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- 2022年 5月
もし
大波に
呑まれたら、
自分に
太刀打ちできない
もので
あればあるほど、
私はその
大波に
完全に
委ねることに
している。
完全に、
委ねる。
完全に。
・・・これが
できるようになる
まで、
だいぶ人生の時間が
かかった。
私が
セルフコーチングの
力をつけたのは、
これができるため
であったと
言ってもいい。
自分の
手に負えない現実に
完全に
委ねられる
自分になる。
これが私がずっと
目指したもの。
これができて
初めて、
この現実世界の
中で
調和を生み出せる、
自らを起点
とした
調和を。
・・・と
ある時
腑に落ちたのだ。
大波に
抗ったり、
反発したり、
そういった経験は
たくさんしたが、
結局は
すべて遠回り
だった。
これでは
人生の目的は
果たせない、
間に合わない
と
思った。
ただし、
大波に委ねる
とは
大波に従属する、
とか
大波に屈服する、
とか
自分を失う、
とか
そういったこと
とは
本質的根本的に
異なる。
それらとは
むしろ
真逆だ。
自己を
しっかり持ち、
自分の使命を
果たそうとする
とてつもない
意志を持つからこそ、
大波には
委ねることが
できる。
気がつけば、
大波を
自分が活用している
ということに
なっていることも
ある。
ただし
これも難しいことだが、
俺が大波を
活用しているぞ!
と
意識した瞬間から
大波には
呑まれてしまう。
要するに、
自我とか
反応本音レベルの
意図では
まったく太刀打ちは
できない。
そんな次元は
手放してしまう。
それが
委ねる
ということの
根本だ。
言葉で説明しようと
すると、
このように
とても難しくなる。
これはやはり
説明することでは
ない。
自ら
体験することだ。
体験すれば、
すぐに
わかる。
説明はできないが
「わかる」
のだ。
頭ではなく、
肚でわかる。
私自身が
そのように生きて
行きたいし、
みんなが
そのように
生きていけるように
サポートするのが
私の役割だ。
さて、
7月からまた
大事な動きに
入る。
そのための準備が
この6月だ。
つづく
自分自身の
コア(中心核)に
意識を向けると、
静謐、
という言葉が
ぴったりするくらいの
静けさを
たたえている時と、
ブンブンと
凄い勢いで回転
しまくっている時が
ある。
あんまり
中間はない。
中途半端が
嫌いだからか。
静謐な時は、
私はできるだけ
物事を(現実を)
よく観察するように
している。
観察するだけで
あとは
何もしない。
何か
思考を働かせたり、
今後の道筋を
見つけたり、
実際に何か
行動に移したり、
・・・どれだけ
そういったことを
したくなっても
やらない。
ただ、
観察に徹する。
逆に、
ブンブン回転
している時は、
自分のすべての
思考と直観と
知恵を
振り絞って
道を見出そうと
する。
たとえ
道が見出せなくても
一歩ずつでも
進む。
行動に移す。
振り返れば、
そのメリハリを
とても大切に
してきた。
恐らく、
そのメリハリこそが
私の人生を
調和させてくれた
のだと思う。
調和とは
安定ではない。
極端な言い方を
すれば、
調和とは
不安定だ。
進化のための
最善の
不安定さを
常に内包しているのが
真の調和だ。
私のその
メリハリは、
常に何らかの
波乱と
混乱と
課題を
私自身に与え続けて
くれた。
それが
とてつもなく
良かった。
さて、
今日からまた
私の中心核は
ブンブンと
凄い勢いで
回転し始めた。
明日から
どうなるかな?
楽しみ。
つづく
ふと、
意味のわからない
映像が
浮かぶときは
ないかな?
それがかなり
明瞭な場合、
それは
単なるイメージ
ではなく
「実在」
かもしれない。
「実在」
つまりは
現象(現実)の
もとにあるもの。
物事の根元。
物事の本質。
何らかの物事
について
その本質を
掴めた時、
私達は時々、
それを映像化して
自分自身に
もたらす。
それは
非常に意味のある
ヒントとなる。
自分が単に
頭でイメージを
しているのか?
それとも、
何らかの「実在」を
掴み、
そのヒントとしての
映像を
自分自身に見せて
いるのか?
この区別が
つくようになると
人生はとても
面白くなる。
そうなるためには
まずは、
ふと浮かぶ
一見すると
わけのわからない
映像があった場合、
それは
ほんの一瞬
よぎるだけの場合が
多いのだが、
それを
逃さずに、
来た!
と
その映像に意識を
向けること。
頭で解釈する
のではなく、
ただただ
その映像に
意識を向け続ける
こと。
・・・ということを
続けるといい。
意味がわからない
ならば、
意味がわからない
ままで良いので、
これを続けていると、
ふと
突然に何らかの
気づきが
来るかもしれない。
来ないかも
しれないが。
来ないなら
来ないで
それでいい。
これも一つの
セルフコーチングの
訓練だ。
一つ一つの
映像を
大切に。
つづく
ブクブクブクと
海の底に
潜って、
静かに
していると、
どこからともなく
賑やかな
声が
聴こえてくる。
楽しそうな
声。
仲間達。
今、私は
海の底にいるので、
音もなく
光もないが、
その賑やかな
声達の
その場所は
光り輝く
明るい場だと
わかる。
無邪気な
笑顔、
安心して
自分そのまま
でいられる、
しかも
パワー溢れ、
志、溢れる。
私はこの
静かな場所から
その賑やかさを
感じ
楽しんでいる。
彼らには
彼らなりの
やり方がある。
それを
存分に
試してみればいい。
私のやり方は
私がやるための
もの。
彼らには
自らの道を
自由に進み、
彼らにしか
出せない答えを
出すことこそ、
最速の進み方。
それにしても、
私の若い時は
あんなに
賑やかでは
なかったよな。
もっと深刻で
ジメジメしていた。笑
もっと苦行
だった。
時代が変わった
というよりも、
次元が変わった
のだな、
と思う。
新たな時代
新たな次元の
進み方。
このまま
堂々と
進んでほしいな。
つづく
その人は
一社員。
いつもは
目立たない。
自主的に
仕事をすることも
少なく、
いつも
受け身。
どちらかと
言えば、
手を抜くことばかり
考えている。
上司も
困り果て、
竹内さんの
コーチング受けて
ダメだったら、
もう彼の成長は
諦めます。
・・・と
言われる始末。
最近は
こういった傾向の
コーチングは
受けないことに
していたのだが、
だが
しかし、
その人が
今日の研修で
発した
何気ない一言。
その言葉
自体は
ホント
大したことは
何もないのだが、
でも
その言葉を
発している
その人自身の
中心に、
何か
青空のような
水晶のような
とても深くて
清々しいものが
一瞬だけ
観えた。
こういう一瞬を
見逃したら
もう
コーチは失格だ。
あーこんな
深いものを彼は
持ってるのか。
一瞬でも
姿を現した
ということは、
ここからは
刺激さえ入れれば
それは
まもなく本格的に
目を覚ますだろう。
本当の彼。
本来の彼。
その源。
ちょっと
面白そうだ、
このコーチング。
私は
受けることに
した。
人は
自己開放の
時を待つ。
それは
一気にくる。
もちろん
コーチングはその
きっかけに
過ぎない。
ちゃんと彼の
真本音の
望み通り、
最短距離を
最大スピードで
進めるように
祈りを込めて。
つづく
今、
自分がいる
「場」。
つまりは、
「環境」。
私は
この場に
どんな価値を
感じているだろう?
この場から
どんな価値を
享受しているだろう?
そして、
私は
この場に
どんな価値を
提供しているだろう?
この場は
私からどんな価値を
享受できているだろう?
・・・以上の
視点、
つまりは
「価値」
という視点から、
「自分と場」
の関係性を
観察して
みよう。
私達は、
人から影響を
受けながら
生きているが、
場からも
多大な影響を
受けている。
逆に、
影響を
与えてもいる。
場との共存。
場との共創。
この視点は
今こそ
大事なのではないか。
場との調和。
場との進化。
・・・
場がなければ
人は存在できず。
人がいなければ
場は育たない。
自分は
どんな場に
身を置くか?
も
大事だが、
それ以前に
もっとしっかり
考えるべきことが
あるのではないか。
つづく
必要なことが
必要なタイミングで
必然的に
起こる。
そういった
調和した人生を
創り出すためには、
時間との調和
が
必須だ。
自分と時間
との調和。
そのための
第一歩は、
無駄なことを
やめる
・・・だ。
さらに
そのための
第一歩は、
無駄なことを
考えない
・・・ことだ。
みんな、
無駄なことを
考え過ぎだ。
考える必要の
ないことを
あーだこーだ
と
考え続ける。
自分の意識が
全部そっちに
持っていかれる
ので、
目の前の
肝心な現実が
観えなくなる。
それが
調和度を
極度に下げる。
じゃあ、
無駄なことを
考えないように
するには?
無駄なこと
なのか、
必要なこと
なのか、
その判断は?
という質問が
来そうだ。
でも残念ながら、
今すぐに
判断がつくように
なる方法は
ない。
大事なのは
日々の
習慣づけだ。
どんな
習慣かと
言うと、
単純だ。
自問自答
だ。
自分に
丁寧に問うのだ。
今、自分にとって
最も大切な
問いは(=考えるべきことは)
何だろうか?
と。
そして、
今、私が
考え続けていることは
本当に必要なのだろうか?
と。
う〜ん、
わからない。
必要かどうか
わからない。
・・・と
迷う場合は、
必要ない
ということだ。
本当に必要なことで
あれば、
上記の問いを
自分に真剣に投げれば、
すぐさま
「これは必要なことだ」
と
答えられるはず。
・・・と、
あえて決めつけて
しまう。
つまり、
必要かどうかわからない
ことはもう
考えない。
考えない代わりに
意識を外に
向け続ける。
自分の周りの
現実を
あらゆる現実を
観察し続ける。
散歩にでも
出ればいい。
外の景色を
眺めながら。
自分の心の内側に
意識が
向かわないように。
最初は
無理矢理にでも。
強引にでも。
そして、
本当に必要な
ことのみ、
「よーし、今からこれを
徹底的に考えるぞ」
と決めて、
真剣に集中して
考える。
考え尽くす。
以上のような
メリハリ。
これをつけながら
一日一日を
過ごしていく。
そうすると自ずと、
無駄なことは
考えない
必要なことのみ
考える
自分となれる。
すると途端に
時間との調和が
始まり、
人生の調和が
始まるんだ。
つづく
私達は
“環”(わ)
の中心にいる。
誰もが
そうだ。
自分の環がある、
と
表現することも
できる。
あなたの環は
今、
どれくらいの
大きさだろう?
昔、
南アルプスの
少しだけマイナーな
地域を
一人で歩きまわった。
ある山の
ピークに立ったとき、
そこは3,000mくらいの
高度だけあって、
人は一人も
見えないのに、
世界が
青空のもと、
360度
見渡せた。
地平線なのか
水平線なのか
区別のつかない
彼方にのみ
雲は存在し、
あとは
濃い青空。
その時、私は
確かに
“環の中心にいる”
と感じた。
あの感覚が
33年経った今も
ずっと
残っている。
それは一つの
真実なのだと
思う。
私達は
誰もが
“環の中心にいる”。
そして
“環”を意識することで、
“自分”がわかる。
それは
自我ではなく、
“世界の中の自分”
である。
その目をずっと
持ち続けること
でしか、
私達は自分の
本当の道を
見出すことはできない
のではないか、
と
今日、ふと
思ったのだ。
変な表現だが、
きっとみんな
無意識に
自分の環を
意識している。
それをもっと
意識的に
意識するといい。
今、
あなたの環は
どれくらいの
大きさだろう?
自分が
その環そのものに
なると、
自分のことが
どう観える?
自分が
その環そのものに
なると、
自分に何を
メッセージしたい?
今、
環は、
何を語りかけている?
あなたは
今、
何をすべきだろう?
つづく
人生にヒントは
たくさん
ある。
それはまるで
蜘蛛の糸
のような感じで、
天から
垂れ下がっている
イメージだ。
蜘蛛の糸
なので
一見、何もないように
見える。
しかし
本当にたくさんの
糸は存在し、
それを見つけられる
自分であるかどうか、
が
ポイントだと
わかる。
心が
ある一定以上に
スッキリしていないと
その糸は
観えない。
真本音で生きる
意味の一つは
ここにある。
クリアな生き方
は、
たくさんの
蜘蛛の糸
との出会いを
意味する。
糸は
こんなに
たくさん
あるんだ!
と
びっくりする
ことだろう。
ただし、
糸が観えた
としても
その糸の彼方、
つまりは天
を見上げても
何も見えない。
この糸が
どんな源から
どのように
垂れ下がっているのか
は、わからない。
ただ、
その糸が
とても大事である
ということのみ
わかる。
だから私は
糸をじっと
見つめる。
そして
必要ならば、
その場ですぐに
セルフコーチングする。
糸との対話
だ。
私はこういう時の
ために
常に手帳を
携帯している。
手書きですぐに
書けるヤツ。
どこに行く
時でも、
仕事でも
プライベートでも。
糸との対話は
ほぼほぼ
メモに残して
おく。
その時には
まったく意味が
わからなくても、
それでも
メモに残し
それを蓄積する。
そして時々、
その手帳を
眺めたり
読み返したりする。
すると
ある時ある瞬間に
圧倒的な
気づきや
ひらめきが
来る。
人生にヒントは
たくさん
垂れ下がっている。
ヒントは
常に目の前に。
それを掴める
自分でいよう。
つづく
無闇に
苦しむ必要は
ないが、
私はやはり、
人としての
苦しみ
を
大切にしたい。
エネルギーが
ぐんぐん湧いてきて、
いわゆる
モチベーションアップ
という状態で、
全能感みたいな
ものが出てきて、
心が全部
前向きになって、
怖いものが
なくなって、
何でもできそうな
気がする。
・・・という
状態になると、
私はいつも
行動を
止めてしまう。
なんか、
いやなのだ。
エネルギーの
高まりが
不自然で。
このまま
行けば、
確かにすべての
物事が
上手くいきそうだな、
と
思えている
時、
私が常に
チェックするのが、
今、
目の前の
現実が
ちゃんと観えて
いるか?
ということだ。
例えば、
目の前にある
道端の小さな
お花。
そのささやかな
可愛らしさが
ちゃんと
目に映っているか?
と。
さっき
全能感、と
書いたけど、
本当の全能感
とは、
目の前の現実が
とてもクリアに
観えている
状態だと思うのだ。
喜びや自信
だけでなく、
あらゆる苦しみや
怖さも。
ちゃんとすべてを
観て、
感じることが
できている状態
だと思うのだ。
エネルギーが
湧いて
勢いはあって
でも、
何も観えなく
なっている、
・・・という時は
私はすべての
行動を
いったん止める。
そんな自分が
気持ち悪い
から。
不自然
だから。
そんな勢いは
一時的なものだと
やっぱり
わかるから。
勢いだけで
進めば、
一つ一つに
一挙手一投足に
魂を
込められなく
なる。
それは
いやだな。
勢いの
ある時と
ない時。
勢いがあれば
ぐんぐん
進めて、
なければ
止まってしまう。
そんな人生は
いやだな。
私は昔から
苦しみを
感じ過ぎるところが
ある。
喜びよりも
苦しみに
焦点を当て過ぎる
傾向がある。
それは
自分の癖として
注意せねば
ならない。
でも、
何も感じずに
進むよりは
よほど良いな、
とは
思ってるんだ。
つづく
安心感と
冒険心。
今のあなたに
とって
真に
落ち着けるのは
どっち?
安心安全な
方に
進めば
落ち着ける。
・・・とは
なかなか単純に
ならないのが
私達人間だ。
安心安全な
場所にいれば
いるほど、
焦りと苛立ちと
そして
自虐。
そういった心が
ワッと
溢れ出す。
そんな人は
多い。
そう。
冒険したい
からだ。
今は冒険や
挑戦をする
時期である、
と
自分で
決めている
からだ。
そんな人は
心がヒリヒリ
するような
方向に
人生の舵を
切ると、
途端に
落ち着くものだ。
今のあなたは
どっち?
自分の心に
素直に
進もうよ。
つづく
今回もまた、
「今だからこそ」
大切な問いを。
大きくは
二つ。
・・・
①
「今のあなた」が
「今だからこそ」
やりたいことを列挙してください。
たくさん出し切った後で、
その中で最もやりたいことを
6つ選んでください。
今、本当にやりたいこと
を6つに特定するわけです。
・・・
②
上記、①の答え6つを
横に置いてでも、
「今だからこそ」
やるべきことを列挙してください。
本当にやりたいこと6つ
よりもさらに
優先度の高い
やるべきことです。
列挙したらやはり
そのトップ6を
選んでください。
本当にやりたいこと6つ
よりも先に
やるべきこと6つ
を特定するわけです。
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
②で選んだ6つ。
今、すぐに
やりなさい。
ぐずぐずせんと
はよやらんかい!
という
やつです。
私達は
すべきことを
ちゃんとしなければ
これ以上前には
進まない。
と、
真本音で決めている
ケースが多いのです。
自分が
やるべき、と
決めていることは
今すぐ、
やろう。
つづく
お湯が沸騰
した時の
気泡のように、
次々に
浮かび上がる
ものがある。
その一つ一つ
には、
きっと面白い
ひらめきが
詰まっているのだろう。
だが、
それらの
泡を
私は無視する。
勝手に
浮かび上がり、
消えていけ、
と。
実は、
ひらめきの
99%は
必要のない
ものだ。
必要がない
どころか、
それらに
捕われると、
本当に必要な
ひらめきが
観えなくなる。
本当に必要な
ひらめきから
遠ざかる。
捨てるべき
ひらめき。
それが
99%。
残念ながら、
それが今の私達の
心だ。
情報過多。
歪曲。
解釈。
ひねくれ。
悪意。
・・・まぁ、
いろんな原因が
ある。
つまりは、
インプット段階で
ひらめきの質が
大きく
低下している。
質の悪い
インプットの
反射として
発生するひらめきが
ほとんど
ということだ。
ただの
反射のひらめきか?
それとも
本当の
ひらめきか?
この区別を
つけることが
最も重要だったり
する。
セルフコーチング力
を高める意味は、
ここにある。
・・・
まずは
自分の中に
どれだけ多くの
ひらめきが
存在しているか?
を
知った方がいい。
沸騰した
お湯のように、
気泡が常に
沸き続ける。
それを
見つめられる
自分になるといい。
それもできない
のに、
ひらめきの区別は
つくはずがない。
現代は、
現在は、
生きづらい
社会だ。
余分なものが
多過ぎる。
外面も、
内面も。
だからこそ、
区別し
選び出す
という力が
必須。
それが
生きる力だ。
つづく
海中
深くに潜り、
じっと
しよう。
光の届かない、
まるで
宇宙のような、
その場所で。
完全に
閉じ籠ろう。
完全に
一個の
点になる。
微動だに
しない。
心も
動かさない。
ただの
点
として
音もない
そこに。
時間の経過
も
感覚として
なくなるだろう。
それでいい。
自分とか
他人とか
もう
どうでもいい。
ただの
点。
一点。
そうして
いて、
測り知れない
時間が
経って、
体が
ブルっと
震えたら、
それが
合図だ。
一つの
誕生。
あなたの中に
何かが
生まれただろう。
あとは
それが
ひらめきとして
浮上するのを
待ち続ける
だけだ。
つづく
心を
上に向かって
開放
してみよう。
天に向かって
大きく
広く。
宇宙を
丸ごと
感じるくらいに。
面白いことに、
地に足が
ついている
感覚が、
確かであれば
あるほど、
天に向かって
より
オープンになれる
ものだ。
天と地は
結ばれる
ものだ。
天と地は
結ばれる
ために
ある。
それを
成せるのは、
私達
「人」
だ。
地に立つ
我々
だからこそ、
地を
離れられない
我々
だからこそ。
天に
全てを晒す
というのは
怖いかもしれない。
怖かったら
やっては
ならない。
怖くなくなったら
堂々と
やろう。
地を
感じながら。
これを
する人には、
初めの
ひらめき
が
来るんだ。
それだけで
命の運び方
が
変わるかもよ。
つづく
そこにある
ひらめき
の正体を
見つけよう。
ひらめき
が
ひらめき
のまま
終わらない
ように。
ひらめき
と
対峙し、
君は
なぜここに
現れたのか?
誠実に
問うてみよう。
全てのひらめき
には
目的がある。
目的のために
使ってあげねば、
そのひらめきが
生まれた意味が
なくなる。
ひらめきの
中身を
知る前に、
何のための
君なのか?
と
しっかり
問い、
深く理解しよう。
変な表現だが、
ひらめき
と
信頼関係を
結ぶのだ。
それをすれば、
そのひらめき
は、
次のひらめき
を
連れて来てくれる。
誠実に
向かい合えば、
ひらめきの
連鎖が
始まるんだ。
人間関係と
同じだね。
つづく
人には、
自力で
突破できること
と、
自力では
突破できないこと
がある。
その判断が
とても重要だが、
ここが難しい。
この判断が
つくようになる
だけで、
チームや組織は
圧倒的に
成長できる。
調和できる。
逆に言えば、
自力突破
すべきところで
他者の助けを
借りてしまう、
もしくは、
他者の助けを
借りながら
協力すべきところで
自力突破しようと
してしまう、
それにより
一体どれだけの
混乱が
起きていることか。
よく私は
「自律」
という言葉を
使うが、
自律できている
人は、
この判断が
実に的確だ。
特に、
リーダー的立ち位置
の人達には
必須の力だと
思うのだが。
私達人間は
皆、
協力し合うように
できている。
協力し合わなければ
道が開かないように
なっている。
しかし
協力ポイントを
間違えたまま
放置している
組織やチームは
多い。
一部の人間が
引っ張れば、
社会に貢献できる
時代は
とうに終わっている。
これからは
全員が
自走しなければ、
本質的な
社会貢献は
チームとしては
成り立たない。
チーム(組織)
としての
活躍度合いは、
自律度合いと
直結する。
やはり・・・、
チーム(組織)を
丸ごと
サポートできる
コーチ的存在は
必要だ。
最近また
ヒシヒシと
感じる。
本格的な
コーチ養成を
再び始めようか・・・。
つづく
雑踏の中に
私は
溶け込み、
私は
私の姿を
見失った。
その世界は
一つの塊
となり、
すべてが
混ざり合い、
そして
消えた。
まるで
当たり前の
ように、
私も
消えた。
すべて
消えた。
光は
色を失い、
無色透明
となった。
何もない、
空っぽ状態。
そこでは、
死も生も
同じこと
だった。
一点も
無限も
同じこと
だった。
何もない、
のではなく
すべてが
満ちている
わけだ。
「存在」
とは
焦点化だ。
焦点を絞る
ことで
ギュッと何かが
集約され、
塊となり、
「そこに在る」
ことになる。
焦点化さえ
しなければ、
すべては
無限に
そこにあり、
どうにでも
なる、
つまりは
自由自在。
前も後ろも
右も左も
ない。
すべて
ここ
であり
あそこ
でもある。
なんという
平安。
だが
しかし
それでは
何も
起こらない。
ずっと
そのまま
同じまま。
楽しい
も
つまらない
も
同じもの。
さて
どうしようか?
やはり、
こんなになっても
まだ
一つ
あるんだ。
この
祈りが。
こんなに
なっても。
“子が
育ちます
ように”
これがな、
なぜかな、
あるんだな。
なんだ
これ。
これが
すべての
始まりか。
やはり
ここから
始まるのか。
つづく
この人の
流れ。
私の
流れ。
あーここだ!
ここが
ちょうど
結び目だ。
二つの流れが
交わる
わずかな
一致点だ。
今、
ここだ。
・・・そう
わかった時、
私は必ず
その人と
真正面から
向き合う。
そして
その人に
完全に委ねる。
二つの流れの
一致点では、
どちらかが
どちらかに
完全に委ねなければ
ただの
交差で
終わってしまう。
その瞬間
委ねることで、
二つの流れは
一つとなり、
共に
流れ始める。
この感覚。
この感覚を
掴めるように
なってほしい。
そうすれば
私達は、
出会うべき人と
出会うべき
タイミングで
出会い、
人生の
シナジーを、
この人と
でしか
創り出せない
流れを
創り出せる
ように
なるんだ。
これが、
セルフコーチング力
を高める
最も重要な目的の
一つなんだ。
つづく
エネルギーの
高い人は、
どこにいても
その人なりの
“風”を吹かす。
意図しているか
どうかは
関係ない。
その人ならではの
“風”が吹く。
“風”は人々に
影響を及ぼす。
良い意味でも
悪い意味でも。
“風”と共に
生きる人は、
自らの“風”のことは
しっかり
認識し、
理解を深めた方が
いい。
自らの“風”を
理解することで、
自分自身の
活かし方
もわかるからだ。
・・・
“風”の根元
には
祈りがある。
その人なりの
祈り。
“風”の理解
とは
祈りの理解でも
ある。
私は
いついかなる時も
どんな祈りを
抱きながら
生きている人間か?
この問いと
真摯に
向き合い続ける
ことだ。
・・・
“風”には
個性がある。
時と場合によっても
変化する。
変幻自在
である。
もし
自らの“風”を
自らがコントロール
することができれば、
人生を
コントロールする
こともできる。
ただしここで言う
「コントロール」とは
完全に思考と思惑を
超えた次元の
ことだ。
“風”を扱う人は
もう
思惑では
生きていかないのだ。
・・・
”風”の強い
若者が
増えている。
しかしみんな
それを
自覚していない。
そんな人達を
本気で
発掘し、
集めようかと
考えている。
私がすることは
“風”の存在を
伝えることと、
“風”の使い方を
ちょっとだけ
教えること
だけだ。
それ以上は
しない。
それ以上は
必要ないからな。
つづく
たった
一言。
この一言さえ
もっと早くに
聴いておけば、
私の人生は
もっと変わったものに
なっただろうに・・・。
もっと
若いうちに
この一言に
出会いたかった・・・。
実は
コーチングにおいて
私がこれまで
クライアントさんから
何度も
言われた言葉だ。
人生を
変える一言。
本来の自分を
思い出させて
くれる一言。
それはまるで
「自分」という
箱の蓋を
開ける
“合言葉”
のようなものだ。
私はひょっとすると
この“合言葉”を
お伝えするために
コーチをしているのかも
しれない。
・・・と
ようやく
気づいたんだ。
であれば、
直接その人と
会わなくても、
直接その人と
出会わなくても、
その人にとっての
“合言葉”を
届けることは
できないか?
・・・これが
私がサーベイ開発を
始めた動機だ。
その人に
真本音メッセージを、
その人だけの
“合言葉”を
届けるための
サーベイ。
今の私は
ここに結構な時間を
割くようになった。
きっと
今後は
コーチとしての活動
よりも
こちらの方の割合が
増えるのでは
ないか。
直接会わずして
“合言葉”を
届ける。
ゆくゆくは
不特定多数の人達
にも、
これをできるように
したい。
これが今の
私の
最大の探究テーマだ。
私一人では
できない。
仕組みも
必要だからだ。
仲間と共に
開発していく。
つづく
あの朝は
衝撃的だった。
ちょうど
20年前の朝。
突然に
実在が
わかった日。
自らの
真本音の声が
心の中に
こだました朝。
その瞬間から
私の人生は
大転換を始めた。
ずっと永遠に
続くと信じていた
レールが
突然、
途切れた。
道が
なくなった。
これまでの
道が
幻影であったと
知ってしまった。
あれから
20年。
真本音の
しの字も
なかった時代。
遠いな。
遠い過去だ。
しかし
決して忘れない。
あの時
私は初めて
覚悟を持ったのだ。
いついかなる
時にも、
すべてをゼロに
する覚悟。
あれからずっと
持ち続けている。
今日も
ゼロから始まり、
ゼロに終わる。
一日で
一つの人生が
完結する。
そんな日々。
今日は
今日の世界。
明日は
明日の世界。
すべてが
分離した
断絶の連続
とも言える
この世界。
その断絶を
感じ
尊重しながらも
今
を生きる。
常に
ゼロから。
この覚悟は
きっと
絶えることは
ない。
つづく
今回はまた
今だからこそ
大切な問いを
二つ。
・・・
これまでの自分と
ここからの自分が
継続して
大切にしたい価値観は?
これまでの自分
にはなく、
今から
新たに大切にすべき
価値観は?
・・・
この二つの問いを
私自身に
投げてみた。
最初の問いの
答えは、
「常に進化のための
最善を尽くす」
そして
次の問いの答えが
結構、面白かった。
「直近の3日間のこと
のみを考える」
・・・ちょっとこの発想は
これまでの私には
なかった。
面白そうなので、
しばらく
試してよう。
つづく
今、
ここに
風が吹いて
いるだろう。
ここまで
登って
来たんだ。
真剣に
生きた証だ。
地に足を
つけて
一歩に
精一杯を
込めて
何度も
ずり落ちながらも
諦めずに
進んできた。
精一杯以上の
精一杯では
なかったか。
命が
消えそうになった
時もあったが、
消えそうに
なればなるほど、
その奥から
さに新たな命が
芽生えてきた
のではなかったか。
私達は
たった一つの
命を生きている
わけではない。
命はすべて
繋がっている。
私は分離した
私ではない。
命は
分離した存在
ではない。
一歩を進む
ごとに
それを実感
できただろう。
私は
何者か?
それを
問い続け、
答えは出ず、
問い続け、
答えが
出ても、
問い続け・・・。
確信と
あやふやさと
一体感と
分離感と
希望と
絶望と
恍惚と
虚無と
相反する
ものたちが
ちゃんと
ない混ぜに
なっている。
それが
私達であり
あなただな。
知ることと
わからなく
なること
気づきと
混乱と
一本道と
幻影と
確かな私と
不明確な世界と。
さぁ、
全部をちゃんと
体験したのだから、
そして
ここまで登った
のだから、
わかるだろう。
この風を。
感じるだろう。
この心地よさを。
ここまで
来たんだ。
あとは
委ねろよ。
風の中で。
あと少し。
つづく
一つ、
カタチを創って
しまうと、
それを壊す
のは
とても億劫だ。
だから
納得のいかぬ
ままに、
そのカタチを
維持する。
しかし
そのことが
次の不調和を
呼び、
そのカタチは
不調和の源
と
言っても良いくらいの
存在となる。
そんなカタチに
なるならば、
いっそのこと
早く
壊してリセット
した方がいい。
それが
本当にできる
覚悟を持つ人こそ
真のリーダーと
言えるだろう。
すべての物事
には
想いがある。
その想いが
核となり
カタチとして
結晶化する。
想いとカタチが
繋がっていれば
理想だが、
カタチとは
それが形成される
過程で
想いを忘れて
しまうもの。
私達は皆、
カタチばかりに
意識が行く。
途中から。
想い、
とは
原点。
常に原点に
戻り、
原点から
発想し続ける存在が
やはり
必要だ。
もちろん
最初から
理想的なカタチは
できない。
何度も
トライアル&エラー
が必要だろう。
最善を
尽くす。
何度も何度も。
何度
壊しても。
それだけは、
私は
大事にしよう。
私の残りの
時間は
24年。
どこまでの
ものが
できるかな。
つづく
動けば動くほど、
事件が起きたり
事故が起きたり
トラブルに
見舞われたり。
様々なことが
あるね。
真本音度が
低いと、
それら一つ一つに
どうしても
振り回される。
例えば、
目の前に竜巻が
来たとして、
それが自分からは
まだ距離があるにも
関わらず、
恐怖のあまり
足がすくむ。
足がすくむ
くらいならまだ良いが、
パニックを
引き起こし、
後で振り返ると
わけのわからない
行動や振る舞いを
とってしまう。
結果的には
そういった自分の
振る舞いが
本来は発生させる
必要のない
トラブルをまた
引き起こす。
不安や怖さに
基づいた
揺れ具合。
少しの揺れを
大揺れのように
感じてしまう。
真本音度の
低い人達は今、
そういった状態に
入っている人が
多い。
自らの真本音を
毎日、大事に
している人は、
竜巻が見えても
まずはしっかりと
それを
見つめるだろう。
竜巻の大きさは?
自分からの
距離は?
そしてその竜巻は、
自分があえて
立ち向かうべき
ものか、
それとも
避ければ良い
ものか?
避けるには
今、
どう動けばよいか?
立ち向かう場合は
どんなテーマで
どの一点に集中すべき
問題なのか?
それらを
しっかり自問自答し、
自らの意思で
答えを出す。
実は、
そういった在り方
生き方・行き方
そのものが発する
波長がある。
その波長が
不必要な竜巻を
遠ざけてくれる。
ここからの
世の中は、
さらに
(表面的には)
不安定さを
増す。
言ってみれば、
至るところに
大小様々な竜巻が
発生している状態と
なる。
私達はしっかりと
大地に足を
踏み締め、
自分の本来の
生き方を
実践し続けよう。
本来の波長の
自分として
ここに在り続けよう。
普段の
生き方だ。
これがすべてを
決める。
つづく
誰とお会いする
時でも、
私はしっかりと
準備をする。
自分の心を
整え、
無心となり、
意識を
その人のみに
向け、
その人の
実在を
感じ取る。
そして
今回お会いする
本質的目的は
何か?
私から
お伝えすべき
メッセージは?
私から
投げかける
問いは?
・・・等々を
無心のまま
その人の実在から
受け取る。
人生の中で
これからの
その人との
時間。
それは
一度きり。
たった
一度きり。
それは
宝だろう。
その人と
その時その瞬間
にしか
できないこと
がある。
それが
何か?
を
私なりにしっかりと
明確にして、
その場に
臨む。
私は本当に
これを
毎日丁寧に
行なっている。
たとえ
家族に対しても。
その丁寧さが
きっと
誠実さに
なるのだと思う。
そしてその
丁寧さが、
私自身の人生の
調和に
つながっているのだと
思う。
人を大事に
するとは、
その人との時間を
大事にする、
ということが
まずは最も
基本ではないか。
つづく
仕事と家庭で
ボロボロになって
しまっている
ある社員さんが
いる。
状況は何も
変わっていない
のに、
ある日、
急にその人は
輝き始めた。
一つ一つの
言葉が
スーッと私に
伝わってくる。
どうしたの?
と
訊くと、
何がですか?
と。
どうやら本人は
自分の変化に
気づいていないようだ。
だいぶ
変化したように
思うけど・・・?
そうですね。
よくわかりませんが。
私もそう思います。
・・・その瞬間に
わかった。
その人は
自分の人生を
引き受けたのだ。
この現実は
私のものだ、と。
この現実が
私の人生だ、と。
追い詰められて
追い詰められて
ついに
覚悟を持った。
その迫力。
本人には
自覚されないが。
でもこれこそが
道を開いて
行くのだな、と、
改めて
実感。
つづく
いろいろ
言いたいが、
今のあなたに
本当に
伝えたいことは
たった
一つだ。
ここから
どんな現実が
目の前に来ても、
決して
目を逸らすな。
何があっても
何もできなくても
向き合い
続けろ。
・・・
20年前の
私に
真本音の
私が
強く
語りかけた
こと。
そこだけは
守ったな。
だから
今、ここに
いる。
20年間、
守り続けた
こと。
つづく
挑戦しよう!
という意志が
またそこかしこに
溢れてきている。
どんどん皆が
動き始めている。
それ自体は
とても良いことだ。
挑戦というのは、
自分のこれまでの
限界を超える
ための行為だ。
だから
これまでと同じことを
同じ範疇でしていても
意味はない。
しかしその
「限界を超える限度」
がある。
その境界線
ギリギリのところまで
挑戦して、
それ以上になりそうなら
スッと引く。
・・・これはとても
大事なことだ。
上手く行くために
そうしよう、
ということではない。
その挑戦を
本当に実りのあるもの
にするためだ。
境界を越えて
しまえば、
それは単なる
「無謀」となる。
そういった意味で、
「挑戦」とは
明らかに「闇雲」とは
違う。
「勢い」だけで
行なうことでは
ない。
「挑戦」には
ちょっと離れたところ
から
じっと自分自身を
観察する目が
必要だ。
だから、
本当に覚悟を持って
真本音で
挑戦をしようと
する人は、
とても心が
クリアになる。
限界を超える
が故に
これまで観えなかった
ものが
観えるようになる。
自分の情熱を
じっと観察する
自分が
常にいる。
それは
頭の冷静さとは
まったく本質的に
異なるものだ。
「ここまではいい」
でも
「ここからはダメだ」
と
瞬時にわかる。
そこが境界線だ。
挑戦の限度
だ。
もう一度言うが、
上手くやるために
これをするのでは
ない。
そして、
本当にそういった
「挑戦」のできている
人は一方で、
自分自身の恐怖心も
観えている。
自分がいかに
怖がっているか、も
ありありと
わかる。
そしてそれを
消そうとはしない。
怖さを感じながらも
進む。
怖さを克服する
というよりも、
怖さと共に
進む。
自分の弱さと
共に進む。
これが
「挑戦」だ。
だから
怖いのは当たり前。
怖くなければ
それは
「挑戦」ではない。
つづく