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- 2021年 5月
水平線から
日が昇る。
一日が
始まろうと
している。
今日と言う
一日は、
昨日とは
違う。
これまでに
一度もなかった
一日だ。
今日しかない
今日だ。
それと同様に、
今日の自分は
昨日までの
自分とは違う。
今日にしか
いない
今日の私だ。
この世界は
あらゆるものが
分離し
断絶している。
つながっているように
見えているが、
すべてが
断絶している。
だから
昨日の私と
今日の私は
本当は別人だ。
人の成長は
徐々に進む
というものでは
ない。
一気に
変わる。
もちろんそれまでの
伏線はある。
しかし
本当は
伏線そのものが
必要ないのかも
しれない。
私達は
一気に変化し
成長する。
垂直の壁を
攀じ登るように。
垂直に空を
駆け上がるように。
大気圏を
一瞬で
抜けてしまうように。
本当は皆、
そんなことが
できるのだが、
それが
人間なのだが、
躊躇して
それをしない人が
多い。
成長は
徐々にでしょ。
特に自分は
そういう人間だし。
・・・と
思い込んでいる。
そんな思い込みは
もう要らない
のではないか。
成長したければ
一気に行け。
変わりたければ
一気に変われ。
本当はそれ、
できるんだ。
我々は。
人間であるから
こそ。
つづく
私は
私のままで
いられるだろうか?
という
極度の不安に
襲われたことは
あるだろうか?
願いが
強ければ強いほど、
その願いに
向かおうという
意志が強まるほど、
その不安は
強大化する。
それはもう
致し方ないことだな
と
私は思う。
人間の宿命の
一つかな、と。
自分のその
願いに
本当に向かうのか
向かわないのか
その選択権は
自分自身にある。
その事実を
わかればわかるほど、
悲しくなることが
ある。
こんなことなら
いっそのこと、
誰か私のために
私の代わりに
決めてくれよ、
と。
主体性なんか
要らない。
私はもう
その人の言う通りに
生きていくから。
何も考えず、
指示通りに
生きていくから。
・・・と
誰かに何かを
すがるような
気持ちになる。
私はこれまでの
人生で
そういうのが
何度もあった。
が、
その度に
やっぱり
その「誰か」なんてのは
いないのだな、
やっぱり
自分の人生は
自分で背負い、
自分で決めなければ
ならないのだな、
と
結局はそこに
帰結した。
そしてただ
ただ、
その不安と
そのまま
向き合い続け、
不安を
抱き続けた。
今だって
そういうのはもちろん
あるのだが、
でも
今になって思うのは、
その不安や
悲しみがなかったら
ヤバかったな、
ということ。
これがなければ
私の場合、
きっとどこかで
間違っていただろう。
傲慢への道に
入り込んで
いただろう。
だからまぁ
しゃーないか、と
思う。
何がどうあっても
目の前に
道はあってね。
その道は
まっすぐに前に
続いていてね。
こんなにも
大きな不安なのに、
そこには
まったく何の障害も
本当は
一つもないのだと、
どっかで
わかっている。
やることは
たった一つ。
今やることを、
今やる。
たったそれだけの
こと。
それを続ける
だけ。
そういうのすべて
ちゃんとわかっていて
それでも
不安になる。
これがまぁ、
やっぱ人間なのかな、
いや、
私という人間なのかな、
と
思うね。
つづく
どこに
こだわるか?
というのは
本当に大事だな、
と思う。
私なんかは
職人気質なので、
これはとても
気をつけている。
・・・つもり。
こだわり
には
二つある。
真本音のこだわり
と
反応本音のこだわり
だ。
単純に言えば、
前者は
進化を生み出し、
後者は
皆が迷惑する。
物事には
変えてはならない
という
中心核がある。
それだけは
何があっても
不変のままで
行く。
しかし、それ以外は
ズブズブに (笑)
流されればいい。
周りの意見や
最近の動向や
流行や、
諸々のことを
取り入れればいい。
・・・というのが
真本音のこだわり
なので、
そのレベルのこだわり
を持っている人は
一見すると、
何のこだわりもない人
のように見られる場合
すらある。
時々私も
誤解を招いてしまう
のだが、
「真本音なんて言葉、
どうでもいいんですよ」
などと
平気で言ってしまう。
みんなが結果的に
真本音度合いが
高まっていけば良いので、
そこだけは本当に
大事にしたいので、
そのためにもし
「真本音」という言葉
そのものが
その足を引っ張るようなら、
私はその言葉は
使わない。
だから意外だと
思われるかもしれないが、
普段「真本音」という
言葉をまったく使わずに
サポートさせていただいている
クライアントさんは、
実は
半数近くいる。
そして
サポート内容は、
100社あれば
100通りのご要望と
やり方があると
思っている。
これは一見
柔軟に見えるかも
しれないが、
しかしやはり
私なりの強烈なこだわりが
あり、
それだけは
外さないようにしている。
なんか話が
私のことになって
しまったが、
言いたいのは、
自己満足のこだわりは
やめようね、
ということ。
「ここだけは曲げられない」
というのが、
ただの反応本音レベルの
こだわりに
なっていないかい?
という視点を
持つことは、
とても大事だ。
一緒に働いている
人達や、
お客様など、
周りの人達の
自分への対し方に
ちゃんと注意を
払おう。
意見を
言いにくそうに
していないかい?
腫れ物に触るように
コミュニケーションを
とってこないかい?
いつも遠慮するような
雰囲気を
感じないかい?
もしそうであれば、
誰も喜ばないこだわりに
執着
しているかもよ。
つづく
氷がゆっくり
溶けていくように、
自分自身を
ゆっくり
溶かしていく。
一滴一滴
余分なものが
落ちていく。
だんだんと
塊が
なくなっていく。
あのたった
一滴に
いったいどれだけ
こだわったことか。
あの
落ちていく一滴を
いったいどれだけ
これこそが私である
と
思い込んだことか。
でもあれは
私ではなかった。
むしろ
私にとっては
不必要な
一つのクセでしか
なかった。
人は、
自分自身の
思考と行動のクセ
を見て、
それを「自分である」
と
決めつける。
ただの
クセなのに。
それがなくなることは
自分がなくなることだ
と
思い込み、
その喪失を極度に
恐れる。
ただの
クセなのに。
クセを直し
まっすぐな自分に
なることこそ
本当の自分に
戻る
ということ
なのにね。
実を言うと、
この氷塊のような
ものは
一気にすべて
壊したいものだ。
でもそれは
さすがに
人間として耐えられる
恐怖の度を
超えすぎる。
人の心というのは
耐えられる限界が
ある。
だから
耐えられる限界
スレスレの
最大スピードで
少しずつ
自分を
溶かしていく。
本来の自分に
戻るために。
本来の生き方に
戻るために。
氷塊がすべて
溶けてしまう
ということは、
自分が
無になる
ということではない。
そこからが
本当に
生の誕生なんだ。
つづく
わからない
ことを
「わからない」
と言える
すがすがしさ。
本当に
わからんわぁ、
と
全身の力が抜けて
本当に心から
あきらめる
すがすがしさ。
・・・こういった
体験はあるかな?
「わからない」
には
2種類ある。
一つは、
まだまだ
しっかり考えていない
ことによる
「わからない」。
もう一つは、
あらゆる手段を
尽くして
答えを探究
し尽くして、
やれること
すべてやって
それでも
どうしても答えの出ない
「わからない」。
もちろん
すがすがしいのは
後者だ。
そしてその
すがすがしさは
こんなにまで
探究し続けても
わからないという、
こんなにも
奥深いテーマと
出会えたなんて、
なんと幸せだろう
という
すがすがしさでもある。
と同時に、
答えのわからない
問い
はない。
もちろんその
答えとは、
その人にとっての答え
ということだが。
その人に浮かぶ
問いには
その人なりの答えが
必ずある。
その答えが
見つかることで
その人は次のステージに
一気に進む。
答えがわからない
ということは、
それだけそのステージに
入ることの
難易度が高いということ。
そして難易度が高いほど、
それを越えた時の
開放感も
その後のまだ見ぬ世界の
広さも大きさも
凄いということになる。
そういった
本能的感覚的な
期待感も含めて
すがすがしい
と思えるのだ。
探究が
まだまだ足りないうちに
「わからない」
とあきらめるのは
実にもったいない。
そして、
本当の納得の答えに
たどり着く前に
中途半端な答えを
出しておしまいにする
のも、
実にもったいない。
うー、わからない!
と
笑いながら言える
くらいに
とことん
探究しようでは
ないか。
つづく
あまりに
ゆっくりな流れ
だが、
この川は
確かに流れ
続けている。
じれったくも
なるのだが、
しかし紛れもなく
ここに
流れはある。
この川に
身を委ねると
決めた以上は
この流れに
乗り続ける。
景色は
ほとんど
変わらないが、
でも確かに
進んでいる。
たまには
こうして
ゆっくり進むのも
いい。
ゆっくり進む
からこそ
見つかる景色も
ある。
風を切る
爽快さもあれば、
風を感じない
この静けさもある。
でもやはり
確かに
進んではいるのだ。
まるで
停滞しているかの
ごとく
進むべき時。
そんな時は
自ら水をかき分け
泳ぎたくも
なるのだが、
こんな時に
「待てる」自分に
なれるといい。
流れ方は
一定ではない。
急流と
緩流と。
それぞれの
「今」を
今にしかない
「今」を
楽しむことが
人生の醍醐味だ。
つづく
自分の中の
閉じていた目が
ふと
開く感覚。
・・・わかるだろうか?
これまで
まったく観えなかった
ものが、
突然
観えるようになる。
わかるように
なる。
見通せるように
なる。
これまで
悩んでいたのが
いったい何だったのか?
と
思えるくらいに
簡単に
答えがわかる。
まるで最初から
そこに答えが
あったかのように。
いや、
本当は
そうなのだけど。
答えは
あるのだけど。
でもずっと
それを観るための
目が
閉ざされていただけ。
目が開かれれば
それは
わかる。
それだけ。
ではどうすれば
目は
開かれるのだろうか?
これにはきっと
いろんな答えが
あるのだろう。
でも今の私は
たった一つ、
こう答えよう。
「人生」
だ。
「人生」について
とことん考える。
良い問いが
ある。
『私の人生、
本当にこのままで
良いのか?』
・・・これだ。
この問いと、
本当に真摯に真剣に
向き合い続ける
ことだ。
徹底的に。
これをする人は
いつか必ず、
目が
開かれる。
未来を
見通せる。
自分が何を
すれば良いか?
の
本当は目の前にずっと
ある答えを
その目によって
明確に
見出すことが
できるのだ。
そうなれば、
「わかる」。
理屈ではなく
「わかる」。
ここにいる
意味が。
そして
本当に「わかった」
人は、
自分が本当は
まだまだ何も「わかって」ない
事実も知り、
ますます
真摯になるもんだ。
つづく
目の前の
現実を、
自分の鏡
として
見つめよう。
今、何が
起きているか?
今、
どのような展開が
あるか?
今、
誰がいるか?
それらはすべて
自分自身の
反映だ。
自分の生き方の
結果だ。
不可抗力だって
あるだろう。
自分が被害者的に
他者の何かを
受け止めることも
あるだろう。
・・・という
考え方は
あえて今は
やめてみよう。
すべて
100%。
目の前に今
あるものが、
自分を100%
映し出している。
そう覚悟を持ち
すべてを受け止める
生き方こそ、
今の私達には
必要なのでは
ないかな。
つづく
真実を知る
ということは
怖いことなんだろうな。
真実。
私のいつも使う
言葉で言えば、
実在。
あらゆる現象の
奥にある
本質。
でも、
怖いのは
最初だけだ。
実在がわかる
ようになると、
それはもう
いろんなものは
「わかって」
しまうが、
それでもまだ
「わからない」
ことは
本当にたくさんあり、
そして、
それらを全て
含めても、
そんなに
ひどいものでは
ない、
ということは
わかるよ。
そして、
思い切って
実在の
奥の奥の方まで
意識を向ければ、
そこには
確かに
「流れ」があるのも
わかる。
悠久の流れ。
それを
あるがままに
感じ取れば、
そこに
「希望」を
感じることも
できる。
私はその感覚を
『祈望』
と呼んでいる。
その希望は
祈りのような
ものだ。
現象のみを
見れば、
ひどいものも、
その奥の奥に
流れる
「祈望」を感じ取りながら、
その現象と
向き合えば、
今、自分が
ここで
何をすべきか、は
すぐにわかる。
そして
この現象の世界に
おいての
「祈望」の方向に
物事を進めることが
できる。
真実を
感じ取れば
取るほど、
やっぱり
自分次第なんだな、
我々次第
なんだな、
と
強く「わかる」ように
なった。
全て
我々が
やってるんだよ。
それが
「わかれば」
覚悟が
決まるよ。
つづく
「意志」には
距離がある。
あなたのその意志は
自分自身と
どれくらいの距離が
あるだろうか?
その意志は
自分のすぐ目の前に
あるのだろうか?
すぐ後ろだろうか?
横だろうか?
斜めだろうか?
もしくは、
もっと遠くに
あるのだろうか?
何mくらい
遠くだろうか?
ひょっとして
何km?
もちろん遠くに
なればなるほど、
その意志は
自分とは別物となる。
だから
何かの拍子に
すぐに飛んでなくなる。
近くにあれば
あるほど、
その意志は
自分にとっては安定した
強いものとなるが、
それでも自分とは
別物だ。
だからいつも
意識して
思い出さねばならない。
あなたのその意志は
今、どこにあるだろう?
どれくらいの
距離があるだろう?
そんな観察の仕方を
してみるといい。
そして
大変に稀だが、
距離がゼロ
ということがある。
つまりその意志は
自分と一つ。
自分そのもの。
「自分=その意志」
という
そんな意志がある。
本当は
誰にもある。
しかし
そんな意志を
見つけられる人は
少なく、
もし見つけられたら
その人はとても
幸福だろうな。
自分からの
距離の遠い意志は
大したことはない、
ということではない。
どの距離の意志も、
もしそれが
自分の望む意志で
あるならば、
大切にすればいい。
様々な意志を
大切にできる人こそが、
この意志は
自分自身である
という
距離ゼロの意志を
自覚することが
できるようになる。
さぁ、
自分の意志を、
様々な距離の
意志を、
見つけよう。
自分の意志
なのだから。
つづく
自分の中にある
とてつもなく
強い意志を感じたら、
その存在の
確固たるを
知ったら、
その意志から
自由になると
いい。
意志から
脱け出そう。
意志を
忘れてしまおう。
その方が
結果的に
より早く
意志を成就
できる。
本当に確固たる
意志で、
それが
実在であるならば、
あなたは
その意志だ。
あなたという
存在そのものが
その意志なんだ。
であれば、
もう、それでいい。
あとは
自由だ。
あなた自身が
その意志である
ならば、
あなたが
自由に振る舞えば
振る舞うほど、
その意志は
最短の道で
成されていく。
それを
楽しめばいい。
意志を持ち、
意志そのもの
となり、
意図を手放す。
そんな進み方を
楽しめばいい。
つづく
「ここにしかないもの」
が、
ここにある。
この3次元の世界
における
存在とは、
すべてが
そういったものだ。
例えば「時間」は
すべて
分離されている。
「今」という
この時間は、
すべて分離され
「ここ」にある。
それが
積み重なっている。
だから、
0.1秒前の「自分」と
今の「自分」と
0.1秒後の「自分」も
本当はすべて
分離されている、
それぞれが
別個の存在だ。
ただ私達の
顕在意識では、
同じ存在が連続して
存在している
ように
感じられる、だけだ。
すべては
分離され、
すべては
今ここ
にしかない。
分離された存在
の
集積。
それが
この世界だ。
なぜ、こんなにも
「分離」をするのだ?
ここまで
徹底的に。
それは、
ここまで徹底的に
分離をしなければ
得られないもの
があるからだ。
分離の極致
まで行って初めて
手に入れられる
ものがある。
「分離」された
私達は
もともとの
「一つ」
に戻ろうとする。
分離の極致から
「一つ」への道は
永遠とも言える
長い道のりだ。
しかし
それをする。
「分離から一つへ」
向かうにあたり
発生する
エネルギーがある。
それを
「愛」と呼ぶ。
私達が得たいのは
これだ。
分離をしなければ
決して得られない
のが、
これだ。
私達は
「一つ」に戻ろうと
する存在だ。
愛というエネルギー
を発生させながら
「一つ」に戻る
ことで、
同じ「一つ」でも
これまでとは
次元の異なる「一つ」
になれる。
それを
進化と言う。
つまり私達は
愛のエネルギーを
発生させることで
進化する。
その
宿命、とも言える
意志と力と行動を
本能と言う。
私達はもっと
本能に素直に
生きた方がいい。
つづく
昔、
ヒマラヤの山を
歩いていた時に、
そこから見える
山々のあまりの
大きさに、
我を忘れたことが
あった。
そこで感じたのは、
「私」という
一人の人間の
あまりの小ささ。
存在の小ささ
だ。
この大自然を前に
いったい自分なんかに
何ができるものか。
こんな小っぽけな
存在なんかに。
それは
一種の絶望だった。
と同時に、
自然というものへの
憧憬が渦巻いた。
当時の私は
人間が
嫌いだった。
恐らく
その時代に
私が唯一向き合っていたのは
山だった。
私はよく一人で
山に入り、
たった一人で
山々と向き合った。
そこでしか、
きっと
私は私の存在を
感じ取れなかった。
あまりに小さな
存在であるが、
それは紛れもなく
「存在」
だった。
・・・・・・
冬に
南アルプスに登り、
日本第二の高峰の
白峰北岳と
向かい合った時、
私は北岳から
「もっと大きくなれ」
と
メッセージを受け取った。
もちろんそれは
北岳を介した
自己対話だったのだが、
当時の私はそれを
本当に
北岳からのメッセージであると
信じた。
私はようやくそこで
人間界で生きる決心を
得た。
・・・・・・
私は今の仕事に
就いてから、
実は一度も
山には登っていない。
でも山々はずっと
私の胸の内にある。
その純粋さと
大きさは、
今でも私の憧れだ。
北岳からのメッセージを
受け取ってから
もう
30年以上過ぎているが、
今の私が当時と
違うところは、
人間もデカい、
という事実を
知っていること
だろうか。
昔、
山に登ったように、
今は
目の前のお一人お一人を
登っているような
感じだ。
登れば登るほど、
そのデカさを
感じるし、
いつまで経っても
頂上は見えない。
そしてやはり、
人を介して
私は私自身と
向かい合っているんだな。
つづく
進めば
なんとかなる。
進んでいさえ
すれば。
どれだけ時間が
かかろうとも、
いずれは
目的地に
到着できる。
私が昔、
登山で学んだ
あまりに当たり前の
ことだ。
人生にも
同じことが言える。
人それぞれ
ペースはあるだろう。
どんなペースにせよ、
進むことが
大切だ。
進むのが
人間だから。
「たまには
進まない人生も
いいだろう」
とは
言うなかれ。
それがどんなに
ひどい現実や
心への影響を
起こすかを、
私は散々
観てきた。
自分のことでは
ないのに、
何度も泣いた。
「進む」という
祈りのような意志を
カタチにしたのが
「人間」という
存在だ。
それを拒絶することは
人間であることを
やめようとする
行為なんだ。
だから結局
その人自身が
最も傷つくことに
なる。
もうそういうのは
観たくないな。
本当に。
・・・・・・
今の私はもはや
「コーチ」ではない。
「コーチ」という
役割はできるし、
これからも
し続けるが、
もはや
「コーチ」という
存在ではない。
「コーチ」という
能力を持っている
だけだ。
だから、
進まない人への
対応の仕方も
これからは
随分と変わるような
気がする。
・・・・・・
新たな私の
新たな探究テーマが
心の奥底から
浮上した。
『一書在』
・・・意味わからんでしょ。
読み方も意味も
誰にもまだ言えない。
でも
これが出たことで
パーッと
目の前の世界が
開けた。
これでまた
私は加速できる。
やはり
進むのは楽しい。
人間だからね。
みんな
同じはずだ。
つづく
「私は何者か?」
という
かなり本質的な問いを
今は、
投げ続けるといい。
一つ面白い現象が
起きている。
演劇で言えば、
まるで一人で様々な
役を試しているように、
「私は何者か?」
を
取っ替え引っ替え
試している人が
多いのだ。
単なる表面的な
役割の話ではない。
根本的な
真本音レベルでの
話だ。
つまりは、
今のこの時期は、
真本音レベルで
毎日のように
自分自身のミッションを
取っ替え引っ替え
している、
のだ。
真本音レベルでの
試行錯誤
と言っていい。
こういった時期を
ちゃんと越えることで、
自分自身の
真のミッション(役割)
を
掘り起こそうと
している。
だから、
「今日は私は
何者か?」
という問いが
良いかな。
この試行錯誤
そのものを
存分に
楽しもう。
つづく
「もっと
急がねば
ならない」
・・・と。
ふとした瞬間に
心の奥の方から
そんな意思が
浮上する。
何を急がねば
ならないか、
とか
何をどうすれば
良いか、
とか
具体的なことは
まったく
わからない。
でも、
何かにとても
焦っている。
そんな自分が
奥の方に
確かにいる。
何だろう?
・・・という、
そんな感覚を持った
人達が増えている。
結果的に
その人達は
生き急いでいるかの
ような
毎日になる。
このままの
生活で良いのか?
このままの
仕事で良いのか?
このままの
自分で良いのか?
明確な答えは
わからないままで、
焦りだけが
日々、高まる。
そんな人達が
増えている。
私は、
そんな人達をこそ
サポートしたい。
単純に言えば、
その感覚が高まる
ということは、
自分の使命が
浮上してきている
という証だ。
真の使命
だ。
この人生で
自分は何をするか?
何のために
自分は
生まれてきたか?
そういった
根本的問いへの
明確な答えだ。
その浮上は、
多くの場合
自分自身を焦らせる。
真の使命に
向かうための
準備が必要だからだ。
真の使命に
向かえるだけの
自分にまで
自分を高めておく
という
準備だ。
焦りの感覚が
生まれるということは
ほぼほぼ
準備は完了した
ということなのだが、
「あと一歩」
という人も多い。
私はその
「あと一歩」を
サポートしたいし、
真の使命を
自然に思い出せる
ような
サポートもしたい。
そして、
真の使命が
見つかった人とは、
仲間として
共に進みたい。
焦りは禁物だが、
その、
焦りの感覚は
とても大事だ。
その感覚と
しっかり
対峙するといい。
つづく
こうすると
絶対に上手くいくな、
と
自分の中に
確固たる意図が
芽生えた時、
私は必ず、
その意図を
瞬時にして手放す
ことにしている。
それはある意味、
とても勇気の要る
ことなのだが、
そういった選択を
するようになって
ほぼ10年になる。
そこから私は
人生の本当の意味での
醍醐味を
体験できるように
なったと思う。
意図を手放す
生き方。
それは
知らない私を
次々と
私自身にもたらして
くれた。
こういった生き方を
人にオススメして
良いのかどうかは
わからない。
ひょっとすると
意図通りに動くことで
私はもっと
ビジネス上では
成功を手に入れていた
かもしれない。
しかしそれでは
今の幸せは
手に入らなかっただろう
ということは
わかる。
人の幸せとは、
次々に知らない自分と
出会えること
ではないか。
そして
知らない自分と
出会えば出会うほど、
知らない人達とも
実際に出会える。
意図とは、
「これまでの自分」
という狭い範疇に
留まること、
だと
私は思う。
いや、
本当にそうなのか
どうかはわからない。
でも私は
自分の意図は
つまらないな、と
いつも思う。
意図を手放した
その後に展開する
現実に
何度も感動してきた。
その度に、
私の意図は
つまらんものだな、と
つくづく。
だから私は
これは絶対、上手くいくぞ!
を、
きっと今日も明日も
手放す。
意図という
狭き世界から
私は常に
私自身を解放する。
これが
私なりの
自由の一つのカタチ
かな。
つづく
ちょっと極端な
言い方になるが、
人間を理解する
ということは、
タイミングを理解する
ということと
ほぼほぼイコールだと
私は思うのだ。
人間を本質的に
理解している人は
(というか、もっと正確に
書けば、
「理解しようとし続けている人」
となるが、)
あらゆる人との
タイミングが
合ってくる。
逆に、
人間を本質的に
理解していない人は
(これももっと正確に
書けば、
「理解しようとしていない人」
となるが、)
タイミングが
ズレる。
常に、
ズレ続ける。
だから、
ある一言を
Aさんに伝えようと
思った時に、
そのタイミングが
ピッタリか、ズレるか
によって、
Aさんの受け取り方も
その後の展開も
根本的に
変わってくる。
時には
180度変わる時だって
ある。
これは
人生が調和するか
どうか、
ということとも
イコールだ。
だから
「人を理解しよう」
という眼差しは
私は
人生経験をどれだけ
重ねたとしても
必須のことだと
思うのだ。
しかも
本当は、
人間理解力
というのは
誰にも備わっている
ものだ。
だって、
みんな人間
なのだから。
そしてまずはやはり、
人間である自分自身を
理解しよう
とすることだ。
この仕事を
25年続けてきて
昔も今もずっと
感じ続けていることだが、
みんな
自分自身を理解しよう
という気持ちが
低過ぎる。
自分自身を
もっともっと深く
知ろうとすること。
それが
人を深く理解することに
直結する。
人を深く
理解できれば
できるほど、
人と人が共に
醸し出す「流れ」
というものも
何となく掴めるようになる。
それが
「タイミングが合う」
という現象として
現れる。
つまりこれも
ちょっと極端に書けば、
タイミングの合う
人間関係は、
タイミングの合う
社会を創る。
それが
「調和する社会」
へと育っていく、
のだと思う。
つづく
自分自身のエネルギーが
高まれば高まるほど、
自分の中にある
異物感に
敏感になる。
何かがちょっと
おかしい。
余分な何かが
あるようだ。
ほんのわずかだが・・・。
と。
この感覚こそが
これからの世の中には
必要なのではないか。
これまでは
そのわずかな異物感を
放置し続けていた。
それが様々なところで
溜まりに溜まり、
ついには限界を
超えてしまった。
・・・ということが
今、私達が目の当たりに
している現実の
多くなのではないか。
何が正しいか?
はわからない。
しかし、
異物感は
取ったほうがいい。
なぜなら
そうして初めて
観えてくることは
あまりに多いから。
異物感に注視する
ことは
重箱の隅を突く
ということではない。
それは
本質を観るためには
とても必要なプロセスだ。
99%では
決してわからなかった
ことが、
100%で
初めて簡単に
わかるのだ。
100%のスッキリを
自分自身に
与えよう。
本当の人生は
そこからだ。
つづく
新しいことを
始める時は、
いったん
無にならねば
ならない。
無と言っても
完全な無
ではない。
不必要なものを
一時的でも良いから
横にどけておくのだ。
不必要なもの。・・・
それは
これまでの「経験」
だ。
しかも特に、
成功した経験達。
もちろんそれらは
財産だ。
そこから学べることも
今後へのヒントも
ある。
しかしそれは
あまりにも
存在が強過ぎる。
その存在に基づいて
新しいことを始めても、
それはもはや
新しいことでも
なんでもない。
これまでと同じ
範疇のことは、
新しいことではない。
しかし今、
私達の多くは
本当に
「新しいこと」を
始めたがっている
のではないか。
これまでの範疇を
超えていく。
もっと自分自身を
開放していく。
そんな新しさ
への
止めどのない欲求、と
祈りが、
今の世の中の
根底に
激しく流れている。
今は間違いなく
そのチャンスだ。
今、始めずして
いつ始めるのか、と
多くの人が
心の奥で自分自身に
叱咤激励している。
その想いに
素直になろう。
そのためには、
無になることだ。
本当に無になれるか
どうか、ではなく、
無になろうと
すること。
これまでの経験を
いったんすべて
横に置き、
「今の自分」
に純粋になること。
今、私は
何をやりたいか?
この極めてシンプルな
問いに
正面から
立ち向かうことだ。
つづく
今回はまた
一つ
シンプルな問いを。
『自分の何を
鍛えたい?』
あなたが
大変に強い欲求で
自分自身の
鍛えたい部分が
明確になっている
はずだ。
それは
今後、さらに
自己開放をしながら
道を進むために
とてつもなく
必要なこと。
だから
「鍛えるべき」
というよりも
「鍛えたい」
と
とても強く
願っているはずだ。
いや、
祈っていると
言ってもいい。
今、本当に
自分の何を
鍛えたいと
祈っている?
その答えを
見つけよう。
そして、
存分に
躊躇なく
全身全霊を持って
鍛えよう。
つづく
何が
どうあっても、
何が
起ころうとも、
自分の道は
一直線に
眼前から未来に向かって
伸びている。
その道そのものには
何らの障害も
ない。
もし障害が
現れたとしたら、
それは単に、
道を外れてしまった
からだ。
もとに
戻ればいい。
一本道に
戻ればいい。
・・・・・・
一本道に
立てている実感が
あるなら、
その先の
ずっと遠いところを
見つめてみよう。
現時点で届く
最も遠い未来に
意識を向けてみよう。
案外、単純なことに
それだけの
ことで
今、すべき
最も重要なことが
見つかるかも
しれない。
・・・・・・
今この瞬間に
意識を集中する
ことは
基本であるが、
ここからは
最も遠くの未来
にも
意識を
向け続けよう。
それは
遥か遠くかも
しれないが、
今、と
着実につながって
いる。
その実感は
日々、
増していくはずだ。
そして
そうすることで
さらに
遠くを見通せるように
なるはずだ。
・・・・・・
未来を
予測することなど
必要ない。
未来は
予測できない。
それがここからの
時代だ。
しかし、
未来を
見通す力は
我々には
最初から
備わっているんだよ。
つづく
大きな悩みや
迷いの後に、
心に
空っぽ状態
が訪れたら、
それは
絶望でも空虚でも
ない。
それは
希望の空っぽ
だ。
あらゆる
不必要なものを
心の中から
手放した状態だ。
この状態に
ならねば、
開かない扉がある。
今、
その扉が
開こうとしている。
だからあとは
待てばいい。
もう考えることは
やめにして、
悩むことも迷うことも
終わりにして、
待てばいい。
その状態を
恐れる必要はない。
ただ、
待てばいい。
つづく
自分自身の
エネルギーの流れを
意識することは
できるかな?
人は誰しもが
エネルギーを循環
させている。
外からエネルギーを
取り入れ、
自分自身も
エネルギーを発し、
それらのエネルギーを
様々な方向や角度で
流し続けている。
いや、
健康であれば
流し続ける状態が
持続するのだが、
不健康になれば
一部や全体が
滞ったり、
流れが途切れたりする。
私はコーチングを
させていただく時、
必ず
その人のエネルギーの
流れを感じ取る。
流れが良くない場合は
流れが良くなるための
やりとりをする。
当然と言えば
当然だが、
その人が
自らの真本音を思い出したり、
発見することで、
流れは急激に良くなる。
さて。
皆さんのエネルギーの
流れは今、
どんな感じだろう?
例えば私の場合、
今の私は
とてつもなく大きな
循環を創り出している
ようだ。
一見すると、
「循環」とはわからないほど
の巨大さなので、
地面から空に向かって
垂直に
エネルギーが昇り続けている
ように観える。
巨大な滝が
下から上に
昇り続けているようだ。
私の場合、面白いことに
このように
エネルギーが下から上に
流れることもあるし、
逆に、上から下に
流れることもある。
下から上に流れている
時には、
心は高揚するだろうと
思いきや、そうでもなく、
むしろ、
通常よりもさらに
心は鎮まってくる。
そして
観察力が高まる
ようだ。
何かを待っている時に
こうなることが多い。
そう。
私は今、
待っている。
タイミングを
計っている。
絶妙のタイミングを
見極めることで、
その後の展開が
大きく変わる「何か」を
始めようと
している。
ヒリヒリするような
緊張感がある。
その緊張を
エネルギーを下から上に
流しながら、
大きな大きな循環を
描くことで、
自らを鎮めて
いるのだ。
私はこの時を
待っていた。
と言えるような
何かが
始まるのだな。
つづく
芽が出る。
思わぬところから
思わぬ芽が
生える。
これこそが
人生の醍醐味だと
私はいつも思う。
ところが私達は
ついつい
芽を意図的に
出そうとする。
もちろん
それは大事な
ことだが、
その「意図」を
持ち過ぎのように
思う。
人生の醍醐味は
「種蒔き」
にあり。
・・・だと思うのだ。
自分の願いを
大切に抱きながら、
一つ一つ
丁寧に種を蒔く。
その種は
芽が出るかどうか
わからない。
だから、
芽が出ますように
と
祈りながら蒔く。
丁寧に
だが
たくさんたくさん
蒔く。
意図的に
芽を「出させる」
のではなく、
祈りながら
たくさん「蒔き続ける」
のだ。
たくさんの
種を蒔けば蒔くほど、
思わぬところから
芽が出るもの。
それが
とても感動的で
とても嬉しい。
人の育成も
そうだし、
ビジネス構築も
そう。
人生のあらゆる
ことが
そうではないか。
人事を尽くして
天命を待つ、
と言うと
硬くなってしまうが、
今日、私は
どんな種を蒔こうか?
と、
楽しみながら軽やかに
しかし真剣に、
人生を進めたい
ものだ。
つづく
やはり
次元だな、
と
つくづく思った。
同じメンバーでも
その時その時の
次元が異なる。
次元の高い状態での
話し合いと、
次元の低い状態での
話し合いでは、
まったく同じテーマ
だとしても
話の展開が
根本から変化する。
私はコーチの仕事を
続けることで、
その場の次元
が、
ある瞬間にグッと
高まるという経験を
日常的に
させていただいている。
その瞬間は、
本当に空気が
変わる。
私の目に映る
その瞬間は、
その場全体が
一瞬、蜃気楼のように
観える。
グググッと
場全体が
透明なまま光り輝くのが
観える。
その瞬間から私は
私が場を引っ張るのを
やめてしまう。
その場の人達に
完全に委ねてしまう。
すると、
想定を超える面白い
展開となる。
創造的な展開と
なる。
次元が高まる
ということは、
その場の一人ひとりが
「私は何者か」
を思い出している
状態だ。
本質的には。
たとえそれを
顕在化していないと
しても、
その人は
本来のその人
となっている。
で、後ほど私は
そのお一人お一人に
対して、
あなたは側から
観ていたら、
まるで◯◯でしたよ、
と
フィードバックする。
それをすることで
さらに次元が高まる
頻度を上げていく。
次元の高い自分。
次元の低い自分。
人はあらゆる次元の
自分を最初から
持ち合わせている。
それこそが
人という存在の
魅力だ。
人生の魅力と
言ってもいい。
その魅力を
もっともっと味わう
ためにも、
もっとみんな
高い次元の自分を
知れるといいね。
つづく
今回は一つ、
とてもシンプルな問いを
ここに投げよう。
自分自身に
問うてみて、
もし何か発想が
浮かんできたら、
それを
大切にしてください。
問いは
これです。
『私は今、
何を待っている?』
もし答えが
浮かんだら、
その浮かんだものを
大切にし、
ちゃんと
待ってください。
そして
待っているものが
成されることで、
その後に
進んでください。
それまでは、
しっかりと
待つこと。
そのメリハリが
大事です。
つづく
自分の未熟さを
愛せば、
きっと
人の未熟さも
愛することができるだろう。
本当の意味で
自分に厳しく
できる人は、
人にも厳しく
できるだろう。
自分を大らかに
笑いながら
許せる人は、
人にも
大らかに接することが
できるだろう。
自分への
対し方。
人への
対し方。
詰まるところ
これは
イコールだ。
よく、
器が大きい小さい
という話を
私も仕事柄、するのだが、
実は
よく思うのは、
器って、
その人に最初から
備わっているもの
というよりも、
器って、
その人自身が
選んでいる。
「私はこれくらいの
器で生きよう」
と。
しかしその
選び方が、
真本音で選んで
いる人と、
反応本音で選んで
いる人と、
に分かれる。
真本音で選んで
いる人は、
良い意味で
本質的に「等身大」で、
人生もビジネスも
調和し続ける。
第一、
本人が自然体で
一緒にいて清々しい。
みんながこういう
生き方ができれば
いいのに、
と
側から観ていて
よく思う。
無理をするのが
人生だと、
皆、ちょっと思い過ぎだ。
自分を変えなきゃ
ならないと、
皆、ちょっと思い過ぎだ。
等身大のまま
進むからこそ、
本質的な成長が
できるのだと思うよ。
つづく
真本音度合いが
高まることで、
どんな変化があったか?
という問いを
いただいて、
一つ、ふと気づいたこと
がある。
それは
自分自身の体
を
とても大事にするように
なったということだ。
とは言え、
無意識に自然に
そうなった
と言った方が正確だ。
思えば、昔は
自分の体をずっと
酷使し続けた。
恐らく、自分の体の
ことは
優先順位として
最も低かったのでは
ないか、とさえ思う。
それが今は、
常に
自分の体と対話
をしている。
朝、起きる時も
何か食べる時も、
仕事をする時も
休憩する時も、
一日のうちに何度も、
私は
体と対話する。
もう起きて
大丈夫か?
今、食べたい?
食べたいものは
何?
ちょっと歩こうか?
このまま
集中し続けて大丈夫?
何か私に
リクエストは?
・・・などなど
常に語りかけているかも
しれない。
おかげで
若い時よりも今の方が
数十倍も健康な
気がする。
体にちょっとした
異変を感じたり、
ちょっとした
不具合を感じたり、
そんな時は
特に注意しながら
体との対話を繰り返す。
だから今は
変な言い方だが
自分の体との
ラポール(本質的信頼関係)が
できている気がする。
思えば、
私が「真本音」という
概念と出会えたのも、
最初は
体の不調からが
きっかけだった。
体は、
私自身、というよりも
どちらかと言えば、
私のパートナーという
捉え方をしている。
とは言え、
今でも物理的に
酷使し続けていることは
変わらないので、
特に
多くの方々からの
ストレスやエンティティを
受け取るのは
私の体なので、
年齢も重ねたし、
これからは
さらに労ってあげたいな、
と思う。
体に
感謝だ。
つづく
「場と一つになる」
というのが
私にとっては
人生の醍醐味の
最大の一つかも
しれない。
私の場合、
なのだが
人と向き合っていると、
その人と一つになる
というよりも、
その場と
一つになる
のだ。
そしてその時間は
恐らく
「自分」をなくしている。
これは
悪い意味ではなく。
イメージで言えば、
その場の空気感
そのものになり、
一つ一つの
そこにあるすべての存在に
分子原子レベルで
溶け込んでしまっている
ような感じだ。
だから
無我夢中
に近くなる。
よく記憶をなくす
くらいになる。
気がつくと
1時間とか2時間が
あっという間に
過ぎている。
1〜2秒の
感じだ。
無我夢中と言っても
力が入っている
わけではない。
ただ、きっと
集中力はもの凄い
のだろうな。
そして最近は
以上のような感覚の
度合いが
急速に高まっている
気がする。
この一年半くらい
ほとんど飲まなくなったが、
以前は毎日のように
ウイスキーを飲んでいた。
それも必ず
ストレートで。
いろんなウイスキーを
舌や喉だけでなく、
全身で味わい
楽しんでいた。
今は、その時の
感覚に近い。
その人との
その場を
ストレートで
味わっているような。
年齢を重ねた
からかな・・・、
その一秒、
その一瞬を
本当に味わっている
気がする。
つまりは
人生をストレートに
味わっている
というか、
ね。
そう言えば先日、
ある初対面の若い人
から、
真本音度合いが
高まると
どうなりますか?
と
問われた。
その時、とっさに
出てきた言葉が
人生の一瞬一瞬が
本当に愛おしくなり、
幸せになるかな、
だった。
あんまり普段
そういう言い方を
私はしてこなかったので、
ちょっと
意外だったな。
つづく