後ろ向き

前向きじゃなくていいからさ

 

人生に

混乱はつきものだ。

 

混乱には

二つある。

 

不調和による

混乱と、

 

調和による

混乱だ。

 

調和による混乱は

必要不可欠な

もの。

 

それがあるからこそ、

その後に

より次元の高い

調和が実現される。

 

ただ、

 

不調和による混乱

だろうと、

調和による混乱

だろうと、

 

対し方は

同じだ。

 

混乱をしっかりと

見つめること。

 

混乱としっかり

向き合うこと。

 

そして、

混乱を楽しもうと

することだ。

 

・・・・・・

 

「楽しもう」

という言い方を

すると、

 

「前向きな生き方」

が必要なのだな、

 

という印象を

持つかもしれない。

 

しかし実は

そうではない。

 

ちょっと語弊があると

いけないのだが、

私は、

・前向きか

・後ろ向きか

という視点は

ほとんど意味がない

と思っている。

 

どっちでもいい

と思っている。

 

人間なのだから、

前向きになる時も

あれば、

後ろ向きな時も

ある。

 

いや、

正確に言えば、

どんな事象を前にしても、

私達の心の中には、

・前向きな心

・後ろ向きな心

両方発生する。

 

「両方発生」するのだがら、

どっちでもいいじゃないか、

と思うのだ。

乱暴に言えば。

 

だから

さらに乱暴に言えば、

 

「私はどんな時も

物事を前向きに

捉えます!」

 

とか

 

「前向きであることが

一番です!」

 

という言葉を

聴くと、

不自然さを感じて

しまう。

 

そんなに無理をしなくても

いいじゃないか、

思うことが多い。

 

前向きな心の

裏には、

間違いなく

後ろ向きな心が

存在している。

 

前か

後ろか

の違いに過ぎない。

 

だいぶ乱暴な言い方

だけどね。

 

そしてここが大事だが、

本来の生き方とは、

 

前向きと

後ろ向きを

超えたところにこそ

存在する。

 

それが

真本音の生き方

であり、

 

私達の真本音とは

前向きも

後ろ向きも

超えた次元に

存在している。

 

・・・・・・

 

「楽しもう」

という言葉の

本来の意味は、

 

「味わおう」

 

に似ている。

 

つまりは

「あるがままに

感じよう」

ということだ。

 

これができると

私達の心には

エネルギーが

発生する。

 

「あるがままに感じる」

とは、

「現実を大事にする」

のと

イコールだ。

 

これができることで

私達の心のエネルギーは

高まるように

できている。

 

それが

人間の心だ。

 

・・・・・・

 

というわけで、

混乱から

逃げてはいけない。

 

逃げたい気持ちは

あってもいいし、

 

後ろ向きな気持ちは

どれだけ膨らんでも

一向に構わない。

 

でも

逃げてはならない。

 

しっかりと

あるがままに

味わおう。

 

すると、

心は楽になる。

 

そして、

不調和による

混乱だろうと、

 

調和による

混乱だろうと、

 

その向こうに

必ず

新たな調和が

始まるんだよ。

 

つづく

 

前向き、前向き、って言うけどさぁ・・・

 

誤解を恐れずに

言うならば、

 

私は

「自己肯定」

という言葉がどうも

しっくりこない。

 

もちろん、

その意味は知っているし、

重要さもわかっている。

 

なくてはならないもの

だということも。

 

しかしどうしても

「肯定」

という言葉に

ひっかかる。

 

「肯定」という

言葉の裏には必ず、

「否定」が

セットだからだ。

 

自分を否定し続けていた

人が、

 

それではいけない。

自分をもっと

肯定しなければ。

 

と、決意して、

自己イメージを変え、

人生を新たに

歩み始める姿は

何度も目にしてきた。

 

しかし私は

「自己肯定」を

唱える人達には

どうしても

不安定さを感じてしまう。

 

「否定」を

「肯定」に

変えただけだからだ。

 

それは

「解釈」の変化

「視点」の変化

に過ぎない。

 

次元が

同じなのだ。

 

同様に、

「物事を肯定的に

捉えよう」

という人にも私は

不安定さを感じてしまう。

 

「物事を

肯定的に捉える」

のと

「物事を

否定的に捉える」

のは、

同じ次元だからだ。

 

同じ次元に

いるうちは、

「どっちが正しいか?」

という

闘いに過ぎない。

 

だから、

自己肯定に

努力している人が、

それでも

大きな失敗をしてしまうと、

途端に

自己否定に戻ってしまう。

 

「私には

素晴らしいところが

あるんだ」

と、努力して

思っていても、

それを覆す出来事が

あれば、

「やっぱり私は

ダメだった」

となるのだ。

 

「素晴らしいか」

「ダメか」

のせめぎ合い。

 

そこにいるうちは、

本質は

何も変わらないのだ。

 

安定度合いは

何も

変わらないのだ。

 

・・・・・・

 

「私は前向きに

生きることを

信条としています」

 

という人がいれば、

 

「後ろ向きな気持ちが

あるのが

人間の当たり前の

姿ですよ」

 

と私は伝える。

 

すると、

多くの人達が

とてもホッとした

お顔になる。

 

どんな心があっても

いいじゃないか。

それが

人間なんだから。

 

というメッセージを

これまでは私は

何千人、何万人の

人達に

伝え続けて来ただろうか。

 

「前向きか」

「後ろ向きか」

という世界から

解放されて初めて

人は、

自分自身の本当の

人生の道を

歩み始める。

 

どんな自分も

愛せるように

なるからだ。

 

「愛」とは、

「前向きさ」では

ない。

 

「人を愛する」

とは

「前向きに生きる」

ことではないのだ。

 

「前向き」も

「後ろ向き」も

どっちでもいいじゃん、

というところに

愛はある。

 

そこかしこに

すべてに

愛はあり、

それを知るものが

本当に

人を愛せるのだ。

 

・・・・・・

 

そんな話をした時に

ピンと来ない人が

いる。

 

そんな人は

コーチをやっては

ならない。

 

それよりも

もっと自分自身の人生に

真剣になった方が

よい。

 

自分と向き合うことに

真剣になった方が

よい。

 

これも誤解を恐れずに

言ってしまえば、

残念ながら今の日本には

「にわかコーチ」

が多い。

 

自分の人生と

自分自身と、

しっかりと向き合うことも

せずに、

人をサポートする

からだ。

 

それをもって

「私は人を愛する人生を

進んでいる」

と言う人もいるが、

それは残念ながら

「自己愛」

だ。

 

本当の愛

ではない。

 

そして残念ながら、

そういった人ほど、

「前向きに生きる」

ことが大切だ、と

口を酸っぱくして

言い続ける傾向にある。

 

ひどいことを

言うようだが、

なぜこうもはっきり

言えるかと言えば、

かつての私自身が

そうだったからだ。

 

おかげさまで

だから私はよく

叩かれた。

 

どこで叩かれたかと

言うと、

企業様で、だ。

 

自己愛の頃から

私は

企業のコーチを

していた。

 

企業のコーチを

する、というのは

自己満足のレベルでは

済まされない。

 

だから

自己満足、自己愛レベルの

コーチは

叩かれることに

なるだろう。

 

どれだけ叩かれても

どれだけ失敗しても、

それでもくじけずに

進み続ける。

 

私は、

人を、組織を、

サポートし続けるのだ、と

進み続ける。

 

その中でこそ、

自己愛から

本当の愛への

自己変革が

成される。

 

その成長度合いと

加速度合いが

人や組織に、良い影響を

与える。

 

「完璧な私になってから

私はコーチを始めます」

 

とか

 

「もっと成長してから

私は本格的にコーチ活動を

始めます」

 

という人もいるが、

それも自己満足であり

自己愛だ。

 

叩かれて、叩かれて、

それでも真剣に

自分と人に向き合い続ける。

 

その現場でしか

得られないものが

ある。

 

というか、

それしかない。

 

それが人生だ。

 

そんなこともわからず、

そんなところから

逃げてしまう人は、

コーチをやっては

ならない。

 

私はやはり、

本物のコーチを

育成したい。

 

真剣な

コーチを。

 

つづく

 

前向きとか後ろ向きとか、気にするな

「誰の真本音も

前向きなのですか?」

 

よく、そうご質問いただきます。

 

確かに皆さんの真本音出しをすると、

言葉としては前向きなものが

出ます。

 

しかし実は真本音とは、

前向きとか後ろ向きとか、

そういった次元にはないものです。

 

前向き・後ろ向き、

プラス指向・マイナス指向

といったものは、

私達の反応本音レベルの「解釈」に

過ぎません。

 

ですから、

「前向きに生きています!」

ということを強く語る人ほど、

その前向きな心の裏側に

(その人曰くの)後ろ向きな気持ち達が

潜んでいます。

 

前向きな心と、後ろ向きな心が

せめぎ合っています。

 

その結果、

前向きな心がわずかでも勝てば、

その人は前向きな行動を

とります。

 

逆に、

後ろ向きな心がわずかでも勝てば、

その人は後ろ向きな行動を

とります。

 

どちらにしても

勝った・負けた

の世界です。

 

どちらが勝っても負けても、

正直言いまして、

大差はありません。

 

前向きと後ろ向きの「葛藤」が

存在し続けていますので、

その葛藤によって

パワーが大量に奪われ続けてしまいます。

 

葛藤とは引っ張り合い、

綱引きと同じだからです。

 

ですので、その人は

疲弊し続けています。

 

疲弊した状態で

どれだけ前向きに生きようとしても

その前向きさは

たかが知れているのです。

 

私達の真本音は

そのような疲れる生き方は

望んでいません。

 

真本音で生きるとは、

自己統合へと続く道です。

 

つまりは、

自分の心と魂のすべてのパワーが

一つの方向に

結集されます。

そこに、

葛藤も引っ張り合いも

ありません。

 

常にエネルギーが満ち足りた

状態となるのです。

 

そういった状態になると

私達人間は、

前向きとか後ろ向きとか

そんなことはどうでもよくなります。

 

そんなことを気にするよりも、

自分の人生の願い、

自分の人生の目的、

自分の人生のミッション

などに楽しく向かっていこうと

自然に思います。

その結果、

自分も周りも幸せ度合いが

必然的に高まります。

 

「いやぁ、今日は俺、

全然やる気出ないなぁ。

サボりたくてしょうがないよ」

と言いながら、笑える人。

 

そう笑いながらも、

自分が決めている行動を

いつもの通りにしっかりと

実践する人。

 

意識の次元が高まれば、

誰もがそうなります。

 

心の状態がどうのこうの、

ということは

関係なくなるのです。

 

そうなるともう

自由です。

 

そしてそうなると逆に、

心の動きの一つ一つを

楽しめるようになります。

 

どのような心があっても、

すべての心を

愛せるようになります。

 

それが本当の

自己承認です。

 

次元が高まったとしても、

低い次元の心が

消えるわけではありません。

 

高い次元から低い次元まで、

あらゆる意識が存在するのが、

私達人間です。

 

私はそこに

人間の神秘と尊厳を

感じます。

 

高くても低くても

すべての自分を愛せる。

それこそが、

高い次元の意識です。

 

そしてそういった意識は

心配しなくても

すべての人の中に

すでに存在しています。

ただそれが

眠ったままの人が多い

というだけのこと。

 

何度も同じことを

書いてしまいますが、

そういった眠ったままの次元の自分を

呼び覚ます一番の近道が、

自らの真本音に素直に生きる、

ということなのです。

 

つづく