意図

絶対上手くいく、と思ったら

 

こうすると

絶対に上手くいくな、

自分の中に

確固たる意図が

芽生えた時、

 

私は必ず、

その意図を

瞬時にして手放す

ことにしている。

 

それはある意味、

とても勇気の要る

ことなのだが、

 

そういった選択を

するようになって

ほぼ10年になる。

 

そこから私は

人生の本当の意味での

醍醐味を

体験できるように

なったと思う。

 

意図を手放す

生き方。

 

それは

知らない私を

次々と

私自身にもたらして

くれた。

 

こういった生き方を

人にオススメして

良いのかどうかは

わからない。

 

ひょっとすると

意図通りに動くことで

私はもっと

ビジネス上では

成功を手に入れていた

かもしれない。

 

しかしそれでは

今の幸せは

手に入らなかっただろう

ということは

わかる。

 

人の幸せとは、

次々に知らない自分と

出会えること

ではないか。

 

そして

知らない自分と

出会えば出会うほど、

 

知らない人達とも

実際に出会える。

 

意図とは、

「これまでの自分」

という狭い範疇に

留まること、

だと

私は思う。

 

いや、

本当にそうなのか

どうかはわからない。

 

でも私は

自分の意図は

つまらないな、と

いつも思う。

 

意図を手放した

その後に展開する

現実に

何度も感動してきた。

 

その度に、

私の意図は

つまらんものだな、と

つくづく。

 

だから私は

これは絶対、上手くいくぞ!

を、

きっと今日も明日も

手放す。

 

意図という

狭き世界から

私は常に

私自身を解放する。

 

これが

私なりの

自由の一つのカタチ

かな。

 

つづく

 

小せえなぁ

 

つくづく

私という人間は

意図を持ってはならないな、

と思う。

 

意図を持てば

途端に

「すべて」が小さくなる。

 

小さな器の中で

小さく

まとまってしまう。

 

それにより

私自身は嬉しいかも

しれないが、

 

それはあくまでも

私の自己満足に

過ぎない。

 

意図した通りの

結果が手に入り、

 

私は意図した通りに

嬉しいが、

 

いったいそれの

どこに価値があると

言うのだろう。

 

どこに人生の

醍醐味があると

言うのだろう。

 

私は

小さい。

 

小さい私が

小さな枠の

小さな何かを

創り上げ、

 

いったいそこに

どんな意義が

あると言うのだろう。

 

つくづく思うのだ。

 

・・・どんな時に

そう、つくづく思う

かと言えば、

 

私の意図を超えた

展開を

目の当たりに

した時だ。

 

この人は

こんなことが

できるのか!

 

この人達は

こんなに凄い展開を

起こせるのか!

 

この仕事を始め、

もうすぐ25年。

 

いまだに

これの連続だ。

 

「驚嘆」

というやつだ。

 

驚嘆するたびに

私はつくづく

私の意図の

小っぽけさと

 

本来の、

人々の可能性の

デカさを

嘆息するのだ。

 

人間は

凄い。

 

という

「まいりました」

思える瞬間。

 

今日もそれが

あった。

 

それが

日常茶飯事に

起きている。

 

今日も

「俺って小せぇなぁ」

・・・と。

 

こんな悦びが

他にあろうか。

 

つづく

 

意図通りに行かない

 

人生は

何が起こるか

わからない。

 

私はますます

自分の意図通りに

何も進まなくなった。

 

なのにすべてが

調和するのだ。

 

びっくりすること

ばかりだ。

 

びっくりするのだが、

でも実は

最初からすべて

わかっていたんだな、

ともわかるし、

 

進んでいるその時も

わけがわからなく

なりながらも、

その奥ではずっと

すべてわかってやっている

自分の存在がある、

のもわかる。

 

自律という言葉を

私はよく使うが、

 

自律には2段階が

あるように思う。

 

第1段階は、

 

ちゃんと自らしっかり

考えて、

自らの意図を明確に

して、

その意図通りに

すべてを進める

 

という段階。

 

まずはやっぱり

これだ大事だな。

 

これをするためには

すべてに対して

自分が

「当事者である」

という自覚を

持たねばならない。

 

依存心では

決してできないこと

であり、

自分は中心である

という覚悟も

そこで学べる。

 

そしてそれをしっかり

現実の実践の中で

養い、

 

自分の意図を持ち

物事を着実に

当事者として進める

ようになった後に、

第2段階に入る。

 

その第2段階が、

 

自分の意図を

超える

 

という段階であり、

 

すべてを

委ねる

 

という段階だ。

 

この順番を間違えて、

第1段階を経ずして

第2段階をやろうと

すれば、

すべてが依存的になり

無責任になる。

 

第1段階の後に

自然に第2段階に入る

のが良い。

 

そして第2段階に入ると

自分の意図を持ち

自分の意図に固執

すればするほど、

 

意図通りには

行かなくなる。

 

意図は持つのだが、

その意図を

完璧に手放し、

 

すべてと共に

流れていく

 

ようにすることで

思わぬことばかりが

起こるが、

しかし当初の意図以上の

展開が起こり、

 

びっくりしながら

感動しながら

 

そして

常に面白さを感じながら

 

進むことができる。

 

私はこれをいつも

「真本音度合いを高める」

というサポートを

通じて

クライアントさん達に

ご体験いただいているが、

 

サポートしている側

である私自身が

 

あまりに意図通りに

行かないので

笑ってしまうというのが

最近の傾向だ。

 

すべては

意図通りには

行かない。

 

しかし、

願いは叶う。

 

・・・この醍醐味を

私は多くの方が

味わえるといいなぁと

思うし、

 

私自身も

もっともっと

味わい続けたいと

思っている。

 

つづく

 

その意図から自由になろう

 

みんな、

「意図」を

持ち過ぎだ。

 

意図を

持つな。

 

と、

あえて断言せねば

ならないほどだ。

 

意図を手放せた時、

初めて観える

ものは

 

あまりに

多過ぎる。

 

意図があるが故に、

その多過ぎることの

一つとして

観えないままでいる。

 

これでは

人生も仕事も

進まない。

 

ただし。

 

意図を手放すためには

「準備」が

必要だ。

 

それは

自分自身の意図と

しっかり向き合うことだ。

 

例えば、

人と会う場合、

 

今回は

どんな目的のために

会うのか?

 

そこでは、

自分は何を本当に

伝えたいのか?

 

何を共に

考え合いたいのか?

語り合いたいのか?

 

何をその場の

ゴールとしたいのか?

 

そしてそのために、

自分はどんな問いを

そこで投げたいのか?

 

それら、自分の「意図」を

本質的にしっかりと

考えることだ。

 

自分の意図を

しっかり考え、

明確にすることで

初めて、

 

意図は手放せる。

 

もちろん、

しっかり考えたら、

「そんな場にしよう」

強く思えばいい。

 

意図通りで行きたい

強く思えばいい。

 

その気持ちでもって

その人と

会えばいい。

 

そして、

会ったその瞬間から

自分の意識を

その人にのみ

向けてみよう。

 

その場にのみ

向けてみよう。

 

その人を

その場を

味わい、楽しんで

みよう。

 

すると

自分の意図は

どうでもよくなってしまう。

 

この

「どうでもよくなる」

ことが重要で、

 

これが

「手放せた」

という証だ。

 

手放せた結果、

その場は

まったく想定外の

展開になることは多い。

 

しかし、

手放せたからこそ

意図通りの展開に

なることも

またよくあることだ。

 

どちらでもいい。

 

どちらでもそれは

とても素敵な

展開となる。

 

要するに。

 

しっかりと

準備せい!

 

ということだ。

 

人とコミュニケーションを

とる前には

それくらいしっかりと

準備をする。

 

一つ一つ

しっかりと。

 

それにより

「自分の意図」という

狭い世界から

 

私達は自由に

なれるんだよ。

 

つづく

もっと自由に進め

 

「こうすれば

上手く行くな」

 

と、

頭の中に浮かんだ

あらゆる発想を、

 

私はいつも

すべて

捨てる。

 

それを持っておくと

ロクなことがない

からだ。

 

それを持った途端に、

私は自分の意図

の通りに

物事を進めようと

してしまう。

 

そこに待っているのは、

想定外のことが

決して起こらないという

つまらなさ、

 

 

想定内のことすら

上手く行われないという

失望、

 

 

何よりも、

常に自分が何かに

縛られ続けているという

窮屈さ、

 

などである。

 

結局は

自分の意図が

いつの間にか

自分を縛っている

ということなのだが。

 

要するに

自分が自分を

縛っている。

 

そのような人生では

面白いはずがない。

 

自由な

はずがない。

 

私は決して

自分の意図で

自分を縛るような

不自由なことは

しない。

 

・・・・・・

 

意図をすべて

手放す。

 

捨てる。

 

自分の思惑の

道筋を

消去する。

 

すると、

 

今この瞬間を

完全に

自由に生きる自分

 

のみが残る。

 

その自分は

目の前に展開する

「現実」達を

 

ただあるがままに

見つめる。

 

ありありと

「現実」の「本質」が

自分の中に

入ってくる。

 

すると、

何かを思い出すかの

ように、

 

次の自分の

一手

(つまりは行動や

振る舞い)

 

わかる。

 

「わかる」と言っても

「わかったから

そうしよう」

というように

思う時間すら、

そこにはない。

 

そう解釈する前に

勝手に自分は

その通りに

動いている。

 

するとそこに

「調和」が

生まれる。

 

・・・・・・

 

以上のような

そういった生き方、

行き方

の出来ている人は

増えているのではないか。

 

これを天然で

行なっている

若者も増えている。

 

真本音度合いを

高める、

ということは、

このような生き方に

なるということだ。

 

それは

先ほども書いた通り、

 

自分自分を

拘束しない生き方

であり、

 

自由な生き方

である。

 

そういった生き方を

する人が

これからの世の中を

引っ張っていって

ほしい。

 

そういった生き方を

する人の輪を

広げていって

ほしい。

 

それが、

世の中全体

社会全体の

調和度を一気に高める

最短の道だ。

 

つづく

 

淀んだコミュニケーションはもうしない

 

実は、こう見えて、

私は

自分の喋りたいことの

10分の1も

喋ってはいないと

思う。

 

普段の会話でも、

コーチングのような

サポート現場でも、

結構、

喋りたいことや

伝えたいことは

心の中に

たくさん浮かんで

来るんだよ、

本当は。

 

でも、

それを口に出そうと

すると、

喉が詰まってしまうんだ。

 

そして、

自分の意図とは

まったく違う言葉が

私の口が

喋り出すことも

実に多い。

 

しかし、

大概その言葉こそが、

その場には相応しい

最善の言葉

だったりする。

 

あぁ、さっきの私の

言おうとした言葉を

言わなくてよかったな、

 

勝手に口が動いて

くれて

よかったな、

 

と、

ほぼ、毎日、毎回

思っている。

 

こういう話を

聴けば、

ひょっとすると

「たけうちさんって

結構、不自由なんだなぁ」

という印象を

持たれるかもしれない。

 

いやいや、

逆だ。

 

私はとても

自由だ。

 

自由だからこそ、

これができると

思っているし、

 

いつもこうなる自分を

自由なヤツだなぁ、

自分で思うのだ。

 

・・・・・・

 

だいたいだね、

私が私の意図通りに

喋ろうとする言葉の

ほとんどには

 

「迷い」

 

がある。

 

100%とはちょっと違う

言葉達だ。

 

もちろん

本音で思っていることを

私は喋ろうとするので

あるが、

 

それは恐らく、

ちょっと淀んだ本音だ。

 

99.9%以下の

本音達だ。

 

だいたい、

意図した気持ちってのは

そんなもんだ。

 

これを私は

 

『反応本音』

 

と呼んでいる。

 

反応本音の言葉は

私の口からは

決して出ない。

 

出そうと思っても

出ない。

 

きっと私の真本音が

止めているのだろう。

 

・・・・・・

 

さて、その

 

『真本音』

 

だが、

これは

100%の意思であり、

言葉達だ、

とも言える。

 

それは

「わがまま」とは

真逆だ。

 

なぜ、100%になれるか?

と言うと、

相手と(もしくは、世界と)

繋がっているからだ。

 

繋がりを感じた上での

言葉達なので、

そこには

迷いや淀みが

ない。

 

だから

とてつもなく

スッキリと言葉達が

口をついて出て来るのだ。

 

そんな言葉のみによる

コミュニケーションは

もちろん、

調和しか生まない。

 

これを私は

『真本音コミュニケーション』

と呼んでいるが、

 

これができるようになると、

人生が本当に

楽になる。

 

自由になる。

 

自分の意図、

なんていう

ちっぽけで狭い世界から

放たれた、

 

大きな自分として

ここにいられるのだ。

 

・・・・・・

 

私の使命の一つは、

この

真本音コミュニケーション

のできる人を

増やしていくことだ。

 

これは

特殊な能力ではなく、

人類であれば

本当は誰もが

持っている力、

 

しかしみんなが

忘れてしまっている

力だ。

 

まずは、

人をサポートする

立場の人達が

これができないとね。

 

自由な人が

サポートして初めて、

みんなが真に

自由になれると

思うんだ。

 

つづく

 

進む方向に進もう

 

一つの方向に

まるで吸い込まれる

ように、

人生の展開が

進むことがある。

 

そっちに行くのは

まったく意図してないし、

むしろ

そっちに行くのは

気が進まないのに、

 

なぜか

その方向に

進んでしまう。

 

そんな時は

委ねてしまおう。

 

個人の

自分の

思惑を

手放してしまおう。

 

これは

迎合ではないし、

優柔不断でも

ない。

 

自分自身の

真本音と

顕在意識が

乖離してしまっている

だけのこと。

 

私達の顕在意識は

やはりどうしても

「クセ」

がある。

 

これまでの人生経験の

中で培ってきた

クセだ。

 

だから

反応本音レベルのクセ

が多い。

 

その「クセ」からすると

今は絶対に

右に進むべきだと

思うのに、

 

なぜか

展開はすべて

左に進んで行く。

 

いやいやいや

ここは右でしょ!

 

と思うのだが、

どうしても左に

進んで行ってしまう。

 

それは、

これまでの「クセ」を

超える時期に来ている

ということだし、

 

それを強い意志で

(つまりは真本音の意志で)

あなた自身が

進めようとしている

ということだ。

 

顕在意識レベルの

思惑や意図は

手放し、

 

自らの真本音の

意志に

委ねてしまおう。

 

そうして

新たな自分を

開拓しよう。

 

つづく

 

意図通りにいかねーなぁ

 

本当にやろうと

思っているのに

できないこと。

 

本当は

やろうとしていないのに

どんどん進んで

しまうこと。

 

本当は

どっちでもいいのに

決断を迫られること。

 

本当は

こっちがいい!と

思っているのに

その逆の展開ばかり

起こること。

 

・・・人生は

自分の意図通りに

進まないことばかりだ。

 

それを

意図に即して進むように

するにはどうすれば良いか?

 

ということを

皆、

考え過ぎではないか。

 

これは私の意見だが、

 

ここは

諦めた方がよい。

 

・・・・・・

 

面白いことに

ここを諦めると、

 

次々に想定外の調和が

起きてくる。

 

まったく意図通りに

物事が進まないのに、

 

自分の想定以上の

結果が出たりする。

 

自分の想像もしていなかった

素敵な展開が

起きたり。

 

そして気がつくと、

当初自分が

願っていたことは

いつの間にか

実現されている。

 

もちろんそれは

真本音の願いに

限ってのことだが。

 

・・・・・・

 

私達は

「上手くいかない」

思い過ぎだ。

 

かと言って

「なんだかんだと

上手くいっている」

無理に自分を納得させる

必要もない。

 

・上手くいく

・上手くいかない

 

という次元に

いなければいい。

 

上手くいっても

いかなくても、

それらを楽しもうと

すればいい。

 

と私は思う。

 

実は、

 

こういう面で言えば、

私の日々は、

上手くいかない

ことばかりだ。

 

ほぼ、

自分の意図や

思惑通りに

進まない。

 

とは言え、

頭の中では

「こうなるといいな」

という思惑は

いつも生まれる。

 

でも、

その通りにいった

ためしがない。

 

「ほらやっぱり

思惑通りには

いかないよな」

 

と、

事実を目の前にしながら

私はいつも

内心、苦笑いしている。

 

が、それも含めて

すべてを

楽しむことにしている。

 

委ねることに

している。

 

・・・・・・

 

ただし。

 

かといって

思惑や意図を考えることを

やめる

こともしない。

 

私は仕事の準備は

とてもしっかりとする。

 

コーチングも研修も

イメージングを

しっかりする。

 

その努力は決して

怠ってはならないし、

それをしない人が

「上手くいかない」と

嘆いていても、

 

そりゃそうだろ、

と思う。

 

意図通りに

いかないことが

わかっていても、

しっかりと自分の意図を

顕在化するのだ。

 

それをすると、

意図通りいかないこと

自体を

楽しめるようになる。

 

そして、

自分の意図を超えた

素敵な展開を

目の当たりに

できる。

 

そしていつも

純粋に思えるのだ。

 

人生ってのは

すげーなぁ。

 

人間ってのは

すげーなぁ。

 

ってね。

 

つづく

 

本当は決めていることはある

 

私には

決めていることが

ある。

 

でも

その全貌が

まだ、ほぼ

わからない。

 

でも、

ちょっとだけは

わかる。

 

だから、

そのちょっとだけ

わかっていることを

そのまま

実行する。

 

私は

意図を持たない。

 

いや、

意図を持つことは

大事だ。

 

自分の意図に

基づいて

自分で判断し、

自分で決断することは

「自律」という意味で、

とても重要だ。

 

そういった意味では

私はちゃんと

意図を持っている。

 

ただ、

その、意図の全貌が

わからない。

 

わからないことを

勝手に頭で

想像して、

頭のレベルで

(顕在意識のみのレベルで)

意図を決めることは

しない。

 

それをしても

本来の意図とは

ずれてしまうことが

よくわかるからだ。

 

そういった意味で

私は

顕在意識(頭)では

まったく自分自身のことを

理解できていない。

 

というよりも、

理解しては

ならないのだと

思っている。

 

理解せずに

ちょっとずつ

わかることだけを

そのまま素直に

実行することで、

結果的に

最短の道になること、

これもよく

わかっているからだ。

 

根拠はないのだが、

それが私の

確信だ。

 

・・・・・・

 

私が決めていること

の中で、

今、明確に

わかっていることは、

 

私はもう

一人では

進まない。

 

ということだ。

 

私はある意味

これまでずっと

一人で

やってきた。

 

例えば、

企業様にサポートに

入る場合も、

私一人で

やってきた。

 

もちろん、

ビジネスパートナーは

いるし、

一緒に営業なども

するのだが、

いざ、肝心部分のサポート

となると、

すべて一人で

やってきた。

 

だから、

お客様も含めて、

私の肝心部分の

サポートのやり方の全貌を

ご存知の方は

この世の中に今のところ

私以外に一人もいない、

のだ。

 

これはまずい、

思う。

 

このままでは

私の後継者が

育たない。

 

もちろん、

後継者と言っても、

私とまったく同じことを

する必要はない。

 

ただ、

私が普段

自分でも気づかずに

実行していることや、

私が普段

何気なく大事にしている

サポートの本質などを

ちゃんと

顕在意識のレベルで

知るというのは

とても大事なことだと

思うのだ。

 

だから私はもう、

できるだけ

一人では

やらないように

しようと決めた。

 

サポート現場に

入るのも、

私と同じ志を持つ人と

共に入ることにする。

 

現場こそが、

一番の育成の場

だと思う。

 

私は実は、

セミナーなどで勉強をした上で

今のお仕事を始めた

わけではない。

 

まったく何のノウハウも

ない状態で

私は現場に出た。

 

私のノウハウの

9割以上は

現場の中で

培ったものだ。

 

私が

一般的なセミナーなどに

受講生として参加して

勉強を始めたのは、

このお仕事を始めて、

10年近く経ってからだ。

 

しかもそれは、

私が現場で得たことの

整理のために

出たくらいで、

おかげで

現場での学びがやはり

一番であるという事実の

確認にもなった。

 

だから私は

「コーチ」の育成も

現場育成を

大事にしたい。

 

・・・・・・

 

自分自身が何を

決めているか?

 

は、誰もが

知りたいところだろう。

 

しかし

私達の真本音は

最初からその全貌を

自分自身には

教えてはくれない。

 

知るということは、

それを必ず

実行に移す

ということだ。

 

そのためには

覚悟が要る。

 

その覚悟を持てる

自分になること、

そして能力も含めて

自分自身の

準備が整うこと。

 

よし。

もう私は

先に進もう。

 

と、

真本音がOKを出す

ことで、

初めて観えてくる

のだ。

 

だから、

そのステップ自体を

楽しめばいい。

 

観えないことを

焦るよりも、

観えていることを

着実に一歩ずつ

実行に移していこう。

 

つづく

 

「指示」できるコーチが必要だ

 

私は夜、22時以降に

スカイプなどを使った

コーチングをすることが

多い。

 

夜中にしか

コーチングできない人も

いるからだ。

 

スカイプは基本的に

声のみで行なう。

 

声のみに

集中する。

 

そういったコーチングも

それはそれで

独特の良さがある。

 

クライアントさんの

姿は見えないのに、

あまりにも

まばゆい光を

感じることが

実は、よくある。

 

今も、お一人のコーチングが

終わったところであるが、

私はその人の光に

ずっと包まれていた。

 

その人は

今日のコーチングで

大きく開放された。

 

もはや、

「脱皮」という次元

ではない。

 

あえて言えば、

「羽化」

と言えるものだろうか。

 

サナギだったその人が

まるで突然変異のように

成虫へと

姿を変えた。

 

そして、

これまでいた地中から

抜け出て、

一気に大空に

高く飛び上がった。

 

果てしなく

上昇を続けていく。

 

そんな姿が

ありありと観えるような

コーチングだった。

 

・・・・・・

 

こういう時、

私は

やっぱり人の可能性は

無限なんだなぁ、

と、いやでも

思ってしまう。

 

と同時に、

なんでこんなコーチングが

できたのだろうか、と

自分でも

わからなくなる。

 

恐らく、

意図がないからこそ

できることなのだろう。

 

本当に私には

まったくの

意図がない。

 

その人を

開放させてやろう、

とか、

気づきを与えてやろう、

とか。

 

それどころか、

その人が

成長するといいな、

という意図すら

ないかもしれない。

 

もっと言えば、

コーチングによって

良い成果が出れば

いいな、

という意図すら

ない。

 

何も、

ない。

 

その状態で

向き合うからこそ、

恐らく私は

その人の真本音の

「鏡」

となれるのだろう。

 

人は

本当の「鏡」を

観れば、

わかるものなのだ。

 

自分が何者で、

本当は

何を為すべきか?

ということを。

 

それは

他者が教えることでも

指導することでも

ない。

 

すべての人が

自分と向き合い、

自分自身と語り合う

ことでしか、

見つけられない

ものなのだ。

 

・・・・・・

 

意図を

手放す。

 

これができる

コーチが

ほしい。

 

そんなコーチが

増えると

本当に

よいだろう。

 

一般的には

コーチとは、

答えを与えない人

のことを言う。

 

あくまでも、

クライアントさん自身が

答えを見つけ出すのを

サポートするのが

コーチだ。

一般的には。

 

しかし、

完全に意図を

手放すことが

もしできたとしたら、

 

そのコーチは

「教える」

ことができるのだ。

 

「答えは

こうですよ」

と。

 

「あなたは今、

こうすべきですよ」

と。

 

はっきり明確に

断定的に

教えることや、

指示することすら

できる。

 

意図のない

状態での

指示。

 

これほど

強烈なものは

ない。

 

そんなことができる

コーチを

私は育成したい。

 

つづく

 

もう思惑なんていいじゃない

 

これまでの

延長線上の未来を

描くことは、

 

もういっそのこと

やめて

しまいましょう。

 

そこに

私達の

本当に望む未来は

ありません。

 

よくよく考えると、

人生が

きれいな比例直線

のように

進むことは

ほぼありません。

 

どこかで

これまでの流れが

断絶し、

 

どこかで

これまでとは

まったく別の

地点に飛んだり、

 

別の世界に

ワープしたり、

 

非直線的に

進みます。

 

要するに、

思惑通りには

進まないのが

人生です。

 

なぜなら

私達の真本音が

「思惑を超える」

ことを

望んでいるから

です。

 

非線形

の人生。

 

これが、

普通の人生です。

 

・・・・・・

 

どうせ

思惑通りに

いかないのであれば、

 

その

思惑通りに

いかないこと自体を

楽しみましょう。

 

思惑通りの法則に

則らない、

という法則を

そのまま受け入れる

ことで、

 

私達は

ある種の

次元の異なる

安定感を得ます。

 

何が

起きてもいいし、

 

何も

起こらなくても

いいや。

 

というところに

立ち、

 

すべての思惑を

手放し、

 

ただ

「ここ」

にいる。

 

そのような状態に

入ることで、

非線形の人生は

 

一気に

加速します。

 

反応本音のレベル

では、

それを

「怖い!」

と認識するかも

しれませんが、

 

それは

あくまでも

反応本音。

 

その反応本音すら

そのままに

しておきます。

 

つまり

心もそのまま。

 

何がどのように

動いてもいい。

 

という状態に

しておきます。

 

・・・・・・

 

ということは

つまり、

 

現実で、

何が起きても、

何も起こらなくても、

いい。

 

心の中も、

何が起きても

何も起こらなくても

いい。

 

という状態にします。

 

これを

私のよく使う言葉で

さらに端的に

言えば、

 

実在も

現象も

どうなっても

いいや。

 

・・・という状態。

 

実在も

現象も

あるがままで

いいや。

 

・・・という状態。

 

こうなることで

私達は

完全なる自由を

手に入れます。

 

非直線的で

非線形の

人生を、

 

まったく

思惑を持たずに、

 

完全に

コントロール

する状態と

なります。

 

そこに至って

私達は

知るのです。

 

なんだ、

すべては

「一つ」

ではないか。

 

すべては

「私」

であり、

すべては

「あなた」

ではないか。

 

私がこれまで

「思惑」と

呼んでいたものは、

 

全体の中の

たった一個の

細胞が、

全体から

分離された

とてつもなく狭い

視野の中での

とてつもなく

小さな意図に

過ぎなかったのだ、

と。

 

本当の意図は

ここにあった。

 

本当の意図は

「すべて」に

あり、

そして

「私」にあり、

さらに

「あなた」に

あった、

と。

 

言葉にすると

ややこしく

なりますが、

 

以上を

「感覚として」

完全に

理解している、

・・・というよりも

思い出している

意識を

 

『8次元の意識』

 

と私は呼んでいます。

 

・・・・・・

 

8次元の意識を

思い出したと

言っても、

低い次元の意識が

なくなることは

ありません。

 

すべてが一つである、

とわかっている

意識もあれば、

 

すべてが分離した

中で生きる意識も

あります。

 

すべての次元が

共存する

世界。

 

それが、

「人間」

です。

 

そんな「人間」が

繰り広げる人生

なのですから、

 

それが

面白くないわけが

ありませんね。

 

つづく

 

すべての意図を手放します

 

人や組織のサポートを

させていただく時に、

私がいつも

最も気をつけている

ことは、

 

私自身の意図を

まったく持たない、

 

ということです。

 

これは本当に、

まったく

持たないです。

 

私が意図を持ったら、

その時点で、

あらゆるサポートが

意味を成さなく

なるでしょう。

 

もちろん私は

クライアント企業の社長から

「こうしてほしい」

というご要望を

たくさんいただきます。

 

例えば、

「売上の上がらない

管理職を

売上を上げられる状態に

してほしい」

など。

 

当然のことですが、

「結果」を

求められます。

 

そして私も当然ですが、

「結果」を

とても大切にします。

 

「結果」が出なければ

意味がない

とすら思っています。

 

しかし、

だからこそ、

私は、私自身の「意図」を

すべて手放します。

 

・・・・・・

 

ご要望は

すべて受け取ります。

 

私自身に

しっかりと

インプットします。

 

ご要望そのものと

「一体化」

します。

 

その上で、

私は「意図」を

手放します。

 

「意図」を手放すことで

私は完全に

「自由」

となります。

 

その状態で私は

すべての方々と

向き合います。

 

すると、

私が向き合う方々も

徐々にですが

「自由」となっていきます。

 

「自由」とは、

「真本音が自由となっている」

状態を言います。

 

私は

皆さんの真本音を

「自由」な状態に

したいのです。

 

そのために、

まずは私自身が

「自由」になります。

 

すると「自由」は

目の前の人に伝播し、

その人の真本音も

「自由」となります。

 

・・・・・・

 

私の「自由」と

目の前の人の「自由」。

 

自由と自由が

向き合う状態。

 

この状態を

創り上げるのが、

まずは私の目指す

ところです。

 

人は

本当に自由になると、

二つの面白いことを

起こします。

 

一つは、

 

「自分のすべきことを

しっかりしよう」

 

となるのです。

 

迷いなく、

淀みなく。

 

そして

もう一つは、

 

「目の前のこの自由な人を

私は活用しよう」

 

となります。

 

その瞬間から、

「たけうちがその人を

コーチングする」

という場が

本質的に変化し、

 

「その人が

たけうちを活用する」

という場になります。

 

そうなったらもう

あとは、

その人の真本音に

委ねるだけ

です。

 

そうなるとその人は、

自分自身の真本音に

基づいて、

現実と向き合い、

現実に対して

必要な行動を起こし、

自分が望み、かつ

周りも望む結果を

自ら生み出すようになります。

 

私がどうこう

引っ張る必要は

まったくありません。

 

勝手にその人が

現実を創っていくのです。

 

ということはつまり、

私は私の「意図」を

挟む余地が

どこにもないのです。

 

私が何かの思惑を持ち、

その方向に

引っ張る必要は

まったくないし、

それをすればするほど、

それは

「その人自身の場」ではなく

「たけうちコーチの場」

になってしまいます。

 

そして当然ですが、

もしそうなってしまった場合、

望む結果は

出るはずがありません。

 

・・・・・・

 

中途半端な自由は

ただのわがままに

なります。

 

それは

反応本音レベルの

自由です。

 

それは実は

本当は自由ではなく、

わがままという名の

束縛でしかありません。

 

人は

本当に自由になれば、

そして

本当に真本音で生きれば、

自分が

すべきこと、

周りから求められていること、

に対して、

本気で応えようとします。

 

束縛されて

そうしようとするのではなく、

自由な状態で

本気でそうしようと

思うのです。

 

なぜなら私達人間は、

「自分だけの幸せ」

よりも、

「自分も周りも幸せになる」

ことに

本質的な悦びを感じますし、

 

「自分が起点となって

周りが幸せになっていく」

ことに

無上の悦びを

得るからです。

 

それが

人の本質。

 

私はその本質を

どこまでも

大切にしたサポートを

したいのです。

 

つづく

 

思惑通りに進む人生は、人生ではない

人生とは、

思惑通り・意図通りに

いかないように

できています。

 

なぜなら、

思惑通り・意図通りに

すべての物事が

進んでしまうと、

人生の意味そのものが

なくなるからです。

 

人生の意味とは?

 

様々な視点からの

答えがありますが、

最も根本的な視点から

言えば、

それは

 

「進化」

 

です。

 

私達自身の「進化」のために

人生はあります。

 

そのことを

最もよくわかっているのが

私達自身の「真本音」

です。

 

人生というステージにおいて

私達の真本音は

「進化のための一歩」

を踏み出し続けようと

します。

 

真本音度合いが高まる

ということは、

進化へのスピードが

高まるということです。

 

真本音度合いが低い

ということは、

進化へのスピードが

遅い、

もしくは

進化をまったくしていない

ということです。

 

そして人は、

進化を続けている時は

楽で

安定して

安心できます。

 

進化が止まっている時は

苦しく

不安で

不安定になります。

 

ですので、

人生が思惑通りに

進むようになると、

実は

私達は苦しくなるのです。

 

不安になり

不安定になるのです。

 

面白いでしょ?

 

・・・・・・

 

真本音度合いが上がると

自分の思惑は

ほぼ、すべて

外れるようになります。

 

思惑とはもちろん、

顕在意識レベルの思惑を

指しています。

 

私も、

真本音度合いが

高まれば高まるほど

自分の思惑が

外れるようになりました。

 

思わぬ展開、

というのが多く

なりました。

 

しかしその代わり、

自分の「願い」や「祈り」は

必ず実現するように

なりました。

 

思惑通りにいかないのに、

「願い」「祈り」は

必ず実現する。

 

これが

真本音度合いの高まった人の

人生展開の

特色です。

 

だから、

面白くって

しょうがない。

 

本当に

面白い。

 

へぇ、

こう来たか!

 

まさかこんな展開に

なるとは!

 

へっ?

こんな道があったの?

 

・・・みたいな

あまりに楽しく

劇的な展開が

多くなります。

 

ひょっとすると

以前の自分が

「これは奇跡だ!」

と思っていたことが

今は日常茶飯事で

起きているのかも

しれません。

 

思惑通りに

いかないということは、

自分の顕在意識の

範疇の発想では

到底収まりきれないような

展開がある

ということです。

 

それは多くの場合、

「想像以上に

面白い展開だ!」

ということです。

 

「想定以上に

楽しかった!」

ということです。

 

それこそ

「冒険」

です。

 

冒険とは

その途上においては

上手くいかないこと

ばかりです。

つまりは、

思惑通りにいかないこと

ばかりです。

 

しかしだからこそ、

その後の展開と

結果が

感動的になります。

 

そう。

 

人生に

感動が多くなる

のです。

 

それが

真本音で生きる

ということであり、

真本音度合いが高まる

ということです。

 

・・・・・・

 

セルフコーチング法とは

真本音度合いを高める

ためのものです。

 

真本音度合いの高まらない

セルフコーチング法が

もしあるとすれば、

それはもう

セルフコーチング法では

ありません。

 

そして

セルフコーチングを

すればするほど、

思惑通りに

進まなくなる

ということになります。

 

自分と向き合えば

向き合うほど、

思惑通りに進まなくなる

のです。

 

面白いでしょ?

 

でもそれこそが

「人生」の

本当の意味なのです。

 

セルフコーチング法とは

人生の本当の意味を

実感するためのもの、

人生の醍醐味を

より強く深く

感じ取るためのもの

とも言えますね。

 

・・・・・・

 

思惑通りにいかない、

ということは

それだけ

後悔が多くなる

ということになります。

 

人は、

後悔することを

嫌がります。

 

でも、

私達の真本音は

わざと後悔を

呼び起こすような展開を

自分にもたらすことが

あります。

 

それはやはり

「冒険」の

ためです。

 

それを通じた

「進化」のためです。

 

私にも

「後悔」は

いくらでもあります。

 

日々、

「後悔」を

量産し続けています。

 

しかし

「後悔」が来た時が

私にとっては

喜びの瞬間でもあります。

 

なぜならそれが

「冒険」の始まり

であり

「感動」の始まり

だからです。

 

ただし、

「後悔」にも、

良い後悔の仕方と

悪い後悔の仕方が

あります。

 

セルフコーチングとは

良い後悔をするためのもの

とも言えます。

 

後悔が起きた時の

セルフコーチングのやり方。

 

それを

次回から

ご紹介しますね。

 

つづく

 

我欲とは、人にとってなくてはならないもの

ここのところ

「意図を手放す」

というテーマで記事を書かせて

いただいています。

(→前回記事)

 

これは、

「次元を上げる」という意味では

非常に重要な部分ですので、

さらに詳しく見ていきましょう。

 

まず、

「意図」

とは何でしょうか?

 

ここではちょっと乱暴な

書き方を、

あえてしますね。

 

「意図」とは

我欲です。

 

我欲とは、

「すべてが分離している」

という前提において、

自分だけが良ければよい、

という意識の塊から

発せられるものです。

 

我欲と言うと、

それは良くないもの、

という印象があるかもしれませんが、

我欲はもちろん

すべての人にあり、

我欲があるからこそ

人間であるとも言えます。

 

「私にはもう我欲はありません」

と言う人がたまにいますが、

嘘です。笑

乱暴な言い方ですが、

自らの我欲を見つめていない

だけのことです。

 

我欲があるのが、

人としての尊厳である、

と私は思います。

 

人の素晴らしさとは、

高い次元から低い次元まで

すべての次元の意識を

包含しているところです。

 

それこそが

人であることの意味と

価値です。

 

「私には我欲がありません」

とか

「我欲を捨てなければなりません」

というのは、

人としての価値と意義を

自ら放棄していることになります。

 

とは言え、

我欲のみを尊重し、

我欲のみに巻かれて動けば、

ほぼ必ず

不調和が起きます。

 

争いや諍いが

起きます。

 

我欲とは、

人として

あるべきもの。

 

しかしその我欲は

我欲単体であるべきもの

ではなく、

高い次元の意識によって

活かされるもの

なのです。

 

高い次元の意識は

愛のエネルギーが

高いです。

(愛とは、については

またいずれ触れることに

なります。

今はあえて飛ばします。)

 

高い次元の意識が

我欲を活かすということは、

我欲が

愛のエネルギーで満たされる

ことになります。

 

愛のエネルギーで

満たされた我欲は、

「その人がこの世で発揮すべき個性」

となります。

 

別の表現を使えば、

「その人のミッション(使命)」

への道しるべとなるのです。

 

「意図」とは

我欲です。

 

ただしその我欲は

ここまでご説明したように、

高い次元の意識とつながっている場合と

つながっていない場合が

あるのです。

 

つまり、「意図」にも

ざっくり言うと、

2種類あるのです。

 

①単なる我欲のみによる意図

②高い次元とつながった我欲による意図

の2種類です。

 

私が

「意図を手放す」

と言っている「意図」とは

①の方です。

 

①の意図を手放すことで、

②の意図が発動するからです。

 

②の意図が発動すれば、

すべてが調和します。

 

争いも諍いも

非常に起こりづらくなります。

 

スムーズに道が

開きます。

 

・・・ということなんですね。

 

そして前回の記事で

申しました通り、

①の意図を手放すためには、

しっかりと思考レベルで

①の意図について考え尽くすことです。

 

①の意図を持ってはならない、

とか、

①の意図は、私にはもうない、

と言っている内は、

自分の知らないところで

①の意図に自ら

取り込まれてしまうのです。

 

自分と

向き合いましょう。

 

自分の心の中にある

あらゆる意識と

向き合いましょう。

 

高い次元から

低い次元まで、

たくさんの意識があるのが

私達人間です。

 

そこが

人の素晴らしさであり、

だからこそ我々は

進化できるのですから。

 

つづく

 

意図から自由になるために、とことん意図する

自分自身の思考レベルでの

思惑や意図に捕らわれ、

それを達成するために

必死になって策謀を重ね、

焦りながらも結果を出そうとする。

 

・・・そんな疲れる人生から

私達は自分を解放することが

できるのです。

 

前回の記事で

私は上記のように書かせて

いただきました。

(→前回記事)

 

今回は、この件について、

もう少ししっかりと

書かせていただきますね。

 

「意図を持たずに生きる」

という言い方をしますと

誤解をされることが多いです。

 

そっか、意図を持たなくていいんだ。

何も考えずに行けばいいんだ。

・・・という誤解です。

 

逆です。

 

自分の意図に執着せずに、

自分の意図から自由になるためには、

とことんまで

意図を考えることが重要なのです。

 

意図から自由になるためには

意図をしっかり考える。

 

一見、矛盾しているようですが、

そうではありません。

 

例えば、

肩に力が入っている場合、

肩の力を抜く最も簡単な方法は、

「肩の力を抜こう」

とすることではなく、

「思いっきり肩の力を入れてしまう」

というやり方です。

 

とことんまで

肩の力を入れると、

フッと、力が抜けます。

 

その要領と

同じことなのです。

 

例えば、明日

大事な営業があるとします。

 

どうしても受注を

しなければならない。

 

果たして良いクロージングが

できるだろうか?

 

不安に苛まれていると

します。

 

そんな時に、

「不安になるな、不安になるな」

「気楽に行け、気楽に行け」

と、どれだけ自分に言い聞かせても、

余計にガチガチになる

だけでしょう。

 

そんな時は、

とことんまでクロージングの

イメージをするのです。

 

思いっきり自分の意図を

明確にし、

意図に基づいて、

「こうしたい」「こうなりたい」

「こんな展開になれたらいい」

という自分の思惑を

しっかりとイメージ化するのです。

 

イメージしてイメージして

イメージし尽くせば、

ある瞬間に、

フッと楽になります。

 

まぁこれだけイメージしたのだから

何とかなるだろう、

と自分の中で「完了感」が

生まれるのです。

 

そして次の日に、

実際にお客様にお会いする直前にも

前日のイメージをしっかりと

思い出します。

 

まぁこれだけイメージしたのだから、

やるだけのことはやったな。

 

そんな気持ちを持ちながら

お客様の前に出ます。

 

そして「今ここ」に意識を向ければ、

自分がイメージしてイメージして

明確にし尽くした「意図」が

どうでもよくなります。

 

意図やイメージを

ポンっと手放すことが

できるようになるのです。

 

するとどうなるか?

 

「今ここ」に

完全に集中することが

できます。

 

そして、

次にどんな一言をお客様に

投げれば良いか?など、

直観がどんどん働くように

なります。

 

その直観こそが、

真本音の意思です。

 

その真本音の意思に

委ねれば良いのです。

 

直観のままに

直観に素直に

行動をするのです。

 

それが

「自分に委ねている」

状態です。

 

私達人間には

考える力があります。

 

考えることを放棄するのは

単なる怠慢です。

 

怠慢な人には残念ながら

直観は生まれません。

 

考え尽くすからこそ

直観は生まれます。

 

思考とは

直観の呼び水なのです。

 

ただし、

上記のように、

よく考え、よく意図を持ち、

その上で意図を手放し、

直観に委ねる、

ということを続けていますと、

考えたりイメージをするのに要する時間は

どんどん少なくなります。

 

考えなくても

直観のみが、

次々に湧き起こる状態に

なっていきます。

 

そうなると本当に

楽ですね。

 

しかしその境地まで行くには、

よく考える、

ということが必須なのです。

 

つづく

 

自分の意図に疲れてしまう人生にサヨナラしよう

前回、「自分に委ねる」ということについて

書かせていただきました。

(→前回記事)

 

今回も、もう少しこの件について。

 

「自分に委ねる」ことのできる人は

ある時には突拍子もない行動に

出たりします。

 

ただしその「突拍子のなさ」は、

本人がそう思う、

というだけのことであり、

周りがどう見るか、ということでは

ありません。

 

つまりは、

これまでの本人の思考と行動パターンを

大幅に逸脱するからこそ

「突拍子もない」と本人が感じる

ということですね。

 

そういった意味での

突拍子のない行動を取る時、

本人の顕在意識は

ドギマギしています。

 

それはそうです。

 

これまでにないパターンの

動きを取るわけですから。

 

しかしそのドキマギを

横に置いて、

何の躊躇もなくその行動を

取ることで、

私達は自然に

「肚が据わる」

という状態に入ります。

 

「開き直る」

と言ってもよいかもしれません。

 

この状態は、

真本音が選択している行動

でなければ生じません。

反応本音レベルの

突拍子のない行動では、

開き直るどころか、

心も体も浮ついてしまいます。

 

顕在意識では

「おいおい、大丈夫かぁ」

となっていても、

周りから見れば、

実に落ち着き、確信に満ちた

表情や空気感を

醸し出す状態が、

開き直っている状態です。

 

この状態に入れば、

道は必ず開かれます。

しかも、

なんでこんなに簡単に開くの?

というくらいに

スムーズにすべての事が

運びます。

 

実在レベルでは

凄いエネルギーが発生し、

それがモロに

すべての人に波及し

強い影響を与えているのです。

 

こちらが、一つ動けば、

10の成果が上がる。

・・・というくらいの印象を

本人は覚えるでしょう。

 

そして一度これを体験すると、

これが

「当たり前」

となります。

 

突拍子もないと思っていた

自分の行動が、

「普通の行動」となります。

 

ますますその人は

肚が据わります。

 

こうして人は、

自分の幅を広げていきます。

 

これが

自由になる

ということです。

 

さて。

 

突拍子もない行動に

慣れてきますと、

基本的に、突拍子もない行動

自体が本人の中からは

なくなってしまいます。

 

すべてを淡々と

決めた通りに行動するだけ

の自分。

 

しかも自分で何かを意図するのでなく、

ただ、自分に委ねているだけ

という感覚です。

 

すると今度は、

余分な行動が激減します。

 

いえ、正確に言えば、

これまでは本人にとっては

それらはすべて

必要な行動である、と

思い込んでいたのですが、

何となく、

どうでもよくなってしまうのです。

 

結果、

どうでもいいと思うことは

すべて行動しなくなります。

 

すると、

じっとしている時間が

増えます。

 

何もしない時間が

増えるのです。

 

そして、

本当に必要だと思う行動のみ

何の迷いもなく、

何の淀みもなく

実行に移します。

 

しかもそこに

思考レベルの思惑や意図はなく、

ただ、

そう思う自分に委ねるだけ

という感覚。

 

しかしそれをすれば、

その一石だけで、

波紋は大きく深く広がり、

物事が想定以上のスピードで

展開していく。

 

そうなるともう、

生産性は

大袈裟ではなく

10倍以上になるのでは

ないでしょうか。

 

自分自身の思考レベルでの

思惑や意図に捕らわれ、

それを達成するために

必死になって策謀を重ね、

焦りながらも結果を出そうとする。

 

・・・そんな疲れる人生から

私達は自分を解放することが

できるのです。

 

束縛からの解放

というのは、

「結果を出さなくてもいい」

とか

「責任を負わなくてもいい」

ということではなく、

むしろ、真逆です。

 

束縛から解放されて

本当の意味で自分に委ねることの

できる人は、

「出すべき結果をきちんと出し」

「負うべき責任をきちんと果たす」

ことが自然に

できるようになるのです。

 

現実が思うようにいかないので

あれば、

意図を持ち過ぎです。

 

意図に

執着し過ぎです。

 

執着では

結果は出ません。

 

これからの世の中の潮流においては

ますますその傾向が

高まります。

 

自分の真本音の想いに

素直に、

その時その瞬間に現れる

真本音の意志に

そのまま身を委ねる。

 

そんな生き方(行き方)を

一歩ずつでも

実行してみてください。

 

つづく

 

完全に意図を手放せば、素晴らしい展開が待っている

私はいつも、かなり綿密に

コーチングの準備をします。

 

今回のコーチングは、何の目的のために

何をすればよいか?

 

私は、どのような問いを投げ、

どのようなメッセージをプレゼントするか?

 

Aさんのコーチングがある前の日に、

私は以上のことを頭だけで考えるのではなく、

実際にシミュレーションします。

 

まるで目の前にAさんがいるかのようにして

前の日にAさんのコーチングを自分の中で

完了させてしまうのです。

 

それはイメージトレーニングに近いものが

あるかもしれませんが、

実はこれは、イメージトレーニングとは

本質的には異なります。

私はそれを、『実在コミュニケーション』と

呼んでいますが、

これについてはいずれ詳しく書かせていただくことに

なると思います。

 

なぜ、これほどまでに綿密な準備を

するのか?

 

その理由はたった一つです。

 

私の中から、すべての意図を手放すため

です。

 

これだけ綿密な準備をして行なったことを

私は、実際のAさんのコーチング時には

すべて手放します。

 

実は、準備をしっかりすればするほど、

簡単に、そして完全に、

手放すことができるのです。

 

意図を手放すために

準備するのです。

 

すると、実際のコーチングの場は

必ずと言ってよいほど、

私の意図を超えた、想像を超えた

素晴らしい展開になります。

 

意図を手放すということは、

完全に自由な状態になります。

 

私は、何物にも捕らわれない

完全に自由な状態として

クライアントさんと向き合うのです。

 

ですから、様々なことをキャッチしたり

クライアントさんと「一つ」になることも

できます。

 

これは私だけが持っている能力ではなく、

すべての人が私と同じようにすれば

同じ能力を発揮することができるでしょう。

 

木村さんと弓江さんの二人コーチングは、

そういった意味で、

完全に私の想定外の展開になっています。

しかしそれはつまり、

私が望んでいた展開です。

(→前回記事)

 

コーチングは、想定外になってこそ

コーチングです。

 

コーチの意図の範疇でのやりとりは、

コーチングとは言いません。

 

自分の意図の範疇でコーチングする人のことを

コーチとは言いません。

 

想定外の展開の中でようやく私は、

今回の木村さんと弓江さんの二人コーチングの

本当の目的に気づくことができました。

 

すべての雲が晴れた

感覚でした。

 

で、またもや思ったのです。

ここからが、この二人コーチングの

本番の始まりだ、と。

 

私はお二人に申しました。

 

「このままでは、新規事業プロジェクトが

成功しない、と3人ともが思っている

真の理由がわかりましたよ。」

 

「何ですか?」

弓江さんと木村さんの目が輝きました。

 

「新規事業プロジェクトは

ここまで順調だったということです。

実は、何の問題もなかったのです。

そして、ここまで順調だったからこそ、

この場があるのです。」

 

「・・・???」

 

つづく