自信

自信は、ないなぁ

 

自信とは、

経験を積むことで

生まれるものだろう。

 

しかし私の場合、

どれだけ経験を

積んでも、

 

いまだに

本当の意味で

自信を持ったことは

一度もないのでは

ないか。

 

過信は

何度もあるが。(苦笑)

 

いつまで経っても

なんでこんなに

自信がないのだろう?

不思議に思う。

 

でも今は、

これが私の個性

なのだと

思っている。

 

そう。

 

自信を持てるか

どうかは、

その人の個性

だと思うのだ。

 

・・・・・・

 

恐らく

私の場合は、

 

自信を持たない

方が、

最大速で進める、

 

私自身が真本音で

わかっているの

だろう。

 

最大速で

進むために

自信を持たない。

 

そう

決めているの

だろうな。

 

かと言って

謙虚なわけでも

ない。

 

自信がない

のと

謙虚である

のとは

私の場合、だいぶ

違う。

 

謙虚であるか

どうか?は

時と場合だ。

 

しかし

自信がないのは

永遠に、

なのだ。

私の場合。

 

・・・・・・

 

これまで、

自信がないことで

随分と

助かってきた。

 

自信があるか

ないか?

という判断基準を

手放すことができた

からだ。

 

この判断基準で

物事を進めていたと

したら、

私のようなヘナチョコ人間は

一歩も人生を

進ませることは

できなかっただろう。

 

むしろ、

この判断基準を

手放したことで、

私は常に

自信の持てない方に

人生の舵を

切り続けていたような

気もする。

 

だから、

自信があることをして、

自身のないことは

しない、

というのが、

今の私にはよくわからない。

 

昔はそんな時期も

あったけど。

 

・・・・・・

 

自信をつける

必要のない人生は、

 

楽だ。

 

自信があるかどうか?

という

判断基準の要らない

人生は、

本当に楽。

 

自分の

願いにだけ

意識を向ければいい。

 

もしくは、

自分の直観に

素直になればいい。

 

いつも自信がない、

という状態にも

すぐに慣れるし。

 

だから

自信を理由に

止まっている人を

見ると、

ちょっと勿体無いなぁ、

よく思う。

 

きっと私は

自信を持ってしまったら、

その場所に

安住してしまうのだろうな、

という気もする。

 

そう思うと、

自信を持てない自分で

よかったなぁ、と

 

いつも思うんだ。

 

つづく

 

自信がないのは良いことだ

 

あなたのその謙虚さは

称賛に値する。

 

だけど、謙虚さ故に

止まってしまうことが

多過ぎないかい?

 

謙虚であることと、

行動が鈍ることは、

まったくの別物。

 

謙虚である人ほど、

私は

ズンズンと進めばいいと

思うよ。

 

自信がないのは

良いことだ。

 

自信はすぐに

過信になるから。

 

自信のある人ほど

足元が見えなくなるし、

自分を客観視する

視点も失くしやすい。

 

だから

そのままでいい。

 

自信をつけてから

進もうなんて

思わなくていい。

 

その自信のなさの

ままで

「やろう」

と思うことを

ただ淡々と

行なえばいい。

 

本当はあなたには

それができるだけの

胆力も能力も

ある。

 

ただその謙虚さが故に

胆力と能力を

発揮してはならないと

思い込んでいる。

 

あなたの敵は

その「思い込み」だけだ。

 

敵、ってあえて

言ったけど、

ちゃんと「敵」だと

認識すること。

 

なぜなら

あなた自身がそれを

「敵」だと思っているから。

 

「敵」だと思いながら

その思いにフタを

しているから。

 

だからあえて

言うんだ。

 

それは

「敵」

だ。

 

しかし、

「敵」だからと言って

それを倒したり、

消したり、潰したり

する必要はないんだよ。

 

自分が「敵」だと

認識している事実を

認めた上で、

 

それを

愛せばいい。

 

可愛がればいい。

 

「よしよし」と。

 

それができたら、

さぁ、

進もう。

 

最初は走らなくても

いい。

 

「やろう」と思うことを

あなたのペースで、

できる範囲で

行動に移せばいい。

 

あなたのことだ。

 

気づけば

最大速を出しているよ。

 

それだけ

あなたの「真の想い」は

強い。

 

私にはその

「強さ」がビシビシと

伝わって来ているんだよ、

いつもいつも。

 

あなたのその謙虚さは

称賛に値する。

 

できればそのまま

謙虚でい続けて

ほしいな、とは思う。

 

謙虚で

力強い人。

 

そうなってほしいな。

 

つづく

 

自信を持って変化しよう

 

いったい

何が起きているのか?

 

びっくりするくらいに

人が

変わっていく。

 

もちろん、

良い方向にだ。

 

変わる、と言っても

別人格になるのでは

なく、

 

本来のその人に

一気に近づいていく

のだが、

 

その変貌ぶりが

凄まじい。

 

「凄まじい」と

どうしても表現

したくなる。

 

今日も、

ある会社の幹部さんが

言われた。

 

「ふと、朝の4時に

目が覚めたんです。

で、ふと思ったんです。

決めたんです。

私が変わろう、と。」

 

自分の考え方から、

立ち振舞いから、

人の育成方針まで、

すべて

変えていく、と言う。

 

しかもその方向転換は、

私が密かに、

「この人の本来は

こうだから、

こう変化していくといいな」

コーチとして願っていた

方向と

完全に一致した。

 

だから一瞬私は

言葉を失うくらいに

驚いた。

 

でも、

これに近いことが

日々、あちこちで

頻発している。

 

いったい何が

起きているのだろうか?

 

と、言いたくもなる。

 

・・・・・・

 

人の変化は

組織の変化に

直結する。

 

人が変化しなければ、

組織は変化しない。

 

人が真本音度合いを

高めれば、

組織の真本音度合いも

高まっていく。

 

実に単純な法則が

ようやく

この世で機能し始めた

ように思う。

 

健全な世の中に

近づいているのだ。

 

もちろん、

健全ではない出来事も

頻発している。

 

しかし

そればかりに

目を奪われていては

ならない。

 

本質的には

今は

何が起きているのか?

 

それをあるがままに

私達は感じ取ろう。

 

世の中は、

間違いなく

進み始めている。

 

それを推進している

のは、

「人」だ。

 

一人ひとり

だ。

 

あなた、だ。

 

自分一人の変化

なんて、

世の中全体から見れば

大したことはない、

 

なんて

思わないでほしい。

 

一人の本質的な変化が

いかに

実在のレベルで

世の中全体に

インパクトを与えるか?

 

は、

私が最も声を大にして

お伝えしたい事実の

一つだが、

 

しかしそれは

これからの私達の歩みの

途上で、

どんどん証明されて

いくだろう。

 

あなたはもっと

自信を持てばいい。

 

自分を

信じればいい。

 

あなたの道が

世の中の道に

なっていく。

 

つづく

 

これがあなたなのか

 

人には

突然に、

そして一気に、

真本音度合いが

高まる瞬間が

ある。

 

その多くは、

人と向き合っている

時だ。

 

その向き合い方も

半端な向き合い方

ではなく、

 

完全に

向き合えた瞬間だ。

 

その瞬間は

フッと、その場の

空気が変わる。

 

場合によっては

目眩に近いものを

私は感じることも

ある。

 

真本音度合いが

一気に高まることで、

まるでその人は

別人になったのでは

ないか、

というくらいの

これまで見たことのない

個性を出すこと

さえある。

 

しかし実は

それこそが

その人の本来の

個性の一端だ。

 

そして、

声。

 

声の質が

変わるのだ。

 

一言一言の

言葉達が

 

トツ、トツ、・・・

 

と胸に

響いて来る。

 

言葉を発する

というよりも、

清らかな音色が

まるで泉のように

湧き出ている、

という表現を

したくなる。

 

その声を

聴くと、

私は全身が

ゾワっとしたり、

 

胸がキュン

としたりする。

 

こういった

場面に出会うと、

 

人とは

神秘の存在だ。

 

と、

否が応でも

思ってしまう。

 

そして、

人の奥深さは

無限ではないか、

とも。

 

真本音状態の

突然の高まりは、

残念ながら

最初はわずかな時間で

終わるかもしれない。

 

しかし

一度でもそれを

体験すれば、

後のサポートは

実に楽だ。

 

一度も体験のない

状態と、

わずかでも一度は

体験した状態

では、

根底の何かが

変わるからだ。

 

その「何か」とは

あえて表現すれば、

 

「自信」

 

なのかもしれない。

 

自信、とはつまり

自分を信じる力。

 

たった一度でも

一気に真本音度合いを

高める体験をすれば、

 

「あぁ私は

自分を信じても

いいかもしれない」

 

と、

どこかで強く

納得するのだろう。

 

それがその人の

佇まいを

変える。

 

本人の自覚の

ないところで、

その人は

どこか毅然となる。

 

その毅然さが

また、

真本音度合いを

高めていく。

 

人間は

神秘だ。

 

と、

素直に実感

できる

今のこのお仕事に

私はやはり

深く感謝する。

 

つづく

 

全力を尽くしてからの話だ

 

自分が

全力を出したら

どうなるか?

 

を、

知っているか?

 

知らないので

あれば、

ぜひ

知るべきだ。

 

何でもいい。

 

全力を

尽くしてみる

べきだ。

 

全力を

尽くさなければ

見えない世界が

ある。

 

そして、

全力を

尽くさなければ

見えない自分が

いる。

 

全力とは、

100%の力を

出し切ること。

 

もうこれ以上は

できない、

絶対にできない、

思えるところまで

力を尽くすことだ。

 

それが

真本音の判断か、

反応本音の判断か、

この際、

どちらでもいい。

 

・・・・・・

 

最近、

一つ気づいた

のだ。

 

私の

真本音の話を

聴くことで、

途中までは

真本音度合いを

高めて

いい感じになるのだが、

 

途中から、

自己満足に走り、

 

自分は

真本音で生きている

つもりになっていても、

著しく

真本音度合いを

低めてしまう人が

いる。

 

どうして

そうなるのか?

 

その理由が

今一つ判別できずに

ここまできた。

 

でもやっと

単純な答えの一つに

たどり着いた。

 

「全力を

出したことがない」

のだ。

 

全力を出したことの

ない人が、

真本音の話を聴くと、

 

全力を避けるために

真本音を理由に

現実逃避を

始めるのだ。

 

「私の真本音は

こう言っています。

だから、私は

それをせずに、

これをします」

と。

 

しかしその

「私の真本音」は

本当の真本音

ではない。

 

「真本音」という

言葉を

都合よく

使っているだけの

ことだ。

 

・・・・・・

 

企業様のサポートの

場合、

 

実は、私はこれまで、

真本音度合いの

高まった人にこそ

 

より厳しい現実を

与える、

ということを

してきた。

 

例えば、

その会社の社長から、

その人に対して、

非常に厳しい

「目標」を

与えていただいたりした。

 

厳しい「現実」を

与えられ、

 

しかしそれに対して、

「真本音で

立ち向かう」

ことにより、

 

「どのような状況でも

真本音で生きる

力を養成する」

ことが

できるからだ。

 

真本音で生きる

とは、

好き勝手に動ける

状況をつくる

ことではない。

 

どのような状況でも

私達は

真本音で生きる

ことができる。

 

そしてその結果

自分の望む

道を開くことが

できる。

 

それを

体験を通じて

学ぶことを

私はこれまで大切に

してきた。

 

だから、

真本音度合いの高まった

人にこそ、

あえて

その人にとっては

厳しい現実を

与えたりした。

 

それが、

私が大事にしてきた

「サポート」の

一つだ。

 

それは

言葉を変えれば、

 

その本人が

全力を尽くす場面を

設定した、

 

とも言えるのだ、

ということに

最近、気づいた。

 

・・・・・・

 

全力を尽くした

時の

自分を知ること。

 

これを知らない

人は、

傲慢になる。

 

変な言い方だが、

 

本当に全力を

尽くした人は、

自分の

あまりの力のなさに

茫然と

するはずだ。

 

自分とは、

何もできない人間

だった。

 

という事実に

茫然自失と

なるはずだ。

 

この経験がない

人は、

全力を尽くした

経験がない

ということだ。

 

こうなった時、

人は初めて

「自分」を知る。

 

「自分の現在地」

を知る。

 

そして

そんな人に

「真本音」の話を

すると、

一気に花開く。

 

どこまでも

自分を

開花し続けさせる。

 

・・・・・・

 

傲慢な人

ほど、

「自信がない」

と言う。

 

全力を尽くした

ことがないから、

傲慢なのだ。

 

全力を尽くした

経験のある人は

謙虚だ。

 

謙虚な人は、

「自信がない」

とは

言わない。

 

自信がない

のは

当たり前だし、

 

自信があるとか

ないとか、

そんなことは

関係ないからだ。

 

それよりも、

自分の

本当にすべきこと

(イコール、それは

したいこと)

に、

向かうことが

自分の人生であると、

わかっている。

 

それこそが、

真本音で生きる

ということだ。

 

つづく

 

自信がなくてよかった

 

今から振り返れば

とても

感謝なのですが、

 

私はこの人生において

本当に自信を持てた

という経験が、

 

恐らく

一度もありません。

 

もちろん今も

自信は

ありません。

 

「自信」とは

多くの場合、

自分の持っている

能力に対して

持つものだと思いますが、

 

私は、今、

そして、これから、

私がやろうとしていることや

私が進もうとしている道に

対して、

それに見合った能力が

あるとは

到底思えないのです。

 

ですから、

どうしても

自信を持つことが

できません。

 

ずっと

そういった人生

でした。

 

以前はそれが

いやでいやで

しょうがなかったのですが、

今はそれに

感謝しています。

 

なぜなら

私のような人間が

自信など持ってしまっては

間違いなく

真本音の道を

踏み外していたと

思うからです。

 

・・・・・・

 

これから自分が

やろうとすることに

対して、

それに見合った

充分な能力が

自分にはある。

 

もしそう

思えたとしたら、

私は間違いなく

自分の能力に

依存

していたでしょうね。

 

能力を発揮する

そのこと自体に

気持ちよくなり、

能力を発揮するための

人生に

なっていたでしょう。

 

能力至上主義。

 

ここに陥ると

自分の真本音の想いが

わからなくなります。

 

能力とは

あくまでも手段

だからです。

 

能力を発揮することが

自分を活かすこと

だと

思われがちですが、

 

いえいえ、

それを目的にしてしまうと、

自分の本当の人生は

観えなくなって

しまうのではないでしょうか。

 

私だけかな?

 

本当の意味で

自分を活かすとは、

自分の真本音の想いや

願いに向かって

進むこと。

 

その道を進むことで

人は進化を始め、

 

進化の過程でこそ

本来の能力が

芽生えます。

 

しかも本来の能力は

他者との調和を

生み出します。

 

つまり、

真本音の道を

進めば進むほど、

どうしようもないくらいの

苦手分野が見つかります。

 

あっここは

自分には無理だ、

と。

 

ここは

自分はできるけど、

ここはできない、と。

 

ここは、

自分が探究すべきだけど、

ここは探究しては

ならない、と。

 

そういったことが

実に自然に

わかってきます。

 

それにより、

他の人達とのコラボが

進みます。

 

真本音の願いとは

自分一人の能力では

決して実現できない

ものです。

 

人は

人と関わることで

初めて進化をし、

 

その進化を求めることが

人の本能の中心

ですから、

 

人は、人とコラボすることを

前提に

生まれてきた生き物

なのです。

 

それが

自然の摂理。

 

そこを外れること

自体がもはや、

自分の本当に望む道、

つまりは真本音の道から

外れることなのです。

 

・・・・・・

 

私は

自信のない人生で

よかった、と

今は本当に思えます。

 

そしてこれからも

人生を終えるその時まで

自信がないままで

進めるといいな、と

思います。

 

自信がないことで、

私が得ることが

できたのは

「確信」

です。

 

人と関わりながら、

一歩一歩を歩む

その瞬間、

その現場の中で、

「確信」は

必ず生まれます。

 

あっ、今

これをすれば

いいんだな。

 

今は、

これを伝えれば

いいんだな。

 

今は、

これはしては

ならないんだな。

 

今は、

これは後回しに

すべきなんだな。

 

そういった、

一歩一歩の「確信」が

日々、発生します、

当たり前のように。

 

自信を持った私だったら、

これは決して

得られなかったと

今になって

しみじみわかるのです。

 

つづく

 

自信のない人生を送ってきた自信がある

今日ふと、

思ったんですよね。

 

私って、

自信があるなぁ、と思いながら

道を進んだことって

あったっけ?

と。

 

いや、もちろん

ありました。

 

でもそれは相当に

昔の話です。

 

いつからでしょうか。

 

ずっと

自信のないままに

生きているのは。

 

皆さんは

どう思いますか?

 

自信って

あった方がいいですか?

 

ない方がいいですか?

 

そりゃもちろん、

あった方がいいですよね。

 

私も

そう思います。

 

あった方が

楽ですよね。

 

そう思うんですけどね・・・。

 

でもそれは

顕在意識の私が

そう思っているだけで。

 

実は、

これはあくまでも

私の経験上での話ですが、

私の場合、

自信のある道を行く方が

結果として

楽ではなかったんですよね。

 

なんでかと言うと、

自信があると

余分な自分が

どんどん出てきてしまうのです。

 

こうやれば

こうなるな。

 

こんな場合は

こうすればきっと

上手く行くぞ。

 

・・・自信のある場合は

過去の経験則が

役に立ちます。

 

しかし私の場合、

そういった

過去の経験則に沿って

物事を進めると、

大概にして

ドツボにハマるんですね。

 

まぁそれは

人と向き合うお仕事を

させていただいているから

かもしれません。

 

人と向き合う私のお仕事は

過去の経験則が

ほぼ使えません。

いや、

本当は使えるのですが、

経験則で物事を進めようとすると、

大切な何かが

失われるのです。

 

大切な何か・・・。

 

それをあえて言葉に

すると、

 

「目の前の人と

共に最善の答えを見つける」

 

・・・ということでしょうか。

 

人生とは

現在進行形です。

 

人も様々です。

 

本当は

二つとして全く同じ事象や

現象は

ありません。

 

今、目の前にある一つの現実は

唯一無二

のものです。

 

これまでの人類の

過去のあらゆる場面で

一度もなかった現実が

目の前にあるのです。

 

そしてその現実は

今後の未来において

誰も経験することのない

ものでしょう。

 

すべて、

今この一瞬一瞬は

ただ、ここにあるだけ

のもの。

 

唯一無二のもの。

 

それが、

私達の人生の

尊厳だと思います。

 

唯一無二の

現実を

経験する

唯一無二の

存在が

私達人間

なのです。

 

そんな、

唯一無二に対して、

過去の経験則から

答えを導き出すことは

本来の

今この瞬間でしか生まれ得ない

宝物のような

本当の答えを

掘り起こさずに進む

ということになってしまうのだと

私は思うのです、

・・・これは経験的に。

 

ですから

いつしか私は

自分の中に「自信」という

感情が生まれた時に、

最も気をつけるように

なりました。

 

そしてちょっと

極端に言えば、

自信のない方ない方に

舵を切るように

なりました。

 

その方が

謙虚になれるからです。

 

何に対しての謙虚かと

言うと、

目の前の現実に対する

謙虚さであり、

目の前の人に対する

謙虚さです。

 

とは言え、

普段の私の行動や

振る舞いをご存知の方は

「一体、あなたのどこが

謙虚なんだ?」

と言われるかも

しれません。苦笑

 

なぜなら私は

ほとんど場合、

断定的にものを

お伝えすることが多いからです。

 

よく言われます。

 

「たけうちさんは

いつも断定的に

ものを言いますね。

よく、言えますね」

と。

 

私は、

自己弁護をする気は

毛頭ないのですが、

私の中では、

謙虚さの証が

「断定的振る舞い」

なのです。

 

私の場合、

自信があると

断定的になれないのです。

 

だって、

自信があるということは

目の前の人と

「共に最善の答えを

見つける」

ということが

できている実感が

極度に減るからです。

 

私が断定的になれるのは、

私一人の結論

ではないからです。

 

共に向き合い

共に創り出した

お互いの真本音コミュニケーション

によって生み出された

その場にしかない

唯一無二の

答えだからです。

 

それは

宝物です。

 

そんな宝物だから、

それをそのまま

表現しているだけの

ことなのです。

 

なんだ?

 

今回は、自己弁護のための

文章か?

 

いや、・・・違うな。

 

私が今、

とっても皆さんに断定的に

お伝えしたいことが

あるのです。

 

それは一言で言えば

こうなります。

 

『今はあえて、

自信のない方に進もう!』

 

です。

 

これが、現在、

多くの人達の真本音が

望んでいる

人生の指針です。

 

自信のない方向に

行くからこそ、

すべての現実と

あるがままに向き合う

ことができるでしょう。

 

そこで得られるのは、

これまで見たことのないような

自分の個性と、

自分の力です。

 

自分の

まだまだ隠されていた

可能性です。

 

そういったものを

どんどん自ら

掘り起こしてほしいですね。

 

ですから私も

今まで以上に

自信のない方向に

行こうと思います。

 

皆さんも、ぜひぜひ

そうしましょう。

 

つづく

 

自信の持てる自分になろう、などと思わなくていい

自分に自信がないのです。

 

・・・そう言い続けるクライアントさんが

時々います。

 

どれだけ真本音度合いが上がっても

そう言い続けるのです。

 

そんな場合、

いつも私はお伝えします。

 

自信など、

ない方がいいですよ。

 

自信など、

余分なものです。

 

・・・と。

 

実際に、

高い次元の私達の意識からすると、

自信のある・なしは、

どちらでもよいことです。

 

自信があるからできる。

自信がないからできない。

ということは

一切ありません。

 

自信のある・なしは

自分の行動に関与しないのです。

 

もし、関与しているのであれば、

それは、

真本音度合いが高まっていない

からです。

低い次元の自分のみで

物事を捉えているからです。

 

ある人は言います。

 

「自信をつけるために

経験を積もう」

と。

 

もちろん経験は大切なことですが、

経験を積んで自信を得なければ

先に進めない、

というのは、現実逃避の

一種です。

 

先に進まない言い訳に

過ぎません。

 

ですから私は

「私には経験がないから進めません」

とか

「私には自信がないからできません」

と言っている人を見ると、

いつも

傲慢だなぁ、と思います。

 

もちろん、

自信満々な人を見ても

傲慢だなぁ、と感じることは

多いですが。

 

いずれにしても

自信のある・なしによって

物事の判断や選択を変えることを

私は「傲慢」と感じます。

 

今日、コーチングさせていただいた

あるクライアントさんは、

「いやぁ、私、本当に

自信ないんですよねぇ。

困ったもんですね」

と笑いながらも、

自分の決めたことをすべて

やり遂げていました。

 

やり遂げたと言っても

それが自信につながるわけでは

ありません。

相変わらず、ずっと

「自信ないんですよね」のままです。

 

そのクライアントさんに関して言えば、

自信がないが故に

すべての物事に謙虚に真摯に

対することができています。

 

その「自信のなさ」は

その人の真本音が

選んでいることだからです。

 

真本音と反応本音は

敵対するものではありません。

 

反応本音とは、もともと

現実世界で生きやすいように

という目的で

真本音が生み出したものです。

 

私達の心の中には

様々な反応本音が存在していますが、

私達の真本音は

それら反応本音を活用しながら

生きていこうとします。

 

そのクライアントさんの真本音は

「自信がない」という

自分自身の反応本音を

活用しているのです。

 

わざと「自信がない」という

心の状態をつくりながら、

すべての物事と真摯に向き合おう

とされているのです。

 

もちろん、人によっては

「自信がある」という反応本音を

真本音が活用するケースもあります。

 

大事なのはこのように、

真本音と反応本音が

つながっていることです。

 

どの反応本音を活用するか?は

真本音の自由です。

 

どれを活用するとしても

真本音が選ぶ反応本音であれば

すべて、物事は調和の方向に

進みます。

 

ですから反応本音だけを見て、

これは良い、これは悪い、

これを直さなければ、・・・

などと考えるのは、

まったく意味がないということですね。

 

ですから、

面白いです。

真本音度合いが高まれば高まるほど、

自信をなくすクライアントさんが

よくいるのです。

 

その人にとっては

自信のない状態こそが、

調和を生むのですね。

 

これまでの自分の

反応本音のパターンのみを

評価判断し、

そのパターンを変えよう、とすることは

まったく意味がありませんし、

そこにエネルギーを費やす必要は

ありません。

 

それよりも、

自分の真本音を理解することです。

 

自分の本当の想い

本当の願いを

自分自身が理解することです。

 

つまりは、

真本音度合いを自ら上げる

ことです。

 

私達の真本音は、

・・・つまりは、現時点で最も高い次元の

私達の意識は、

低い次元の意識達を

活用します。

 

高い次元から低い次元まで

様々な意識に溢れるのが

私達人間です。

それこそが、

人間の面白さです。

 

低い次元を否定するのではなく、

そこにあるすべてを活用することが、

人として生きることを

楽しむことではないでしょうか。

 

人間を味わう、

ということではないでしょうか。

 

つづく

 

自信がないから自信をつける、という人生はもうやめよう

「自信がある」

という心の裏側には必ず、

「自信がない」

という心が存在しています。

 

二つの相反する心は

常に共存しています。

 

それは、物理学の表現を使えば、

作用・反作用の法則

と同じです。

 

自信満々な人ほど、

何か大きな挫折や失敗があることで、

一気に自己不信に陥ってしまいます。

・・・そんな場面を、本当に数多く拝見してきました。

 

それを、愚かだと言っているのではありません。

それが、私達人間です。

 

心の中にある、その作用反作用を、

あるがままに見つめることのできる人は

私は、本当に素晴らしいなぁ、と思います。

 

自信のある自分。

自信のない自分。

両方をそのまま見つめることのできる人は、

「自信がある・ない」という次元を

超えることができます。

 

自信があるか、ないか?ではなく、

その奥から、もう一つ上の次元の自分が

顔を覗かせます。

 

以前の記事でも書かせていただきましたが、

高い次元の自分が現れることを

『脱皮』

と私は呼んでいます。

 

人は『脱皮』することで、

「世界」が違って見えるようになります。

 

これまで悩んでいたことが

何でもないような些細なことに映ったり、

逆に、

これまでまったく気にもせず悩みもせずにいたことに対して

本気で悩み始めたり。

 

ある意味、

人生が変わります。

 

そして、一つ、次元を上がれば、

これまで自分のいた次元に対しては、

「もうあそこには戻りたくないなぁ」

とほとんどの人が思います。

 

これまでの次元は

とても狭く、苦しく、重く、暗く、そして不安定に

感じられるからです。

 

「自信がある・ない」という表現を使えば、

次元が高まることで、自信があっても、なくても

どっちでもよくなります。

 

自信がないからできない、

ということがなくなります。

 

自信があってもなくても、

ただ、自分が「やろう」と思うことをやるだけ

となります。

 

それをあえて一言で表せば、

『確信』

ということになります。

 

自信があるからやるのではない。

確信があるからやるのだ。

・・・という状態です。

 

当然、

確信があっても自信がない、

ということはあり得ます。

でも、

どれだけ自信がなくても、確信さえあれば

やれる状態となります。

 

自信のあるなしは、反応本音レベルのもの、

確信のあるなしは、真本音レベルのもの

だからです。

 

木村さんが

「プロのコーチになりたい」

という発想をしたのは、

「自信がついたから」です。

つまりそれは、反応本音レベルの想いでした。

 

しかし、同じ木村さんが

「本当は、私はプロのコーチになりたいわけではなかった。

それよりも、今与えられた新規事業プロジェクトに

全力で臨みたい」

と思い直したのは、「確信」からでした。

つまりそれば、真本音レベルの想いでした。

 

「自信」のある方向に行くのではなく、

「確信」のある方向に進むことにより、

人は次元を高めることができます。

 

次元を高める人生。

これこそが、私達すべての人間が

本能的に望んでいることです。

 

さて、今ご紹介しているストーリーは

木村さんについてです。

木村さんの躍進についてです。

 

木村さんの躍進のきっかけの一つ目は、

「自らを枠の中に入れた」

ということです。

(→前回記事)

 

つまりは、

「新規事業プロジェクトリーダー」

という枠(役割)に、自らドップリと入り込んだことで

彼の望んでいたコーチング力が一気に

花開きました。

 

そして、その次にご紹介したいのは、

木村さん躍進のきっかけとなった二つ目の

原理です。

それを一言で表せば、

 

「どっちでもいいじゃん」

 

となります。

 

後にこれは、彼の口癖となります。

この口癖が、彼の次元を一気に高めました。

 

それにより彼は、

自信ではなく確信に基づいて動く彼、に

変貌していったのです。

 

つづく

 

前向き、と言うけれど、本当は後ろ向きの反動でしょ?

私達の心の中には、「作用・反作用の法則」が

成り立っています。

 

例えば、

自信満々な自分が心の中に存在している場合、

そのもう一歩奥には、自信のない自分が

必ずいます。

 

自分の自信のなさや不安を搔き消すために、

あえて自信のある自分を創り出している、

という人が非常に多くいます。

 

一般的に言われる「過信」状態ですが、

過信しやすいのは、自信のなさの現れとも

言えるのです。

 

これが反応本音の特徴です。

 

反応本音とは多くの場合、

相反する心がセットで存在し、

その相反する心同士が常に「引っ張り合っている」

という状態になっています。

 

例えば、

前向きな心の裏側には、ほぼ必ず

後ろ向きな心が隠れています。

人の意見に迎合しようとする心の裏側には、ほぼ必ず

その人に対する不満感が隠れています。

 

それらの相反する心は引っ張り合っているので、

疲れます。

 

引っ張り合いとは、綱引きです。

 

運動会で行われる綱引きを

もし一日中行なっているとしたら、

相当な体力を消耗します。

しかし、

心の中では常にそれをしている人が

多いのです。

 

ですから私は、

ただやみくもに「前向きに生きよう」

と言われる人を注意深く観察します。

そういった人ほど、

後ろ向きな心にフタをして見ないようにし、

しかし本人の知らないところで

前向きな心と後ろ向きな心が綱引きをしている

可能性が高いからです。

 

このような綱引きのことを一般的には

「葛藤」

と言います。

 

葛藤の多さによって

心の疲労度合いが決まります。

 

葛藤の多い人は

常に心が疲れ、

その疲れている状態がその人にとっての

「普通の状態」

となります。

 

疲れているのが「当たり前」の状態と

なってしまうのです。

 

私達が、反応本音のみで生きていると、

以上のような、葛藤と疲労を非常に起こしやすくなります。

 

木村さんの場合、

常に彼は、「自分の方が凄いんだ」ということを

皆にアピールするパターンを無意識に行なっていました。

そのため、自分以上の素晴らしい意見を持った人に対して、

自分の経験を傘に着て、それらを潰しにかかっていました。

 

その一方で、

そんなことをして自分はなんて愚かな人間なんだ

という罪悪感も常にその裏側で発生させていたのです。

 

人の意見を自分が潰せば潰すほど、

自分を責める自分が増殖する。

 

そういったことを続けるうちに、

彼の心はどんどん疲弊していきました。

 

人は、心が疲弊すると「深刻」になります。

ドヨ〜ンとした重い空気感を発するようになります。

それがまた、周りの人達に

「この人は居心地が悪い」

という印象を与えます。

 

その印象によって、彼に対して反発心を持つ人が

増えてしまう。

そんな悪循環が起きていました。

 

しかし木村さんが人生理念を見つけ、

真本音に素直に生きるようになり、

それらのパターンは瞬く間に減少しました。

 

もちろん木村さんには上記以外にも

反応本音のパターンがいくつかありましたから、

完全に真本音で生きる、という状態には程遠かったのですが、

それでも、一つ、また一つ、とパターンを改善することで

木村さんは彼の放つ空気感を大きく変えたのです。

(→前回記事)

 

私はこれまで多くの企業で、

「あの人はもう変わらない」

という諦めの声を、非常にたくさん聴いてきました。

 

人間、諦めると、何もしなくなります。

みんなが諦めてしまった人でも

「もしその人が変わったら、組織は素晴らしく良くなるだろう」

と思える人がいたら、私はその人に真っ先に

向き合うようにしました。

 

その人が変わらないのには、

その人なりの理由があります。

その人なりの強い信念があるのです。

それを尊重しながらも、その人と向き合い続け、

その人の真本音度合いを高めることで、

「えっ? なんであの人、こんなに変わったの?」

とびっくりされることが数え切れないほどありました。

 

人が変わることに対して

人は敏感です。

 

「あの人は嫌い」と一度思ってしまった人は

一生嫌いなままだ、と思われがちですが、

私が企業現場で実感したことは、

それとはまったく逆の現実でした。

 

変な言い方ですが、

「出来の悪い人ほど、もしその人が本当に変われば、

皆は賞賛したり、感動する」

という結果の方を、私は多く見てきました。

 

以前のブログにも書きましたが、

「進化」とは、人の本能です。

「進化」そのものを、人は望んでいます。

表面上だけの進化ではなく、本当の進化を目の当たりにすれば、

人は自然に感動するものである、

というのは、私の実感です。

 

ですから、

木村さんが変わり始めた時も、

その影響は極めて大きかったのです。

 

何度も言いますが、

表面上の変化だけではダメです。

例えば、行動が変わった、というレベルではダメです。

しかし、

空気感とか、その人の在り方そのものからの変化を感じることで

人は、感動を覚えるのです。

 

木村さんと一緒に仕事をしていた人達の声を集めると、

木村さんが変わったところで最も大きかったのは、

「一緒にいると、楽しく発想できるようになったんです」

ということでした。

 

これを私は、

『調和力』

と呼んでいます。

 

 

つづく

 

自分の誤魔化しは、自分が一番よくわかっている

木村さんの「これまでの心と行動のクセ」を

表現すると、以下の二つになります。

 

・「私は常に、一番でなければらない」

・「結局は、私が一番物事をよくわかっている」

(→前回記事)

 

これだけを見ると、自信家であったり

ある種の傲慢さを感じたりしますが、

しかしこの二つの心の根底にあるのは

「不安」

なのです。

 

その不安とは、「自己保身」からきます。

 

もちろん誰もが「自己保身の心」は持っています。

それがない方が不自然ですし、

自己保身そのものは、人間として必要でしょう。

 

しかし、自己保身しているという事実にフタをして

それを自分自身で理解しないままに

自信家としての自分を出す。

 

・・・これは非常に「不安定」です。

 

しかも周りの人達は皆、その不安定さを

何となくわかっています。

 

木村さんが周りからの信頼感を失くしてしまう

最大のクセが現れたと言ってよいでしょう。

 

ちなみに平井さんは、木村さんのことを

「枠の中から出てこないヤツ」

という評価をされています。

 

「自分が一番であり、自分こそが最も

よくわかっている人間だ」

という彼のパターンは、自分以上の人や意見を

目の当たりにすると、

それを潰しにかかります。

そして、

自分自身も決して「これまでの自分の枠」から

出ようとしません。

 

ですから、

「木村は小心者です。

枠から出ようとしないんです。

能力は高いのに」

という評価を平井さんは下しています。

 

しかしその一方で、真本音レベルで見た場合に

「私は、木村にすごく可能性を感じるんです」

という見方も平井さんはされていました。

だからこそ私に、木村さんのコーチングのご依頼をされました。

 

私はアポなしで事務所に現れました。

 

そして木村さんに声をかけました。

「今、少しだけお時間いただけます?」

 

もうそれだけで木村さんは何かを

察知されました。

 

木村さんが怯え始めたのが

すぐにわかりました。

 

大変面白いことなのですが、

いつもいつも私は真本音コーチングをしていますし、

真本音コミュニケーションをしていますので、

そういったコーチングを一度でも体験された方は

私の顔を見るだけで真本音度合いが高まるようです。

 

真本音度合いが高まれば、

あっ、自分は何かがおかしいかもしれない、

と、すぐに感じるようになります。

 

すると中には、

私の顔を見るだけで、罪悪感も発生させる人も

います。

 

木村さんがそうでした。

 

会議室で私は短時間ですが、

木村さんと向き合いました。

 

私が開口一番、

「村瀬さんとのやりとりを平井さんから

お聴きしました」

とお伝えした瞬間に、

木村さんはすべてを合点したようです。

 

「私、やっちまいましたね。」

 

「何をやっちまったんです?」

 

「以前の自分が出ました。

村瀬を私の枠の中に押し込めました。」

 

「そのようですね。

どうしてそうしてしまったかわかります?」

 

「なんか、すごく面白くなかったんです。

村瀬のことを疎ましい、と思いました。」

 

「木村さん、凄いですね。

一瞬でご自分と向き合えましたね。」

 

「いやぁ、お恥ずかしい。

たけうちさんの顔を見るまで、ずっと自分を

誤魔化してました。

自分の中で、あれは正しかったんだ、って

言い訳を続けてました。」

 

「それを続けて、どんな気分でした?」

 

「いや、やっぱり苦しいし、

気持ちが悪かったです。」

 

「そうですよね。

でもその気持ち悪さは、村瀬さんも、そして

他の人も感じてることなんですよ。」

 

「そうですねぇ・・・。

あのミーティングから、チームの雰囲気が

とても悪いです。

みんな、よそよそしい。

あまり会話したくない雰囲気です。」

 

「木村さん、

ここまで人生理念を大事にしてきた木村さんが、

ここで以前のクセを出してしまった理由は

わかりますか?

そのクセが出る瞬間、

どのような心の声が浮かんできたか

わかります?」

 

しばらく木村さんは考え込みました。

あの時の状況を懸命に思い返しているようでした。

 

「・・・あぁ、わかりました。

いやぁ、お恥ずかしい。」

 

「どんな心の声でした?」

 

「“こいつ、俺よりもできるんじゃないか”、でした。」

 

これを聴いた時、私は本当に木村さんのことを

凄い!と思いました。

 

これだけ素直に自分の心と向き合える人は

そんなにはいません。

その心の声を見つけるまでは、大抵はもっと

時間がかかります。

 

「木村さん、自信を持ってください。

木村さんはご自分と向き合う力が高いです。

私が何のフォローもしなくても、

ご自分の心の声を見つけることができました。

これができれば、大丈夫です。」

 

こんなところで褒められると思っていなかったのでしょう。

木村さんはだいぶホッとされたようです。

それによりさらに、

ニュートラルに自分を見つめられるようになりました。

 

「私がもし、私の部下だったら、

こんなヤツは絶対に嫌ですね。

だって、後輩の可能性をどんどん潰していくヤツですから。

平井もそうやって私のことを見ているのかな・・・。」

 

「平井さんの願いはね、

木村さんが木村さんの真本音に素直に生きること、

真本音で仕事をすること、なんですよ。

それができれば木村さんの本当の魅力が出るに違いない、と

平井さんは見ています。」

 

「でも、ついつい以前の自分が出てしまいますね。

難しいねぇ、これまでの自分を壊すのは。」

 

「いえいえ、簡単なことです。

今回、木村さんはご自分で心の声を発見しましたね。

これまでのクセが出てしまうきっかけとなる心の声を。

“俺より、できるんじゃないか”という。

ここまでわかれば8割方大丈夫です。

あとは、この心の声が発生した瞬間に、自分の行動を

止めるのです。

一時停止して、そこで人生理念を思い出してください。」

 

そしてさらに問いました。

 

「木村さん、もしあの村瀬さんとのやりとりの中で、

木村さんの人生理念、“生まれたばかりの無邪気”

を思い出していたとしたら、

木村さんはどんな一言を発していましたか?

あの場面にもう一度戻ったつもりで発想してみてください。」

 

即座に答えが返ってきました。

 

「お前、すげーなぁ、・・・て叫んでました。」

 

「それです、それ!

それでいいんですよ。」

 

つづく

 

自信がないからできない? 傲慢だねぇ

「ラポール」という言葉があります。

 

臨床心理学で使われる用語なのですが、

コーチングの世界では「信頼関係」と訳されます。

 

もともとは、「心と心がつながる」とか「心が通い合う」

という意味だそうです。

 

私は、いつもこれをあえて

「本能的信頼関係」

と表現しています。

 

人が人を信頼する多くの場合は、

何らかの理由があります。

 

例えば、

仕事ができるから信頼できる、とか、

約束を守る人だから信頼できる、とか、

器が大きいから信頼できる、とか、

物事を必ずやり遂げるから信頼できる、とか。

 

しかし「本能的信頼関係」とは、

そういった理由や根拠はありません。

 

何となく、この人いいな。

何となく、この人好きだな。

何となく、この人と一緒にいたいな。

何となく、この人と通い合いたいな。

何となく、この人と心を開いて話したいな。

 

そのように、明確な理由がないのに、

初対面で会ったその瞬間からそう思える時が

あります。

 

それを「本能的信頼関係」と呼んでいるのですが、

その原因のほとんどは、その人の放つ

「空気感」

です。

 

生田さんが、平井さんのことを

まるで別人に生まれ変わったようだ、と感じた

最大の要因も、

平井さんの発する空気感の変化でした。

(→前回記事)

 

もともと、「人間不信」とも言える冷たい空気感を

持っていた平井さんが、

「人間愛」とも言えるようなあたたかい雰囲気を

醸し出すようになりました。

 

そうなれた最大の原因は、

平井さんが自分自身を許すことができた

からです。

 

言葉を変えると、

平井さんが、自分自身とのラポールを構築できた

からなんです。

 

自分自身とのラポール。

 

私は極端に言えば、人生の8割は

これで決まると思っています。

 

自分のことを自分が信頼できるか?

 

です。

 

ですがこの信頼とは、あくまでも

本能的信頼であって、

私はこんな能力があるから自分を信頼できる、とか

私はこんな経験を積んできたから自分を信頼できる、とか

私はこんな個性だから自分を信頼できる、とか

そういった理由付きの信頼ではありません。

 

ただただ、心の底から

自分を信頼できるかどうか?

です。

 

残念ながら、そういった意味で

自分のことを本当に信頼できている人は

非常に稀です。

 

これはいわゆる「自信」とは

関係がありません。

 

むしろ私の経験から言えば、

自信のある人ほど、

自分自身への本能的信頼感が少ない

という傾向があります。

 

自分自身への本能的信頼感がないが故に

それを満たしたいが故に物事に頑張り

経験を積み、

「自信」を得てきている人が多いのです。

 

しかしどれだけ自信を得ても、

自分自身への本能的信頼は増えません。

本能的信頼が枯渇しているから

自信の持てる自分でい続けよう、とします。

 

そんな人が多いのです。

 

自分への本能的信頼を得ている人の多くは、

自信があるとかないとか、

そんなことは関係ない、という感じです。

 

そういう人は、よく自信のなさからくる不安を

感じ取ります。

ですから、自分は弱いなぁ、という自己イメージを

持っている人が多いです。

 

しかし、自信とはまったく別の次元で、

「確信」が湧いてきます。

 

その確信に基づいて、行動をします。

 

つまり、

自信と確信は、まったくの別物です。

 

確信に基づいて生きている人ほど、

自信のあるなしは、

関係なくなります。

弱い自分だろうが、強い自分だろうが、

関係なくなります。

どちらにしても、自分の行動や選択は

変わらないからです。

 

平井さんは言われます。

 

「以前よりも今の方が私は

自信がないと思います。

正確に言えば、自信のない自分を

あるがままに感じることができるようになりました。

あぁ、自信がないんだなぁ、私は、と。

しょうがないなぁ、私は、弱いなぁ、私は、

と思いながら、でも行動を変えることはしません。笑」

 

私は、これこそが

人の本当の強さ

だと思います。

 

自信があるからできる。

 

というのは、本当の強さではないと

私は思っています。

 

自信があるからできる。

自信がないからできない。

 

その次元で自分の選択をし続ける状態を

私は「傲慢」と呼んでいます。

「独りよがり」と呼んでいます。

「わがまま」と呼んでいます。

 

その次元から抜け出ることは、

すべての人が可能です。

 

その次元から抜け出て、

自分の確信によってのみ生きることで

私達は「自由」になれます。

そして、

本当に望む人生を創り出すことができます。

 

では、どうすればそんなことが

できるのでしょうか?

 

どうすれば、自分自身と

本能的信頼関係を結ぶことができるのでしょうか?

 

その答えは極めてシンプルです。

 

つづく