2020年 4月 の投稿一覧

身軽になろう

 

その

背負っているものを

いったん

降ろさないか。

 

重いだろう。

 

重過ぎる

だろう。

 

もちろんそれを

背負うあなただからこそ、

 

あなたの価値は

あり、

 

あなたの魅力も

出る。

 

でも、本当は

「背負う」

とは、

 

降ろすことができる

という

選択肢も持った上で

行なうべきことだ。

 

そんな無責任な!

言われるかも

しれない。

 

もちろん

無責任にはなっては

ならない。

 

でも

本当の無責任とは、

 

選択肢が1個しか

なくて、

 

他の選択肢を

自ら創ることをせず、

 

ただひたすらに

その1個に固執する

 

・・・ことなんだよ。

 

かなりひどい言い方に

なってしまうかも

しれないが、

 

あなたのその

責任感は、

単なる執着かも

しれないんだ。

 

本当はそれにより

様々な不調和が

起きているかも

しれないんだ。

 

あなたがそこに

執着していることに

より、

 

他の誰かの成長が

阻まれているかも

しれないんだ。

 

進化が

阻まれているかも

しれないんだよ。

 

だからいったん

降ろしてみよう。

 

できるかどうかは

別として、

 

降ろそう!

真剣になってみよう。

 

案外、

想定外の展開が

あるかもよ。

 

そして

私は、

 

降ろした後の

あなたのことが

 

楽しみで

しょうがないんだ。

 

身軽になった

あなたが、

 

いったいどうなるか。

 

どんな色を出し、

どんな個性に溢れ、

 

何を仕出かすか。笑

 

だって

それこそが

新たな調和や進化を

生み出しそうだ。

 

そんな

予感がするんだよ。

 

つづく

 

答えを知ろう

 

「進む」

ということと、

 

「自由になる」

ということと、

 

「余分なものを手放す」

ということは、

 

イコールなのだろう、

いつも思う。

 

どれだけ進んでも

自由になれている感覚が

なければ、

それは本当には

進んでいないのだし、

 

あらゆるものを

身につけて、

まるで洋服を重ね着

するように

自分を大きくしていくことは

本来の成長ではない。

 

本来の成長とは

服を着飾るのとは真逆で

素っ裸に近づいて

いくことだ。

 

だから手放すものや、

時には、捨てるものは

数多い。

 

手放さなければ

自由にはなれないし、

 

自由になれなければ

進んでいることに

ならない。

 

だがここで、

一つの重要な問いが

浮かんでくる。

 

「私は本当に

進みたいのか?」

 

という

単純な問いだ。

 

この問いを

今こそ自らに

真摯に

投げかける時だろう。

 

この答えを

本当に知ることは

勇気が要ることかも

しれない。

 

しかし今こそ

知るべきだろう。

 

自分の本当の

気持ちを

見つめる時だろう。

 

そして

その答えと

「一つ」になるべき

だろう。

 

それができた時、

私達はようやく、

今始まった新たな時代の

 

未知の領域に

入り込んだこの時代の

 

「現実の一つ」

として

立つことができるのだから。

 

つづく

 

知識を得よう

 

今回は、3つほど

問いを投げよう。

 

問1

あなたは今、

何を探究したい?

 

問2

そのためには

何に関する知識を得たい?

 

今は

どんどん知識を得る

といい。

 

ただし知識とは

単にインプットするだけでは

あまり意味はない。

 

あくまでも

自らの探究のための、

目的を持った

知識であるといい。

 

本をたくさん

読むといい。

 

ただし今は

あまり速読は

オススメしない。

 

ゆっくりと噛み締める

ように

読むといい。

 

そして

読みながら、

知識を取り入れながら、

次の問3を。

 

問3

今、あなたの中には

どのような「?」(疑問文)が

湧いてくる?

 

そして、

その「?」をきっかけと

して、

 

さらに問いを広げたり

深めていこう。

要するに

セルフコーチングだ。

 

知識とは、

セルフコーチングの

ためのきっかけだ。

 

今こそしっかりと

「勉強」するといいね。

 

つづく

 

予測がつかない

 

今のこの状況を機に、

自分自身を

大きく逸脱しよう、

決心している人が

増えている。

 

私のクライアントさん

なんかは

特にその傾向が強く、

 

この4月で

私がびっくりするような

根本的な変化を

すでに遂げている。

 

まるで

これまでの歩みの

すべてが、

今回の逸脱のための

準備運動で

あったかのように。

 

そういった様を

拝見していると、

 

ある意味、

 

私は

人間というものの

言い様のない

まるで、畏れとも言いたく

なるような

 

そんな神秘性を

感じるのだ。

 

・・・・・・

 

人は進化するものだ、

ずっと言い続けてきたが、

 

実は今ほど

それを強く実感する

ことはなかった。

 

そして恐らく

この実感は、

これからが更なる

本番を迎えるような

感覚がある。

 

もちろんそれは

私からすれば

「希望」である。

 

しかも

人の進化は

予測がつかない。

 

いや、本当は

実在のレベルでは

すべてをわかって

いるのだろうが、

 

顕在意識である

私達には

「予測がつかない」

という状態と感覚が

価値のあることなのだろう。

 

私は今、確かに

その「予測のつかなさ」を

楽しんでいる。

 

・・・・・・

 

私は今、

果てしないくらいの

大広間にいる。

 

そこには

果てしないくらいの

大勢の人々が

ひしめき合っている。

 

しかし

私からはその姿は

見えない。

存在のみが

わかる。

 

人々と私は

一人ずつ丁寧に

握手を交わしている。

 

その部屋は

異様なくらいに

明るく、

私の気持ちも晴れ晴れ

している。

 

丁寧に丁寧に

握手を交わしながら、

私は

一人ひとりの想いと

願いを

 

ダイレクトに

ありのままに

 

感じ取っている。

 

にも関わらず、

私は今

ここに一人でいる。

 

その、

実在と現象の間で

 

私は

私自身の「予測のつかなさ」

楽しんでいる。

 

つづく

 

いつ開けようかな

 

私の中心に

卵のようなものが

生まれた。

 

いや、

卵というよりも

惑星のようだ。

 

それはまだ

光を放ってはおらず、

ちょっと暗く

グレーに沈んでいる。

 

とは言え

悪い感覚は皆無で、

 

恐らくその中身は

眩いばかりの

光が満たされているだろうな、

ヒシヒシとわかる。

 

その惑星のような

ものは、

私の「中心」にある。

 

心と魂の中心に

まるで中心核のようにして

ある。

 

ということは

これは今、生まれた

というよりも

最初からここに

あったものかもしれない。

 

その存在に

今、初めて気づいた

のかもしれない。

 

私はその惑星の

ようなものを、

ちょっと離れたところから

眺めている。

 

中身が何かは

わからないが、

でも

何となくはわかる。

 

中には、

とてつもなく多くの人達の

願いとか、声とか

そういったものが

多分、詰まっている。

 

そしてそれは

やはり

とてつもなく眩しい

光を放っている。

 

それらを

解放、開放することは

きっと

やろうと思えば

今、すぐにでもできる。

 

でも私は

そのタイミングを

静かにはかっているようだ。

 

どちらかと言えば、

とても私は

ワクワクしているのだが、

 

その一方では、

これを開けてしまっては

また大変なことに

なりそうだな。

 

私にはきっと

どうしてもやりたいことが

発想されてしまいそうだな、

 

まぁでもそれ自体もまた

ワクワクしながら

思っているのかな。

 

開けるタイミング。

 

いつだろう?

 

もうすぐだな。

 

まぁこのワクワクが

鎮まり、

もう少し冷静になれたら

 

その瞬間に

 

開けるとするか。

 

つづく

 

新たな誕生

 

あなたの中に

新たな自分が

生まれるとしたら、

 

それは

どんな自分

だろうか?

 

どんな自分を

望むだろうか?

 

これまでの自分

にこだわる必要は

ない。

 

これまでの延長線上から

完全に逸脱しても

いい。

 

自由に

なればいい。

 

たとえどのような自分が

生まれたとしても、

 

あなたの中では

それは

共存できる。

 

これまでの自分と

共に生きることは

できるのだ。

 

だから安心して

その「誕生」を

迎えればいい。

 

生まれ出ようと

しているものを

拒まずに、

 

不安がらずに、

 

不審がらずに、

 

ありのままに

見つめ、

 

悦び、

 

抱けばいい。

 

あなたは

新たなあなた自身の

親でもある。

 

あなたという

子供を

迎えよう。

 

あなたはもっと

幸せになっても

いいんだ。

 

つづく

 

経験させよ

 

私達には

「経験」しなければ

ならないことがある。

 

「経験」しなければ

先には進めない。

 

いや、

「先には進まない」

決めているのだ。

 

その「経験」を

させよ。

 

自分自身に

させよ。

 

・・・・・・

 

自分に必要な

「経験」が何か?

真本音で決めていて、

 

しかもその「経験」が

できるように

そのチャンスを自らに

与え、

 

実際に「経験」の

一歩手前まで来て、

 

その時点で、

 

「経験」から

逃げてしまう人が

いる。

 

もちろんそういった

「経験」は

勇気が必要なケースが

ほとんどで、

 

であるが故に

怖気づいてしまうので

あろうが、

 

それは実に

もったいないことだ。

 

そこで勇気の一歩を

踏み出せば、

 

その後、

一気に加速ができ、

道は拓き、

自由度は圧倒的に

増すと言うのに。

 

その一歩が

ないが故に、

もと来た道を随分と

戻らねばならなくなる。

 

それによって

人生の展開が

数年から数十年遅れる

こともある。

 

出会える人とも

出会えなくなる。

 

そんな人が

残念ながら多い。

 

しかも

増えている。

 

今、どうしても私達は

環境や状況のせいに

したくなる。

 

思うように経済活動も

できず、

皆が鬱積している。

 

しかし今だからこそ、

真剣に

考えないか?

 

このチャンスに

自分にどのような「経験」を

与えようか?

 

と。

 

つづく

 

耳を澄まそう

 

心の中が

まるで暗い雨雲で

いっぱいになるように

ストレスやモヤモヤが

集積し、

 

まったく何も

観えなくなってしまった

としても、

 

真本音は

ここにある。

 

現実で

何がどう起きようが、

 

それにどのような

影響を受けようが、

 

真本音は

ここにある。

 

なぜなら、

真本音こそが

自分自身だから。

 

本来の自分

だから。

 

それがなくなる

ということは、

自分という存在が

なくなるのと同じこと。

 

私達は今ここに

存在しているという

事実がある限り、

 

真本音は

ここにある。

 

・・・・・・

 

それを信じることが

真本音度合いを高める

第一歩だ。

 

ここにあるはずの

真本音の意思に

耳を澄まそう。

 

心の状態が悪い

場合は、

 

最初は何も

聴こえないかもしれない。

 

しかしそれでも

耳を澄まそう。

 

自分の真本音に

意識を向けよう。

 

意識を向けようと

し続けよう。

 

これさえ続ければ、

きっと

真本音の声は

聴こえる。

 

微かかもしれないが、

諦めずに

耳を澄まし続ければ

きっと

聴こえる。

 

たとえ声は

聴こえなくても、

 

何となく

の感覚が

浮上するだけかもしれない。

 

それでいい。

 

ほんの僅かでも

真本音の意思を

感じ取ることができれば、

 

それに

素直になってみよう。

 

それだけで

真本音とのつながりは、

 

少しずつ

強くなり、

太くなる。

 

あらゆることが

不可能な状況になっても、

 

それだけは

できるはずだ。

 

・・・・・・

 

私達は

誰もが皆、

 

真本音という大地

に立っている。

 

大地があるから

私達は

ここにいられる。

 

その大地を

感じ取ることだ。

 

大地を

感じ取れば

私達には

大いなる安心感と

ゆとりが生まれる。

 

それが

前に進む勇気と

エネルギーに

つながる。

 

自分のエネルギーを

高められるのは、

自分だ。

 

自分の人生を

進められるのも

自分だ。

 

自分がしっかり

する以外に、

 

一体何が

あると言うのだ。

 

つづく

 

自分を解放できるといいね

 

「無」の中に

入る。

 

しかし入って

わかるのは、

 

本当は

「無」などない、

という事実だ。

 

そこには

「すべて」がある。

 

だから

何も観えない。

 

一見すると

「無」のように

見えるだけ。

 

そしてその

「すべて」の中から

私達は

常に何かを

「選んで」いる。

 

私達が選んだ

その何かによって

「現実」は

創られる。

 

私達は

常にそうやって

「現実」を

生み出し続けている。

 

・・・・・・

 

生み出された「現実」を

目の当たりにすると、

 

それはまるで

「自分」とは別個の

存在のように

見える。

 

それが

自分の望むもので

あるならば、

私達は喜び、

 

辛いものであるならば、

私達は

避けよう、とか

逃げよう、とする。

 

いずれにしても

自分とは別個のものが

自分に対して

降りかかってくる。

 

と、

認識する。

 

だから「自分」は

常に、

被害者になったり

加害者になったり

する。

 

被害者も

加害者も

それはそれは

辛いものだ。

 

その辛さが

人生であると

私達は思い込みながらも、

 

自分とは別個の

存在である「現実」に

振り回されて行く。

 

結果として

「現実」に反応するだけ

反射するだけの

自分となって行く。

 

しかしそれはもう

「自分」ではない。

 

そこに

本来の「自分」は

ない。

 

・・・・・・

 

すべての「現実」とは

自分が生み出している

ものである。

 

ということを

受け入れることは

それ自体が

相当に辛いことだ。

 

到底、

受け入れられること

ではない。

 

「現実」と「自分」を

分離しているからこそ、

私達は何とか

ここに立てている。

 

と、

私達は思う。

 

誰かや何かの

せいにすることで、

自分のバランスを

何とか保っている。

 

しかしそのバランスは

ほんのちょっとの

強い刺激や作用に

よって、

 

すぐに

壊れる。

 

壊される。

 

それをまた

常に恐れながらも

私達は

生きる。

 

しかしそれが

本当に

「生きる」

ということだろうか。

 

・・・・・・

 

すべての「現実」とは

自分が生み出している

ものである。

 

という到底

受け入れがたいことを

 

本当の意味で

 

飲み込むことが

できたとしたら、

 

そこで私達は

初めて

何かから

解放される。

 

言いようのない

「自由」を

手に入れる。

 

「自分」を

手に入れる。

いや、

思い出す。

 

「自分」を思い出して

初めて、

 

私達は

自分の中(内在的世界)に

おける、

 

ある一つの「境界」

 

超えることができる。

 

その「境界」の

向こう側にあるものを

見出すことが

できる。

 

その向こう側に

あるのは

 

発想の宝庫

 

だ。

 

つまり、

私達には

 

「境界」を超えなければ

得られない発想が

あるのだ。

 

その発想を

「直観」

私は呼んでいる。

 

・・・・・・

 

すべての「現実」とは

自分が生み出している

ものである。

 

ということを

理屈で自分に

飲み込ませようとしても

それは土台、

無理なことだ。

 

しかもそれは決して

器の大きな人格者に

なる、

ということではない。

 

それはそういった

こととはまったく

別次元の話だ。

 

なぜならそれは

単に、

「思い出す」ということに

他ならないから。

 

「思い出す」

だけなので、

本当は、「思い出せ」れば、

誰もがそれを

何の抵抗もなく

受け入れられる。

 

というか、

受け入れるも何も

ない。

 

すべてが自分

なのだから。

 

その「思い出す」状態に

なるための

唯一の方法は

 

自らの

真本音度合いを

高めるしかない。

 

これが私の

結論だ。

 

残念ながら

これ以外の方法は

 

ない。

 

だから私は

どのような状況に

なろうとも、

 

昨日も今日も明日も

 

そのためのサポートを

粛々と

やり続けるのだ。

 

つづく

 

今こそさらに自由に

 

もっと自由に。

 

物理的な制約が

ある時ほど、

 

もっともっと

心を自由にすると

いい。

 

現実に縛られると、

私達はついつい

心をも自ら

縛る。

 

そして

自由を失う。

 

私達の住む世界は

外在的世界と

内在的世界の

二つがある。

 

外在的世界、

つまりは現実の世界

における不自由さと、

 

内在的世界、

つまりは心の中の世界

における不自由さを

わざわざ一致させる

必要はない。

 

もちろん、

外在的世界での現実は

大事にすべし。

 

それを拒絶しても

何の意味もない。

 

しかし私達の人生は

内在的世界と

外在的世界の

コラボである。

 

二つの世界を

不自由にしてしまう

のではなく、

 

内在的世界(心の中)は

常に

自由であるとよい。

 

そして

内在的世界の自由と

外在的世界の不自由を

コラボさせることで、

 

最善の一歩

 

を決めて行く。

 

それにより、

外在的世界に

一歩ずつ、一つずつ

道が開かれて行く。

 

・・・・・・

 

しかし、

「自由」という言葉を

使うと、

 

いつも誤解を

与えてしまうのも

確かだ。

 

多くの人が、

「自由」と聞けば、

 

反応本音レベルの自由

を思い描いてしまう。

 

しかし残念ながら

それは真の自由

ではない。

 

それは自由というよりも、

何か一つのその場の

気持ちに

執着しているだけ、

という状態だ。

 

むしろ執着とは

不自由の象徴だ。

 

真の自由とは

人生に対する真摯な

姿勢から

初めて生まれる。

 

真の内在的自由を

得るためには、

人生に対して

真摯であらねばならない。

 

だから今こそ、

人生をしっかりと

考えるといい。

 

これまで充分に

考え尽くしてきた、

と思う人も、

 

いや、

そういう人ほど。

 

もう一度、

ゼロから

自分の人生を

考え直すといい。

 

きっと

これまでにない発想

が生まれ、

さらに心の中、

つまりは内在的世界は

豊かに広がる。

 

それはつまり、

内在的世界の自由度が

増した

ということなんだよ。

 

つづく

 

地球の想いを受け取ろう

 

気がつくと

私は

空に浮かんでいた。

 

どうやら

自由自在に

動けるようだ。

 

しばらく

好きなように空を

飛び回り、

 

ちょっと飽きてくると

上昇を始めた。

 

眼下に見えていた

山や海や都市が

次第に

遠ざかって行く。

 

やがて

大気圏を超え、

地球全体が

見えてきた。

 

だいぶ

離れた。

 

私は宇宙空間にいて、

単なる一つの星

となった地球を

眺めた。

 

青く輝くその光は

美しかった。

 

まるで自分が

住んでいる星では

ないようだった。

 

その状態でようやく

私は

「地球」と

会話ができた。

 

それは

言葉のない会話

だった。

 

言葉にはしたくない

会話だった。

 

ただ私は

「地球」の想いと願いを

一身に受けることが

できた。

 

「場」には

魂が宿る。

 

それは長年

企業サポートの現場で

常に実感し続けていることだ。

 

組織とは

最初は単なる

「人の集まり」に

過ぎない。

 

10人の組織であれば

その10人の集積が

その組織だ。

最初は。

 

ただし、

ある時ある瞬間をもって

その組織そのものに

 

・・・それはあえて

「場」そのものに、

とも言える。・・・

 

魂が宿るのだ。

 

私の言語で表現すれば、

ある時ある瞬間に

 

「組織そのものに、

場そのものに、

真本音が宿る」

 

のだ。

 

それこそが

人の力であり、

場の力だ。

 

当然、

地球も同じだ。

 

地球には地球の

「場」としての真本音が

宿っている。

 

それを私は

感じ取った。

 

言語ではなく、

ただただ「あるがまま」に。

 

皆さんも

やってみるといい。

 

イメージをするだけでも

いい。

 

宇宙に出て

「地球」と

向き合うのだ。

 

そして「地球」の

「場」としての

真本音の想いを

感じ取ってみてほしい。

 

あなたのすべきことが

わかるはずだ。

 

私はいくつか

わかった。

 

だからそれを

することにする。

 

つづく

 

二つの現実の狭間で

 

何もない、

ということは

すべてがある、

というのと

同じことだ。

 

すべてがある、

ということは

何もない、

というのと

同じことだ。

 

すべてがあり、

何もない。

 

何もなく、

すべてがある。

 

・・・このような状態の

ままでいることは

私達が

「今ここ」に存在している

意味と価値を

失くすことだ。

 

私達は

 

「すべて」

 

の中から

 

「一つ」

 

を決める存在だ。

 

これが

私達のやること

だ。

 

一般的な言葉を

使えば、

 

「決断」

 

だ。

 

私達は

決断をする

存在だ。

 

自ら決断をしない、

ということは

その事実をもって

 

自分の人生を

生きていない

 

ということに

なる。

 

自分は今、

本当に

自分の決断を

しているのだろうか?

 

という問いは

人生への真摯さの

基本となる。

 

・・・・・・

 

私達は

 

二つの世界

 

を生きている。

 

一つは

心の外側の世界。

いわゆる

現実の世界。

外在的世界だ。

 

もう一つは

心の内側の世界。

内在的世界だ。

 

この境目にいるのが

我々人間だ。

 

現代社会に生きる

私達は特に、

外在的世界に

目を奪われがちだ。

 

ありとあらゆる情報が

入ってくる。

 

ありとあらゆる現実が

降ってくる。

 

その中で、

その情報達への

単なる反応として

決断をしてしまう。

 

しかしそれは

本来の決断ではない。

 

ただの

反応だ。

 

反射だ。

 

自分の人生を生きる

ことを望みながらも、

ただの

反応・反射のみで

人生の時間を

消費している。

 

本当の決断を

するためには、

 

外在的世界はもちろん

大事だが、

内在的世界にも

しっかりと意識を向ける

必要がある。

 

私達の心の中は

宇宙と同じだ。

 

外在的世界における

宇宙と同等の

宇宙が広がっている。

 

その宇宙では

今、いったい

何が起きているか?

 

これも一つの

現実だ。

 

外在的世界における

現実。

 

そして

内在的世界における

現実。

 

「現実と向き合う」

とは

この二つの現実と

向き合う、ということに

他ならない。

 

そして

二つの現実と

ちゃんと向き合えた

場合にのみ、

 

本当の自分の決断

 

ができるのだ。

 

・・・・・・

 

自分自身の

決断

から逃げてはならない。

 

決断を放棄する

のは

人生を放棄する

のと同じだ。

 

自分の人生だ。

 

特に今こそは、

反応・反射

をしている場合ではない。

 

二つの現実と

ちゃんと向き合い、

今ここで

一つ一つ

自らの決断をしながら

毎日を過ごしてほしい。

 

今のあなたには

あなただからこそ

すべきことが

あるはずだ。

 

つづく

 

すべきことがあるんだ

 

あなたの心の中を

見つめてほしい。

 

可能であれば、

心の隅々まで

見つめてほしい。

 

その中で、

 

霧のかかっている

場所

 

はないだろうか?

 

そこだけ

深いモヤがかかって

いる。

 

妙に気になるが、

しかし中が

まったく見えない。

 

そんな場所だ。

 

もしそれが

見つかったら、

 

思いきって

その中に入って

ほしいのだ。

 

恐らく、

中に入ったとしても

何も観えないだろう。

 

むしろ

不快感や拒絶感を

覚えるかもしれない。

 

しかしそれでも

分け入ってみて

ほしい。

 

そしてその霧の場所の

中心部まで

行ってほしい。

 

その中心に

何があるだろうか?

 

それを

確認してほしいのだ。

 

恐らく、

そこにあるのは

あなたの「願い」だ。

 

しかも

「今ここ」における

願いだ。

 

今の状況だからこそ

私はこれをやろう。

 

・・・と

あなた自身が

決めているものだ。

 

それが確認できたら、

どうか

その願いに素直に

従ってほしい。

 

あなたには

やりたいことが

ある。

 

すべきことが

あるのだ。

今、ここで。

 

つづく

 

未来を感じてみよう

 

川の流れを

少し離れたところから

眺めるように、

 

自分の人生の流れを

少し離れたところから

客観的に

眺めてみよう。

 

過去から今、

そして未来へと

人生は

流れ続けている。

 

もちろん私達は

その流れの渦中に

あるが、

 

一度そこから

抜け出してみるのも

いい。

 

それは

どのような形の

流れだろうか?

 

どのような色や

光だろうか?

 

どのような幅と

深さが

あるだろうか?

 

過去の方は

どう観え、

 

今はどう観え、

 

そして

未来はどのように

観えるだろうか?

 

未来の一番遠い

場所は

どうなっているだろうか?

 

・・・・・・

 

今度は、

その客観性を持ったまま、

人生の流れの中に

浸ってみよう。

 

そして、

一番遠い未来まで

進んでみよう。

 

もちろん

具体的にそこで

何が起きているかは

わからないだろう。

 

でも、

その「未来」における

感覚は、

わかるかもしれない。

 

その「感覚」は

あなたの望んでいる

ものだろうか?

 

その「感覚」に

身を委ねている時、

あなたの心と魂は

鎮まるだろうか?

 

もしそこに

違和感や苦しみや

拒絶感があれば、

 

その理由を

考えてみよう。

 

そして、

そのような未来と

ならないために、

 

今ここで

 

修正すべき

自分の「生き方」

そして「生き様」

を考えてみよう。

 

逆に、

とてもいい未来だな、

と納得できた場合は、

 

なぜそのような未来が

手に入るか?

 

何を大事にし続ける

ことで

そこにたどり着けるのか?

考えてみよう。

 

・・・・・・

 

これからの時代、特に、

 

人生を客観的に

見つめることは

とても大事だ。

 

そして、

自分の未来に

思いを馳せ、

自分の未来を

「感じてみる」ことも

とても大事だ。

 

そしてさらに

大事なのは、

 

「未来と今を結ぶ」

 

こと。

 

望む未来となるために

「今、どうするか?」

決めることだ。

 

今の一つ一つの

生き様と行き方が

未来に

直結する。

 

今を大事にできる人が

未来を

自ら創り出せる。

 

もう、

 

のほほん

と生きている時代は

終わった。

 

時代は

変わったんだ。

 

つづく

 

アイデアを実行に移すな

 

これは良いアイデアだ!

 

というものが

もし浮かんだら、

 

次に私が行なうのは、

それを

捨てることだ。

 

頭の中から、

心の中から、

完全に捨て去る。

 

良いと思った

度合いが高ければ

高いほど、

それをしっかりやる。

 

当然、

良いと思った

度合いが高ければ、

捨て去るのには

時間がかかる。

 

それでも

やる。

 

そのアイデアへの

執着を

なくすためだ。

 

アイデアを

捨て去ることができると、

心の中と頭の中は

空っぽになる。

 

その状態で

待っている。

 

すると、

奥の方から

「直観」が

浮かび上がってくる。

 

それは

「良いアイデアだ!」

というレベルのもの

ではない。

 

まるで

過去を思い出すかの

ように、

「あぁそうだったな。

私はこれをするのだったな」

かなりニュートラルに

そして

当然のように

 

まるでそれが

最初から真理で

あったかのように

 

最初からずっとそこに

存在していたかのような

感覚で

浮かび上がってくる。

 

一言で言えば

「未来を思い出す」

ような感じ。

 

そうなったら

私はそれを実行に

移す。

 

いや、

実行に移そう、

などと考える間もなく、

勝手に体が動いてしまう。

 

面白いことに、

 

この、実行に移した発想は

最初のアイデアと

結果的に全く同じこともある。

 

それはそれでいい。

 

ただ、

最初のただのアイデアレベル

における実行と、

未来を思い出すレベル

における実行では、

 

その「実行」の質が

根本的に違ってくる。

 

その「違い」こそが

重要であり、

 

道が開くかどうかは

すべてここに掛かっている

と、私は思うのだ。

 

これが本来の

「直観」である。

 

いつも言うことだが、

この直観の力は

誰もがもともと持っている。

 

この「直観」に基づいて

動く人がどれだけ増えるか?

 

そういう人を

どれだけ育成し、

どれだけサポートできるか?

 

これによって

ここからの時代の明暗が

決まると

私は思っている。

 

つづく

 

自分を責め続けたなぁ

 

そういえば

昔の私は、

 

いつもいつも

毎日毎日

ほんのわずかでも

材料を見つけては

自分自身を

責め続けていたなぁ。

 

何があっても

全部自分のせい。

 

自分が悪い。

 

自分に原因があり、

自分が直すしかない。

 

だから

今の自分ではダメだ。

ダメだ。

ダメだ。

 

もっと成長せねばダメだ。

ダメだ。

ダメだ。

 

こうあるべきだ。

 

こうすべきだ。

 

・・・と、

いついかなる時も

自分をがんじがらめに

していた。

 

責め続け、

自分を弱らせ、

ふらふらになっている

ことこそが

人生の修行であり、

 

それが人の成長だと

思っていた。

 

辛い人生

だったなぁ。

 

・・・・・・

 

恐らく、

その生き方のせいで

私のエネルギーは

98%くらいは

自分を責めることで

消費されていた。

 

あとのたったの2%で

前に進んでいた。

 

そんなんで

ちゃんと進めるわけが

ない。

 

はっきり言って

自分を責め続ける

というのは

自己満足でしかない。

 

しかし

そんなことはわかっていても

それでもしてしまう。

 

真面目な人ほど

そうかもしれない。

 

自立しよう。

 

自律しよう。

 

そう真面目に思う人ほど

その傾向が出るのかも

しれない。

 

物事を自分事として

捉えること自体は

大事なことだが、

 

それと、

自分を責めること

とは

まったく別のことだ。

 

・・・というのは

理屈ではわかって

いるんだけどね。

 

・・・・・・

 

今、私は

自分を責めるということは

ほとんどなくなった

と思う。

 

いつから

こうなれたのかな?

 

どうして

こうなれたのかな?

 

と考えると、

いろんな理由が

思いつく。

 

が、

本当に「このままじゃいけない」

「自分を責めていてはならない」

と思えたのは、

ある一つの事実を

知ったからかな。

 

何かと言うと、

 

自分を責める人は

知らず知らずのうちに

他人を責めている。

 

・・・という事実だ。

 

自分を傷つける人は

知らず知らずのうちに

他人を傷つけている。

 

・・・という事実だ。

 

これは

明確な事実。

 

自分だけを責めて

他人は責めていない

という人は

きっと一人もいない。

 

自分を責める度合いと

他人を責める度合いは

正比例する。

 

自分自身に

していることが、

そのまま

他人との関わりに

反映される。

 

これが真実だ。

 

だから私は

必死で自分を

愛することにした。

 

自己愛じゃないよ。

 

本当に自分を愛する

とは

どういうことか?

真剣に考えるようになった。

 

その後だな。

 

私が、『真本音』と

出会ったのは。

 

愛を突き詰めると

「真本音で生きる」

ということに

たどり着いた。

 

そして

真本音で生きることで

自分を愛せるように

なった。

 

すると

他人も愛せるように

なった。

 

それまでの自分は

「愛」をまったくもって

わかっていなかったことが

わかった。

 

そしてようやく

自分を責める

その苦しさから

抜け出せるようになった。

 

自分を責める

には

かなりエネルギーが

必要だ。

 

そのエネルギーを

すべて

愛に転換できれば

 

人生は本当に

変わるね。

 

つづく

 

まだだ

 

じっと見ている。

 

様々なものが、

物事が

うごめいている。

 

それぞれが

それぞれなりに

まるで自分の意思の

ように。

 

しかしそれらは

実はすべて

動かされているのだ。

 

そこに本来の

意思はなく、

ただ、周りからの挙動に

委ねているだけ。

 

それらをただ

私は

じっと見つめている。

 

そこに意思は

ないのだから、

 

私はただそれらの

関係性のみに

焦点を当てている。

 

どこに発生する

何に対する反応が

次の反応を

引き起こしているのか。

 

それのみを

注視している。

 

気持ち悪いなぁ、

とは思うが、

 

これもまた

自然な流れなのか、

とも思う。

 

気持ち悪さを

感じると、

その直後に悲しみを

私は抱いてしまうのだが、

 

あえてそこには

行かぬよう、

気をつけている。

 

ただ、

そこにある事実だけを

直視するようにしている。

 

まだ、

意思はない。

 

そこに

意思は発生していない。

 

まだ私は

動けない。

 

いや、

動かない。

 

意思が発生するのを

ただ祈りつつ。

 

すべては

タイミングだ。

 

同じ行動でも、

タイミングがずれれば

すべてが無に帰すだろう。

 

共鳴する意思。

 

たった一つでも

それが起これば、

タイミングはすぐに

来るだろう。

 

それまでは

何も判断せず、

何も評価せず、

 

ただ、

そこにうごめいている

ものたちを

 

祈りつつ

眺め続けるだけだ。

 

つづく

 

その目的でいいの?

 

「目的」は

本当に持たないと

いけないのか?

 

うん。

 

もちろん、

持った方がいいね。

 

目的は何だろうか?

考え続けることも

大事だ。

 

目的と手段を

混合しないことも

大事。

 

ただね。

 

何でもかんでも

目的を持てばいい

というものでも

ない。

 

目的なく

生きることこそが

必要な時も

ある。

 

今のあなたは

どっちだ?

 

私がこれまで

かなり多くみてきた

のは、

 

浅薄な目的を

設定してしまうことで、

その人が

本来の目的から

遠のいてしまうという

現実だ。

 

その場合、

目的を持ったことで

その人は

迷走を続けた。

 

そりゃそうだ。

 

本来ではない目的を

持てば、

誰もが迷走する。

どんどんと

「わけがわからなく」

なる。

 

目的を考え続けることは

大事だが、

無理で浅薄な目的を

設定するくらいなら、

あえて

「わけがわからない」

状態を楽しんだ方がいい。

 

今の私は

わけがわからないままに

進むぞ!

 

と、

決めるのだ。

 

自分の意思として

しっかりそれを決めて

本当に

「わけがわからない」状態を

徹底的に続ければ、

 

その向こうに、

突然、視界が開ける

可能性も出てくる。

 

まるで突然

霧が晴れたかのように

「すべてがわかる」

状態となる。

 

「すべてがわかる」

と言っても

頭でわかるわけでは

ない。

 

それは

感覚だ。

 

よくわからないけど

自分は

「すべてをわかっている」

ということは

わかるなぁ、

という感覚だ。

 

これを得られた時に

こそ、

目的を設定できるのが

理想かな。

 

まずは。

 

「今日一日の目的」

 

を設定すると

いい。

 

私は毎日これを

やっている。

 

どうしても

今日の目的がわからず

「今日はどうすればいいのか、

わけがわからん」

と思えば、

その「わけがわからない」ままで

一日を過ごす。

 

すると、

一日のどこかで、

もしくは

一日の終わりに、

 

「あぁそうか、今日は

こんな一日だったか」

「すべてがわかる」

感覚を

得られるかもしれない。

 

一日一日を

そのように過ごすことが

人生全体の目的設定の

大事な練習にも

なるんだよ。

 

つづく

 

静かに問うてみよう

 

今回も一つ、

問いを投げようかな。

 

これもとても

重要な問いだ。

 

思いつく答えを

たくさん

紙に書いてみて、

 

出し切った後で、

書かれたものの中から

最も、ピンとくる

答えを選び出してみよう。

 

 

『あなたがこの1ヶ月で、

徹底的に考え続けたい

ことは何?』

 

 

どちらかと言えば、

探究する

という方向の答えが出ると

より良いかな。

 

今は

何かを探究するには

とてもよい「流れ」が

来ている気がする。

 

なかなか外出も

ままならない今

だからこそ、

 

何かを徹底的に

考え続けるのも

よいのでは?

 

つづく

 

問い、と共に生きる

 

問いを持つこと。

 

「今の自分」

にとっての

最良の問いを

持つこと。

 

そしてその問いと

毎日、毎時間、毎分、毎秒、

真摯に向き合い続けること。

 

これにより、

人生は劇的に

変わる。

 

臆病で臆病で、

あらゆる自分の

判断と行動が

自分自身の臆病さを

打ち消すためだけに

あったのが、

かつての私だった。

 

その私が

そんな人生から抜け出せたのは

今から思えば、

ひとえに

そこに理由がある気がする。

 

私は常に

「問い」と

向き合い続けた。

 

今も

ずっとそうしている。

 

それだけは

この17〜8年間は

止めたことがない。

 

とは言え、

それは私だけのことでは

ないはずだ。

 

すべての人は

いついかなる時も

その胸の中に

「問い」を

抱き続けている。

 

それをしっかりと

自覚するかどうか。

 

それだけの違い

ではないか。

 

自分がすでに

抱き続けている問いを

掘り起こし、

自覚し、

向き合い続ける。

 

たとえ答えが

わからなくとも、

とにかく

大事に大事に

向き合い続ける。

 

答えがわからない

というのは

気持ちが悪いし、

それだけでストレスに

なるかもしれないが、

 

それでも

向き合い続ける。

 

「問い」と向き合い

続けることこそが、

「人生」と向き合い

続けることでは

ないか。

 

今のように、

現実的に

様々な不安要素、

不安定要素が

次々に発生する社会で

あればあるほど、

 

これが本当に

必要なのでは

あるまいか。

 

どのような現実でも

ちゃんと

本来の自分を失わず、

 

ちゃんと

自分の意志・意思として

道を創っていく。

 

それができるのは

「問い」と

向き合い続ける人

のみではないか。

 

ここ数日で

改めて

強く思うことだ。

 

つづく

 

大事な問いだ

 

問いを

投げよう。

 

いくつもの答えを

出してほしい。

 

そしてその中で

最も自身の心と

魂に響く答えを

 

一つ、

決めてほしい。

 

『あなたが

あなたの真の

人生の目的を知る

ために、

一つ、

捨てるべきこだわりは

何か?』

 

必ず答えを出して、

実行に移すといい。

 

つづく

 

無茶しろよ

 

勢いのある人は

凄いなぁ、とは

思うけど、

 

勢いだけで

進んでいる人は

弱っちいなぁ、と

思う。

 

勢いに任せて

進むというのは

弱さの現れだと

私は思っている。

 

勢いがなきゃ

進めないという

ことだもんね。

 

今の自分に

勢いがあろうと

なかろうと、

 

そんなことは

お構いなしで、

 

一つ一つ

淡々と

やるべきことを

やっていく。

 

そういう人ほど

実はちゃんと

道を創っていく。

 

自分をコントロール

できるから。

 

一つ一つに

自分がどれだけの

エネルギーを注げば

良いのかを

見極めながら、

 

エネルギーの強弱を

絶妙につけながら、

最善の一歩を

進み続ける。

 

そんな人ほど、

表面は

淡々としていても

その内側に秘めた

パワーは圧縮され、

 

いざという時には

無尽蔵とも言える

エネルギーを

一点に集中して

注ぎ出すことが

できる。

 

そんな風に

なれるといいなと

私は思うね。

 

勢いとは

勢い以上のものには

なれない。

 

私達が目指すべきは、

勢いを闇雲につける

ことではなく、

 

勢いをコントロールする

(マネジメントする)

力をつけること

ではないかな。

 

ただし。

 

以上をしっかり

わかった上で、

 

その上で、

 

あえて勢いに

身を任せる

 

というのは、

逆に

あり、だと思うよ。

 

そんな経験が

あるからこそ、

コントロールの力も

養えるんだ。

 

制御不能。

 

限界を超える。

 

という経験をしてこそ、

私達はちゃんと

進めるようになるんじゃ

ないかな。

 

だから

たまにゃあ、

無茶しろよ。

 

つづく

 

もっと大きな目で

 

人はどうしたって、

暗い雨雲が立ち込めて来たら、

この後、どんな大雨が

降るだろう?

不安になるだろう。

 

雨だけじゃなく

雷も来そうだ、と。

 

そして

一刻も早く逃げねば、

不安に駆られて

自分の行動のすべてを

決めてしまうだろう。

 

それはある意味、

人としての非常に

健康な

心の動きだ。

 

しかし、

雨雲ばかりに目を

奪われていたら、

知らぬ間に大事な何かを

失ってしまうのも

また私達だ。

 

後になって冷静に考えれば、

どうしてあの時

あんな判断を

自分はしてしまったのだろう、

後悔することも多い。

 

そうならずに、

やはり

「最善の道」を

一つ一つ丁寧に見極めることが

大切であると

私は思う。

 

現実と向き合う、

とは

目の前にある現実だけを

見つめることではない。

 

もちろんそれは

最低限必要なことだが、

それは現実の一部

でしかない。

 

雨雲の上には

間違いなく

果てしなく続く青空がある。

 

今、目の前には雨雲しか

見えなくとも、

その向こうに青空がある

という事実もまた

現実である。

 

しかも、現実とは

心の外側だけにあるもの

ではない。

 

心の内側にも

現実がある。

 

私達は

「内と外」

二つの現実の狭間で

生きている。

 

二つの現実の

近くと

遠くを

それぞれちゃんと

見渡すこと。

 

それができて初めて、

「次の一歩」

が直観できる。

 

その直観とは、

一切の迷いがない。

 

透き通った

自分の「答え」だ。

 

透き通った

風が吹く「答え」だ。

 

その「答え」にこそ

私達は素直に

従うべきだろう。

 

すべての現実を

毅然と

見渡す生き方と

在り方。

 

今こそ、それを

身につけるチャンスだ。

 

つづく

 

揺るがぬ願いがある

 

人には皆、

揺るがぬ願い

がある。

 

それは

いかなる人生に

なろうとも、

 

いかなる現実が

来ようとも、

 

自分がいかなる状態に

なろうとも、

 

決して

変わることはない。

 

その願いに

意識を向けるだけで、

私達は

言いようのない

精神の安定を得る。

 

願いとは

叶えるものだが、

それは

叶えるとか、叶えないとか、

そういったものさえ

超越している。

 

その願いを持つこと

そのものが

その人の存在の意義

と意味

とさえ言える。

 

そういったものを

私達は心の中心に

持っている。

 

人にとっての幸せは

千差万別だ。

 

その人には

その人なりの幸せが

あるだろう。

 

ただ、一つ言えるのは、

 

自分自身のその

揺るがぬ願いに

一歩ずつでも向かう

毎日なのかどうか?

 

・・・によって

その人が感じる日々の

幸せの深さが

まったく違ってくる。

 

どれだけ

欲しいものを得たとしても、

自分が自分の願いに

向かっていなければ、

その人は

内側から常に

濃いストレスが発生し続ける。

 

何を得ても

真の満足を得られることは

ない。

 

極端な言い回しかも

しれないが、

しかしここは

断言できるところだ。

 

様々なことが起こる

今の社会において、

今の地球において、

唯一、

自分の指針となり

自分の原点となり

自分の帰る場所となるのは

 

その

揺るがぬ願い

ではないか。

 

つづく

 

早く捨てないと

 

やめてもいい、

やめた方がいい、

思うことは、

 

どんどん

やめてしまおう。

 

シンプルに

なるんだ。

 

身軽に

なるんだ。

 

手放せない、

とか

捨てられない、

というのは、

 

この3次元の世界を

生きていく上では

最大の阻害要因に

なる。

 

自分も他人も

すべてを含めて、

誰のプラスにも

ならない。

 

・・・と認識しよう。

 

「私、捨てられないから」

などと

のん気に言っている

場合ではない。

 

そんなこと言っている間に、

人生の最大の展開を

逃してしまっているケースは

とても多い。

 

この人は

真剣だな、

 

と私が思えるのは、

手放せる人

だ。

 

良い意味で

捨てる人

だ。

 

これのできない人は

覚悟がない。

 

自分の人生を

全うする覚悟が

ない。

 

そう断言することが

今はとても

大事だと思っている。

 

何をするか?

 

よりも

 

何をやめるか?

 

が、

今は大事。

 

それをしなければ、

次の「発想」すら

生まれないように

私達はできているんだよ。

 

つづく

 

波長の視点から

 

よく私は

「空気感」

という言葉を使うが、

 

これを別表現すると、

 

「波長」

 

とも言える。

 

私達人間だけでなく、

この世のあらゆるものは

独特の「波長」を

持っている。

 

すべてはエネルギー体

であり、

それぞれがそれぞれなりの

振動を続けている。

 

その中でも特に

人間は、

その「波長」をよく

変える。

 

それを私は

「空気感が変わる」

と表現している。

 

しかしとは言え、

変わらない波長も

ある。

 

私達人間には

変わらない波長と

変わる波長が

ある。

 

正確に言えば、

本当はすべてが

変わっていくのであるが、

変わりづらい波長

と言えばよいのかな。

そういうものがある。

 

私は人と向き合う時、

その両方の波長を

あるがままに

感じ取る。

 

そしてほぼほぼ

その「波長」によって

私自身の対応を

決めている。

 

こうやって書くと

なんか動物みたいだが、

人間も動物であり、

そういった感性は

本当は誰もが持っている。

 

私はおかげさまで

本当に多くの人達と

向き合い続けてきたので、

いつしかそういうことが

できるようになった。

 

はっきり言うと、

見た目よりも

波長を捉えた方が

本質を千倍も捉えることが

できるのだ。

 

そして

次のようなことも

実感できる。

 

「波長と波長の共振」

だ。

 

つまりは、

同じような波長を持つ

人同士は

やはり近づいていく。

 

そして時には

それが共鳴、共振し、

相乗効果を発揮しながら、

まったく新たな波長を

生み出すことさえ

ある。

 

それが人間関係の

面白さであり、

組織の面白さ

とも言える。

 

私はその、

相乗効果を発揮する

人同士のペアを

探し当てるのが

得意だ。

 

人生においても

仕事においても。

 

お互いが無理に

波長を合わせながらも

頑張る人達がいるが、

 

その場合は、

変わらない波長と

変わる波長の

両方を感知しながら、

 

その人達が協力をし合う

タイミングは

今が本当に良いのだろうか?

「直観」する。

 

そしてタイミングが

今ではないと感じた時は、

あえて

距離を離すことを

ご提案する。

 

人と人の

距離感は

とてつもなく大事だ。

 

近ければいい、

というものではない。

 

今はどの距離感で

どう関わるか?

今後のあらゆる物事の

進展度合いを大きく

左右する。

 

こういったところこそが

本当にサポートの必要な

部分ではないかと

いつも思っている。

 

波長や空気感の話を

し出すと、

止めどがなくなるくらいに

無限に話が広がっていく。

 

しかしそれは

「直観」というテーマに関しては

とても重要な要素となるので、

 

そんな視点からも

ポツポツと

ここで書いていこうかと

思っている。

 

つづく

 

やっぱり美しい

 

一つ一つの振る舞いの

美しい人は

 

一貫性が取れている。

 

ここで言う

「美しい」

とは、

いわゆる表面的なもの

ではない。

 

好き・嫌い

とか

好み

とかを超えたものだ。

 

そういった意味では

本来は、

すべての人に

その人ならではの美しさ

必ずある。

 

それは

本当にその人にしか

ないもの。

 

オンリーワン

である。

 

その美しさを

醸し出すことこそが

「その人らしさ」

の本質だ。

 

だから例えば、

一見するとあまりにも

乱暴な感じが

表面的にはしたとしても、

 

よ〜く観ると、

それこそがその人の

その人にしかない

美しさだったりする。

 

それが見事に

醸し出されている時、

その人は

周りの人達を自然に

惹き込む。

 

影響力を

発揮する。

 

私の仕事の醍醐味は

その

人それぞれの美しさの

発掘である、

 

と言ってもいい。

 

それはまるで

原石が宝石の輝きを

発する瞬間であり、

 

その瞬間に居合せる

のは、

私にとっては

人生の最大の悦びの

一つとも言える。

 

今日、実は

ある人のコーチングで

そんな瞬間を

迎えることができた。

 

嬉しかった。

 

・・・・・・

 

「一貫性」とは、

 

その人の

「願い」

「役割」

「能力」

「行動」

完全一致することで

高まるもの。

 

もちろんその要素の

一つ一つが

真本音に基づくもの

でなければ、

完全一致は

不可能だ。

 

一貫性の高まった

人は、

その人ならではの美しさを

高め、

それが他者に

影響を与え、

 

他者の一貫性までをも

高めていく。

 

他者の美しさまでをも

高めていく。

 

一貫性のある人達が

増えることで、

その組織も一貫性を

高めていく。

 

そしてその組織は

美しくなる。

 

美しい経営を

するようになる。

 

そんな人や組織が

増えることが

社会を美しくしていくと

私は考えている。

 

それは

遠い道のりか?

 

遠い道のりかも

しれない。

 

でもそれは

それでも

最短の道のりではないか、

私は思うのだ。

 

つづく

 

本当の自分の答えを

 

テレビもパソコンも

すべてを切って、

 

椅子に座って

目をつぶろう。

 

ゆったりと

リラックスして。

 

とは言え、

リラックスできない

場合は、

 

リラックスできない

自分の心を

見つめよう。

 

騒がしい心を

一つ一つ

丁寧に見つめよう。

 

見つめているうちに

それらはだんだんと

自分から分離していく。

 

無理にそれを

するのではなく、

自然にそうなるまで

見つめよう。

 

あぁだんだんと

落ち着いてきたな、

と思えたら、

 

改めて

深呼吸をしよう。

 

そして

こんなイメージを

してみよう。

 

自分の身体と

自分の心を

「一致」させるイメージだ。

 

身体の形そのものに

心の形を合わせるのだ。

 

それができたら

次は、

 

自分の魂も同じように

一致させよう。

 

つまり、

魂と心と身体が

身体の形として

完全に「一致」する。

 

という状態だ。

 

しばらくその一致感

を得ていると、

かなり「自分」が戻ってくる

はずだ。

 

もし可能であれば、

その「一致した自分」に

宇宙までもを

一致させてみよう。

 

宇宙のすべてを

自分の身体の形に

一致させる。

 

無理にやらなくても

いい。

できるようならね。

 

この状態で

ゆっくりと自然に

呼吸を続けながら、

 

「我に返れたな」

 

と思えたら、

しばらくはその自分を

楽しみ、

 

楽しんだら、

自分に問うてみよう。

 

「私は本当の私として

今、生きているだろうか?」

 

「私が本当の私として

一日一日を生きるために

修正すべきことは

何だろう?」

 

「私が本当の私として

一日一日を生きるために

もっと大事にすべきは

何だろう?」

 

もちろん、

その他の問いを

投げてもいい。

 

ゆっくりと

本当の自分の答えを

確認してほしいな。

 

つづく

 

きっと荒治療だよ

 

とても変な表現で

申し訳ないが、

あえて観たままに

書かせてもらうと、

 

本当に成長意欲、

進化意欲のある人と

向き合っていると、

 

時々であるが、

 

その人が

その人の本質では

(実在では)

まるでコマのように

凄まじい回転をし続けている

ことがある。

 

そんなに回転して

どうすんの?

思わず訊きたくなるのだが、

 

当然のことながら、

本人にその自覚は

ない。

 

ただ、

そのように高速回転している

その間は、

本人は何も見えなく

なっている。

 

「何も見えなくなっている」

のその意味は、

 

「これまでの自分の見方

ができなくなっている」

 

ということだ。

 

つまりは、

物事の捉え方、

解釈の仕方、

判断の仕方が

 

その人がずっと

培ったそれら諸々が

 

まったく機能しなく

なっている

ということだ。

 

それは必然的に

その人自身に

原因のわからない

不安定感を

もたらす。

 

そして、

いつもならば

自分で決められることが、

なぜだか

迷い続けてしまったり、

 

明晰な考えが

出なかったり、

 

ある時は、ボーッと

してしまったり、

 

そんな自分に

苛立ったり、

 

・・・というような「症状」

理由のわからない

ものとして

本人に自覚される。

 

で、

「最近、なんか調子が

悪いんですよね」

という話になる。

 

しかしその

本質的な原因は、

その人の本質(実在)の

高速回転

である。

 

なぜそんなことを?

とよく思うのだが、

しかしそれはやはり

わざとやっている。

 

本人の意志で

やっている。

もっとも

無意識にだが。

 

結局、

そこまでのことをしなければ、

我々は

過去の自分や

これまでの経験や

これまでに培ったあらゆるものを

手放すことが

できないのだ。

 

そこから自由になる

ことができないのだ。

 

だから恐らくそれは

荒治療だ。

 

自分を次の次元に

一気に高めるための。

 

次のステージに

一気に突入するための。

 

だから。

 

原因のわからない

不安定感に

悩まされる人は

逆に

あまり深刻にならない

方がいい。

 

それよりも

今自分は、

とてつもない荒治療を

しながら、

自分を進化させようと

しているのだと

 

そんな視点で

自分を見つめてみると

いい。

 

つづく

 

もっとしっかり感じ取ろう

 

自分の心の揺れ

と、

 

世の中の揺れ

を、

 

それぞれ別個に

あるがままに

感じ取ってみよう。

 

その二つは、

どのような関係に

あるだろうか?

 

私達は、

 

内側の揺れ

外側の揺れ

二つの揺れの狭間で

生きている。

 

二つの揺れに

常に迫られながら、

次の自分の一歩

決めている。

 

人生を生きる

というのは

そういうことなのだが、

 

内側の揺れ

外側の揺れ

混在しながらも

区別がつかなくなる

ところから

 

私達は

「わけがわからなく」

なる。

 

わけがわからなく

なった状態で

次の一歩を決めるよりも、

当然、

わけがわかった状態で

決めた方がいい。

 

そのためには

まずは

「観察」だ。

 

両方の揺れを

観察することだ。

 

人生の始まりは

「観察」

だ。

 

・・・・・・

 

内側も外側も

両方すべてを

観察しようとする時、

 

つまりは、

あるがままに

捉えようとする時、

 

その

捉えている自分が

両方の揺れから

「分離」する。

 

そこまで

観察できると

いい。

 

逆に言えば、

そこまで観察できない

からこそ、

私達は混乱してしまう

のだ。

 

徹底的な

観察だ。

 

徹底的に

あるがままを

見つめるのだ。

 

「あるがまま」

とは、

評価も判断も解釈も

何もしない

ということだ。

 

見えるものを

ただそのままに

見る。

 

聴こえるものを

ただそのままに

聴く。

 

感じるものを

ただそのままに

感じる。

 

慣れないうちは

かなり難しいだろう。

 

でもぜひ

やり続けてほしい。

 

「分離」が

できるまで。

 

・・・・・・

 

とは言え、

無理な分離は

してはならない。

 

自然な分離で

あることが大事だ。

 

自然な分離に

なるためには、

 

徹底的に、

見て、聴いて、

感じる

しかない。

 

辛いものも

徹底的に

その辛さを

感じるのだ。

 

それは当然

とてつもなく辛い

かもしれないが、

 

でも

逃げずに、

徹底的に。

 

そして

自然な「分離」が

訪れる時、

 

初めて

本当に観える

ものがある。

 

本当にわかる

ことがある。

 

その時に

実感できるのだ。

 

なんだ、

そうか。

私は最初からすべてを

わかっていたじゃないか。

 

・・・とね。

 

つづく