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- 2019年 10月
あまりの心の
痛みに、
思わず私は
しかめっ面に
なった。
まるで、
燃えたぎる薪を
胸の中心に
押しつけられている
ようだ。
この痛みは
私の痛みでは
ない。
今、目の前にいる
クライアントさんの
心の痛みだ。
私はただ、
それと同じものを
直に感じ取っている
だけだ。
よくこんな痛みに
耐えながら
この人は来たなぁ、
と
半ば、あきれてしまう。
・・・・・・
ところが、だ。
その凄まじい痛みに
本人が
気づいていないのだ。
なぜ気づかない?
と
いつも不思議に
思う。
しかもその人は、
その痛みがさらに
増す方向の
選択や行動を
しようとする。
そっちは痛いよ。
と、
口で説明しても
わかってもらえない。
残念ながら
麻痺している人には
何を言っても
無駄になってしまう。
私にできることは、
その麻痺を
とるためのサポート。
だから私のサポートを
受けると、
以前よりも苦しくなった
と
言われる人もいる。
しかしそれは
麻痺が取れて
健康状態に向かっている
証だ。
・・・・・・
痛いことは
痛い。
苦しいことは
苦しい。
そう素直に
感じ取れることの
なんと健康的な
ことか。
ちゃんと
痛みを感じながら、
じゃあ
どうすれば自分は
痛まなくて済むの
だろうか?
と
真剣に考えながら
進むことが、
自分を大切にする
ということでは
ないか。
・・・・・・
痛みは
怖がればいい。
でも、
麻痺はさせるな。
それは
何の解決にも
ならないし、
自らを
蝕むだけのことだ。
もっと
健康的に生きてほしい。
もっと
健康的に生きてほしい。
私達は
機械ではなく、
人間なのだから。
つづく
人と人は
わかり合えるのか?
と
問われたら、
私はいつも
あえて
こう答えることに
している。
わかり合えません。
と。
建前ではない。
本当に私は
そう思っている。
だからこそ、
わかり合おうと
することが
大事なのだと
私は思うのだ。
・・・・・・
わかり合えた。
と
思うことは
傲慢ではないか。
極端な言い方だが
これも私は
強く思う。
お前のことは
私がよく
わかっている。
・・・と
過去に私は
何人もの人から
言われた。
その度に、
言いようのない
気持ち悪さを
感じた。
不自然さを
感じた。
そして
そんなこと
単なる思い込みだろ、
と。
だって、
私のことは
私すら
わからない。
今、私は
かなり
セルフコーチング力が
あると思う。
例えば10年前と
比べれば、
何十倍も、いや
何百倍も
私は深く自分自身を
見つめているし
向き合っている。
その分、
自分のことを
理解はできた。
しかし
理解すればするほど
わからなくなるのが
人間なんだ、
という
事実も痛感している。
・・・・・・
わからないことや、
わかり合えないことが
悪いことだとは
私は決して思わない。
むしろ
わかり合えないからこそ、
人生は面白いし、
我々人間が
体の数だけ分離し、
皆がバラバラに
生きているところに、
この世の意味と意義が
あるのだと思う。
もちろん、
わかり合えれば
わかり合えるだけ
嬉しい。
Aさんとの関係が
以前よりも
深くなればなるほど、
理解し合えれば
し合えるほど、
Aさんのことは
好きになるし、
Aさんとの人生も
幸せが増えるだろう。
しかしだからと言って
「もう私達は
わかり合えた」
とは
思わない方がいい。
逆に言えば、
もっともっと
私達は
わかり合えるのだ。
わかり合う
ということには
限りがないのだ、
とも
言える。
そういった意味で、
人と人は
わかり合えない
と
捉えておくことが、
その姿勢こそが、
大事であると
私は思っている。
・・・・・・
「わかる」
とは
そもそも
顕在意識レベルの
心の作用だ。
私達の顕在意識は
永遠に
「わかる」ことが
ないようにできている。
だからこそ、
「よりわかりたい」
「よりわかろう」
とする。
それこそが
私達の
顕在意識レベルの
健全な
在り方だろう。
つづく
これまでの人生の
延長線上に
これからの人生が
あるわけではない。
突然、
ここまでの流れを
逸脱して、
まったく新たな
線を
描き始めるかも
しれない。
それが
私達の人生。
しかしそれは
決して、
これまで過去に自分が
培ったものを
捨てなさい、
ということではない。
逆に、
過去に執着する
ことでも、
過去の経験に
固執することでもない。
これまでの自分。
過去の自分。
私達にとって
「過去」
とはいったい
何なのだろうか?
・・・・・・
過去とは
幻だろうか?
もしくは
自分自身の
解釈に過ぎないの
だろうか?
久しぶりに故郷に
帰り、
子どもの頃に遊んだ
公園に行くと、
あれ?
こんなに小さかったっけ。
と
びっくりしたりする。
私達は
あらゆる経験を
自分の「解釈」を通して
行なっている。
だから
事実を事実として
あるがままに
記憶しているわけでは
ない。
ということは、
私達の中にある
「過去」とは、
単なる解釈に
過ぎないのだろうか。
そうとも言えるし、
そうとは言えない
気もする。
・・・・・・
過去は、
今の自分を
形づくるものだろうか?
人は
過去の経験によって
個性を変えて行く。
自分とまったく
同じ過去を持つ人は
世の中に
一人もいない。
過去とは
自分だけのもの。
その過去によって
今の考え方や生き方は
変わるだろうし、
未来の自分へも
大きな影響を受けるだろう。
でも一方で、
過去にまったく
捕らわれない生き方
というのも
あるかもしれないし、
ないかもしれない。
私達は、
過去の影響から
脱することが
できるのか、
できないのか?
・・・・・・
ここで
ちょっと奇抜なことを
書こう。
私は思うのだ。
過去とは、
「抱っこ」
であると。
私達は皆、
自分自身の過去に
「抱っこ」されている。
過去に安住すれば、
それはそれで
自分自身は安心かも
しれない。
しかし私達の体は
どんどん大きく
なる。
大きくなれば、
抱っこしている腕から
体が溢れ、
いつか支えきれなくなる。
私達は
どこかでその「抱っこ」
から
自立しなければ
ならない。
そして今度は逆に、
過去そのものを
私達自身が
抱っこできるといい。
過去は私達に
大きな影響を
与えるが、
その過去に
支配されてはならない。
かと言って
過去をないがしろに
する必要もない。
自らが
過去を抱っこし
過去を愛するように
なること。
どれだけ
過去が大きくなろうとも、
その分、
私達自身も大きく
過去を愛する。
そうなれると
いいな。
・・・・・・
過去に
抱っこされる人生
から、
過去を
抱っこする人生へ。
その転換点が
人生には
必ず来る。
今、そこにいる
人達は
多いのではないかな。
つづく
あなたは
自分のことが
好きかな?
自分の
どこが好きかな?
自分の
どこが嫌いかな?
ちょっと
挙げてみて
くれないか。
全部、
紙に列挙して
ほしい。
そしてそれらを
じっと
眺めてほしい。
素直にね。
その上で。
その奥を
感じてほしい。
「好き・嫌い」
の、
その奥だ。
意味
わからんかな。
まぁこれは
理屈ではなくてね。
列挙されたものを
じーっとただただ
見つめてほしいんだ。
見つめながら
その奥を
感じてほしい。
「好き・嫌い」
の、
向こう側。
そこには
何があるかな?
実はそこにも
「好きか・嫌いか」
が
あるんだ。
その奥の答えは
一つだ。
好きか?
嫌いか?
の二つに一つ。
どちらかの
明確な
答えがある。
もし、
その答えが
「好き」
であったなら、
あなたは
真本音に素直に
生きているね。
もし、
「嫌い」
であったなら、
もう少し
自分に素直に
生きた方がいいね。
自分の
本当の願いを
大切にした方が
いいね。
つづく
もう
10年以上前の
ことだ。
ある企業様での
研修直前。
研修会場に
着いてから。
私は突然、
すべてが
怖くなった。
研修で
皆さんの前に立つ、
そのこと自体も
とてつもなく
怖くなった。
私は
研修会場を
飛び出した。
・・・・・・
外は、
土砂降りの雨
だった。
ちょうどその時
前線が上空を
通過していたのだろうか。
あまりの雨の
勢いで、
私は傘ごと
潰されそうだった。
私は
あてもなくさまよい、
気がつけば
ある小さな公園に
いた。
土砂降りなので
当然
誰もいない。
私は公園の広場の
中央に立った。
凄い雨。
傘を打つ
雨の音と勢いが
凄まじい。
そんな中
私は自分の足元
だけを見ていた。
このまま
いなくなってしまいたい。
もう人生が
終わってほしい。
と
自分の足に
降りかかる水飛沫を
見ながら
思った。
本当に
すべてが
怖かったのだ。
・・・・・・
どれだけの時間、
そうしていたの
だろう。
実際には
5分とか10分くらい
だったのかも
しれない。
足元を見ながら
私は空っぽに
なっていた。
もうここからは
一歩も動けない
気がした。
その時、
ふと、
私は
誰かから
応援をされている
感覚に襲われた。
それも
ただの応援では
ない。
もの凄い数の
人達の
もの凄い勢いの
応援。
まるで
今の土砂降りの
雨音が
歓声のように
聴こえてきたのだ。
私は
顔を上げて、
空を見上げた。
雨は
相変わらず
凄い。
近くに少し巨大な
木が立っていた。
その木が
まるで私に
笑いかけているように
映った。
「大丈夫だ。
私達はいつも
応援している」
と、
木に語りかけられた
気がした。
そうだ。
この応援を
必要としている人達が
たくさんいるの
だった。
私はこれから
その人達の前に
立つのだった。
急に私は
我に返った。
その途端に、
今、私を包んでいる
土砂降りの雨が
とても
心地良いシャワーの
ように感じられた。
シャワーが
私の中にあった
何物かを
洗い流して行く。
シャワーが
すべてを
洗い流して行く。
ふと
思った。
私の人生は
私が
進めて行くしか
ないんだな、
と。
他の誰も
それは
やってくれないんだな、
と。
そっか。
私がやるしか
ないんだ。
私は
自然に呟いていた。
「あー、オレ
開き直っちまったよ」
多分、
他の誰かが
その時の私を
見たとしたら、
きっと私は
笑顔だっただろう。
「気持ちいい
雨だなぁ」
と、
さらに私は呟き、
次の瞬間、
研修会場へと
駆け出していた。
ギリギリ
セーフ。
私は、
これまでにない
清々しさの中で、
何十人もいる
皆さんに
「真本音」について
語った。
これまでに
ない
語り方ができた。
語りながら、
あぁ、真本音って
こういうことか。
と
自分自身で
学んでいた。
・・・・・・
人間なんて
弱いものさ。
弱いからこそ
立ち向かうことに
価値が生まれる。
自分の人生だ。
開き直って
進もう。
開き直れば
真本音度合いも
上がるさ。
つづく
その人の
人生の選択は
その人の
ものだ。
誰が何と言おうと、
その人の
人生は
その人が決める。
それは
当たり前のことだし、
それを
尊重すべきなのも
わかってはいるが、
やはり、
少なくとも、
光の方向に
進んでほしいな、
と
私は願う。
光に輝く
方向だ。
その人自身が
真本音で望む
方向だ。
しかしそれと
真逆の方向へ
進もうとする
人がいる。
ちょ、ちょ、ちょっと
待って!
と、
ついつい私は
止めたくなる。
通常、
コーチとしては
止めては
ならないかもしれないが、
でも
人として私は
ついつい
止めたくなる。
・・・・・・
悩むことは
大事だ。
悩んで悩んで
悩んで。
真剣に悩み尽くして
答えを出すことは
とても意義があるし
それこそが
人生だ。
だが、
悩みながら
答えを出しては
ならない。
悩む頭で
答えを選んでは
ならない。
それは大抵の場合、
後悔を
呼ぶ。
本来の答えは、
悩みながら
出すものではなく、
悩んだ末に
スッキリと
「浮上」するもの
だ。
そう。
本来の答えは
その人の中に
ある。
その人の
真本音が
最初っから
決めている。
最初っから
決めているその
答えを
見つけるために、
私達は
悩むのだ。
だから、
悩んだ末に
浮上する答えと、
悩みながら
決める答えは
根本的に
違うんだ。
・・・・・・
真本音度合いを
なぜ
高める必要が
あるか。
それは、
真剣に悩んで
スッキリ
答えを浮上させる。
・・・そのプロセスを
「最短」に
するためだ。
とも言える。
人生を
急いでいる人は
今、
多い。
それだけ
人生で多くのことを
成し遂げようと
している。
最初から
そう決めている。
だから
急いで進もうと
本能的に
思う。
それが結果として
焦りを生み、
悩んだまま頭で
答えを出し、
本来とは異なる
道に行き、
その後、強い後悔に
苛まれる。
それも人生だし、
その試行錯誤も
必要だ、
という考え方も
あるが、
今のこの世の中に
いる我々の多くは、
その試行錯誤は
望んでいない。
それよりも
良い悩み方を
しながら、
最短で道を進み、
自分の人生の
目的を
何としてでも
果たす。
という
願いの強さを
持っている。
だからこそ
私は思うのだ。
これからの時代こそ
真本音度合いの
アップが
必要だと。
自分自身の
真本音と
反応本音の
区別をつけられる
自分になることが
必須であると。
つづく
加速感。
・・・とあえて
表現しようか。
これ、
今、あなたは
感じているだろうか?
まっすぐ
前を向いて、
目を閉じて、
そして、
目の前に
自分の人生の道が
まっすぐに
伸びているイメージを
してほしい。
未来の方向に
目を向けた時、
あぁ今、自分は
この道を
確かに進んで
いるなぁ。
しかも今、
かなりの加速を
しているなぁ。
と
素直に感じる
だろうか。
こんな単純な
方法で、
今の自分が
ちゃんと進んでいるか
どうかを
確かめることができる。
それくらいに
今は、
前に向かう潮流と
なっている。
流れに
乗るといい。
そして
そのままの勢いで
本来の自分の
望むスピードまで
加速を
してしまうと
いい。
今は
チャンスなんだよ。
今後の
何十年かの未来に
影響を与えるくらいの
チャンスなんだよ。
つづく
私の目の前で
何かが
燃えている。
強く強く
炎を放ちながら
何かが
一気に燃えている。
目を凝らすと
炎の中心に
何かがある。
黒い影が。
そこに意識を
集中させると
観えて来た。
「草原」
が。
・・・・・・
その「草原」は
広く広く
まるで無限のように
続いている。
他は
何もない。
ただ、
心地良い風のみが
緩やかに
吹き続けている。
いつの間にか
私は
その大地に
立っていた。
見上げれば
雲一つない
青空。
私は一人。
しかし
私はその世界と
一つだった。
・・・・・・
その「草原」が
燃えている。
なぜ、
燃えているのだろう?
燃え尽くした
後には
何が残るのだろう?
私はただ
その燃える様を
茫然と
眺めている。
「草原」の
内と
外から。
・・・・・・
しばらく経って
「草原」は
燃え尽くした。
後には
まるで灰のような
白い粉が。
その灰を
私は両手で
すくった。
すると、
そこから芽が
生えた。
その芽は
凄いスピードで
大きくなり、
まるで
ジャックと豆の木
のように
巨大化していく。
私はまたもや
茫然と
それをただ
眺めていた。
・・・・・・
いつの間にか、
私自身が
その巨大樹の
根に
なっていた。
そうか。
私はその巨大樹を
根元で
支え続けるんだな、
と
わかった。
それが
私の役割なんだな、
と。
恐らく・・・、
あの「草原」は
私の夢だ。
あの「炎」は
私の想いだ。
そして
「灰」に見えたものは
私が生み出した
「土」だ。
その「土」に
私自身が栄養となり
根となり
「夢」を実現していく。
そのためなら
私は
何だってやる。
もちろん、
巨大樹を育てるのは
私一人ではない。
私以外の
たくさんの「力」が
必要だろう。
しかし
その「力」達が
ちゃんと活きるためにも、
私は
しっかりとした
「根」となろう。
私は
すべてを活かす
根だ。
つづく
ちゃんと地面を
耕し、
種を蒔き、
芽が出たら
丁寧に
育てる。
栄養を与えながら
良い水を与えながら
太陽の光に
当てながら、
丁寧に
育てる。
小さな芽は
毎日ほんのわずかずつ
育ち、
やがて
実になる。
これが
この世の中の
「実現」
のための摂理だ。
これが
この世の
基本。
ここを忘れると
足元が崩れ、
一見、
「成功」と見える
物事も、
ある瞬間に
一気に「崩壊」したり
する。
自分は
ちゃんと
地面を耕したか?
ちゃんと
芽を蒔いているか?
たくさんの芽を
蒔いているか?
ちゃんと
栄養を与えているか?
ちゃんと毎日
コツコツと
すべきことを
し続けているか?
「育む」という
目線から
すべてをしっかりと
観察できているか?
そして、
本当はどんな「実」を
生らせたいか、
成らせたいか、
を
常に探究し続けているか?
その地道な
しかし
着実な
地に足のついた
目線を
持ち続けよう。
これがまた
真本音の道
でもあるんだ。
つづく
自分のために。
を
まずは徹底的に
探求・探究して
みよう。
徹底的に。
安心すればいい。
私達は皆、
深いところで
つながっている。
高い次元では
「一つ」
だ。
中途半端に
遠慮した
自分のために
は、
中途半端に
掘り下げられ、
「一つ」
の部分とは
つながらない。
それは単なる
わがまま
になったり、
自己満足
になったり
する可能性があるだろう。
だからいっそのこと、
中途半端は
やめて、
徹底的に
自分のために
に
集中する。
自分の
願い
に集中する。
これをぜひ
やってみて
ほしい。
自己中心。
本当に
自己が中心に
なれたら、
間違いなく
その影響は
周りを
幸せにするよ。
世の中全員の
人達が
真の自己中心に
なれるといいな、
と
私は思ってる。
自分のために。
を
徹底的に
探求・探究する者
だけが、
自分は何者か?
に
たどり着けるんだ。
つづく
あがくのが
人間だ。
あがきたいときは
あがけばいい。
一番いけないのは、
中途半端さ
だ。
本当は
あがきたいのに、
そんなことは
大人気ないし、
無駄である、
と
自分に言い聞かせ、
自分を
抑える。
抑えるのであれば
もっと
徹底的に
抑えればいいのに、
迷いながら
抑える。
だから
中途半端になる。
残念ながら
「中途半端」は
何も生まない。
良くも悪くも
徹底的に
何かに取り組めば、
必ずそこで
得られるものはある。
ゴツゴツと
ぶつかりながら
進めばいい。
と
私は思う。
何でも上手くやろう
と
し過ぎてないか?
それでは
結果的には
上手くいかないな。
上手くやろう
は
中途半端を生む。
ゴツゴツと
ぶつかりながら
進めばいい。
つづく
一人でいるのは
怖いかい?
でも、この世は
皆、
分離している。
一人の体の中には、
その人の心
しかない。
他者の心と
自分の心は
別物だ。
他者の体と
自分の体も
別物だ。
だから私達は
皆、
どこかでその
孤独さを
噛み締めている。
孤独だということを
誰もが
どこかで
わかっている。
だから
孤独であるという
事実から
逃げよう逃げようと
する人も多い。
それが
3次元のこの世
の特徴だ。
・・・・・・
この世で生きている
のが私達。
そこに意味が
あるのなら、
ちゃんとこの世界を
感じ取ろう。
そのために
とても大事なのは、
自分の中にある
孤独感と
対峙することだ。
孤独という
事実を
見つめることだ。
・・・・・・
イメージしてほしい。
何もない世界に
たった一人、
あなたは
ポツンと
立っている。
周りには
何もなく、
グレーの世界だ。
そこには
あなたしか
いない。
その孤独感を
しっかりと
感じ取るんだ。
そこには
悲しみとか
怒りとか
寂しさとか
そういったものは
実は
ない。
それを感じるので
あれば、
まだ
孤独の感じ方が
浅いかな。
もっとちゃんと
孤独を感じれば、
それは単なる
「虚無」
だとわかる。
そう。
私達が怖い
のは、
この「虚無」
なんだ。
・・・・・・
「虚無」がわかったら、
今度はそれと
対峙してみよう。
「虚無」と
向き合うのだ。
どうしてそんなことを
わざわざするんだ?
と
思うなかれ。
わざわざ
するのではない。
私達は皆、
毎日、毎時間、
毎秒、
この「虚無」を感じながら
生きているんだ。
その自覚を
することだ。
しっかりと
「虚無」と向き合えば、
変な言い方だが、
何となく
懐かしさを感じる
はずだ。
それほど
私達と「虚無」の
関係性は
深い。
・・・・・・
「虚無」を無くそうと
してはならない。
それは
ずっとここに
あるものだから。
それが
この世の掟だから。
これを持つことで
私達には
初めて得られるものが
あるから。
「虚無」を見つめ、
「虚無」を自覚し、
まぁ
これがあるのが
人間なんだな。
と、
いい意味で
諦めること。
つまりは
「虚無の存在承認」
だ。
これをすると
初めて私達は
外の世界を
「満喫」
できるようになる。
自分とは別の
存在達。
それらの
「存在感」を
直に感じ取ることが
できるようになり、
そこで初めて
「孤独」に
呑まれなくなる。
そして、
あらゆるものの
存在感を得ながら、
人としての
幸せ感も
得られるようになる。
感謝の気持ちも
湧いてくるだろう。
面白いものだ。
虚無から逃げ、
孤独から逃げれば、
いつも
孤独に怯え
幸せ感を
失う。
しかし、
虚無と対峙し、
孤独を受け入れれば、
人として
幸せ感が
明らかに増していくのだ。
これこそが
私達人間。
「あるがまま」
を
受け入れれば
受け入れるほど、
私達は
強くなる。
つづく
心の中が
空っぽで、
ただ
ポッカリと
何もない空間のみが
広がっている。
一見すると、
空虚感に苛まれる
のだが、
実は
そうではない。
「無」に見える
その空っぽの空間には、
無限の「有」が
詰まっている。
「有」が無限に
詰まり、
融合すると、
見た目は「無」と同じに
なる。
しかしそれは
見た目、だけ。
そこには
無尽蔵のエネルギーと
無尽蔵の発想が
眠っている。
あなたの中にも
これが
あるはずだ。
一見、空っぽに
見える
無尽蔵が
あるはすだ。
それを、
あなたの中に
探し出してほしい。
もしそれが
見つかれば、
あなたの意識を
(顕在意識を)
その無尽蔵の中に
溶け込ませてみて
ほしい。
無尽蔵と
一体化するのだ。
そこであなたは
何に気づくだろうか。
どのような
意思を
持つだろうか。
何を
無性に
したくなるだろうか。
そのあなたの
気持ちに、
素直に動いて
みてほしい。
つづく
正直に言おう。
私には
決して癒えることのない
悲しみがある。
私自身のこと
ではない。
この仕事をしていると、
「止まってしまう人」
を
どうしても
見ることになる。
人が
自分の人生を
止めてしまう。
それは
自殺という
わかりやすい例
だけでなく、
心も体も
実際には
生きているのに、
しかし
ほぼ死んだのと同じくらいに
人生を
止めてしまう。
進化を
自ら拒絶する。
人生の目的を
破棄する。
自分の真の幸せを
放棄する。
・・・そう決めて
止まってしまう
人がいる。
数としては
ほんの数えるくらいの
ものなのだが、
それでも
そのような状態に
なってしまう人を
見ると、
それに対して
他者は何もできず、
何もできない
という事実を
見ると、
私は
あまりにも深い
悲しみに落ちる。
そして
わかるのだ。
この悲しみは
ずっと癒えることは
ないな、と。
・・・・・・
今。
かつてないスピードで
進む人は
急増している。
嬉しいことに、
私のクライアントさん達は
皆、
とてつもない魅力を
高めながら
前に前に
進んでいる。
しかしその一方で、
クライアントさんの
周りには、
まるでその反動の
ように、
止まってしまう人が
出る。
先ほど書いたように
数としては
ほんのわずかなのだが、
それでも、
たまに
そんな人が出る。
その人に対し、
もちろん
私のクライアントさん達は
最大のサポートをする。
時には
私も直接
サポートする。
しかし。
人が人にする
サポートには
「限界」
がある。
その「限界」とは、
能力的な限界という
意味もあるが、
「他者がこれ以上
その人を助けてはならない」
という
言ってみれば
尊厳上の「限界」も
ある。
もしその「限界」を
踏み越えてしまえば、
サポートする側も
される側も、
その後に
とてつもない「不調和」が
待っている。
例えば、
とてつもない
依存
とか。
とてつもない
禍根
とか。
とてつもない
混乱
とか。
だから、
サポートには「限界」が
あることを知り、
その「限界」を
きちんと守ることこそが
真の「サポート」なのだが、
でも正直私は
止まってしまう人を
見るたびに、
あぁ、私に
魔法が使えたら。
と
思ってしまうのだ。
しかも私は
その人の
心と魂の痛みや苦しみを
そのまま
感じ取ってしまう。
時には
本人は麻痺して
痛みを感じなくなって
しまっていても、
私はその
麻酔薬が切れてしまった
かのような、
阿鼻叫喚のような
その人の苦しみや
悲しみを
あるがままに
受け取ってしまうのだ。
そしてそれを感じる時、
私自身も、
あぁこれは
癒えることはないな
と実感するほどの
深い悲しみに
落ちる。
これは
どうしようもない。
私の宿命だと
思って
あきらめている。
この悲しみは、
次のエネルギーに
転化できるような
生易しいものではなく、
目を閉じれば、
いつも
私の背後にあり続ける
ものだが、
この仕事を
始めた時から私は
そこは
あきらめている。
この悲しみは
ずっと
増え続けるのだろう。
でも
それをすべて
受け入れながら進むのが
私のすべきこと
なのだろう。
と
結局はいつも思うのだが、
そう思えるところまで
私は
とことん、自分を
悲しませてあげることに
している。
・・・・・・
こういうことを
ブログに書くのはどうか
とも思うのだが、
なんか今は
書いた方が良い気がして
書いてしまった。
かつてないスピードで
進もうとしている人が
急増する一方で、
自分の人生を
止めてしまおうとする
人も
今は、
一人、また一人と、
増えている。
私は
これを
止めたい。
何としてでも。
でも。
人間としてできる
ことには
限りがあるんだ。
私達は
人間なんだ。
つづく
目の前に
船がある。
船と言っても、
ボートのように
小さい。
しかも
よく見ると、
泥でできているのでは
ないか、
と
思うくらいに
不安定で弱々しい。
こんな船で
荒海に飛び出せば、
一発で
沈んでしまいそうだ。
命の保証は
ない。
普通であれば
こんな船、
絶対に乗りたくない
のだが、
でも、
私の魂が
「ここに乗るのが
私だ」
と
ほざいてやがる。笑
・・・こんな場合
私はどうするかと
言うと、
迷うことなく
その船に乗る。
たとえ沈んでも
恐らく
(本当に、恐らくだが)
後悔はしない。
・・・・・・
目の前に
船がある。
今度は
「超」がつくような
豪華客船だ。
最新型だ。
遊ぶ施設も
充実してそうだ。
毎日、
美味しい料理も
満喫できそうだ。
快適な日々が
過ごせそうだ。
こんな船で
世界一周できたら
さぞかし楽しいだろうなぁ、
と思う。
そんな人生
いいなぁ、
と思う。
でも、
私の魂が、
「この船には
乗らない」
と言えば、
私は決して
乗らない。
多分、
(本当に、多分だが)
後悔はしない。
・・・・・・
これを
「真本音で生きる」
と
私は呼んでいる。
真本音で生きる
とは、
自分の心に素直に
生きるのとは
ちょっと違う。
余計に難しくなるかも
しれないが、
あえて言えば、
自分の魂の意志
に素直に生きる
ということだ。
心と魂の違いに
ついては、
あえてここでは
触れないが、
この違いを
区別できることは
人生において
とても有意義だ。
・・・・・・
これは、
心を置き去りにする
生き方、
というわけでは
ない。
なぜなら、
魂の意志通りに
生きれば、
結果として
必ず、
どっかのタイミングで、
心も満足する
からだ。
逆に言えば、
どれだけその時の
心が望んだとしても、
それが
魂の意志とは異なる
選択であれば、
心は後で
必ず
苦しくなる。
心と魂は
分離しているのだが、
しかし
根底では
つながっている。
心にエネルギーを
与えているのは
魂だ。
魂の意志とは
別の生き方をすれば、
エネルギーは間違いなく
減退する。
だから、
自分自身の魂の意志を
ちゃんと
自分で知る必要が
ある。
・・・・・・
私の推奨する
セルフコーチングとは、
この、
魂と心の
区別をつける力を
身につけることに
直結する。
魂と心の意志の
区別をしながら生きる
状態になるための
自分との向き合い方
だ。
言葉を換えれば、
真本音と反応本音
の区別をつける
ために行なうのが
私の推奨する
セルフコーチングだ。
今の世の中は
この区別がないために
混乱している。
区別がないから
人生も混乱する。
区別をつければ、
すべてが
調和を始める。
単純なこと
なんだ。
区別は
大人も子どもも
誰もがつけられるように
なる。
ただ、みんな
そのやり方を知らない
だけだ。
知らないのであれば、
ちゃんと伝えていこう。
今の私の活動の
ほぼすべては、
これに尽きるかな。
つづく
もがいている人は
多い。
もがくのが
人だろう。
人の愚かさを
蔑んだり、
あざ笑う人が
いるが、
私にはどうしても
それができない。
もちろん
人は
愚かだ。
例えば、
もがく必要のない
ところで
もがいたりする。
例えば、
もがいている
フリをする。
しかも
その事実に自分自身が
気づかない。
例えば、
自分は被害者だ、
と言いながら
もがきながらも
他者を傷つける。
しかも
それに自身では
気づいていない。
という
人もいる。
本当に
愚かだと思う。
でもやはり
それが人だとも
思う。
この仕事に
真剣に向かえば
向かうほど、
人の愚かさを
許している自分がいる。
しかしだからこそ
私は
人に厳しくできる
のだと思う。
・・・・・・
昔、
学生時代の友人が
「やさしさとは
厳しさだ」
と言った。
おー、いいこと
言うねー!
と私は共感したが、
もちろんその時の私は
単に言葉の格好良さに
共感していただけだ。
今の私は
どうだろう?
ちょっとは
その言葉の真の意味は
わかったのかな?
時折、私は
自分でも驚くほどに、
人に対して
厳しくなる。
よくあれだけ
厳しくできたもんだ、
と
呆れることもある。
でも、
それこそが
その人への最大の
やさしさだ、と
やはり信じているから
できるのだと思う。
・・・・・・
やさしいフリは
もう
やめた。
やさしいフリは
人を結果的には
傷つけることを
何度も経験した。
いつから
フリ
をやめたのだろうな。
もう覚えていないが、
その代わりに
自分の中に
湧き上がる怒りや
憤りを
大切にするように
なった。
怒りや憤りを
しっかりと見つめていると、
その根底には
「愛」を感じた。
あーそうか、
この怒りをその人に
ぶつけることは
「愛」をぶつける
ことなんだ、
と
確信するようになった。
そんな時は
必ず、
怒りをぶつけるように
した。
そこに私は
躊躇をしない自分で
あろうと
ある時から決めた。
面白いことに、
そうしてから
私の人生の調和が
始まった。
・・・・・・
私は人格者では
ない。
ただの一人の
人間だ。
だから
私自身、愚かな部分を
無限に
持っている。
私はいつも
その自分の愚かさを
見つめている。
もしこれが
できなくなったら
今の仕事は
即、辞めるだろうな。
恐らく今、
私は
「人間」というものが
とても好きだ。
愚かな部分に
関しては
本当に嫌なのだが、
それでもきっと
人間が好きだ。
今日も
とても悲しいことと、
とても嬉しいことが、
両方あった。
悲しい時は
本当に悲しくなり、
嬉しい時は
本当に嬉しくなる。
あー俺は
人間なんだ、と
今日も
思った。
だから明日も
人間のできる最大を
やろうと、
心に決めている。
つづく
同じ人でも
「意思」
を持つと
見違えるようになる。
本来の「意思」とは
「自分が中心である」
という意識の上で、
初めて発動するものだ。
「自分が中心」
とは、
組織上のことでも
立場上のことでも
ない。
自分が
すべての中心であり
宇宙の中心であり
世界の中心である。
それが
摂理である。
と
感覚的に理解
している状態だ。
そして実際に
それは、
自然の摂理だと
私は思う。
・・・・・・
「中心」に立って
初めて人は
「本来の自分」
に戻れる。
つまり「意思」とは
本来の自分から
生み出されるもの
だ。
こうなると
人は
見違えるように
活き活きとし、
その人の魅力も
溢れ出す。
・・・・・・
夢やビジョンも
その状態になって
初めて
浮上する。
逆に言えば、
その状態にならねば、
その人にとっての
本当の夢もビジョンも
絶対に
見つからない。
つまり、
夢やビジョンは
人から与えられるもの
ではない。
自分の内から
湧き出るものだ。
・・・・・・
夢やビジョンを
持つと、
人はみんな
今の環境を捨て、
会社を辞め、
独立をするのでは
ないか。
と
思われがちだ。
いや、
そうではない。
むしろ私は
その逆をたくさん
拝見した。
真の意思を持ち、
真の夢やビジョンを
持つ人は
ほぼ例外なく、
「今、自分のいる
環境を愛する」
ようになる。
「今ここが
自分の出発点である」
という事実を
知り、
受け入れるように
なるからだ。
・・・・・・
真の意思を持つ
者は、
今の環境における
今の「現実」に対して、
魂を込める
ようになる。
「この現実はいや
だから、
この現実には
向かわない」
というのが
なくなる。
「すべての現実と
誠実に向き合う」
ようになる。
真に自分の望む道を
開く人は
全員、
そうなる。
・・・・・・
そして、
一人ひとりが
「中心」となり、
一人ひとりが
「意思」を持ち、
一人ひとりが
「夢・ビジョン」に
向かう、
そんな組織は
とてつもない
「調和」
を起こす。
「調和」とは
「進化」である。
そんな組織を
私は
増やしたい。
そんな社会を
私は
実現したい。
おかげさまで、
同じ「ビジョン」を持つ
仲間と
今の私は共に
進めている。
本当に
ありがたいことだ。
つづく
以前の私の講座の
受講生さんで、
「喜び」
という言葉と
「悦び」
という言葉を
区別されていた人が
いた。
「喜び」とは
心の喜びのこと。
「悦び」とは
魂の喜びのこと。
だそうだ。
この区別、
私もとても大切だと
思っている。
この区別が
もっとつくようになれば、
人生はもっともっと
豊かなものに
なるのではないか。
・・・・・・
この仕事をしていると、
魂がジンジンと
悦ぶ瞬間が
ほぼ
毎日のようにある。
それが実に
気持ちが良い。
しかもそれは
特別な出来事だけに
起こることではない。
私が、
「悦び」を実感できる
ようになってから
初めて知ることが
できたのは、
「一日の始まり」
と
「一日の終わり」
に
私達人間は
言いようのない悦びを
得ている、
という事実だ。
始まりと
終わりに
私達の魂は
打ち震えるのだ。
ひょっとすると、
この悦びを
定期的に得続けるが
ために、
「一日」というのは
あるのではないか、
とすら、
私は思うことがある。
ところが、
この悦びを
素直に感じ取っている
人がいったい、
どれだけいるだろうか。
今の社会では。
・・・・・・
富士山など、
山に登って
ご来光を拝む時、
ほとんどの人は
独特の喜びや
感動を得ていると
思う。
あれはもちろん
太陽や大自然の美しさを
目の当たりにした
感動もあるだろうが、
あれこそ私は
本質的には、
「始まりの悦び」
を感じているのだと
思う。
このように皆、本当は
「悦び」は感じられる
はずなのに、
日常にどっぷりと
浸かってしまうと、
それを
忘れてしまう。
これは
実にもったいない
ことだと
思わないか?
・・・・・・
私の推奨する
セルフコーチング法は、
この「悦び」を
取り戻していく方法
とも言える。
普段、
本当は感じているのに
感じられていない
麻痺してしまっている
私達の心を、
正常に戻していく。
そのために必要なのが、
『リブート』
だ。
つまりは
「再起動」。
心を再起動させる
やり方と力を
身につけていく。
一昨日の記事で
「リブート」には
二つの意味がある、
と書かせていただいたが、
(→【やっと動画を撮り終えました】)
二つ目の意味
とは、
「毎日のリブート」
だ。
本当は、
一日の終わりと
次の一日の始まりは、
私達にとっては
「リブート」
するというとても
重要な意味がある。
しかしそれが
きちんとできていない。
だから、
始まりと終わりの
「悦び」も
感じ取ることが
できない。
だから、
本来の
エネルギーも
湧いてこない。
昨日書かせていただいた
エネルギー管理も
できなくなる。
(→【自分のエネルギー管理を】)
だから私は
「リブート」の
具体的な方法を
皆さんがきちんと知る
必要があると
思っている。
それを
お伝えしたい。
これができると、
いつでもどこでも
「リブート」できる
私達になれる。
それをしっかり
正しく練習する場
としての講座を
開きたいと思っている。
つづく
ある一面から言えば、
人生とは
自分自身の
エネルギー管理である、
と私は
思っている。
自分のエネルギーを
何に対して
どう使うか?
これをしっかりと
決めていくことが、
自分自身の
望む人生を創り出して
いくことだ。
そこでとても
大事な視点は、
「エネルギーとは
有限である」
という事実だ。
いやいや、
人のエネルギーは
無限ですよ、
と
言われる人も
いるかもしれない。
もちろんある面から
言えば、
そう言えることも
わかるが、
それでは
自分自身の
エネルギー管理は
できない。
太陽光発電を
イメージしてもらうと
わかりやすいと思うが、
太陽のエネルギーは
無限だとしても、
それを実際に活用できる
エネルギー量は
限られている。
つまり、
本質的には
人のエネルギーは
無限かもしれないが、
しかし、
今ここで
実際に使える
自分自身のエネルギー量は
限られているのだ。
・・・・・・
大量のエネルギーを
使うためには、
大量のエネルギーを
使えるだけの
「自分」
にならねばならない。
自分のあまりの
エネルギーの高さに
自分自身が呑まれ、
自分を失い、
本来望む人生とは
真逆の人生を送っている人は
実はとても多い。
「エネルギー」
と
「今の自分」
の
バランスが悪い
わけだ。
エネルギー管理が
できていない
典型的な例の
一つだ。
だから
エネルギーは
高ければいい、
というわけではない。
「今の自分」
に見合ったエネルギー量が
あり、
それをしっかりと
管理することで、
逆に、
徐々に自分の活用できる
エネルギー量も
増えてくる。
そして当然であるが、
たくさんのエネルギーを
活用できる自分に
なればなるほど、
人や世の中に対して
影響力の大きな
ことができるようになる。
もちろん、
大きな影響を与える
人生ほど素晴らしい、
というわけではない。
やはり
その人にはその人の
人生のミッションがあり、
人生の目的があり、
それを実現するための
ちょうど良いエネルギー量
がある。
それができている人
のことを
私は
『等身大の自分』
と
呼んでいるが、
本当の意味での
等身大の自分として
生きている人は
エネルギー管理が
ちゃんとできている
ということだ。
・・・・・・
逆も言える。
今、自分が
活用できるエネルギー量は
どれくらいか?
をしっかりと
認識することによって
今、できること
今、すべきこと
を明確にして、
それを日々、丁寧に
し続けることで、
徐々に
自身の人生の道を
見出していくこともできる。
私の場合は
どちらかと言えば、
こちらのパターンの人生
だったかもしれない。
その時その時の
自分の出せる
エネルギー量を
最大活用し続けるうちに、
今の仕事と出会い、
そして
今のスタイルを確立した。
そして、
私が本当に人生の
ミッションやビジョンを
明確にできたのは、
ほんの8年前だ。
もちろん
それまでにも方向性は
わかっていたが、
30年後のビジョン
というように
明確に目指すものが
わかったのは
つい最近だ。
しかしそれで
よかった。
というよりも
私にとっては
それが最善だった、
と思う。
・・・・・・
今、自分の出せる
エネルギー量を
ちゃんと把握できている
人は、
極めて
少ない。
大半の人は、
自分の出せる
エネルギー量を
見くびっている。
本当はもっと
出せるのに、
「自分の最大は
まぁ、こんなものだ」
と
小さく思い込んで
いる。
それも実に
もったいない話だ。
私の推奨する
セルフコーチングは、
この、
自分自身の
エネルギー管理の技術
とも
言えるかな。
つづく
セルフコーチング系の
講座を
開催しようと思っている。
そのための準備に
以前から入っていたが、
苦戦していた。
何を中心に打ち出し、
どうメッセージすれば、
この講座で出会うべき
人達と
出会えるのか?
が、どうしても
不明確だったから。
でも、
やっとそれが明確に
なり、
今日、動画を撮り終えた。
やっと
完了感が出た。
プロデューサーの
牧村氏とも、
やっと共に
笑い合うことができた。
・・・・・・
その中心となる
コンセプトを
一言で表せば、
『リブート』
となる。
「再起動」という
意味だ。
この言葉自体は
以前から
顕在化していたが、
これをもとに
何をどのように
メッセージすればよいか?
に
手間取った。
でもようやく
腑に落ちた。
・・・・・・
今回、私達が打ち出す
「リブート」には
二つの意味がある。
一つは、
「人生のリブート」。
そう。
人生をリブートしたい
と思っている人が、
最近はやたらと
増えている
実感がある。
気をつけたいのは、
「リセット」
ではなく、あくまでも
「リブート」
だということだ。
「リセット」と言うと、
何となくであるが、
すべてを一度、
消してしまったり
まっさらにしてしまったり、
これまで培ったものを
捨ててしまったり、
・・・と、
かなりの勇気を
要するイメージとなる。
しかし
「リブート」とは
単なる再起動だ。
例えば、
パソコンを再起動
したからと言って、
これまでのデータや
アプリが
消えてしまうわけではない。
これまで培ったものは
ちゃんと残っているのだが、
しかし、
再起動することで、
フリーズしていたものが
治ったり、
滞っていたものが
解消されたり、
心が新たに
なったり、
次のステップや
次のステージに進む
きっかけとなったりする。
私はよく
仕事に疲れたり
発想が滞ったりすると、
いったん
パソコンの電源を
落とし、
仕事の発想も
止め、
空を見上げながら
散歩をしたり、
電車に乗ったり
しながら
気分転換をする。
少しそれをするだけで、
何かが
シャンと
もとの場所に戻り、
これまでとは
まったく異なる
新たな発想が浮かび、
止まっていた
あらゆるものがまた
動き出したりする。
そんな
イメージだ。
人生で
そんなことをしたい
と思っている人が
今、明らかに
増えている。
本当にこのままの
自分で良いのか?
このまま
進んでいいのか?
この延長線上に
自分の未来は
あるのか?
自分は
何も変えなくて
良いのか?
今、手に入っている
この満足感で
本当に満足か?
本当にこの幸せが
私が望んでいる
幸せなのか?
本当に今の自分が
本当の自分なのか?
今の人生が
本当の人生なのか?
・・・そんな
根本的な問いや
モヤモヤが
どうしても浮上し、
それをそのまま
放置しておくことに
我慢がならなくなっている
人が、
明らかに増えている。
そんな人達が、
ちゃんと正しく自分と
向き合い、
自ら答えを出して
いく。
そんな講座を
開講したい
というのが私の
コンセプトだ。
・・・・・・
と同時に、
「リブート」には
もう一つの意味がある。
それはまた
明日書こうかな。
つづく
どうせ
生きるなら、
自分を輝かせる
生き方を
しよう。
・・・こう伝えると、
ほぼ、すべての人が
そうですね!
と言う。
が、
それを本気で
目指している人は
いったい
どれだけいるのかな?
自分を輝かせる
よりも、
日々、やらねばならない
ことを
こなすので
精一杯。
そんな人が
やはり多いね。
「こなす人生」
だ。
一生、
こなす人生が
いい人?
と問えば、
はーい!
と
手を挙げる人は
ほとんどいない
だろう。
本当は、
「こなす」
とは、
私達の真本音が
最も嫌がる生き方
だ。
だから
ストレスが
大量発生する。
「こなしながら、
ストレス大量発生
の人生」
なんて、
ホントに嫌だよね、
誰だって。
でも、
ほとんどの人が
それを
やってる。
嫌なのに、
嫌なことを
やってる。
これが今の
社会だな。
こんな社会を
変えたい、
と
思うのだが、
社会を変える
とは
人を変える
ことだ。
一人ひとりが
変わって初めて
社会が
本質的に変わる
のだと
私は思う。
だって
組織が
そうだから。
仕組みから
組織を変えようと
思っても、
ほぼ
上手くいかない。
その現実を
私は
それこそ嫌というほど
見てきた。
中身が
伴わない仕組みは
意味がない。
一人の人が
変わり、
一人の人が
輝き、
あー、あれいいな!
と
周りの人が
影響を受け、
その輝きが
波及し、
その結果として
仕組みが
変わっていく。
その道のりが、
組織が変わる
最も近道だと
いうことを
私は
数え切れないほど
見てきた。
組織を変えたい。
社会を変えたい。
だったら、
あなたが
変わることだ。
自分がまずは
変わることだ。
不幸せな方向に
変わっても
仕方ない。
幸せな方向に
変わることだ。
自分を
輝かせる方向に
変わることだ。
そのためには
もっと真剣に
考えようよ。
一日の内の
ほんの数分でも
いい。
まずは
自分はどうすれば、
もっと
輝けるか?
自分自身が
何を変えれば
自分は
もっと幸せになるか?
それを
真剣に考える
時間を取ろう。
あなたを変える
のは
あなたしか
いない。
誰も
あなたを
変えてはくれない。
セミナーに
出たって、
セミナーの先生が
あなたを変えてくれる
わけではないよ。
自分が
変わろうと
するしかないんだ。
こなす人生
から
輝く人生
へ。
今日から
自らの意志で
変えていこう。
つづく
人と
向き合えば
向き合うほど、
自らの人生の
道を見出していく、
というタイプの
人がいる。
ある意味、
「コーチ」に向いている
タイプとも言える。
あえて
「コーチタイプ」
という言い方を
すれば、
コーチタイプの人は
自分一人では
決して
人生の目的も使命も
ビジョンも
見つからないように
できている。
人と向き合い続ける
関わりの中で
ヒントを見出し、
かつ、
人の願いをサポートする
という過程の中で
自らのビジョンが
明らかになっていく。
自分はコーチタイプかな、
と思う人は
もし人生に迷ったら、
とにかく
人と会うことを
オススメする。
そう言えば私も
昔は、
自分を見失ったり、
モチベーションがゼロに
なったり、
絶望感や虚無感に
苛まれた時ほど、
ガムシャラに
人に会いに行った
覚えがある。
自分の中からは
決して
答えは出ず、
しかし
人との会話の中で
「救い」の手を
差し伸べられたなぁ。
誰かから
具体的な答えを
教えてもらうわけでは
なかったが、
人と会ったその直後に
ふと、
「気づき」として
欲しかった答えが
観えたりしたものだ。
まぁ、今も
ずっと同じか。
迷ったら、
人に会う。
人から答えを
得ることを
期待するのではなく、
向き合う
という行為の連続
によって、
気づきを得る。
ということを
試してみてほしいな。
つづく
実は、こう見えて、
私は
自分の喋りたいことの
10分の1も
喋ってはいないと
思う。
普段の会話でも、
コーチングのような
サポート現場でも、
結構、
喋りたいことや
伝えたいことは
心の中に
たくさん浮かんで
来るんだよ、
本当は。
でも、
それを口に出そうと
すると、
喉が詰まってしまうんだ。
そして、
自分の意図とは
まったく違う言葉が
私の口が
喋り出すことも
実に多い。
しかし、
大概その言葉こそが、
その場には相応しい
最善の言葉
だったりする。
あぁ、さっきの私の
言おうとした言葉を
言わなくてよかったな、
勝手に口が動いて
くれて
よかったな、
と、
ほぼ、毎日、毎回
思っている。
こういう話を
聴けば、
ひょっとすると
「たけうちさんって
結構、不自由なんだなぁ」
という印象を
持たれるかもしれない。
いやいや、
逆だ。
私はとても
自由だ。
自由だからこそ、
これができると
思っているし、
いつもこうなる自分を
自由なヤツだなぁ、
と
自分で思うのだ。
・・・・・・
だいたいだね、
私が私の意図通りに
喋ろうとする言葉の
ほとんどには
「迷い」
がある。
100%とはちょっと違う
言葉達だ。
もちろん
本音で思っていることを
私は喋ろうとするので
あるが、
それは恐らく、
ちょっと淀んだ本音だ。
99.9%以下の
本音達だ。
だいたい、
意図した気持ちってのは
そんなもんだ。
これを私は
『反応本音』
と呼んでいる。
反応本音の言葉は
私の口からは
決して出ない。
出そうと思っても
出ない。
きっと私の真本音が
止めているのだろう。
・・・・・・
さて、その
『真本音』
だが、
これは
100%の意思であり、
言葉達だ、
とも言える。
それは
「わがまま」とは
真逆だ。
なぜ、100%になれるか?
と言うと、
相手と(もしくは、世界と)
繋がっているからだ。
繋がりを感じた上での
言葉達なので、
そこには
迷いや淀みが
ない。
だから
とてつもなく
スッキリと言葉達が
口をついて出て来るのだ。
そんな言葉のみによる
コミュニケーションは
もちろん、
調和しか生まない。
これを私は
『真本音コミュニケーション』
と呼んでいるが、
これができるようになると、
人生が本当に
楽になる。
自由になる。
自分の意図、
なんていう
ちっぽけで狭い世界から
放たれた、
大きな自分として
ここにいられるのだ。
・・・・・・
私の使命の一つは、
この
真本音コミュニケーション
のできる人を
増やしていくことだ。
これは
特殊な能力ではなく、
人類であれば
本当は誰もが
持っている力、
しかしみんなが
忘れてしまっている
力だ。
まずは、
人をサポートする
立場の人達が
これができないとね。
自由な人が
サポートして初めて、
みんなが真に
自由になれると
思うんだ。
つづく
あぁこの道で
よかったのだな。
とわかる瞬間は
頻繁に来る。
自然に
来る。
だから、
意図的に、無理に、
そう思わなくてもいい。
自分を信じられない
のなら、
無理に
信じなくてもいい。
ただ、
次の一歩、
その次の一歩、
を
誠実に
進めばいい。
・・・・・・
私達の心は
それほど強くは
できていない。
にも関わらず、
「心は強くあらねば」
と
皆、思い過ぎだ。
もちろん
そう思うこと自体が
悪いわけではないが、
心が弱いことを
言い訳に
し過ぎてないか?
心が整わないことを
言い訳に
止まっている
だけではないか?
心は
弱いものだ。
なかなか
整ってくれない
ものだ。
それはもう
諦めてしまおう。
それよりも、
前に
進もう。
・・・・・・
心は弱くとも、
私達の魂は
常に
ちゃんとここにある。
心とは、
外の影響
環境の影響によって
揺らいだり
右往左往するものだが、
魂は
そうじゃない。
ちゃんと常に
ここにあり、
ちゃんと常に
次の一歩を
示してくれる。
そんな魂の意思
のことを私は
『真本音』
と呼んでいる。
・・・・・・
心が傷ついているから
真本音が出ない。
ということは
あり得ない。
それは自らが
真本音から
目をそらしているか、
もしくは、
目をつぶっているか。
どちらかだ。
・・・・・・
この道が
正しいかどうか?
自分にとっての
正解かどうか?
それは
後でよくわかる。
今は
考えなくてもいい。
それよりも、
素直に誠実に、
現実を見つめ、
次の一歩を
決めよう。
それが
あなたの真本音
だよ。
つづく
人の成長を
決定づけるのは、
やはり
本人の意志だ。
「変わる」ことへの
勇気だ。
ここだけは、
なんともし難い。
・・・ということを
わかっている人じゃないと、
本当の意味での
サポートは
できないのだろう。
「私がこの人を(この組織を)
変えてやる」
という意識では、
残念ながら
表面的な変化しか起こせない。
上手くいっても
単なる、「膨張」しか
起こせない。
「膨張」は必ず限界が
来る。
そして「破裂」する。
それを成長とは
言わない。
それは単なる
膨張の果ての破裂
だ。
膨張をさせて
「俺が変えてやった」
と喜ぶ人もいるようだが、
それは単なる
傲慢だろう。
・・・・・・
皆、本当は
「変わる勇気」を
持ちたがっている。
「変わりたい」
「勇気を持ちたい」
という彼らの
真本音の気持ちに
アプローチすることが
他者ができる
最大のサポートなのだと
私は思う。
もちろん、
「変わりたい」
というのは
別物(別者)に変わる
という意味ではなく、
「本来の自分に
変わりたい」
ということだ。
ところが、
その変化の道
というのは、
スムーズではない。
緩やかにずっと
坂道を登るような
過程であれば楽なんだろうが、
そうはいかない。
道には
大きな段差がある。
時には、
垂直の壁を
攀じ登らねばならない。
それを
「怖い」
と認識する。
壁の前に立てば、
誰だって不安定になる。
そして
躊躇する。
もう、ここからは
進まなくていいのでは
ないか、と。
もう、ここまで来たから
いいじゃないか、と。
・・・・・・
他者にできるのは、
壁の攀じ登り方を
教えることだ。
それを私は
「セルフコーチング」
という形で
お伝えしている。
自分と正しく向き合う
ことで、
次の一歩として
何をすれば
壁を攀じ登ることが
できるか?
がわかる。
自分で自分を
指南する
正しい方法だ。
・・・・・・
セルフコーチングの
正しいやり方を
じっくりと教えるための
講座を今、
用意している。
が、
ちょっと苦戦している。
動画などももう
撮ったのだが、
今回、本当に集まるべき
人達に
ちゃんと届くメッセージに
なっているか?
となると、
ちょっと何らかの
違和感を覚えるからだ。
もういつでも配信
できるのだが、
躊躇している。
だから、全面的に
撮り直しをしようか、
どうしようか、
と
パートナーと共に今
悩んでいる段階だ。
この講座に関しては
ありがたいことに
よくお問合せをいただく。
いつ始まりますか?
と。
今は、
年末にはスタートできる
ように、というのを
目指しています。
ただ、
届くべき人に届かないと
意味がないとも
思っていますので、
もうしばらく
お待ちください。
・・・・・・
壁は、
自分自身の真本音が
自らに
与えているものだ。
真本音は、
決して無茶は
しない。
本当はちゃんと
それを攀じ登り、
次の世界
次のステージへ
入ることは
すべての人に
可能だ。
その事実を
知るだけでよいのだが、
それにはやはり
壁を超えた経験が
必要となる。
他者として、
経験の仕方は
教えることはできるが、
経験そのものは、
本人の意志に
かかっている。
つづく
私はもともと
自然が好きだった。
昔はよく
山の中に入り、
自然と一体化した。
自然の中で
ただ何も考えず
佇んでいると、
自然の息吹きと
自分の息吹きを
感じることができた。
生きている実感
というヤツだが、
正確に言えば、
その佇んでいる瞬間に
それを自覚するというよりも、
後になって振り返ると、
あの時の私は
生きている実感を
得ていたのだな、
とわかる。
概して
人生とはそういう
ものだろう。
その時その瞬間に
すべてがわかることは
稀だ。
・・・・・・
「今の意味」を
すべてわかった上で
物事を進めようとする
傾向の人がいる。
特に前向きな人に
多いのだが、
それはやめた方が
いい。
もちろん、
「今の意味」はわかるに
越したことはないかも
しれないが、
それはわからないように
なっているのだ。
本当はわからないのに
わかったつもりで進む
ことは
到底、オススメできない。
それにより
本当の「今の意味」とは
外れた生き方に
なってしまうからだ。
・・・・・・
例えば、
何か辛いことが
あった時に、
「この辛さには
こんな意味があると
思うんです。
だから、こうやって私は
ここを乗り越えようと
しています」
という人がいる。
この言葉自体は
素晴らしいかも
しれないが、
私はこの言葉を
聴くと、
「そんなことはいいから」
と、
ついつい言ってしまう
ことが多い。
そんなことよりも、
「今の辛さを
しっかり感じ取ろう」
とオススメする。
例えば、
あまりにひどい目に
あって、
怒り心頭に達している人が
いれば、
「とことんまで
怒ろうよ」
とオススメする。
もちろんその怒りを
そのまま相手や
周りにぶつけるわけでは
ない。
それよりも
「怒っている自分」
をあるがままに
自分自身が
感じ取ることが大切だ。
それができて初めて、
本当の「今の意味」を
実践していることに
なるからだ。
「意味」を自覚するのは
後でいい。
それよりも
「今を感じ、今に集中し
今を生きる」
ことだ。
それは
「自分の心を素直に
感じ取る」
ことが出発点となる。
そこに
理屈はいらない。
・・・・・・
逆に言えば、
それができる人は
「今ここの幸せ」
を
素直に感じることも
できるようになる。
人生は
幸せに溢れている。
ほんの些細なこと
かもしれないが、
例えば、
青空を見上げた時、
道端の花を見つけた時、
電車の中で
他の人のちょっとした
素敵な振る舞いを見かけた時、
テレビで
心に沁みる一言を
聴いた時、
人から受けた
ちょっとした気遣い、
あの人の
ふと見せた幸せな表情、
一口食べた
その料理の美味しさ、
お酒の美味さ、
好きな音楽の
一節の爽快さ、
仲間のちょっとした
しょーもないギャグ、
家族の笑顔、
布団に横になった瞬間の
安堵感、
目覚めた瞬間の
光、
・・・
そんなちょっとしたことに
心、というよりも
魂がジーンとなるような
幸せ感を得ることが
できる。
私達は
今を生きているのだから、
素直に
今を生きればいい。
つづく
私はコーチとして、
最低限のサポート
しかしない、
と
決めている。
しかもその
最低限のサポート
とは、
私自身が決める
のではなく、
その人の真本音が
決めることだ。
・・・・・・
その人は、
今、
片膝をついている。
目を瞑り、
両手を合わせ、
祈りの姿勢のまま
動かない。
じっとしたまま
もう
何日も
動かない。
私はその人の
強い意志を
知っている。
人生を
超加速させようと
決意していることも、
その覚悟を
すでに持ち合わせている
ことも
知っている。
だからこそ
私は
慎重にその人に
問うている。
今は
私のサポートが
必要ですか?
と。
その人は
無言のまま、
しかし
とても明瞭な意志を
言葉ではなく
ダイレクトに
伝えてきた。
「何もしないで
ください」
と。
「今は自力で
すべてをやります」
と。
では私は
何もしませんね。
と
その人に告げ、
私はその人から
離れた。
・・・・・・
人生とは
自力で進むものだ。
しかし、
自力で進むために
どうしても
サポートが必要になる
ときがある。
「自力で進む
ためのサポート」
私は
これしかしないと
決めている。
これしかしない
のが、
コーチであると
思っている。
その人との
約束であると
思っている。
つづく
最近の傾向として、
本質的変化、
つまりは
「変質」
をした人が増えている。
単なる変化ではなく、
「変質」
である。
ところが
当の本人がその事実に
気づいていない
ケースも多い。
だから、一度
しっかりと
振り返ってみてほしい。
自分を客観的に
見つめてほしい。
あなたの
「中心」は
どこだろうか?
今の「中心」
だ。
体の中のどこ
だろうか?
それが特定
できたら、
以前のあなた
(例えば、
1ヶ月くらい前のあなた)
の「中心」は
どこだっただろうか?
この二つの問いに
直観的に
答えてみてほしい。
もし
以前の中心と
今の中心が
別の場所にあれば、
あなたは
「変質」
した可能性が高い。
・・・・・・
「変質」とは、
私の好きな言葉で
言い換えると
「変態」
と言ってもいい。
「変態」と言えば、
昆虫が
幼虫からサナギになり、
成虫になる
あの過程も
「変態」と言うらしい。
で、
先日、聴いたのだけど、
あのサナギの内部では、
昆虫は一度、
液体になるらしい。
液体だよ、
液体。
その上で、
成虫になるんだって。
凄いよね。
そこまで
徹底的にやるんだ。
そしてそれを
「変態」
と言うらしいのだけど、
確かにそれは
変態的だ。
・・・・・・
私達人間の体は
さすがに
そこまでの変化は
ないが、
しかし、
心という視点で見れば、
それに匹敵する
変態ぶりは
あるのだ。
これまでの自分を
一度、
徹底的に液化して、
再構築
する。
そういった「変質」
つまりは
「変態」
をした人が
最近はとても多い。
先ほど直観的に
「中心」が変わった
と思えた人は、
まずは
自分が「変態した」という
前提で
自分自身を
見つめてみよう。
・・・・・・
人の意識は
面白いことに、
顕在意識の変化が
最後に来る。
顕在意識が
最も変化しづらい
とも言える。
顕在意識が
変わらないので、
(つまりは、
頭でものを考える
その考え方は変わらないので)
自分は全然
変化していない、
と思い込んでいる人は
多いのだが、
実はそれは
大きな間違いだ。
顕在意識は
全体の意識の中の
わずか1%と
言われている。
残りの99%が
すべて変質(変態)しても
1%が変わらないので
「自分は変わっていない」
と思い込んでしまっている
だけだ。
99%とは言わないが、
自分の心の
かなりの割合が
大きく変わったのであれば、
それはちゃんと
自覚した方がいい。
「変態」の
意味は大きい。
なぜなら、
そこから自らの人生を
「次のステージ」に
進めようとしている
からだ。
次のステージに
見合う自分に
せっかく変化させたのに、
ずっと同じステージに
い続けるというのは、
実に
苦しい選択だ。
・・・・・・
もし
「中心」が変化した
と直観したなら、
まずは、
以前の中心に
意識を向けよう。
そして、
以前の自分は
何のために生きていたか?
という問いを
自分自身に投げてみよう。
そして、以前の中心を
見つめながら、
自然に浮かぶ答えを
認識しよう。
それができたら
今度は、
今の中心を見つめながら
同じように
問いを投げよう。
今の自分、
そしてこれからの自分は
何のために生きて行こうか?
自然に発想される
キーワードを
自覚しよう。
そして、
以前の「何のために」
を
思い切って
手放してしまおう。
その上で、
今の「何のために」
を
大事に大事に
胸に抱こう。
そうして
新たな一日を
過ごしてみよう。
まずは
ここからだね、
変態諸君!
つづく
「真剣」と「全力」は
ちょっと違う。
「全力」とは
文字通り、
その時出せるすべての力を
出し切っている状態だ。
「真剣」とは
自分がどこで全力を
出すか?
を、きちんと見極めて
生きている状態だ。
もう少し言えば、
普段の全力の力を
100とするならば、
いざという時に
1000の力を出せる
自分となれるように
生きている状態。
それが「真剣」。
当たり前だが、
朝から晩まで全力で
いたら、
そうはならない。
どこで自分は
全力になれば良いのか?
そのためには
どこで力を抜き、
どこで自分を整え、
どこで自分を癒し、
どこで自分のエネルギーを
磨くか?
どこで自分の能力を
磨くか?
などに意識を向け、
自然体で生きることが
肝要だ。
そうでなければ
1000の力は出ない。
本来、自分の出すべき
力は出ない。
この生き方をすることで、
自分の人生の目的は
自然に観えてくる。
・・・・・・
「真剣」と「本気」も
ちょっと違う。
「本気」とは
真剣な人が、
ここで全力を出そう
と決めて、
全力を出しきっている状態
だ。
そしてそれが本当に
できる時はただ一つ。
その人の人生の目的
に向かう時だ。
自分の使命を
果たそうとする時だ。
つまり。
真剣な人が
目的を見つけ、
目的のための行動を
全力でとっている状態。
これが
「本気」の状態
だ。
・・・・・・
自分は本気である、
と
思い込んでいる人が
多過ぎる。
あなたの「本気」は
そんなもんじゃ
ないだろう。
真剣に生きる
こともせず、
全力を出すことも
せず、
ただ、
「私は本気です」
とは
言うなかれ。
第一、
本当に本気な人は、
「私は本気です」
なんて言葉は
決して口にはしない。
本当に本気な人は
みんな、
こう言うんだ。
「なんか、
毎日が楽しくて
しょうがないんですよ!」
そう言って、
最高の笑顔で
笑うのさ。
つづく
人は誰しも
心の中に、
深い悲しみを
たくさん抱えている。
そんな身に覚えはない、
という人も
時々いるが、
いやいや
必ず悲しみは、ある。
その悲しみが故に、
自身の真本音の道へ
入れないでいる
人も多い。
だから、
トラウマのように
なっているその悲しみを
あらゆる方法で
取ろうと
努力する人もいる。
そんな
サポートの仕方も
ある。
しかし。
私は思うのだ。
あえて言おう。
その悲しみは
その人にとっての
宝物だ、と。
その悲しみが
あるからこそ、
その人
ではないのか。
その悲しみが
あるからこそ、
その人生
ではないのか。
だから私は、
悲しみを取り除いたり、
トラウマを解消する
ようなサポートは
いっさい
しない。
・・・・・・
当然、
私の中にも
悲しみがある。
それもかなり
深い悲しみだ。
それのおかげで
随分と
人生の回り道を
したように思う。
しかしやはり、
私はどれだけ
自分の真本音度合いが
高まっても、
決して
その悲しみを
取り除こうとは
思わない。
これは一生、
持っていく。
それが私であり、
私の人生だから。
いや。
むしろ、
この悲しみのおかげで
私は
ここまで来れた。
今のこのお仕事を
精一杯させて
いただいているのも、
その悲しみの
おかげ、とも言える。
ある時に、
決めたのだ。
この悲しみと
共に生きていこう、
と。
覚悟を
決めた。
すると途端に、
道が開いた。
そういうことでは
ないのか。
・・・・・・
悲しみとは
反応本音の一つ
であるが、
反応本音とは
本来、
真本音の仲間
だ。
この現実世界において、
より間違いなく
真本音の道を
進めるように。
そんな目的で
本来は、
反応本音は発生する。
人生とは、
真本音と反応本音の
コラボだ。
それが
人生の本質。
しかし人は、
強い反応本音に
苛まれると、
そこに溺れてしまい、
真本音を
諦めてしまう。
もちろん私にも
その時期は
あったが、
しかし大事なのは、
反応本音を
消し去ることではなく、
真本音を
思い出すことだ。
そして
自らの真本音の願いを
抱き続けることだ。
自らが、
誰よりもそれを
大切にし続けることだ。
それにより、
真本音と反応本音の
コラボが始まる。
その瞬間から、
強い反応本音も
「宝物」
となる。
深い悲しみも
人生の宝物と
なる。
「それがあるからこそ」
の人生と
なるんだ。
つづく