あるがまま

あるがままで進んでみよう

 

成長意欲を

持つこと自体は

とても尊いことだが、

 

みんなちょっと

「自分を変えよう」

し過ぎな気がするよ。

 

例えば、

「私は人を信じる

ことができないのです」

という人がいた。

 

その人は、

「だからまずは

人を信じる自分に

ならねば」

と考え、

努力をされていた。

 

それ自体は

尊いことだと思うが、

 

結局はなかなか

そんな自分を変えることは

叶わず、

 

というよりも

その努力をしようと

すればするほど

空回りし、

 

ずっと同じ場所で

足掻き続けることに。

 

何度も言うが、

その努力自体は

尊い。

 

しかし

次のように考えることも

大事だと

私は思うんだ。

 

つまりは、

 

「こんな私を

私はどう活用しようか?」

 

と。

 

人を信じることの

できない自分を変える

 

のではなく、

 

人を信じることの

できない自分を

どう活用するか?

 

ということだ。

 

そんな自分だからこそ

何をどうすれば

よいか?

 

そんな自分だからこそ

できることは何か?

 

そんな自分だからこそ

逆に

大切にできることは

ないか?

 

という

発想である。

 

そして、

何か思いつくことが

あれば、

それを早速

実行に移してみる。

 

すると、

今の場所から

少しは進むことが

できるだろう。

 

少しでも進めたら、

景色は変わる。

 

違った自分や

違った展開が

観えてくる可能性も

ある。

 

つまり私は、

すべての始まりの

基本は、

 

「存在承認」

 

だと思うのだ。

 

「そこにあるものを

そのままに

あるがままに

その存在を

承認する」

 

こと。

 

その

「あるがまま」

どのように活かせば

よいかを

発想すること。

 

自分を

変えることよりも、

 

自分の場所を

変えてみること。

 

一歩でも

進んでみること。

 

そんなところから

始めてみることを

オススメするよ。

 

つづく

 

もう、心はそのままでいいよ

 

私達は人間だから、

いろんな心が

ある。

 

この心は好きだが、

この心は嫌い。

 

できれば

こういった考え方に

縛られる自分からは

卒業したい。

 

こんな風に感じて

こんな風に思ってしまう

自分は

本当に嫌だ。

 

・・・というように、

自分の望まない心達は

私達の中には

無数に存在するだろう。

 

傲慢な自分。

 

情けない自分。

 

後ろ向きな自分。

 

いい加減な自分。

 

勝手な自分。

 

・・・いろんな自分が

いる。

 

もう、

いいじゃないか。

 

そういった自分の

ことで

悩み続けるのは。

 

そういった

気に入らない自分を

どうにかこうにか

しながら

消そう、とか

コントロールしよう、とか

 

そういったことで

悩み続ける時間は

もう、

いいじゃないか。

 

私達は

人間なのだから。

 

いろんな心が

あるのが

人間なのだから。

 

あるがままで

良いではないか。

 

それよりも。

 

もっと大事な

ことがあるだろう?

 

私達が

すべきことが。

 

正確に言えば、

本当に心の底から、

魂から

したいことが。

 

自分との

約束が。

 

人生の

目的が。

 

「こんな自分だから

まだダメだ」

 

「まだまだ未熟だから

私は進めない」

 

「もっと精進してから

人生の目的に

向かうんだ」

 

という声を

本当によく聴くが、

 

はっきり言うが、

その時点でもう

間違ってるよ。

 

自分がここにいる

ということを、

 

人間として

ここに存在している

ということを、

 

もっと

毅然と見つめて

ほしい。

 

心は、

いろんな心が

発生するようにできている。

だから、

どんな心が

発生したって

それでいい。

 

それと

「進めない」

というのは

まったく別のことだ。

 

自分に自信が

ないから

毅然とできない。

 

というのも

本当はまったく

関係のないことだし、

 

自分が嫌いだから

毅然とできない、

というのも

関係ないのだ、

本当は。

 

私達は

今すぐにでも

毅然と立つことは

できるんだ。

 

毅然と

進むことは

できるんだ。

 

その事実から

目を逸らし続けている

その姿勢こそに

 

大きな問題が

あるんだ。

 

あなたの中に

揺るがぬ願いが

あるだろう。

 

それは、

心がどのような状態に

なったとしても

関係なく

揺るがないままで

あるだろう。

 

それを

大事にしようよ。

 

それが

本来のあなた

なのだから。

 

心は、

大事にしよう。

 

大事にする、

とは

「どんな心があっても

いいや」

いい意味で諦める

ことだ。

 

すべてを

存在承認することだ。

 

あるがままに

すること。

 

それが心を

大事にするという

こと。

 

それさえ

できれば、

 

進め!

 

進みたいのだろう?

 

なら、

進め!

 

毅然と。

 

つづく

 

誠実さの第一歩は

 

「誠実」とは

何だろうか?

 

これについては

いろんな答えが

あると思う。

 

私の思う

誠実の第一歩は、

 

「あるがままを観て、

あるがままを感じる」

 

ことだ。

 

逆に言えば、

 

「あるがままを

観ようとせず、

感じようとせず、

目を逸らし続ける」

 

のは

不誠実だと思う。

 

例えば、

 

自分の感じている

「喜び」

から

目を逸らし続ける人

がいる。

 

本当は喜んで

いるのに、

 

素直に喜べば

いいのに、

 

「自分は喜んでは

ならない人間だ」

 

と思い込み、

 

「喜ばないことこそが

謙虚な生き方だ」

 

と思い込み、

 

自分の素直な心と

向き合わない人。

 

そういう人を

みると、私は

 

不誠実だなぁ、

 

と思う。

 

自分自身に対して

不誠実だし、

自分の人生に対して

不誠実だし、

自分の現実に対しても、

共に喜びを創り合った

人達に対しても、

 

実に不誠実だと

思う。

 

そして、

そういう人ほど

周りや環境への

文句が

知らず知らずのうちに

多くなる。

 

自分にも

文句を言い、

周りにも

文句を言い続け、

 

さらに

喜びから

遠ざかっていく。

 

そういう人を

みると、

不誠実だなぁ

と思う。

 

もっと

素直に生きれば

いいのに。

 

と、

私はとても悲しく

なるし、

実際にこの悲しみは

ほぼ

毎日のように

感じている。

 

これが今の社会の

現状なのだろう。

 

だから、

変えたい

素直に思う。

 

「変えたい」と言っても、

「私が変える」

などと思うのは

きっと傲慢なのだろう。

 

私にできるのは

「コーチ」として、

いや

「人」として、

 

一人ひとりの方々と

誠実に

向き合い続けること

だろう。

 

その人を

あるがままに観て

あるがままに

感じ続ける。

 

それにより

私自身が悲しみを

受けることは

これからも多い

だろう。

 

でも、それでも

向き合い続けるのが

誠実だと思うし、

 

一人の人の誠実は

目の前の人の

誠実に必ず

伝播する、

 

と信じている。

 

『あるがまま』。

 

・・・誠実さの

基本であり

第一歩。

 

とても難しい

ようだが、

実は

とても簡単。

 

しかし

簡単であり過ぎる

が故に

難しい。

 

『あるがまま』。

 

私も含めて、

すべての人の

最重要テーマであると

思う。

 

つづく

 

誕生したければ誕生しよう

 

誕生。

 

という言葉が

好きだ。

 

この仕事を

していると、

多くの

「誕生」

を拝見できた。

 

ある意味、

生まれ変わる

と言ってもいい。

 

それは単なる

「変化」とか

「変革」の域を

超えて、

 

本当に

ゼロからもう一度

スタートする

ようなものだ。

 

そのような人を

拝見すると、

やはり一番ビッタリの

言葉は、

 

「誕生」

 

となる。

 

誕生するためには、

これまでの自分

「すべて」

手放さなければ

ならない。

 

そんなことが

できるのか?

 

と思われるかも

しれないが、

 

本当は

そういったことが

できてしまうのが、

私達人間の

本当の意味での

凄みだと

私は思う。

 

かく言う私自身も

「誕生」

の経験がある。

 

・・・・・・

 

面白いことに、

「誕生」

してから、

 

つまり

一度すべてを

ゼロリセットしてから、

 

その上で、

 

過去の自分の

個性を

改めて活用しよう

という

動きに入る人もいる。

 

一度ゼロリセット

してから、

過去の自分を

取り出すのと、

 

過去の自分を

持ったままで

進むのとは、

 

まったくもって

本質的に異なるものだ

ということは

何となくでも

ご理解いただけるだろう。

 

過去の自分を

活かす

と言っても、

 

ゼロリセットを

することで、

その「活かし方」が

全然違ったものになる

からだ。

 

さらに面白い

ことに、

 

一度ゼロリセットをし、

「誕生」した人で、

 

過去の最も

嫌いだった自分の個性

 

最も大切に扱うように

なる人は

多い。

 

だから私は

「私は私のことが

大嫌い!」

と言う人に出会うと、

ついつい

「この人は面白い成長を

されそうだ」

と思ってしまう。

 

自分を嫌いな

ことは、

良くないことだが、

別に

大したことではない。

 

好きか嫌いか、

なんて、

本当は

大したことではない。

 

本当のことを

言えば、

それによって

人生が決まることも

ない。

 

こんなことを書くと

意外に思う人が

いるかも

知れないが、

 

私達の真本音は

「好き」

「嫌い」

も両方、

楽しんでいる。

 

好き嫌いは

あっていい。

 

それこそ人生の

醍醐味の

一つだ。

 

・・・・・・

 

私達は

「人間」

をやってる。

 

「人間」は

人間が考えるよりも

ずっと

奥深い。

 

私は

私が思っているよりも

ずっと奥深いし、

 

あなたは

あなたが思っているよりも

ずっと奥深い。

 

どうせ

人生を生きる

のであれば、

 

そんな自らの

奥深さを

感じ取れる

人生にすればいい。

 

と私は思う。

 

それには

すべてに対して、

 

「あるがまま」

 

にいること。

 

好きなものは

好き。

 

嫌いなものは

嫌い。

 

自分を変えたければ

「生まれ変わりたい」

「新たに誕生したい」

思えばいい。

 

「あるがまま」に

すべてを

受け止めれば、

 

すべては

「真本音の願い」

の方向に

進んでいく。

 

もっと

シンプルに

行けばいいんだ。

 

つづく

 

ちゃんと全部、観てる?

 

人の可能性を

信じる。

 

人の光を

感じる。

 

その人の良いところ

を見る。

 

・・・それらはとても

大事なことだと

思うけど、

 

でも、

 

そこしか見ないのは

私には

どうしても現実逃避に

思えてしまう。

 

人には

いろんな部分が

ある。

 

真本音もあれば

反応本音もある。

 

反応本音だって

とても良いものも

あるし、

とても醜いものも

ある。

 

それらすべてを

観て、

理解して、

 

その上で、

 

その人の

可能性を信じ、

 

その人の

光を感じ、

 

その人の良いところに

焦点を当てる

のであれば、

 

それはとても

素晴らしいことだ。

 

人を愛する

とは、

その人の

光の部分のみを

愛すること

ではない。

 

それでは

愛したことに

ならない。

 

その人のすべてを

観ること。

受け止めること。

 

それが

愛の出発点だと

私は思う。

 

そしてそれは

自分自身に対しても

同じことだ。

 

・・・・・・

 

「受け止める」

とは

ただ、受け止める

だけのことだ。

 

「理解する」

とは

ただ、「知る」だけの

ことだ。

 

無理に

「イエスマン」

になる必要はないし、

 

「私はすべてを

許します」

なんて

やる必要はない。

 

私達は

人間だ。

 

自分の等身大

以上のことを

する必要はない。

 

もちろん

成長や進化は

目指せばいい。

 

でも、

今できる最大を

すればいい。

 

好き・嫌い

があったっていい。

 

その自分の気持ちを

また、

受け止めればいい。

 

評価判断

したり、

すべてを大らかに

包み込もう

としたり、

 

そこまでのことは

無理にせず、

 

ただただ

「受け止める」

「知る」

だけで、

愛は始まる。

 

愛とは

エネルギーだ。

 

愛という

エネルギーを

発する人は、

 

すべてを

(自分も他人も)

あるがままに

受け止める

人だ。

 

・・・・・・

 

「コーチ」は

人間だ。

 

人間にしか

できない。

 

人間は

常に未熟だ。

 

常に

成長と進化を

続ける存在だ。

 

今の自分の

未熟さを

評価判断するのでは

なく、

ただそのまま

あるがままを

受け止め、

 

そこから

最大・最善の一歩を

踏み出そうと

し続ける。

 

そういった生き方

をし続ける。

 

その見本と

なるのが

「コーチ」だと

私は思っている。

 

つまりは

「あるがままに生きる」

見本だ。

 

・・・・・・

 

しかし

「あるがままに生きる」

と言うと、

 

「そうか。

今のままの自分で

いいんだ」

 

とよく

誤解される。

 

そういうことでは

ない。

 

自分の

「あるがまま」

を本当に感じ取れば、

 

「今のままの

自分ではなく、

もっともっと私は

前に進みたい」

 

という

人間としての

実に自然な欲求にも

気づくはずだ。

 

そして、

「同じ場所」にずっと

い続けることに

気持ち悪さを感じ、

 

前に進みたくて

いてもたっても

いられなくなるはずだ。

 

だから

「あるがままに生きる」

人ほど、

自然に前に進む。

 

最大速で

進もうとするのだ。

(→【コーチ探し、始めます】)

 

つづく

 

怖いからこそ見つめよう

 

今、

問題の核心は

何か?

 

本当は、

このダイレクトな

問いに素直に

向き合えば、

 

ほとんどの問題は

8割方は

解決してしまう。

 

しかし私達には

その、

素直さ

がない、

 

場合が多い。

 

核心を観る

のが

怖いのだ。

 

だから

まずはそこから

目を背けることに

全力になる。

 

もちろん、

そうなっている自分を

自覚することは

ない。

 

自覚できたら

大したものだ。

 

だから私は

いつもいつも

この問いを

大切にしている。

 

今、

問題の核心は

何か?

 

・・・・・・

 

問題の核心は

恐怖感の

その先に

ある。

 

そりゃそうだ。

 

問題の核心

だからこそ

恐怖感が湧く。

 

つまり、

最も怖い方向を

見つめれば、

そこに

実にシンプルな

核心が

潜んでいる。

 

いや、

本当は潜んでなんか

いないのだが、

あまりの恐怖によって

そいつの前では

私達は

目を瞑ってしまうのだ。

 

全力で

目を瞑る。

 

で、

わからない

わからない

と言い続ける。

 

時には、

目を瞑っているその

まぶたの上に、

くっきりとした

キラキラの目を描いて、

 

ほら、

私、ちゃんと

目を開いているでしょ!

 

とアピールする

人もいる。

 

もちろんやはり

本人にその自覚は

ない。

 

逃げることに

必死だという

自覚が。

 

そういう人と

向き合うと、

あまりの恐怖感と

あまりの拒絶感に

私は

言葉を失う。

 

怖いものを

怖いと言えれば、

もっと楽になるのに。

 

本人は最も

楽ではない道を

邁進する。

 

まぶたの上に

描いた偽物の目を

堂々とこちらに見せ、

 

ほら、

私はこんなに真剣に

自分の使命に

向かっています、

 

と訴え続ける。

 

自分の人生を

邁進しています、

 

と。

 

・・・・・・

 

そのように

全力で逃げようと

する人は、

 

どうやら

私からのお墨付きを

もらいたいようだ。

 

つまり、

「たけうちさんが

いいね、って

言ったから、

私はこれで

いいんだ」

という

お墨付きだ。

 

このお墨付きを

ほしいが故に、

あえて私に相談

してくる人もいる。

 

しかし私は

決して

そのような「お遊び」

にお付き合いする

ことはない。

 

そのような

「お遊び」は

ダメですよ。

もっと

真剣に生きましょうよ。

 

というニュアンスの

空気感を

ほんのちょっとだけ

私は

その人に向ける。

 

すると多くの場合は、

とても残念なことに

一目散に

私の前から

去っていく。

 

私は別に

「もっと強くありなさい」

とは

一言も言っていない。

 

私はただ

「もっと真剣になろうよ」

伝えているだけだ。

 

真剣になる、

とは

自分の弱さを

知ることだ。

 

自分の恐怖を

知ることだ。

 

知ればいい。

 

だって

人は

弱いから。

 

でも、

自分の弱さを

素直に認めることで、

人は

一歩ずつ

強くなっていけるから。

 

完璧な人間など

いない。

 

何度も言うが、

私だって

人間として相当の

ヘナチョコだ。

 

でも私は

そのヘナチョコぶりを

知っている。

 

そこから

目を逸らさないように

している。

 

それだけで

いいのだ。

 

それだけで、

ちゃんと

進めるのだ、

私達は。

 

「あるがまま」を

見つめよう。

 

それができれば、

問題の核心は

すぐにわかるし、

 

そしてその核心は

実は、

結構、可愛いものだった

ということも

わかるのだ。

 

つづく

 

月は、月だ

 

26歳。

 

私は、ガンジス川の

ほとりにいた。

 

1泊100円にも満たない

ボロホテルに

個室をとった。

 

ホテルと言っても、

窓にガラスはない。

 

トイレもシャワーも

共同で、

確か、6畳一間くらいの

広さ。

 

そこに、

何十日洗ってないのだろう?

と思えるくらいの

汚いシーツのベッドが

一つ。

 

何十匹いるんだろう?

と思えるくらいの

ヤモリとゴキブリが

床や壁にうごめく。

 

私はベッドの上に

あぐらをかき、

窓から見える

目の前のガンジス川を

眺めていた。

 

ガンジス川の

向こう岸は

神聖な場所みたいで、

人は誰もおらず、

ただ何もない大地が

広がっていた。

 

陽はとっくに沈み、

その大地から

月が昇っていた。

 

私は驚いていた。

 

その月は

とても大きく、

そして真っ赤だった。

 

赤い光は

ガンジス川の水面を

照らし、

向こう岸からこちら側に

赤い光の帯が

続いていた。

 

とても

この世のものとは

思えない光景。

 

シンシンシン・・・

という空気と

時間の流れが

聞こえるようだった。

 

時々、ガソゴソと

ヤモリだかゴキブリだかの

気配がすることで

私はちゃんとこの世に

いるのだな、と

自覚できた。

 

私はその日

会った人のことを

思い出していた。

 

その日、私は

インド人の泥棒さんに

会った。

 

どんな経緯か

忘れたが、

私はその人と安食堂で

食事をした。

 

そこでその人が

泥棒さんだと

知った。

 

彼は言っていた。

 

「俺は、ガンジス川に

沐浴するためにここに来た。

泥棒をいつも続けて

いるので、

時々ここに来るんだ。

ガンジス川に入れば、

すべて清められる。

神様から許して

もらえるんだ。

で、安心してまた泥棒が

できるってわけさ。」

 

彼の話を

聞きながら、

私は別の日に出会った

インド人を思い出して

いた。

 

その人は

自ら会社経営を

している人だった。

 

やはり経緯は忘れたが、

その人とは

人生について語り合う

展開になった。

 

当時まだ若かった私は

その人に

ダイレクトに

訊いたもんだ。

 

なぜ信仰を

するのですか?

と。

 

彼はとても真面目な

顔で

丁寧に答えてくれた。

 

「私達人間には

到底自分の力の及ばない

ことがある。

例えば、天変地異に

遭ってしまうとか。

だから私は、神様に

今日も一日無事に

過ごせますように、と

お祈りをするんだ。

しかしあとの人生は

すべて、自分次第だ。

人生とは、人間が

人間として創り上げていく

ものだ。

私は神様に祈ることで、

全力でその日一日に

向かうことができるんだ。」

 

同じ宗教なのに、

こうも考え方が

違うものか、と

私は驚いていた。

 

世の中にあるものに

対して、

あれが正しい、

あれが間違っている、

すぐに人は言う。

 

しかし本当は

そこが大事ではなく、

自分がそれに

どう関わるか?

自分がどう

生きるか?

 

そここそが

大事ではないか。

 

それにより

人生も現実も

根底から

変わるのではないか。

 

と、

私は思った。

 

だって、

月は、月だ。

 

月は、

ただそこにある

だけだ。

 

・・・・・・

 

ガンジス川の月は

だんだんと

天に昇っていく。

 

最初は真っ赤

だったのが、

次第に、黄色に

なっていく。

 

そしてさらに

白く輝くように

なる。

 

月はただ、

そこにあるだけ。

 

変化はしても

それは、

月だ。

 

私もただ、

ここにいる。

 

どれだけ変化しても

私は、私だ。

 

その日以来、

私の心の中心には

常に、

月が浮かんでいる。

 

月は

じっと私を

見つめている。

 

私もただ

見つめ返す。

 

そこにあるものを

ただ、あるがままに

見つめ続けられる

自分で

ありたいな、

と思う。

 

つづく

 

解釈を超えてゆこう

人が変化を始める時、

その変化が大きければ

大きいほど、

その兆しは

微小です。

 

変化の最初の芽。

 

それは

あまりにも小さく、

ほとんどの人が

その芽の存在に

気づきません。

 

もちろん

一番気づかないのは

本人です。

 

そして

せっかくの芽を

知らずに

踏みつけてしまう

ケースも多いです。

 

地中から、

チョンと

ほんのわずかだけ

頭を出したその芽に

どれだけ気づけるか?

 

これが

コーチとして

最も重要な力の

一つです。

 

・・・・・・

 

人はどうしても

悪いところ、

不足しているところ、

間違っているところ

などに

目が行きがちです。

 

ですからよく

「肯定的にその人を

見ましょう」

と言われます。

 

「その人の良いところを

見つけましょう」

とも言われます。

 

もちろんそういった

視点は大事ですが、

あくまでもそれは

視点の一つとして

大事なのです。

 

実はですね。

 

私は、

人を無理に肯定的に

見ることを

あまりお勧めしていません。

 

なぜなら、

肯定も否定も

「解釈」だからです。

 

見る側の

解釈。

 

それは

良いか悪いかの違い

だけで、

次元は同じです。

 

ですから、

いくら頑張って

人を肯定的に見ても、

心の中では

否定的な印象も同居し、

ただその否定的な

自分の意見にフタをするだけ

という状態となります。

 

これまでも

申し上げてきた通り、

心にフタをすると

ろくなことにはなりません。

 

「本当はAさんのここの

部分がいやだ」

という心にフタをしながら、

「Aさんって、こういうところが

素晴らしいよね」

とAさんに伝えても、

むしろ、

フタをしている否定的な印象が

空気感となって現れ、

Aさんに伝わります。

 

すると

Aさんはこう思います。

 

「この人、口ばっかだな」

とか

「なんかこの人

嫌味ったらしいな」

と。

 

これでは

意味がありませんね。

 

・・・・・・

 

私がお勧めするのは

 

「あるがままに

その人を観る」

 

ということです。

 

こう書くと、

とても難しいように

思われるかもしれません。

 

でも実は

これが最も楽ですし、

慣れれば最も

簡単です。

 

実は、

肯定的に人を見よう

とする人ほど、

その人の本質的な魅力に

気づくことができません。

 

なぜならあくまでも

自分の解釈でしか

その人を見ていないから。

肝心な部分が

観えなくなるのです。

 

解釈を超えた

・・・というよりも

解釈を手放した見方

(つまり、「観方」)

が大切で、

それができると

その人の素敵な箇所に

どんどん気づけますし、

先ほど書きました

「変化の芽」

も観逃さなくなります。

 

そして私は、

コーチだけでなく、

すべての人が

「人をあるがままに観る」

ことができるようになると

いいなぁ、と

心底、願っています。

 

はっきり言って

それだけで

世の中は平和になるかも

しれません。

 

人と人との

ぶつかり合いとは、

解釈のぶつかり合いでしか

ないですからね。

 

今はそこを

超えていくことを

私達は求められているのでは

ないでしょうか。

 

つづく

 

今まさに次元を上がろうとしている人へ

以前にも一度、書かせていただきましたが、

次元を一つ上がる、

というのは相当に大変なことです。

 

ですが、

今はそれを成そうという人が

急増しています。

 

次元が一つ上がるというのは、

私がいつも表現している

「脱皮」

というもののの中でも

最大級のものです。

 

その直前にいる人が今、

急増しているのです。

 

次元が上がる直前まで来ますと、

人は、どんな人であっても

極度の不安定になります。

 

すると、

自分の最も弱い部分が

クローズアップされます。

 

例えば、

以前は新しいことにチャレンジしよう

という場面になると

非常に臆病になり、そこから

逃げ出そうとする、

・・・そんなパターンを持っていた人が

自分の努力によって

新たなことにも躊躇なく

チャレンジできる自分創りが

できていたとしましょう。

 

次元を上がる手前に来ると、

その人は、

まるでこれまでの努力が

まったく水の泡ではないか、と

思ってしまうくらいに

臆病になります。

 

新たなことに対するチャレンジ

どころか、

ほんの些細なことに対しても

気弱になり、

少し極端に言えば、

生きることそのものに対しても

気弱になります。

 

いったい自分は

どうしてしまったのだろう?

 

これまで自分で自分を

成長させて来たのに、

これまでのがんばりは、

いったい何だったのだろう?

 

・・・とショックを受けることに

なります。

 

しかし本当は

次元を上がるという

滅多にないような脱皮の手前の

不安定期にいるだけのこと

なのです。

 

それを教えてくれる人が

傍らにいればよいのですが、

ほとんどの人が

わけがわからないままに

もがき苦しみます。

 

私はこの時期こそ、

人が人生において

最もサポートが必要な瞬間であると

思っています。

 

もしこの文章を読んで、

ひょっとして自分は

次元が上がる直前かもしれない、

と思われた方は

以下のことをお勧めします。

 

まず、

自分自身の「中心軸」を

意識します。

 

「中心軸」とは

・おへその奥の体の中心と

・頭のてっぺんの中心を

結んだものです。

 

まずは、自分自身のその「中心軸」

を感じ取ってください。

 

そして、

どれだけ心が不安定に

揺れ動いているとしても、

その「中心軸」には

何ら影響がないことを

自覚してください。

 

「中心軸」はとてもしっかりし、

しかもしなやかで柔軟性もあり、

光り輝いているはずです。

 

まずはその安定感を

自覚してください。

 

そしてそれができたら、

常に「中心軸」に意識を向け、

そここそが自分の立ち位置であることを

自覚し続けてください。

 

すべての現象を

「中心軸」から観察するように

します。

 

特に、自分自身の心の動きを

あるがままに観察してください。

 

心は大揺れに揺れている

と思います。

 

その揺れを止めようとせず、

それをそのままに

しておきます。

そして、

ただ観察のみをします。

 

その揺れは、まるで

終わることのない大嵐のように

感じるかもしれません。

しかし

それでよいのです。

 

心の大揺れ具合を

「中心軸」から観察し続ければ、

だんだんと慣れて来ます。

 

どれだけ揺れていても、

その揺れ自体を

「おぉ、すごいなぁ・・・」

と客観的に映画を観るかのように

少しずつ楽しめるように

なります。

 

そこまでできたら

ほぼ大丈夫です。

 

その状態を日々、

維持してください。

 

次元を一つ上がるまでの時間は

人それぞれです。

 

数日で終わる人もいれば、

数ヶ月かかる人もいます。

 

大事なのは、

今のその状態に抗おうとせずに

ただ「あるがまま」を

観て、感じてください。

 

すべての自分の行動は、

「中心軸」にいる自分で

決めます。

 

それだけであとは、

自然の成り行きに

任せましょう。

 

次元を一つ上がることが

できれば、

それまでの大揺れが

嘘だったかのように、

晴れやかで安定した自分に

なれます。

 

パワーも

見違えるほどに内側から

湧き上がって来ます。

 

パワーは湧いて来ますが、

自分自身は

淡々としています。

 

極めて普通の状態。

 

でも、頭はクリアで、

目に映るすべてのものが

輝いて見えるでしょう。

 

すべてを

愛おしく感じるでしょう。

 

無理に、意図的に、

そういった状態をつくろうとは

しないでください。

 

ちゃんと時が来れば

自然にそうなれます。

 

せっかくなので、

滅多にない「今」を

楽しんでくださいね。

 

つづく

 

向き合い方一つで発想が変わる

人を主にすることで輝く人がいます。

(→前回記事)

 

そういったタイプの人は

コーチに非常に向いています。

 

要するに、

『コーチタイプ』

と言えます。

 

コーチタイプの人は

どのように人と関わればよいでしょうか?

 

その基本は

実にシンプルです。

 

それは、

「その人のことをあるがままに観察する」

ということです。

 

実は、

コーチタイプではない人がこれをやろうとしても、

「あるがまま」というのが結構難しいのです。

 

「あるがまま」観察しているつもりでも、

知らぬ間に自分の解釈のフィルターをかけて

その人のことを色眼鏡で捉えてしまう傾向があります。

 

そういった人はむしろ、

自分自身の願いと向かい合って進んだ方が

周りとの調和を起こしやすいのです。

 

コーチタイプの人は、

人をあるがままに観察することで

直観が非常に多く働くようになります。

 

その直観に素直に従って、その人と関わることで

その人にパワーを与えたり、

その人にとっての必要な気づきを喚起したり、

その人自身が自らの指針を見出すサポートを

することができます。

 

相手をあるがままに観察しながらコミュニケーションを

とっている状態を、私は

『レベル3コミュニケーション』

と呼んでいます。

 

コーチタイプの人は

このレベル3コミュニケーションが得意なのです。

 

まず私は、弓江さんに

レベル3コミュニケーションのコツを

お伝えしました。

そして2週間、それを実践していただきました。

 

実践の第一段階として、

「とにかく木村さんを、あるがままに観察する」

ことのみに集中していただきました。

それ以上のことは

「あえて何もしないでください」

とお願いしておきました。

 

すると、2週間後の弓江さんからの報告は

私の予想を超えるものでした。

 

「たけうちさん、

木村という人間は、かなり器が大きいのでは

ないでしょうか。」

 

コーチングの最初に弓江さんはいきなり

そう言われたのです。

 

私は少しびっくりしました。

 

「どうしてまた、そう思われたのですか?」

 

「いえ、何となくですが、

毎日できるだけ、あるがまま、を意識して木村を

観察し続けたら、日に日に彼が大きく見えるように

なったんです。」

 

「特に木村さんのどんな振る舞いを見たときに

そう思われました?」

 

「う〜ん、何か振る舞いがあったからそう思った

というわけではないんですよね。

木村の存在自体に大きさを感じたと言いますか。」

 

「その彼の存在の大きさと、彼の言動が

一致している瞬間というのはどんな時でした?」

 

「・・・あっ、そうそう。

彼が瞬時に決断する時です。

木村はよく思考に入ってしまうのですが、

時々直観的に決断を下す時があります。

その時の木村の表情はとても晴れやかで。

しかも、その場の空気感が安定します。

なんか、守ってもらっているような安心感です。

そんな時に、彼の大きさを感じました。」

 

「いや、すごいなぁ、弓江さんは。

なかなか最初からそこまでの観察は

できないですよ。」

 

「えっ、そうですか?

あるがまま、ということだけ意識すれば

普通にできますよ。」

 

やはりこの人はコーチタイプです。

 

「それ以外に、木村さんについて

何か気づいたことはありますか?」

 

「う〜ん、上手く言えないのですが、

彼、何かに取り憑かれてませんか?」

 

つづく

 

循環が見えれば大したもの

誰もが自分のことを

あるがままに知ることは

怖いです。

 

同様に、組織の実態を

あるがままに知ることは

立場が上の人になればなるほど

怖いです。

 

しかしそれを見つめる勇気を

持たなければ、

人は望む人生を生きることは

できませんし、

組織も望む未来を築くことは

できません。

 

平井さんがなぜ、

本来の自分を取り戻すことができたか?

 

それは、自分の心を

あるがままに勇気を奮って

見つめたからです。

つまりは、

自分と向き合ったからです。

 

そしてその結果彼は、

人とあるがままに向き合うことも

組織とあるがままに向き合うことも

できるようになりました。

(→前回記事)

 

ある時から平井さんはとても面白い表現を

されるようになりました。

「たけうちさん、

今、あの部署の循環が悪いように

思うんですけど」

とか、

「我社の全体的な循環は今は

とても良いですね」

とか。

 

「循環」という言葉を使うようになりました。

 

一見、わかりづらいですが、

でも、平井さんの言いたいことは実によく

わかります。

 

人間に「気の循環」や「血液の循環」があるように、

組織にも何かしら循環しているものがあります。

 

気持ちよく循環できている時は、

組織は非常に健康的ですが、

循環が滞ると、あちらこちらに問題や確執が

起こります。

 

組織をあるがままに見つめるようになった

平井さんは、

何か具体的な問題が起こる前段階の

わずかな「循環」の変化を

察知できるようになったのです。

 

なので、

「たけうちさん、◯◯部の循環、

今、どう思いますか?」

「そうですね。

ちょっと滞り気味ですね。」

「やっぱりですか。

誰が、滞りの原因でしょうか?」

「AさんとBさん辺りのような

気がしますが、どうですか?」

「なるほど、であればきっと

Bさんだな。」

・・・みたいなやりとりが

普通に行われるようになりました。

 

そして問題が起こる以前に

何らかの手を打つのです。

 

手を打つ、というのは大仰なことを

するわけではなく、

例えば、平井さんがBさんに声をかけてみたり、

面談をしたり、

私が単発のコーチングをしたりします。

 

もしくは、可能であれば、

Bさんの役割を少し変えたり、

グループを変えたりします。

 

できるだけ簡単な方法で、かつ

有効な方法を相談して決めます。

 

目的は、

「循環を良くすること」

です。

 

・循環さえ維持しておけば、

組織というのは、ある意味勝手に

成長していくものだ。

 

・成長させようとして無理に引っ張るよりも、

良い循環を保つことの方が、

結果的には効率が良い。

 

これが平井さんの発見でした。

 

あるがままに自分と向き合えば、

あるがままに人や組織と

向き合えるようになり、その結果、

これまで見なかったものが

見えるようになる、ということですね。

 

平井さんの場合はそれを

「循環」と表現しましたが、

表現の仕方、感じ取り方は

人それぞれでしょう。

 

大切なのは、

人や組織への感受性を

養うこと。

 

感受性が豊かになれば、

組織活動はもっともっと

楽しくなるでしょう。

 

つづく