤを
持ちながら
日常に戻ると、
それが種になり、
次の重要な展開が
始まる。
モヤモヤが
あったからこその
展開。
それがなかったら
到底、起こり得なかった
展開。
それが起こり、
その後に
真の気づきが来る。
結果として、
「スッキリしました!」
と。
モヤモヤが
悪いわけではない。
モヤモヤは
大切だ。
ただし、
その人にとっての
良いモヤモヤで
あることが重要で、
それを教えてくれるのが
「完了感」
だ。
コーチングセッション
だけでなく、
あらゆる物事に対して
この「完了感」を
大事にすれば、
人生も仕事もかなり
調和していく。
まずは、
「完了感」というものが
あるんだ、
という視点を
持つこと。
そしてそこに
意識を向けながら
日々を過ごすことで、
それだけで
「完了感」への感覚は
養われていく。
ぜひ
試してみてください。
つづく
次の世界に
入ろうとする時、
私達が最も
躊躇することは、
これまで培ったもの達を
手放すことだ。
これは勇気が
要る。
もし
次の世界に入るために
「これまでの自分」
そのものを
手放さなければ
ならなければ、
そこで必要とされる
勇気は
尋常ではない。
自分が
なくなってしまう。
自分が
変質してしまう。
もう、元の自分に
戻れなくなる。
・・・という喪失感は
半端ない。
しかしそれに
立ち向かわなければ
ならない時がある。
そんな人が今、また
増えている。
・・・・・・
そういう人に対して、
大丈夫だよ。
実際に次の世界に
入ることができれば、
結果として
これまでの自分も
活きてくるから。
新しい自分と言っても、
これまでの自分を
包含した自分だから。
・・・という勇気づけを
することは、
したいけど
できない。
残念ながら
こういった勇気づけが
なければ進めないようでは、
次の世界には
入れないからだ。
だからあえて
言わねばならない。
本当に、
これまでの自分は
喪失するかも
しれないよ。
それでも進む覚悟が
ある?
・・・と。
これに関しては、
引き返すことも
また、人生だ。
通常の成長であれば、
引き返さずに進め!
とやるのだが、
これに関しては
引き返しても
しょうがない、と
私は思う。
だって
人間だから、
私達は。
あまりに怖いことは
できないことがあっても
しょうがない。
引き返しても
人生は進む。
スピードは落ちるが
人生は進むのだ。
・・・・・・
・・・と、
このように、引き返しOKで
あるにも関わらず、
それでも、
たとえ自分を
喪失してでも、
次の世界に進もうと
する人がいる。
そういう人を私は
「変態」
と呼んでいる。
残念ながら
こういった意味では
私も変態なのだろう。
そして今、
「変態」が
一人、また一人、と
少しずつではあるが、
増えている。
・・・・・・
変態は
所詮、
変態だ。(笑)
しかしもし、
変態が当たり前に
なれば、
それが「普通」となる。
そんな世の中に
なるといいな、と
変態は密かに
願っている。
つづく
力がみなぎる、
という状態が
人には誰にも
ある。
内側から、
自分の中心から、
エネルギーが
溢れてくる。
何か
嬉しいことがあった、
とか
好きな仕事が
できるようになった、
とか
給料が上がった
とか
みんなから褒められた、
とか、
そういった
エネルギーを喚起するような
出来事が
特にあるわけではない。
調子がいいなぁ、
とか、悪いなぁ、
とか、そういった
自分自身の状態も
関係ない。
ただ、ただ、
理由なく、
いつもと同じなのに、
力が
みなぎってくる。
これを
「内発的モチベーション」
と呼ぶが、
真本音度合いが
高まれば、
皆、自然に
こうなる。
・・・・・・
真本音度合いが
高まった人達が
一様に皆さん
口を揃えるのは、
以前の
(例えば、数ヶ月前の)
自分を思い出し、
イメージすると、
疲れてるなぁ、
暗いなぁ、
縛られてるなぁ、
狭いなぁ、
窮屈だなぁ、
頑固だなぁ、
弱々しいなぁ、
迷ってるなぁ、
悩んでるなぁ、
エネルギーないなぁ、
自分じゃないなぁ、
自由じゃないなぁ、
・・・というような
印象を
持つようだ。
もちろん私自身も
そう。
もう二度と、
あそこには戻りたくない、
と
思ってしまう。
過去の自分も
その時その時で
充実していたはずなのに、
自分らしく
生きていたはずなのに、
それでも
振り返れば、
暗く窮屈に感じて
しまう。
そのくらいに
自分を開放できるのが
真本音で生きる
ということだ。
多くの人は
自分を開放してしまっては
周りとぶつかり合うだけでは
ないだろうか、
と心配されるが、
事実は
まったく逆だ。
ちゃんと正しく
本質的に
自分を開放できれば、
周りとのコミュニケーションも
実に円滑になり、
周りの人達の
真本音度合いも高まり、
すべてが
調和するようになる。
だからよく、
「たけうちさん、
こんなに物事が
スムーズに進んでしまって
大丈夫なのでしょうか?」
と
変なご相談を
受けることもある。
・・・・・・
もちろん、
そうなったからと言って、
試行錯誤がなくなる
わけではない。
自分の目の前に
現れる
壁や障害がなくなる
わけではない。
私達の真本音は
常に「進化」を望んでいる
ので、
ちゃんと自分で自分に
課題を与え続ける。
ただしその課題とは、
与えられて
それに取り組むそのこと
自体が
「幸せ」となる。
それがあるからこそ
毎日がより充実する、
生き甲斐を感じる、
というようになる。
先日、
ある若い経営者が
たった3ヶ月のコーチングで
「コーチング、もう
必要ありません」
と
なったのだが、
その人は
「もう私に悩みは
なくなりました。
もう大丈夫だと思います。」
と
清々しく笑った。
もちろん、
悩みはあるのだが、
悩みに対して
「悩み」だとウジウジ考える
ことがなくなり、
タンタンタンと
自身の真本音で
決断ができるようになった
ということだ。
こうなるともう、
あとは私は
ホームドクター的な
立ち位置になれる。
つまりは、
もし何かあれば
都度、サポートさせていただく、
ということだが、
大半は
その「もし何かあれば」
も、ない。
時たま、
友人として
お酒でも飲みながら、
楽しくご報告を聴く、
くらいだな。
・・・・・・
真本音度合いを
高めるためには、
セルフコーチングのやり方を
覚える必要がある。
それは基礎は
とても単純なものだ。
そして
ご自身の
真本音と反応本音の
区別をつける
ことが最初の
ステップだ。
実はこれだけでもう
サポートが必要なくなる
人が多い。
そんな人を
たくさん増やしていきたい
というのが
今の私の活動の
根幹だ。
つづく
自分自身の
存在意義を
たまにはちょっと
真剣に
考えてみないか。
本質的な
存在意義だ。
それは
立場や年齢や
経験には
寄らないものだ。
例えば、
ある社長さん。
コーチングをさせていただいた
結果、
その社長さんの存在意義は、
「1歳半の幼児」
であることが
わかった。
つまり
その社長さんご自身が
「自分は
1歳半の幼児なんだ」
という気持ちで
い続けることで、
あらゆる物事が
調和し始める
ということ。
冗談のようでしょ?
でも
冗談ではない。
大真面目だ。
その社長さん、
早速、その日から
そのように意識された
らしい。
すると途端に、
周りの社員さん達も
ビジネスパートナーの
皆さんも
実に活き活きとし始めた
そう。
何よりも、
社長さんご自身が、
「とてつもなく
経営が楽に
楽しくなりました」
と。
「1歳半の幼児」
というのは、
その社長さんの
経営者としての在り方
ではない。
人間としての
本質的な在り方、
自然体の状態を
言葉で表したもの。
それを
あらゆる環境、
あらゆる立場において
大切にすることで
調和が始まり、
進化が始まる。
これが
私達人間の
ようだ。
私はこの手の
サポートをずっと
続けてきた。
そうすると
間違いなく
あらゆる人達が
本質的に活性化するのが
面白いほどにわかった。
では、あなたの
人間としての
本質的な
存在意義とは
何だろうか?
それを言語化
すると、
どうなるだろうか?
その
真本音の答えを
自ら見つけ出すのも
私が推奨する
セルフコーチングのやり方の
一つだ。
自分の本質は
実は
自分自身が一番よく
わかっている。
わかってはいるが、
顕在化していない。
顕在意識の自分は
自覚していない。
それをちゃんと
自覚し、
日常的に
意識を向け続けることで
日常から
人生を変えて行く。
そういった
セルフコーチングのできる人
を私は増やしたいし、
そういった
サポートのできるコーチも
私は増やしたい。
つづく
今日は午前中で
仕事が終わったので、
午後から
6歳の息子と
お出かけをした。
息子も私と同じく
電車が好きで、
しかも公園も好きなので、
時々、二人で
ぶらりと適当に
電車に乗りながら、
新たな公園探しを
している。
今日も
初めて行く公園で
とても良いところを
見つけた。
たくさんの遊具があり、
自然もあり、
電車も見えた。
何よりも、
多くの親子が集まり、
皆、とても楽しそう。
今日は晴れて
適度な気温で、
空気も心地よく、
私は、
公園の風景の
一つとなった。
遊具で遊ぶ息子を
遠巻きに眺めながら、
私はその世界全体を
味わった。
トツ、トツ、トツ、・・・
とした
時間の刻み。
時間は
着実に
一秒一秒
流れて行く。
それと共に、
世の中そのものも
少しずつ
進み続けているな、
と
静かに実感。
私が勝手に
「真本音の時代」と
呼んでいる
時代に入れたのは、
約6年前だ。
この6年間、
本当に様々なことが
あり、
随分と悩みながら
ここまできたが、
大きな6年だったな
と
自然に思えた。
実在のレベルで
言えば、
この6年間で
雲泥の差
と言っても良いくらいの
変化があった。
それが今、
徐々にではあるが
ようやく
現象化を始めている。
真本音で生きる
人達の想いが、
そのまま素直に
現象化(現実化)する
度合いは、
ここにきてまた
急上昇している。
たまにはこうやって
のんびりするのも
いいな、と思いながら、
私はこの
6年間を
静かに噛み締めた。
そして
次の6年に
想いを馳せる。
すると、
ふと、
そこにいる大勢の
子ども達の「願い」が
一つの塊となった
気がした。
それは
言葉にはならない
ものだったが、
まるで
清々しい秋風の
ように
私の心の中を
吹き抜けた。
この子達が
願いを叶えられる
世の中に
する。
その土壌を
ちゃんと創る。
そのために
力を尽くそう。
改めて
穏やかに
誓ったよ。
つづく
「目的」
には、二つの種類が
あると思うんだ。
登山に喩えて
みようか。
まず一つ目は、
あの山の頂上に
立とう、
というような
「目的」があるよね。
つまり、
ゴールを設定する
ような目的。
これを
「到達目的」
とでも呼ぼうか。
もう一種類の
「目的」は、
その頂上までの
過程で、
何を大切にしながら
進むか、
という目的。
例えば、
頂上まで行く道のり
では、
道端に咲く
お花を楽しむことを
目的にしよう、
とか、
周りの眺望を
楽しみながら
進もう、
とか。
これを
「過程目的」
と呼ぼう。
私はすべての物事
には、この
「到達目的」
と
「過程目的」
の
二つがあると
思っている。
これに気づくきっかけ
となったのは、
26年前の一つの
出来事だ。
・・・・・・
当時、私は
海外に放浪の旅に
出よう、
と決めていた。
そのために、
半年間で500万円の
資金を貯めよう
と決め、
ある完全歩合の営業会社に
入社した。
訪問販売の
会社だ。
そこに、
「訪問販売の神様」
と言われる人がいて、
運の良いことに
私はその人と一緒に
仕事ができることになった。
その人から学ぶことは
とても多く、
私は、他の人の倍以上
働き、
半年で1000万円を
貯めることができた。
その時の私の
到達目的は、
「旅の資金を貯める」
だ。
それは
達成したことになる。
ところが。
上司と私の功績が
認められて、
私達を中心とした
新たな支店を
立ち上げることが
決定した。
私達は
未開の地で
事務所を立ち上げ、
そこで
さらに販路を広げる
ことになった。
私は
一介の営業マンから
管理職になることに
決まった。
これはまずい。
このままでは
会社を辞めづらく
なる。
せっかく資金が
貯まったのに、
旅に出られなくなる。
そう思った私は、
その営業の神様である
上司に、
そこで初めて、
旅のことと、
会社を辞めたいことを
告白した。
すると、想定外の
猛烈な
反対にあった。
しかし私は
とても頑固で、
自分で決めた目的は
何が何でも達成する
と決めており、
何が何でも
辞めよう、
なんなら、今日にでも
辞めてやろう
くらいに
思った。
その上司の
私への説得は
一晩中、
朝まで続いた。
しかし私は
頑として聞かなかった。
逆に、何があっても
私の方が上司を説得し切ろう、
くらいに思っていた。
が。
上司の次の言葉が
私の胸に
突き刺さった。
その言葉により
私の心は完全に
揺らいだのだ。
「君の目的は
よくわかった。
それを達成したいという
気持ちもわかった。
だがな、
そのプロセスで君は
一体、何を得たいのだ?
達成したい目的だけを
達成できれば
それで君は良いのか?
それで君の人生は
本当に良いのか?
今のままの君では
間違いなく孤独になるぞ。
私はもっと君に
豊かな人生を
歩んでもらいたいんだ」
この言葉を
聴いた瞬間に、
私の中に
『仲間』
という言葉が
浮かんだ。
あぁそうか、
私は、私の人生を歩むに
当たり、
仲間を増やしながら
進むことを
望んでいるのだ、と
その時初めて
自覚した。
つまり私には、
「仲間を増やす」
という
過程目的があったのだ。
それがわかった
瞬間に私は上司に
頭を下げた。
「私が間違って
いました」
と。
「もう少し、あなたの元で
修行させてください」
と。
なんとその瞬間、
その上司は
まるで子どものように
声をあげて
泣き出した。
それを見て、
私も
声をあげて泣いた。
そして
痛感したのだ。
あぁ、あのまま
自分のゴールだけを
目指していたら、
この大切な人を
私は失っていた、と。
大切な人を
失い続ける人生に
入っていた、と。
人生には、
ゴールも大事だが
プロセスも大事
なのだ、と。
そして私はその後、
さらに半年間、その上司と
共に仕事をした。
新たな支店を
立ち上げ、
人を採用し、
15人体制まで
組織を育て、
チームとしても
売上の新記録を
達成し、
さらにもう1000万
貯めることができた。
そして何よりも
新たな仲間が
そこでできた。
私の幸せ度合いは
明らかに上がり、
そして
ゴールも達成できた。
最後は
上司からもみんなからも
盛大に
送り出してもらえた。
旅に出るのは
半年遅くなったが、
その半年で
私はかけがえのないものを
得ることができた。
恐らくその時の
半年間の体験が、
今の私の
原点になっている。
・・・・・・
「目的」には
二つの種類がある。
到達目的
と
過程目的
だ。
二つ共を
大切にすることで
私達の道のりは
豊かになる。
私達の真本音は
それを
望んでいる。
つづく
今日(昨日)、
一つの企業様のサポートが
終了したのだが、
終わりの始まり
というのは
やはりいいなぁ、
と思う。
私はいつも
サポートをさせて
いただくにあたり、
大団円で
サポート終える、
というのを
極力なくしたいと
思っている。
「いいサポートでした!
ありがとう!」
というのを
極力なくそうと
している。
それよりも、
いつの間にか
私がいなくなる。
いなくなっても
何の影響もない。
あれ?
そういえば最近、
たけうちさんいないね。
とか
そういやー、
たけうちさんって人
いたよね。
とか
たけうちさん、
いてもいなくても
あんまり関係ないね。
とか。
そんな状態で
スーッと引くことが
できたら最高だな、
と
いつも思っている。
そこにいる方達と、
その組織が、
自然に自律し
調和し、
自走している状態で
いつの間にか
いなくなるのが
最高のサポートだと思っている。
もちろん、
そうなる時もあれば、
そうならない時も
あるけどね。
・・・・・・
サポートとは、
松葉杖の
ようなもの。
最初は
なかなか一人では
歩けなくても、
それをちょっと
支えて、
できるだけ短期間で
普通に歩けるように
する。
普通に歩ければ
松葉杖のことなど
忘れてしまえば
いい。
それよりも、
歩く先にある
願いに意識を向け、
そこに
突き進んで
行ってほしい。
それが
私の願いだ。
とはいえ、
今日は
最後に慰労会を
開いていただき、
会の終わりには、
トップの事業部長さんが、
酔った勢いで
バンザ〜イ!!
とやってくださったのは、
とてつもなく
嬉しかったな。
完了感のある
終わり方ができて
よかった。
あとは
祈るだけだな。
つづく
あまりの心の
痛みに、
思わず私は
しかめっ面に
なった。
まるで、
燃えたぎる薪を
胸の中心に
押しつけられている
ようだ。
この痛みは
私の痛みでは
ない。
今、目の前にいる
クライアントさんの
心の痛みだ。
私はただ、
それと同じものを
直に感じ取っている
だけだ。
よくこんな痛みに
耐えながら
この人は来たなぁ、
と
半ば、あきれてしまう。
・・・・・・
ところが、だ。
その凄まじい痛みに
本人が
気づいていないのだ。
なぜ気づかない?
と
いつも不思議に
思う。
しかもその人は、
その痛みがさらに
増す方向の
選択や行動を
しようとする。
そっちは痛いよ。
と、
口で説明しても
わかってもらえない。
残念ながら
麻痺している人には
何を言っても
無駄になってしまう。
私にできることは、
その麻痺を
とるためのサポート。
だから私のサポートを
受けると、
以前よりも苦しくなった
と
言われる人もいる。
しかしそれは
麻痺が取れて
健康状態に向かっている
証だ。
・・・・・・
痛いことは
痛い。
苦しいことは
苦しい。
そう素直に
感じ取れることの
なんと健康的な
ことか。
ちゃんと
痛みを感じながら、
じゃあ
どうすれば自分は
痛まなくて済むの
だろうか?
と
真剣に考えながら
進むことが、
自分を大切にする
ということでは
ないか。
・・・・・・
痛みは
怖がればいい。
でも、
麻痺はさせるな。
それは
何の解決にも
ならないし、
自らを
蝕むだけのことだ。
もっと
健康的に生きてほしい。
もっと
健康的に生きてほしい。
私達は
機械ではなく、
人間なのだから。
つづく
人と人は
わかり合えるのか?
と
問われたら、
私はいつも
あえて
こう答えることに
している。
わかり合えません。
と。
建前ではない。
本当に私は
そう思っている。
だからこそ、
わかり合おうと
することが
大事なのだと
私は思うのだ。
・・・・・・
わかり合えた。
と
思うことは
傲慢ではないか。
極端な言い方だが
これも私は
強く思う。
お前のことは
私がよく
わかっている。
・・・と
過去に私は
何人もの人から
言われた。
その度に、
言いようのない
気持ち悪さを
感じた。
不自然さを
感じた。
そして
そんなこと
単なる思い込みだろ、
と。
だって、
私のことは
私すら
わからない。
今、私は
かなり
セルフコーチング力が
あると思う。
例えば10年前と
比べれば、
何十倍も、いや
何百倍も
私は深く自分自身を
見つめているし
向き合っている。
その分、
自分のことを
理解はできた。
しかし
理解すればするほど
わからなくなるのが
人間なんだ、
という
事実も痛感している。
・・・・・・
わからないことや、
わかり合えないことが
悪いことだとは
私は決して思わない。
むしろ
わかり合えないからこそ、
人生は面白いし、
我々人間が
体の数だけ分離し、
皆がバラバラに
生きているところに、
この世の意味と意義が
あるのだと思う。
もちろん、
わかり合えれば
わかり合えるだけ
嬉しい。
Aさんとの関係が
以前よりも
深くなればなるほど、
理解し合えれば
し合えるほど、
Aさんのことは
好きになるし、
Aさんとの人生も
幸せが増えるだろう。
しかしだからと言って
「もう私達は
わかり合えた」
とは
思わない方がいい。
逆に言えば、
もっともっと
私達は
わかり合えるのだ。
わかり合う
ということには
限りがないのだ、
とも
言える。
そういった意味で、
人と人は
わかり合えない
と
捉えておくことが、
その姿勢こそが、
大事であると
私は思っている。
・・・・・・
「わかる」
とは
そもそも
顕在意識レベルの
心の作用だ。
私達の顕在意識は
永遠に
「わかる」ことが
ないようにできている。
だからこそ、
「よりわかりたい」
「よりわかろう」
とする。
それこそが
私達の
顕在意識レベルの
健全な
在り方だろう。
つづく
これまでの人生の
延長線上に
これからの人生が
あるわけではない。
突然、
ここまでの流れを
逸脱して、
まったく新たな
線を
描き始めるかも
しれない。
それが
私達の人生。
しかしそれは
決して、
これまで過去に自分が
培ったものを
捨てなさい、
ということではない。
逆に、
過去に執着する
ことでも、
過去の経験に
固執することでもない。
これまでの自分。
過去の自分。
私達にとって
「過去」
とはいったい
何なのだろうか?
・・・・・・
過去とは
幻だろうか?
もしくは
自分自身の
解釈に過ぎないの
だろうか?
久しぶりに故郷に
帰り、
子どもの頃に遊んだ
公園に行くと、
あれ?
こんなに小さかったっけ。
と
びっくりしたりする。
私達は
あらゆる経験を
自分の「解釈」を通して
行なっている。
だから
事実を事実として
あるがままに
記憶しているわけでは
ない。
ということは、
私達の中にある
「過去」とは、
単なる解釈に
過ぎないのだろうか。
そうとも言えるし、
そうとは言えない
気もする。
・・・・・・
過去は、
今の自分を
形づくるものだろうか?
人は
過去の経験によって
個性を変えて行く。
自分とまったく
同じ過去を持つ人は
世の中に
一人もいない。
過去とは
自分だけのもの。
その過去によって
今の考え方や生き方は
変わるだろうし、
未来の自分へも
大きな影響を受けるだろう。
でも一方で、
過去にまったく
捕らわれない生き方
というのも
あるかもしれないし、
ないかもしれない。
私達は、
過去の影響から
脱することが
できるのか、
できないのか?
・・・・・・
ここで
ちょっと奇抜なことを
書こう。
私は思うのだ。
過去とは、
「抱っこ」
であると。
私達は皆、
自分自身の過去に
「抱っこ」されている。
過去に安住すれば、
それはそれで
自分自身は安心かも
しれない。
しかし私達の体は
どんどん大きく
なる。
大きくなれば、
抱っこしている腕から
体が溢れ、
いつか支えきれなくなる。
私達は
どこかでその「抱っこ」
から
自立しなければ
ならない。
そして今度は逆に、
過去そのものを
私達自身が
抱っこできるといい。
過去は私達に
大きな影響を
与えるが、
その過去に
支配されてはならない。
かと言って
過去をないがしろに
する必要もない。
自らが
過去を抱っこし
過去を愛するように
なること。
どれだけ
過去が大きくなろうとも、
その分、
私達自身も大きく
過去を愛する。
そうなれると
いいな。
・・・・・・
過去に
抱っこされる人生
から、
過去を
抱っこする人生へ。
その転換点が
人生には
必ず来る。
今、そこにいる
人達は
多いのではないかな。
つづく
あなたは
自分のことが
好きかな?
自分の
どこが好きかな?
自分の
どこが嫌いかな?
ちょっと
挙げてみて
くれないか。
全部、
紙に列挙して
ほしい。
そしてそれらを
じっと
眺めてほしい。
素直にね。
その上で。
その奥を
感じてほしい。
「好き・嫌い」
の、
その奥だ。
意味
わからんかな。
まぁこれは
理屈ではなくてね。
列挙されたものを
じーっとただただ
見つめてほしいんだ。
見つめながら
その奥を
感じてほしい。
「好き・嫌い」
の、
向こう側。
そこには
何があるかな?
実はそこにも
「好きか・嫌いか」
が
あるんだ。
その奥の答えは
一つだ。
好きか?
嫌いか?
の二つに一つ。
どちらかの
明確な
答えがある。
もし、
その答えが
「好き」
であったなら、
あなたは
真本音に素直に
生きているね。
もし、
「嫌い」
であったなら、
もう少し
自分に素直に
生きた方がいいね。
自分の
本当の願いを
大切にした方が
いいね。
つづく
もう
10年以上前の
ことだ。
ある企業様での
研修直前。
研修会場に
着いてから。
私は突然、
すべてが
怖くなった。
研修で
皆さんの前に立つ、
そのこと自体も
とてつもなく
怖くなった。
私は
研修会場を
飛び出した。
・・・・・・
外は、
土砂降りの雨
だった。
ちょうどその時
前線が上空を
通過していたのだろうか。
あまりの雨の
勢いで、
私は傘ごと
潰されそうだった。
私は
あてもなくさまよい、
気がつけば
ある小さな公園に
いた。
土砂降りなので
当然
誰もいない。
私は公園の広場の
中央に立った。
凄い雨。
傘を打つ
雨の音と勢いが
凄まじい。
そんな中
私は自分の足元
だけを見ていた。
このまま
いなくなってしまいたい。
もう人生が
終わってほしい。
と
自分の足に
降りかかる水飛沫を
見ながら
思った。
本当に
すべてが
怖かったのだ。
・・・・・・
どれだけの時間、
そうしていたの
だろう。
実際には
5分とか10分くらい
だったのかも
しれない。
足元を見ながら
私は空っぽに
なっていた。
もうここからは
一歩も動けない
気がした。
その時、
ふと、
私は
誰かから
応援をされている
感覚に襲われた。
それも
ただの応援では
ない。
もの凄い数の
人達の
もの凄い勢いの
応援。
まるで
今の土砂降りの
雨音が
歓声のように
聴こえてきたのだ。
私は
顔を上げて、
空を見上げた。
雨は
相変わらず
凄い。
近くに少し巨大な
木が立っていた。
その木が
まるで私に
笑いかけているように
映った。
「大丈夫だ。
私達はいつも
応援している」
と、
木に語りかけられた
気がした。
そうだ。
この応援を
必要としている人達が
たくさんいるの
だった。
私はこれから
その人達の前に
立つのだった。
急に私は
我に返った。
その途端に、
今、私を包んでいる
土砂降りの雨が
とても
心地良いシャワーの
ように感じられた。
シャワーが
私の中にあった
何物かを
洗い流して行く。
シャワーが
すべてを
洗い流して行く。
ふと
思った。
私の人生は
私が
進めて行くしか
ないんだな、
と。
他の誰も
それは
やってくれないんだな、
と。
そっか。
私がやるしか
ないんだ。
私は
自然に呟いていた。
「あー、オレ
開き直っちまったよ」
多分、
他の誰かが
その時の私を
見たとしたら、
きっと私は
笑顔だっただろう。
「気持ちいい
雨だなぁ」
と、
さらに私は呟き、
次の瞬間、
研修会場へと
駆け出していた。
ギリギリ
セーフ。
私は、
これまでにない
清々しさの中で、
何十人もいる
皆さんに
「真本音」について
語った。
これまでに
ない
語り方ができた。
語りながら、
あぁ、真本音って
こういうことか。
と
自分自身で
学んでいた。
・・・・・・
人間なんて
弱いものさ。
弱いからこそ
立ち向かうことに
価値が生まれる。
自分の人生だ。
開き直って
進もう。
開き直れば
真本音度合いも
上がるさ。
つづく
その人の
人生の選択は
その人の
ものだ。
誰が何と言おうと、
その人の
人生は
その人が決める。
それは
当たり前のことだし、
それを
尊重すべきなのも
わかってはいるが、
やはり、
少なくとも、
光の方向に
進んでほしいな、
と
私は願う。
光に輝く
方向だ。
その人自身が
真本音で望む
方向だ。
しかしそれと
真逆の方向へ
進もうとする
人がいる。
ちょ、ちょ、ちょっと
待って!
と、
ついつい私は
止めたくなる。
通常、
コーチとしては
止めては
ならないかもしれないが、
でも
人として私は
ついつい
止めたくなる。
・・・・・・
悩むことは
大事だ。
悩んで悩んで
悩んで。
真剣に悩み尽くして
答えを出すことは
とても意義があるし
それこそが
人生だ。
だが、
悩みながら
答えを出しては
ならない。
悩む頭で
答えを選んでは
ならない。
それは大抵の場合、
後悔を
呼ぶ。
本来の答えは、
悩みながら
出すものではなく、
悩んだ末に
スッキリと
「浮上」するもの
だ。
そう。
本来の答えは
その人の中に
ある。
その人の
真本音が
最初っから
決めている。
最初っから
決めているその
答えを
見つけるために、
私達は
悩むのだ。
だから、
悩んだ末に
浮上する答えと、
悩みながら
決める答えは
根本的に
違うんだ。
・・・・・・
真本音度合いを
なぜ
高める必要が
あるか。
それは、
真剣に悩んで
スッキリ
答えを浮上させる。
・・・そのプロセスを
「最短」に
するためだ。
とも言える。
人生を
急いでいる人は
今、
多い。
それだけ
人生で多くのことを
成し遂げようと
している。
最初から
そう決めている。
だから
急いで進もうと
本能的に
思う。
それが結果として
焦りを生み、
悩んだまま頭で
答えを出し、
本来とは異なる
道に行き、
その後、強い後悔に
苛まれる。
それも人生だし、
その試行錯誤も
必要だ、
という考え方も
あるが、
今のこの世の中に
いる我々の多くは、
その試行錯誤は
望んでいない。
それよりも
良い悩み方を
しながら、
最短で道を進み、
自分の人生の
目的を
何としてでも
果たす。
という
願いの強さを
持っている。
だからこそ
私は思うのだ。
これからの時代こそ
真本音度合いの
アップが
必要だと。
自分自身の
真本音と
反応本音の
区別をつけられる
自分になることが
必須であると。
つづく
加速感。
・・・とあえて
表現しようか。
これ、
今、あなたは
感じているだろうか?
まっすぐ
前を向いて、
目を閉じて、
そして、
目の前に
自分の人生の道が
まっすぐに
伸びているイメージを
してほしい。
未来の方向に
目を向けた時、
あぁ今、自分は
この道を
確かに進んで
いるなぁ。
しかも今、
かなりの加速を
しているなぁ。
と
素直に感じる
だろうか。
こんな単純な
方法で、
今の自分が
ちゃんと進んでいるか
どうかを
確かめることができる。
それくらいに
今は、
前に向かう潮流と
なっている。
流れに
乗るといい。
そして
そのままの勢いで
本来の自分の
望むスピードまで
加速を
してしまうと
いい。
今は
チャンスなんだよ。
今後の
何十年かの未来に
影響を与えるくらいの
チャンスなんだよ。
つづく
私の目の前で
何かが
燃えている。
強く強く
炎を放ちながら
何かが
一気に燃えている。
目を凝らすと
炎の中心に
何かがある。
黒い影が。
そこに意識を
集中させると
観えて来た。
「草原」
が。
・・・・・・
その「草原」は
広く広く
まるで無限のように
続いている。
他は
何もない。
ただ、
心地良い風のみが
緩やかに
吹き続けている。
いつの間にか
私は
その大地に
立っていた。
見上げれば
雲一つない
青空。
私は一人。
しかし
私はその世界と
一つだった。
・・・・・・
その「草原」が
燃えている。
なぜ、
燃えているのだろう?
燃え尽くした
後には
何が残るのだろう?
私はただ
その燃える様を
茫然と
眺めている。
「草原」の
内と
外から。
・・・・・・
しばらく経って
「草原」は
燃え尽くした。
後には
まるで灰のような
白い粉が。
その灰を
私は両手で
すくった。
すると、
そこから芽が
生えた。
その芽は
凄いスピードで
大きくなり、
まるで
ジャックと豆の木
のように
巨大化していく。
私はまたもや
茫然と
それをただ
眺めていた。
・・・・・・
いつの間にか、
私自身が
その巨大樹の
根に
なっていた。
そうか。
私はその巨大樹を
根元で
支え続けるんだな、
と
わかった。
それが
私の役割なんだな、
と。
恐らく・・・、
あの「草原」は
私の夢だ。
あの「炎」は
私の想いだ。
そして
「灰」に見えたものは
私が生み出した
「土」だ。
その「土」に
私自身が栄養となり
根となり
「夢」を実現していく。
そのためなら
私は
何だってやる。
もちろん、
巨大樹を育てるのは
私一人ではない。
私以外の
たくさんの「力」が
必要だろう。
しかし
その「力」達が
ちゃんと活きるためにも、
私は
しっかりとした
「根」となろう。
私は
すべてを活かす
根だ。
つづく
ちゃんと地面を
耕し、
種を蒔き、
芽が出たら
丁寧に
育てる。
栄養を与えながら
良い水を与えながら
太陽の光に
当てながら、
丁寧に
育てる。
小さな芽は
毎日ほんのわずかずつ
育ち、
やがて
実になる。
これが
この世の中の
「実現」
のための摂理だ。
これが
この世の
基本。
ここを忘れると
足元が崩れ、
一見、
「成功」と見える
物事も、
ある瞬間に
一気に「崩壊」したり
する。
自分は
ちゃんと
地面を耕したか?
ちゃんと
芽を蒔いているか?
たくさんの芽を
蒔いているか?
ちゃんと
栄養を与えているか?
ちゃんと毎日
コツコツと
すべきことを
し続けているか?
「育む」という
目線から
すべてをしっかりと
観察できているか?
そして、
本当はどんな「実」を
生らせたいか、
成らせたいか、
を
常に探究し続けているか?
その地道な
しかし
着実な
地に足のついた
目線を
持ち続けよう。
これがまた
真本音の道
でもあるんだ。
つづく
自分のために。
を
まずは徹底的に
探求・探究して
みよう。
徹底的に。
安心すればいい。
私達は皆、
深いところで
つながっている。
高い次元では
「一つ」
だ。
中途半端に
遠慮した
自分のために
は、
中途半端に
掘り下げられ、
「一つ」
の部分とは
つながらない。
それは単なる
わがまま
になったり、
自己満足
になったり
する可能性があるだろう。
だからいっそのこと、
中途半端は
やめて、
徹底的に
自分のために
に
集中する。
自分の
願い
に集中する。
これをぜひ
やってみて
ほしい。
自己中心。
本当に
自己が中心に
なれたら、
間違いなく
その影響は
周りを
幸せにするよ。
世の中全員の
人達が
真の自己中心に
なれるといいな、
と
私は思ってる。
自分のために。
を
徹底的に
探求・探究する者
だけが、
自分は何者か?
に
たどり着けるんだ。
つづく
あがくのが
人間だ。
あがきたいときは
あがけばいい。
一番いけないのは、
中途半端さ
だ。
本当は
あがきたいのに、
そんなことは
大人気ないし、
無駄である、
と
自分に言い聞かせ、
自分を
抑える。
抑えるのであれば
もっと
徹底的に
抑えればいいのに、
迷いながら
抑える。
だから
中途半端になる。
残念ながら
「中途半端」は
何も生まない。
良くも悪くも
徹底的に
何かに取り組めば、
必ずそこで
得られるものはある。
ゴツゴツと
ぶつかりながら
進めばいい。
と
私は思う。
何でも上手くやろう
と
し過ぎてないか?
それでは
結果的には
上手くいかないな。
上手くやろう
は
中途半端を生む。
ゴツゴツと
ぶつかりながら
進めばいい。
つづく
一人でいるのは
怖いかい?
でも、この世は
皆、
分離している。
一人の体の中には、
その人の心
しかない。
他者の心と
自分の心は
別物だ。
他者の体と
自分の体も
別物だ。
だから私達は
皆、
どこかでその
孤独さを
噛み締めている。
孤独だということを
誰もが
どこかで
わかっている。
だから
孤独であるという
事実から
逃げよう逃げようと
する人も多い。
それが
3次元のこの世
の特徴だ。
・・・・・・
この世で生きている
のが私達。
そこに意味が
あるのなら、
ちゃんとこの世界を
感じ取ろう。
そのために
とても大事なのは、
自分の中にある
孤独感と
対峙することだ。
孤独という
事実を
見つめることだ。
・・・・・・
イメージしてほしい。
何もない世界に
たった一人、
あなたは
ポツンと
立っている。
周りには
何もなく、
グレーの世界だ。
そこには
あなたしか
いない。
その孤独感を
しっかりと
感じ取るんだ。
そこには
悲しみとか
怒りとか
寂しさとか
そういったものは
実は
ない。
それを感じるので
あれば、
まだ
孤独の感じ方が
浅いかな。
もっとちゃんと
孤独を感じれば、
それは単なる
「虚無」
だとわかる。
そう。
私達が怖い
のは、
この「虚無」
なんだ。
・・・・・・
「虚無」がわかったら、
今度はそれと
対峙してみよう。
「虚無」と
向き合うのだ。
どうしてそんなことを
わざわざするんだ?
と
思うなかれ。
わざわざ
するのではない。
私達は皆、
毎日、毎時間、
毎秒、
この「虚無」を感じながら
生きているんだ。
その自覚を
することだ。
しっかりと
「虚無」と向き合えば、
変な言い方だが、
何となく
懐かしさを感じる
はずだ。
それほど
私達と「虚無」の
関係性は
深い。
・・・・・・
「虚無」を無くそうと
してはならない。
それは
ずっとここに
あるものだから。
それが
この世の掟だから。
これを持つことで
私達には
初めて得られるものが
あるから。
「虚無」を見つめ、
「虚無」を自覚し、
まぁ
これがあるのが
人間なんだな。
と、
いい意味で
諦めること。
つまりは
「虚無の存在承認」
だ。
これをすると
初めて私達は
外の世界を
「満喫」
できるようになる。
自分とは別の
存在達。
それらの
「存在感」を
直に感じ取ることが
できるようになり、
そこで初めて
「孤独」に
呑まれなくなる。
そして、
あらゆるものの
存在感を得ながら、
人としての
幸せ感も
得られるようになる。
感謝の気持ちも
湧いてくるだろう。
面白いものだ。
虚無から逃げ、
孤独から逃げれば、
いつも
孤独に怯え
幸せ感を
失う。
しかし、
虚無と対峙し、
孤独を受け入れれば、
人として
幸せ感が
明らかに増していくのだ。
これこそが
私達人間。
「あるがまま」
を
受け入れれば
受け入れるほど、
私達は
強くなる。
つづく
心の中が
空っぽで、
ただ
ポッカリと
何もない空間のみが
広がっている。
一見すると、
空虚感に苛まれる
のだが、
実は
そうではない。
「無」に見える
その空っぽの空間には、
無限の「有」が
詰まっている。
「有」が無限に
詰まり、
融合すると、
見た目は「無」と同じに
なる。
しかしそれは
見た目、だけ。
そこには
無尽蔵のエネルギーと
無尽蔵の発想が
眠っている。
あなたの中にも
これが
あるはずだ。
一見、空っぽに
見える
無尽蔵が
あるはすだ。
それを、
あなたの中に
探し出してほしい。
もしそれが
見つかれば、
あなたの意識を
(顕在意識を)
その無尽蔵の中に
溶け込ませてみて
ほしい。
無尽蔵と
一体化するのだ。
そこであなたは
何に気づくだろうか。
どのような
意思を
持つだろうか。
何を
無性に
したくなるだろうか。
そのあなたの
気持ちに、
素直に動いて
みてほしい。
つづく
正直に言おう。
私には
決して癒えることのない
悲しみがある。
私自身のこと
ではない。
この仕事をしていると、
「止まってしまう人」
を
どうしても
見ることになる。
人が
自分の人生を
止めてしまう。
それは
自殺という
わかりやすい例
だけでなく、
心も体も
実際には
生きているのに、
しかし
ほぼ死んだのと同じくらいに
人生を
止めてしまう。
進化を
自ら拒絶する。
人生の目的を
破棄する。
自分の真の幸せを
放棄する。
・・・そう決めて
止まってしまう
人がいる。
数としては
ほんの数えるくらいの
ものなのだが、
それでも
そのような状態に
なってしまう人を
見ると、
それに対して
他者は何もできず、
何もできない
という事実を
見ると、
私は
あまりにも深い
悲しみに落ちる。
そして
わかるのだ。
この悲しみは
ずっと癒えることは
ないな、と。
・・・・・・
今。
かつてないスピードで
進む人は
急増している。
嬉しいことに、
私のクライアントさん達は
皆、
とてつもない魅力を
高めながら
前に前に
進んでいる。
しかしその一方で、
クライアントさんの
周りには、
まるでその反動の
ように、
止まってしまう人が
出る。
先ほど書いたように
数としては
ほんのわずかなのだが、
それでも、
たまに
そんな人が出る。
その人に対し、
もちろん
私のクライアントさん達は
最大のサポートをする。
時には
私も直接
サポートする。
しかし。
人が人にする
サポートには
「限界」
がある。
その「限界」とは、
能力的な限界という
意味もあるが、
「他者がこれ以上
その人を助けてはならない」
という
言ってみれば
尊厳上の「限界」も
ある。
もしその「限界」を
踏み越えてしまえば、
サポートする側も
される側も、
その後に
とてつもない「不調和」が
待っている。
例えば、
とてつもない
依存
とか。
とてつもない
禍根
とか。
とてつもない
混乱
とか。
だから、
サポートには「限界」が
あることを知り、
その「限界」を
きちんと守ることこそが
真の「サポート」なのだが、
でも正直私は
止まってしまう人を
見るたびに、
あぁ、私に
魔法が使えたら。
と
思ってしまうのだ。
しかも私は
その人の
心と魂の痛みや苦しみを
そのまま
感じ取ってしまう。
時には
本人は麻痺して
痛みを感じなくなって
しまっていても、
私はその
麻酔薬が切れてしまった
かのような、
阿鼻叫喚のような
その人の苦しみや
悲しみを
あるがままに
受け取ってしまうのだ。
そしてそれを感じる時、
私自身も、
あぁこれは
癒えることはないな
と実感するほどの
深い悲しみに
落ちる。
これは
どうしようもない。
私の宿命だと
思って
あきらめている。
この悲しみは、
次のエネルギーに
転化できるような
生易しいものではなく、
目を閉じれば、
いつも
私の背後にあり続ける
ものだが、
この仕事を
始めた時から私は
そこは
あきらめている。
この悲しみは
ずっと
増え続けるのだろう。
でも
それをすべて
受け入れながら進むのが
私のすべきこと
なのだろう。
と
結局はいつも思うのだが、
そう思えるところまで
私は
とことん、自分を
悲しませてあげることに
している。
・・・・・・
こういうことを
ブログに書くのはどうか
とも思うのだが、
なんか今は
書いた方が良い気がして
書いてしまった。
かつてないスピードで
進もうとしている人が
急増する一方で、
自分の人生を
止めてしまおうとする
人も
今は、
一人、また一人と、
増えている。
私は
これを
止めたい。
何としてでも。
でも。
人間としてできる
ことには
限りがあるんだ。
私達は
人間なんだ。
つづく
目の前に
船がある。
船と言っても、
ボートのように
小さい。
しかも
よく見ると、
泥でできているのでは
ないか、
と
思うくらいに
不安定で弱々しい。
こんな船で
荒海に飛び出せば、
一発で
沈んでしまいそうだ。
命の保証は
ない。
普通であれば
こんな船、
絶対に乗りたくない
のだが、
でも、
私の魂が
「ここに乗るのが
私だ」
と
ほざいてやがる。笑
・・・こんな場合
私はどうするかと
言うと、
迷うことなく
その船に乗る。
たとえ沈んでも
恐らく
(本当に、恐らくだが)
後悔はしない。
・・・・・・
目の前に
船がある。
今度は
「超」がつくような
豪華客船だ。
最新型だ。
遊ぶ施設も
充実してそうだ。
毎日、
美味しい料理も
満喫できそうだ。
快適な日々が
過ごせそうだ。
こんな船で
世界一周できたら
さぞかし楽しいだろうなぁ、
と思う。
そんな人生
いいなぁ、
と思う。
でも、
私の魂が、
「この船には
乗らない」
と言えば、
私は決して
乗らない。
多分、
(本当に、多分だが)
後悔はしない。
・・・・・・
これを
「真本音で生きる」
と
私は呼んでいる。
真本音で生きる
とは、
自分の心に素直に
生きるのとは
ちょっと違う。
余計に難しくなるかも
しれないが、
あえて言えば、
自分の魂の意志
に素直に生きる
ということだ。
心と魂の違いに
ついては、
あえてここでは
触れないが、
この違いを
区別できることは
人生において
とても有意義だ。
・・・・・・
これは、
心を置き去りにする
生き方、
というわけでは
ない。
なぜなら、
魂の意志通りに
生きれば、
結果として
必ず、
どっかのタイミングで、
心も満足する
からだ。
逆に言えば、
どれだけその時の
心が望んだとしても、
それが
魂の意志とは異なる
選択であれば、
心は後で
必ず
苦しくなる。
心と魂は
分離しているのだが、
しかし
根底では
つながっている。
心にエネルギーを
与えているのは
魂だ。
魂の意志とは
別の生き方をすれば、
エネルギーは間違いなく
減退する。
だから、
自分自身の魂の意志を
ちゃんと
自分で知る必要が
ある。
・・・・・・
私の推奨する
セルフコーチングとは、
この、
魂と心の
区別をつける力を
身につけることに
直結する。
魂と心の意志の
区別をしながら生きる
状態になるための
自分との向き合い方
だ。
言葉を換えれば、
真本音と反応本音
の区別をつける
ために行なうのが
私の推奨する
セルフコーチングだ。
今の世の中は
この区別がないために
混乱している。
区別がないから
人生も混乱する。
区別をつければ、
すべてが
調和を始める。
単純なこと
なんだ。
区別は
大人も子どもも
誰もがつけられるように
なる。
ただ、みんな
そのやり方を知らない
だけだ。
知らないのであれば、
ちゃんと伝えていこう。
今の私の活動の
ほぼすべては、
これに尽きるかな。
つづく
もがいている人は
多い。
もがくのが
人だろう。
人の愚かさを
蔑んだり、
あざ笑う人が
いるが、
私にはどうしても
それができない。
もちろん
人は
愚かだ。
例えば、
もがく必要のない
ところで
もがいたりする。
例えば、
もがいている
フリをする。
しかも
その事実に自分自身が
気づかない。
例えば、
自分は被害者だ、
と言いながら
もがきながらも
他者を傷つける。
しかも
それに自身では
気づいていない。
という
人もいる。
本当に
愚かだと思う。
でもやはり
それが人だとも
思う。
この仕事に
真剣に向かえば
向かうほど、
人の愚かさを
許している自分がいる。
しかしだからこそ
私は
人に厳しくできる
のだと思う。
・・・・・・
昔、
学生時代の友人が
「やさしさとは
厳しさだ」
と言った。
おー、いいこと
言うねー!
と私は共感したが、
もちろんその時の私は
単に言葉の格好良さに
共感していただけだ。
今の私は
どうだろう?
ちょっとは
その言葉の真の意味は
わかったのかな?
時折、私は
自分でも驚くほどに、
人に対して
厳しくなる。
よくあれだけ
厳しくできたもんだ、
と
呆れることもある。
でも、
それこそが
その人への最大の
やさしさだ、と
やはり信じているから
できるのだと思う。
・・・・・・
やさしいフリは
もう
やめた。
やさしいフリは
人を結果的には
傷つけることを
何度も経験した。
いつから
フリ
をやめたのだろうな。
もう覚えていないが、
その代わりに
自分の中に
湧き上がる怒りや
憤りを
大切にするように
なった。
怒りや憤りを
しっかりと見つめていると、
その根底には
「愛」を感じた。
あーそうか、
この怒りをその人に
ぶつけることは
「愛」をぶつける
ことなんだ、
と
確信するようになった。
そんな時は
必ず、
怒りをぶつけるように
した。
そこに私は
躊躇をしない自分で
あろうと
ある時から決めた。
面白いことに、
そうしてから
私の人生の調和が
始まった。
・・・・・・
私は人格者では
ない。
ただの一人の
人間だ。
だから
私自身、愚かな部分を
無限に
持っている。
私はいつも
その自分の愚かさを
見つめている。
もしこれが
できなくなったら
今の仕事は
即、辞めるだろうな。
恐らく今、
私は
「人間」というものが
とても好きだ。
愚かな部分に
関しては
本当に嫌なのだが、
それでもきっと
人間が好きだ。
今日も
とても悲しいことと、
とても嬉しいことが、
両方あった。
悲しい時は
本当に悲しくなり、
嬉しい時は
本当に嬉しくなる。
あー俺は
人間なんだ、と
今日も
思った。
だから明日も
人間のできる最大を
やろうと、
心に決めている。
つづく
同じ人でも
「意思」
を持つと
見違えるようになる。
本来の「意思」とは
「自分が中心である」
という意識の上で、
初めて発動するものだ。
「自分が中心」
とは、
組織上のことでも
立場上のことでも
ない。
自分が
すべての中心であり
宇宙の中心であり
世界の中心である。
それが
摂理である。
と
感覚的に理解
している状態だ。
そして実際に
それは、
自然の摂理だと
私は思う。
・・・・・・
「中心」に立って
初めて人は
「本来の自分」
に戻れる。
つまり「意思」とは
本来の自分から
生み出されるもの
だ。
こうなると
人は
見違えるように
活き活きとし、
その人の魅力も
溢れ出す。
・・・・・・
夢やビジョンも
その状態になって
初めて
浮上する。
逆に言えば、
その状態にならねば、
その人にとっての
本当の夢もビジョンも
絶対に
見つからない。
つまり、
夢やビジョンは
人から与えられるもの
ではない。
自分の内から
湧き出るものだ。
・・・・・・
夢やビジョンを
持つと、
人はみんな
今の環境を捨て、
会社を辞め、
独立をするのでは
ないか。
と
思われがちだ。
いや、
そうではない。
むしろ私は
その逆をたくさん
拝見した。
真の意思を持ち、
真の夢やビジョンを
持つ人は
ほぼ例外なく、
「今、自分のいる
環境を愛する」
ようになる。
「今ここが
自分の出発点である」
という事実を
知り、
受け入れるように
なるからだ。
・・・・・・
真の意思を持つ
者は、
今の環境における
今の「現実」に対して、
魂を込める
ようになる。
「この現実はいや
だから、
この現実には
向かわない」
というのが
なくなる。
「すべての現実と
誠実に向き合う」
ようになる。
真に自分の望む道を
開く人は
全員、
そうなる。
・・・・・・
そして、
一人ひとりが
「中心」となり、
一人ひとりが
「意思」を持ち、
一人ひとりが
「夢・ビジョン」に
向かう、
そんな組織は
とてつもない
「調和」
を起こす。
「調和」とは
「進化」である。
そんな組織を
私は
増やしたい。
そんな社会を
私は
実現したい。
おかげさまで、
同じ「ビジョン」を持つ
仲間と
今の私は共に
進めている。
本当に
ありがたいことだ。
つづく
以前の私の講座の
受講生さんで、
「喜び」
という言葉と
「悦び」
という言葉を
区別されていた人が
いた。
「喜び」とは
心の喜びのこと。
「悦び」とは
魂の喜びのこと。
だそうだ。
この区別、
私もとても大切だと
思っている。
この区別が
もっとつくようになれば、
人生はもっともっと
豊かなものに
なるのではないか。
・・・・・・
この仕事をしていると、
魂がジンジンと
悦ぶ瞬間が
ほぼ
毎日のようにある。
それが実に
気持ちが良い。
しかもそれは
特別な出来事だけに
起こることではない。
私が、
「悦び」を実感できる
ようになってから
初めて知ることが
できたのは、
「一日の始まり」
と
「一日の終わり」
に
私達人間は
言いようのない悦びを
得ている、
という事実だ。
始まりと
終わりに
私達の魂は
打ち震えるのだ。
ひょっとすると、
この悦びを
定期的に得続けるが
ために、
「一日」というのは
あるのではないか、
とすら、
私は思うことがある。
ところが、
この悦びを
素直に感じ取っている
人がいったい、
どれだけいるだろうか。
今の社会では。
・・・・・・
富士山など、
山に登って
ご来光を拝む時、
ほとんどの人は
独特の喜びや
感動を得ていると
思う。
あれはもちろん
太陽や大自然の美しさを
目の当たりにした
感動もあるだろうが、
あれこそ私は
本質的には、
「始まりの悦び」
を感じているのだと
思う。
このように皆、本当は
「悦び」は感じられる
はずなのに、
日常にどっぷりと
浸かってしまうと、
それを
忘れてしまう。
これは
実にもったいない
ことだと
思わないか?
・・・・・・
私の推奨する
セルフコーチング法は、
この「悦び」を
取り戻していく方法
とも言える。
普段、
本当は感じているのに
感じられていない
麻痺してしまっている
私達の心を、
正常に戻していく。
そのために必要なのが、
『リブート』
だ。
つまりは
「再起動」。
心を再起動させる
やり方と力を
身につけていく。
一昨日の記事で
「リブート」には
二つの意味がある、
と書かせていただいたが、
(→【やっと動画を撮り終えました】)
二つ目の意味
とは、
「毎日のリブート」
だ。
本当は、
一日の終わりと
次の一日の始まりは、
私達にとっては
「リブート」
するというとても
重要な意味がある。
しかしそれが
きちんとできていない。
だから、
始まりと終わりの
「悦び」も
感じ取ることが
できない。
だから、
本来の
エネルギーも
湧いてこない。
昨日書かせていただいた
エネルギー管理も
できなくなる。
(→【自分のエネルギー管理を】)
だから私は
「リブート」の
具体的な方法を
皆さんがきちんと知る
必要があると
思っている。
それを
お伝えしたい。
これができると、
いつでもどこでも
「リブート」できる
私達になれる。
それをしっかり
正しく練習する場
としての講座を
開きたいと思っている。
つづく