私達人間には誰しも、
好き・嫌い
があります。
嫌いなものがあった場合、
それを
「好きになろう」
とする人がいます。
例えば、
嫌いな人がいたとしても
その人のことを
好きになろう、
とします。
そういった生き方をしている人を
見ると、
私は素直に、いいなぁ、と
思います。
が、その生き方を
無理にし過ぎている人にも
これまで多く出会いました。
無理にし過ぎることで、
その人は自分の中の
「嫌い」
という気持ちにフタをして
しまいます。
そんな気持ちはないのだと
自分で自分をごまかして
しまいます。
その上で、
「好きであろう」
としますので、かなり心に
無理が生じ、
その無理無理感が
おかしな空気を生みます。
その空気感は実は
誰もが感じ取っていて、
その人の
「好き」
は、実はとても不自然なものだと
誰もが薄々わかってしまいます。
「好きになろう」
という気持ちは大切ですが、
「好きであらねばならない」
までいってしまうのは
苦しいです。
そういった人を観ると私は
「不自由な人だなぁ」
と思います。
ちょっと極端に言いますが、
私は思うのです。
嫌いなのものは
嫌いでよいではないか。
・・・と。
「好きだ」
「嫌いだ」
という、自分から湧く
素直な気持ちは
人間として当たり前のものなので、
それはそれでよいではないか、
と。
そこを否定することは
人間そのものを否定して
しまっている気がします。
ただし、・・・ですが。
「嫌いなものは嫌いだから、
そこは避けて通る」
とか、
「嫌いな人とは接しない」
とか、
「嫌いなものはすべて
拒絶する」
とか、
そういった人も私は
「不自由な人だなぁ」
と思います。
そこには
「選択肢」
がないからです。
「嫌い」
だから、
関われない。
「嫌い」
だから、
離れずにはいられない。
「嫌い」
だから、
受け止められない。
というのは、
その選択肢でしか
生きられないということです。
つまり
「嫌い」なものに
翻弄されている。
自分以外の何かに
翻弄されている。
・・・ということ。
それは、
人生のハンドルを
自分以外の他の何かに
握られているということと
イコールです。
一つの視点から言えば、
私は、自由とは
「選択肢の多さ」
にあると思っています。
つまり、
選択肢が多ければ多いほど
自由である、と。
どのような環境においても、
どのような状況においても、
自分の選択肢を
たくさん創ることのできる人こそが
自由ではないか、と。
「嫌いだから、関われない」
というのは、
たった一つの選択肢しか
ありません。
その選択肢以外の選択肢を
得られるようにすることが
より自由になるということでは
ないでしょうか。
それを「問い」として表せば、
次のようになります。
もし何か嫌いなものに遭遇した
として、
「嫌いなことはわかった。
では、その嫌いなことに
私はどのように関わろうか?」
ということですね。
その関わり方に
多くの選択肢があればあるほど
自由です。
選択肢が多い、
ということはそれだけ
「最善の選択」
をしやすいということです。
選択肢が少ないと、
そこには
「妥協」
が発生しやすいです。
「妥協」とは
自分が本当は納得していない
答え。
「最善」とは
理想とは違いますが、
今の状況においてはこれが最高だな、
と自分で納得できている
答えです。
妥協の道ばかりを
行く人は
自由ではありません。
当然ですが。
最善の選択のできる人が
自由なのだと
私は思います。
真本音で生きる度合いが
高まると、
単純に言えば、
その、最善の選択の度合いが
高まります。
つまりは、
今、自分は何を
最善と思っているか?
が、
すぐに明確になります。
そういった人生は
楽ですし、
自由ですね。
つづく