全力を尽くしてからの話だ

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自分が

全力を出したら

どうなるか?

 

を、

知っているか?

 

知らないので

あれば、

ぜひ

知るべきだ。

 

何でもいい。

 

全力を

尽くしてみる

べきだ。

 

全力を

尽くさなければ

見えない世界が

ある。

 

そして、

全力を

尽くさなければ

見えない自分が

いる。

 

全力とは、

100%の力を

出し切ること。

 

もうこれ以上は

できない、

絶対にできない、

思えるところまで

力を尽くすことだ。

 

それが

真本音の判断か、

反応本音の判断か、

この際、

どちらでもいい。

 

・・・・・・

 

最近、

一つ気づいた

のだ。

 

私の

真本音の話を

聴くことで、

途中までは

真本音度合いを

高めて

いい感じになるのだが、

 

途中から、

自己満足に走り、

 

自分は

真本音で生きている

つもりになっていても、

著しく

真本音度合いを

低めてしまう人が

いる。

 

どうして

そうなるのか?

 

その理由が

今一つ判別できずに

ここまできた。

 

でもやっと

単純な答えの一つに

たどり着いた。

 

「全力を

出したことがない」

のだ。

 

全力を出したことの

ない人が、

真本音の話を聴くと、

 

全力を避けるために

真本音を理由に

現実逃避を

始めるのだ。

 

「私の真本音は

こう言っています。

だから、私は

それをせずに、

これをします」

と。

 

しかしその

「私の真本音」は

本当の真本音

ではない。

 

「真本音」という

言葉を

都合よく

使っているだけの

ことだ。

 

・・・・・・

 

企業様のサポートの

場合、

 

実は、私はこれまで、

真本音度合いの

高まった人にこそ

 

より厳しい現実を

与える、

ということを

してきた。

 

例えば、

その会社の社長から、

その人に対して、

非常に厳しい

「目標」を

与えていただいたりした。

 

厳しい「現実」を

与えられ、

 

しかしそれに対して、

「真本音で

立ち向かう」

ことにより、

 

「どのような状況でも

真本音で生きる

力を養成する」

ことが

できるからだ。

 

真本音で生きる

とは、

好き勝手に動ける

状況をつくる

ことではない。

 

どのような状況でも

私達は

真本音で生きる

ことができる。

 

そしてその結果

自分の望む

道を開くことが

できる。

 

それを

体験を通じて

学ぶことを

私はこれまで大切に

してきた。

 

だから、

真本音度合いの高まった

人にこそ、

あえて

その人にとっては

厳しい現実を

与えたりした。

 

それが、

私が大事にしてきた

「サポート」の

一つだ。

 

それは

言葉を変えれば、

 

その本人が

全力を尽くす場面を

設定した、

 

とも言えるのだ、

ということに

最近、気づいた。

 

・・・・・・

 

全力を尽くした

時の

自分を知ること。

 

これを知らない

人は、

傲慢になる。

 

変な言い方だが、

 

本当に全力を

尽くした人は、

自分の

あまりの力のなさに

茫然と

するはずだ。

 

自分とは、

何もできない人間

だった。

 

という事実に

茫然自失と

なるはずだ。

 

この経験がない

人は、

全力を尽くした

経験がない

ということだ。

 

こうなった時、

人は初めて

「自分」を知る。

 

「自分の現在地」

を知る。

 

そして

そんな人に

「真本音」の話を

すると、

一気に花開く。

 

どこまでも

自分を

開花し続けさせる。

 

・・・・・・

 

傲慢な人

ほど、

「自信がない」

と言う。

 

全力を尽くした

ことがないから、

傲慢なのだ。

 

全力を尽くした

経験のある人は

謙虚だ。

 

謙虚な人は、

「自信がない」

とは

言わない。

 

自信がない

のは

当たり前だし、

 

自信があるとか

ないとか、

そんなことは

関係ないからだ。

 

それよりも、

自分の

本当にすべきこと

(イコール、それは

したいこと)

に、

向かうことが

自分の人生であると、

わかっている。

 

それこそが、

真本音で生きる

ということだ。

 

つづく

 

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