本当に
時代は変わったのだな、
と
少々びっくりしている。
この
3月1日からの
ことだ。
あまりの空気感の
変化に
毎日、私は
ドギマギしているよ。
まるで
別の世界に
転生したかのような、
新鮮だけどちょっと
不慣れな感覚。
もちろん
実在のレベルでは
こういった変化は
何度もあった。
しかしこんなにも
現象化するものか。
現象のレベルまでも
含めた
この変化の大きさは、
私がこの世に
生まれて以来、
この55年間では
初めてだと思う。
本当に時代は
変わったんだな。
つづく
本当に
時代は変わったのだな、
と
少々びっくりしている。
この
3月1日からの
ことだ。
あまりの空気感の
変化に
毎日、私は
ドギマギしているよ。
まるで
別の世界に
転生したかのような、
新鮮だけどちょっと
不慣れな感覚。
もちろん
実在のレベルでは
こういった変化は
何度もあった。
しかしこんなにも
現象化するものか。
現象のレベルまでも
含めた
この変化の大きさは、
私がこの世に
生まれて以来、
この55年間では
初めてだと思う。
本当に時代は
変わったんだな。
つづく
ほんの僅かな
変化を
見逃すな。
自分自身の
内面の
変化だ。
常に小さく
震えながら、
パッと動くものが
ある。
その最初の
顫動のようなものが
連続的に
小さな波を起こし、
それがやがて
巨大な波となる。
その波は
消えることなく
広がり続ける。
それが連続して
くる。
そして小さな
小さな
気をつけていないと
見逃してしまうような
しかしそれでも
莫大なエネルギーの
ビッグバンが
起こる。
そこかしこで。
そのビッグバンの
一つ一つに
メッセージがある。
可能であれば
そのメッセージを
自覚したい。
今、あなたは
「変化の時」
だ。
それは
潜在意識レベル
というよりも
顕在意識レベル
に影響を与えやすい
もの。
一気に自分を
より望む方向に
変えるチャンスだ。
自分の中の
僅かな変化を
見逃すな。
つづく
晴れた空を
見るのは
すがすがしいが、
毎日、晴れが
続けば、
それが当たり前となる。
雨の日や
曇りの日があるからこそ、
晴れた日の
ありがたさがわかる。
これが
人間というもの
だよな。
悩み・葛藤・試行錯誤・
苦しみ・絶望・空虚感・
・・・
それらがあるからこそ
人間とも言えるし、
それらがあるからこそ
幸せな瞬間を
噛み締めることが
できる。
人間であることを
やめる
必要はない。
むしろもっともっと
人間らしく
進みたい。
今、私の目の前に
雲々がある。
暗くて重い
雲たち。
クライアントさん
達から
もらったものだ。
彼らの
モヤモヤだ。
雲の中に入れば、
炭酸水の泡のような
刺激の強い痛みを
感じる。
彼らはこんなにも
痛みを感じながら
毎日を過ごして
いるんだ、
とわかる。
今、最大の問題は、
彼ら自身が
この痛みに蓋をして
いることだ。
痛みを痛みとして
感じない。
だから
何とかしよう
とはならない。
鈍感であることの
最大の問題だ。
鈍感でなきゃ
進めないことは
あるだろう。
しかし
鈍感であることが
成長だとは
思わないでほしい。
それは
見ないように
顔を背けているだけ、
顔の背け方が
上手くなった、
だけ。
これを人間の成長
とは
思わないでほしい。
痛いことと
ちゃんと
向き合ってほしい。
人生を開く
初めの一歩が
それなんだ。
つづく
中心が
移動している。
ゆらゆらと。
本来、
中心なだけに
それは
中心に在り続ける
はずなのに。
中心が移動したら
もう
中心じゃないじゃん!
と
言いたいのだが、
おかしなことに
それはまだ
中心
で在り続けているのだ。
動く中心。
それが
動くたびに、
そこが
中心となる。
つまり
世界も
変わり続けて
いる。
中心の移動と
共に。
これまでは、
移動しない
存在があったからこそ、
世界は
安定してきたのに。
まるで
北極星が
自由に動き回る
ようだ。
それと共に、
各星座の星々も
移動する。
変化する。
そんな
時代なのだ。
じゃあ、
そんな時代だから
あらゆることが
揺れ揺れになるのか、
と
思いきや、
むしろ
安定度は
高まっている。
逆に言えば、
安定度が高まった
が故に、
中心が移動できるように
なったのか。
ということは、
この次元の
定点は
必要なくなったということ。
ということは、
さらに奥の次元が、
定点というよりも
まるで土台のように、
浮上してきた
ということか。
これが
新たな時代か。
この自由度が。
つづく
その瞬間、
余分なものは
すべて
きれいに洗い流した
状態でありたい。
なぜなら
100%どころか、
1000%の力を
発揮したいから。
その瞬間、
だけでいい。
人事を超えた
集中力、
というくらいの
集中力を
出したい。
とはいえ、
やはりそれも
人の力
だろう。
私達が
私達自身に
設定している限界。
それを瞬間的に
超えることは
できる。
超集中力
とも言えるもの。
いつの間にか
私は、
それを発揮しなければ
できないことばかりを
やっている。
だから必死になって
それを
自分のコントールに
よって
発揮できるように
ならないか?
を
探究し続けた。
今はかなり
コントロールできるが、
しかしそれでも
やり過ぎると
体が壊れそうに
なる。
体が壊れない
程度に、
しかし、できるだけ
頻繁に、
本当に必要な
瞬間に、
その力を出す。
結局これを
やるために
私はセルフコーチング力を
高め続けたのだな、
と
今になって思う。
真本音で生きる
とは、
自己の設定していた
限界を超える
ということでもある。
それをしなければ
果たせない
人生の目的を
持った人がいる。
そんな人は
増えている。
そんな人のための
サポートを
私はしたいのだ。
限界を超える
ことが良いことだとは
限らない。
それはその人の
望む生き方しだい
だろう。
だから、
限界を超えてまでも
自分の目的に
向かいたい人。
そういった明確な
願いをもつ人のみへの
サポートに
ここからはさらに
集中していくつもりだ。
つづく
降り注ぐ雨に
身を晒すように、
降り注ぐ
エネルギーを
全身に浴びる。
このエネルギーの
高まりは、
間違いなくここから
半永続的に
続くだろう。
ただそれを
受け取れる
自分であるかどうか?
それはその人の
生き方で決まる。
自分だけが
エネルギーを
もらおう、という
生き方は
もちろんダメだし、
逆に、
自己犠牲をして
自らのエネルギーを
ひたすらに
分け与えよう、という
生き方も
ダメだ。
どちらもすぐに
エネルギーが
枯渇する。
大切なのは、
エネルギーの循環を
起こす生き方だ。
その生き方を
あえて文字で
表せば、
こうなる。
『峻悦』
これは
私の造語だ。
似た意味の言葉が
ないか調べたが、
残念ながら
見つからなかった。
「峻」とは
険しいとか、厳しい
という意味がある。
「悦」とは
本質的な喜び
のことだ。
つまり『峻悦』とは、
険しく厳しい方向に
こそ、
真の喜びがある、
という意味。
ただしこれは
現実的な意味では
ない。
内面的な
ことだ。
心の中の
今、最も険しくて
厳しい方向に
私達は無意識に
蓋をする。
見なくする。
しかしその
連続によって、
私達は本来の
自分を
失っていく。
心の中の
今、最も険しくて
厳しい方向に
自分の意志で
向き合っていく。
すると当然、
それは苦しみを
伴うのだが、
それでも
向き合い続けると、
それがある瞬間に
一気に晴れる
ときがくる。
するとそこから
自己開放が
起こり、
その向こう側に
悦びが待っている。
それは通常の
喜びとは
次元の異なる
喜びだ。
その悦びに
基づいて
現実レベルでの
行動を起こす。
するとそれは
エネルギーの循環を
生み出す。
自分発の
エネルギー循環だ。
その循環によって
エネルギーは
増幅し続ける。
良い意味で
人を巻き込み、
皆の進化にも
つながる。
『峻悦』。
結局、私はこれを
探求し続けて
きた。
この55年の人生を。
・・・と
気づいたんだ。
つづく
ゆっくり時間が
進んでいくな。
一つ一つを
噛み締めるように。
一見、
穏やかに見えるな。
でも、
その根底には
激しさがある。
だからこの
進み方の様相は、
何かをきっかけに
豹変するだろう。
緩流から
突然
急流に。
急流から
激流に。
ほんの1秒で
変わるかも
しれない。
そんなある種の
エネルギーの高さ
がある。
今のこの
日々には。
表面の空気に
揺らされては
ダメだ。
その本質の
流れ方
を
感じよう。
急流や激流で
生き延びるため
には、
自ら進んで
そこに
飛び込んでいく
ことだ。
自らの勇気と
覚悟に、
急流・激流は
敏感で、
その波長に
同調してくれる。
覚悟のある人は
「仲間」
と見なす。
だから
調和が始まる。
世の中の流れと
「仲間」となる。
そのためには
自らの意志で
進むしかないのだ。
もはや、
上手く流れに乗る、
という時代は
終わった。
ここからは、
流れを仲間にする
時代だ。
流れと共に
進む時代だ。
つづく
あと一歩を
踏み出せず
元の場所に戻って
しまう人と、
あと一歩を
踏み出すことで
次の世界へと
人生を進める人。
その差は
あまりに大きい。
もちろん、
どちらが良いとか悪いとか
そういった評価を
他者が下すことは
できない。
しかしこれはもう
本人の問題だ。
踏み出せなかった
ことによる
深い深い後悔を、
本人にしか
わからない後悔を、
私は側から
数多く拝見してきた。
本人にしか
わからないのだが、
その悲しみは
他者である私にも
十分過ぎるほどに
伝わってくる。
そうなると私も
とても悲しくなり、
一晩、泣き明かすことも
多くあった。
自分で決めていた
人生に
進まなかった後悔。
これは本当に
深くて痛いのだ。
私にももちろん
その体験は
ある。
ギリギリで
先に進めた体験も。
後で振り返れば、
あの時よく
進めたな、と
思う。
しかし私の場合、
私は特に
頑固なので、
他者からの
ありがたいご支援を
いただいてきた。
あの時
私を罵倒してくれた
人。
あれがなかったら、
私はそこで
止まっていた。
あの罵倒が
私を後押し
してくれた。
その経験が
あるからこそ、
私は、
罵倒までは
いかなくても、
毅然泰然と、
大地に踏ん張りながらも、
ある時は
その人の歩みを
全否定する、
ということも
している。
誰かがどうしても
それをしなければ
ならない、
という時があるからだ。
そういう場合は、
コーチという役割、
立ち位置というのは
プラスに働く。
コーチだからこそ
言えること
というのは
たくさんある。
だから私は
どうしても!
という時は、
心だけでなく
魂までもを鬼にして、
その人に
対峙する。
一歩を
進めるように。
そういう
私の役割を、
引き継いでくれる人は
いないかな?
いてくれると
嬉しいな。
つづく
昔の思い出だと
思い込んでいたことが、
実は
未来の出来事だった、
ということは
ある?
過去と未来は
分離しているようで、
それでいて
一つだ。
過去が未来を
決める
ということも
よくあることだけど、
未来が過去を
決める
こともあるんだ。
未来を描く、
と
言うけれど、
実は
未来を思い出す
ということの方が
多いんだ。
未来を思い出す
という
感性。
それは
誰にでも
備わっている。
実は、
過去を思い出すのと
同じくらい簡単な
ことだ。
未来は一つか?
と
問われれば、
未来は無数に
ある、
というのが
答えだ。
未来は決まっているか?
と
問われれば、
未来は
決まっていない、
これから創り出すものだ、
というのが
答えだ。
だからこそ、
だ。
私達は未来を
思い出す必要が
ある。
その必要性は
ますます
高まっている。
真本音で生き、
「今」を
大切にできるように
なった人は、
しだいに
未来を思い出せる
ようになる。
未来を自分で
選びながら、
未来に
選ばれながら。
つづく
自分の原点だな、
と
これまでずっと
信じてきたものが、
急に
揺らぎ出す。
それどころか、
今にも
消えそうになる。
もしくは、
消えてしまった・・・。
ひょっとすると、
そんな状態に今、
あなたは
あるのだろうか?
もしそうなら、
その「事実」を
「事実」として
しっかり受け止めよう。
これまで
信じてきたものが
間違っていた、
ということでは
もちろん、ない。
これまでの
その原点は、
今、もう、
その役割を
終えたのだ。
ここからは
新たな「原点」が
あなたのさらに奥から
浮上してくる
だろう。
しかもその「原点」は、
あまりに
唐突なものかも
しれない。
これまでとは
真逆をいく可能性も
ある。
それでも
受け止められるか?
・・・ではなく、
受け止めるしか
ないんだ。
・・・というより、
どれだけ嫌がっても、
受け止めてしまう
ことになる。
だって、
自分自身の「原点」
なのだから。
もし抵抗が
あったとしても、
それは
顕在意識のみの
抵抗だ。
つまりは
これまでの経験則に
基づいた
過去からの延長線上の
あなた自身による
抵抗だ。
はっきり言って
そんなものは
弱い。
本来の「原点」から
してみれば、
吹けばすぐに
飛んでいく。
しかしそれでは
あまりに可哀想
なので、
「原点」は少しずつ
あなたを
納得させてくれるだろう。
だからあえて
言うのだが、
無駄な抵抗は
やめよう。
早く受け入れて、
早く
先に進もう。
その方が
何十倍も楽しいよ。
つづく
一見、
がんじがらめに
見えるかも
しれない。
しかしそれは
思い込みだ。
手足に絡みつく
その一つ一つの
障害を
よく目を凝らして
見つめてみると
いい。
大したことは
ない。
一つ一つを
じっくり丁寧に
手放せば、
あっという間に
自由
になれる。
私達は
すでに
私達が想像している
以上に
力を開放できている。
それを
体験によって知る
というのが
ここからのテーマだ。
体験すれば、
知る
ことができる。
体験する
だけだ。
一歩を
踏み込むかどうか。
それだけ。
もし仮に、
自分を縛るものたちを
手放せないとしても、
じゃあさ、
そのまま
縛られたまま、さ、
進んでみると
いい。
そんな無茶な、
と
思うよりもまず、
思い切って
進んでみよう。
あれ?
というくらいに
抵抗なく
行ける可能性は
高いよ。
そんなもんだよ。
それだけ
ここまで頑張ってきた
準備の一つ一つの
意味は
大きいんだよ。
つづく
グッと
一気に進む。
そして
急ブレーキ。
様子を見ながら
そろりそろりと
進む。
そしてまた
瞬間をとらえ、
グッと
一気に進む。
急加速。
急ブレーキ。
最も楽に
進めるその瞬間のみ
確実にとらえ、
そうでない時は
無理をしない。
どれだけ
急加速しても
急ブレーキをかけても、
自分には
負荷はかからない。
むしろ自身には
静けさと落ち着きが
あるのみ。
側から見れば、
激しい進み方かも
しれないが。
自分のスピードを
調整しながら、
最も抵抗の少ない
進み方をしている。
もちろん
理想を言えば、
ずっと最大速で
進みたい。
でもまだまだ
それができる
世の中ではない。
ちゃんと様子を
見極めながら、
着実だけど
行く時は行く!
という進み方。
これが
現時点での
現実世界における
真本音の進み方。
もちろん、
意図してやっている
わけでなく、
今この瞬間に
集中しながら、
一つを決めて
一つ動く、
を
丁寧に繰り返している
だけだ。
真本音に素直に
生きれば、
そのような進み方に
なる。
今はね。
混乱の中だからこそ
の進み方。
しかしそれは
次々に調和を
生み出していく。
皆の手本にも
なるんだよ。
つづく
心の中の
風通しが良くなった
と思ったら、
強烈な
向かい風がきた。
しかも
下から上へ
突き上げるような。
飛ばされそうだ。
目も
開けられない。
踏ん張るだけで
精一杯。
なんてことだ。
風を感じられる
ようになったら、
その風が
私を妨害する
とは。
こんなことなら、
心の中は
モヤモヤのまま
の方が楽だった。
風を感じる
とは
こんなに辛い
ことなのか。
・・・と。
最初は
そうなるかも
しれない。
しかしその風は
モヤモヤが
なくなったから
吹き始めたのではない。
最初からずっと
吹いていたものだ。
そんな中で
あなたは
生きていたんだよ。
しかも
その風の存在を
知らぬままに。
慣れないうちは
風は
キツいものかも
しれない。
しかし
負けるな。
踏ん張ることしか
できないなら、
踏ん張ればいい。
じっと
我慢して。
そして決して
風から
逃げるな。
風に
向かい続けよう。
すると
その生き様に
風が
共鳴するようになる。
しだいに
向かい風は
鎮まり、
それだけでなく、
徐々に
追い風に変わる。
風は、
進もうとする意志に
共鳴する。
それが弱いと
怒る。
かといって
風に媚びるな。
堂々と
向き合えば
いい。
そういった覚悟が
風の喜びと
なる。
風は仲間だ。
風は同志だ。
風と共に
進もう。
つづく
現実の中で
起こっている
様々な混乱に
目を奪われていると、
自分自身も
その混乱の渦に
巻き込まれている
感覚になるが、
混乱と自分
とは
ちゃんと区別を
つけた方がいい。
真本音で生きる
ということを
日々、続けていれば、
あなた自身は
静かなもんだ。
むしろ、
静かであるが故に
混乱を
あるがままに
感じ取ることができている。
感じている
だけ
だ。
混乱と自分
は
別物だ。
・・・という区別が
きちんとできれば、
すぐに
混乱の本質
が
観えてくるはずだ。
そうすれば、
その混乱は
きちんと対応すべき
ものか、
それとも
ただやり過ごせば
いいか、
無視して離れれば
よいか、
などの指針が
わかる。
そして落ち着いて
自分の振る舞いを
すればいい。
真本音で生きる
ということを
続けているならば、
私とは
調和の源だ、
くらいに思っておけば
いい。
自分の振る舞いが
一つ一つを
ゆっくり調和させていく。
実際、本当に
そうなるだろう。
あなた自身は
静かだよ。
つづく
仲間はいるか?
と
問われれば、
真本音で生きる
限り、
必ず仲間はいる。
真の仲間とは、
自分と同じ
成長スピード
進化スピード
開花スピード
で
進む人達だ。
他の人を
待つ
必要はない。
他の人から
置いていかれる
こともない。
同じ成長スピード
だからだ。
影響力の高まり
も
同じように
継続的開花を続ける。
一人ひとりの
やれることが
広がり深まるのだが、
その広がり方
深まり方が
お互いのシナジーを生み、
結果として
一人で進むよりも
何十倍ものエネルギーと
成果に繋がる。
仲間は
中途半端に集めない
方がいい。
意図を持ち過ぎると
コアメンバーが
中途半端な繋がりに
なり、
後々に苦労する。
コアメンバーには
徹底的に
こだわること。
違和感のない
人とのみ
組むこと。
人数は少なくても
いい。
ここをしっかり
すれば、
後が楽だ。
真本音の道を
進みながら、
一人ひとりと
真摯に関わり続ければ、
仲間は自然に
集まってくる。
あなたの
真の波長に
ピッタリの
仲間達だ。
つづく
光の中に
ポッカリと
黒い点がある。
そこに意識を
集中させると、
あぁこれは
虚無だな、
と思った。
恐ろしい。
あの中に
入れば
死ぬだろうな、
と。
心底
怯えた。
人間にとって
最も恐ろしいのは
虚無
ではないか。
何か障害が
あるとか、
乗り越えなければ
ならない壁が
あるとか、
そういったもので
あれば
我々はなんとか
立ち向かえる。
しかし
虚無とは
そのような類では
なく、
人間の力が
及ばない、
むしろ逆に
すべての力を
吸い取られるような、
根本的な
恐ろしさがある。
しかしそういった
虚無は
世の中に
増えてしまった。
しかも
虚無達は
わかりやすく
虚無の形をとらなく
なった。
むしろ、
甘い顔をして
私達を誘う。
こっちへ
おいでよ、と。
こっちの水は
甘いよ、と。
そして自ら
意図せぬままに、
いつの間にか
虚無に足を踏み入れ、
出られなく
なっている人が
この10年で
急増した。
真本音度が
高まる人達が
増える一方で、
その反作用の
ように。
人々が
年々、
二極化していく。
そういった
世の中全体の流れを
感じながら、
私の中に
悲しみが
日々、重なっていく。
なんとかしたい
が
何もできない。
私にできることは
私のすべきことに
日々、真摯に
向かい続けること。
それが
世の中に増えた
虚無の浄化に
繋がることを
祈りながら。
つづく
いやに長い
夜だ。
ちっとも
夜が明けない。
気配すら
ない。
この
ネットリとした
重々しい空気。
暗さ。
闇に飲み込まれて
自分を
失いそうだ。
こんな場所に
ずっといるなんて
不可能だろう。
すぐに
限界が
来てしまうさ。
そうすれば
どうなる?
すべてが
終わるか?
私にできるのは、
夜明けを待つ
ことだけだったが、
そうでもない
ことが
わかってきた。
東に向かって
進むのだ。
そうすれば、
1秒でも早く
夜明けを迎えられる
かも
しれない。
その
「かも」に
かけてみようか。
ただ待つ
よりも
進みながら
待つ。
それくらいは
しても
自然の摂理には
外れないだろうよ。
つづく
やめろ!
と
言われても、
やめられるなら
最初から
やってないさ。
もう
やめられない
自分だと
百も承知の上で、
だからこそ
ここに
来たんだから。
人には、
引き返せる
ことと
引き返せない
ことが
ある。
誰にどう
言われても、
もう
引かないよ。
でもさ、
そう決めた
からこそ逆に、
いろんな人の
意見に
耳を傾けることが
できるように
なったのさ。
人はね、
決める
ことで
大らかに
なれるんだ。
大らかな
自分でない
ならば、
まだ、
決めていない
ということ
なんだよ。
つづく
ゆっくりと、
目を覚まして
いく。
焦る必要は
ない。
徐々に
慣らしていけば
いい。
一気に変わる
必要は
ないのだ。
一歩ずつ
着実に
丁寧に
意識を向けながら。
日常における
自分の振る舞いの
一つ、一つ、を
見つめ、
変えられるところから
変えていけばいい。
どれだけ
根本が変わっても、
表面は
徐々に変えた方が
いい。
この世は
焦ることで
遅くなる。
速く進みたい
ならば、
より一層、
一つ、一つ。
一つを決め、
一つ、動く。
丁寧に。
そのうちに
慣れるさ。
本当に
地に足ついたら、
そこからダッシュ
すればいい。
つづく
自分の中で
芽生えたものと、
自分の中で
消えゆくもの。
その区別を
つけるといい。
その二つは、
表面上は
よく似たもので
あるかもしれないから。
よく似たものの
区別をつけるには、
その本質を
よく見つめることだ。
何のための
ものか?
何が目的か?
決して変えては
ならないものは
何か?
その本当の
部分を見つめることで、
同じものが
まったく別物に
認識される。
例えば、
あなたの中に
新たに
芽生えたものとして、
あなたはこれから
何を
目指していこうと、
決めているだろうか?
その「目指すもの」
とは、
これまでも同様に
目指してきたもの
かもしれない。
が、
本質が
変容したかも
しれないよ。
ここからは、
一歩も二歩も
深く
自分自身と
向き合おう。
例えば、
ここから特に大事なのは
「躊躇」
の気持ちだ。
「躊躇」するという
ことは、
自分自身の
生半可さの現れだ、
と
捉えるよりも、
その本質を
見つめよう。
なぜ、私は、
躊躇するのか?
何に違和感を
覚えているのか?
何がどうなれば、
躊躇は
解消されるのか?
一歩も二歩も
深く、ね。
つづく
ちゃんと自分が
節目を
越えられたかどうか?
を、考えるよりも
越えたもの、として
原点からスタート
の気持ちで
ここからは
進もう。
原点。
自分の本当の
本質。
それが何か?
よりも、
そこに戻ろうと
する。
もう一度、
始めからスタート
くらいの
新たな気持ちで。
本当は、
毎日この気持ちで
一日を始められると
いいんだよ。
でもなかなか
難しいね。
難しいけど、
できるだけ常に
そうなれるように。
今回は
良いきっかけだ。
新しい風
新しい波
新しい世界。
そこに向かう
自分。
さぁここからは、
何を
本当に心の底から
大切にする?
つづく
さて、
そこに、
その足元に
花が咲いて
いるだろう。
その花が
多くなってくると、
もう
節目だ。
今のステージの
最後のメッセージを
花々は
あなたに
告げているだろう。
それをまずは、
言葉として
ではなく、
感覚として
そのまま
受け取ろう。
花々から
ダイレクトに
伝わってくる
感覚
だ。
それのみを
ただ
あるがままに
感じ、
味わおう。
ひょっとすると
それは
幸せな感覚とは
別物かも
しれない。
ちょっとした
痛みを伴う
かもしれない。
それでも
いい。
大切な
メッセージだ。
感覚を
そのままに。
大事に大事に
受け取り、
自分の体に
沁み込ませ、
その上で
その感覚を
言語化しよう。
言葉として
表してみよう。
それは大切な
指針と
なるだろう。
そのメッセージを
胸の中心に
しっかり抱きながら、
さぁもうすぐ
節目だ。
つづく
ここにきて
やはり、
節目だな
と思う。
今、2023年が
始まってもう
丸2ヶ月経つ
わけだが、
どうも
本当の
2022年から2023年
への
節目は、
2月28日と3月1日
の間にある。
つまりは、
本質的な正月、
という表現で
良いのかな?
本質的な正月は
3月1日ということだ。
毎年、という
わけではなく、
今年は。
ここに大きな
節目があるという
ことは、
3月1日から
一気に次のステージに
進む人は
多いだろう。
まるで
生まれ変わる
くらいに。
これまでとは
別人の自分として
人生を
進み始める。
内面的にも
外面的にも。
たとえ
外面的(現実的)に
何の変化が
なかったとしても、
内面的に
ガラッと変わるんだ、
というくらいの
心構えと準備は
しておいた方がいい。
さぁ、
2月28日までに、
何を
完了させておかねば
ならない?
つづく
心がモヤモヤ
していると、
目の前の現実を
あるがままに観る
ということが
できなくなる。
すると
落ち着いた対応が
できなくなる。
現実さえ
しっかりと見つめる
ことができれば、
それだけでも
私達の
対応力は増す。
現実さえ
しっかり向き合う
ことができれば、
それだけで
私達の
次元が高まる。
だから
心のモヤモヤは
できるだけ
取り除いた方がいい。
取り除くためには、
常日頃から、
ちょっとしたモヤモヤでも
しっかり見つめる
癖をつけておくことだ。
モヤモヤを
放置しない。
放置すれば、
時間が経つに連れて
それは増殖する。
モヤモヤは
出たら
すぐに!
対応する。
これは
お部屋が
散らかったら
すぐに
片付けるのと
同じことだ。
そういった習慣を
続ければ、
大掃除など
必要なくなる。
モヤモヤが
出たら
見つめる。
見つめるだけでも
良いのだ。
見つめれば
心が痛くなる
かもしれない。
でも、心とは
痛くなるものだ。
体が怪我すれば
痛くなるのと
これも同じ。
痛いと感じる
ことこそ
健康の証。
痛いことを
避けるのではなく、
痛みを感じなく
なるくらいに
麻痺させてしまうことこそ
避けるべき。
心がちゃんと
痛いうちに
ちゃんと
対応しよう。
つづく
これまで来た道
と、
ここから進む道。
この二つが
まったくもって
ここで
断絶する
ということが
あっても良いでは
ないか。
むしろこの
断絶こそ、
これまでの
成果ではないか。
この断絶を
生み出すために
こそ
これまでの人生
あったのでは
ないか。
断絶を
恐れるな。
これは
自らが
生み出したもの。
自らが
願い続けたもの。
これまでの
精進の
一つのカタチだ。
断絶を
恐れるな。
断絶を超え、
ここから
まったく新たな道を
生まれたばかりの
気持ちを
もって。
つづく
心の奥の方にある
確信と、
目の前の現実に
起きている出来事と、
その繋がりは
どうかな?
確信通りに
現実は動いているかな?
もちろんそれは
予測通りに現実が
動いているかどうか?
とは
根本的に異なることだ。
予測と現実の
繋がり、
ではなく
確信と現実の
繋がりだ。
これを
よく観察しよう。
この繋がりが
ここのところ
急激に太くなり、
より確かなものと
なっている人は
多いのではないか。
ここまで着々と
地道に真本音で
生きてきた成果だ。
その成果は
ここからさらに
大きくなるよ。
普段の自分の
生き方、
進み方。
誠実さ。
真摯さ。
そういったものが
ようやく
現実的に発芽する
時代になったんだ。
つづく
頭が痛い、
と
感じたら、
その、
頭の部分に
ちゃんと意識を
向けてみよう。
その痛みは
何を
語りかけている?
何か
やらねばならぬ
ことがあるのでは?
やり残したことが
あるのでは?
完了感。
・・・ちゃんとそれが
湧き上がるまで、
きっちり
やり遂げるべきことを
99%くらいで
満足して
終えてしまって
いないかい?
99%では
何もやっていないのと
同じだ。
・・・くらいに
捉えた方がいいよ。
特に
今はね。
頭は本当に
痛くないかい?
やり残している
ことは
ないかい?
つづく
自分の意志の
強さを
確認したい。
自分は本当に
強い意志を持つ
人間なのだろうか?
本当に自分の
望む方向に
人生の舵を切って
やっていけるの
だろうか?
そういった気持ちから
一歩を踏み出す
前で
躊躇してしまう人は
多い。
そういう気持ちに
なること自体が
実に人間らしい。
むしろその気持ちに
しっかり
寄り添うといいな、
と思う。
私にも
不安はある。
不安が出る度に、
もしそれが
10の不安だとしたら、
それを
100くらいの大きさに
感じ取ってしまう
くらいに、
私はその不安と
徹底的に向き合う。
その不安を
否定することは
一切しない。
しかし
受け入れるわけでも
ない。
ただ、
向かい合う。
不安は私を
飲み込もうと
するが、
もしその力が
あまりに強大な場合は、
私はいっそのこと
不安にわざと
飲み込まれる。
全身全霊
すべて、不安。
不安が私だ、
くらいに
不安と一つになる。
それは大変
苦しいことだが、
それでも
やり続ける。
心が
落ちていく。
もうすべて
ダメなんじゃないか
と絶望する。
それでも私は
決して
不安を否定しない。
こういった
生きる姿勢を
大切にし続けると、
ある時からまったく
不安に左右されなく
なった。
不安は同じように
湧くのだが、
それによって自分の行動が
変化することはない。
むしろ今は、
不安こそが私の進みを
後押ししてくれて
いるのではないか、と
思えるくらいだ。
不安は私と
敵対するものでは
ない。
不安は
仲間だ。
つづく
自分がいつも
どのような波紋を
広げているか、
観察をしよう。
自分の一言、
自分の振る舞い、
自分の行動、
自分の姿勢、
・・・
ほんの些細な
ことでも、
私達は必ず
波紋を広げる。
自分の波紋が
周りの誰に
どのような影響を
及ぼしているか?
を
よく観察しよう。
いつも丁寧に
観察を続ければ、
あぁ、人間社会
とは、
このようにお互いが
影響を及ぼし合いながら
動いているのだな、
と
わかる。
周りへの波紋の
広がり方を
観ることで、
自分という人間の
個性も
少しずつ理解できる。
自分という人間は
自分自身が
最もよくわかっていない。
だから
周りへのつぶさな観察
によって
知るしかない。
そういった意味での
自己理解が
進めば、
だんだんと
波紋の広げ方そのものを
コントロールできるように
なる。
それは、
現実レベルでの
道を開く大いなる力
となる。
よくお伝えする
ことではあるが、
自分の意識を
自分の内側に
籠らせておいては
ならない。
外の世界こそに
すべての指針が
ある。
意識を
オープンに。
そうすれば
自分の影響力の
大きさ、凄さも
きっと
わかるよ。
つづく
太い中心軸が
ある。
真本音度が
高まれば、
自分の中に
中心軸がある、
というよりも
太い中心軸の
中に、
自分の全身が
入っている、
という
感覚になる。
圧倒的に
揺るがない存在
だ。
中心軸に
身を委ねるような
感じ。
すると、
自分の思考を超えた
振る舞いを
知らず知らず無意識に
とり始めるのが
私達だ。
第一、
空気感が
違ってくる。
中心軸となりきった
人の醸し出す
空気感とは、
覚悟の空気感
だ。
腹が据わった
淀みのない
空気感。
これは
心の動きとは
関係がない。
心がどれだけ
揺れ動いていても、
根底がドッシリしているので、
心の状態が
どうなっても
関係がなくなる。
つまりは
状況に揺らされない
進み方ができる。
こうなるともう、
物事の決断が
速くなる。
決めるべきことを
淡々と
スピーディーに
決めていく。
だから
人生の展開も
速くなる。
もちろん
決断は速ければ良い
ということでは
ないが、
最大速で進むべき
時に
最大速を出せる
ようになる。
これは
年齢とか経験は
まったく関係のない
次元での話だ。
本当にまったく
関係ない。
若いうちから
腹の据わった生き方が
できるといい。
人生が
ぐんぐんと進むから。
そのためのサポートを
私はしたいのだ。
つづく