自律

意図通りに行かない

 

人生は

何が起こるか

わからない。

 

私はますます

自分の意図通りに

何も進まなくなった。

 

なのにすべてが

調和するのだ。

 

びっくりすること

ばかりだ。

 

びっくりするのだが、

でも実は

最初からすべて

わかっていたんだな、

ともわかるし、

 

進んでいるその時も

わけがわからなく

なりながらも、

その奥ではずっと

すべてわかってやっている

自分の存在がある、

のもわかる。

 

自律という言葉を

私はよく使うが、

 

自律には2段階が

あるように思う。

 

第1段階は、

 

ちゃんと自らしっかり

考えて、

自らの意図を明確に

して、

その意図通りに

すべてを進める

 

という段階。

 

まずはやっぱり

これだ大事だな。

 

これをするためには

すべてに対して

自分が

「当事者である」

という自覚を

持たねばならない。

 

依存心では

決してできないこと

であり、

自分は中心である

という覚悟も

そこで学べる。

 

そしてそれをしっかり

現実の実践の中で

養い、

 

自分の意図を持ち

物事を着実に

当事者として進める

ようになった後に、

第2段階に入る。

 

その第2段階が、

 

自分の意図を

超える

 

という段階であり、

 

すべてを

委ねる

 

という段階だ。

 

この順番を間違えて、

第1段階を経ずして

第2段階をやろうと

すれば、

すべてが依存的になり

無責任になる。

 

第1段階の後に

自然に第2段階に入る

のが良い。

 

そして第2段階に入ると

自分の意図を持ち

自分の意図に固執

すればするほど、

 

意図通りには

行かなくなる。

 

意図は持つのだが、

その意図を

完璧に手放し、

 

すべてと共に

流れていく

 

ようにすることで

思わぬことばかりが

起こるが、

しかし当初の意図以上の

展開が起こり、

 

びっくりしながら

感動しながら

 

そして

常に面白さを感じながら

 

進むことができる。

 

私はこれをいつも

「真本音度合いを高める」

というサポートを

通じて

クライアントさん達に

ご体験いただいているが、

 

サポートしている側

である私自身が

 

あまりに意図通りに

行かないので

笑ってしまうというのが

最近の傾向だ。

 

すべては

意図通りには

行かない。

 

しかし、

願いは叶う。

 

・・・この醍醐味を

私は多くの方が

味わえるといいなぁと

思うし、

 

私自身も

もっともっと

味わい続けたいと

思っている。

 

つづく

 

もっと自律せな

 

私は地球だ。

 

・・・そう思える人が

今、地球上には

何人いるのかな。

 

私達は、

「場」に

頼り過ぎだ。

 

自分が今いる「場」は

あって当たり前だと

思っている。

 

例えば、家族。

例えば、学校。

例えば、会社。

例えば、国。

例えば、社会。

そして、地球。

 

「場」という土台の

上に

私達は生まれ、

もしくは参入し、

今、ここにいる。

 

でも

私達の多くは

知らない。

 

私達自身が

「場」を創っている

という事実を。

 

「場」が先にあるのか?

「私」が先にあるのか?

 

なんてことは

どうでもいい。

 

「場」が「私」に影響を

与え、

 

そして

「私」は「場」に影響を

与えている。

 

その循環が

成り立っている。

 

自分は今、

「場」と共に

どんな循環を創っているか?

 

この問いに

誰もが真摯に向き合うべき

だと

私は思う。

 

そして

これに真摯に向き合う人

こそが

「自律した人」だと思う。

 

そして

自律した人は

真剣になればなるほど

心のどこかで

痛感しているはずだ。

 

私が場であり、

場が私なんだな。

 

・・・と。

 

こんな人が

増えることで、

「私」も「場」も

次元を一気に高めていく。

 

一気に、だ。

 

「場」には

命がある。

 

当然、「私」にも

命がある。

 

命とは

持続しようとする

意志であり、祈りだ。

 

持続とは

進化だ。

 

今こそ我々は

一気に

進化が必要ではないか。

 

つづく

 

世界の自律のために

 

人には、

その人にしか

出せない

空気感

がある。

 

その空気感は

その人独自の

「世界」

を創る。

 

本来の自分の

「世界」を

創り出すことの

できた人は、

 

自分とは別の

「世界」を

既に創り出している

人達と、

 

共鳴し合う。

 

一人一人の

「世界」は

異なる。

 

決して一つとして

同じものはない。

 

違うのが

当たり前。

 

だからこそ、

共鳴し合える。

 

共鳴し合った

「世界」と「世界」は

 

時には

接着し、

 

時には

統合し、

 

時には

融合し、

 

時には

分離し、

 

そして

時には

同じ渦を

巻き起こしながら、

 

相乗効果の波を

波及させる。

 

その結果として、

たった一つの「世界」

だけでは決して

生まれなかった

何かを

 

この世に

生み出す。

「カタチ」」として。

 

その「カタチ」が

さらにまた次の

「世界」を

創り出す。

 

・・・・・・

 

「世界」を創り出せる

状態のことを

私は

 

「自律」

 

と呼んでいる。

 

つまりは、

自律した人のみが

自らの「世界」を

創り出せる。

 

自律できていない人は

残念ながら

「世界」とはならず、

 

したがって

相乗効果も

ない。

 

新たなものを

生み出すことも

できず、

 

どちらかと言えば、

生み出すよりも

奪い合う

関わりになりがちだ。

 

だから

組織においては

私はまずは何よりも、

 

いかに自律した人を

一人でも多く

増やすか?

 

を大切にしている。

 

「世界」と「世界」が

共鳴し合いながら

相乗効果を発揮する

状態のことを

私は

 

「調和」

 

と呼んでいる。

 

「調和」とは

「進化」と

同義語だ。

 

自律した人が

増えることで、

その組織は

調和していく。

 

進化していく。

 

組織を

社会と言い換えても

まったく同じである。

 

・・・・・・

 

自律調和した

社会にしたい。

 

これが私の

願いだ。

 

今。

 

若いのに既に

自律している

人達が増えている。

 

つまりは

「世界」をすでに

創り出している

若い人達が

増えている。

 

ちょっと極端に

言えば、

 

子どもでも

幼児でも

赤ちゃんでも

 

すでに

自律している子が

増えている。

 

なんだ

この子は。

 

すでに

「世界」を

持ってるよ。

 

感嘆する。

 

しかし残念ながら、

大人達が

それに気づかず、

 

子どもであるが

故に、

若いが故に、

 

未熟である

 

と勝手に

レッテルを貼り、

 

せっかくの「世界」を

壊しにかかる。

 

「世界」が壊れる

ことは、

この世の大いなる

損失だ。

 

私はそれを

どうにか

止めたい。

 

だから、

若い人達のサポートを

これから

増やしていく。

 

と同時に

大人達の

自律サポートも

増やしていく。

 

でも到底、

私一人では

無理だ。

 

だから、

仲間がいるし、

 

後継者も

必要だ。

 

後継者と言っても、

たけうち流に

なる必要もないし、

 

私と同じことを

する必要もない。

 

ただ、

本質を

後継したい。

 

本質とは、

 

真本音で生きるとは

どういうことか?

 

ということだ。

 

そして、

 

そんな人達を

増やすには

どうサポートすればよいか?

 

ということだ。

 

先日、

私の仕事仲間の

一人が、

 

私のやっていることを

「学問にしたい」

と言ってくれた。

 

学問にすることで

私がいなくなっても

本質につながる

カタチが残る。

 

それを何とか

実現したい、と

言ってくれた。

 

ありがたい。

 

そういったことも

含めて、

 

あと残された

人生の時間で、

 

自分が何を

すべきか?

何を

残すべきか?

 

について

私はもっともっと

探求をしていきたい。

 

そのためにも

「仲間」をさらに

増やしていきたいな。

 

つづく

 

コーチになるなら自律せよ

 

私がどうして

経営者の方々を中心に

コーチをさせていただいて

いるかと言うと、

 

やはり経営者は

立場上、

真剣にならざるを得ない

環境にあるからだ。

 

一歩間違えれば

ビジネスも人生も

大きく左右してしまう、

 

自分の人生だけなら

まだしも、

社員さん達もそのご家族も

含めた人生を

大きく左右してしまう、

 

そんなヒリヒリするような

決断をしなければならない

立場であるからだ。

 

本気で悩むし、

本気で落ちるし、

本気で這いつくばる。

 

もちろん

経営者以外の人達だって

同じだろう。

 

人生みんな

本当に悩みながら

進んでいる。

 

しかしやはり

社会的影響の大きさと

独特の孤独感と

圧倒的な重圧と、

 

それらに苛まれ、

真本音を忘れ、

反応本音にまみれながらも

それでも必死に

進もうとしている人を見れば

 

どうしたって

応援したくなる。

 

それが結果的に

経営者の方々が多かった

ということだ。

 

そして、

いつも書かせていただいて

いることだが、

 

私は「コーチ」を

育成したい。

 

世の中には「コーチ」が

足りなさ過ぎるから。

 

しかもその「コーチ」は

本物のサポート力を

持っていなければならない。

 

だからよく

「コーチになりたいのですが、

私を指導してくださいますか?」

とご依頼をいただくのだが、

 

そんな時に私が必ず

お伝えするのが、

 

「ではまずは

コーチとして独立をしてください。

小さくても良いですから、

自分で経営を始めてください」

 

ということだ。

 

自らが自らの

経営もできない人が

「コーチ」はできないからだ。

 

以前はそうでもない、

とも思っていたが、

やはり本物のサポート力は

 

「自律」した人からしか

出てこない、

つくづくわかったのだ。

この数年で。

 

私はすでに

自律している人を

サポートしたいし、

 

今はできていなくても

本気で自律しようと

している人を

サポートしたい。

 

そんな人にこそ、

「真本音で生きる」

ということの真髄を

体験を通じて

会得してほしいのだ。

 

自律した人が

さらに自律度合いを

高めれば、

 

調和の波が起こる。

 

自律調和。

 

そんな社会に

早くたどり着くためにも

私はさらに加速しなければ

ならないな。

 

つづく

 

試してみないかい?

 

自分をコントロール

することは

とても大事で、

 

自分を自由自在に

コントロールできていることを

私は

「自律」

と呼んでいるが、

 

ちょいと、

コントロールを

やめてみないかい?

 

完全に

自分に自分を

委ねてしまうんだ。

 

ちょっと怖いかい?

 

でも、

今ならオススメ。

 

勇気を持って

やってみるといい。

 

委ねたその瞬間から

「大丈夫だろうか?」

という不安と

「どうなるのだろうか?」

という恐怖心が

さらに高まるかも

しれない。

 

しかしそれらを

自分から

離してしまおう。

あえて。

 

そして完全に

自分に委ねるんだ。

 

すると

自分はどう動き、

 

何が起こるか?

 

試してみないかい。

 

はっきり言って

結果は保証しない。笑

 

でも、

肚が座るよ。

 

あなたの「自律」が

次のステージに

進むよ、きっと。

 

つづく

 

まだ仲間になってはならない

 

仲間というのは

いいなぁ、

と思う。

 

本当に

いいなぁ、と

思うが故に、

 

私は

こうも思うのだ。

 

一人ひとりが

まだ

自律できて

いないうちは、

 

仲間になっては

ならない、

 

と。

 

どれだけ

相性の良い人同士

でも、

自律する前に

仲間となってしまえば、

 

必ず、

 

依存が生まれる。

 

お互いが

寄りかからなければ

いられない

グループとなる。

 

「この仲間が

いるからこそ

私はがんばれる」

 

という状態。

 

じゃあ、

仲間がいなければ

どうなるの?

 

ということだ。

 

もちろん、

 

人というのは

依存し合う存在

だ。

 

依存し合わねば

存続できないように

できている。

 

だからこそ

良い依存関係が

大事であり、

 

私はそれを

依存ではなく

 

「調和」

 

と呼んでいる。

 

調和とは、

一人ひとりが

ちゃんと

大地に立っている

状態だ。

 

一人でしっかりと

歩くことができる

人同士が、

 

さらに

相乗効果で力を

発揮し合い、

 

共に進化し合う

 

状態だ。

 

そこからは

常に

新たな何かが

生まれるし、

 

ある意味、

 

すべての人が

「リーダー」

であり

「コーチ」

である。

 

すべての人が

「主役」

であり

「サポート役」

である。

 

その状態に

なるためには、

 

まずは

一人ひとりの

自律が

必須だ。

 

・・・・・・

 

これからの

時代。

 

誰かが

誰かを

支えるような

仲間は

もう要らない。

 

ぐらいに

私は

思っている。

 

ちょっと

極端かも

しれないが。

 

でも、

真本音のレベルでは

もう誰も

そういった仲間を

望んでいない。

 

特に

若い人達からは

それを

ひしひしと

感じる。

 

馴れ合いは

いやなのだ。

 

本当の

仲間。

 

共に

道を創る

仲間。

 

私自身も

そういった仲間を

慎重に

丁寧に

一人ずつ増やして

行こう。

 

私は、

仲間の在り方

こそが

 

ダイレクトに

世の中の在り方

インパクトを与える

のだと

思っている。

 

つづく

 

それは単なる思いつきだ

 

昨日、このブログで

直観について

書かせていただいたが、

 

直観のお話をすると

よく勘違いされてしまうのが、

 

「そうか、じゃあ

あまり考えなくて

いいんだ。」

 

という誤解だ。

 

いやいやいや、

もっとちゃんと

考えようよ!

 

と言いたくなる。

 

私のクライアントさんは

経営者の方々が

多い。

 

経営者は

しょっちゅう会社の

ことばかりを

考えている。

 

24時間、

考え続けている

人が多い。

 

そういう人にこそ

私は言うのだ。

 

「直観を

大切にしましょう!」

 

と。

 

それだけ

真剣に考えている

人にこそ、

本来の直観は

働く。

 

考えもしないで、

「直観で行けば

いいんだ」

とやっている人の

多くは、

 

・直観

・単なる思いつき

区別がついて

いない。

 

だから結構、

思いつきのままに

行動して

大変な目に合う。

 

思いつきとは、

反応本音レベル

の発想だ。

 

それは直観に

似てはいるが、

実に浅い。

 

しかもその多くは

自分本位の発想、

自己満足の発想、

だ。

 

そういう人が

いれば、

私は

 

「まずはしっかりと

考えよ」

 

と「指導」する。

 

人生を

仕事を

安直に考え過ぎ

だ。

 

困ったことに、

そういう人ほど、

「真本音が、真本音が」

言う傾向がある。

 

「お前が言うな。

それよりもっと

ちゃんとしっかり

考えろ!」

 

私は言う。

 

まずは、

 

自分で考え、

自分で決め、

自分で行動し、

自分で成果を出す。

 

これがやはり

自律の基本だ。

 

これを

やり続けながら、

試行錯誤を経ながら、

人は初めて

真本音とか

直観とかを

知っていく。

 

それもせずに、

真本音とか

直観とか

語らないでほしい。

 

なんか今日は

文句のような

文章になっているが、

 

残念ながら

今は、

グングン最高速で

進む人が

増えている一方で、

 

まるでその反動の

ように、

止まってしまう人も

増えている。

 

そして

実に残念だが、

 

止まっている人

ほど、

自分が止まっている

という自覚がない。

 

自分はちゃんと

やっている。

 

自分は

真本音で進んでいる。

 

思い込んでいる。

 

でも、

現実をよく

観てほしい。

 

本当に自分の

望む現実が

できているか?

 

「もうすぐできる

はずだ」

 

ではダメ。

 

ちゃんと日々、

望む現実が

生まれ続けて

いるか?

 

進んでいる

実感は

本当にあるか?

 

よ〜く

客観的に

自分を振り返って

ほしい。

 

自分を

大切にできるのは

まずは

自分自身なのだから。

 

「大切にする」

第一歩は、

 

「あるがまま」を

「現実」を

自覚する

ことだから。

 

つづく

 

結果は出ているか

 

結果は

出さねば

ダメだ。

 

自分の

望む結果

は。

 

自分の望む

結果が

出ていない

ということは、

 

何かが

おかしい。

 

その

「おかしさ」が

どこにあるか?

しっかりと

探究すること。

 

これが

自律の第一歩

だ。

 

「結果がすべて」

 

という言葉が

あるが、

実は私は

結構好きな言葉だ。

 

なぜなら、

 

本当に結果を

大事にしている

人は、

間違いなく、

 

プロセスに

真剣だからだ。

 

「結果がすべて

なんて・・・。

プロセスこそが大事

ではないか」

 

言う人に限って、

結果も

プロセスも

両方ともが

中途半端だ。

 

・・・まぁ

一概に決めつけちゃ

いけないけどね。

 

でも

その傾向は

確かにある。

 

望む結果が

出ていないのに、

 

いつかは

出るはずだ。

 

とやっている

人は、

多くの場合、

 

人生から

逃げている。

 

「人生から

逃げる」

 

という意味は、

 

今、

自分が見つめるべき

現実を

あるがままに

見つめていない、

こと。

 

今、

自分が取り組むべき

課題に

真正面から

立ち向かっていない

こと。

 

今、

自分が向き合うべき

人と

向き合わずに

斜に構えている

こと。

 

そして、

今、

自分が出すべき結果

から目を逸らし、

 

その、

目を逸らしている

ことを

自らごまかし、

 

ごまかすために

他の何か別のことに

一生懸命になっている

こと。

 

しかし当然それは

一生懸命の

フリだ。

 

本当は自分が

それをよく

わかっている。

 

だからずっと

罪悪感が

消えない。

 

何かにいつも

ビクビクするように

なる。

 

これらを

ひっくるめると

 

「現実逃避」

 

ということに

なるし、

 

現実逃避している

人の多くは、

 

「自己満足」

 

に浸っている。

 

もちろんそれは

本当の

「自己の満足」

ではなく、

 

ごまかしの

ための満足。

 

「これでいい」

と自分に

言い聞かせる

ための満足だ。

 

じゃあ自分は

どうか?

 

現実逃避や

自己満足は

していないだろうか?

 

という疑問に

最もわかりやすく

答える方法は、

 

自分が望む結果

を、

自分が日々

出しているか?

 

を見ればいい。

 

もちろん、

すべて毎日が

上手くいくわけでは

ない。

 

試行錯誤こそが

大事とも

言える。

 

しかし

試行錯誤を

本当に大事に

できている人は、

やはり

 

結果を大事に

している。

 

「本当に

自分が望む

結果は何か?」

 

まずは

これすらも

明確にしていない

人が多い。

 

それでは

自律はできない。

 

まずは

そこに真剣に

なったら

どうだろうか。

 

つづく

 

子どもだって自律する

 

『子が育ちますように』

 

という祈りは、

すべての人の

本能の中心に

脈々と

流れ続けるものだ。

 

私は思う。

 

子は

親のその祈りを

受け、

自らを成長・進化

させようとする。

 

この祈りと想いが

すべての

原動力になっているように

私には

思えてならない。

 

もちろんこの祈りは、

実際の親子

だけに当てはまる

ものではない。

 

例えば、

私のクライアント企業様の

ある社長から感じる

社員さん達への想いは

これとまったく

同質のものだ。

 

・・・・・・

 

私は、5歳の息子と

できるだけ

向き合うようにしている。

 

彼と共に時間を過ごし、

彼との会話を続けていると、

時々、

彼の真本音からの

メッセージが届く。

 

その多くは、

 

「今は私を

自由にさせないでください。

ここでしっかり

私に何が大切かを

何をしてはならないかを

教え込んでください」

 

というものだ。

 

このメッセージを

受け取った時、

私はできるだけ

その通りに

応えることにしている。

 

これはダメ。

 

こうしなさい。

 

やめなさい。

 

こんな言葉が

多く飛び交う。

 

今の息子のテーマは、

 

「一つを決めて

一つをする」

 

である。

 

彼は本当に

発想力と行動力が

豊かで、

しかも様々なことに

興味関心が向く。

 

一つのことを

始めても、

すぐに別のことに

目移りしてしまう。

 

一つを

やりっぱなしで、

次のことに

向かってしまう。

 

そんな時に、

「きちんと今、決めたことを

最後までやりなさい」

と叱る。

 

「心を

落ち着かせなさい」

 

「人を大切にして

自分が今、

どう動けばよいかを

相手の気持ちになって

決めなさい」

 

という言葉も

毎日のように

かけている。

 

恐らく、

こういった話を聴けば、

「それは5歳の子に

すべき教育ではない」

という反対意見が

出るかもしれない。

 

5歳であれば

「もっと伸び伸びと

させてあげた方がいい」

と。

 

しかし私の息子は

徹底的に

伸び伸びと自由だ。

 

なぜなら彼は

真本音度合い100%で

生きているから。

 

彼はすでに

人生のあらゆることに

向き合い、

自らの意思と意図で

動いている。

 

つまりは

私の言葉で言えば、

自律している。

 

もちろん幼いが故に

できないことは

大人よりも圧倒的に

多い。

 

知らないことも

多い。

 

しかし、

そういった未経験が

故の行動範囲と、

自律できているかどうか、

はまったくの別次元の

話だ。

 

彼はもちろん

子どもだからこそ、

親に依存している。

 

親がいなければ

生活もできない。

 

しかし、

実は、依存と自律は

対義語ではない。

 

彼は

自らの意思と意図で

依存している。

 

つまり、

自律した心で

依存している。

 

そんな彼だからこそ、

きちんと

教えるべきことを

教えなければならない。

 

・・・・・・

 

なんて

偉そうなことを書いたが、

その彼への教育を

しているのは

ほとんどが私の妻

である。

 

妻と息子との

コミュニケーションを

見ながら、

私は多くを学んだ。

 

「子が育ちますように」

 

という祈りを

実行するとは

こういったことか、

と。

 

そして私はそれを

様々な企業様での

人の育成と

組織活性化の

参考としている。

 

親の子に対する

育成の仕方こそに、

すべての育成の

原点がある。

 

と、今の私は

思うようになった。

 

・・・・・・

 

まずは

真本音度合いを

高めること。

 

その上で、

しっかりと

指導すること。

 

これこそが

本質であると

今の私は思っている。

 

そして

これができるコーチを

増やしたいと

思っている。

 

つづく

 

本当にサポートしていいの?

 

その人の

にこやかなお顔の

奥から

 

「助けてください!」

 

の声を

私は聴いた。

 

最近は、

毎日だ。

 

会う人会う人

皆が

助けを求めている。

 

特に

初対面の人に

多い。

 

そして、

企業でも

組織の上層にいる

人ほど多い。

 

皆、

苦しみ悩んで

いる。

 

しかもそれは、

自分だけで

生み出したもの

ではなく、

 

組織のいろんな人達の

苦しみを

一身に受け止めている

苦しみだ。

 

そういった人達からの

SOSを感じると、

まず私がするのは、

 

あなたは

自力でここを

乗り越えたいですか?

それとも

私のサポートが

必要ですか?

 

という

判断だ。

 

もちろん、

そのような問いを

実際に投げたところで

ご本人が正確に

答えられることでは

ない。

 

それよりも

あるがままに

向き合うことで、

自然に

明確に

その判断は自ずと

ついてくる。

 

あぁこの人は

自力突破したいのだな、

とわかれば、

私は

何もしない。

 

頼まれても

何もしない。

 

そこで何かを

してしまうことは、

その人のことを

冒涜しているに等しいと

私は思っている。

 

・・・・・・

 

他者が

絶対にやっては

ならないことが

ある。

 

それは、

その人が

自力で進もうと

しているのを

阻害することだ。

 

しかし

それをしてしまう人が

多いのも事実だ。

 

自力で進むのを

阻害することで

発生するのが

「依存」だ。

 

「ここまで来れたのは

すべてあなたの

おかげです。

ですからこれからも

よろしくお願いします」

 

と、

もしクライアントさんに

私が言われたら、

私は自分の仕事が

二流だったなと

思う。

 

「コーチのおかげで

できました」

 

と言われた時点で

コーチとしては

失格だと

私は思っている。

それよりも、

 

「たけうちさんはもう

必要ないね」

 

と言われる瞬間が

私にとっては

無上の悦びだ。

 

おぉオレ、

いい仕事できたな、

自分で自分を

褒めたくなる。

 

・・・・・・

 

今の私には

あなたのサポートが

必要です。

しかしそれは

今、だけのこと。

私は自力で進む自分に

なるために

一時的に

あなたのサポートを

求めます。

 

・・・そんな真本音の

意志を感じる場合のみ、

私はその人の

サポートの決断を

する。

 

人は皆、

自立と自律を

望んでいる。

 

そこに向かう

サポートならば

徹底的に

したいと思う。

 

本当に

この人を

サポートして

良いかどうか?

 

サポートするならば、

どれだけの

距離感で、

どれだけの

サポートをすることが

本当に必要か?

 

いつ、

サポートを終え、

その人から

離れれば良いか?

 

こんな判断が

的確にできる

コーチを

私は増やしたい。

 

つづく

 

自分の足で立っているかい?

 

広い広い大地の上に

ポツンと一人で

立っている自分を

イメージしてください。

 

大地は、

前にも後ろにも

右にも左にも

延々と果てしなく

続いています。

 

遮るものは

何もありません。

 

あなたの他には

誰もいません。

 

あなたは

一人です。

 

たった一人で

立っています。

 

そして、

風を感じています。

 

しばらく、

できれば3分くらい、

その状態を

味わってみてください。

 

・・・・・・

 

3分ほどイメージすることで、

あなたは

どんな気分になりましたか?

 

楽しい気分ですか?

 

寂しいですか?

 

孤独を感じましたか?

 

不安がありましたか?

 

それとも、

満たされた感覚でしたか?

 

大地に

立っている感覚は、

時間と共に

より強くなりましたか?

 

時間と共に

安定度は増して

いきましたか?

 

それとも、

時間が経つと、

大地が崩れたり、

足元が揺らいだり、

大地の存在が

なくなってしまったり

しましたか?

 

要するに

あなたにとって

その「世界」は

居心地の良いものでしたか?

 

あなたにとって

その「世界」は

地に足が生えたような

安定感がありましたか?

 

あなたにtとって

その「世界」は

充実した素敵なもの

でしたか?

 

・・・・・・

 

その「世界」が

自分にとって

「いいなぁ」と思えるもので

あったり、

安定度の増すもので

あったならば、

 

今のあなたの毎日は

しっかりと自分の足で

立ち、

自分の意志と意思で

前に進むもので

あるはずです。

 

これを、

「自立」であり

「自律」であると

私は表現します。

 

一見孤独に見える

その「世界」も

実は、自分自身の選んだ

「世界」であり、

自分自身の望んだ

「世界」であると

自然に思えるからです。

 

もしかすると

人によっては、

その「世界」が

自分そのものに同化した

かもしれませんね。

 

もしそうであれば、

その人はかなり

次元の高い毎日を

送っています。

 

しかしもし反対に、

その「世界」に

強い孤独を感じたり、

不安定さや

逃げ出したくなる気持ちに

なった場合は、

 

残念ながら

あなたは「自立」「自律」とは

言えない日々を

送っているのだと思います。

 

何かに依存したり、

自分以外の誰かから

何かを与えてもらって

初めて、

自分で動くという

受け身の生き方や、

他の何者かに人生の

ハンドルを預けてしまって

いる可能性があります。

 

・・・・・・

 

私達人間に

依存はつきものです。

 

というか、

私達は必ず何かに

依存しながら生きています。

 

しかし本当の依存とは、

自分が「自立」「自律」

できた状態で、

行なうものです。

 

自立している人、

自律している人は、

自分の役割を

よくわかっています。

 

わからないまでも

わかろうとし続けます。

 

その結果、

自分が何に依存すれば

良いか?が

よくわかります。

 

それによって

生じる「依存」は

調和と相乗効果を

生み出します。

 

・・・・・・

 

経済的な自立は

別として、

 

精神的な自立も自律も

特別なことでは

ありません。

 

例えば、

4歳や5歳の子供でも

自立・自律してるなぁ

と感じることがあります。

 

経験を積まなければ

自立・自律できない

というものでは

ありません。

 

私達の真本音は

当然ですが、

自立・自律した自分の

生き方(行き方)を

望んでいます。

 

自立・自律している人は

あらゆる「世界」が

味方につくのです。

 

つづく

 

本当に問題は自分だけ?

 

よく、

 

人のせいにしては

ダメだ。

 

環境のせいにしては

ダメだ。

 

と言われます。

 

その通りです。

 

自分以外の何かの

せいにして、

自分の次の振る舞いや

自分の次の選択を

決めている人は

どこに行っても、

どの環境に入っても、

自分以外の何かの

せいにする人生を

続けるでしょう。

 

それは

「依存」の人生

です。

 

自立した人。

 

自律した人。

 

人生の覚悟を

もっている人は、

 

もちろんそういったことは

しません。

 

・・・ということを

重々に承知した上で、

今日はあえて

申したいのです。

 

「もっと

人のせいにしたら

どうですか?」

 

「もっと

環境のせいにしたら

どうですか?」

 

と。

 

・・・・・・

 

もちろん、

すべての人に

そうお伝えするつもりは

毛頭ありません。

 

私がお伝えしたいのは、

 

自分のケツは

自分で拭く、

 

という覚悟を持った

人に対してです。

 

私のクライアントさんは

そういった方々が多く、

とても

気持ちの良い皆さん

ばかりです。

 

そういった人は

人生やお仕事で起こる

あらゆる「現実」に対して、

 

自分自身の責任である

 

と捉えます。

 

もちろんそれは

とても潔いことなのですが、

でも、時々ですが、

 

自分のせいにし過ぎる

 

人もいるのです。

 

すると今度は逆に

物事の本質が

観えなくなってしまうことが

あります。

 

私はよく

組織のサポートをする時に、

その組織に何らかの問題が

起きている場合、

 

「誰のせいか?」

 

を明確にします。

 

もちろんその人のことを

責めるためでは

ありません。

 

原因の本質を

あるがままに見極める

ためです。

 

誰がいけないのか?

何がいけないのか?

 

その事実を

そのままに見つめることこそ

物事の展開を大きく変える

起点となります。

 

・・・・・・

 

このような問題が

このように起きたのは、

 

まずは、

私のここがまずかった。

 

私のここが原因だった。

 

と同時に、

あの人のそこも

まずかった。

 

あの人のあそこが

原因だった。

 

・・・というように、

自分とか他人とか環境とか

そういった垣根を

取り払った

ニュートラルな視点から

すべてを俯瞰することが

実に大切です。

 

それができた時点で、

私達は

次元を一つ上がって

います。

 

誰が悪いんだ?

俺のせいか?

お前のせいか?

 

ではなく、

 

すべてを全部俯瞰して、

どこにどのような

問題があったのか?

 

をそのまま受け止める

ということですね。

 

これができる人は

自分にも他人にも

厳しくなりますが、

 

しかし、

自分にも他人にも

本当の意味で

やさしくなれますね。

 

・・・・・・

 

もともと私達の

高い次元の意識では、

 

すべてが一つ

 

です。

 

それはつまり、

 

私はあなたであり、

あなたは私

 

なのです。

 

この本質を思い出せば、

「自分がすべて悪い」

ということは、

あり得なくなります。

 

なぜなら、

物事はすべて

人と人の関わりと

影響のし合いで

成り立っているからです。

 

それが

この世の中です。

 

・・・・・・

 

世の中は

私である。

 

私は

世の中である。

 

すべては

私である。

 

私は

すべてである。

 

低い次元で

このように捉えると

それはただの

傲慢ですが、

 

高い次元では

これが本質であり、

普通であり

当たり前のことなのです。

 

ですから、

人生の覚悟を持った人、

自立・自律している人にこそ

私は問うのです。

 

「誰が問題ですか?」

 

「誰のせいですか?」

 

と。

 

つづく

 

 

<ご案内>

おかげさまで、

当初私が予想していたよりも

ずっと多くの皆様に

電子書籍と動画を

ご覧いただいたようです。

 

ありがとうございます。

 

まだお申込みが

続いているようですので、

配信期間をもう少し

延長しようかと思います。

 

良いセルフコーチングは、

自分の中にすでに

存在している

高い次元の意識を

思い出すきっかけとも

なります。

 

もちろん、

高い次元が良くて

低い次元が悪くて、

という単純なものではなく、

 

私達人間は

高い次元から低い次元まで

あらゆる次元の意識を

内包し、

コラボしているからこそ

素晴らしい存在なのだと

私は思います。

 

ですからこそ逆に、

多くの皆様に

高い次元の自分自身と

もっともっと出会って

ほしいな、と思うのです。

 

私達の心の中は

宇宙と同じように

広くて深いです。

 

心の宇宙の探検を

楽しくしていただくことは、

人生の冒険を楽しむ上では

必須です。

 

自分としっかり

向き合える人こそが、

現実とも

しっかり向き合え、

人生と

あるがままに向き合えます。

 

そんなきっかけになると

いいな、と思い、

配信させていただいています。

 

ご興味ありましたら、

ぜひどうぞ。

↓↓↓

『人生を真剣に変えたいあなたへ』

 

自分自身との信頼関係を結んでいますか?

私はよく

『自律』

という言葉を使います。

 

「自分を律する」という

言葉を見ると、

自分を縛るようなイメージ

があるかもしれません。

 

が、

私はまったく逆の意味

として捉えています。

 

自分を律することが

できるということは、

自分を完全に

コントロールできる

ということです。

 

言葉を換えれば、

自由自在に自分を

操ることができる

ということです。

 

つまりそれこそが

本当の

「自由」

ではないか、と

私は思います。

 

自由自在に

自分を操ることの

できる人というのは

世の中にいったい

どれだけいるでしょうか?

 

まず、

自分の心を

自分で操ることは

できますか?

 

できませんよね。

 

自分が本当に望む

行動を

望むままに

し続けることが

できますか?

 

できませんよね。

 

自分のちょっとした

振る舞い、

しぐさ、

表情など、

自由自在に

できますか?

 

できませんよね。

 

私達は

思っている以上に

自分を

自由自在に

できていないという

事実があります。

 

しかも、

人に依存している人は

どうでしょう?

 

あの人がなければ

私は立っていられない。

 

もしくは、

あの組織がなければ

あの仕事がなければ

あの人間関係がなければ

私は立っていられない。

 

・・・つまり、

何かに寄りかかりながら

生きていることを

依存と言いますが、

 

もちろん人は、

誰もが何かに

必ず依存していますが、

 

しかしその依存度が

高い人は、

依存している対象が

なくなってしまったり、

なくなってしまう可能性が

見えたりすると、

途端に

我を失ってしまいます。

 

そういった人が、

自分を自由自在に

コントロールできている

とは

到底言えないですよね。

 

「自分」

であるのにも関わらず、

私達は

その「自分」を

きちんとコントロール

できていないのです。

 

その原因の

最も大きなものが、

「自分の心を

コントロールできない」

からです。

 

・・・・・・

 

例えば、

誰かに対して

とても深い憎しみを

抱いてしまった場合、

その憎しみを

自ら解消することが

できるでしょうか?

 

何かに対して

とても深い後悔を

抱いてしまった場合、

その後悔の念を

自ら解消することが

できるでしょうか?

 

実は、

私達の心とは

「自分でコントロール

しようと思えば思うほど、

コントロールできない」

ものなのです。

 

これは、

他人に対しても

同じですね。

 

他人をコントロールしようと

思うと、

逆に反発が返って

きます。

 

コントロールされるのは

誰だって

嫌ですから。

 

自分自身も

同じです。

 

私達の心も

コントロールされることを

とても嫌います。

 

たとえ

コントロールしようと

しているのが

自分自身で

あったとしても。

 

私が、

「自分」と「私」を

区別して捉えた方が良い

と思っている理由が

ここにあります。

 

自分のことは

自分が何とでも

できる。

 

自分の心は

自分が何とでも

操ることができる。

 

・・・と思うのは

傲慢なんです。

 

もしそれが本当に

できていると

思っている人がいると

したら、

それこそ、

思い違いです。

 

恥ずかしながら、

昔の私が

そうだったんですが。

 

だから

私は自分が体を壊し、

それが心の問題で

あると知ったとき、

衝撃を受けたんです。

 

自分が自分の心を

まったく

コントロールできていない

どころか、

理解すらできていない

という事実を

目の当たりに

したからです。

 

傲慢に

なっちゃいけないですね。

 

傲慢は必ず、

足元をすくわれます。

 

・・・・・・

 

私達の心は、

コントロールしようと

思えば思うほど、

コントロール不能と

なります。

 

しかし、

理解・尊重しよう

とすればするほど、

結果的に

コントロールが

効くようになります。

 

いえ、

それはコントロールと

言うよりも、

「私」が「自分」と

調和している、

とか

協業している、

と言った方が

正確ですね。

 

私達は

自分自身と

信頼関係を

結ばねば

ならないのです。

 

なんか

変な表現だと

お思いでしょうが、

これこそが

最も大切なことです。

 

そして、

自分自身との

信頼関係を深めて

いくことこそが、

セルフコーチングの

真髄なのです。

 

つづく

 

徹底的に人と向き合い続けて実感すること

前回、前々回と、

「若者を妨げてはならない」

というお話を書かせていただきました。

(→前回記事)

 

が、ここからは、

ただし、・・・・

というお話をしなければなりません。

 

ただし、

条件があるのです。

 

すべての若者を妨げてはならない、

ということではなく、

一つ重要な条件があるのです。

 

それは、

真剣な若者、

もしくは、

真剣になろうとしている若者

に限る、

ということです。

 

言葉を換えるならば、

自律している若者、

もしくは、

自律しようとしている若者

に限る、

ということです。

 

「自律」については、

また改めてじっくり書かせていただく

ことになると思います。

が、ここでは深追いしないままに

書き進めたいのですが、

実は、

すでに自律している若者は

結構いるのです。

 

ただし本人は

「これが自律である」

とは認識していません。

むしろ、

大人達、先人達を見ながら、

自律している自分を

「ダメな生き方だ」と認識してしまい、

せっかくの自律の芽を

自ら踏み潰してしまっている、

という状況にあります。

 

人生の先輩の生き方・行き方を

学ぶことで、

自律から依存の生き方に

自ら修正してしまっているのです。

 

これを私は

社会の損失だと

強く思います。

 

「それこそが自律で、

それこそが重要なんだ」

ということを教える大人が

必要です。

 

少し強烈な表現を使いますが、

私達の世代は、

「依存し合うことで成り立つ社会」

を創ってしまったのでは

ないでしょうか。

 

そして残念ながら、

多くの若者達は、その依存社会に

染まってしまっています。

 

しかし、そこに染まらずに

経験が少ないにも関わらずに

毅然と進もうとしている若者も

いるのです。

それが、

・自律している若者

・自律しようとしている若者

です。

 

私は、そういった彼らを

妨げたくない、かつ、

後ろから後押しができるとよいなぁ、

と思っています。

 

彼らを導くのは

彼ら自身。

 

私が、他者が

導くのではありません。

 

彼らが自らを

存分に導けるような

後押しこそが、

今の世の中には必要です。

 

さて、もう一度ここで

ただし、・・・です。

 

自律している、もしくは

自律しようとしている若者の比率は、

私の実感値だけで申せば、

恐らく2割くらいです。

(結構、多いでしょ?)

 

あとの8割は

鍛えなければなりません。

 

しかし8割の内の半分以上は、

きちんとした刺激を与えれば、

自律、もしくは、自律しよう

とし始める可能性が高いです。

 

しかし適切な刺激がなければ、

依存的人生へまっしぐら

でしょう。

 

依存ではなく自律の道へ

大きく転換するための

適切な刺激を与えるのも、

私達世代の役割であり、

私のやりたいことでもあります。

 

私はこれまで、

本当に多くの人と

向き合ってきました。

 

もちろん、

自分自身とも

徹底的に向き合い続けました。

 

その中で一番実感するのは、

人の持つ

神秘さ

です。

 

人は、

神秘です。

 

人というのは、

向き合えば向き合うほど、

理解すれば理解するほど、

神秘のベールに包まれている“何か”を

より強く実感します。

 

私はその神秘さを、

この世の中でもっともっと

発現させたい。

 

先日出会った

ある20代半ばの社長が、

言われていました。

 

「私は、

シンギュラリティの先の世界を

見届けたい。

そこに責任を持ちたい」

と。

 

この想いは

私も同じです。

 

人が為すことに対して

人として責任を持つ。

 

そのために自分には何ができるか?を

真剣に試行錯誤する。

 

この当たり前の感覚と行動力を

持つ人を

私は増やしたい。

 

これが今の私の

重要なミッションの

一つです。

 

つづく

 

自律のないところに、調和は生まれない

弓江さんの直観的な問い、

「新規事業プロジェクトチームは、

このまま行けば、成功すると思われますか?」

 

これに私は直観的に

「成功しないですね。」

と答えました。

 

その答えを聴いて、弓江さんも木村さんも

何かが腑に落ちました。

(→前回記事)

 

この瞬間、私達3人は

本当に「一つ」になったと

私は実感しました。

 

実はこういった実感は

よくあることです。

こんな時私はいつも、

「すべては自分である」

という言葉に、とても納得します。

 

これは人数の問題ではありません。

 

クライアントさんが一人であろうと二人であろうと、

10人であろうと、100人であろうと、

「一つ」になるときには、本当に「一つ」になれます。

 

しかし、「一つ」になることで

皆がまったく同じ思考や意見を言うようになる

わけではありません。

 

「一つ」だからこそ、

各々の個性がさらに際立ちます。

そして、様々な意見が出ます。

 

しかしそれらの意見が「反発」や「争い」を生み出すことは

ありません。

すべてが「調和」という結果に繋がるための

意見です。

 

「調和」には、「迎合」や「妥協」は

一切ありません。

 

「強制」も「独裁」もありません。

 

本当に皆が納得する、「最善の答え」が

そこにあります。

 

個人個人から「最善の答え」が生み出されるのと同様に

チームにも「最善の答え」が必ずあります。

 

その答えに行き着くための、

最善の「試行錯誤」と「意見交換」が

「一つ」になることで行われます。

 

これは、各々の真本音度合いが高くないと

決して起きない現象です。

 

私はこの状態を

『自律調和』

と呼んでいます。

 

私がチームコーチングをする目的の一つが

この『自律調和』の状態を創ること

です。

 

そしてこの状態に入ると、

物事はさらに加速して進んでいきます。

しかもその時間は各々にとって

幸福感に満ち足りたものとなります。

 

それは例えば、オーケストラが

「一つ」になって最高の演奏をするときの状態と

本質的には同じでしょう。

 

私は弓江さんに問いました。

 

「なぜこのままでは、

新規事業プロジェクトは成功しないのでしょう?」

 

すぐに答えが返ってきました。

 

「今のチームは、

チームとしてまとまっていますが、

悪いまとまり方をしているからだと思います。」

 

「それは、どういうことですか?」

 

と問うと、今度は木村さんが答えました。

 

「人が活きていない。

誰も、最大のパフォーマンスを発揮していません。

というよりもむしろ、

みんな、死んでます。

お互いの力を打ち消し合っています。」

 

「その原因は?」

 

すると弓江さんが、ハッとしたような表情をされ、

次のように言われました。

 

「私はこれまで、原因をすべて木村リーダーの

リーダーシップにあると決めつけていました。

もちろん広義の意味ではそうだと思いますが、

もっと別の原因がありますね。」

 

その一言は、

私にとても伝わってきました。

 

すると、私の中に、別の視点からの問いが

浮かんできました。

私はそれを投げてみました。

 

「弓江さん、

これまでの木村さんは、リーダーとして

何をし続けてきたと思いますか?」

 

弓江さんは少し考えてから

言いました。

 

「あぁそうか。

木村リーダーは必死に、

火消しをし続けていたのですね。

大火事にならないように。」

 

つづく

 

すべての人が本当は、自分自身のリーダーである

チームを創るにしても、

会社を創るにしても、

「この人にはかなわない」

と思える人を、

チーム員に迎え入れることのできるリーダー(トップ)は

本当のリーダーであると私は思います。

 

「このチームでは私が一番凄い」

という枠の中でしかチームを創れないリーダーには

必然的に限界が訪れます。

 

リーダーとは、

役割にしか過ぎません。

 

そのリーダーが一番偉いわけでは

ありません。

 

そんなことは当然、頭ではわかっている人は

多いのですが、

いざ自分がリーダーになろうとすると、

なかなかそれができません。

 

リーダーである自分は一番素晴らしくなくては、と

真面目な人ほど思います。

そしてそのプレッシャーに負けそうになります。

 

そんなリーダーを数多く

拝見してきました。

 

私は思います。

 

リーダーとはもっと

自由であったほうがいい。

 

もっと

自分らしくあった方がいい、と。

 

リーダーらしい自分ではなく、

自分らしいリーダーをすればいい、と。

 

チーム(組織)とは

人の集まりです。

 

人には、心があります。

 

一人一人の心は価値観も違いますし、

これまでの人生経験も違います。

すべての人が、

「この人は完璧だ。素晴らしいリーダーだ」

と思えることは、ほぼありません。

もしあるとすれば、

それは「不自然」です。

 

人が、

その人の持っている本来の魅力を

発揮できれば、

私は、すべての人が「その人らしいリーダー」に

なれると、ある時から確信しました。

 

リーダーに向き、不向きは

ないのです。

 

大切なのは、

「本来の」その人らしさを

出せるかどうか?

 

それができれば、

すべての人がリーダーとなれます。

 

それができていない人が多いので、

現時点ではリーダーになれない人が多い、

というだけのことです。

 

本当は、

すべての人がリーダーです。

まずは、

自分自身を引っ張るリーダーです。

 

そして、

自分自身を引っ張ることができれば、

人を引っ張ることができるようになります。

 

それを一言で言えば

『自律』

となります。

 

そして、

自律した人が集まれば、

そこには

『調和』

が生まれます。

 

つまり、

本質的なリーダーが集まれば、

調和は自然に生まれるのです。

 

ですから私は、

すべての人がリーダーになればいい、

と思います。

 

エンティティは、

リーダーになれていない人にこそ

多く発生します。

 

自分の人生は自分が進むものなのに、

自分で自分をリードするものなのに、

それを放棄することで

エンティティは大量発生します。

 

エンティティが発生すれば、

まずは、その本人がとても苦しみます。

 

しかもエンティティは周りに

伝染します。

周りの人にも、苦しみを与えるのです。

 

その自覚がないままに

生きている人がいかに多いことか。

 

私は様々な組織と向き合ってきましたが、

この組織からエンティティがなくなれば

それだけですべてが解決するのに・・・、

と思える組織がとても多かったです。

 

木村さんも

エンティティに悩まされていた一人と

言えるでしょう。

(→前回記事)

 

本来の木村さんには

強い想いがあります。

それは、

真本音の想いです。

 

木村さんの想いをあえて私が表現すると、

「すべてのチーム員がリーダーとなって

活躍するチームを創りたい」

ということになると思います。

 

だから彼は、コーチング力を高めようとしましたし、

自分自身がプロのコーチになりたい、とまで

思いました。

 

その彼の想いは、

上司である平井さんの想いとも一致します。

 

平井さんからしてみれば、

木村さんがその真本音の想いを実践してくれればくれるほど、

平井さんの望む理想の組織になっていくのです。

 

だから平井さんは木村さんを

新規事業プロジェクトのリーダーに抜擢しました。

 

しかし一方で、

木村さんのこれまでの反応本音のパターンは、

「俺が一番だ!」

という状態を創り出す、というものでした。

 

その彼の反応本音のパターンを

彼自身の真本音の想いで超えていく。

 

これが、今回のプロジェクトにおける

木村さん自身の本質的テーマです。

 

しかし彼のこのテーマ達成を阻むものが

ありました。

それが、西畑さんのエンティティです。

 

果たして、木村さんは

西畑さんのエンティティを超えて、

自分のパターンを変えることができるのか?

 

それを今、突きつけられているのです。

 

ここは、

木村さんが自力で乗り越えるべきところです。

 

しかしそこにはサポートが必要です。

 

では、どのようなサポートをすればよいのか?

 

木村さんが木村さんの力で

現実を切り開くこと。

そのための、サポート。

 

ヘルプ(助ける)ではありません。

 

あくまでも、サポート。

 

サポートとして私は

何をすればよいのか?

 

そこで私が取った

「渾身の一手」

が、木村・弓江の二人同時コーチングだったのです。

 

つづく

 

自分を本当に信頼していますか?

平井さんが、依存から自律へと変化できたのは

なぜでしょうか?

(→前回記事)

 

平井さんが、深刻から真剣へと変化できたのは

なぜでしょうか?

 

そのきっかけは、

自分自身との「本能的信頼関係を結べた」からです。

(→本能的信頼関係についてはこちら)

 

要するに、本当の意味で自分自身を

信頼することができるようになったからです。

 

ではなぜ彼は、自分を信頼できるようになったのか?

その答えは極めてシンプルです。

 

「真本音で生きるようになった」からです。

 

真本音とは、揺るがぬ自分です。

どのような状況、どのような環境においても

変わることのない自分です。

 

その自分は、人生に対する揺るがぬ願いを

持っています。

 

何のために自分は生きるのか?

この世の中において、どんな役割を自分は果たすのか?

どのような強みを、どう活かしていくのか?

 

それらを「願い」として明確に抱いています。

 

真本音で生きるとは、

その「揺るがぬ願い」に向かって生きる

ということです。

 

今、この瞬間に自分は何をするか?

今、この瞬間に自分は何を言うか?

 

今、この瞬間に自分は何をしないか?

今、この瞬間に自分は何を言わないか?

 

日常における、自分の一歩一歩を

真本音に素直に出し続ける。

その度合いが増せば増すほど、

自分自身が喜びます。

 

そして、自分の揺るがぬ願いに素直な自分を

自分が信頼するのです。

 

逆に言えば、

自分の真本音をないがしろにした言動を

繰り返すことで、

私達は自分への信頼を失くしていきます。

 

自分への信頼を失くしてしまうと、

自分の「決断」を信じられなくなります。

自分の決断が信じられなければ、

常に「迷う」という状態になります。

 

迷いながら進めば、

当然ですが、物事は進展しません。

 

例え同じ選択をしたとしても、

本当に決断をしてその道を進めば、

どのような障害があっても乗り越えられます。

しかし、

迷いながらその道を進めば、

ほんの少しの障害に出会うだけで、

すぐに止まってしまいます。

 

人生に正しいかどうか、という答えはありません。

大事なのは、

自分が決めた道を進めるかどうか?

しかし、

自分が決めること自体ができなければ、

人生は一向に進みません。

望む未来は決して

実現しません。

 

自らの真本音に素直に生きるかどうか?

 

それで、すべてが決まります。

・・・と言っても過言ではないと私は実感しています。

 

「おはようございます」

と、挨拶一つをするにしても、

それを真本音でするかどうか?です。

 

真本音ですれば、

その人らしい、その瞬間における最善の

挨拶ができます。

 

それができるかどうか、で

その後の展開が大きく変わります。

 

今この瞬間における些細な言動の一つによって

人生の展開は大きく変わります。

 

それをわかっているからこそ、

真剣な人は、今この瞬間を大切にします。

 

今この瞬間に真本音で生きる、

という度合いが高まることを私は、

「真本音度合いが高まる」

と表現しています。

 

真本音度合いが高まれば、

自分を信頼する度合いも高まります。

 

決断力も増します。

直観力も増します。

他者との信頼度も増します。

生産性も、必要な能力も、ほしい成果を手に入れる可能性も

増していきます。

 

では、どのようにすれば

真本音度合いは高まるのでしょうか?

 

それを、平井さんの例をもとに

ご紹介していきます。

 

つづく

 

ゆとりがあるのは真剣な証拠

今回も「自律」について、さらに深掘りします。

(→前回記事)

 

「私は私なりに一生懸命やっています。」

 

企業サポートをしていますと、こういった言葉を

よく聞きます。

 

しかし残念ながら、この言葉も

依存している人の典型的なセリフです。

 

自律している人は決してこのようなセリフは

言いません。

 

「一生懸命」によく似た言葉で

「真剣」

という言葉があります。

 

この二つはよく似ていますが、

本質が異なることは、何となくニュアンスとして

わかりますね。

 

もちろん、どちらも大切なことです。

 

自律している人は真剣です。

しかし、依存している人は真剣ではありません。

 

その違いは何でしょうか?

 

私はよく以下のような喩え話を用います。

 

「一生懸命」とは、

竹刀で必死に練習しているイメージです。

 

竹刀をブンブンと振り回して、

自分の能力向上のために努力しています。

 

もしくは、竹刀と竹刀を使った試合のようなもの。

 

勝つために、一生懸命に試合に取り組みます。

 

一生懸命に練習する人とそうでない人。

一生懸命に試合する人とそうでない人。

 

その二人がいたら、もちろん

一生懸命な方が、能力も実力も上がっていきます。

試合に勝てる頻度も高まります。

 

ですので、「一生懸命」は大事なことです。

 

しかし自律した人から言わせれば、

「一生懸命なんて、当たり前でしょ」となります。

わざわざそんなことはアピールすることではない、と。

 

「真剣」とは、

文字通り、真剣(本物の刀)で立ち合いをしているイメージです。

 

つまりそれは、命のやりとりです。

 

真剣と真剣で立ち合う時、

そこではほんのわずかな隙も見せられません。

 

竹刀の場合であれば、

エイヤッで、思い切って竹刀を振り下ろせば

よいかもしれません。

一か八か、でもよいかもしれません。

その結果、試合に負けたとしても、

それはそれで悔しいですが、次があります。

 

真剣の立ち合いとは、次がありません。

 

負ける、イコール、命を落とす、ということです。

 

ですから、エイヤッというような、

ただの勢い任せの一太刀を出すわけには

いきません。

 

真剣の立ち合いに出る前には、

当然のごとく、最高の自分に仕上げなければなりません。

そうでなければ、命を落とす可能性が高まるからです。

 

立ち合いでは、自分の集中力のすべてを使って

相手に集中します。

相手の呼吸、相手の思考、相手の空気感、

相手のわずかな動き、・・・。

すべてに意識を向け、

本当に必要な動きのみを自分はします。

 

不必要な動きは、命取りです。

 

自分自身の呼吸を整え、

自分のすべてのエネルギーをその場に集中させ、

自分が本当に必要だと思う動きのみをとります。

 

そのため、力は抜きます。

本当にいざという瞬間に、すべてのパワーを

込めるために、

心も体も自然体で、力を抜いています。

 

そして、「ここぞ!」という瞬間を待ちます。

 

ここぞ!という瞬間に、ここぞ!という一太刀を

振り下ろします。

 

それが「真剣」です。

 

つまり、ある意味、結果がすべてです。

負ける=死ぬ、だからです。

 

そこには、言い訳も努力もありません。

勝つか負けるか。

それだけです。

 

私達の日常では、もちろんこのような命のやり取りは

稀です。

 

毎日、真剣による立ち合いをしているようでは、

神経が擦り減ってしまい、それこそ寿命が縮まります。

 

しかし、先ほども書きました通り、

真剣な人とは、普段は力を抜いています。

 

本当に「ここぞ」という時に力を発揮します。

 

なぜならそれは結果を出すためです。

 

「私は私なりに一生懸命やってます」

という言葉が、いかに真剣な人から見れば

「変な言葉」として映るのか、

その理由がここにあります。

 

人生に言い訳は必要ありません。

人生に弁解は必要ありません。

 

言い訳や弁解が出た時点で

依存です。

 

私達人間には、真本音があります。

 

真本音には、人生の願いが詰まっています。

 

自分はどんな人生を創り上げたいか?

自分は人生において、何を成し遂げたいか?

そのために自分のどのような個性を活かして、

どのような役割を担いながら、それを果たしたいか?

 

それは私達の真本音が決めています。

 

自分が決めた「願い」を

自分が実現する。

 

そこに真剣な人は、

今、自分が何をすればよいか?

今、自分は何をしてはならないか?

に対して、とても真剣です。

 

そして、今自分のすることのみを

真剣に行ないます。

 

今、自分のすべきことをしない、のは

とても気持ち悪くてしょうがありません。

 

今、自分がしてはならないことをする、のも

とても気持ち悪くてしょうがありません。

 

だから、気持ちの良いことをし続けます。

 

すべき時にします。

しない時には完全に力を抜きます。

 

なので、いつもどことなく

「ゆとり」があります。

 

肩の力を抜き、自然体です。

 

それは自分を完全にコントロールできている

状態です。

 

ですから、真剣な人とは自律した人なのです。

 

自律とは真剣なのです。

 

コーチという視点で、私が平井さんを見ていて

最も変化したと思うのは、

平井さんが、「余分な行動をまったくしなくなった」

ということです。

 

それは日常の些細な振る舞いにも現れました。

 

例えば、

余分な一言を彼はまったく言わなくなりました。

 

以前の彼は、相手を茶化すような冗談を

よく言っていました。

恐らくそれは、場の雰囲気を和ませるための

彼なりのコミュニケーション手段でした。

 

しかしその彼の冗談が、

信頼をなくす要因の一つになっていました。

もちろん、彼本人はそれを知りません。

 

それが、自然になくなりました。

 

私はよく、「真剣性」という言葉を使います。

彼の真剣性が高まることにより、

彼は、余分な一言がなくなりました。

 

余分な行動がなくなりました。

 

余分な仕事をしなくなりました。

 

余分な時間の使い方がなくなりました。

 

結果として、彼には時間ができました。

いつもどの社員よりも忙しそうだった彼が、

今は、誰よりも「ゆとり」があるように見えます。

 

ゆとりのある目線で、彼はすべてを観察します。

 

そして、ほんのわずかでも心に引っかかることを

発見すれば、最善のタイミングと方法で、

それに対応します。

 

そんな彼の立ち振る舞いを見ていますと、

あぁこれが真剣性が高まるということなのだな、

とわかります。

 

真剣性が高まるということは

自律性が高まるということです。

 

自律とは、真剣です。

 

そして真剣な人、自律した人は

一緒にいて、心が和みます。

 

こちらも幸せな気持ちになれますね。

 

自分の人生に対して真剣かどうか?

 

すべてはこれに尽きると、

私は思います。

 

つづく

 

目的がわからなくても目的に向かう

「自律」について、さらに話を深めます。

(→前回記事)

 

何のために何をするか?

そして、

何のために何をしてはならないか?

 

自律した人は、

常にゼロからそれを発想します。

 

それまでの過程はもちろん大事ですが、

それまでの過程と、創り上げてきた現実に

執着はしません。

 

「これまではこういったやり方で成功してきたから、

これからもこのやり方で行こう。」

・・・というのは、依存です。

それまでのやり方への依存であり、

過去への依存です。

 

常に原点(ゼロ)に戻ること。

常に「何のために」(目的)に戻ること。

それができるので、自律した人は強いのです。

 

しかしこのような説明をすると、

よく、次のようなご質問をいただきます。

 

「原点とか目的とか言われても、

私にはそれがわからないのです。」

 

実は、コーチング初期の頃の平井さんからも

いつもそのようなことを言われました。

 

平井さんは、

「私には、目的がわかりません。

自分が何のためにこの仕事をしているのか?

それがわからなくなります。

もちろん表面上の目的はありますし、頭では

理解できます。

でも、その目的を頭に置いたとしても

力も湧いてこないし、発想も出ません。

多分それは、私の本当の目的ではないからです」

と言われていました。

 

そして、

「たけうちさん、目的を見つけるためには

どうすればよいですか?」

と。

 

実は、

「目的を見つけるためにはどうすればよいですか?」

という質問は、

依存している人の典型的な質問です。

 

自律している人は決して、

そのような質問はしません。

 

それは、

すでに目的がわかっているから

ではありません。

 

目的がわかっていなくても、

自律している人は、そんな質問はしません。

 

自律している人は、

目的とは自分で見つけるものである、

自分で見つけようとしなければ決して見つけられないものである、

ということを、何となくでもわかっているからです。

 

そして、今はまったく目に見えない目的を

自ら見つけよう、とします。

 

そこが大事なのです。

 

なぜなら、

自ら目的を見つけようと真剣になることで、

私達の「真本音」が発動するからです。

 

真本音とは、

「私達の人生の目的に向かおうとし続ける

揺るがぬ心」

と表現することもできます。

 

その真本音が発動します。

それにより、

「目的はわからなくとも、目的に向かう」

という状態に入っていきます。

 

本当は、

私達の目的は、最初から私達の中にあります。

ただそれが、

顕在化していないだけです。

 

私達の頭が

認識していないだけのことです。

本当は目的は

心の中にガッシリと存在しています。

 

何のために私は生きればよいのか?

何のために私はこの仕事をすればよいのか?

何のために私はこの役割を果たせばよいのか?

何のために・・・

 

自分自身が今、ここにいる理由(目的)を

私達は本当は誰よりもよくわかっています。

ただ、

顕在化していないだけ。

 

ですから、目的は他人に教えてもらうものでは

ありません。

自ら見つけようとするものです。

 

それをすることで、

私達の真本音は発動し、

真本音に素直に行動することで、その先に

自分自身の目的が見えてきます。

 

説明すると、以上のようなことになりますが、

自律している人は、理屈ではなく感性として

以上のことがよくわかっています。

 

ですので私のコーチングは、

その人の真本音が活性化するための刺激のみ

を入れるようにしています。

それ以外のことはできるだけご本人が自力で

進めるようにしています。

 

平井さんのコーチングはその典型でした。

 

私が行なったのは、

平井さんの真本音を活性化させることだけ。

 

自らの真本音を自らキャッチできるようになった

平井さんは、自らの真本音に素直に

すべての道を開いていきました。

 

それが自律状態です。

 

真本音で生きるとは、自律すること。

 

そして自律した人が、

周りとの調和を起こしていきます。

 

つづく

 

私とあなたは、本当に調和していますか?

『自律調和』という言葉を

私はよく使います。

 

この言葉は、私が尊敬するある社長が

生み出した言葉です。

 

「たけうちさんがやっていることって、

こういうことですよね」

と彼に言われた時、

あぁなるほど!と思いました。

 

この言葉の凄いところは二つあります。

 

一つは、

「自立」ではなく「自律」というところです。

 

「自立」と「自律」の違いは、

様々な解釈の仕方があると思いますが、

私の解釈で言えば、

自立の先にあるのが自律です。

 

人は、自ら立つことができて、初めて

自らを律することができます。

 

自ら立つことをせず、依存状態のままで

自らを律しても、それは自律もどきです。

社長に依存していた時代の平井さんがまさに

この状態でした。

(→前回記事)

 

そして、自分を律する、とは、

自分を縛り付けることではありません。

 

自分自身をコントロールすることです。

 

つまりそれは、「自由自在に自分を操ること」です。

 

要するに、本質的な「自由」です。

 

自律している人とは、自由な人なのです。

 

これが私の解釈です。

 

『自律調和』という言葉の凄いところの二つ目は、

 

「調和自律」ではなく「自律調和」である

というところです。

 

よく、「仲間がいるから私はがんばれる」

という言葉を聞きます。

 

私はそれを聞くと、「依存だな」と思います。

 

仲間がいるからがんばれる、

じゃあ、いなかったら?

いなかったら、がんばるのをやめるの?

と。

 

もちろん、仲間は大事です。

調和できる環境や、職場や、人間関係は

とても重要です。

 

しかし、「みんながいるから私はがんばれる」

というのは、調和もどきです。

 

依存の集合体です。

 

依存とは、寄りかかること。

もしくは、ぶら下がること。

 

寄りかかる対象がなければ、

ぶら下がる対象がなければ、立つことができない状態

を言います。

 

お互いがお互いに寄りかかり、

お互いがいなければ立っていられない状態で

一つの調和を作っていても、

それは調和とは言いません。

 

そこに、「自由」はありません。

 

本来の調和とは、

一人一人がまずは自分で立ち、

自分で自分を自由にコントロールし、

そういうことのできる人達が、

お互いに寄りかかるのではなく、

自ら立った状態で、手をつなぐこと

です。

 

手を放そうと思えばいつでも放せます。

 

つなごうと思えば、いつでもつなげます。

 

どちらもできる状態。

 

今は、手を放すことが大切か?

それとも、手をつなぐことが大切か?

 

いつでもどちらの選択もできる状態。

 

そうなれると、

くっついていても、離れていても、

どのような状態でも

その人とその人は「調和」しています。

 

調和とは、「距離感」です。

 

その人とどれくらいの距離感で関わることが

今は最も相乗効果を発揮することに

なるだろうか?

 

それをお互いに見極め、

最適な距離感で関わり合うことが

真の調和をもたらします。

 

それができるのは、

自律した人同士のみです。

 

ですので、『自律調和』なのです。

 

自律→調和 なのです。

 

この順番しかあり得ない。

逆はあり得ないんだ、ということに

いつからか私は気づくことができました。

 

そこに気づいてから、

人や組織への関わり方が

非常に楽になりました。

 

何をすれば良いか?が

明確に掴みやすくなりました。

 

そしてさらに次のことも言えます。

 

自律した人は、

次の自律した人を生む、

と。

 

平井さんの例はまさしくそうです。

 

もともとは社長に依存していた平井さん。

その平井さんが自律することで、

自律した社員さんが一気に増えました。

 

組織全体が、

依存状態から自律調和状態へと

脱皮し始めました。

 

一人の自律は、

組織のパワーになるのです。

 

つづく

 

”自律”が無いとチームはひとつになれない

凄まじいな・・・。

いつも私は
そう思います。

本当にチームが
一つになったときの力を
目の当たりにすると。

よく、
「1+1=3にも4にもなるのがよいチームだ」
と言われます。

しかし私の実感としては
たった一人で奮闘するよりも
それが二人になるだけで、
1+1=100にも1000にも
なることがあります。

それが
人と人の力の相乗効果
です。

しかしここで
重要なポイントがあります。

一人ひとりがちゃんと
「1」
になれていることです。

0.9とか0.8ではいけません。

「1」じゃないと
相乗効果は出ないのです。

つまりは、
一人ひとりが自律していることが
必須です。

自律とは、
すべてを「自分事」とし、
自ら考え、行動し、
成果をあげている状態です。

自分で立った上で、
自分で自分を
コントロールしている状態です。

自分のコントロールのために
必須なのは、
「自分自身の願い」
を持つこと。

「願いのために生きる」
覚悟を持ち、
日々、
「行動しよう」
とし続けることです。

ここでまた重要ポイントは
「行動しよう」
です。

100点満点の行動が
できなければならない、
というわけではないのです。

本気で
「願いのために行動しよう」
とし続けるだけで
よいのです。

ただし「本気」が
必要です。

ですからそこに
能力は
関係ありません。

ですので、
新入社員でも
自律できている人はいます。

そしてそんな新人が
新たな何かを創造したり、
チームを大きく活性化させる
ことは大いにあるのです。

自律とは
本気になれば
誰もができること。

それをよく知っており、
まずは
自律のためのサポート
を的確にできる人。

それが
『チームパフォーマンスコーチ』
です。

つづく