自由に生きる、

 

ということの

一つの重要な

要素は、

 

自由に決断できる、

 

ということだ。

 

しかしその

「自由に決断」

とは

どういうことだろうか?

 

私達は一見、

自由に見える時でも

 

実は様々な

束縛の中にある。

 

「今日、一日

自由に何をしても

いいよ」

 

と言われても、

本当に自由に

私達は

行動できるだろうか?

 

よくよく考えると、

こうしてこのように

ここで生きている

ということ

そのものが

束縛ではないのか?

 

・・・というような

方向に意識が向かうと、

 

心はどんどん

虚無の方向に行く。

 

虚しくなって

くる。

 

このように

思考をすること

自体も、

束縛かもしれない。

 

自分を束縛している

ものを

列挙し始めたら、

 

恐らく

キリがないだろう。

 

そう。

 

私達は皆、

束縛の中にいる。

 

無数の束縛の

中で

生きている。

 

それが

人生であり

人間だ。

 

自由に決断

できている!

 

たとえ感じたと

しても、

 

それは、

ただ単に

自分では気づいて

いない

まだ自覚できて

いない

束縛の中で

決断しているに

過ぎない。

 

という

事実がある。

 

まずはここを

ちゃんと

受け入れないと、

私達は

自由にはなれない。

 

自由になる、

とは

束縛を外すこと

ではない。

 

自由と束縛は

実は

まったく関係のない

ものだ。

 

実にたくさんの

束縛に中にいても

私達は自由に

なれる。

 

逆に、

仮に束縛のすべてを

取り払うことが

できたとしても、

それだけでは

私達は自由になれない。

 

自分の不自由を

環境のせいにする

人は多いが、

 

それは

観点がズレている。

 

環境のせいで

不自由になる

ことはない。

 

実は、

 

私達はもう最初から

「すべて」を決めている。

 

あらゆる束縛の

中で、

しかしその

決めていることを

決めている通りに

進もうとしている。

 

そして、

 

決めていることを

決めている通りに

進めている時にこそ、

 

私達は

「自由」を感じる。

 

だから

ひょっとすると、

 

真の自由とは

真の束縛

なのかもしれない。

 

自由に決断する

というのは、

 

真の束縛の通りに

決断する、

 

ということ

なのかもしれない。

 

つづく